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世界の建造物

2014年05月18日 13時26分50秒 | Weblog

 日本の「東京スカイツリー」は、自立型の電波塔等しては世界最高の高さであるが(ギネスブック認定済み)、世界には多くのびっくりするような建造物が古今東西造られてきている。この「東京スカイツリー(634m)」は、人工の建造物としてはブルジュ・ハリーファの828mに次ぐ世界第2位となる高層建造物なのである。これまで、どんなびっくりするような建造物があったかは、「世界の七不思議」で説明されている。
  

1.ギザの大ピラミッド

ギザの大ピラミッドとは「クフ王のピラミッド」のことである。
このピラミッドは、ピラミッド建築の頂点とされている。
世界の七不思議の中で唯一残る建造物で、エジプトのギザに建設されたものである。
ピラミッドは、紀元前2540年頃に建築された。
完成には、実に20年以上もの年月をかけたと考えられている。
エジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓としての目的で建築された。
完成時には世界で最も高い建造物であり、その高さは146.6mに及んだ。
しかし、14世紀以降のヨーロッパ教会建築が、その高さを更新することになる。

ピラミッドの出現は、一般的に王であるファラオを頂点とした国家、言わばピラミッド型国家が確立したことを示す。
従って、エジプト中央集権国家としても盛んな時期だったことは、ピラミッド建造が盛んだったことからも想像がつく。
ギザの三大ピラミッド(クフ王・カフラー王・メンカウラー王)が建造された時代は「エジプト古王国時代(第3-第6王朝)」である。
この時代は別名「ピラミッド時代」とも言われる。
その理由は、規模・技術ともに最高水準を示すピラミッドが多く建築されたからだ。
なお、ピラミッドの語源は色々な説があり確定できない。
その中でも、ギリシア語で三角形のパンを指すピューラミスに由来するというのが最有力説である。
古代エジプト語名は「昇る」という意味の「メル(mer)」だった。
また、「ミル」「ムル」とも発音し、古代エジプトで使われた文字のヒエログリフでは△と表記した。
 
クフ王建設のギザの大ピラミッドは最大規模を誇り、前述したようにピラミッド建築の頂点とされる。
完成時には146.6mあった高さも、現在は138.74mとなっている。
ピラミッドを構成する石材(重さ平均2.5tとされる)は、約270万~280万個を積み上げられたと計算される。
長さと高さの比は黄金比である。
建築当初に世界一高いとされた記録も、14世紀に建てられたリンカン大聖堂の中央塔に更新された。
底辺の長さの誤差20cm、方位の誤差1分57秒~5分30秒という正確さから、最高水準の石積技術が伺える。

古代の世界の七不思議のうち現存しているのは、エジプト、ギザの大ピラミッドのみ。最大のものは紀元前2055年頃に造営された、クフ王のピラミッドだ(写真:sculpies/Shutterstock)

2.バビロンの空中庭園

バビロンの空中庭園とは屋上庭園で、「世界の七不思議」に選ばれた建造物の一つである。
別名セミラミスの架空庭園とも呼ばれている。
空中庭園というネーミングから、空中に浮かぶ庭園を想像しがちだが、実際には高台に造られた庭園である。

現在では存在しておらず、イラクのバグダード郊外にそれらしき遺跡が残っている。
新バビロニアの王・ネブカドネザル2世によって、紀元前600年頃に建造された。
砂漠の国に嫁ぐのを嫌がった、メディア(現在のイラン)出身の王妃アミュティスを慰めるためにだったという。
宮殿の中にはテラスを造り土を盛った。
そこに上まで汲み上げた水を下に流し、植物を植えた。
テラスは5段の階段状になっており、高さが25mにも及んだ。
あまりにも大きかったため、遠くから見ると空中に吊り下がっているように見えたそうだ。
推定では、一番上の面積が60平方メートルだとされる。
 
ペルシアによる侵略により、空中庭園は紀元前538年に破壊されたという。
この件に関して古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスには知られていないが、プリニウス(古代ローマの博物学者・政治家・軍人)の『博物誌』やストラボン(古代ローマ時代の地理学者・歴史家・哲学者)やディオドロス(古代ギリシアの歴史家)などの歴史書では触れられている。
アッシリアの首都であるニネヴェにあったという、別の庭園と同一視されているのではという説もある。
・柱や地下室は煉瓦で作られた
・土を盛ったテラスは立方体で、四隅を柱で支えられ高いところへ固定された
・テラスの上にアーチ状の屋根が架けられていた
という庭の構成だったと、ストラボンは説明している。
ギリシア語「kremastos」またはラテン語「pensilis」の正しくない翻訳のため、「吊り下げられた庭園」という誤解を生んだ。
螺旋水揚げ機を使用して水を汲み上げていたという説があるが、汲み上げの方法について確かな情報はない。

 

3.エフェソスのアルテミス神殿

紀元前550年頃に完成したアルテミス神殿は、アケメネス朝ペルシア統治下のエフェソスに位置する。
エフェソスは現在のトルコで、神殿には狩猟・純潔の女神であるアルテミスを奉った。
現在では原形をとどめていない、世界の七不思議のひとつである。

神殿は120年もの長い年月をかけて建設されたもので、リディアのクロイソス王によって始められた。
世界の七不思議リストの編集者・アンティパトレスは、下記のように表現している。

私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった」

同じく編集者であるフィロンも、次のように表現している。

私は、バビロンの城壁と空中庭園、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、大ピラミッドの偉業、そしてマウソロスの霊廟までも見た。しかし、雲にそびえるエフェソスのアルテミス神殿を見たとき、ほかの不思議はすべて陰ってしまった。
エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。一目見れば、ここがただの場所ではないことがわかるだろう。ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に登ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリンポスを築いたのだから。

アルテミス神殿の発見は、大英博物館の考古学探検隊によるものである。
探検隊を率いたのは、イギリス人技師のジョン・ウッドである。
1863年からエフェソスの発掘作業を開始し、1869年12月に約7年間にわたる作業の末、深さ4m半の泥の中から神殿跡を発見した。
このアルテミス神殿発掘は、東方の古代遺跡発掘の先駆けとなった。
考古学探検隊によって発見された遺跡の断片などは、現在も大英博物館の所有物として保管されている。
その後も続いた調査で、神殿は3つあることが確認され、古い神殿跡に新しい神殿を建設していたことが分かった。
3つ確認された神殿の中で、紀元前700年頃のものと推定されるのが最古のものだとされている。
 
アルテミス神殿は古代都市エフェソスにあった。
古代都市エフェソスは現在のトルコで、港町であるイズミルから南に約50kmほどの場所に位置する。
神殿の美しさや大きさではなく、ギリシア世界の境界近くにあったことが、世界の七不思議リストに加えられた理由だと考えられる。
ギリシア世界の境界近くに所在したことから、アレキサンダー大王帝国の巨大さを強調し、ギリシア人に神秘と畏怖の念を与えたとされる。

 

4.ハリカルナッソスのマウソロス霊廟

カリア王(マウソロス)とその伴侶(アルテミシア)の遺体安置のために造られた霊廟である。
ギリシア人建築家2人によって設計され、彫刻家として名高い4人によってフリーズ(彫刻帯)が施された。
世界の七不思議のひとつに選ばれた一因として、その壮麗さが挙げられる。
一般に巨大な墓の意で使用されるあるヨーロッパ圏の単語「マウソレウム」は、マウソロス霊廟に由来する。

ペルシア帝国の一州であったカリア国は、首都から離れている場所に位置した。
そのため、実質的には独立国のようなものだった。
カリア国の首都に定めたのは、現トルコのボドルムで当時のハリカルナッソスである。
また、周囲の地域も支配下に置いた。
霊廟の建造に関しては、伴侶のアルテミシアによってマウソロスの死後に行われたとされているが、建造開始は生存中だと考えられている。
霊廟の完成は紀元前350年、マウソロスの死後3年、アルテミシアの死後1年にあたる年だといわれている。

霊廟に係わる費用を、アルテミシアは全く惜しまなかったそうだ。
当時、ギリシアへ遣いを出し、最も優秀な建築家と芸術家を連れて来たという。
霊廟建設に参加したのは6名だった。
一流建築家と評されたピティオスとサティロスの2名、彫刻家として高名なスコパス、レオカル、ブリクアクシス、チモフェイの4名だ。
彫刻家の1人スコパスは、エフェソスのアルテミス神殿も手がけるなど、世界の七不思議に携わっている人物だ。
町を見渡すことのできる、眺めの良い丘の上に霊廟は建てられた。
建築家たちは、レンガ壁で囲われた工事場での作業だった。
霊廟は、側方にライオンの石造を配置した階段が築かれ、中央にある墓本体となる石壇に向かって続いた。
そして、墓を守るように乗馬した戦士像が囲い、神や女神像が外壁に沿って配置された。
これが霊廟の第1層である。
また、歴史の一場面やギリシア神話を描いた彫刻帯が層の上部には施された。
層の上部の彫刻帯は、東側をスコパス、南側をチモフェイ、西側をレオカル、北側をブリクアクシスがそれぞれ担当し彫刻を施した。
チモフェイ・レオカル・ブリクアクシスの3名はラピタとケンタウロスの闘争などを描いたが、スコパスだけは好戦的女性部族であるアマゾン族とギリシア人の闘争を描いた。

外に露出した円柱の集まりである第2層へは、第1層から36本の柱が上げられた。
柱は、長い辺に11本、短い辺に9本ずつ配されたと考えられている。
巨大な屋根を支える目的で積まれた石ブロックを柱で囲い、柱間には像が1体ずつ配置された。

ピラミッド型の24段屋根が第3層である。
巨大な4頭立ての馬車(クァドリガ)の像が、頂上に配置された。
馬車にはマウソロス&アルテミシア像が乗車していたという説があるが、最も有力とされているのは空馬車説である。
空馬車説が有力だとする根拠として、
 1.主のない馬車はギリシア世界では主の死を意味していたこと
 2.馬車像付近で発見されたマウソロス&アルテミシア像は馬車に乗る格好をしていなかった
ということなどが挙げられる。
馬車像付近で発見された彼らの像は、第1層もしくは第2層で他の像と同様に配置されていたと考えられる。

 トルコの南西部、エーゲ海沿いにある港町、ボドルム。町を見渡す丘の上に、七不思議の1つ「マウソロス霊廟」の遺跡が残る(写真:Olimpio Fantuz/SIME)

5.オリンピアのゼウス像

ギリシア神話において全能の神の存在とされた、天空神ゼウスを型どった彫像である。
古代の高名な彫刻家であるペイディアスの手によって、紀元前435年に造られた。

ゼウス神殿が建造されたのは紀元前5世紀頃のことで、場所はギリシャのオリンピアである。
神殿の通路とほぼ同幅だったゼウス像は、神殿の奥に収められていた。
立像ではなく座像でありながら、その全長は約12メートル(約40フィート)と巨大だった。
「もし、ゼウス像が立ち上がったら、屋根を突き抜けてしまうだろう」
と記述を残したのは、紀元前1世紀頃の地理学者ストラボンである。
本体を構成する素材は杉で、表面は象牙で覆われていた。
表面の乾燥を防ぐために使用されたのはオリーブ油で、常に塗布を施していた。
ゼウス像が座る座席には、金・宝石・象牙・黒檀などが飾られていた。
ローマ神話ではヴィクトリアと呼ばれた勝利の女神ニケの彫像を右手に持ち、鷲が止まった錫杖を左手に持っていた。

マケドニア征服に成功した紀元前2世紀頃のローマの将軍は、ゼウス像を見物した際、すごく神聖なものだと感じ強い畏敬の念を抱いたという。
394年、ゼウス像はビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスに移されるが、像が造られて800年後のことであった。
像のその後については不明だが、おそらく焼失したのではないかと考えられている。
1958年には、ゼウス像の全容解明が進められるきっかけとなる、像の建造に使用したであろう工房が発見された。

 

6.ロードス島の巨像

紀元前3世紀頃、ロードス島に建造された彫像である。
古代ギリシア彫刻家リュシッポスの弟子であるリンドスのカレスによって、太陽神ヘリオスを型どって建造された。
現ニューヨークにある自由の女神像に匹敵する大きさで、34メートルある全長は台座を含めると約50メートルになる。
同じ太陽神にソルやアポロン(ローマ名=アポロ)がいることから、それらと混同されアポロの巨像と呼ばれることも…
また、ロードスの巨像やヘリオスの巨像などの表記も日本ではみられる。
古典ギリシア語で正しくはロードス島ではなくロドス島である。
そのため、ロドス島の巨像やロドスの巨像と表記されることもある。

紀元前323年、アレクサンドロス3世が死亡。
後継者が存在しなかったため、有力な将軍たちによりマケドニア帝国は分裂を招きディアドコイ戦争に発展した。
ロードスがこの戦争で協力し力を貸したのは、エジプトを領地として所有するプトレマイオス1世だった。
プトレマイオス勢力に対抗していたのはアンティゴノス1世である。
紀元前305年、アンティゴノス1世は息子であるデメトリオスをロードスへ派遣した。
40,000の軍を率いたデメトリオスは、城壁で囲まれた防備の固いロードス城を攻めるために攻城塔を作っての接近を試みた。
6隻の船に積み攻め込もうとしたが、嵐のために失敗に終わった。
次に、ヘレポリスと名づけられた大型の攻城塔を建設し陸上から攻め込んだ。
しかし、ロードス城内から守備隊が出撃し、城壁への到達を許さなかった。
長期に亘り攻めあぐねたデメトリオスは、プトレマイオスの派遣した援軍がロードスに到着した紀元前304年に、大慌てで軍を撤退させた。
予期せぬ事態で準備のない急な撤退だったため、多数の装備品が置き去りにされていたという。
ロードス攻略には失敗したが、他の多くの都市を侵略することに成功したデメトリオスは、ポリオルケルテス(ポリス攻囲者)と呼ばれた。
ロードスの民はこの勝利を祝福し、リンドスのカレスの指揮のもと、太陽神ヘリオスへの感謝の証として彫像を建造することとした。
カレスは、オリンピアのゼウス像を建造したリュシッポスの弟子だった。

ロードスの巨像は、古代の記述によれば以下のように記されている。
・ロードスの港の入り口付近に建造
・大理石製の高さ15メートル(50フィート)の台座を設置
・鉄製の骨組みを台座の上に作り、外装を薄い青銅板で覆った
・デメトリオス軍が置き去りにした武器や攻城塔を再利用して外装に使用
建造には土を盛った傾斜路を、作業の進捗によって高さ調節しながら利用ていたと考えられている。
台座を含めると高さ約50メートルにも達っするが、巨像だけだと34メートルである。
巨像の完成は紀元前284年、施工開始から12年にも及ぶ長い年月を費やした。
しかし、完成から58年後(紀元前226年)にロードスを襲った地震により、巨像は膝から折れて倒壊した。
巨像が倒壊したことを受け、再建のための資金提供をプトレマイオス3世は申し出たが、神を模した像の建造が神の怒りに触れたと考えたロードス住民は再建を拒否した。
結局、巨像は倒壊したままの状態で800年間に亘り放置され、その残骸を見物すべく多くの訪問者があった。
大プリニウスは像の巨大さを示す記述として、親指に腕を回せるものはわずかしかいなかったと記している。

デメトリオス軍から防衛してきたロードスだが、ムアーウィヤ軍によって654年に征服される。
この時、放置状態だった巨像の残骸は、エデッサの商人に売却されたとテオファネスの記述に記されている。

このような経緯で、ロードスの巨像は跡形もなく消滅した。
巨像が消滅した7世紀以降の人々は、その姿を想像するしかなく巨像は港口をまたぐ姿勢をとっていたなどの誤解や伝説が多く生まれた。

 

7.アレクサンドリアの大灯台

紀元前3世紀頃に建造された灯台で、エジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島にあることからファロス島の大灯台と呼ばれることもある。
同じ名前のファロス島がアドリア海にあるが、まったく別の島である。
ここでいうファロス島は、アレクサンドリア港一部の埋め立てにより出来上がった半島の突き出した部分にあった小さな島のことである。
世界の七不思議に名を連ねているが、ビザンチウムのフィロンの選出した中には含まれていない。
世界の七不思議で1番長命な建造物はギザの大ピラミッドだが、それに次ぐのはアレクサンドリアの大灯台だった。
大灯台は、14世紀に発生した二度の地震によって全壊したとされる。

アレクサンドリアが、アレクサンドロス3世によってナイル河口に建造されたのは紀元前332年である。
アレクサンドロスの部下であったプトレマイオス1世が、エジプトを統治下に置きプトレマイオス朝を開いたのがアレクサンドロスの死後のことである。
プトレマイオス朝の首都はアレクサンドリアをとした。
都市周辺には、入港の際などに陸標となるものが無く平らな土地がひたすら広がっていた。
プトレマイオス1世が灯台建造を決意したのは、陸標になるようにという思いからであった。
アレクサンドリア湾岸のファロス島が建造地として選ばれ、クニドスのソストラトスが建造の指揮者に任命された。
着工は紀元前305年で、人工的な通路によって島とアレクサンドリア港を結んだ。
灯台建造を決定したのはプトレマイオス1世だが、2世の代になってから灯台は完成した。

高さ約134メートルある灯台は、ブロック状にした大理石を建材として積み上げ、完成当時は地球上で最も高い人工物の一つだとされていた。
灯台は三つのセクションで構成されており、それぞれ形状が異なるものだった。
地に着き土台となる下層部は四角柱、下層部と上層部を繋ぐ中層部は細めの八角柱、そして上層部は中層部より細い円柱形だった。
灯台の仕組みは日中は太陽光、夜間は炎を燃やし、頂点に設置した鏡に反射させていた。
アレクサンドリアの鋳造所で製造されたローマ時代のコインに、その様子が描かれている。
角笛を吹く海神トリトンの彫像を灯台の四つ角に設置、ローマ時代には灯台の頂点にも彫像が設置されていた。
灯台内部には螺旋通路があり、ロバに薪を積んで運ばせていたと考えられている。

大灯台は1303年・1323年発生の地震で完全崩壊したとされるが、796年発生の地震で半壊状態となっていた。
崩壊していたため中に入ることができなかったと、14世紀の旅行家イブン・バットゥータは記している。
大灯台崩壊後の1480年頃、残骸をリサイクル利用してカーイト・ベイの要塞を跡地に建造したことで完全消滅した。
1994年に大灯台の形や構造を知る手がかりとなる残存物をダイバーが発見したことにより、衛星調査で更に詳細についての解明が進んだ。


 これらの巨大建造物も現存するか痕跡が残っているのは、ギザのピラミッドとハリカルナッソスのマウソロス霊廟(土台のみ現存)の2箇所のみである。当時の巨大建造物は、多くの人の中で一度は見た方が良いということで数えられているもので、それが「七不思議」として伝えられているのである。




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