ひょうきちの疑問

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新「授業でいえない世界史」 3話の2 古代中国 秦~前漢

2019-08-26 09:03:34 | 新世界史2 古代中国

【秦】
 約500年間もの戦いのあと、やっとが国土を統一することに成功します。紀元前221年のことです。
 秦の王は政さんだった。しかし王になった時に、自分のことをこれからは始皇帝と呼びなさいと言った。これが彼の名前になる。初めて皇帝という言葉を使った。これが秦の始皇帝です。

▼秦・前漢時代の中国




【チャイナ】 中国のことをチャイナというのは、この秦のなまりです。秦はCHINです。日本は戦前まで中国のことをシナといっていた。CHINAです。こっちほうが実際の発音に近いです。
 英語は書かれていない発音をよく入れる。CHINA(チャイナ)は文字通りに読めば「シナ」です。英語流のチャイナはシナのなまりです。秦のもともとの発音はチナです。
 秦が潰れた後に、漢が登場します。地図の外側のラインが漢の領域です。漢が一気に西の方の砂漠や異民族の領地まで領土を広げます。

 この時代にも、やっぱり騎馬遊牧民は虎視耽々と中国をねらっています。それが匈奴です。ここには別種の騎馬遊牧民やいろいろの部族がいて、鮮卑(せんぴ)とかいう一団もいる。いろいろな騎馬遊牧民がまだ渾然一体となっています。
 易姓革命を唱えた中国に起こることは、度重なる農民一揆です。農民が王を殺します。コロコロと農民が国を倒していく。




【農民反乱】
 中国の農民反乱は半端ではありません。日本の百姓一揆どころではないです。本当に国を潰していきます。何回も何回も起こります。中国は激動です。
 「徳のない王は許さない。徳のない人間が王になって権力を振るったら徹底して潰す」、それが易姓革命です。これは「徳のない王は天の神様も許さないから」と考えるからです。「神様が天命をその人から引き上げてしまう」からです。徳がないからです。「そういう人間は王であることが間違いであって、そんな王は潰していい」と考えるわけです。
 そんな時は「徳のある別の人間が新たな王になってよい。徳さえあれば農民だって王になってよい」わけです。そして時々、本当に農民が王になります。

 日本で農民から天下人になったのは豊臣秀吉だけです。しかし秀吉は農民反乱によって天下人になったわけではありません。日本史を見れば分かるように、どこまでも天皇の権威のもとで天下人になります。
 しかし中国では王朝も交代は当たり前です。その代償は、大乱が起きて多くの人間が死ぬということです。





【天命】 王の上に天がある、という発想です。その天が与えたを王が身につけるかどうか、そこがポイントです。だから天命を重視しない王は徳がない。徳がない王は殺される。
  中国社会はもともと父方の血筋がきいている社会ですから、強い父方の血縁組織があります。そこに天命の思想が結合して、血統の正当性の上に天が与えた徳を身につけているかどうかが加わります。
 この二つが条件です。「血縁」と「」です。徳とは人柄みたいなもの。徳とは何かを一言でいうのは難しいけど、人徳の徳として日本語にもなってます。徳がある人というのは、ものすごい褒め言葉です。地位も権力も金で買えたりするけど、徳だけはお金で買えない。お金で徳を手に入れた人はいません。



【皇帝】 皇帝も徳があって初めて皇帝になれる。
 では皇帝という言葉の意味はなにか。皇帝の皇は下が王です。上は白です。王の上に白く輝くものがある。こういう人でないとダメです。白く輝くもの、これが徳です。
  では帝はなにか。これは神を祀るときのその儀式の台座です。これがないとうまく儀式ができない。権力だけではダメです。天を祭ることが必要なのです。
  こういうことで従来からの父方の血統を否定することなく、血統の上にさらに天から与えられた徳の正当性が加わる。この二つが王になるための条件です。

  血統を否定してしませんから、王様は世襲はオーケーです。世襲とは親から子、子から孫へと王位が受け継がれていくことです。古代の王権はほとんどそうです。日本の江戸時代の将軍様も世襲制です。
世襲の襲は字が難しいですが、考え方はそんなに難しいことではありません。どこにでも一般的に行われていることです。
 しかし、親が偉くても子どもはぼんくら、孫の代になるとプータロー、そういう人間が王になると国が行き詰まる。そこでが出てくる。天が「おまえは首だ」という。「オレが天に代わっておまえを首にする」、これが易姓革命です。そうすると国が潰れて、を備えた新たな王が生まれ、新たな国ができる。そういうルールが確立していきます。



【徐福伝説】 この始皇帝は絶大な権力を手に入れようとしました。それには永遠の命が必要だと考えました。そんなバカなと思わないでください。この時代には、年をとって力が衰えていく王は殺されたりしますから、王にとって永遠の命は王権の存続にとって死活問題なのです。
 それである家来に「オイおまえ、東に不老不死の薬があるみたいだから取ってこい」という。その家来が徐福という人です。日本には、この徐福が不老不死の薬を求めて日本にやって来た、という伝説があっちこっちにありますね。今でも徐福が神様として祭られている地域もあります。彼は不老不死の薬を見つけることができずに、中国には戻らなかったようです。

※【王殺し】
※ 未開の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている。・・・・・・自然の成り行きがこの人間神の生命にかかっているのであれば、彼(王)の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅を迎えることには、どれほどの破局が予想されることだろうか? これらの危険を回避する方法はひとつしかない。人間神が力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである。こうして人間神を、老齢や病で死なせる代わりに殺してしまう。・・・・・・殺してしまえば、まず第1に崇拝者たちは、逃げ出す魂を確実に捕らえ、適切な後継者にしかと移しかえることが可能になる。そして第2に、人間神の持つ自然力が衰える前に彼を殺すことで、崇拝者たちは、人間神の衰弱で世界が衰退するという危険を、確実に排除できるのである。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P303)

※ コンゴの人々は、彼らの大祭司チトメが自然死を迎えることになれば、世界は死滅し、もっぱら彼の力と功徳によってのみ維持されていた大地は、即座に消滅する、と信じていた。したがって彼が病に倒れたり死にそうに見えたりすれば、その後継者となる運命にある男は縄か棍棒を持って大祭司の家に入り、これを絞め殺すか殴り殺すのであった。メロエのエチオピア人の王たちは神として崇拝された。だが祭司たちは、そうすべきと判断すればいつでも、に遣いを送り、死ぬことを命じ、その命令は神々の託宣であると主張できた。王たちはこの命令につねに従順であった。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P305)




【郡県制】 では秦の始皇帝がやったことを見ていきます。中央の力を強くして郡県制を行う。郡や県は日本にもあります。県というのは中央の支配下にある地方組織です。その政治的独立性は非常に低い。この県を治めるのは地元の有力者ではなくて、中央からやってくる役人です。彼らは地元民の言うことは聞かない。王様の言うことしか聞かない。

  現在の日本の県とはちょっと違います。今の日本の県知事は東京のお役人が地方の県にやってきているんではない。日本の県知事は県民から選ばれた人です。でもこれは戦後そうなったんであって、戦前の日本では中央の官僚が地方に県知事として来ていました。もともとの県の原型はこれです。だから現在の県と昔の県では県のとらえ方が違うんですが、日本では「県」という言葉をそのまま使っています。
 戦前の日本の県と同じように、この時代の中国の県は王が選びました。「俺の言うとうりにやれ」と。

 しかし彼らは、今までの地元の組織を根こそぎ潰そうとはしません。それまでの地元の共同体を温存したまま、上から間接的に支配しようとしていきます。直接統治ではなく、間接統治に近いわけです。このことが、のちに触れるローマ帝国が、征服地を属州にして直接支配したことと違います。


※ 統一国家ができて、領域が拡大していく過程は、都市国家が他の都市を従属させていく過程ですから、都市国家の形態は消滅しません。・・・・・・県はやがてその上におかれる郡とともに、郡県制とよばれて、中央集権政治を象徴する制度のようにいわれていますが、しかし郡や県の中心地は従来からの都市に置かれています。・・・・・・こうして都市は存続するのですが、郡・県は都市を中央に従属させ、中央から命令を伝える組織です。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P68)



【度量衡】 度量衡とは、度・量・衡の順番に、長さ・体積・重さです。強い力で、始皇帝は度量衡も統一します。度量衡の統一は、強い政治力がないとできないことです。基準の変更は、最初は庶民は嫌がります。一時混乱しますから。しかし長い目で見ると必要なことです。
  それから以前から行っていた半両銭の統一も、全国的に推し進めます。



【中央集権】 こういうのが中央集権です。中央の力が強いのが中央集権です。この言葉もよく出てくる。中央が強いか、地方が強いかで。
  中央集権の逆の言葉はなにか。これも政治用語として覚えておいたほうがいい。中央が強いのは中央集権です。日本は県の独立性が強まったとはいっても、今度は財政面で独立できていないから、今でも中央集権的です。逆に地方が強いのは地方分権という。アメリカの州は、日本よりも強い地方組織です。
 中央集権を目指すのか、地方分権を目指すのか、というのは今の政治でも大きなテーマです。秦は中央集権型でした。



【思想統制】 次に郡県制という強い中央集権体制によって、法家思想の徹底をはかろうとします。
  秦が採用したのは法家思想ですから、中国の始皇帝は法家思想によって全国を統一しようとします。秦は徳が嫌いです。つまり儒教が嫌いです。儒教の書物を焼いて儒教の学者を埋める。これを焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)という。そういうことを行い、国民に人気があった学問つまり儒教を無視した。秦が、たった20年で滅びたのはこれが原因だと言われる。
  秦は短命です。儒教を無視し、法律で決まりをつくって、あまりに厳しいことを守らせようとした。そこには徳がない。「徳がなかったら潰れろ」ということで、すぐ農民反乱が起こります。

 紀元前210年に始皇帝が旅の途中で急死します。すると翌年の紀元前209年陳勝・呉広の乱が起こります。陳勝と呉広は一介の兵卒で、徴兵されたものの任地への到着が遅れ、「どうせ殺されるなら・・・」と兵を挙げたと言われます。あまりに安直すぎて、たったこれだけのことで秦がつぶれるのかと、ちょっと不思議な気がしますが、それをきっかけに次々と反乱が起こり、秦は紀元前206年に滅びます。武力では勝てても、思想面では儒教に勝てなかったということです。

  日本の農民反乱である百姓一揆はすぐに鎮圧されますが、中国では農民反乱が起きれば最後、国が滅びます。



【匈奴】 その農民反乱が起こる前のこと、秦は北方の騎馬遊牧民族である匈奴(きょうど)、これを撃とうとし、追い払おうとしています。匈奴征討を行った
 匈奴のことは前にちょっと言いましたが、200年ごとぐらいに中国北方のグループ名が変わる。共通しているのは、馬に乗った北方の騎馬遊牧民です。
 しかし彼らは強すぎてうまく追い払えない。中国の農耕民より騎馬民族が戦えば強いです。

 歴史上初めて馬に乗った男は、たいがい荒くれ男か、よほど運動神経がよかった人だと思います。馬の後ろ足で蹴られたら内臓破裂で一発で死にます。馬の後ろ足の破壊力は人間の100倍、蹴られただけで内臓破裂です。ヘビー級ボクシングのボディブローどころじゃない。そんな馬にまたがってその馬を操って走らせる。そしてこれを民族全員がやる。すごい集団です。
 そしてこれが世界中に広がる。つい100年前の日露戦争のときまで、日本の陸軍は馬に乗れることをリーダーつまり将校の条件にしていた。馬に乗れない陸軍将校なんて、つい100年前まで考えられないことだったんです。

 強い匈奴だから征討はうまくいかない。だから万里の長城をこしらえて、せめて中国に入ってこられないようにした。秦の始皇帝が本格的に作り始めた。それまであった各地の長城をつなぎ始めた。今の長城が一瞬でできたわけではありません。このあと何百年もかけて作り続けていくんです。それだけ中国には騎馬遊牧民の脅威が続いた。

 紀元前3世紀にはモンゴル高原などの今のモンゴル共和国には匈奴がいて、それまで分散していた民族を統一した。この人物を冒頓単干(ぼくとつぜんう)といいます。これ本当の発音は何というかわからない。これも中国がこう呼んだだけで、中国流に漢字を当てただけです。宛て字です。しかも漢字に意味はありません。 


※ 秦末に中国各地に群雄が起こったころ、匈奴には冒頓単于という君主が出て、モンゴル高原の大統一をなしとげました。冒頓というのは、モンゴル語でバガトゥール、バートゥル、英雄を意味します。単于はテングリコト単于の省略で、漢書によると、テングリは、コトは、つまりテングリコトは天子の意味、単于広大という意味だといいます。天にたいする崇拝は、中国でも北方民族のシャマニズムでも同じです。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P128)


 秦の始皇帝はこの匈奴に苦しみます。
  さらに秦は法家思想が強すぎて、「おまえには徳がないから潰れろ」といわれて、すぐに農民反乱が起こった。

 これが紀元前209年陳勝・呉広の乱です。この乱自体はすぐに鎮圧されますが、これをきっかけに次々と各地で反乱が起こり、秦は紀元前206年に滅びます。



【前漢】
 しかし秦が初めて中国を統一したということが受け継がれて、次に成立するのがです。紀元前202年成立です。これは前半200年、後半200年に分かれます。前を前漢、後を後漢と言います。途中で一旦滅びます。

 二つに分けてここでは前漢から見ていきます。我々が今使っている漢字は、この国に由来します。これが日本に入ってくる。
 この漢の都が長安です。今はちょっと寂れて西安といいますが、今も大きな都としてあります。世界史上で、捨てられた都はたくさんあります。そういう都市は、土を掘り起こさないと出てこない。でもこの長安は名前を変えて生き残っています。

 紀元前209年の陳勝・呉広の乱、これは農民反乱です。そこからいろんな人たちが抗争していって、最終的に生き残ったのもやはり農民です。それが農民出身の劉邦です。中国人で劉さんというのは、日本の鈴木さんとか田中さんみたいにありふれた名前らしい。普通のそこら辺の農民は劉さんです。名前は邦さんです。ありふれた農民の劉邦が・・・・・・しかもこの人は親分肌の遊び人であったらしい・・・・・・陳勝・呉広の乱後に発生した反秦軍に加わり、その中で次第に頭角を現します。 

  それと戦ったのが有力軍人であった項羽。劉邦と項羽が戦う。ふつうは有力軍人が勝ちそうだけど、中国は農民が勝つんです。

  紀元前202年前漢が成立します。そして農民の劉邦が皇帝になる。これが漢の高祖です。
しかしこの高祖の悩みの種が匈奴です。匈奴は強い。秦の始皇帝でも勝てなかった匈奴に圧迫され続けます。



【武帝】 この高祖の代には無理でしたが、その後、劉邦の曾孫の武帝が紀元前141年に即位すると、匈奴討伐を何回も行い、匈奴を挟み撃ちにしようと画策する。
 そのための方法が、漢の西方に別の遊牧民族で大月氏という国があるのですが・・・・・・これも匈奴の言葉を中国語の漢字に当てただけで「大きい月」とは関係ありません・・・・・・その大月氏に部下の張騫を派遣して挟み撃ちにしようとする。これはうまくいかなかったのですが、それほど本腰を入れて匈奴討伐に取り組みます。大軍を率いて、今まで勝てなかった匈奴を追い払う。



【匈奴の西遷】 この匈奴は逃げてどこまで行くか。西へ西へと逃げて、その後はよく分からなくなる。
  しかし「匈奴は約200年後にヨーロッパに侵入した。ヨーロッパに現れたときには、ヨーロッパ人からフン族と呼ばれた」と言われます。

  「匈奴とフン族では名前が違うじゃないか」と思うかも知れませんが、この当時ヨーロッパ人は中国のことを全然知らないから、もともと何族なのかは分からない。今2000年経ってこれを歴史的に見ると、「東の匈奴と西のフン族は同じ民族じゃないか」といわれています。でもまだ確証はありません。「匈奴はフン族となって、ヨーロッパ東部から侵入していく。または東から来た匈奴に追い出されてローマ帝国に侵入したのがフン族だったのではないか」と言われています。
  彼らは100年間で1000キロぐらい移動します。遊牧民は移動民族だから移動は速い。「こんなに東にいたのが、いま何でこんな西にいるのか」と思うかもしれませんが、爺さん・親父・自分の3代かければ、1000キロぐらい簡単に移動していきます。

 このようにして国は移動します。彼ら遊牧民の考え方は、国は土地ではないのです。人の移動したところが国です。「土地はどこでもいい。オレたちがいるところがオレたちの国だ」という考え方です。

  フン族は誰でもいいのですが、遊牧民が東から押し出されて西に移動したということが大事です。こういう遊牧民の西への移動は、このあとトルコ人の移動にも見るように、アジア大陸の歴史を貫く一本の柱として続きます。



 【大土地所有制限】 紀元前7年、哀帝は大土地所有の制限を目指して限田法を制定します。これは大土地所有者の反対が強くて実施されませんが、古代の中国で豪族の大土地所有に反対する「小農民をどうするか」という問題は、このあとも一貫して現れてくる課題です。小農民が本気で腹を立てると国が滅んでしまうからです。
 にもかかわらず豪族の大土地所有は進みます。お金はお金のあるところに集まります。それと同じように土地も土地を持つ者のところに集まります。これは中国独自の現象というよりも、富の論理です。

 しかし中国はこれを食い止めようとしていきます。ほおって置くと貧富の差が拡大するばかりで、多くの小農民が潰れていくからです。

  だから大土地所有を制限し、農民の土地を保護するばかりか、「国家が土地を農民へ分配しよう」としてきました。
 それがのちの西晋の占田・課田法であり、北魏の均田制です。その均田制は隋・唐の時代に完成されて、日本にも取り入れられ、日本の奈良時代の班田収授法となります。 日本では山上憶良の貧窮問答歌により、奈良時代の農民の貧困にあえぐ姿が強調されますが、それは班田収授法がうまくいかないからそうなったのであって、もともとこれは大土地所有制度を防ぎ、農民の生活を保護するためのものだったのです。
  そしてそれはヨーロッパのような奴隷社会ではなく、中国ではいち早く家族が成立し、その家族のもとに農業経営を行う自作農が社会の基礎になっている社会だからこそ、できたことなのです。



【新】
 約200年経って漢は途中一旦潰れます。そこで新しい国が起こります。たった十数年ですけど。これがです。紀元8年の建国です。ここから紀元後になります。
始皇帝の秦と発音は一緒ですけど、漢字が違う。別の国です。シンという国は、このあとも字は違いますが、同じ発音の国がよく出てきます。
  中国人はシンという国名にこだわりがあるのでしょう。新の建国者は王葬という人です。



【外戚】 王莽のもともとのポジションは前漢の外戚です。王葬という名前よりも、この外戚という言葉が大事です。皇帝の嫁さんを皇后といいますが、この皇后の親戚が力を持つんです。この嫁さんの親戚が外戚です。

 中国の女性は結婚しても姓を変えないことはすでに言いました。夫婦別姓です。ということは、嫁ぎ先よりも生まれた育った実家の方との縁がずっと強い。結婚してからもです。そうすると嫁さんの実家グループが、お嫁さんの親戚という立場で、旦那の王様一族を乗っ取っていく。外戚が国を乗っ取っていく。夫婦別姓とはこういうことです。
 男のAさんと女のBさんが結婚して、子供が男3人生まれたら、子供はみんなAさん、Aさん、Aさんです。嫁さんだけがBさんでA一族には入れない。姓が別だからです。結婚しても自分が産んだ子どもと一族のグループが違うことになります。

 これが政治争いになると、子供を殺す母親が出てくる。我が子が王になると、B一族の力で我が子を殺す母親が出てくる。夫婦別姓というのはこんな社会です。息子と母親は別の一族だからです。
 でも最近の日本では、この夫婦別姓が人気があるんです。特に高学歴の女性に。「中国の夫婦別姓がどういう家族を生んでいくのか。夫婦で別の姓を名乗るというのはどういうことなのか、知っているのかな」と疑問に思うことがあります。
 「夫婦別姓にしても家族なんだから今までと変わらないさ」、そんなに都合のいい家族があるんだろうか。一族が違えば、家族の権利も違ってきます。財産相続もできなくなります。そこには夫と妻の、そして母と息子の、そして皇帝一族と皇后一族の厳しい利害の対立が生まれます。

 新の建国が紀元8年ですからちょうど紀元前後ごろです。この時代にインドから伝わった宗教が仏教です。中国からさらに日本に伝わるのは、この500年ぐらい後です。
 この新もまた紀元18年に起こった赤眉の乱という農民反乱で滅びます。新が滅ぶのはその5年後の紀元23年のことです。

これで終わります。ではまた。


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