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山場を迎えるNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」

2014年07月07日 21時22分05秒 | Weblog

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が前半の山場を迎える。織田信長への謀反を起こした明智光秀が、毛利討伐に出兵する予定を翻意し、「敵は本能寺にあり!と織田信長討伐に動いた、「本能寺の変」に突入していくのである。天下統一、天下布武をまじかに控えた織田信長を、本能寺にて暗殺する、歴史上大きな事件なのである。天下人にならんとしていた強大な武将を、その部下が殺害をしたという、歴史上の大きな転換点がやってくるのである。
 「本能寺の変」については、明智光秀を織田信長討伐に駆り立てた理由については本ブログでも触れた。四国征伐に反対した明智光秀の進言を聞かず、自身の戦略で動いていた織田信長の本当に些細な失敗であったと思うのであるが、これが歴史上大きな事件となって進展していくのである。
 戦国時代は、現代と同様に情報戦であったと思われる。正確な情報を早く入手することこそ、その時代の頂点になれるというものであり、これは現代にも言えることである。本能寺の変が起こった情報は、「四国大返し」を成し遂げた羽柴秀吉は半日で取得していたが、羽柴秀吉と不利な条件で和睦を余儀なくされた毛利輝元は、4日の日数がかかったと言われている。羽柴秀吉については、事件の発生を知ったのは半日であったが、明智光秀が謀反に動くことは事件の発生前から情報を得ていたという。だからこそ、いつ起こってもよい「本能寺の変」にすぐさま対応し、「中国大返し」を成し遂げ、徳川家康が間に合う前に、山崎の合戦で明智光秀の軍勢を滅ぼしたのである。明智光秀が滅亡した知らせを、徳川家康は岡崎城を出たころで知らされた。羽柴秀吉が、中国地方からこれほど素早く戻れるとは全く予想していなかったためである。明智光秀と連携していた徳川家康が間に合っていたら、多分、羽柴秀吉軍の行軍の疲れからして、返り討ちにあったであろうとと推測される。だからこそ、情報戦なのである。相手の状況を的確にとらえ、それへの対応を先手先手で展開していくことこそ、天下人に最も近くなれる資質なのである。
 余談ではあるが、何故織田信長は僅かな手勢で本能寺で茶会を開いていたのか?実は、これにも大きな理由がある。織田信長は、天下統一について一番の目の上のたんこぶと思っていた存在、それが徳川家康なのであった。徳川家康は、完全に織田信長に従順にしたがっていたわけではなかったので、徳川家康の存在は天下統一には邪魔だったのである。そのため、堺への遊行と言う接待を信長が行うことで、徳川家康を安心させ、その時に暗殺を計画していたという。その機動部隊が明智光秀だったのである。徳川家康を討伐して、天下統一を盤石なものにするための刺客の役割を担っていたのである。だからこそ、織田信長は明智光秀を信望していた。羽柴秀吉以上に。その明智光秀に裏切られたので、本能寺で明智軍に包囲され突入されたときは、相当な無念だったのであろう。織田信長の最後の言葉「是非に及ばず」は、どんな意味で、誰が伝えたのか?「是非に及ばず」という言葉は、辞書では「仕方ない」と言う訳し方になっているが、信長の発した意味は異なっていたと思われる。つまりは、「是非に及ばず」という意味は、「是か非か確かめる必要がない」と言う意味と思われる。信長の「これは謀反なのか、誰の企てか」の問いに、森乱丸(信長の側近)は「明智の手のものらしい」と答えるのを聞いて、信長は「光秀の謀反」を確信したのである。本能寺の変ではほとんどが明智軍によって殺害されたため、生きて本能寺を出たものは一人を除いて皆無であった。その一人が、イエズス会の巡祭師ヴァリニャーノが連れてきたアフリカ生まれの黒人奴隷だったのである。この男大柄で信長に可愛がられていたので、本能寺の変当日も信長の側近として死の直前まで同伴していた。明智光秀は、イエズス会の一員まで殺害することはしなかったので、京都の南蛮寺にこの奴隷が逃げてきたところで、イエズス会の布教師たちがこの信長の最後の言葉を「日本王国記」の中に記したものと思われる。「信長は、明智が自分を包囲している次第を知らされると、余は自ら死を招いたなと言ったということである」とその中に書かれているのである。


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