ひょうきちの疑問

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新「授業でいえない世界史」 2話の1 古代中国 殷

2019-08-26 09:05:15 | 新世界史2 古代中国

【中国】
 まず中国からいきます。どこから行くかは、エジプトから行ってもいいし、メソポタミアから行ってもいい。決まりはありません。教科書によっても違います。

※【仰韶文化】

※ 紀元前5000年頃からの仰韶文化では、人々は母系の家族で暮し、住居や墓葬にめだった差はなく、まだ強力なリーダーは出現していない。

 紀元前4500年頃の紅山文化では、円形と方形の祭壇を備えた祭祀施設や、竜を図案にした玉器などが発見されており、祭祀を通じた地域統合が進みつつあった。
 紀元前4000年頃から各地で父系による首長制の社会が形成されていった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P87)

※【母系社会】
※ (アメリカ・インディアンのズニ族は)農業は男子の仕事で、親類の男たちがみんな集まり、順を追ってみなの畑を耕した。・・・・・・作るのは男性であるが、採れた物は女性の物と考えられた。・・・・・・畑も女の物であった。男は必要なら新しい畑を、いつでも焼きひらくことができるから、既成の畑は女にやっておけという考えであったらしい。・・・・・・過去においては狩猟が重要だったけれども、時がたつにつれて農業が中心になってきたものと思われる。しかし農作物がよくできない年は、狩猟が一時的に大切になった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P148)

※ (アメリカ・インディアンのズニ族では)ヒツジは男性の物で父からむすこに伝えられた。これは畑が母からむすめへ伝えられたのと、大きな対照をなしていた。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P149) 

※ (アメリカ・インディアンの)ズニ族の家系は女系中心であった。娘たちが結婚すると、その主人たちが移ってきて同じ家に住んだ。・・・・・・このため女性は生まれた家で一生をすごした。一軒の家にはまずおばあさんが住み、そのむすめさんたち、まごむすめたちが住み、これら女性のおむこさんたちが全部住み、その上に未婚の男子が住んでいた。時には一軒に住んでる人の数が、30人以上になることもあった。家は、畑と同じように女性の財産であったから、結婚した男性はよそ者扱いで、自分の家は生まれた家で、今住んでいるのは自分の家ではないという考えを持っていた。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P151)

※【竜山文化】

※ 紀元前3000年頃からの竜山文化では、大規模な城壁をもつ集落が建設されるようになり、大集落が周囲の小集落を従える形で秩序が形成されていった。
 紀元前2000年頃に黄河中流域に栄えた竜山文化は二里頭文化へと発展する。この二里頭文化を継承して発展した二里崗文化が、殷前期の文化であり、黄河文明を生み出すのである。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P87)

※ ホー・ピンチは、仰韶時代の社会は母系制であったという。ところが、続く竜山時代には父系制へ移行し、祖先崇拝が支配的になっていった。(世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P18)



 【都市国家】 中国も、九州の吉野ヶ里遺跡と同じような都市国家から生まれてきます。ただ中国には漢字があって、都市国家と4文字で書かずに一文字で書きます。それをといいます。日本ではほとんど書かない字ですが、都市国家のことです。
 吉野ヶ里遺跡と同じように回りに堀を巡らしたり、城壁を作ります。日本のお城もそうです。周りにはお堀があり城壁がある。そうやって敵から守るんです。それがだんだんと領地を広げて領域国家になる。
 しかしギリシアのように、そうならない場合もあります。ギリシアは都市国家のままで広がりません。しかし中国は広げていきます。この違いがなぜなのか、まだ明確には分かりません。しかしこの違いは大事なことです。


※【原始民主政】
※ イコブセンという人は、メソポタミア文明の初期の時代に、「原始民主政」というものがあったという説をとなえました。それによるとシュメールの都市国家形成期には、民会と長老会とがあり、ふだんの政治は長老会の決定によっておこなわれましたが、国家全体の運命を左右するような決定の場合には、民会が招集されて議論がなされたといいます。民会は軍事上の義務を遂行する人々の集まりだということでありますから。ギリシアの市民、中国の国人の集会に相当します。のちに君主の権力が強くなると、オリエントでは民主政がなくなってしまいます。専制国家といっても、最初から君主の権力が大きかったと考えるのはおかしなことです。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P65)

※ 君子権力が強化されるのは、こういう民衆の集落を権力の下に組織したときです。そういう一つの画期として、春秋時代の中頃、民衆が農村から都市の内部に移ったときがあげられます。こういう現象はギリシアでは集住(シノイキスモス)といい、ギリシアでも中国でも兵制改革が原因で、民衆が軍隊の中核になり、歩兵として集団で戦うようになったのがきっかけです(それまでは支配層が戦車を馬にひかせて戦っていたのです)。これから民衆が政治上重要になり、ギリシアでは民主政が進むのですが、中国では都市を支配していた君主が民衆の軍隊を掌握し、君主権力が強化されて乱世を勝ち抜くようになります。これが東洋と西洋とのわかれめだともいえます。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P66)

※ 民衆の無権利の上に立つ専制政治などというものは存在しないのです。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P75)



【殷】
 まず最初の国家についてです。その領域を図で確認してください。今の中国は北はモンゴル高原の南まで、西はテンシャン山脈まで、これ全部が中国ですけれども、最初の国家はもっと小さいです。
  これをといいます。紀元前1600年ぐらいにできます。この殷の成立については詳しいことは分かりませんが、例えば、このあとでいうメソポタミアの国家成立の事情と比べると、メソポタミアでは都市国家同士の絶え間ない戦争が繰り返されたのに対し、中国ではそれほど戦争のにおいを感じません。もっと平和的に国家形成がなされたというか、戦争以外の方法を通じて国家形成が進んでいったような印象を受けます。その方法とは祭祀を通じての国家形成です。神様を統合することや、神様を秩序づけることによる国家形成です。
 私の印象としては、「国家形成=戦争」というイメージに縛られすぎると、逆に歴史のとらえ方を狭くすることにつながるように思います。

  ちょっと先のことを言いますが、それを滅ぼして、新しい国家にしていくのが・・・・・・今度はもうちょっと広がって・・・・・・これがです。殷と周という国ができる。このことを見ていきます。
 中国は広くて目印がないから、山とか湖とか川とかは頭に入れておかないと、場所がどこだったかわからなくなります。

▼殷と周の勢力範囲



 最初の国はです。紀元前1600年頃から紀元前1050年頃まで。これももともとは都市国家です。といっても村の大きなものです。これを中国ではといいます。
 この殷の後期の都として殷墟があります。首都は何度か変わったようです。ここは宗廟と墓地が設けられた場所であり、都はその近くにあったといわれています。


中国世界遺産 殷墟1 2014.6.27



※ 殷後期の王都と考えられている殷墟は、実際のところ宗廟(そうびょう)と墓地を中心とした地であり、城壁は未発見のままである。(世界の歴史2 中華文明の誕生 尾形勇・平勢隆郎 P83)


  ヨーロッパでは中世まで王の宮廷は絶えず変わっていて、後でいいますが神聖ローマ皇帝の戴冠を受けた10世紀のオットー大帝の宮廷はいつも移動しています。こういうのを移動宮廷といいます。
 それに比べたら、中国は次の周の時代には固定した首都を定めます。王様はそこから動きません。これは安定した統治組織がないとできないことです。


【ラストエンペラー】 末代皇帝,1,登基




【神権政治】 王になってグループをまとめていくときに、この時代には、神様と繋がりがあるのは当たり前です。「神様と繋がって何がおもしろいか、くだらない」と言ってしまうと古代史はわからないです。
 日本でも、江戸時代まで政治のことを「まつりごと」と言っていたぐらいです。これを神権政治といいます。「オレは神様に近づく能力がある」、そういうことを王はアピールしていく。
 そしてその宗教的権威によって、自分の言葉で従わせる場合もあるし、「俺は神のお告げを聞いた」と言って納得させる場合もある。その納得させるやり方が、いろんな占いです。だから占いの技術が発達します。
 当たる時もあれば、当たらない時もある訳ですが、当たらないときは王は責任を取らされて殺されたりする。危険な仕事です。政治家になっていい加減なことをやっていると命を取られます。これは今も昔も変わりません。

 そういう危機感の中で、頭のいい王は占いに見せかけて、自分の考えを神のお告げに託して言ったりするわけです。
  その占いの証拠として甲骨文字があります。この時代には紙がありません。文字はあるけど紙がないから、それを何に書くか。それが動物の骨、それから亀の甲羅などです。そういうものに刃先のとがったようなものでこすりつけて、文字を刻んでいく。
 この当時は絵みたいな変な文字ですけども、これが我々が使う文字のルーツ、つまり漢字になっていく。これを甲骨文字といいます。亀の「甲羅」や動物の「骨」に書かれた文字のことです。これが漢字のもとです。

 なぜ記録を残すのか。証拠を残しておくためです。もし占いどおりの結果が出なかったら、王も責任を問われます。雨乞いをしたのに雨が降らなかったら、王は責任を問われます。交代させられるだけでは済まなかったかも知れません。だから王も必死です。

※ 殷王朝の王位は、いくつかの族集団から交互に選出された王によって継承され、資料に見える形としては兄弟相続が主流であるかのように記されている。これに対して、西周の王位は、資料に見える形としては、直系の子孫を重視して継承されている。王を選出する族集団それぞれは、王を継承する資格のある血統が存在し、それが殷の場合には複数、周の場合には単数もしくはそれに近いものだったことの反映である。(世界の歴史2 中華文明の誕生 尾形勇・平勢隆郎 P83)


※ 甲骨文字のしめすところによりますと、殷王は甲骨を焼いて神の意志を卜い、それによって行動を決定しました。殷王は神にかわって政治をおこない、人々も神を信じてそれに服するのですから、その権力は強大に見えるのです。このようなシステムを神権政治と申します。・・・・・・殷は親族ないし数氏族の連合政権ということになりますから、王が強大な世俗的権力をふるったということはいえません。・・・・・・種族を異にするいろいろな勢力が殷の周囲にいて、殷の連合政権に服属したり、戦争をしていたということになります。・・・・・・殷の次の周になりますと、以前からの諸国家・諸種族が各地にいるわけですけれども、その間に一族を配置して領土を与え、国家をつくらせます。これがいわゆる封建制度です。殷では支配氏族はみんな都に住んでおり、交替で位につきました。そこが殷と周の違いです。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P40)

※【祖先神と天】
※ (殷の)武丁の時代には、祖先の祀りは盛んにとり行われたけれども、祀りの日どりについてはそのつど卜いによって決められていたから、月次祭のような一定の祭祀日程表はまだ存在していなかったわけである。ところがこれが新派になると、先王と先ピ(先王の妻)の祭日と五種類の祀りとが、整然とした順序によってとり行われているのである。(世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P91)

※ 中国では・・・・・・祖先の位牌を安置する建物を宗廟といい、宗廟に謁する儀礼を謁廟(えつびょう)という。・・・・・・秦から漢初にかけては、皇帝が宗廟で即位する宗廟即位が原則であった。(天皇と王権を考える1 金子修一 岩波書店 P168)

※ 帝(という神)は至上神の地位にとどまる。他の神々は、王家の祖先と同様に、帝に従うのである。帝をとりなすことができるのは、王家の祖先だけである。また、王だけが祖先と交渉できるのは、王が「比類のない人間」だからである。君主は祖先の助けを借りて、その権威を強化する。殷王朝の支配は、祖先の呪術・宗教的な力に対する信仰によって正当化された。・・・・・・
 一部の学者が説くように、貴族の支配層が祖先崇拝を重要視し、そのためにしだいに他の社会階層にも受けいれられていったと考えるのは正しくない。祖先崇拝は、新石器時代には充分に根づいていて、一般化していたからである。・・・・・・農耕が始まったときから、祖先崇拝は(人間と宇宙との循環の概念をもとに構造化された)農耕民の宗教システムの本質的な部分を構成することとなった。この太古の崇拝に政治的な機能が与えられたのは、を始祖とする王が卓越した地位を得ていたからである。
 王は2種類の犠牲を捧げた。祖先に対するものと、や他の神々に対するものである。(世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P21)

※ 自然物を神格化した自然神としての「上帝」について検討する。上帝には(1)自然を支配する力、(2)人事に禍福を降ろす力、がある。(世界の歴史2 中華文明の誕生 尾形勇他 中央公論社 P90)

※ 殷王は占い師の集団を率い、獣骨や亀の腹甲を裏から熱して表に入る亀裂で宇宙の支配者である「」の意思を占いながら政治を行った。(早わかり東洋史 宮崎正勝 日本実業出版社 P25)

※ 帝事は、主神として上帝を祭祀するほか、・・・・・・祖神を上帝に配して祭った。(世界の歴史2 中華文明の誕生 尾形勇他 中央公論社 P92)


 この甲骨文字によって「先王に対する祭祀が整然とした定制のもとに行われていた」(世界の歴史2 中華文明の誕生 尾形勇・平勢隆郎 P89)ことがわかります。ここで王に宗教的権威を与えるのは血統の信仰による祖先神なのです。日本流にいえば「ご先祖様」です。中国では血縁集団が非常に大きな力をもっています。



【邑の連合】 ギリシャでは都市国家同士がずっと戦争していくだけで大きな国家はつくられませんが、中国は戦うことよりも有力な都市国家が互いに連合して、手を握ることに成功していきます。「オレの子分になってくれれば、あとは任せるよ」という感じです。
  連合した邑はそのまま生き残っていきます。王も生き残ります。王が拝んでいた神様も生き残ります。連合した新しい国家の王は、他の地方の神様を拝むことを禁止しませんから、国内にいくつもの神様が生き残っていきます。だから多神教です。

※ 原始社会にあっては闘争が絶えず繰り返され、また武力的な統一によって、国が形成せられてきたことを説いているが、私はそれのみで国家が統一されていったとは思わない。むしろ戦争によらずして社会の拡大が見られていった場合も多いかと思う。(開拓の歴史 宮本常一 未来社 P80)

※ 神話を合理化する際に、例えば日本では、日本書紀のように、大和朝廷による統一を正当化するために、異部族の神々を、血統的な関係に組み入れている。これに対して中国では、各部族の祖神を、古代統一帝国の帝王の臣下の関係に組み入れているのである。(世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P45)

※ 大和朝廷の国家統一には今一つの変わった方法が採られている。「古事記」や「日本書紀」の記すところによると、天皇や皇子はしばしば地方を巡幸し、その間に地方豪族の娘と婚を通じている。 「日本書紀」の記事は崇神天皇のころから史実に近いとみられているが、皇后および妃の出身が地方豪族の家である場合が多いのは注目に値する。かくて一種の婚姻政策によって国家の主権が確立していっていることの中にも、稲作を中心にした農業国家のあり方を見ることができる。(開拓の歴史 宮本常一 未来社 P82)

※ (日本では)もともと国司・郡司による民衆支配のあり方は、武力を保持してはいたものの、平時にむきだしの武力を用いて強圧的支配を行うわけではなく、祭祀・勧農や民衆強化といった儒教的徳治主義や国家の公共性を強調した行政的・制度的・儀礼的な統治がめざされたのであった。(日本史リブレット8 古代の地方官衙と社会 佐藤信 山川出版社 P22)

※ (日本では)国司によって国内の在地の神々への神拝や奉幣が行われることも、国司による国内神拝、国司奉幣として知られる。・・・・・・院政期に因幡守であった平時範があわただしく因幡国内の諸神社を神拝してまわったようすが彼の日記「時範記」に記されている。(日本史リブレット8 古代の地方官衙と社会 佐藤信 山川出版社 P28)


 ここがヨーロッパと違うところです。ヨーロッパの都市国家は連合するのではなく征服していきます。そして負けた王を殺します。人々は奴隷にされます。それとともに彼らが拝んでいた神様も滅びます。だから一神教になります。
 それに対して殷は最初は「邑」の連合体です。「仲間になろう」と言って友達になり、グループ作りに成功します。その邑のグループが国といえば国なんです。それが殷です。
 その王様はそのリーダーで、そのリーダーはもともと邑の支配者のままで、そして村連合のリーダーとなります。緩やかな連合の王という感じです。



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