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新「授業でいえない世界史」 33話の2 19C前半 イギリスの金融支配とアヘン戦争

2019-08-25 09:36:50 | 新世界史12 18C後半~

【金融政策】 1836年アメリカ第二銀行廃止されます。前にも言いましたが、アメリカには、この銀行を通してイギリス資本が入ってきていました。アメリカのジャクソン大統領はそれを嫌った。だから廃止した。するとイギリスが腹を立て、アメリカに貸していた資本が一気に、アメリカから引き上げられた。アメリカからお金がなくなった。

※ (1835年)当時のイギリスは、最大規模の金貨を保有し、アメリカへの貸し付けとアメリカ中央銀行による運用を通して、アメリカの通貨供給を完全に支配していた。そしてそれは取りも直さずロスチャイルド家に握られていたイギリスの金融システムが行っていることであった。 
 (1836年)アメリカ第二銀行の免許更新申請が大統領の拒否権に合うと、アメリカ第二銀行は貸付金全額をただちに回収し、新規貸し出しを停止すると宣言。ロスチャイルドが掌握していたヨーロッパの主要銀行も同時にアメリカに対する貸し渋りをはじめ、アメリカでの通貨の流通量が「人為的」に激減し、最終的には「1837年恐慌」の発生とその後5年の長期にわたる不況につながっていった。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P67)


 そうすると翌年の1837年、アメリカは一気に恐慌になる。これがアメリカ初の恐慌です。景気がガタッと落ちる。イギリスがアメリカの景気操作をやっているんです。恐慌はこうやって起こっていく。恐慌とは、急に景気がガクッと落ちることです。お金の動きだけでこういうことが起こる。物の動きとは別に起こせます。物をちゃんとつくって、それを買う人がいても、お金の操作だけで景気は落とせます。今の日本で起こっていることとも似ています。 

※ 1837年、フランクフルト・ロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントがアメリカに派遣された。ベルモントは暴落した証券市場で債券や株式を大量に買い集めた。また破産寸前の現地銀行の多くに巨額資金を投入し生き返らせた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P167)


 アメリカ第二銀行が廃止されたあと、ベルモントは中央銀行の役割を果たし、アメリカの銀行業を救った。彼を後ろで支えたロスチャイルドは、「遠隔操作の連邦準備銀行」であった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P167) 



【中国の動揺】
 では中国に行きます。中国侵略のメインはイギリスです。
 1800年代の中国はまだです。中国は、江戸時代の日本と同じで基本は鎖国です。唯一貿易を許可したのは広州だけです。香港はその近くにあります。
 そこには政府系の商人がいる。貿易できるのは、許可をもらった特権商人だけという体制だった。これは日本もいっしょです。多くの東南アジアはこれです。「自由貿易なんかやるものじゃない、国内経済が破壊されるだけだ」、これは保護貿易の考え方です。これには一理あるんです。

 しかしそこにイギリスが自由貿易を強制してきた。「自由に貿易させろ、貿易制限を撤廃しろ」という。それでフランス革命の最中から、イギリス人のマカートニーとか、アマーストという人を交渉に差し向けます。しかし中国は中国で「うちはこういうスタイルでやっている」とちゃんと断る。これが本来の国家というものです。一番大事なことは、自由貿易であれ、保護貿易であれ、それをどちらにするかは、それぞれの国家が決めることです。

 イギリス人が欲しがったのは、おいしいお茶です。イギリスはこれが欲しかった。ではイギリスの綿製品はというと、中国人は「要らない」という。中国人は昔から木綿をつくっている。生糸もつくっている。2000年前からつくっています。
 ということは、イギリスは売るものがないから、輸入超過で貿易赤字です。するとイギリスからお金が流出する。イギリスはお金が惜しいんです。流出させたくないんですよ。この時には銀です。アジアは銀です。

 前にも言ったように、イギリス人が買ったお茶は中国人にとっては、下級のお茶だった。それを「おいしい、おいしい」とイギリス人は飲んで「砂糖入れたらもっとおいしい」という。これが紅茶です。紅茶はイギリス人の飲み物です。これはお茶が安くてまずいお茶だったからです。
 紅茶に入れる砂糖はアメリカ大陸でつくっています。黒人奴隷によって。これでイギリスの貿易商人は儲けている。その砂糖をお茶に入れます。

 ただ対中国貿易は赤字です。イギリスから銀が流出する。この銀がもったいない。
 だから・・・・・・インドはイギリスの植民地です・・・・・・そのインドに何をつくらせるか。これがアヘンです。つまり麻薬を作らせる。麻薬取引というと、なにかヤクザの三流ドラマみたいですが、実は今も南米あたりに生産地がある。日本の新聞はちょこっとベタ記事ぐらいでしか報道しないけど、かなり危ない麻薬代金の流入は今でもある。
 イギリスは、銀の代わりに「そのインドのアヘンを中国に売ればいいじゃないか」と言う。その会社が1832年に広州にできたジャーディン・マセソン商会です。アヘンを密売するイギリスの会社です。

 この結果、中国は今まで貿易黒字だったのに、アヘン輸入が急増する。すると中国はアヘン中毒者ばかりになって、「もっとアヘンだ、もっとアヘンだ」となる。アヘンは人間の理性を奪うから、吸い出したらやめられない。するとアヘンは高価になって吊り上がり、逆に中国はアヘンの輸入で輸入超過になり、清から銀が流出するようになる。中国経済は大混乱です。
 これがアジア三角貿易の実体です。イギリスは中国からお茶を輸入する。その代わりにイギリスはインドにつくらせたアヘン、つまり麻薬を中国に輸出する。これでイギリスが貿易黒字になる。これは犯罪まがいで、まともな貿易じゃないです。

※ インドと清の間の貿易は東インド会社に独占されてきましたが、自由貿易の風潮の高まりの中で、1813年に茶を除く東アジア貿易の独占権が放棄され、1833年にはその商業活動が全面的に停止されてアヘン貿易が地方商人に委ねられることになりました。東インド会社が専売制の下で栽培したアヘンの販売権を得て莫大な富を築いた人物が、1831年にバグダードからインドのボンベい(現在のムンバイ)に移住してサッスーン商会を設立した、セファルディウム系のユダヤ人で、オスマン帝国の政商だったデビッド・サッスーンです。サッスーンは、ボンベイにサッスーン商会を設立し、ベンガル地方で東インド会社が大量に栽培したアヘンを清に輸出して巨利をあげました。サッスーン商会はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設ける大会社になります。
他方、コットランド人のジャーディン・マセソン商会、デント商会などもアヘン貿易に乗り出しました。・・・・・・元東インド会社の船医のウィリアム・ジャーディンとカルカッタの貿易商だったジェームズ・マセソンが1832年にマカオで設立したジャーディン・マセソン商会は、ベンガル地方で栽培させたアヘンの販売と中国紅茶のイギリスへの輸出で大儲けし、1860年代になると東インド会社を引き継ぐ大商社に成長しました。ジャーディン・マセソン商会の預金と送金の目的で作られた銀行が、今も資産額で世界第5位のイギリスの HSBC (香港上海銀行)です。ジャーディン・マセソン商会はアヘン戦争後の香港で土地を買いあさり、経営を多角化して醸造業、紡績、保険、海運、鉄道などにも乗り出し、一大コンツェルンとして成長しました。
また21歳で来日して幕末の長崎で活躍したスコットランド人の貿易商人トーマス・ブレイク・グラバーが率いるグラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店でした。グラバーは1861年の商会設立から70年に倒産するまでの10年間に貿易商として活躍し、後になると「三菱」財閥となる土佐の岩崎一族を助けてキリンビールや長崎造船所の創設、高島炭鉱の開発などに尽力しています。坂本龍馬の海援隊もグラバー商会から南北戦争で北軍が使った中古のライフルを購入して長州の大村益次郎に売りさばき、薩長を勝利に導きました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P211)

※ イギリスの第3段階の収奪として、奴隷三角貿易の衰退とともに、19世紀にイギリスはインドのアヘンと中国のお茶を結びつける三角貿易を始めます。イギリスで喫茶の習慣が拡がり、イギリスは中国のお茶を求め、銀で支払いをしていました。そのため、イギリスは輸入超過状態となり、銀の流出が止まりませんでした。そこでイギリスは銀の代わりにインド産のアヘンを中国に輸出し、茶を中国から得ました。
  ジャーディン・マセソン商会などの貿易商がアヘンの中国への輸出を担当し、大きな利益を上げて、逆に中国側の銀が流出しはじめました。ジャーディン・マセソン商会は1832年に、マカオで設立されて、イギリス東インド会社の別働隊のような役割を担った民間商社で、アヘン貿易を取り仕切ります。
 アヘン戦争の開戦に際し、ジャーディン・マセソン商会は議員に対するロビー活動で多額のカネをばらまき、反対派議員を寝返らせます。
 ジャーディン・マセソン商会は、アヘン戦争でイギリスが占領した香港に本店を移し、さらに上海にも支店を開き、中国市場に進出します。
 ジャーディン・マセソン商会は、清朝政府に対して借款を行い、清崩壊後も鉄道の敷設権や営業権などを得て、莫大な利益を上げていきます。今日でも、ジャーディン・マセソン商会は国際的な複合企業です。
  アヘン戦争後、香港上海銀行が設立されます。香港上海銀行はジャーディン・マセソン商会をはじめ、サッスーン商会などのアヘン貿易商社の資金融通や、送金業務を請け負いました。香港上海銀行は香港で、アヘン戦争以降、今日まで続く通貨の発行もおこない、中国の金融を握ります。
  このようにイギリスの覇権は奴隷貿易の人身売買業者、アヘン貿易のドラッグ・ディーラーなどによって形成されたものであり、その犯罪的かつ反社会的な手法なくして、持続可能なものでなかったことは明白です。悪辣非道、弱肉強食、厚顔無恥、こうしたことこそが国際社会の現実であることを歴史は証明しています。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 182)



【アヘン戦争】 これが原因で、悪名高い戦争が起こる。1840年アヘン戦争です。中国にアヘンがはいってくる。麻薬中毒患者を減らさないといけない。政府は「おまえ、アヘンの密輸入をやめさせてこい」と言って、役人を派遣する。これが林則徐です。

 アヘン貿易は実は密貿易です。政府は認めていない。密貿易だから当然、密貿易品を没収する。ある教科書には、中国がアヘンの自由貿易を断ったからアヘン戦争が起こったように書いてありますが、密貿易を取り締まることは国家として正しいことです。ましてそれはアヘンという麻薬です。密貿易品を見つけた国が、「これは密貿易品だから」と没収する。これは当然のことです。
 しかしイギリスは「没収された、どうしてくれるんだ」と言いがかりをつけ腹を立てる。それで戦争をふっかける。戦争まで持っていったら、イギリスは「しめしめ」です。それでイギリスは勝つんです。清は負けた。するとどこまでもしゃぶられる。

 2年後に条約を結ばされる。それが1842年の南京条約です。イギリスは「中国の鎖国体制がよくない、自由貿易をしろ、一つの貿易港ではダメだ、5つの港を開け」という。これは、そのあと1853年にアメリカのペリーが日本に来たときも同じです。
 その港に選ばれたのが、まず上海です。この時まではそんなに大きい都市ではない。そこから150年経って、今人口2000万人、東京の2倍、中国最大の都市です。

※ アヘン戦争後に清が上海に租界の設立を認めると、サッスーンは直ちに拠点を上海に移して事業を拡張しました。同社は、イングランド銀行、HSBC(香港上海銀行)を親銀行とし、ロスチャイルド家とも血縁関係を結んでロスチャイルドの東アジア代理人として資金を確保し、三代で金融、不動産、建設、交通、食品、機械製造を傘下に収める大財閥を築き上げます。・・・・・・現在、上海の観光名所となっている和平飯店は、かつてはサッスーン財閥の拠点のサッスーン・ハウスでした。サッスーン財閥は、上海の租界の買弁(外国人の商取引を請け負った中国商人)から身を起こして中国最大の金融資本に成長した浙江(せっこう)財閥とも協力関係にありました。浙江財閥の中でも最大とされた宋氏一族は、キリスト教の牧師だった宋嘉樹が創始者ですが、サッスーンやロスチャイルドなどのユダヤ資本と密接な関係を築き、政治に大きな影響力を発揮しました。宗家の3人の美人姉妹はいずれも国民党の要人と結婚し、中国現代史に大きな影響をおよぼしています。宋慶齢と結婚した孫文や宋美麗と結婚した蒋介石は、1920年代以降の国民党を中心とする民族運動のリーダーとして活躍しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P211)


 それから、広州の近くにあった島、これを香港島といいますが、「これもらうよ」という。これでイギリスのものになる。やっと返還されたのはほんの20年前の1997年です。それまでずっとイギリスものでした。だから今も香港は中国の火種です。
 そのあとは不平等条約です。日本も同じことをされます。


アヘン戦争の概略を説明する



 不平等条約とはまず一番目に、関税を自由にかけられない。つまり関税自主権がない。輸入品には輸入する国が自由に関税をかけるのが当然なのにです。
 アメリカのトランプ大統領は、いま非常に批判的に報道されているけど、トランプが保護貿易を主張しているのは、そういう意味では理にかなっている。「アメリカの国内産業を守るために、受け入れるアメリカが国の権限でもって関税をかける」と言っている。これは保護貿易として正しいのです。

 今の自由貿易体制を基準にすれば、それに反するから賛否両論あるのですが、自由貿易を強調するんだったら、同じように保護貿易についても説明しないと正しく理解されない。トランプ発言が変に伝わるんじゃないか、と個人的には気がかりなんですけどね。自由貿易と保護貿易は、双方に利点と欠点があり、どちらが正しいというものではありません。そういう中でトランプは保護貿易を主張している。問題があるとすれば、その保護貿易が対等な保護貿易であるかどうかです。
 ただトランプの発言には、いろいろ悪いところもあるけど、この貿易に関しては、きちっと報道していない。日本のマスコミは相変わらず自由貿易一辺倒です。

 イギリスは自由貿易のスローガンを掲げながら、アジア諸国や南米諸国の関税自主権を奪い、3%から5%の低率関税で製品を輸出できる「経済空間」を地球規模で広げました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P213)


 二番目に、犯罪を犯したイギリス人は罪に問われない。これが領事裁判権または治外法権です。言い方が二つありますが、どちらも同じことです。これも誤解している人が多い。
 シンガポールは唾吐いただけで罰金10万円です。シンガポールに行った日本人が道に唾吐いて、タバコのポイ捨てして、罰金10万円取られる。これは取られて当然です。その国のルールだから。「オレは日本人だから取られない」とか、「シンガポール人じゃないから関係ない」とかいうのは、とんでもないです。そんなことしたら日本に来ている外国人は、犯罪しほうだいになる。何してもよくなる。

 そんなことができるのは日本にいる在日米軍ぐらいのものでしょう。沖縄で婦女暴行しても、日本の警察には渡されずに、翌日スルッとアメリカに帰っていく。そんなことを許したら国内は犯罪だらけです。現地で起こった犯罪は、現地の政府が現地のルールで対処する。そのことと犯人の国籍とは関係ない。それが国際ルールです。
 しかし領事裁判権とは、これができないことです。領事というのは日本にいるイギリス人です。「おまえ何したんだ、捕まる前に早く国に帰れ」と言って本国に返すから実質的には無罪になります。そういうことは幕末の日本もやられます。そういうことを押しつけられていく。




 【中央銀行】 イギリスは独特な金融体制を持っています。民間の中央銀行を持っています。これをイングランド銀行といいます。詳しくは「政治・経済」でしか言えないようなことです。高校の歴史の範囲を超えるかなと思いますが、1844年にイングランド銀行が発行する紙幣を正式のお金にします。正式にイギリス政府が、紙幣を国のお金だとお墨付きを与えた。つまりイングランド銀行券が正式な通貨になる。

 イングランド銀行券とは、日本でいえば1万円札です。日本の1万円札の正式な名前は「日本銀行券」です。考え方はそれといっしょです。1万円札は「日本国紙幣」ではないですよ。政府がお金を発行するのではありません。政府とは別の民間の銀行がお金を発行しているのです。これをのちの日本の明治政府は真似していきます。 
 その証拠には、日本銀行の株式は東京証券取引所に上場されています。お金さえあれば誰だって日本銀行の株が買えて、株主になれます。このことは日本銀行が政府の組織ではないということです。政府の公的組織であればいかなる権利もお金で売買することはできません。

 1844年英国ピール条例が制定され、イングランド銀行以外の銀行によるし発行業務が禁止、金本位制が確立し、イングランド銀行世界で最初の近代的中央銀行となります。このピール条例を制定するように英国議会へ働きかけたのがライオネル・ロスチャイルドでした。(金融のいくみは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P122)

 イングランド銀行の設立認許状は1844年までに8回修正されているが、後半の修正には間違いなくロスチャイルド一族が関係している。とりわけ、大幅な変化をもたらした「ピール修正案」はロスチャイルド一族の銀行に多大な便宜をはかるものでしかなかった。「ピール修正案」は1844年に採択された。その直接的結果として、それまで全ての国(大昔から銀を 通貨として使用していた国家も含まれる)で通貨として流通していた銀が廃止された。戦争債が金(キン)で返されることをロスチャイルド家が望んだためだ。これは、銀による南北戦争の戦債の返済の受け取りを彼らが拒否し、アメリカ政府に対して金(キン)による支払いを求めたときに明らかとなった事実である。ピール修正案はそうした事柄を予見し、明確に言えば、次に起きることのために打った布石だった。この修正案も英国による金(キン)の独占に貢献した。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P250)

 銀の蓄積が乏しいイギリスのアジアへの経済進出は、銀本位制金本位制に変え、金との引換証のポンド紙幣を流通させることにより実現されました。ロスチャイルドは、カリフォルニア、オーストラリアなどの一連のゴールドラッシュを巧みに利用して「黄金が無限であるという幻想」を振り捲き、金本位制への転換をなしとげ、金の「引換証」のポンドを世界の決済通貨にすることに成功します。それは、イギリス商人にとっても、ポンド紙幣の発行に携わっていたユダヤ人にとっても決定的な勝利になりました。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P184)

 イギリスの商人、金融業者は、世界の基軸通貨がアジアの通貨である銀貨からイギリスのポンド金貨に転換したことにより大きな利益を得ました。大量のポンド紙幣を使うことが可能になったからです。それこそが、イギリス経済とアジア経済の大逆転が劇的に進んだ理由になります。19世紀初頭までの世界経済では、オスマン帝国、ムガル帝国、清帝国などのアジアの大帝国が、圧倒的な優位を誇っていました。
その際に巧みに利用されたのが、新大陸やオーストラリアで一時的に大量に掘り出された金が無尽蔵であるとする巧みな「宣伝」でした。イギリスは、金融の専門家のロスチャイルド家の金融操作もあって基軸通貨を銀貨から金貨に大転換することに成功し、アジア諸帝国の経済を切り崩したのです。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P206)

 銀行設立認許状の修正を提案したのはロバート・ピール卿だが、発案者はライオネル・ロスチャイルドその人であり、仲介者は彼の「側使え」ベンジャミン・ディズレーリだった。ディズレーリはかつてナポレオン1世がライオネルの先祖に作り上げられたように、ライオネルによって英国首相として名声ある人物に作られた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P256)



【株式会社】 また1844年には・・・・・・意外に思うかもしれませんが・・・・・・イギリスで株式会社の設立が許可されます。株式会社があるのは当たり前みたいですが、ここで初めて「株式会社をつくってよい」となる。株式会社は100年間禁止されていた。
 なぜだか覚えていますか。約100年前の1720年に南海泡沫事件というバブルが起こりました。南海会社の株が急速に10倍に上がったり、10分の1に下がったりして、「株式会社は危険だ」とみんなが思った。こういうことが100年前にあって株式会社は禁止されていたんです。しかしこの1844年から株式会社がオーケーになる。今では会社といえば株式会社ですが、もともとは非常に危険なものだったのです。

 ではなぜ株式会社が広まったのか。会社を作るためのお金を集めるのに非常に便利だからです。株を発行してその「株を買って」と頼めば、見知らぬ人からでもお金を集められる。これが株式です。株式は一種の証券です。ということは証券さえ売ることができれば、株式会社が設立できるということです。それは証券販売業者が力をもつということです。彼らが金融資本家です。その中心にユダヤ人の金融業者がいます。イギリス経済の中心がそれまでの産業資本家から金融資本家に変わっていきます。

 しかも会社が借金して倒産した場合、株主はその借金返済の義務から逃れられる。つまり借金を返さなくていい。責任が免除されます。これが「政治・経済」的にいうと「有限責任」ということです。株主にとって非常に都合がいいのです。だからもうけを狙って、無責任に株を買う人がいっぱい出てきます。そしてそのことがバブルの温床になります。

 1844 イギリスの共同出資法・・・・・・自由な株式会社設立可

 1856 イギリスの株式会社法・・・・・・株主の有限責任が一般化

 会社創設業とは、株式と社債の発行、販売を目的とし、「債券と株式を大規模に発行し、それを大衆に押しつけることにより、利益を生みだすことを公然の業務とする」商社によって運営される。(クランプ)・・・・・・会社創設事業の起源も、同様に闇に包まれている。私の見るかぎり、会社創設事業の歴史のなかで最初に目立った点として、ここでもロスチャイルド家の活動が浮かびあがる。採算のとれる会社創設事業を最初につくりだしたか、もしくは可能にした包括的な活動は、どうやら鉄道が建設されようとしていた頃、つまり1830年代以降にはじまったと思われる。・・・・・・だが、ロスチャイルド時代以来、数十年にわたって会社創設事業は文字どおりユダヤ商人の特殊分野の域を出なかった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P170)



【銀行制度】 それから1848年というのも要注意です。銀行制度についてです。銀行は人のふんどしで相撲を取っている組織です。
 どういうことか。私が銀行に預けた100万円は銀行にありはしない。銀行はそのお金を他人に貸しています。例えば私がマンガ本をa君に貸して、それをa君が私に黙ってb君に貸したら、私は腹を立てますよね。これが良いのか悪いのかというのは、ずっと論争があった。それを政府が「いいよ」と言った。借りた以上は、借りた人が勝手にしていい。
 私  →  a  →  b
 「エッ、そんなバカな」と思いませんか。これが法的に決着ついた。「それでいい」となった。だから今の銀行は全部、人から預かったお金を他人に貸している。私は今でもそれでいいのかなと思う。私がa君に貸したものを、a君が勝手にb君に貸して貸し賃を取ったら、私は腹を立てるけどな。でも今は法的にそれていいことになっています。こんな制度がイギリスから発生します。
 だからめったに人にモノを貸すもんじゃない。貸したら最後、それを「又貸し」されても文句は言えなくなっています。日本ではそういう人はめったにいないけどね。でも銀行は100年以上前からそういうことを当たり前にやっています。

 こういうのを難しくいうと、「銀行の部分準備制度」が認められた、といいます。支払いのための部分的なお金さえ用意していれば、銀行はあとのお金をどうしたってかまわないということです。
 ということは、今まで各家のタンスの中に眠っていたお金を一手に集めて、そのお金を貸す権利を手に入れたということです。お金が欲しい人はいっぱいいます。お金を貸す力を持っている人は、巨大な力を手に入れます。これが金融資本です。

※(筆者注) 1848年イギリスの裁判「フォーリー対ヒルおよび数人」では、次のような有名な判例があります。
「預金者が自分のお金を銀行に預けた瞬間からそのお金は預金者の所有でなくなる。・・・・・・銀行家は、あらゆる意味において、銀行に預けられて銀行家に管理を託されたお金を保有し、随意に処理する権利を有する」(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P315)
 ここには裁判さえ左右するほどの強力な金融資本家の圧力が働いていたとみるべきでしょう。そうでなければこんな常識はずれの判決が出るわけがありません。これは国民の財産権に対する深刻な侵害です。この財産権の侵害のもとで金融資本家が絶大な力を得ていきます。そしてそれが世界史を動かすほどの力になります。


 最初は、銀行も人のお金をちゃんと預かって保管していた。しかし、400年前の1600年代、イギリスでそれを勝手に他人に貸し始めたんです。人のお金を勝手に貸し出して、勝手に利息を取りだした。すると預けた人は当然、腹を立てた。これが良いのか悪いのか、裁判に訴えて、200年間、裁判がずっと続いたんです。なかなか決着が付かずに、1848年やっと裁判で決着が付いた。そして、これがオーケーになった。不思議なことです。

 これは逆に言うと、人から貸してと言われて貸した以上は、例えば私のクルマをちょっと貸してといわれて、いいよと貸すよ、と言えば、それがタダであろうが、料金とろうが、貸した以上は、私は貸した人に他人に貸すなと言えない。借りた以上はオレの勝手だ、というのが正しくなった。
 A  →  銀行  →  B
 この論理の上に銀行業は成り立っています。銀行がBさんに貸し付けたお金は自分の金じゃない、Aさんの金です。だから銀行は、人の金で相撲をとってる、人のふんどしで相撲を取ってる、と言われる。それは理屈としてはその通りです。人から集めた金を転貸し、又貸ししている。これでよかったら、このBさんだって、また別のCさんに貸し出していいことになる。こういう連鎖をストップできなくなる。これを認めたかぎり、延々と続いていく。

 最初に銀行に預けたのはAさんです。彼が銀行にお金を預けた。これは預金ですね。そしてそのお金を預かった銀行は、歴史的には無断でBさんに貸し出しました。400年前のイギリスの金貸し業者は、これをAさんに無断でやる。ここらへんが日本の歴史と違う。日本にも金貸しはいました。しかし日本の金貸しは、自分の金を人に貸し付けていたんです。しかしイギリスでは、彼らは自分の金ではなく、人から預かったお金を貸しつけた。ここが違う。金貸しがいたのは同じでも。それで人から預かったお金を、別の人に貸し出す。お金の流れは、AさんからBさんに流れて、それが直接流れたら、上の直接金融になるけれども、そこに銀行が介在して中間利益を取る。



【フランスの二月革命】 そんななかで革命の動きがヨーロッパに流行っていく。1848年、またフランスで革命が起こる。これを2月に起こったから二月革命という。
 イギリスに比べるとフランスの産業革命は、遅ればせながらも進んでいた。それにつれてお金持ちがますます肥え太っていった。そうすると庶民は・・・・・・まだ全員に選挙権が行き渡ってないから・・・・・・「俺たちにも選挙権をくれ」という運動を起こしていく。

 パリ市民がまた暴力に訴え決起する。パリを中心にバリケードを築いて市街戦を戦う。これを鎮圧できずに、王様は政権を投げだしてイギリスに亡命する。投げ出すのは簡単ですが、ではどうやってこの荒れたフランスを立ち直らせるか。

※ 1848年の革命の主役もまたメイソンであった。それゆえ革命臨時政府の要人には多くのメイソンが混じっていた。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P145)


 もう王はいないから臨時に第二共和制・・・・・・王がいない政治のことを共和制といいます・・・・・・これが成立するんです。またフランスに王がいなくなったんです。
 このあとのリーダーは誰か。ナポレオンは負けたとはいえ、フランス人はナポレオンが好きなんです。国民の英雄です。ただ彼には息子がいなかった。いや、二番目の妻のマリー=ルイーズが産んだ子供が一人いましたがすでに亡くなっています。でもナポレオンの弟の息子がいた。ナポレオンの甥っ子のルイ・ナポレオンです。彼に人気が集まる。 

※ ルイ・ ナポレオンは、ナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌが前夫との間にもうけた娘オルタンスが、オランダ王のナポレオンの弟ルイ・ボナパルトと結婚し産んだ子供です。


 1848年に、このナポレオンの甥っ子のルイ・ナポレオン、彼が選挙で勝つんです。そして大統領になる。大統領になると、次は王様になりたい。

※ ルイ・ナポレオンはナポレオン・ボナパルトの甥で、ロスチャイルド家がかつてイギリスやオーストリア側について偉大なる叔父に不利を働いたことを知っていた。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P89)

※ ナポレオン3世はペレール家とフールド家の支援を得て大統領になった。・・・・・・一方、彼と ロスチャイルド家との関係は良好とは言えなかった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P137)

※ (フランスの2月革命を支持した)フールド家ペレール家は連携して動産信用銀行を創設したが、これはロスチャイルド家にとってかなり手ごわい競争相手になった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P131)


 そして4年後の1852年に彼は皇帝になります。そして名前をナポレオンにあやかってナポレオン3世と名乗る。また王様がいる政治に戻る。これを第二帝政といいます。非常にフランス革命というのは複雑です。あっちに行ったりこっちに行ったり、右往左往です。水に漂う浮き草のごとく揺れていく。
 だからこのあとフランスが歴史の中心になることはありません。何回も言うように中心になるのはイギリスです。

※ 彼(ナポレオン三世)はルイ・ボナパルトの息子ではないらしい。彼(シャルル・ルイ)と兄ルイは若い頃、イタリアでフリーメイソンリーに似た秘密結社カルボナリに入った。彼はそのときマッチーニ自身の手でこれに加入している。兄ルイは反教皇運動への参加を拒んでカルボナリによって殺されたらしい。こんなことがあって恐くなり、シャルル・ルイは亡命先のイタリアからロンドンへ、そしてボナパルト党の占拠地スイスへと逃亡した。彼はここでイエズス会と接触し・・・・・・メイソンになったらしい。イエズス会との接触は、彼を王位につけようとする教皇との関係を推察させる。このように教皇と教会(イエズス会)と人民を後楯にするという「現実路線」で、1848年12月10日、フランス共和国の大統領となり、1851年12月2日のクーデターを経て遂に翌年12月には皇帝となった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P146



【ウィーン体制の崩壊】 では1848年のフランスの二月革命の後、ヨーロッパのその他の地域はどうなるか。二月革命の影響でヨーロッパ各地で反乱が起こる。

 まずオーストリアです。同じ年1848年の3月です。暴動が起こって、オーストリアのメッテルニヒは国外逃亡する。こうやってオーストリアは弱くなる。

 イタリアはどうか。マッツィーニという人が、今でいう政党・・・・・・政治結社ですけど・・・・・・青年イタリアというのを作ります。これはちょっとブラックなんです。その前にイタリアにあったのは、カルボナリ党という。これは非合法的な秘密結社だった。その影響がどうもある。だからこの人の動きはポイントのところがよくわからない。この動きの中で、ローマ共和国というものが瞬間的にできる。でもその瞬間にフランスが介入して崩壊する。これが1849年です。だからイタリアの統一はこのあと10年遅れます。


続く。


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