ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 5話の1 古代中国 晋・五胡十六国・南北朝

2019-08-26 08:59:38 | 新世界史2 古代中国

 いま中国です。中国は、殷から始まって、周になり、次は秦の始皇帝の秦になって、前漢、後漢と変わります。
 紀元後200年代は何世紀ですか。3世紀です。3世紀は三国。三国は3世紀、覚えやすいです。三国志で有名なの三国です。

※ 魏の曹操は、人頭税を基本とした徴税制度をやめて戸の資産に応じて税を徴収する戸調制へ移行した。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P112)


 ただ隠し味は、北方に騎馬遊牧民がいるということです。中国の歴史はこれに悩まされる歴史です。今の中国人は結局、この騎馬遊牧民と農耕民が混じり合っているんです。その混じり合う歴史です。
 これを必死で食い止めようとして、人工衛星から唯一肉眼で見えるものは何でしたか。これが万里の長城です。その願いむなしく中国に異民族が入ってくる。年中行事のように。



【晋】
 三国時代が約50年続いて、魏の家来司馬炎が統一国家をつくったのが265年。これがです。
 しかしこの後、北方民族から追われて晋は東に逃げた。だからをその逃げた晋と区別するために西晋といいます。シンという国がよく出てきますが、字が全部違う。シンは全部チャイナ、シナなんですよ。始皇帝の秦、王莽の新、それからこの晋、全部シンなんです。これが英語流に訛ったものを、我々はCHINAと書いてチャイナと読まされている。でも戦前の日本のようにシナと言うほうが本当の発音に近いです。
 建国者は魏の家来の司馬炎という武将です。20年ばかりですぐ反乱が起きてこの西晋は短命です。約50年後の316年に滅びます。



【八王の乱】 その西晋で8人の王の子分たちがそろって290年八王の乱を起こす。
 自分たちだけでは鎮圧できずに、西晋は誰に助けを求めたか。頼ったらいけない相手、万里の長城の向こうの北方騎馬民族に頼ったんです、「助けてくれ」と。すると彼ら騎馬民族が八王の乱を鎮圧して、中国に入ってくる。西晋は自分から異民族を呼び込んだのです。この八王の乱に勝つために。

 その結果、万里の長城を越えて、中国に馬に乗った騎馬遊牧民がわんさか入ってくるようになる。それで結局、316年に約50年でこの西晋は滅ぶんです。
 そして南に逃げるのですが、南といっても、東の方にもかかっているから、これを東晋という。東というけど我々のイメージでは南です。





【五胡十六国時代】
 こうやって西晋は中国の南に逃げた。では遊牧民が入ってきた中国の北半分はどうなったか。騎馬遊牧民が次々に国を立てては潰れ、国を立てては潰れ、相戦うこと約百数十年、混乱の極みです。この時代を五胡十六国時代といいます。
 五はわかる。胡は何か。異民族です。中国人から見た異民族です。場所は華北、黄河流域です。5つの異民族が国をつくっては潰れ、国をつくっては潰れ、16の国が130年間これを繰り返す。だから五胡十六国時代といいます。
 その五胡とは五つの異民族です。まずそれ以前の漢の時代からいた匈奴、これが弱った。弱ってバンザイじゃないです。いくらでも代わりがいるんです。強くなるのは別の騎馬民族である鮮卑(せんぴ)です。これが中心になる。ついでに残り3つ。(けつ)・(てい)・(きょう)と中国人が呼んだ民族。本当の発音は分かりません。
 ここで鮮卑がでてきました。彼らも馬に乗った人たちです。畑を耕す人ではない。遊牧民です。こういうふうに中国人から見たら外国人が入ってきた。この時代が約100年続きます。
 外国人が好きな外国の宗教が流行ります。仏教です。これは中国の宗教ではありません。インドの宗教です。中国で、インドの宗教がますます流行していくようになる。

 五胡十六国時代が終わったあとも、ずっと中国は北と南の二つにわかれて相争う時代になっていきます。この時代は北と南は別の国と思ってください。
 北は次々と国が現れる。それを全部ふくめて北朝といいます。同じ時期の南の国は南朝というけれども、これはあとで言います。



【北朝】 日本でいえば戦国時代のようなものです。小さな大名たちが相争い合う。その中から中国の北半分をやっとまとめたのは、やはり異民族です。馬に乗った人たちがまた国を建てた。
 これが前回にちょっと触れた鮮卑族が建てた北魏です。これが約150年続く。386年から534年、400年代が中心です。5世紀のことです。

※ 北魏を建てた鮮卑の拓跋氏は、「可寒」という君主号を用いていた。この君主号カガン(可汗)は後の柔然や突厥、ウイグルなどの遊牧国家の君主号に受け継がれ、やがてハンとかたちを変えることになった。有名なモンゴルのチンギス=ハンの「ハン」もこの伝統に基づいている。そこに共通しているのは、カガンの地位は上天神からくだされた神聖なものだという観念であった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P106)

 
 ついでにいうと、このころの日本の天皇の使者が・・・・・・まだ日本はできたてのほやほやですが・・・・・・この北魏と対立している南朝の宋という国に「おつきあいしてください」と中国にやって来るんです。一人、二人、三人、四人、五人の天皇が次々と。彼らをまとめて「倭の五王」と言います。日本では巨大古墳ができているころです。五王だから五世紀です。これも覚えやすい。

 この中国を統一した国が、匈奴の代わりに勢力を持って来た鮮卑の北魏です。北魏による華北統一が、439年です。



【漢化政策】 普通ヨーロッパの歴史だったら、支配者が負けた側に自分たちの文化を押しつけていく。言葉も変えるし、風習も変えます。勝った側の文化を強制していきます。でも彼らは逆です。
 軍事力で勝っても、文化の水準、漢字の水準、料理の水準、すべて中国が上だとわかる。だから自分たちからすすんで中国文化を真似ていくんです。そうやって中国文化に馴染んでいこうとする。これを漢化政策といいます。

 ヨーロッパは逆です。ヨーロッパやその他の地域では勝った側が自分たちの文化を押しつけていく。ところが彼ら鮮卑族は、髪型から、服装から、自分たちから中国人のマネをしていく。だから見た目では中国人と区別がつかなくなります。



【達磨】 それからついでにいうと、日本でも有名なお坊さん、人形になっているお坊さんに、何がありますか。達磨さんです。
 ダルマさんはたんなる人形ではなくて、実在のお坊さんです。北魏の時代に、インドから中国に来たお坊さんです。
 なんでダルマさんになっているか。この人は黙って座り続けているうちに、手足がなくなってしまったからです。イヤ、そういう言い伝えがあるからです。彼の教えが禅宗です。そして日本にも、その仏教の教えである禅宗が伝わる。悟りを得るため、とにかく座るんです。「ツベコベ言わずに座れ、分かるまで座っていろ」という感じです。
 禅宗というと「無念夢想」で黙想するというイメージです。座禅を組んで黙想してちょっとでも動くと、雲水という棒を持った人が、1メーター尺みたいなもので背中をバシッバシッと叩きます。そういうイメージがあって痛くて恐そうですけど、バシッと後ろから背中を叩かれると、あれ実はものすごく気持ちいいです。

 私は若いとき、1週間ばかり禅寺に連れて行かれたことがあって、毎日ずっと座禅を組んでいると、首の筋とか背中の筋とか、それがコチンコチンに針金のように堅くなって、痛くて痛くてたまらなくなる。少しでも動かしたいんです。
 そのときに助け船のようにバシッバシッバシッ2~3回叩かれると、本当に気持ちいいものです。「もっとやって」と言いたいぐらい。一度やってみてください。叩かれるとこんなに気持ちいいものなのか、というぐらい気持ちいいものなんです。叩かれて、助けてもらっているんです。別に変な世界じゃないですよ。そういう修行の方法が座禅ですね。

 でも痛くなって、叩かれるのを待つようでは悟りじゃない。叩かれなくても、いつまでも座って座って微動だに動かなくなるまで座るのが悟りへの道です。
 叩かれるのはまだ下手です。下手だからいじめられているのではない。下手だから叩いて助けてもらっているんです。叩かれて叩かれて助けてもらって、気持ち良くなる。そういう達磨の禅、雪だるまにもなる達磨さんです。
 異民族の北魏ではそういう仏教が保護され、雲崗竜門などの石窟寺院がつくられます。中国の伝統宗教は儒教ですが、外来宗教の仏教が盛んになります。



【均田制】 北魏では漢化政策です。それにより遊牧社会と農耕社会が融合していきます。融合といえば聞こえはいいけど、実際はどんぶりの中でゴチャゴチャになっていく。
 この北方騎馬民族は、中国人のお金持ちが嫌いだったんです。お金持ちは、土地をいくらでも持っています。これを全部没収する。
 没収して自分でガメるじゃない。それを貧しい農民に貸し出します。これが均田制です。ヨーロッパの歴史ではこんな制度は現れません。こうやって小農民を保護するのです。

※ 北魏は、三長制と均田制を創設して豪族支配下の民衆を戸籍につけて土地を与え、兵役徴発や租税収入の基盤を拡充した。・・・・・・これは以後の北朝の諸王朝に継承された。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P111)


 これを真似したのが奈良時代の日本です。すべての土地をいったん公地にして、それを農民に貸す。そうすれば農民たちも生きていけるし、そこから税金を取れば国家も成り立つ。これは中国人の発案というより、北魏という騎馬遊牧民国家の発案です。こうやって農民に土地を貸し与えるという制度が日本にも影響しています。

 この北魏は534年に分裂して滅びます。あとは西魏東魏になります。さらにそれぞれ北周北斉になります。約50年間です。北魏からの約150年間を、まとめて北朝といいます。



【南朝】 では南朝はどうかというと、東晋は長江流域を支配しています。この地域を江南といいます。昔の揚子江、つまり長江の流域です。
 北を流れる川は黄河ですね。昔は木があったんだけれど、伐採したあと植林しなかったから今では土がむき出しになって、雨が降ると黄色い土がドロドロ流れこむ。そこに西の山の雪解け水がさらに流れこむ。だから洪水も起きます。雨が降らなくて乾燥すれば、土埃が舞い上がる。それが上空に舞い上がって西風にあおられて、日本にまで飛んでくる。これが黄砂です。ついでに言うと今ではPM2.5も西風に乗って中国から日本に飛んできています。

 南の方は長江、ここは江南という。ここに騎馬民族から押し出された漢民族が下っていきました。でも中国文明は北からの発生です。
 南朝になって初めて、長江流域の開発が本格的に進みます。中国の南半分がこの時代から開けてきます。
 420年東晋が滅んだ後も、次々に王朝が移り変わっていく。約160年間で4つの国が変わります。約40年ごとぐらいに宋・斉・梁・陳という4つの国がコロコロと変わる。

 さっき言った「倭の五王」が使いを出したのは、このなかのという国です。この国の歴史書である「宋書倭国伝」の中に「倭王武の上表文」というのがあって、日本の天皇である倭王武が国内を統一するさまをアピールしている文を載せています。これは日本史では有名な文です。



【騎馬民族の移動】 こうやって長続きしない国が続きます。そうすると万里の長城の北の騎馬遊牧民が力を持つんです。
 新たに起こってきたのは・・・・・・モンゴル高原も目まぐるしく変わります・・・・・・突厥(とっけつ)という。これだけでもいいですが、この間にチョコっと出てくる柔然もあります。いろんな民族がうごめいているんです。
 この突厥も騎馬民族で、馬に乗ってるから100年で1000キロ、200年で2000キロ、300~400年経てば、アジア大陸の東から西までサーッと移動していく。

 彼らは現在ヨーロッパの東の入口で国つくっているトルコ人のご先祖です。突厥はトルコのことです。
 いつの間に移動したか。匈奴だってヨーロッパの入口でローマ帝国を滅ぼすフン族になったという話があるように、アジア大陸ぐらい、馬に乗って数百年の間には簡単に走破します。移動するんです。
 彼らもまた移動のたびに文化を運び、国をつくっていく。おまけにペストまで運ぶ。ペストというのは伝染病です。これでヨーロッパは3人に1人が死ぬ。1億2000万の今の日本の人口で3分の1が死んだら4000万人が死ぬことになる。1000年後のヨーロッパでは、こんな病気が起こる。遊牧民は良くも悪くもいろんなものを運びます。



【日本】 前後しますが、この頃の日本列島は中国の後漢の歴史書が書いてくれています。57年に福岡県の小さな国、奴の国の王様が「漢の委の奴の国王」(かんのわのなのこくおう)の金の印鑑をもらった。そして後漢の光武帝から王にしてもらった。中国は皇帝です。そのワンランク下が王様です。王に任命するのは中国の皇帝です。「任命してください」と言っていたのがかなえられたのです。そうするとかたち上は中国の家来になる。
 こういう体制を中国はよくとります。これを冊封体制といいます。日本は当初、中国の家来という立場をとる。これは日本に限ったことではないです。中国の周辺国はそういう形を取ります。

※ 羈というのは馬のおもがい、あるいは手綱であり、縻というのは牛の引綱だといいます。これらによって牛馬をあやつるように、異民族を間接的に統治することを羈縻(きび)といいます。・・・・・・秦漢以来、中国王朝は郡県制度を施いて、中国内地を直接統治したのですが、国外の異民族には原則として旧来からの組織を温存し、その君主と中国皇帝とのあいだの君臣関係を結んでおくのをふつうとしました。前にのべました外臣との関係がそれです。このとき臣となった者に冊書とよぶ任命書を与えて国王に封ずる(任命する)という形をとりますので、その関係を冊封といいます。この冊封が羈縻政策のいちばん主な形態です。・・・・・・朝鮮には郡県をおいて中国内地と同じように支配しようとしました。しかしその下には朝鮮諸族の民族社会が存続していました。中国内地の郡県内にも異民族が多数居住していましたが、その社会も温存されて、既述のように、属国や道などの特別な統治機関によって治められていました。ここらにも羈縻の精神が生かされていたといえます。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P142)

※(●筆者注) 古代中国の唐の時代には、領土を広げ異民族を支配するとき、敵対した異民族を滅ぼそうとはせず、その地域の長官には現地人の部族長を任命して世襲させて統治した。これを羈縻(きび)政策という。羈縻とは、手綱で牛馬を繋ぎとめるの意味である。
 それ以前から、中国の周辺国に支配を及ぼすときは、現地の王をそのまま王として認め、自分の子分として朝貢(貢ぎ物をもってくること)させた。そういう地域は中国の一部だと見なした。朝鮮は長らくこれであったし、5世紀の日本もすでにこの枠組みの中に入った。これを冊封体制という。他地域を滅ぼさず、そのまま自分の子分にして支配下に入れるという方法は東洋社会特有の方法である。
 日本の律令制下の国郡里制もそうである。よく教科書では国郡里制によって中央集権国家が完成したと説明されるが、ではヤマト政権はそれまでの地方豪族を滅ぼして中央から役人を派遣したのかというと、決してそうではなく、郡司はそのまま地方豪族を任命して、実質的な地方政治を任せた。彼らは中央から派遣された国司を敬っていればそれでよかった。実質的な地方支配は郡司の手にあった。
  武士の時代になって発達する封建制度というのもこの延長線上にある。鎌倉幕府も室町幕府も封建制度であるが、最も強力な幕府であった江戸幕府でさえ、関ヶ原の戦いのあと、中央武士を地方に派遣して彼らによって地方政治を統括したのかというと、そうではなく、戦国時代の大名の多くをそのままその地に存続させ、彼らに地方統治を任せた。日本の封建制度は、東洋社会の伝統のうえに築かれたものである。
 ヨーロッパにも地方豪族による土地支配の時代があり、それを「フェーダリズム」というが、それは日本語では封建制度と訳されている。しかし日本の封建制度と西洋の封建制度では、そのもとになっている考え方が根本的に違っている。
 前者が争いを避けるのが前提になっているのに対し、後者は覇権を争うことが前提になっている。前者が争いを避けて国家としてまとまるのを目標としているのに対し、後者は争いを続けて国家が細分化する結果になっている。前者が自分の子分になれば滅ぼさないのに対し、後者はとことん争って相手を滅ぼす。このような社会の原理の違う社会の制度を、同じ封建制度と訳すことは多くの混乱を生む。
  東洋社会は地方勢力を残存させるという点では地方分権的であり、逆にそのことによって1つの国家としてまとまり、中央集権を成しとげたという点が重要である。

 

 この頃に日本は初めて国らしい国、つまり3世紀に邪馬台国ができます。これは今だに場所さえ不明で、どこにあったのかわからないのですが、王の名前だけわかってる。王は男ではなかった。これが女王「卑弥呼」です。邪馬台国は、九州人だったらやっぱり北九州説をとりたいところです。北部九州説と畿内説、この二つがあります。どうも畿内説が優勢らしい。


【弥生時代】吉野ヶ里遺跡を観光する前に!歴史を勉強して行こう!【見て覚える日本史シリーズ】



 でもその約100年後に、畿内の奈良県に大和政権ができます。これが4世紀のころの日本です。そのあとに出てくるのがさっき言った5世紀の「倭の五王」です。


百舌鳥・古市古墳群 PRムービー (Long version)



 でもこの朝貢形式・・・・・・冊封体制に入ること・・・・・・をイヤだと言ったのが、これが昔の一万円札の聖徳太子です。7世紀の人です。今は名前を変えて厩戸(うまやどの)皇子といっています。「冊封体制はイヤだ。家来になんかならないぞ。オレは対等につきあうぞ。遣隋使をおくるぞ」、それで有名な人です。


コメントを投稿