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新「授業でいえない世界史」2 4話 古代中国 後漢~三国時代

2019-08-26 09:02:23 | 新世界史2 古代中国

【後漢】
 赤眉の乱のあと、前漢の末裔であった劉秀が即位し、後漢25~220)を建てます。彼が光武帝です。
 紀元57年に後漢は日本の福岡県の奴国に「漢の委の奴の国王」の金印を送っています。そしてこれがずっと後の江戸時代に福岡県の志賀島から発見されます。そういうふうに日本史と関係します。

 後漢になると匈奴を追い払っていきます。その家来は班超という人物です。
 この後漢の文化水準についてはがすでにあったということです。「そんなこと当たり前じゃないか」と思いますか。ヨーロッパではあと千年間も紙がないんです。紙の製法を工夫したのは蔡倫という人です。

 ここでも、だんだんとお金持ちが農民の土地をガメて大土地所有化していきます。ヨーロッパは徹底的に大土地所有ばかりになりますが、中国がちょっと違うのは、ある限界超えると農民が本当に腹を立てる。限界超えた瞬間に農民が国を潰す。
 また農民反乱です。184年黄巾の乱。黄色い鉢巻きです。巾とは鉢巻きです。黄色い鉢巻きをして本気でやる。今でも日本の鉢巻きは本気の証です。この農民反乱で一国が潰れます。

 こういう農民反乱が頻繁に起こるのは中国だけです。反乱はヨーロッパでもおこるけど、起こすのは農民じゃなく貴族です。でも中国は農民です。ということは、中国ではすでにこの段階で社会の基盤として、小さな土地を持った小農民が力を持った社会が成立していたということです。これを怒らせるととんでもないことになる。国がひっくりかえるほど。

 そこに民間宗教が加わります。この黄巾の乱は、なぜ死を恐れなかったか。宗教がからみます。太平道とか五斗米道(ごとべいどう)という民間信仰・・・・・・これらがのちの道教になりますが・・・・・・こういう宗教が農民反乱と結びつく。反乱と宗教はよく結びつきます。それは日本の戦国時代でも見られることです。宗教と結びついた反乱は死を恐れなくなります。徹底して戦います。後漢は220年に滅びます。



【宦官】 この漢の時代の文化です。
 秦の始皇帝は法家思想を重視して儒教嫌いだったのですが、中国の学問の中心は儒学です。孔子の教えです。

 また中国ほど歴史を詳しく書いて残していった国はない。まだ歴史家というのは、この時代にはまだいませんが、今の歴史の本に匹敵するような歴史の本を書いた人物がいる。司馬遷です。司馬が名字、司馬の遷さんです。この歴史書が「史記(しき)」です。
 この司馬遷、本当は有能な役人だった。しかし彼は政府に反発して宦官にさせられる。中国にはこの刑罰がある。日本にはない刑です。ぶっちゃけて言うと、タマを切られることです。王が罰としてタマを切ること、つまり虚勢することです。そして王の嫁さんたちの世話をさせる。
 中国にはこういう人がいっぱいいる。彼らは政治犯とか、頭がいい人たちです。だから宦官が力を持つ。

 中国で力を持つのは二つの勢力です。一つは嫁さんの親戚。もう一つがタマを切られた男。つまり外戚宦官です。

 王に逆らうと宮刑というタマ切りをされて、宦官にさせられる。その屈辱の中で「それでもオレは正しいことを書くんだ」と言って完成させたのが「史記」です。これがすばらしいのは、「王様のいうとおりに書いていない」ということです。嫌いなものは嫌い、ダメなことはダメと、自分が思ったとおり書いている。そこがいいのです。「非常に優れた歴史書だ」と2000年経った今でも言われます。これが司馬遷の「史記」です。

 「勝てば官軍」で、歴史書はふつう勝者によって書かれますが、それでも本当に歴史を勉強した人は、命をかけて本当のことを書こうとしてきた。だから歴史家とは本当は危険な職業です。それを承知でやむにやまれず、本当の歴史を書こうとした人がいる。それをバカだと思うか、男のロマンだと思うか、そこが人間の分かれ目です。正義とは何か、そんな難しいことは私には分からないけど、ここには確かに自分の利害を超えた正義が発生しています。
 権力に逆らうと殺される。その前に男はタマを切られる。非常に屈辱的な罰です。この屈辱がいかに大変なものかは、男なら感覚的にわかるでしょう。当たり前のごとくついていて、時々邪魔になったりするけれども、これがないと男は非常に困ったことになる。これに打ち勝つには強靱な精神力が必要です。

 もう一つ要らないことを言うと、宮刑つまりタマ切りというのは、農耕民の伝統ではない。馬を飼ったり、牛を飼ったり、豚を飼ったりしている家畜農家は家畜のタマ切りがうまい。これは遊牧民の伝統です。
 中国にはこうやって遊牧民の伝統が入っている。罰にタマを切るということを農耕民は思いつかない。雄の暴れ馬とか雄の暴れ牛、そういう気の荒い動物の雄はタマを切るとおとなしくなる。遊牧民族のようにいつも動物を飼っている人は、それを知ってる。噛みついてばかりいるような動物は危険だから、ひと思いにタマを切る。
 日本人のような農耕民は、ペットが子供のときから、ちゃんと「お手」を教えたり、噛まないようにしつけますが、彼らは「エイ面倒だ、タマ切ってしまえ」です。そうするとおとなしくなることを知っています。

 でもこの司馬遷はおとなしくならなかった。悔しさをバネに、一生懸命に歴史を書いた。人間とはそういうことができますね。これは歴史を書いて名を残すとか、そういうこととはまったく違った次元の問題です。男にとってタマ以上に大事なものを見つけられるかどうか、それは人生の大きなテーマだと思いますね。



【シルクロード】 その遊牧民です。遊牧民の活動するアジア大陸は三つに分かれていて3つの帯があります。
 1番目にはです。針葉樹林の松がずっとある。これをタイガといいます。
 2番目にはです。草の道、がここにある。遊牧民はどこで活躍するか。この2番目です。草原です。
 3番目に、その南になると砂漠です。砂漠には人が住まないじゃなくて、ところどころオアシスがあって人が住めるんです。山から水を引いてきて、これがカナートとかフォガラとかいいますが、水路を地下に通すんです。
 ヘリコプターから見るとところどころにボコボコと穴が空いていて、何だろうと思ってみてみると地下水路なのです。すごい土木工事と維持管理です。何十キロと水を通すための地下トンネルを掘らなければならない。こんなことをやる人たちもいる。
 しかし、ここでのメインはこの2番目の草原です。



【草原】 遊牧民の活躍するところは、そのうちの草原です。ここに、かなり古くから遊牧民が暮らしていました。この時代に突然できたんではありません。しかし彼らは農耕民と違って文字を発明しなかったから、古いことはわからない。

 彼らはただ馬のあとをついて行くんじゃなくて、誰かが馬の背中に乗りはじめた。そしたらみんな真似して乗り出した。それが遊牧の移動技術にもなり、さらに戦闘の技術にまでに高められていく。そうすると軍事的に圧倒的に強くなる。中国人の比ではなくなる。そういう人たちがこの草原地帯にいます。
 東から西へ、西に行けば行くほど肌の色はヨーロッパ人に近づいていきますが、肌の色には関係なく、草原で暮らす生活の技術はこの騎馬遊牧に繋がっていくんです。

▼ユーラシア大陸の東西交易路

 
 まず前6Cにロシア近くで現れたスキタイ人という騎馬民族が出てきます。名前からして白い肌の人でしょう。白人に近い。彼らが最初の騎馬遊牧民だといわれます。
 中国に近づくとオアシスの民がいる。砂漠の中にはところどころオアシスがあって、そこで農耕を営んでいる。農耕民は家を建てて定住するから物を貯めることができる。

 でも騎馬民族は移動しなくてはならないから大きなものはもてない。
 春の草を1年かけて馬が全部食ってしまったら、草原はパーになって再生できません。草を食べ尽くす前にチョッと残しておくのがミソです。何でもそうですね。全部取ってはダメです。だから馬が草を食い尽くす前に移動して、別の場所を探さないといけない。1年のうちに最低1回は移動しないといけない。
 遊牧民は、家に物を貯めていても持って行けない。だから貯めない。だから完全な自給自足はできないのです。

 何か必要なものは、このオアシス農民の世話に分けてもらうしかない。「交換してくれ。乳を持ってきたから、これと交換してくれ」と。こういう交易が出てくる。交換は商売の始まりです。そこでその商売上手な人たちがこの地域にはいっぱい出てきて、これがソグド人という人たちです。



【シルク】 ただ最初に言ったように、アジア大陸の東と西で、西のヨーロッパが進んでいると思ったらわからなくなります。東と西のどっちが人口収容力があるか。どちらが物が豊かだったのか。東の中国が物が豊かなんです。豊かなところはいろんな余剰生産物、高価なものを作ることができる。これがシルクです。シルクはです。

 絹といってもわからない人もいますから、絹は何からつくるか。これは動物性繊維です。シルクというのは何の糸か。糸を出す動物はいっぱいいるでしょ。蜘蛛でも糸を出す。蚕です。こう書いたら「テントウムシ、天と虫」なんて読む人がいた。これはカイコと読みます。このカイコの糸を束ねて、太くすると生糸になる。この生糸を、縦糸と横糸を折り合わせる技術を持つと絹という布になる。非常に美しい布です。

 英語でシルクといって、ヨーロッパ人が欲しくて欲しくてたまらない。でも自分たちでは作れない。すごい技術だから。欲しくて欲しくてこれを延々と東の中国に求めた。その道をシルクロードといいいます。
 モノの流れはヨーロッパからアジアじゃなくて、逆にアジアからヨーロッパに流れる。これは昔からずっとそうです。逆に言うとヨーロッパ人がアジアのものを欲しがったのです。

 でも中国人は「ヨーロッパに何か欲しいものあるか」というと、ありはしない。十分今のままで足りている。ずっとそうです。ヨーロッパ人から「買ってよ」と言われても、買いたいものがない。
 でも2000年後、ヨーロッパは武力で脅して、「買わないか」と言う。中国に何を持ってきたか。これが麻薬、アヘンです。それで起こるのがアヘン戦争です。2000年後、ヨーロッパは中国が要らないものを押しつけていく。今のはずっと後の話です。

  シルクロードは、何千キロの荷物を1匹のラクダが運んだりしませんよ。100キロごとぐらいに、リレー式で運ぶんです。そのリレーを繰り返していくとシルクの売り買いが何度も行われ、値段が途方もなく高くなっている。それでもヨーロッパはシルクを欲しがったということです。
 そのシルクロードの道は5~6本あるけど、その中心をいうと、シルクロードはこの道(上の図のまん中の赤線)が中心です。ここらへんは中国史によくでてくるけど、込み入っていてよく見ておかないと分からなくなります。

 わかりにくいのは、アジアの真ん中、これを中央アジアといいます。中央アジアの目印は・・・・・・今は水が干上がってだんだん小さくなっていますがアラル海・・・・・・そのアラル海に流れるアム川、シル川です。これが目印です。
 ここを中心にした地域を中央アジアという。もともと肌の白い白人が住んでいたらしいけど、今は東の中国方面から来た騎馬民族が住んでいます。千年間で血がまじり合っていろんな顔の人たちが現在住んでいるところです。これが陸の道のシルクロードです。

 それからもう一つ、海の道というのがあります。この港として有名なのは中国の広州です。この広州に香港があります。広州に入り口の入りやすいところにイギリスがつくった町が香港です。そして植民地にされた。19世紀のことです。昔からこういうルートで海でも行けます。

 この陸の道の険しさは、アジア大陸の山は日本の比ではない。世界で一番高いヒマラヤ山脈、これはまず越えられない。山は酸素ボンベをつけないと越えられない。
 あと中国にテンシャン山脈というのがある。この山は避けていく。山越えして行くと高すぎて高山病になる。普通の人間にはできない。
 そういったところを、200~300年ごとに騎馬遊牧民が移り変わって支配していきます。そのたびに国の名前が変わります。

▼2世紀の世界



【騎馬遊牧民】 中国を見るときに、農耕民と騎馬民族のこの関係を頭に入れておかないと、わけが分からなくなります。
 中国人の本当の敵は騎馬遊牧民なんです。そのあとに国内のライバルがいる。国内の敵に手を焼いていると、外からバカッとやられる。その代表的なものがモンゴル帝国です。モンゴルの強さ、あれほど広大な帝国を築いたのはモンゴル以外にない。いまだかつてあれほど大きな国をつくった民族はない。ロシアだっておよばない。
 漢の時代には北方騎馬民族は匈奴だった。彼らは南の秦とまず戦った。秦がすぐつぶれて漢になっても負けなかったが、しかし武帝の時代に敗れて衰退した。それが西の方でフン族となり、ゲルマン人を押し出した。そのことはすでに言いました。

▼騎馬遊牧民の変遷

 


【鮮卑】 ではその次、このあとに出て来る民族がいます。匈奴がいなくなったからといってモンゴル高原に人がいなくなったわけではなくて、また別のグループがやって来る。これを鮮卑(せんぴ)といいます。これも中国人が呼んだ名前だから「鮮やかに卑しい」とか、ちょっと蔑んだ名前をつけていくんです。

 しかしこれが一度強くなって中国に入るとダントツ強いんです。それで中国に侵入して「北魏」という自分たちの国をつくります。これはあとで言いますが遊牧民の国です。漢字になっているから中国人みたいですけど。中国にはこういう北方遊牧民がつくった国というのはいっぱいあります。名前だけ中国風にするから、我々日本人は中国人の国だと勘違いするけど、彼らは遊牧民です。
 彼らが中国の支配者層になっていく。彼らは政治力は弱いけど、戦いになると強い。
 実はこのあと出てくる隋と唐。日本が遣隋使、遣唐使を送った国ですが、これももともとは遊牧民の国で、彼らの血の半分は鮮卑族です。



【突厥】 その唐の北方に、突厥というグループが出る。「とっけつ」と中国人が呼んだ。どうもトルコという発音みたいです。
 トルコと言えばヨーロッパの入口にある国です。これもあとで言いますが、1000年かかってそこまで何千キロも移動する。東から西にずっと移動していく。
 そしていまトルコ共和国になっている。トルコ人はもともとモンゴル高原出身です。

 それからウイグル。これもトルコ人の一派で、これはまだ中国にいる。独立運動している。新疆ウイグル自治区というのが中国内にある。
 こうやってトルコが西に移動した。中国の西の中央アジアは白人の世界だったのが、だんだんとトルコ人の地域になっていく。

 最初は匈奴、次は鮮卑、柔然は飛ばして、次が突厥、これはトルコです。それからウイグル、彼らは今も中国国内にいる。漢民族じゃない。彼らは中国を荒らし回る脇役というより、ある意味アジア大陸の主役です。このあと、ジンギスカンのモンゴル帝国が出てくる。



【三国時代】
 漢が潰れたあと中国はどうなるか。漢が潰れて中国は三つに分裂します。北の、南の、西の外れの。これを三国時代といいます。

※ 後漢王朝が衰退する一方で、力を増していったのが各地の豪族勢力であった。彼らは流浪の人々を、私的な武装集団の兵士「部曲」として吸収し勢力を伸ばした。こうして力をもった豪族勢力のなかから地域社会のリーダーがあらわれる。しかし彼らの利害は一致せず、やがて「三国志」や「三国志演義」で知られる群雄割拠の時代へと突入する。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P109)


 この時代の歴史は日本の漫画でも有名です。「三国志」です。劉備玄徳などいろんな人が出てきますが、それはカットします。三国の名前は、魏、呉、蜀です。
 これだけが主役じゃなくて、もう一つの主役に騎馬民族がいる。匈奴がいる、鮮卑がいる、ということです。

▼三国時代の中国




【邪馬台国】 それから日本との関係で言えば、日本は女王がこの三国の一つに使いを出した。
 女王とは誰か。女王卑弥呼です。国は邪馬台国です。昔カステラのコマーシャルか何かであったけど、「魏志倭人伝の昔から」というフレーズのコマーシャルがあった。その魏志倭人伝です。
 邪馬台国のことは、中国の魏の歴史書に書いてあります。日本にはまだ文字がないのに、なぜ日本の邪馬台国のことが分かるかというと、中国の魏の歴史書に書かれているからです。「日本から王様の使いが来た」と。この時代のことです。紀元3世紀、200年代です。

 魏も呉も蜀も約50年間争ったあと、結局は国家統一に失敗して別の統一国家ができた。
 これがです。でもあとで移動して東晋になるから、それと区別して西晋といいます。建国は265年、建国者は魏の家来の司馬炎です。
 
これで終わります。ではまた。


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