ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

「市場原理主義」批判と「市場原理」 1

2010-06-12 20:34:41 | 小泉竹中改革

筑波学院大学紀要4 2009  「市場原理主義」批判と「市場原理」 より
http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2009/02SUZUKI.pdf


1.本来の市場原理と市場原理主義批判

1.1 市場原理とは何か?

2008年10月23日、米連邦準備制度理事会の議長を18年勤め、好景気時代に金融政策のマエストロと称賛されたアラン・グリーンスパン氏が謝罪した。
9月に発生した米国発金融危機の元になったバブルを防げなかったことを公聴会で追及されてのことだ。
在任中規制緩和を促進する等、市場経済の機能をとくに信頼した姿勢をとっており、部分的にではあるがこれを誤りと認めた。
「市場原理主義」への批判はここへ来て激しさを増した。
日本ではこの危機に先立ち、二年ほど前から「市場原理主義」への批判が目立っている。
ただ、論者によって想定する対象の違うことが推測されたり、「市場原理主義」と言うべきではなく、単に個別の規制緩和を問題にしているとしか思えないものもある。
市場経済に対し質の悪い仮面を仕立て上げ、それを批判攻撃していると見られる言論もある。
ここでは、少しく整理をし、検討を加えておきたい。
そもそも、本来経済学が口にする
①「市場(競争)原理」と、
②(経済論壇で言う)「市場原理主義」の間には、
誤解を生みやすい部分がある。
①の使用例は、「一般財の価格は、市場原理に従って決定されるが、公共財など
の価格は必ずしもそうではない。…」などと言う場合に相当する。
この場合の「市場原理に従う」は、「市場メカニズム」=「価格競争メカニズム」の作用に、財サービスの価格や取引数量、雇用ひいては企業の消長をも委ねることと同義である。
「市場の原理にしたがって」とは、「市場の指し示す数字を信号として、消費者や企業、政府が行動する。」
ということである。
この言葉には、使い方ではほぼ同義と見られる「競争原理」という亜種も存在する。
この場合の「競争」とは、経済学的には市場取引における「価格競争」と理解できるが、『教育に競争原理を導入するのはいかがなものか』と言うような使い方をする人々は、経済学の「競争」ではない普通名詞としての競争をイメージしていて、価格
の部分は意識にないものと想像できる。
一方、経済論壇で数種類の人物群が攻撃を行っている対象は、文言上②の「市場原理主義」というものである。
この場合は宗教上の「原理主義」つまり、「キリスト教原理主義」や「イスラム原理主義」などと同じような使い方と見られる。
自らの非難の対象者が、”市場を絶対”と見ているであろうから、論者たちはそれを「市場・原理主義」と名付け、相手を「市場原理主義者」と呼んでいるのである。

1.2 ソロス・榊原の「市場原理主義」と経済学の市場原理

市場原理主義と言う言葉が世に出たのは、元々は、1998年にジョージ・ソロスがその著作1)で、“MarketFundamentalism”と言う言葉を使った頃とされる。
”経済の全てを市場に委ねれば社会の繁栄と公正が約束される。
市場への干渉は社会的幸福の減少をもたらす。”といった考えが「市場原理主義」と見られるが、著名な投資家ソロスはこれを批判したわけである。
日本では、榊原英資がソロスに先立ってこの言葉を提示している2)。
資源配分上の効率性つまり「生産とそれを通じる財サービスの豊かさ」と言う意味での『繁栄』は、前節①の示す価格の働きにより市場がもたらしてくれる。
しかし、所得分配上の不平等解消を『公平さfairness』ととらえるなら、それは市場原理ではもたらされない。
これは、現代経済学での共通認識である。立法や行政など公的な力と政策、あるい
は規制もなければ、少なくとも経済的公平性は達成されないはずだ。
これが、とりわけ厚生経済学理解の大前提である。
ここでは、問題あるものとして、当然①ではなく②の理解を想定する。
つまり、メディアなどで批判されている「原理主義」は、「経済取引(その財の価格と取引量)やそれにかかわる事柄の決定を、すべてにおいて市場価格による調整メカニズムに委ねること、そしてその結果が経済運営上(主に資源配分上)常に(効率性だけでなく公平性の見地からも)望ましいと考える立場。
また、その考え方に則って、社会経済上の仕組みを構築運営せんとする立場」と考える。
グローバルな視点を加えれば、「市場原理というシステムを遍く世界中のあらゆる経済、社会の決定に適用し、またその採用を国境を越えて求めるべく圧力を各国に加える立場」と表現することもできよう。

2.歴史的展開:“レッセフェール”の復興

2.1 ケインズ主義”の台頭と後退

まず、歴史を見ておこう。
第二次大戦後、米国の産業経済は大戦前から続いて自動車や航空機等の大企業を中心とし、オートメーションを駆使した大量生産で世界の先頭を切っていた。
消費経済もこれに対応して、大量消費の時代を迎えていた。
いわゆる
“フォーディズム”3)と言う言葉で代表される産業構造である。
この構造は、ルーズベルトのニューディール以後導入されたケインズ的公共投資支出政策と整合的なものでもあった。
ヘンリー・フォードの逸話にもあるように、労働の使用者である企業が従業員に高い
給料を払えば、それが大量の需要という形で企業に還ってきて、それがさらなる大量生産を引き起こし、生産がさらに向上するというものだ。
そのきっかけを政府財政が作るべきだとというのがケインズ的政策である。
難解なケインズの原著を現在のテキストにあるように定式化したのは、米国ケインジアンすなわちL.R.クラインやA.H.ハンセンであった。
このケインズ主義的政策観は、ジョンF.ケネディ大統領や「偉大な社会」演説の
リンドンB.ジョンソン大統領のころまでは、高福祉政策とともに米国の経済社会を成長させ安定させる政策として確固たる地位を築くかに見えた。
経済学のテキストでは、クライン・ハンセン時代以降発展したケインズ的マクロ経済理論と貨幣市場論、これに新古典派の市場機構理解を組み合わせた「新古典派総
合」あるいは「ニューエコノミックス」とよばれた内容が、これに相当する。
ケネディのスタッフとなったJ.トービンや「新古典派総合」を広めたP.Aサミュエルソンらがその代表である。

しかし、ケネディによって始まったインドシナ紛争への介入が、ベトナム戦争へと本格化し、軍事支出による莫大なドルの世界経済への流出をもたらし、日本や西ドイツのキャッチアップによる国際競争力の低下で貿易赤字の増大が起こり、さらに1973年秋からの石油価格の高騰(第一次石油危機)に端を発するインフレーションが、悩める米国経済に追い打ちをかけた。
しかもこのインフレーションは景気後退や不況の時にもしぶとく残った。
ケインズ経済学的枠組みでは不況の時物価が上昇するという発想は出て来にく
い。
このインフレと景気停滞(スタグネーション)の併存をスタグフレーションと呼び、累積する米国政府の赤字とともに、ケインズ経済学の枠組みでは解決困難という見解が優勢となった。

2.2 ケインズ政策批判から再びの“自由主義”へ

この
①スタグフレーションや
②国際競争力低下と貿易赤字、
④ドルの信任性の低下、
⑤財政赤字、
等々の状況が重なり、政策の主流であった米国ケインジアンの経済学は批判を浴びた。
当然この頃から、ケインズ的財政支出主導の経済政策に疑問が提示されるように
なった。
「大きな政府」というのはまずいのではないか。
財政支出による経済の安定や成長の達成は、国家財政の赤字累積やドル価値
の下落など副作用が大きく、その割りには輸出などにも貢献せず、米国の世界経済での地位は落ちるばかりではないか。
このような批判が主流であったケインズ主義的政策や新古典派総合に向けられだしたのが、1970年代後半であった。
クラインやハンセン、サミュエルソンに代表される、米国ケインジアンの「新古典派総合」は、通常の市場経済の運行の中にケインズモデルを取り込んだものである。
しかし、本来ケインズは市場の機能に不信をもつ立場であったので、攻撃はジョーン
V.ロビンソン4)など英国ケインジアンからもあった。
政治的にはジョンソンの後を受け継いだ共和党のニクソン大統領、フォード大統領の共和党政権下で米国はベトナム戦争の泥沼から抜け出すことになったが、世界経済での相対的地位の低下は引き続いた。
次の民主党カーター大統領もその延長上にいた。
この間ソビエト連邦の軍事力は最高潮を迎えその一方での米国の政治的経済的もたつきが目立った。
これらが米国民全体に、政治の保守化をもたらしたと言われる5)。
1980年代、政権交代を機に米国や英国で経済政策の基本思想がケインズ的なものから、新しい自由主義的なものに転換された。
批判や抵抗も多かったが、それでも公的部門への介入を重視する米国型ケインズ的政策に変わって、ミルトン・フリードマンの新自由主義的政策が取って代わった。
「大きな政府」から「小さな政府」への転換と言われた。

カーターを破った共和党のロナルド・レーガン大統領がきっかけになった。
レーガン政権の経済政策つまりレーガノミックスは、それまで40年近く支配的であったケインズ主義的政策スタンスから一転して、福祉など国家の介入より市場機構の自由な運行を重視する「新自由主義」と呼ばれる立場に基づく政策群であった6)。
産業構造の観点から、自動車産業など製造系大企業中心の経済から現在のような金融系企業が主導する経済に転換したのはこのときだとする意見7)もあるほどだ。

その考えに沿って言えば、このレーガン期の転換こそが結果として、今回の金融経済破綻へと続く一連の流れを作ったとも言える。

レーガン期以降、民主党クリントン政権時(貿易や福祉政策での変化はあるものの)も含め、基本的に米国国内の規制緩和や減税、他国に対する金融市場開放要求など自由主義的スタンスは変わっていないからである。

2.3 新自由主義とグローバリゼーション

「市場原理主義」は、80年代以降のレーガン政権や、それを支えた自由主義を掲げる学者たちを含めた「新自由主義」と呼ばれる思潮の根底である。
これは新古典派経済学の市場理論を前提とする。
各市場での自由な価格の動きに任せておけば、労働や資本(機械設備や住宅、在庫品)などの生産要素は最も効率の良い生産プロセスに配分され、生産物は最もその品物を高く評価してくれる消費者のもとに届く。
つまり経済社会全体としては、資源を最も効率よく使い、最大の満足を得ているのであるから、これには誰も反対できないであろう。
これが、枝葉を切り払って極く簡単に表現した「新古典派経済学」の市場分析(厚生経済学)の市場評価である。
現在世界中の大学で講義されている伝統的ミクロ経済学の市場観である。

その議論を政策論上の象徴を用いて「小さな政府」論と呼ぶが、これと「市場原理主義」をほぼ同義、特に実効上同義と見ている人も多いようだ。
フリードマンに代表される論者たちは以下の如くに言う。

「政府や中央銀行政策上の主な仕事は、財政や金融で何か経済に仕掛けることではない。
ミクロ経済では円滑な市場の運行を邪魔する規制などを取り除き、独占や寡占を排除するなどして価格競争や技術競争を促し、
マクロ政策では通貨供給量変動率や物価上昇率くらいに目を光らせておくべきだ。」


という立場である。

彼らは通貨供給量を監視すべきとする主張から“マネタリスト”の名でも呼ばれ、小さな政府論者はこれとほぼ同一視される。
労働に関しても市場原理を重視し、労働需要と労働供給の自由な動き、つまり競争の中で賃金が決まるべきであり、より良くより多く働く者に多くの報酬が行き、企業も個人も怠け者は労働市場から淘汰されるのは当然と考える。
かくして、新自由主義者、マネタリストは人々から労働のインセンティブを奪う過大な福祉予算などは経済に有害であるとし、財政赤字削減の必要性を訴える声とあいまって、それまでの高福祉国家のあり方を再考させる論陣を張った。

2.4 レーガノミックスとサッチャリズム

この思想を具現化したものがレーガノミックスである。
この頃米国では経済だけでなく、政治的文化的にも急激な保守化の波が所得中流以下の階層に押し寄せていた。
これを
「保守化ムーブメント」8)と言う。
その中で大統領になったロナルド・レーガンはそれまでの大きな政府、すなわちケインズ的政策、福祉国家指向の政策を一転させた。

レーガノミックスの特徴をあげると、次のようになる。

(1)自由競争、自由貿易重視を基本にして、国民に労働意欲の惹起、自助努力、貯蓄の増加を求め、福祉予算を削減し、減税を行う。
(2)企業への規制を緩和し、生産効率の向上を期待して投資減税を行う9)。
(3)M.フリードマンなどマネタリスト的なスタンスでマネーサプライの伸びを監視規制し、インフレーション抑制重視のマクロ経済政策を行う。
(4)ソビエト連邦との緊張緩和路線を捨て、対決路線をとり、戦略防衛構想(“スターウォーズ計画”)など、軍備予算の拡大充実を行った。

つまりレーガノミクスは、マクロ経済ではマネタリスト、加えて生産側を重視するいわ
ゆるサプライサイドエコノミックス、対ソビエト強硬路線の軍備支出増大、この三者の複合と見ることが出来る。

一方、英国では保守党のマーガレット・サッチャー首相が登場し、英国経済に荒療治を行った。
当時英国は「大きな政府」の政策スタンスの下規制が多く、産業の一部は国有化され、保護政策により貿易上の競争力も低下し「英国病」とまで揶揄されていた。
一方で高福祉政策を継続し、財政赤字は拡大していた。
サッチャーはこれに「規制緩和」「国営企業の民営化」「福祉教育費の削減」などの政策で答えた。
また、とくに英国の主要産業であるシティなどの金融について「金融ビッグバン」と呼ばれる大幅な規制緩和を行って、海外から英国金融界への資本の流入を促した。
国全体としての生産力向上を重視したが、一方で所得格差などは広がった。

ところで、次に示す“ワシントンコンセンサス”はこの自由主義的思考を、国境を越え
て世界に遍く広めるべきとする立場をプログラム化したものである。
”世界中のあらゆる経済で様々な規制を撤廃するべきで、これにより人、モノ、カネ(資金)がどこにでも自由に流れ、結果世界中の生産性と消費者の厚生が高まり、互いに豊かになり、経済の諸問題解決にも有効である。”

すなわち規制の撤廃で、国境を越えたレベルでも自由な市場活動がなされれば、価格機構の働きで効率的資源配分が達成され、関係国国民の”総体”としての経済的厚生水準は上がる”と言う理屈である。

2.5 自由化提言戦略ーワシントン・コンセンサスー

レーガン・サッチャーに見られる経済政策の反ケインズ的、自由市場重視の大転換のなかで、貿易や資本移動に関しても、この新手の自由主義的な姿勢は貫かれた。
とくに、この新自由主義の広がりに重要な役割を果たしたのは、“ワシントンコンセンサス”と後に呼ばれる自由主義的な合意事項であった。

ワシントンコンセンサス”はP.クルーグマンや世界銀行の副総裁も務めたJ.E.スティグリッツ10)の指摘によっても著名になった。
もともと発展途上国や中南米諸国の累積債務問題や経済混乱にIMF(国際通貨基金)、世界銀行が対処する中で確立された。
自由主義的、自由貿易主義的経済運営方針を羅列した10項目ほどの内容である。

旧ソビエトの崩壊など共産圏の崩壊で経済への国家介入政策の権威が凋落し、世界には自由主義の雄、レーガン・ブッシュの米国が唯一の超大国として残った。
従って経済的に困難な国々に対しては、米国と同じようなスタンスで経済を運営して行けば困難は収束し、いずれ米国と同じように豊かになれるという教義のみが残されたのであった。

具体的には
①補助金のカットなど財政赤字解消のための緊縮財政、
②課税対象を広く薄くし税率引き下げを行う、
③貿易の自由化、
④金融市場の開放とくに短期資本移動の自由化、
⑤金利の自由化、
⑥直接投資の自由化、
⑦公営企業の民営化、
⑧国際的M&A等が自由に出来るための様々な規制緩和、
⑨所有権法の確立変革、
⑩適切な為替レートの維持、
などの内容である。
つまり、
小さな政府、
規制緩和、
民営化、
市場とくに金融市場の解放
という言葉に集約される内容である。
これは後の小泉構造改革とほぼ同一路線である。

しかし、とくにIMFの指導に従った当時の経済困難国の国民にとって、これら政策の評価はどうであったろうか。
ソビエト崩壊後のロシアではIMFの勧告に従った経済政策がとられ、共産主義経済から極端な自由主義経済化が強行され、GDPの縮小や失業の増加など混乱が続いた。
この経済混乱が収まったのはプーチンが登場してからだった。
その間の非富裕層の苦難は報じられたとおりである。
ロシアでは当時発生し始めた経済格差がさらに広がり、現プーチン体制下の”復活したロシア経済”でも依然問題になっている。

1997年の東アジア経済危機では、韓国、タイなどもIMFの推奨する自由化政策を採らざるを得なかった。
韓国では、自由化を受け入れる一方で、さらに政府により財閥間で産業部門別割り当てや統廃合が行われるなど荒療治がとられた。
混乱は急速に収まったが国民の犠牲的貢献があってのことである11)。

2.6 グローバリズム

自由市場主義者にとってその政策を国際経済に拡張しない理由はない。
とくに財サービスや資金(企業)の自由な移動、拡張、活動、を保証すべきだという立場をグローバリズムと呼ぶ。
また、企業などの世界的な展開などをグローバリゼーションと呼ぶ。
これに反対するのが「反グローバリゼーション運動」すなわち、サミット会場などの大きな経済関係会議の周辺で毎回、激烈な反対運動が展開されるもので、これはよく知られている。

効率的資源配分が国境を越えて実現し、多国間で生産や消費がトータルで最大効率の最大満足の状態になると新古典派経済モデルは言っている12)。
しかし、ミクロ経済学や厚生経済学の教科書に、断り書きも載っているはずだ。
この自由市場経済の効率性を評価する場合、所得分配の平等性という別の観点か
らの評価は入っていない。
不平等の是正は立法、行政の判断で財政などを通じて各国が行えば良いというのがこの立場である。

新古典派経済学は、あくまで資源配分の効率性のみの限定的評価のうえで自由競争市場経済の優位点を指摘しているのであって、市場機構万能論を言っているのではない。
所得の分配のことは何も言っていないのである。

人々の所得格差や、その拡大による社会の不安定などは政治にお任せしますと言っているのである。
よって例えばソロス(1999)が指摘するように、市場原理優位論の国際経済への単純な適用、他国への押しつけに際して、公正な分配まで市場の力で可能である、と言い切っている論者がいれば、それは新古典派理論の甚だしい誤用となる。


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
マルテンサイト千年ものづくりイノベーション (鉄の道サムライグローバル)
2024-08-11 23:34:58
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
返信する
これはトートロジーではない (マルチスケール)
2024-08-13 18:21:35
「材料物理数学再武装」か。関数接合論ですね。
1/h^n=1/f^n+1/g^n、
第一式おもしろい着想ですね。マクロ経済学のホットな話題として財政均衡主義と現代貨幣理論(MMT)の競合モデルの方程式や関数なんてものはできないのでしょうかね。
返信する

コメントを投稿