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新「授業でいえない世界史」 33話の1 19C前半 ヨーロッパの混乱とイギリスの進出

2019-08-25 09:37:12 | 新世界史12 18C後半~

 ナポレオン戦争が終わったのが1815年です。前回は、そのあとのイギリスとアメリカの動きを見て、そのあとスペインの植民地であったアメリカ大陸の独立の動きを見たんです。
 ここからあとは、国家中心で見ていきますが、地域ごとに30年くらい行ってまた元に戻ってと、こういうことを何回も繰り返していきます。横のつながりを合わせて、ヨーロッパ全体として何が起こってるのかということに注意してください。

  1815年にナポレオンがセント・ヘレナ島に島流しにされました。
 次の1820年代には何が起こっていたか。意外とこれが目立たないのですが、イギリスとオランダがアジアに進出してるんですよ。
 イギリスは、おもにインドからその東のインドシナ半島からマレー半島へ、さらに東の中国へ、香港へ、そしてアヘン戦争というふうに結びついていきます。
 オランダは今まで目立たなかったのですが、インドネシア全域を植民地にしていく。そういう植民地づくりを進めてるんです。



【イギリスの東南アジア進出】

 では個別に行きます。まずアジア方面でのイギリスの動きです。さっきも言ったように、1824年にイギリスはインドの東のビルマを占領していく。これがビルマ戦争です。これでビルマは英領インドとなる。英領とか、仏領とかいう言い方をします。英はイギリスです。
 そしてその2年後の1826年には海峡植民地をつくる。アジアで最も重要な海峡といえば、シンガポールの近くのマラッカ海峡です。つまりここでシンガポールはイギリスの手に落ちた。そしてイギリスの貿易拠点として栄える。これをやったのがイギリスから役人として派遣されたラッフルズです。

 それからアジアで唯一の独立を保った国はタイです。イギリスとフランスに挟まれて、最後に一つだけ残った国です。他はすべて植民地になって、最後の一つに手を出したらイギリスとフランスの喧嘩になるから取らなかっただけです。こういう事情があってタイは東南アジア唯一の独立国となる。

 他はほとんどが植民地にされた。植民地にされたらどうなるか。金持ちのヨーロッパ人が乗り込んできて、土地を買い占めて、「これをつくれ、あれをつくれ、ゴムの木をつくれ」という。「イヤそれでは食い物がなくなる」、「そんなこと知るか」で終わりです。
 こういうのをプランテーション農業という。バナナならバナナばっかりつくらせる。バナナは食い物だからまだいいとして、やはり世の中で何が一番大事か一つ選べと言われたら、私はやはり食い物だと思う。これがなければ死ぬからね。世の中で何もない時に一つだけと言われたら、やはり食い物だと思う。ゴムは食えない。しかしヨーロッパ人にとっては高く売れるんです。しかも単純に1品種だけつくらせる。こういうのをモノカルチャー経済という。

 このようにしてイギリスの金持ちたちが植民地に乗り込んできます。イギリスの金持ちたちは有り余るお金をこういうところに使ってボロ儲けようとします。
 これはイギリス国内で工場経営をする産業資本家とはちょっと違います。産業資本家は労働者にちゃんと賃金を払いますが、植民地に乗り込んできたお金持ちたちは植民地の人たちを不当に低い賃金で働かせ、自分たちは悠々自適の生活をしようとするのです。これはローマ帝国のお金持ちたちが、奴隷を働かせることによって自分たちは贅沢な生活をしていたことと似たようなものです。奴隷社会の伝統はこういうところで復活するのです。
 これは自分が額に汗して働くことではなく、お金の力によって人を働かせ、自分たちは豊かな生活をすることです。イギリスのお金持ちたちはこういうところにお金を使いました。これが植民地への資本投下です。有り余るお金の力によって植民地を支配しようとします。

 さらに銀行が彼らにお金を貸します。銀行はお金の貸出先を求めています。「いくらでもお金を貸すから、もっとやってくれ」と。こういうふうにしてイギリス金融資本の植民地支配が強まります。
 フランスやオランダも似たり寄ったりですが、その中でもイギリスが最も多くの植民地を獲得していきます。これはイギリス金融資本の力です。

 現地の農民は非常に貧しい。しかしイギリス人は儲かるからもっとやりたい。だから労働者は足らないのです。そこにインドから貧しい人がやってくる。中国からも国を逃れてやってくる。そういう人たちをクーリーといいます。いまその中国人の子孫が東南アジアの経済を握ってますが、彼らのご先祖は非常に苦労した人々です。
 南米の日系人もそうです。今ブラジルに日系人がいる。今は日系3世、4世の世代です。私が3世の世代ぐらい、君たちは4世ぐらい。曾爺ちゃんが明治時代に、家族連れて移住した。同じようなことをして、だんだんとその国でのし上がっていった人々です。

▼19世紀の東南アジア




【オランダ領東インド】 今度はオランダです。上の植民地の地図を見てください。まずイギリスの植民地、地図にはないけどインドはイギリスの中心的植民地です。イギリスが取ったところは、ミャンマー、マレーシア、シンガポールです。
 ではフランスはというと、その東です。今のベトナムがフランスの植民地です。だからタイは東西からフランスとイギリスに囲まれている。だからここは「饅頭の一つ残し」で取らないです。喧嘩になるから。

 あとインドネシア。インドネシアは全部オランダ領です。日本は太平洋戦争時に「東アジアの共栄」を掲げて、ここからヨーロッパ人を追い出し、5年間だけ成功した。
 そのオランダ本国は小さい国だから、植民地のほうが圧倒的に大きい。数十倍ある。拠点となるのはジャワ島です。ここに首都がある。ジャカルタがあるところです。ここを拠点にして、1820年代からじわじわと侵略していくんです。ジャワ島中心だったから、この侵略戦争をジャワ戦争という。1825年です。

 そして周りの島々まで占領していく。しかし現地の人も黙ってはいない。島民は抵抗します。しかし殺され鎮圧される。そしてさっき言ったように「ゴムの木だけつくれ」と強制栽培させる。これを強制栽培制度といいます。その結果、ゴムとかコーヒーばかりで、食い物がないから農民は餓死する。それでもおかまいなしです。「オレたちの知ったことか」と。



【イギリス】
【外交】
 一番メインのイギリスはどうか。これが大英帝国になっていく。世界ナンバーワンの植民地を持つようになっていく。イギリスは・・・・・・何回も言うように・・・・・・世界一番乗りで産業革命を達成したからお金持ちです。イギリスの工業力に勝つ国はない。自由に競争させれば勝つんです。
 だから貿易面では自由主義貿易です。「自由に貿易させろ」とは、強いから言えることです。弱い国は自由にされたら負けるから、そんなことは言わない。

 イギリスは自信があるんです。だから南アメリカが「スペインから独立しよう」と言ったとき、イギリス外相のカニングは「独立していいじゃないか」と言った。しかし宗主国のスペインは独立させたくない。スペインは自分の植民地として持っておきたいのですが、イギリスが南アメリカの独立を支持する。
 なぜか。独立させてイギリスが自分の商品を売りつけたいからです。イギリスの市場確保のためです。こうやってイギリスは自信満々で、自由貿易に進んでいく。これが1822年からのカニング外交です。ナポレオン戦争が終わるとすぐに、イギリスはこういう動きをしています。

 これに同調したのがアメリカで、大統領モンローが「アメリカ大陸のことにヨーロッパは干渉するな、自由にさせろ」と言って、1823年モンロー宣言を出します。アメリカはイギリスと同じ動きをします。
 ではイギリスは、ずっと自由貿易だったのか。そんなことはない。イギリスはそれまで100年以上保護貿易だったし、このあとアメリカに追いつかれるとまた保護貿易を主張するんです。



【国内】 ただイギリスは宗教面では開放します。イギリスはプロテスタントの国ですが、カトリック教徒との宗教上の不平等を廃止します。1829年のカトリック教徒解放法です。
 政治面では1832年に選挙権をまず拡大する。金持ちの資本家や社長だけに、ですけど。これが第1回選挙法改正です。1回目の選挙法改正です。まだ一般の労働者や貧しい人は、選挙権はありません。

 また1833年には奴隷制度を廃止します。イギリスにも奴隷がいたのです。でも人道的意識の高まりにより廃止します。このことは後に起こる1861年からのアメリカの南北戦争と関係します。



【イギリスの侵略】 経済面では、1600年代から1700年代初めにかけて、イギリスは経済では自信がなかったから、貿易にいろいろ条件をつけていた。つまり保護貿易をしてきた。穀物は輸入しないとか、小麦は輸入しないとか、輸入する場合は船はイギリス船に限るとか、オランダ船は入らせないとか、いろんな条件つけていた。
 しかし、産業革命後イギリス製品はどこに持って行っても売れると分かったら、急に自由貿易に変わっていきます。保護貿易から自由貿易に転換する。「自由に貿易していいじゃないか」と。でもそれは強くなったから言えることです。これが1840年代のイギリスの動きです。

 さらに強引なことには、「自由貿易をやれ」と他の国にも要求する。「政治・経済」でも言ったように、保護貿易が正しいのか自由貿易が正しいのかは、実は結論は出ていない。正しいかどうか分からないことを、ほかの国にも要求していく。自国の利益のためなら他国の利益を踏みにじる。極端な『イギリス・ファースト』です。

 そして仕舞いには何を売りつけるか。麻薬です。中国にアヘンという麻薬、これを売りつける。「自由貿易だからいいじゃないか、持ってきたから買え」という。当然中国は「イヤだ」という。そこでアヘン戦争という戦争をふっかける、ということになります。この後で。
 イギリスはこうやって、自由という体制を他国に強制していく。もし相手が「ノー」と言ったらすぐ軍事行動をとる。戦争ふっかける。そして植民地にして支配下に置く。ここらへんは教科書にはあまり書かれてないけど、やったことはメチャクチャで非常に暴力的です。

 暴力が良いと言っているわけではないですよ。逆ですよ。「歴史なんてこんなもんだ」と、タカをくくっているわけでもないです。ただこういう人間の歴史があるという事実を言っているだけです。なぜなら歴史は繰り返す可能性があります。人間には悪の一面がある。歴史を見ると「人間は神様でもなんでもない」ということがよく分かります。だから「なるようになる」ではどうにもならないのです。

 インドはすでに植民地化が始まっており、イギリスはマラータ戦争やシク戦争を仕掛けて、支配領域を広げていきます。1817年には、第三次マラータ戦争が起こり、イギリスはインド全域を支配します。ウィーン会議後、イギリスは海外侵略を一段と強化します。

 1824年
、イギリスはマラッカを獲得する。さらにそのインドシナ半島からマレーシア・・・・・・ひょろ長い半島です・・・・・・その先端にある貿易の最重要拠点、シンガポールを獲得する。早い話が奪うんです。ここもイギリス植民地になる。

 インドの東のビルマ・・・・・・今のミャンマーです・・・・・・そこにも戦争をふっかける。1824年、シンガポール獲得と同じ年です。当時はビルマと言っていたからビルマ併合です。1824年から軍隊を派遣している。

 次はアフガニスタンに行きます。アフガニスタンの場所、インドの西隣です。1838年アフガン戦争を起こして、ここを保護国化する。保護国というのは、植民地の一歩手前ですが、実質的には植民地と同じです。保護国というのは強者の言い方です。「保護されてよかった」なんて思わないでください。



【フランス】

【七月革命】 次に、ナポレオンの革命が失敗した後のフランスです。1820年代をとばして1830年代です。1830年にまた革命がフランスで起こる。7月に起こったから七月革命という。

 ナポレオンがセント・ヘレナ島に流されたあとは、フランスにまたブルボン朝の王様が復活した。ナポレオンの後はルイ18世だった。その後、さらにシャルル10世に変わっていた。そこで反動政治が続いた。1830年7月の議会選挙で自由主義者が多数当選すると、シャルル10世は新議会を解散させた。これに対して民衆が反発して蜂起する。「王はダメだ、もう追放だ」と。国王を殺しはしませんが、また追い出してしまう。王はイギリスに亡命します。
 そして「オレたちが王を選ぶんだ」と、別の王家から国民が王を選びなおします。これを七月王政といいます。

 そうやって国王になった新しい王が、ルイ=フィリップです。オルレアン家という王家の一族です。誰がこの王様を支持したか。いわゆるブルジョアジーといわれる都市部の金持ちです。具体的には銀行家です。もっとはっきり言うと、ヨーロッパ最大のお金持ちロスチャイルド家です。こういう金融資本家が絡んでいます。 

 1830年の7月革命のとき、ロスチャイルドはブルボン王朝を見捨て、オルレアン公ルイ・フィリップの支持にまわり、フランスのロスチャイルド家が空前の繁栄を謳歌する「七月王政」の幕を開けさせた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P132)

※ (ルイ・フィリップは)フィリップ・エガリテの子で、父の果たせなかったことを今ややっと果たすことができた。しかもこの革命(1830年の七月革命)もフリーメイソンリーからの贈物であった。・・・・・・ルイ・フィリップもまたフリーメイソンリーを自分の権力のため利用するのみで、彼らが望む自由主義的、共和主義的体制への道を歩もうとはしなかった。・・・・・・フリーメイソンリーを利用するだけだったナポレオン1世が彼らに見離された歴史がここでも繰り返されている。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P144)

※ (1830年の7月革命で)平和が維持されたことによってロスチャイルド家発行の各種公債は再び価格を回復し、五兄弟が一段と大掛かりな融資活動を再開したことはいうまでもない。ロンドンのネイサンの事業は、独立アメリカにまで及んで、ロスチャイルド金融王国の範囲はヨーロッパから新大陸にまで広がっていった。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P85)


 実はのちにスエズ運河をイギリスが買収するためのお金を出したのも、このロスチャイルド家です。こういうことを知っている人からは、「ルイ=フィリップが新しい王といったって、どっちみち銀行屋とか株屋の政権じゃないか」という批判が当初からある。貧乏人には厳しく、お金持ちに有利、そういう政権になっていきます。
 ナポレオンが去った後の王政は、ここで金融資本家に牛耳られる王政に変わった。

※ ウィーン会議後、ヨーロッパで頻発する革命騒ぎは、主として貧しい都市のユダヤ人が中心的役割を果たしました。既存秩序の打破を謳う左翼革命運動の高まりとロスチャイルド家などの国際金融資本家の支配の強化とは不思議に連動しているのです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P95)



【イギリスの中国侵略】 そして次には中国の広州に行く。広州には香港があります。そことの貿易を民間会社にやらせるんです。これがジャーディン・マセソン商会といって1832年に設立されます。何を売る会社か。アヘンです。麻薬です。
 翌年の1833年には、それまで貿易の利を独占していたイギリス東インド会社中国貿易独占権が廃止されます。これを見込んで多くのイギリス商社が自由貿易の名のもとに、中国貿易に乗り出します。その中心がジャーディン・マセソン商会です。
 社長のウィリアム・ジャーディンは、1840年のアヘン戦争の時、盛んにイギリス政府にロビー活動を行い、外相のパーマストン・・・・・・彼はのち首相になりますが・・・・・・に対して、軍隊を派遣するよう手紙を出しています。「自分の利益のためなら戦争をも引き起こす」、そういう会社です。この会社の後ろには、イギリスの大金融資本ロスチャイルド家がついています。

 後のことですが、このジャーディン・マセソン商会は幕末の日本にも触手を伸ばします。アヘン取引で儲けて、その約20年後の1859年に社員のトーマス・グラバーが長崎にやって来て、武器を売りつけます。あのグラバー邸のグラバーです。日本に武器を売りつけます。
 ジャーディン・マセソン商会は中国には何をするか、1840年に「アヘンを買わない」といった中国にアヘン戦争をふっかけてまず香港を取る。そして中国に対してアヘンを売りつける。



【ドイツ】 こういう革命の動きが、ドイツにはどうやって現れてくるか。この地域の中心となる国はもともとのドイツの皇帝を出してきたハプスブルク家のオーストリア帝国です。今のオーストリアは小さくなっていますが、この時はまだ大きいです。しかしこの国はだんだん弱っていきます。

 それに対して、新しい勢いで北から攻めてきたドイツの一派、これが・・・・・・ここに飛び地もありますが・・・・・・これがプロイセンです。プロシアと言ったり、プロイセンと言ったりする。
 ドイツの状況は、オーストリアは古くて由緒正しい国ですが、この国はだんだんと弱くなる。それに対してこの新しい北のプロイセンが強くなる。いま強くなっている最中です。さてどちらが主導権を持つか、ということでまた揺れていくんです。

 結論をいうと、ドイツの中心になるのは北のプロイセンです。プロイセンは経済的な統合から始めます。1834年ドイツ関税同盟が成立し、政治統合よりも先に経済的統合が進みます。これによりドイツ内での関税が撤廃されます。オーストリアは当初、この関税同盟から除外されます。

※ 1833年、ビスマルクは困難に直面して財産を失い、激怒していた。ディズレーリを通じて、若き18歳のビスマルクと親交を結んだジェームズ・ロスチャイルドは彼をヨーロッパの未来の「保守系」指導者にしようと考えた。そしてビスマルクは、妹ルヴィーの結婚によって、完全にライオネル・ロスチャイルドの指揮下に入った。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P103)

続く。

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