ひょうきちの疑問

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2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 31話の3 フランス革命

2019-08-25 09:39:47 | 新世界史12 18C後半~
【フランス革命】
旧制度】 このアメリカ独立戦争の影響を受けて、次に起こるのがフランス革命です。フランス革命といえば、昔はそれはそれは大事なものと言われていたのですが、最近「これあまり大事ではないのではないか」と思われるようになってきました。
 フランス革命が起こったあとフランスが世界のナンバーワン国家になるか。フランスのナポレオンは負ける。どこに負けるか。イギリスです。世界ナンバーワン国家になっていくのはフランスではなく、イギリスです。
 フランス革命にばかり気を取られていると、肝心のイギリスの動きがわからなくなりますから要注意です。フランスはイギリスに負けますが、勝ったイギリスの動きがフランスの影に隠れていて、分かりにくくなっています。大事なのは実はこのイギリスの動きです。

 ただフランス革命が好きな人もいて、教科書のページはけっこうフランス革命に割いてあります。 
 この頃のフランスは身分制です。一番偉い第一身分は聖職者つまりキリスト教のお坊さんです。第二身分が貴族。第三身分が平民です。平民とは農民や商工業者です。
 この平民の商工業者がお金を貯めだした。彼らお金持ちの商工業者のことをブルジョワジーといいます。ブルクというのは城塞都市です。都会の人、都会のお金持ちです。
 彼らが中心になって、「オレたちはお金を持っているのに、政治的な発言権がないのはおかしいじゃないか」と不満を持ちだす。そこにアメリカ革命の話が伝わってくる。「アメリカが勝ったぞ、あのイギリスに勝ったぞ、オレたちにもできるんじゃないか」と。



【革命勃発】 アメリカの独立戦争とフランス革命は10年の開きもない。ほぼ連続して起こります。独立戦争のときはフランスがアメリカを応援してアメリカが勝ちましたが、フランスはその戦費がかさんで財政難です。
 フランスは、アメリカ独立戦争にお金を使っていた。だからフランスは税金を取りたくて仕方がない。この時お金がなくて、新しい王様が困り果てた。王様はルイ16世です。フランスは、この王のお爺さんのルイ14世の時代から戦争ばかりです。そこでまたお金がないから増税しようとした。
 これにまず貴族が反発する。反発したのは商工業者ではなくて、まず課税された側の貴族です。

 それから、ルイ16世の嫁さんはマリー・アントワネットと言って、出身はオーストリアの王女様です。母親がマリア・テレジアといってオーストリアの女王です。前に出てきましたね。マリーアントワネットは、数年後にルイ16世といっしょに殺されます。


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※ 1787年10月、ヴェルサイユに、後に「ブリトン人クラブ」となる一つの政治協会が作られ、ほとんどの革命家たちがそれに加わった。これはさらに迂曲、屈折を経て過激化し、強力な「ジャコバン・クラブ」となった。・・・・・・ここにはイギリス革命協会ともいうべきロンドンの「コンスティテューショナル・ソサイエティ」からの派遣員たちが混じっていた。彼らはとくにダントンとかロベスピエールといった革命指導者と関係を持ちつつ、かたわらで「断頭台が立てられるのを眺めていた」のであった。その背後からはピット(イギリス首相)が手綱を引いていた。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P128)


※ 1788年、イギリスが、オーストラリアを植民地化する。



【立憲君主制】 その増税に反発が高まって、王に対して「会議を開け」という。この会議を三部会といいます。身分制議会です。
 「王は議会を開け」と要求され、議会を開いた。そうすると、ブルジョワジーつまり商工業者が「この話しあいのやり方が気にくわない」といって別の会議をつくった。この会議が主導権を握ります。ここで議会の主導権が貴族から、ブルジョワジーに移るわけです。
 これを国民議会といいます。1789年です。名前は気にしなくていいです。平民中心の議会をつくったということです。それを「おまえは何を勝手に議会をつくっているか」と国が弾圧する。

【フランスのフリーメイソン】

※ 1789年、フランス革命が起きます。この革命の主体となったのはフリーメーソンでした。のちにフリーメーソン自身が「フランス革命は我々の革命だった」と認めています。・・・・・・ロスチャイルド家は、一族であるモーゼス・モカッタ銀行を通してフランス革命へ資金を提供しました。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P95)

※ フランス革命は、イギリスの宿敵を取り除くための、フリーメイソンの陰謀としてシュルバーン卿に率いられたイギリス諜報部によってイギリスから操作されて生じた。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P201)

※  ウィリアム・G・カーは、イルミナティのフランス革命工作の中心人物の1人として「ユダヤ人大金融、モーゼス・メンデルスゾーン」を挙げている。モーゼス・メンデルスゾーンは、フランスの有力貴族ミラボーを、借金漬けにすることによってイルミナティに参加させた。ミラボーを通して、フランスの大貴族オルレアン公をフランス革命謀略の仲間に引き入れた。
「こうしてモーゼス・メンデルスゾーン指揮下のユダヤ・イルミナティは大東社(グラントリアン、フランス・フリーメーソン)のロッジを隠れ蓑に、ヴァイスハウプトによって大陸のフリーメーソンに導入され、各ロッジの内部には秘密の革命委員会が組織されていた。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P116)」(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P326)

※ まず確認すべき点は、アメリカ革命の担い手がメイソン軍であったように、当時のフランスの軍隊もメイソンの手中にあったということである。・・・・・・ほとんどの部隊、つまり「王の軍隊」の多数の将校はメイソンであり、しかも彼らが属するロッジは、そこの棟梁であり高位メイソンである軍司令官たちに支配されていたのだ。・・・・・・古い「王の軍」は既に内部から崩壊していたのである。メイソンである多くの兵士は非メイソンの部隊長の命令には服従せず、むしろ群衆と連動し、群衆と共に、互いが「兄弟」であると叫び、新しい国民議会を準備した。群衆には金がばら撒かれ、三部会の開催を訴えるプラカードや新聞記事が、多数目につくようになった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P121)

※ 1789年7月11日、ラファイエットらが宣言書を提出した国民議会の四百名の議員のうち三百名以上はメイソンであった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P123)

※ 1789年8月4日、フランス議会に出席した655名の議員のうち、405名がフリーメーソンだった。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P205)

※ 1789年、ワシントンが、アメリカ初代大統領に就任する。


 弾圧されても「ごめんなさい」ではなくて、それをはね返します。「なぜ弾圧するのか、それなら実力行使だ」といって牢獄を襲う。この暴動は烏合の衆が起こしたものではなく、かなり組織化された行動です。これがバスチーユ牢獄襲撃です。犯罪者が入っている牢屋で、そこには政治犯も入っている。これを襲って鍵を開け、「はやく逃げろ」と彼らを解放する。


バスチーユ牢獄襲撃 Révolution Française - La Prise de la Bastille 1789



【フランス革命の扇動家】

※ 1782年、ヘッセン・カッセル伯爵の莫大な財産を巧みに手に入れたアムシェル・ロスチャイルドは、ヴァイスハウプトを呼び出した。・・・・・・アムシェルに会って話し合いを持ったあと、ヴァイスハウプトは自由に遣える金を何百万フランも所持してパリに現れ、少なくとも3万人の凶悪犯を「輸入」して、パリの貧民窟に待機させた。・・・・・・すべての準備が完了し、お膳立てが整えられると、1789年凶悪犯はパリの町に放たれた。(ロスチャイルドの陰謀 ジョン・コールマン 成甲書房  P90)

※ フランス革命を先導するために、ユダヤ人銀行家たちは、街の群衆をあおりたてる扇動家たちにカネを支払っていた。・・・・・・多くの学者は、フランス革命の背後の秘密勢力とはユダヤである、と名指しで指摘している。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P213)

※ フランス革命は・・・・・・自由、平等、博愛を掲げて市民が起こした革命ということになっています。しかし、その背後にはユダヤ勢力がいました。フリーメイソンのネットワークが関わったといわれていますが・・・・・・ユダヤ人がフリーメイソンを乗っ取ったとも言われています。フランス革命は、フリーメイソンの背後にいたユダヤ人が工作し、迫害されていたユダヤ人の解放を目指してやったものと考えられています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P96)


 そしてその流れのなかで、「今のフランス社会は間違っている。正しい社会をつくろう。それはこういう社会だ」という宣言をする。これが人権宣言です。1789年です。
 フランスの人権宣言にはこうあります。
「人間は自由で権利において平等なものとして生まれ、かつ生きつづける」

 しかしここでは、「なぜなのか」というその理由が述べられていません。ここでは、アメリカの独立宣言にはまだ存在していた、「自由」・「平等」を支える根拠としての神の存在が消されています。しかしここでは神という言葉はどこにも見あたりません。フランス革命は神を否定する革命でもあるのです。
 さらに「自由」と「平等」という理念も、その根拠がまったく示されないまま、現代まで受け継がれています。あたかも自由と平等は自明のことのように語られていますが、その相互関係の対立については語られることはありません。


 人間が自由に行動すれば、十人十色でそこに個人差が発生しますから平等にはなりませんし、すべての人が平等になろうとすれば個人の自由は制限されます。にもかかわらず、自由と平等が同じもののように表現されています。人々は「自由じゃない」と反発し、同時に「平等じゃない」と憤るようになります。相互に矛盾するのですから、多くの対立が起こるようになります。そして多くの革命が発生します。自由と平等はそれを正当化する言葉になります。

 自由は「違うもの」を志向し、平等は「同じもの」を志向します。「違うもの」と「同じもの」が、同じであるはずはありません。自由の観点からは、職業選択の自由は正しいことですが、平等の観点からは、職業による所得差はいけないことです。このように自由と平等は対立するのです。自由と平等は違った概念なのです。違ったものを、同じものとして飲み込むと、やがてその社会は矛盾に満ちたものになり、消化不良を起こします。みんなが自由であるからといって、みんなが平等にはなりません。むしろ事実は逆なのです。しかしそれを平等になれるとすることで、自由が無条件に賛美されていくことになります。

※ 1789年10月5日には五千人の女たちがヴェルサイユ宮殿の前に集結したが、ラファイエットの率いる市民軍は彼女らを抑えるどころか、逆に彼女らと合流してしまった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P123)

※ 1790年、イギリスがインドで、第3次マイソール戦争を起こす。


 この革命政府はフランスの教会の土地をすべて没収し、その土地を担保に、1789年からアシニア紙幣を発行します。

※ アシニア紙幣・・・・・・フランス革命期の紙幣。没収した教会財産を担保として1789年より発行。はじめは5%の利付きの国家再建だったが、1790年から不換紙幣となった。革命戦争遂行の財政的必要から乱発され、激しいインフレを招いた。(角川世界史辞典 角川書店)


 2年後の1791年になると・・・・・・ルイ16世は気が弱かった・・・・・・王は国を捨て、変装して、嫁さんの実家のオーストリアに逃げようとする。国民がそれに気づいて追いかけていって王を捕まえる。
 これをヴァレンヌ逃亡事件といいます。王の信用はガタ落ちです。国を捨てるような王様には誰も従いません。

 もう誰もルイ16世のいうことなんか信用しない。「それなら王の決定よりもっと上の憲法をつくろう。アメリカがやったように」と。これが1791年憲法です。憲法は王よりも上だから、王はこの憲法を守らなければならない。これで政治体制が変わった。一番偉いのが王様じゃなくなったんです。
  ただ王様がこの憲法を守っている限りは、王は王として認めてやるんです。「憲法を守れば」という条件をつけて王様を認めてやるんだから、これを立憲君主制といいます。
 パターンからいうと、今の日本は天皇制ですから立憲君主制です。しかしフランスはこのあと、これを維持できない。王を殺して、社会が混乱していきます。

 「自由平等、博愛」をスローガンに掲げるフランス革命は種々の社会変革行ったが、それはまた差別に苦しんでいたユダヤ人にも大きな影響を与えた。1790年、ボルドーとバヨンヌのユダヤ人が完全な権利を獲得したのをきっかけに、1791年9月の国民議会でついにフランスの全ユダヤ人4万人に完全な市民権が認められ、ユダヤ人たちはこの決定を熱狂的に歓迎した。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P143)

 1791年、アメリカ第一銀行設立・・・・・・初代頭取のトーマス・ウィリングはアメリカにおけるベアリング家(イギリス)の金融代理人(宋鴻兵2 P88)



王権停止 1791年、この憲法に従って選挙を行う。国会議員を選挙で選ぶ。
 この国会を立法議会といいます。この時には議会の中にも、いろいろな派閥やグループがあって、そのなかで穏健派が中心になる。これをジロンド派という。
 このような「王よりも憲法を優先する」という政治システムに対して、王の嫁さんマリー・アントワネットの実家のオーストリアがまず反発する。
 「何ということだ、自分の娘の嫁ぎ先が大変なことになっている、このままでは娘の命も危ない」・・・・・・実際このあと殺されていきます・・・・・・それで戦争開始です。1792年、オーストリアとフランスとの戦争が始まります。

 1792年、イギリスが自由貿易を求めて、初めてマカートニーを全権とする使節団を中国に派遣する。


 このあとの戦争の中心になるのは・・・・・・きっかけはオーストリアでも・・・・・・やっぱりイギリスです。イギリス中心にフランス包囲網が固まっていきます。
 1792年、ここに来て「フランスの王様の命令はもう聞かなくてよい、王は国民に命令できない」と国民が決める。王権停止です。もうここまで来ると、王が命を取られるまでにあとちょっとです。



ルイ16世処刑 1792年、また選挙があって新しい国会議員が選ばれます。これ国民公会という。選挙して、またグループが変わったのです。ここでは急進派が出てきます。過激な考え方です。身分的には下層市民です。これをジャコバン派という。

※ ジャコバン党は1人残らずフリーメーソンだった。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P210)


 「なんだ、王は何の役にも立たないじゃないか。税金ばかり使いやがって、殺ってしまおう」。1793年、ルイ16世処刑です。それでひと思いにやる処刑の道具を発明した。上から首をスパーンとやるギロチンです。王が殺された。嫁さんのマリー・アントワネットまでも殺された。
 マリー・アントワネットの言葉で、「パリ市民は貧困に苦しんでパンも食えない」と聞いたとき、「パンが食べられなかったら、ケーキを食べたらいいじゃないの」と言ったという。これはたぶん捏造でしょうけど、そういう王に対する悪意が充満する雰囲気が醸し出され、王は夫婦とも殺されていきます。公開処刑です。パリ市民は大歓声を上げて喜びます。

※ 君主国を倒すことは、同時に、君主の宗教を否定することを意味します。フランス革命はブルボン王朝を倒したと同時に、ブルボン王朝の宗教のキリスト教(カソリック)を否定して無神論国家にしようとしました。理性の神を崇めるといった儀式まで行われるほどでした。またユダヤ人解放を行いました。ロシア革命でもロマノフ王朝の宗教のロシア正教を否定して、迫害からユダヤ人を解放しています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P97)


 これでフランスは王がいない国になった。こういうのを共和制という。これで王がいない国は2つになった。アメリカとフランスです。ここで王が殺された。

 ここでイギリスが出てくる。そしてイギリス首相ピットの提唱により、オーストリアやプロシアなどと組んで、フランスに対抗していく。「フランスなんか潰してしまおう。オレたちが大がかりで同盟を組めばできる」と。1793年に第1回対仏大同盟が、イギリス首相ピットの提唱で結成されます。
 このあとの戦争の中心は、イギリスフランスの戦争です。王妃マリーアントワネットの実家のオーストリアが中心ではありません。結局これは、1756年からの七年戦争でのアメリカ大陸の奪い合いと変わらない構図です。

 先のことをいうと、この戦いにもイギリスが勝つ。イギリスは、アメリカ大陸でもフランスに勝ち、ヨーロッパ大陸でもフランスに勝っていく。
 ナポレオンが有名すぎるから、何となくフランスが世界の中心のように見えますが実はそうではない。
 ポイントはイギリスです。そのイギリスの覇権に比べれば、フランス自体は大したことはない。フランス革命の裏で起こっているこういうことが大事です。イギリスはフランスと戦う一方で、同時に中国や東南アジアに乗り込んで行っています。

 フランスはイギリスとの戦争に負けます。フランスは革命と同時にイギリスと戦っていきます。革命と同時に貴族とも戦っていくし、同時に外国とも戦っていく。これがフランス革命です。
 だから世界初の徴兵制をとります。兵隊には、昔は貴族または騎士階級などの身分が上の人たちに決まっていた。日本だったら武士に決まっていた。それを農民から兵を取る。これが徴兵制です。国民であれば兵隊の義務があることになる。これはここで発案された考え方です。日本も戦前は徴兵制でした。

 君たちのじいちゃんか曾じいちゃんたちは兵隊に取られている。私の父も18歳で高校卒業して即刻入隊です。徴兵制の最後の世代、昭和20年4月に赤紙が来た。5ヶ月後に原爆が落ちて終戦です。
 あと1年戦争が長引いていたら、間違いなく父は死んでいた。私も生まれていない。南方に行く予定があったから。南方に行ったら間違いなく死んでる。その前に敗戦になったから、どうにか生き残って帰ってきた。君たちのじいちゃんや曾じいちゃんの世代にはそういう人がいっぱいいる。その徴兵制は、ここから始まる。

 話を戻すと、「戦争だ、緊急事態だ、つべこべ言うな」という雰囲気です。自由を求めたフランス革命が独裁政治になっていく。これがジャコバン派独裁です。怖いのは下級市民が思い込みで権力を握ったときです。なりふり構わずやっていくんです。その中心人物がロベスピエールです。



【恐怖政治】 しかしいろんな意見があってなかなかまとまらない。だから反対する者は次々にギロチンで殺していく。だから恐怖政治といわれる。フランス革命は恐怖政治を生みます。
 そうなると反対派は裏で政権工作をやる。政権を変える。そうするとあの独裁者ロベスピエールも、もう殺されるときには一瞬です。1794年ロベスピエールは、反対派に捕まえられて即座に処刑されていく。そして新しく95年憲法をつくる。

 こういう政権交代があるごとに憲法がコロコロ変わる。これも考えものです。逆に日本のように、70年間1文字1句変わっていない憲法も、それはそれで問題です。一度決めた憲法が絶対大事じゃなくて、「70年経てば世の中変わるから、それに合わせて憲法も変わる」というのは正しいと思う。どう変えるか、話がまとまらないまま70年間です。
 別に「戦争しろ」と言ってるつもりはありません。ただ日本の憲法は70年間変わっていないという意味では珍しいです。しかし今変わると、間違いなく戦争やるでしょうね。


 
【ナポレオンの登場】
【総裁政府】 体制が変わって、1795年総裁政府になる。グループ政治です。複数のリーダーでやる。5人の総裁でやるから総裁政府です。
 ここで疑問が出てくる。「今まで続いてきたこのフランス革命は正しかったのか、これはおかしんじゃないか」という話が出てくる。でもどうしていいかわからない。わからないと世の中が不安定になってくる。不安定になると、国民の意向は、政治家は裏切りばかりで信用できない。日本でも起こったことですが、「軍人さんだな、やっぱり」となる。「政治家よりも軍人さんの方が義理人情に厚くて信用できる」、それで国民が軍に期待していく。

 こういう時に、軍の身分は低いけど、バリバリと手柄を立てて頭角を現してきたのがナポレオンです。ナポレオン・ボナパルトという。コルシカ島出身の田舎貴族なんですけど。

【ナポレオンとロスチャイルド】

 ナポレオンは、タレーランが彼に出会ってロスチャイルド一族に紹介した当時は極貧にあえいでいた。・・・・・・1786年、ナポレオンは金のない中尉、つまり貧乏下級士官で、支払いをまかなおうと、あちこち訪ね歩いて雇い主を求めていた。・・・・・・コルシカ島出身のこの男の情熱はアムシェル・ロスチャイルドに感銘を与えた。彼は身を立てられるだけの十分な資金をナポレオンに提供した。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P95)

 1796年、ナポレオンはジョセフィーヌと結婚した。これはポール・ドゥ・バラス伯(ナポレオンをイタリア遠征軍総司令官に任命した人物)を介してロスチャイルド一族によって仕組まれた結婚である。ジョセフィーヌはバラス伯の愛人だった。・・・・・・ジョセフィーヌはバラスの役に立とうと、夫ナポレオンから聞かされた秘密情報を流し、それがそのままロスチャイルド家に伝えられていた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P98)

 1795年、イギリス東インド会社が、マラッカを占領する。

 1796年、ナポレオンのイタリア遠征。

 1796年、イギリスが、オランダからスリランカを奪う。

 1796年、中国の清が、アヘンの輸入を禁止する。


 1797年、スコットランドのロビソン教授が「ヨーロッパのすべての宗教と政治に敵対する陰謀の証拠」を著しベストセラーになる。

 1797年、フランスのバリュエル神父が「ジャコバン主義の歴史に関する覚書」を著しベストセラーになる。


 彼はどんな手柄を立てていたか。敵の中心はイギリスです。イギリスはどこを一番大事にしていたか。インド支配なんです。イギリスからインドに行くときに、エジプトを通過しなければならない。
 まだスエズ運河はないですが、イギリスを通さないようにエジプトをフランスの支配下に置く。イギリスを通せんぼするためです。
 これが1798年のナポレオンのエジプト遠征です。これに成功して、ナポレオンは熱狂的な国民の喝采を受ける。

 ついでにエジプトから、ピラミッドの一部とか古代遺跡のパーツをいっぱい持ってくる。本当はエジプトのものなんだけど、どさくさの中でフランスに持ち帰る。だからエジプトの古代文明遺物などは今どこにあるか。エジプトにはない。パリのルーブル美術館にある。フランスにあるんです。
 ルーブル美術館の美術品の多くは、この時にごっそり持ち帰ってきたものです。エジプトは「そろそろ返せ」と言いはじめている。「古代エジプトの秘宝が、なぜパリのルーブル美術館にあるのか、これはオレたちのものだ」と。

 1796年、フランスが、アシニア紙幣の廃止を決定する。(不換紙幣を発行させない)

 ナポレオンは紙幣を好まず、彼の治世ではアシニア紙幣後の新紙幣は創られなかった

 1797~1821年、イギリスが、兌換紙幣を一時停止する。(不換紙幣を発行させる)(宋鴻兵)



【執政政府】 総裁政府をナポレオンはクーデタで倒します。ナポレオンは「総裁は5人もいらない、オレがそのリーダーになる。オレが一番だ」という。1799年です。これを統領政府といいますが、最近言い方が変わって執政政府という。

 1799年、アムシェル・ロスチャイルドの働きで、ナポレオンが大量の得票差で終身第一執政の座に指名された。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P97)


 1799年、イギリスがインドで、第4次マイソール戦争を起こす。

 1799~1815年の16年間にベアリング家は、イギリス国債引受主幹事を12回も担当し、ロンドン金融界の頂点に立つ。(宋鴻兵)



 5人の総裁が1人の統領に変わった。そういう意味では統領政府のほうが分かりやすいような気がするけどね。
 最近、偉い学者さんたちがよく歴史用語を変えます。日本史でも、江戸時代の徳川親戚筋を御三家といって、芸能界でもふつうに御三家といっていたのを、十数年前からある学者さんが「御をつけたらいけない」と言ったら教科書が変わってしまって、今では「三家」という。何かスカスカする名前になった。ずっと御三家だったのに今は三家という。

 ナポレオンが第一統領になる。ここからナポレオンの政治になっていく。この始まりが1799年です。フランス革命は1789年から起こって、10年後にナポレオンが国家の中心になった。

これで終わります。ではまた。



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