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映画『長い散歩』の余韻

2006年12月09日 02時14分42秒 | Weblog
 昨日の試写会『長い散歩』の思いや感動や感慨が、頭をよぎる。本当に色々考えさせられる映画でした。幼女・幸を救う旅、本当は松太郎の自分探しの旅でもあったのだろう。学校の教職者であることの責任や仕事に一生懸命だったことで、家庭を顧みる余裕も時間も無かった。本当は、そんな生き方でよかったはずは無い事を松太郎は十分感じていたんだろう。虐待されている幸を救うこと、それは、普通の父親らしいことを、自分の娘にしてあげることも出来なかった謝罪の念からだったのかも。幸が熱を出し、道で倒れたとき、必死に背負い、町医者に連れて行く。木賃宿で、寝ている幸の額の熱さまし手ぬぐいを水に浸しなおし、また、乗せてあげるシーンや心閉ざしていた幸が、自分の布団に忍び込んで、「おじちゃん、幸の事、嫌い?」と聞く。抱きながら、「ううん、大好きだよ」と泣きながら、言葉を返す松太郎。思わず、涙が溢れてしまう場面であった。幸のつらかった事への同情が愛情に変わり、こんな愛情を自分の娘にさえかけてやれなかった自分への恨みや嫌悪が錯綜し、松太郎の涙になったのでは・・。
 非常線を張っていた岩井刑事の目の前に、手をつなぎ、山へ向かう二人がいた。
この時、「山に登ったら、必ず降りてくるしかない」と言って、若い刑事を制止させる。後に、若い刑事が、岩井刑事に言う。「(虐待して親らしいことをしていない若い母から救っている松太郎を感じ)これって本当に犯罪なんですかね」とこぼす。岩井刑事も「あの二人の後姿を見ていたら、そっとしておいてやりたいと思っちまってな・・」。本当に、事象だけ見ての判断で、犯罪と決めていいのか?と言う強い思いがこみ上げてくる。しかし、幸を虐待していた母親に、岩井刑事が「あんた、本当に母親か?母親らしいことをしてあげれないのか?」と聞くシーンがある。その時、この母親が言う。「刑事さんは、幸せなんだねー。そんな幸せに生きている人間に分かるわけ無いよ。私たちのことなんか。私だって、両親のしてきた通りにしているだけなんだから」。この母親も、かつては幸同様の被害者だったのだ。ひとくくりに、良いもの・悪いものの区分けが、つかないように思う。今の加害者は、かつての被害者なんだ。現代社会で問題になっている「いじめ問題」も同様であるような思いになる。
 次第に心を開いていく幸に感動です。すぐにかんしゃくを起こしていたこの子が、普通の女の子になっていく。ワタルが、一時道中を一緒にしたが、ワタル自身も幸と同じ悲しみを背負っていたので、幸の気持ちが良く分かったのだろう。幸は、松太郎よりも早く、ワタルに心開き、これまで見せなかった笑顔になる場面が多かった。しかし、ワタルは何者だったのだろう?何故、ピストルを持っていたのか?自殺するときに、何故、微笑みながらだったのだろう?本当に分からない。自分で思い、考えるしかないのだろうが・・・。
 最後のシーン。松太郎は自首しようと警察署へ。しかし、幸との約束「私を一人にして、どっかに行かないで!」は、守れそうに無かった。そのため、「さっちゃん、ごめんな、おじちゃんは(自首するので、幸とはもう一緒にいられないんだ)」という思いからの号泣シーンとなるのだが・・・。
 松太郎が刑務所で服役している間、幸は元の親に戻されているだろうから、本当にそれで良かったの?また、虐待されてないの?松太郎の娘は?
 本当に、思いが幾重にもなり、重い気持ちになる映画だった。

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