ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 32話の3 19C前半 アメリカ

2019-08-25 09:37:40 | 新世界史12 18C後半~

【アメリカ】
 ではアメリカです。1776年に独立したアメリカはその後どうなったのか。まず「お金をどうするか、誰がつくるか」ということで揉める。1776年に独立してから10年ちょっとで「通貨をつくる銀行」をつくろうとする。

 さっき言ったことを復習すると、1791年
アメリカ第一銀行ができます。ただ反対が多くて20年間でやめる。1811年にアメリカ第一銀行が廃止されます。
 すると廃止されたことに対してイギリスが腹を立てる。イギリスはアメリカへの輸出をストップする。翌年の1812年から米英戦争というアメリカとイギリスとの戦争が起こります。これでアメリカは非常に困る。そしてこの戦いにアメリカは負けた。負けたのが1815年です。
 すると翌年の1816年にイギリスの力で2番目のアメリカ第二銀行ができる。この銀行を通してイギリスのお金がアメリカに入ってきた。だからアメリカ人は、イギリス人のお金持ちに頭が上がらなくなった。こうやって資本的にはイギリスがアメリカを牛耳っていきます。アメリカの独立のあとも、イギリスのアメリカに対する経済支配は続きます。
 1775年からの独立戦争で軍事的にアメリカに負けたイギリスは、この1812年からの米英戦争で勝利し今度は経済的にアメリカを支配します。

 
アメリカ第二銀行がアメリカ経済を支配する中で、1823年、アメリカは・・・・・・ここからは教科書です・・・・・・アメリカ大統領モンローがモンロー宣言を出します。
 マリリン・モンローは女優です。お尻ふって歩いて有名になった。ケネディ大統領の愛人であったという噂もある。でも自殺しました。ケネディは暗殺されました。ここらへんもブラックな話があります。ここでは別人のモンロー大統領です。
 このときアメリカはイギリスの強い経済的影響のもとにあります。イギリスはアメリカを1ランク下に見ていた。しかし大統領のモンローは「ヨーロッパはアメリカ大陸のことに干渉するな」という。「ヨーロッパは南北アメリカ大陸に干渉するな。アメリカのことはアメリカが決める」と。

 ほぼ同時にイギリス外相のカニングも「南アメリカ諸国のスペインからの独立を認める」方針を出す。
 なぜそんなことを認めるのか。スペインの支配下にある南アメリカ諸国がスペインからの独立すれば、経済力で南アメリカに乗り込んでいくのに、イギリスが一番有利になるからです。アメリカのモンロー宣言は、イギリスの南アメリカ支配を後押しすることになります。こういうふうにアメリカとイギリスはつながっていくのです。
 アメリカが「ヨーロッパはアメリカ大陸に干渉するな」といってもイギリスは例外です。だからこのあと南アメリカ諸国はイギリスやアメリカの圧力に苦しめられたため、今ではイギリスやアメリカとは逆に仲が悪くなっています。

 このあと南北アメリカ大陸で一番強い国はアメリカになっていきます。つまりアメリカ合衆国が南アメリカ諸国に影響を及ぼすようになっていきます。そのためにアメリカは「ヨーロッパはアメリカ大陸に干渉するな」という宣言をします。
 この時はイギリスとアメリカは持ちつ持たれつの関係です。独立戦争で軍事的にはアメリカがイギリスに勝ちましたが、経済的にはイギリスが強い。これはイギリスのお金の力でこうなるのです。

 しかしアメリカ第二銀行も20年後の1836年にまた廃止されます。「一部の人間に富が集まりすぎる」ということで。一部の人間というのはイギリスの息のかかった人間のことです。廃止されると、前回と同じようにイギリスがこれに怒って、アメリカからわざとお金を引き上げます。それが原因でアメリカ初の恐慌が起こる。これが廃止翌年の1837年です。



【西部開拓】 建国当初のアメリカは実は今のアメリカじゃない。最初は東部地域の下の図のこれだけです。そこから西部劇で見るようにインディアンを追い払って、どんどん西へ西へと開拓地を広げていきます。こういうことをしながら西へ西へと、アメリカはインディアンの土地を奪っていった。
 「アメリカはオレたちのものだ」とアメリカ人は言いますが、ここはもともと何万年も前からインディアンが住んでいた。地元の人の土地をこうやってアメリカは奪っていきます。

 その征服活動が何十年も続いて、アメリカ人はその征服活動を「この土地は神がオレたちに与えた土地なんだ」という勝手な解釈をする。そしてこの未開の土地をフロンティアと呼び、ここを開拓していくことは「神から与えられた使命なんだ」という。
 今から考えるとおかしな話です。アメリカ人が勝手にそう思っただけで、やってることはインディアンの迫害です。でもアメリカ人は「フロンティア・スピリット」という、この考えが好きです。インディアンを迫害しても、「インディアンがオレたちに追い払われることは当然だ。それがオレたちが神から与えられた使命だ。マニフェスト・ディスティニーだ」と言って正当化していく。

 ムチャクチャですけど、これが通るんです。これがおかしいと言われ出したのは、ほんのここ20~30年のことです。私が高校生の時は「日本人はアメリカのフロンティア・スピリットを見習え」という雰囲気で「フロンティア」という英語の教科書があるほどだった。


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 そうやって領土が西へ広がっていく中で誕生した初の西部出身の大統領がジャクソン大統領です。1829年からです。アメリカ大統領は最大8年です。4年で1期、最高2期だから8年です。このジャクソン大統領の時に、アメリカの貧乏な人にまで選挙権が与えられて民主主義が進展したという面があります。このジャクソン支持派が民主党の母体になります。
 この人が「銀行なんかやめてしまえ」と、1836年アメリカ第二銀行廃止します。理由は、「一部の人間に富が集まりすぎる」からです。この銀行にはイギリスの資本が入っています。

※ 米英戦争という緊急事態によって辛くも存続できた第二合衆国銀行中央銀行)は、その後保守的な農民を支持者とし、ポピュリズムの波に乗って大衆の熱狂的支持で第7代大統領に選出されたジャクソン大統領(在任1829~37)の手であっさりと葬られてしまいました。・・・・・・ジャクソンは大統領に就任(1829年)すると直ちに拒否権を発動し、議会が承認した第二合衆国銀行の延長法案を葬り去りました。第二合衆国銀行は、ニューヨークの金融貴族ユダヤ人金融業者イギリスの銀行の金融支配の道具に他ならないというのが、彼の主張でした。・・・・・・その結果、アメリカでは中央銀行がなくなってしまい、州が認可した多数の州法銀行に紙幣(銀行券)の発行権が移りました。・・・・・・その後、州政府は「銀行」を個人間の組合とみなして簡単に設立を認可し、銀行券の発行を認めました。各地の州法銀行は大量の紙幣を発行することで、べらぼうな利益を手にします。アメリカでは、通貨の発行益が地方ボスにばらまかれたのです。・・・・・・このように南北戦争前夜のアメリカでは約1万6000の銀行が推定7000種類のドル紙幣を発行し、メチャクチャな紙幣の発行状況を利用して5000種類の偽造ドルが出回っていたと言われます。そのため対外的にアメリカ経済はポンドへの依存から抜け出すことができず、貿易決済はポンドで行われました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P224)

※ 1820年代、一般市民の意識は、ジェファーソンら共和党派の主張する自由放任と健全な通貨政策のほうへ傾いていた。だが共和党自身は当時これらの原則を捨てていたので、これを復活させるために、マーティン・ヴァン・ビューレンとアンドリュー・ジャクソンを中心とする新たな組織が結成された。この組織は民主党と呼ばれ、党綱領の一つとして合衆国銀行の廃止を掲げた。1828年に大統領に選出されたジャクソンは、すぐに議会の賛成を取り付ける作業に着手した。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P418)

 1832年にはジャクソン大統領第二銀行の更新を拒否、シティーやニューヨークの民間銀行形との間で攻防が繰り広げられました。しかし、ジャクソン大統領は最後まで妥協せず、やがてアメリカは南北戦争に突入していくことになります。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P104)

※ 1804年に財務長官のハミルトンが決闘で死んだ後、ロスチャイルド家はニコラス・ビドルを代わりに選んだ。パリのジェームズ・ロスチャイルドからアメリカ第二銀行を委託されたとき、ジャクソン大統領に反対された。ロスチャイルド家はアメリカ合衆国を破壊し、二つの弱小国家に分割しようと考えた。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P266) 


 しかし、やめるとすぐイギリスが怒って資金を引き上げ、1837年にはアメリカ初の恐慌になる。そのことはすでに言った通りです。
 このアメリカ第二銀行を通じてアメリカ経済に強い影響を及ぼしていたヨーロッパ最大の金融資本家ロスチャイルドは、アメリカ第二銀行が廃止されるとすぐ、同年の1837年に自らの代理人としてオーガスト・ベルモントをアメリカに派遣して、巻き返しのための政界工作にあたらせます。

※ ヨーロッパの金融界を支配するロスチャイルド一族は当然のことですが、同じ英語圏のアメリカへの進出を策しました。先に述べた紙幣の過剰発行によるバブルが崩壊した1837年に、アメリカの金融市場への進出が始まります。ロンドンネイサン・ロスチャイルドは、1837年に、アメリカ人のジョージ・ピーボディがロンドンの有力金融業者ベアリング家の親戚を通じてロンドンに創設したキダー・ピーボディ証券に目をつけました。キダー・ピーボディ証券をアメリカに経済進出する際の手足として利用しようと考えたのです。ピーボディには子供がいなかったために、アメリカ人のジュニアス・モルガンが後継者になりました。このジュニアス・モルガンが、ロスチャイルド家のアメリカ代理人になったのです。彼の息子が、アメリカを代表する大財閥を築きあげるジョン・ピアモント・モルガンJPモルガン)になります。JPモルガンは、ロスチャイルドの資金力を背景にしてアメリカの金融界を左右しただけではなく、後に述べるように金融、鉄道、海運、製鉄などからなるアメリカ最大の財閥を形成していきました。
他方、キダー・ピーボディ証券の創設と同じ1837年に、ドイツのフランクフルトのロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントがアメリカに派遣され、ペリー家、モルガン家などのアメリカの富豪との協力関係を築き上げました。ボストン財閥です。ベルモントが、ドイツのロスチャイルド家のアメリカ代理人になったわけです。ですから、ロスチャイルドは南北戦争前にアメリカに足場を築いていたことになります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P227)

※ (アメリカへの移民で)1820年代後半から1860年にかけてアメリカにやってきたのが、ドイツ、ボヘミア、ハンガリー等、中央ヨーロッパのドイツ系ユダヤ人である。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P120)

 1853年 ペリーの来航



 もう少し後(約20年後)のことですが、ベルモントは、こののち政界にも入り込んで、1856年にアメリカの二大政党の一つである民主党の党首になり、政界の大物にまで登りつめます。
 このベルモントの人脈をたどっていくと、変な人物とつながります。彼の結婚相手は日本を開国させたペリーの娘です。1849年にペリーの娘・・・・・・キャロラインといいますが・・・・・・と結婚し、その4年後の1853年にそのキャロラインの父の・・・・・・ベルモントにとっては義父の・・・・・・ペリーが浦賀に来航し、日本に開国を強要することになります。この時ペリーはアメリカ大統領フィルモアの国書を持っていました。このフィルモアはアメリカのホイッグ党の政治家です。でもこれはもう少しあとのことです。

※ ロスチャイルドを中核とするユダヤ国際金融資本権力が、まずペリー提督米艦隊を指揮したのである。この米海軍最古参のペリーは、筋金入りのフリーメーソンであった(加治将一 あやつられた龍馬 祥伝社)。のみならず、ペリーは米国におけるロスチャイルドの代理人とごく親しい関係で結ばれている
 グラバーが幕末フリーメーソン革命(明治維新)の裏の主役であったことはもはや明確だが、このグラバーを動かしたのは上海のサスーン財閥であり、そしてこのサスーンはロスチャイルドの「極東」代理人である。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P314)


 ジャクソン支持派民主党になりますが、ロスチャイルドに派遣されたオーガスト・ベルモントはその民主党に近づいて民主党を乗っ取ったのです。民主党とヨーロッパの金融資本家とのつながりができます。つまり「銀行嫌い」だったジャクソン一派は、ベルモントによって「銀行好き」に180度方向を変えられるのです。

 その過程で、1835年にはジャクソン大統領の暗殺未遂事件が起こっています。殺人犯の拳銃から弾が出なかったので命拾いします。
 しかし6年後の1841年・・・・・・ジャクソンは7代大統領ですが・・・・・・9代大統領ハリソン(ホイッグ党)は、カゼ?をひいて死んでしまいます。
 その9年後の1850年には、今度は12代大統領テーラー(ホイッグ党)がお腹をこわして?死んでしまいます。本当の死因はヒ素中毒、つまり毒を盛られた、という話があります。
 彼らの共通点はアメリカの中央銀行設立に反対していたことです。このテーラーの次の大統領がペリー来航時の大統領フィルモアです。

 1845年にはテキサスを併合します。
 さらに1846年からアメリカ=メキシコ戦争を起こして、1848年にカリフォルニアをメキシコから割譲させ、そこを併合します。するとその年にカリフォルニアから金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こります。これでアメリカが一気にお金持ちになります。

※ アメリカ東部とヨーロッパとの関係を、ゴールドラッシュ時代に強化したのはユダヤ人である。・・・・・・今日(1911年当時)でもなお、カリフォルニアの銀行組織の圧倒的多数とともに工業経営もユダヤ人の手中におさめられている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P74)


 アメリカ二大政党制は共和党と民主党です。どちらかと言えば共和党が出番が多いような気がしますが、しかし五分五分です。民主党に反対するのが共和党です。ちなみに今のトランプ大統領は共和党です。その前のオバマは逆に民主党です。
 そのイギリス金融資本家に乗っ取られた民主党に対抗するのが共和党です。この時にはアメリカの北部と南部で考え方が違って、民主党南部中心です。南部は綿花の貿易でイギリスと結びついています。それに対して共和党北部中心です。ここにはアメリカ独自の産業が興りつつあります。その北部と南部で国が割れていきます。
 この対立から、もう少しあとのことですが、1861年に南北戦争が起こります。アメリカが真っ二つに北と南に割れて、アメリカ人同士が血で血を洗う戦争をやっていく。このことは後でいいます。

▼アメリカの西部進出

 
 



【ラテンアメリカ諸国の独立】
 では次、スペイン植民地から独立したいラテンアメリカです。ラテンアメリカの地図を見てください。ブラジルを除いて、全部スペイン植民地です。

▼ラテンアメリカの独立
 

 スペインがナポレオン戦争で負けて以降、ここが次々に独立していく。ここはコロンブス以降、この時まで300年間、ずっとスペインの植民地だった。だからメキシコ人は何語をしゃべっているか。メキシコ語とかないんですよ。スペイン語です。コロンビア、ベネズエラ、ペルー、ここらへんは何語をしゃべってるか。スペイン語です。スペインの植民地だったからです。ブラジルだけが今でもポルトガル語をしゃべっている。  

 ナポレオンはスペインを支配した。スペイン本国はフランスのナポレオンに負けた。
 そうすると、スペインに支配されていた現地生まれの白人・・・・・・彼らをクリオーリョという・・・・・・彼ら白人が中心となって独立運動を始める。決して原住民ではありません。黒人の運動でもありません。
 彼らが1810年代から次々に独立しようとしていく。その運動の中心人物が、シモン・ボリバルという人です。彼もクリオーリョです。南米にボリビアという国がありますが、このボリバルの名に由来します。スペインから独立したいわけです。

 フランス革命以前に戻したいヨーロッパは「そんなことはさせない」と、ウィーン会議の中心メッテルニヒを中心に弾圧にかかりますが、それに反対したのが、前に言ったようにアメリカです。
 アメリカは、大統領モンローが1823年モンロー宣言を出す。アメリカはスペインに「南アメリカに干渉するのはやめなさい」と言う。アメリカまだ出来たてのホヤホヤで大して強くありませんが、これが通るんです。なぜか。イギリスがアメリカを応援したからです。イギリスは「そうだそうだ、干渉したらダメじゃないか」という。ヨーロッパ勢はこれで割れたんです。

 結局、メッテルニヒのオーストリアとイギリスの対立で、どっちの意向が通るか。イギリスの意向が通る。イギリスが強いんです。
 それはラテンアメリカの独立を応援するためではありません。イギリスは何をしたいか。南アメリカを独立させて、自分たちの有り余る製品をここに売りつけたいんですよ。だからイギリスは、南アメリカからスペインの力を排除したいのです。イギリスは市場を求めているのです。イギリスの貿易の市場とするためです。アメリカはまだできたばかりで、それほどの購買力を持っていません。だから製品を売りつける市場が他に必要なんです。

 これで「前に戻そう」というヨーロッパのウィーン体制も壊れていった。イギリスが別の体制をつくろうと壊したんです。だからウィーン体制というのは表面上のことで、実際にはイギリス主導で別のことが進行していきます。でもそれをトレースしていくのは、けっこう分かりにくいことです。なかなか表面にはでてきませんから。

 当時(ナポレオン戦争後)の中南米の最大の貿易相手国は、宗主国のスペインなどではなく、国際貿易全体のかなりの部分を握っていたイギリスであり、中南米は経済的にイギリスの影響が強かった。そもそもコロンブスらが15世紀に中南米まで探検に出かけたのは、スペインがキリスト教を強化する目的でユダヤ人に追放令を出し、ユダヤ資本家(スファラディ)は探検費用を出して新天地を探す必要があったからだ。その流れで、スペインやポルトガルから中南米に移民した人々の中にはユダヤ人が多く、彼らは貿易や経済を握り、スペイン系(クレオール)のエリートとともに植民地経営を動かしていた。
 中南米では、ユダヤ人の経済的影響力が大きく、イギリスとの経済関係が強いとなれば、イギリスな貿易独占権の強化をねらって中南米を独立させる際、均衡戦略にそって、大陸内の拮抗状態が生じるような分割的な独立を誘導することは十分に可能だ。イギリスは、中南米各地の有力者に対し、バラバラに独立支援すればいいだけだった。
 中南米の独立戦争の英雄としてグラン・コロンビアのシモン・ボリバルとアルゼンチンのホモ・デ・サン=マルティンが有名だが、ボリバルは外交官としてイギリス勤務の経験があるし、サン=マルティンは独立戦争支援のために1812年に欧州からアルゼンチンに戻る際、イギリスにあった中南米独立運動の組織と会合した後、英軍艦に乗ってアルゼンチンに上陸した。イギリスは、中南米の独立を支援していた。
 かくして1810~20年代に中南米は独立したが、ナポレオンが追放されて一段落し、復活したスペイン政府は、中南米の再植民地化を画策し、新政府となったフランスと結託して動き出した。全盛期に英との植民地争奪戦に敗れて北米から撤退したフランスは、新大陸の支配復活が夢だった。イギリスはこの動きを防ぐため、得意の均衡戦略の方式で、アメリカに呼びかけて米英が組み、スペイン・フランスに警告を発して翻意させることを目指した。
 しかし、アメリカは全く違うことを考えていた。モンロー大統領の米政府は、イギリスからの誘いを断って、単独で、スペイン・フランスに対して警告を発した。これが(1823年の)モンロー宣言である。この宣言は同時に、イギリスへの敵対的な警告にもなっていた。・・・・・・イギリスは、せっかく中南米を英国式の均衡戦略で独立させたのに、アメリカに漁夫の利を取られてしまった。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P88)


 こうやってイギリスの支配が南米地域に及んでくる。南アメリカは今でもイギリスとアメリカの影響下にあります。経済的には今もです。だから南アメリカとアメリカは、同じアメリカでも仲が悪いです。「同じアメリカ大陸だから仲が良い」と考えたらダメです。逆です。イギリス・アメリカに支配されてきた歴史があるからです。
 これで終わります。ではまた。


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