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新「授業でいえない世界史」 32話の2 19C前半 イギリス

2019-08-25 09:38:03 | 新世界史12 18C後半~
【ウィーン体制】  こういうふうに表面上はフランスによってヨーロッパ中が、かき回されたんです。しかしフランスのナポレオンが敗れたというのが結論です。ナポレオンは勝ったんじゃない。イギリスに敗れたんです。勝ったのはイギリスです。

 この後、「ヨーロッパをどうしようか」という会議をヨーロッパ全体で開く。どこで開かれたか。やっぱりヨーロッパの800年間の中心であった神聖ローマ帝国でしょう、ということになりますが、その帝国はナポレオン戦争中の1806年に消滅したんです。
 そのあとを継ぐのがオーストリア帝国だった。オーストリアの首都はウィーンです。そこで開かれた会議だからウィーン会議といいます。1814年です。

 目標は秩序回復です。そのウィーン会議の中心となったのが、そのオーストリア帝国です。その外務大臣のメッテルニヒという人です。しかしこの人にこのあとの世界を動かしていく力はありません。本当に力を持っているのはイギリスです。

 この会議(ウィーン会議)はオーストリアの宰相メッテルニヒの主催だったが、実際に会議を誘導したのはイギリスで、欧州大陸の諸大国どうしを拮抗した力関係の中に置くことで、島国のイギリスが漁夫の利を得られる新政治体制が組まれた。・・・・・・イタリアドイツをそれぞれ統一して建国することが予約的に了承され、両地域では統一国家建設の運動がさかんになった。独伊が建国されることで、フランスは両地域に再侵略できなくなり、欧州大陸は同じぐらいの大きさの国々が割拠する均衡状態に近づいた。独伊の建国は、英の均衡戦略によって誘導されたものだった。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P78)

 メッテルニヒはウィーンのサロモン・ロスチャイルドとの関係が深かった。サロモンは支配下のメッテルニヒをロスチャイルド家の「側仕え」に過ぎないと見なしていた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P140)

※ ウィーン会議は国際銀行家によって牛耳られた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P68)

※ ナポレオン戦争のときには、ロンドンに拠点を置くユダヤ系銀行家たちは、イギリスにもフランスにもオーストリアにも金を貸しました。・・・・・・自分たちの金融力を使ってヨーロッパ新秩序を作ろうというのが、彼らの隠された目的でした。かくしてイギリスのカスルレー、オーストリアのメッテル二ヒ、フランスのタレーランなど、歴史の教科書に出てくる人たちを動かして、新しいヨーロッパ秩序を作っていったのです。ナポレオン戦争後のウィーン会議で、ユダヤ系国際銀行家によるヨーロッパ支配が始まったと考えていいでしょう。(「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった 馬渕睦夫 WAC 2014.10月 P52)

※ 1815年のウィーン会議以後、ユダヤ人は大挙してゲットーを出て、政府の役職に就き、教育界や銀行界に進出した。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P190)

※ 1817年、13歳のディズレーリ(のちのイギリス首相)は、イギリスのネイサン・ロスチャイルドの命令で、ユダヤ教からキリスト教に改宗する。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P75)

※ 1815年のウィーン議定書で永世中立国となる。
※ 戦争を嫌ったからスイスは永世中立国になったわけではありません。・・・・・・スイスの永世中立国化は国際金融資本家の利益のために計画されたのです。・・・・・・スイスのバーゼルには世界の中央銀行の「中央銀行」である国際決済銀行( BIS )が置かれることになります。また、スイスの永世中立国化に伴い、ジュネーブがスイス領に編入されました。それから約100年後、ジュネーブの地にユダヤ人が主導した国際連盟の本部が置かれたことを考えると、スイスの中立化は決して偶然の出来事ではなかったのです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P96)


 この会議は宴会ばかり開いて結論が出なかった。1814年から1815年にかけて1年近くかかって、「議会は踊る、されど進まず」です。夜の舞踏会ばかり開いて、まったく先に進まなかった。
 目標は正統主義という。「正統にするんだ」という。では何が正統か。「フランス革命の前の状態が正統だ」とする。前に戻すことが正しいことだとする。「そうしましょう、ウィーン議定書というのに各国で印鑑を押しましょう」とこういうことになる。前に戻るのであれば神聖ローマ帝国も復活するはずですが、神聖ローマ帝国だけは復活しません。これから世界を股にかける大英帝国になろうとするイギリスにとっては、神聖ローマ帝国は邪魔なんです。

 そのあと、各国が二つの同盟を組む。この時のヨーロッパは王様がいる国と、いない国に分かれつつあります。王様がいる国は神聖同盟を組みます。ロシアのアレクサンドル1世の呼びかけで、プロイセン、オーストリアが結成しますが、これにはイギリスは加わりません。
 これに対してイギリスは別の同盟をつくります。これが四国同盟です。イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアが結成します。その中心にイギリスがあります。

 ロシアのアレクサンドル1世の提唱による神聖同盟に、ロスチャイルド一族はすぐさま反対の立場を表明した。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P272)

※ ユダヤ教徒のロスチャイルドにしてみれば、キリスト教国による同盟は脅威です。神聖同盟以降、ロスチャイルドとロシアの対立は長く続きます。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P105)

※ ナポレオンをロシアから敗走せしめたロシア皇帝アレクサンドル1世は、戦後秩序の指導者を自任していました。そこで、キリスト教国による神聖同盟を提唱したのです。・・・・・・このロシアの呼びかけに応じたのはオーストリアとプロイセンでした。・・・・・・敬虔なロシア正教徒であるアレクサンドル1世は、ヨーロッパを戦乱に導いた諸悪の根元が国家の反宗教性にあるとみていたのです。・・・・・・
 当然のことながら、何よりもユダヤ教を敵視するキリスト教国の団結という「神聖同盟」の構想に嫌悪感を示したのが、ロスチャイルドを筆頭とする国際金融勢力でした。・・・・・・アレクサンドル1世はロスチャイルド家の怨念を買う羽目になってしまったのです。アレクサンドル1世は当然のことながら、ロシアに中央銀行を設立すべきだとのロスチャイルドの提案にも同意しませんでした。・・・・・・ロスチャイルドたち国際金融資本家は、イギリスを皮切りに各国に民間の中央銀行を設立していきました。世界の通貨発行権を握ろうとしたのです。・・・・・・ロスチャイルド家たちのヨーロッパ金融支配に挑戦したロシア皇帝アレクサンドル1世はやがて不審死を遂げることになります(1825年旅行中に急死)。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P89)


  フランス革命は失敗。ナポレオンは島流し。そのあとの中心はオーストリアではなく、イギリスです。イギリスが圧倒的優位を確立する。
 なぜか。この間に何が起こっていたか。イギリスでは産業革命が進行中です。さらにイギリスは、アメリカや、中国、東南アジア、そしてインドなどへ進出する足がかりを築いています。ヨーロッパが「やれフランスだ、やれナポレオンだ」と戦争ばかりしているときに、イギリスでは着々と産業革命でお金を稼ぎ、同時に植民地を獲得しています。




【各国の動き】 ウィーン会議の結論は「もとに戻ろう」ということです。フランスにもまた王様が復活した。庶民は「なーんだ」とがっかりする。「革命を前に進めよう、それを前に戻ってどうするのか」。そういうウィーン体制に対する反対です。ナポレオンに対する反対ではなくて、ウィーン体制に対する反対が起こってくる。これが自由主義です。一言でいうと、「王様反対」みたいな感じです。
 そこからナショナリズムが起こる。これは漢字に直すと二つ意味があって、一つは国民主義、もう一つは民族主義と訳されます。国民や民族が自由を求めたということです。自由を求めたフランス革命はうまくいかなかったのですが、一度開かれた扉はなかなかもとに戻りません。

 でもこの動きはバラバラに起きて統一が取れません。ドイツ・イタリア・スペイン・ロシアなど、時間も国もバラバラです。一応早い順に並べていますが、繋がりはありません。
 ドイツでは学生を中心に反対運動です。当時の学生はお金持ちの大土地所有者の息子たちです。これをブルシェンシャフト運動という。1815年です。

 ちょっとブラックなのがイタリアです。氏素性のわからない人たちが、誰にもわからないように、こっそりと人目のつかないところに集まって何かを企てる。こういうのを秘密結社という。秘密結社というと質の悪い漫画みたいですが、ちゃんとあります。教科書にも登場します。
 これがカルボナリ党です。炭焼党ともいいます。スパゲッティーの名にカルボナーラというのがある。「炭焼のパスタ」という意味です。それがカルボナーラですが、そのカリボナリ党です。炭焼き小屋で何かを企てているようなイメージです。炭焼き職人にはギルドつまり組合があって、その組織をモデルとしているようです。
 これは秘密結社だから、メインが誰なのかよくわからない。メンバーが誰なのかもよくわからない。突然でてくる。半分は謎の組織です。でもこういうのは結構歴史を動かします。バカにはできません。1820年カルボナリ党の反乱が起こります。しかしここでは鎮圧される。

 スプリングマイヤーによればこの炭焼党の奥の院は、ロスチャイルド・ミラノ分家のカール・ロスチャイルドその人だという。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P340)


 スペインでは、「何だ、フランスに負けたじゃないか」という不満が起こる。そして南アメリカのスペイン植民地では独立する国が出てきて、ここでも革命が起こる。
スペイン立憲革命1820年です。しかしこれもフランス軍に鎮圧される。

 遅れたロシアでは、1825年デカブリストの乱が起こる。これはロシア語です。いいところの貴族の坊ちゃんたちが、軍人になって将校になっている。彼ら軍人が王様に絶対的に仕えるかというと、「今度の新しい皇帝のニコライ1世はおかしいんじゃないか、王様なんかいらないんじゃないか」と疑問を持ちだす。
 ただこういう貴族に対して、ロシアの農民はまったく信用していない。ロシアは階級社会で、貴族と農民の信頼関係がない。だから農民を引き込もうとしても、農民は「イヤイヤ、あんたたちは信用できない」と言う。ずっと痛めつけておいて、急に「オレたちといっしょにやろう」といっても、それは無理な話です。



【イギリス】
 こういう動きにどこが入っていないか。イギリスです。イギリスでは、反乱とか政治的動乱は起こっていない。というよりイギリスの王は100年以上前に政治の実権を失っています。その後イギリスは、しっかり植民地を獲得してお金を貯めています。
 何も起こらないと事件にならないから目につきにくいのですが、イギリスで起こっていることは非常に大事なことです。イギリスはフランス革命中から着々と準備を進めています。このことが大事なのです。

 フランス革命は、イギリス繁栄の影に隠れたあだ花に過ぎません。ナポレオンは島流しになったにもかかわらず、なぜか200年近く英雄として祭り上げられていきます。しかしそれはイギリスがやっていくことに比べれば小さなことです。

※ ナポレオンを打ち負かして欧州最強の状態を維持した後のイギリスは、欧州大陸諸国が団結せぬよう、また一国がき抜きん出て強くならないよう、拮抗した状態を維持する均衡戦略を、外交的な策略を駆使して展開し、1815年のウィーン会議から1914年の第1次大戦までの覇権体制を実現した。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P81)


 そのイギリスの動きです。1800年代、次々に植民地を占領している。
 まずインドです。首都デリーを占領する。これが1803年です。まだナポレオンと戦ってる最中です。ナポレオンと戦いながら、一方ではしっかり植民地でも戦っている。ポイントはインドです。最後までイギリスが手放さなかったのはインドです。
 さらに5年後の1808年中国マカオ、ここを攻撃する。
 そして同じ1808年、日本の長崎に乱入します。これをフェートン号事件という。イギリス船が長崎湾に侵入し、大砲をぶっ放すという事件です。これが明治維新とどう結びつくかというのは長くなるから、日本史の時間に回します。



【アメリカ第一銀行】 それからアメリカ第一銀行の成立。1791年。これはアメリカのことですが、イギリスが絡んでいます。こういう中央銀行が良いのか悪いのか、アメリカではずっと意見が対立していました。そんな中で、イギリスの影響で強引に中央銀行をつくっていったんです。

 1791年ハミルトンの建議によりアメリカ第一銀行が設立された。ベアリング家が大株主で、ロスチャイルド家も主要な株主であった。初代頭取はベアリング家のパートナーであるトーマス・ウィリングである。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P88)

 ワシントン大統領は、国務長官を務めていたジェファーソン(のちの3代大統領)とマディソン(のちの4代大統領)に意見を求めた。二人は「この(中央銀行設立の)法案は憲法に抵触する。憲法は議会に貨幣発行の権利を授権しているが、議会は紙幣を発行する権利をいかなる民間銀行へも委託する権限をもっていない」と明言した。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P61)


 この中央銀行に対する反対派が3代大統領ジェファーソンです。「こんなものは、ないほうがいい」と。なぜなら、イギリスの金融資本が入ってくるから。「そういうところからお金を借りればイギリスに頭が上がらなくなる」と。

 じつはアメリカ第一銀行の創設に関しては、財務的にも政治的にもヨーロッパの銀行家ロスチャイルド王朝が支配的な権力をふるっていた。  
 ガスタヴァス・マイヤーズの「アメリカ大富豪の歴史」はさらに詳しい。マイヤーズはこう述べている。
「ロスチャイルド家は以前から裏舞台で、アメリカの金融関係法に大きな影響力をもっていた。法律関係の記録を見ると、彼らこそが合衆国銀行の実力者だったことが読み取れる。したがって、ロスチャイルド家はただの投資家ではなく、重要な一員ですらなかった。彼らこそ合衆国銀行の陰の力だったのだ。」
(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P400)

 アメリカ第一銀行には独占的な銀行券発行権が与えられた。・・・・・・アメリカ第一銀行も資本の80%を民間資本から集め、連邦政府は20%の資本を出すだけのはずだった。ただこれは帳簿上の手品にすぎなかった。連邦政府の出資金と同額をただちに政府に融資することが前もって決まっていたからだ。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P399)

 (アメリカ第一)銀行の目的ははじめから連邦政府に融資するマネーを創出することで、民間部門への資金提供はあくまでも二次的な事柄だった。・・・・・・連邦政府は時を移さず新しい中央銀行のメカニズムを発動させた。補足時に200万ドルを「投資」したあと、5年のうちに820万ドルを借りれたのだ。つまり、連邦政府のために620万ドルがひねり出されたことになる。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P401)

 部分準備制度のもとで新しく何百万ドルものマネーが創出され、連邦政府の歳出経由で経済に注ぎ込まれて、マネーの供給と商品およびサービスの供給とのあいだに不均衡が生じた。ドルの価格下落とともに、物価が上昇した。同じ5年のうちに卸売物価は72%上昇した。ということは、人々がドルで蓄えていた資産は42%目減りし、その分だけインフレという名の隠れた税を通じていつのまにか政府に召し上げられたことになる。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P401)


 ジェファーソンは1811年、このアメリカ第一銀行廃止する。イギリス金融資本の圧力から逃れるためです。

 ハミルトンの集権的金融政策に対して、南部諸州は、連邦政府北部諸州イギリスのユダヤ系金融資本が手を結んで南部諸州の経済を支配しようとしているのだと主張し、第一合衆国銀行に対する警戒を強めました。1811年に、20年間と定められていた合衆国銀行の認可期限が切れると、動向を存続させるか否かで各州が対立しますが、上院と下院はともに1票差で、第二合衆国銀行の設立を否決してしまいます。しかし翌年にイギリスとの間に米英戦争(1812~15)が始まったため、戦費を補う必要から、1816年に急遽、第二合衆国銀行が設立されました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P223)

 (合衆国第一銀行は)設立から20年後の1811年に期限切れを迎え、中央銀行法を更新するか否かをめぐり、アメリカ議会で大論争が行われた結果、上下両院ともわずか1票の差で更新が否決されます。そこで、1812年英米戦争が勃発します。中央銀行法を更新させるため、シティーがイギリス政府をけしかけたのです。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P103)

 ジェファーソンは、3代大統領(1801~09)に当選すると、アメリカ第一銀行の廃止に全力を挙げた。・・・・・・  

 アメリカ第一銀行は1811年3月3日に営業を終了した。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P62)

 (アメリカ第一銀行が廃止された翌年の)1812年シティバンクが創立される。アメリカ第一銀行が営業していたその部屋で創立される。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P193)  




【米英戦争】 するとイギリスが腹を立てて、その次の年の1812年から1815年まで米英戦争を起こす。またイギリスとアメリカが戦います。すると独立戦争では負けたイギリスがここでは勝つ。そうやってイギリスはアメリカに対する影響力を持つ。イギリスは1815年にナポレオンとのワーテルローの戦いをする一方で、他方では同時にアメリカとも戦っている。これが歴史の伏線です。でもこのことはほとんど教科書には書かれません。

 ロンドンに駐在していた(ロスチャイルド家の)ネイサンは、アメリカ第一銀行閉鎖のニュースを聞き、激怒し、脅しにかかった。・・・・・・ネイサンは「戦争で植民地時代に戻してやる」と言い放った。  数ヶ月後に、それから3年間にわたる。 米英 戦争(1812年戦争)が勃発した。ロスチャイルドのもくろみは極めて明白だった。アメリカ政府の借金を増やし、屈服させ、自分たちが牛耳っていた中央銀行を再開させることであった。結局、アメリカ政府の債務は、4500万ドルから1兆2700万ドルにドルまで膨らみ、アメリカ政府は1815年に降伏した。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P63)

 米西戦争の実際のきっかけとなったのはメイン号事件ですが、これはいまだに原因がはっきりとしていません。スペインの謀略でアメリカの軍艦メイン号が爆破されたということになっていますが、アメリカの自作自演の可能性があると言われています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P114)

 1812年(米英)戦争は歴史上最も筋の通らない戦争だった。最大の原因は、ナポレオンのフランスとの戦争の戦力として、英国が外洋船のアメリカ人海員を海軍に徴用したことだと言われる。だが英国と戦うフランスもまたまったく同じことをしていたが、その行動は無視された。しかも英国は戦争開始前にすでにアメリカ人海員の徴用を撤回していたから、戦争の原因は取り除かれ、議会さえそう望めば平和が回復したはずだった。アメリカの銀行に近い筋が儲けのチャンスである紛争を望んだと考えるしかないようだ。・・・・・・
 どっちにしても一般市民には戦争は人気がなく、議会としては増税によって戦費を調達するのは論外だった。そこで政府は州法銀行に税構造以外の場でマネーを創出してもらわなければならなくなり、自由市場の規律から銀行を守るために乗り出した。・・・・・・
 ロスバード教授が詳しく語っている。
「アメリカ政府は増加する戦時国債をさばくため、銀行数と銀行券、預金の急増を促した。中部、南部、西武諸州で増加した銀行は、国債購入のために大量の銀行券を印刷した。連邦政府はその銀行券を使って、ニューイングランドで武器や食料を買いつけた。・・・・・・1814年8月、ニューイングランド以外の銀行は正貨での払い戻しが不可能になり、債務不履行に陥ったことがはっきりした。だが1814年州と連邦の行政府は銀行を倒産させる代わりに、正貨との兌換義務を拒否した銀行に営業を続けさせることにした。言い換えれば、銀行は契約上の支払い義務の不履行を認められたのである。・・・・・・以後の金融危機の前例がここで生まれた。中央銀行があってもなくても、銀行がそろってマネーサプライを増加させ、それで問題が生じれば、政府が救済に乗り出すことが保証されたのである。」
 州法銀行がたちまち大量のマネーを創出したので、連邦政府は債務を4500万ドルから1億2700万ドルに増やすことができた。・・・・・・マネーサプライが3倍に増えても商品は増加しないから、ドルの購買力は以前の3分の1に低下した。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P407)

 1812年6月18日、アメリカは旧宗主国イギリスに対して宣戦を布告、いわゆる「米英戦争」が始まる。ナポレオン戦争でイギリスが動けない事を見越したアメリカ側が、カナダを奪い取るための侵略戦争であり、謀略戦争であった。この戦争は「第2次独立戦争」と称されるよう、戦後、アメリカはイギリスから完全なる独立を手に入れる。最大の「戦利品」は、大英帝国通貨「ポンド」からの離脱。これにより、アメリカは自国通貨「ドル」を発行する権利を勝ち得た。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P150)

 1813年イギリスが通貨ポンドを金(ゴールド)との兌換にし、金本位制に移行したのち、当時の列強各国も金本位制に移行した。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P149)



【アメリカ第二銀行】 イギリスは、戦いに勝った翌年の1816年に再度アメリカ第二銀行をつくる。この銀行の実権はイギリスのロスチャイルド家が握っています。これによってまたアメリカにイギリス金融資本が流入する。イギリスのお金持ちたち、つまりイギリスの金融資本がアメリカの産業に介入していくわけです。

 (米英戦争に敗れて)1815年12月5日、第4代大統領マディソンは二つ目の中央銀行設立を提案し、翌1816年アメリカ第二銀行が誕生した。アメリカ第二銀行は20年間の免許を獲得した。アメリカ第一銀行の時と同様、ロスチャイルド家がしっかりと銀行の実権を握っていた。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P62)


 この戦争(英米戦争)の結果、アメリカ政府の債務は約3倍に増大し、深刻な不況に見舞われます。このインフレに対処するため、1816年アメリカ議会は合衆国第二銀行の設立設立法を可決します。第一銀行と同様の民間中央銀行でした。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P103)

 ペンシルヴェニアは1817年に37の銀行を認可した。同じ年、ケンタッキーでも40行が認可された。中央銀行創設後の2年間で、銀行の数は46%増加した。・・・・・・この時期にマネーサプライは2740万ドル増えた。納税者のマネーはまたも40%以上減価した。・・・・・・
 アメリカで初めての意図的な金融締め引き締めは1818年、アメリカ第二銀行が自らの生き残りに不安を感じたときに始まった。・・・・・・恐慌や好況と不況の循環、不景気は、銀行の競争を野放しにしておくから起こるので、すこれを防ぐには政府の規制が必要だ、と広く信じられている。だが真実はまったく逆だ。このような自由市場の混乱は、政府が中央銀行に独占的な特権を与えて、競争を妨げた結果として起こる。・・・・・・
 いわゆる1819年恐慌のときに起こったのがまさにそれだった。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P414)


奴隷制の世紀:連邦準備制度の歴史 中央銀行の真実 Century of Enslavement: The History of the Federal Reserve (2014)


 この中央銀行のことは今の経済を考えるときに避けては通れません。お金によって政治が動く。小学生にはこんなこと言いませんが、やはり有りえる。お金を誰が持って、どこに使っているかは、政治を理解する時にとても大事なことです。

 さらに1813年には、イギリスは自由貿易をしたいから、今まで独占貿易に頼っていたイギリス東インド会社のインド貿易独占権を廃止する。
 イギリスはこの時は自由貿易です。強いときは自由貿易をする。そして弱くなると保護貿易に変わる。最近のアメリカのように。過去のイギリスもそうです。最初に自由貿易をやったのはイギリスです。しかしあと30年もするとアメリカが追い上げてきて、イギリスは保護貿易になる。コロコロと自分の都合で貿易体制を変えていきます。



【イギリスの金本位制】 さらにそのイギリスには中央銀行がすでにある。前にも言いましたが、これをイングランド銀行といいます。この銀行が「紙幣を発行していい」という政府のお墨付きをもらう。1815年に国のお金を発行する。つまり「発券銀行」となり、さらに「政府の銀行」となります。こうやってお墨付きをもらい、正式な中央銀行となります。
 そのイングランド銀行の大株主となるのが、ロスチャイルド家です。ここにはちょっと黒い噂は前々からあった。「銀行に紙幣を発行させていいのか、その会計が不透明じゃないか」という話があったんですが、「正しい政府の銀行だ」と政府によって認められていく。このことによって、イギリスではお金持ちの銀行家・・・・・・彼らを金融資本家といいますが・・・・・・彼らがますます力を持っていく。
さらにイギリスは海外に植民地をもっています。

 この時代のお金は、今のお金よりもある意味で進んでいるんです。
 というのは、アメリカのドルをいくら日本に持ってきても使えないでしょう。逆に日本の1万円札をいくらアメリカに持っていっても使えない。お金は国家限定の貨幣だから。しかしこの時代のお金は、本当は金(キン)なんです。金貨だったら鋳つぶしてどこの国に持っていこうと、日本に持っていこうとアメリカに持っていこうと、金(キン)に変わりはないからどこでも通用するんです。
 だから紙幣を発行する一方で、そのぶんの金(キン)を銀行の金庫に蓄えて、本当のお金は金(キン)だという形をとる。そして「いつでも本物の金(キン)と交換できますよ」という形を取ります。このことをしたのはイギリスが最初です。これを金本位制という。これを翌年の1816年にイギリスが確立する。

※ 20世紀初頭、金の世界的保有国は、アジア各国、中国インドであった。・・・・・・18世紀までの先進国はインドや中国であった。・・・・・・圧倒的な武力でアジアを植民地化したヨーロッパ列強は金(ゴールド)の強奪を開始する。その典型的な例が、アヘン戦争(1840年)であろう。・・・・・・ヨーロッパ列強は、アヘン戦争に代表される強引な戦争と、近代的な武器や機械などの輸出で、アジアから金(ゴールド)をかき集めていった。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P155)

※ (リカードはイギリスの)紙幣発行を金貨にリンクさせる必要があると論じました。それに対し、ポンドの低下で輸出が有利になっていた商人や、金との兌換を復活させたくない銀行は猛烈に反対しました。1819年、ピール委員会の提言に基づき、段階的に紙幣と金貨の兌換を復活する法案が議会で可決されます。1921年5月に、イングランド銀行で紙幣をいつでもソブリン金貨と交換できることが定められ、紙幣の兌換が復活しました。その結果、イングランド銀行には金本位制というタガがはめられることになり、ポンド紙幣が信用を復活できたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P175)


 では紙の1万円札とは何か。本物の金(キン)との引換券です。これが金本位制です。イギリスが金(キン)が本物のお金だとしたから、他の国もそれに習って金(キン)が本物だとする。
 つまり、外国との貿易取引の時、金(キン)をやりとりすれば良いんです。これは今よりも簡単なシステムです。日本人がアメリカ人に何か売りたいときに、アメリカ人からドル紙幣をもらったって迷惑でしょう。君たちが1万円のものを売りたい、スマホを売りたいといったときに、アメリカ人からドル札をもらったって日本では使えない。ではそのドル札をどうやって円に替えるか。これは考えていくと結構難しい。金(キン)ではそれが簡単にできた。

※ 1815年、イギリスがセイロン(スリランカ)を領有する。


 1816年、イギリスは自由貿易を求めて、アマーストを団長として中国に2度目の使節団を送る。

 1817年、イギリスが第3次マラータ戦争が起こし、インド全域を支配する。


 イギリスは1819年にはどこをとったか。シンガポールを買収した。ラッフルズというイギリスの行政官によって。今や東南アジア最大の貿易都市、金融都市です。小さな島ですが、がっぽりお金を持っている。日本人よりもはるかに持ってます。



【アヘン貿易】 さらに1820年代以降に中国に何を売り込むか。アヘンを売り込む。麻薬です。20年後の1840年にはアヘン戦争が起こります。

 1825年南アメリカの鉱山会社への過剰融資が破綻して、ロンドンの金融街シティ発で「世界初の世界恐慌」と呼ばれる金融危機が起こり、イングランド銀行の経営基盤が揺らぎました。その時に、ロンドン・ロスチャイルド銀行のネイサンは、ロスチャイルド一族のネットワークを利用してヨーロッパ中から「」を集めることでイングランド銀行の信用を守り通し、同様に危機に陥っていた地方銀行にも資金をテコ入れするなど、宮廷ユダヤ人としての力量を遺憾なく発揮しました。・・・・・・1825年の危機は民間銀行であるイングランド銀行の最大の試練だったため、「信用」を守りきったロスチャイルド一族のイングランド銀行内での主導力が一挙に増しました。・・・・・・1833年、イングランド銀行の紙幣が法貨として認められました。イギリス国民は、イングランド銀行券という「手形(架空の金貨)」の受け取りを拒否することができなくなったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P176)

 1825年イングランド銀行ロスチャイルドの経営するN・M ロスチャイルド&サンズに買収され、中央銀行が持つイギリス通貨(ポンド)の発行券がロスチャイルド一族の手に渡っていく。ついにロスチャイルド一族はマイヤーの求めた「通貨発行権」を得たのである。ロスチャイルドがイギリスに対して出したもう一つの条件が「シティ」の割譲だった。(マネーカースト B・フルフォード かや書房 2018.5月 P51)


 このアヘンを売りこみで財をなすのが、イギリスのジャーデン・マセソン商会です。1832年に中国の広州で設立されます。広州とは香港・マカオがあるところです。のちに、ここの社員として幕末の1859年に長崎にやってくるのがトーマス・グラバーです。あの長崎のグラバー邸の主です。
続く。


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