ひょうきちの疑問

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新「授業でいえない世界史」 2話の2 古代中国 周

2019-08-26 09:05:04 | 新世界史2 古代中国

【周】
 こういう政治が約500~600年続いた後に、西の方から、どうもこれは農耕民ではなくてパカパカ馬に乗るような、牛を追うような、羊を追うような人たちがやってくる。
 中国は農耕社会だけではなく、真ん中は農耕社会ですけど、その北方にモンゴルがあるように、その周辺は農耕地帯じゃない。水が足らずに乾いています。そこにいるのは遊牧民です。その遊牧民の影響を中国はつねに受けています。

※ に至高神が存在するという考え方は、中央アジアの牧畜民からきているとする説が一般的である。(早わかり東洋史 宮崎正勝 日本実業出版社 P30)


※ 黄土高原には薫育とか昆夷などという荒っぽい遊牧民がいて、周族の部落は、ときどきかれらの襲撃を受け略奪されていた。そこで周族はヒンという地にうつり、古公亶父の時代にはまた渭水の上流にある、岐山のふもとの周原にうつった。こうして遊牧民たちのわざわいから逃れると、ようやく自分たちの都市国家の建設にはげんだのである(世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P114)


 東からではなく、西方からやって来た民族・・・・・・このときにはすでに農耕民化していたようですが・・・・・・彼らが殷と戦って新しい国を立てた。紀元前1050年頃です。これがです。首都は鎬京という。前に言ったようにここで移動宮廷の段階を早くも脱しているわけです。でも中国の都は国が変わるごとに名前を変えます。800年後の漢の時代には長安になります。これとほぼ同じ場所です。今は西安という都市になっています。現代の沿岸部が発達している中国から見るとかなり西の方です。黄河が流れている。分流の渭水がある。そのほとりです。黄河を目印にとらえてください。江戸も政権が変われば東京に名前が変わる、それといっしょです。

 ここもやはり邑の連合体をつくる。邑が喧嘩しないで、手を組んでグループになる。もちろんプレッシャーはあったでしょうけど。大きな村連合だと思ってください。

※【シベリアのブリヤート】
※ すべてのモンゴルと変わりなく、ブリヤートも16世紀までシャーマンの宗教を信じていた。けれども、彼らのシャーマニズムは、シベリア社会のなかでも、かなり込み入った形をとり入れていた。と言うのは、彼らは自然現象を体現する精霊を崇めただけでなく、99人の神と、多数の祖先とその子孫から構成された複雑な神々の世界を持っていった。・・・・・・シャーマンを信じるすべてのモンゴルと同じく、ブリヤートの宗教的行事の中で中心的な儀式は、天の神テングリへの血の犠牲で、馬を殺して、その皮を高い棒に吊るすのであった。チンギス汗も知っていたこのシャーマニズムは16世紀後半まで存続したが、その後チベットから伝来した仏教が、モンゴルの間に急速に広まった。けれどもブリヤートは、次の世紀になるまで、部族の宗教を捨てなかった。実際、主にバイカル湖東で暮らしていた人々がその当時仏教を採用したが、森にいた西のブリヤートは、シャーマニズムのままであった。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P103) 

※ ブリヤートは、ほとんどのシベリア先住民族よりも人口が多く、17世紀には少なくとも三万人いた。彼らの社会組織も、かなり高度に発展していた。氏族の首長(汗、タイシ)は世襲の貴族制度を形成し、一般の氏族成員に相当の権力をふるっていた。家畜の群れを所有する富裕階級が、特に東ブリヤートに存在した。とは言え、牧草と草地の権利は共同体に属し、相互扶助の氏族制度が機能していた。既に17世紀に、伝統的な部族的体質を多くとどめていた西ブリヤートと、中央モンゴルと密接な関係を持ち、ある種の封建制度へと歩み出していたバイカル湖東のブリヤートとの間に、社会構造上差異が発達していた。けれども西側においてさえも、首長は権力を行使し、隣の部族を支配下に置いて、彼らから貢納を強請していた。ブリヤートの首長たちも、戦争のために武装した兵を供給するように、臣民に要求していた。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P104) 


※【天】
※ アルタイ系諸民族の神々のうち、もっとも有名かつ重要なのは、テングリである。・・・・・・テングリという語は「神」および「」を意味し、トルコ語、モンゴル語の語彙に属している。・・・・・・この名称は、アルタイ系の人々が自分たちの神々、また至高神を指すために用いてきたものである。・・・・・・この語は、偉大な天空神をあらわすものとして、前2世紀の匈奴人において確認されている。・・・・・・宇宙の秩序は、したかってまた世界や社会の成り立ちや人間の運命は、テングリに依存している。したがって、いかなる支配者も天からの信任を受けねばならない。オルホン河畔の碑文にはこのようにある。「我が父をカガンの位に挙げたまいしテングリ・・・・・・帝国を授けたもうテングリ、このテングリが我れをまたカガンの位につけたもう・・・・・・」。カガンとは実際に天の息子の意味で、中国の例に倣っている。君主とは、なる神の派遣者、ないし代理者なのである。(世界宗教史5 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P27)

※ 前1028年に、殷の最後の王が、周公によって征服された。有名な宣言文において、周公は、腐敗し、憎むべき支配者を滅ぼせという天の神からの命令によって、王に対する叛乱を正当化している。これが、名高い「天命」の教義の最初の表明なのである。(世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P23)

※ 「」が「」の別称や天神の意味として用いられた例は西周金文になって出現する。・・・・・・殷の上帝が、周でと表現されるにいたった。(世界の歴史2 中華文明の誕生 尾形勇他 中央公論社 P92)
 


【封建制】 最初は、それぞれの邑は自分の土地を支配しています。村連合のリーダーである王もそのことを認めます。ここでも「オレの子分になってくれれば、あとは任せると」という感じです。
 しかしそれがだんだんと土地によって結びついた国家連合、つまり封建制に変わります。封筒の「封」ですけれど、この字の左側は土ふたつです。意味は土地なんです。この封建制度というのは、農業社会は土地がまず第一の社会です。封建制度という言葉は日本にもでてくるし、ヨーロッパにもでてきます。
 しかしそれが同じかというと中国の封建制は特徴があって、とにかく血縁が強い。特に父方の。母方はそうでもないけど、父方の血縁が強い。



【血縁】 今の中国人は海外への移民が多いです。例えば、宋さんという中国人がアメリカのニューヨークに出稼ぎに行って、そこで店長から皿洗いに雇われたとします。
 そしたらそこの店長がたまたま中国人で、名前を聞いたら同じ宋さんで、出身地域も同じ一族というのがわかれば、その瞬間に今まで会ったこともなかった二人が突然、家族づきあいをしだす。「俺たちは同じ一族なんだ、他人じゃないんだ」と。そういう繋がりがある。それを宗族といいます。

 こういうつながりが今でも非常に強い。だから宗族の中から1人偉い政府の高官とか大臣がでたら、見たこともないような親戚が集まって、「仕事ちょうだい」と頼みに来る。そういうマイナスの面もでてくる。それでも断れない。それが社会の基盤になっているからです。血のつながりを重視して、一族をまず大事にする。
 その裏には宗教性があります。一族の誰かが死んだら祀る。父親が死んだらそれを祀って、息子が丁寧に墓参りをして祖先祭祀を行う。そういう宗教性があります。

※ (周王朝では)祖先崇拝に関しては、殷の時代に確立された構造がおおむねそのままひき継がれた。甕棺の家は位牌にとってかわられ、息子の手によって祖廟に安置されることになる。年に4回、かなり複雑な儀礼が挙行され、肉料理や穀物や飲物を捧げて、祖先の霊魂をよびだした。家族のだれかひとりがその霊魂を体現することになるが、たいていは死者の孫にあたる男の子の役目で、その子は供物の分け前にあずかった。(世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P24)


 ただメソポタミアのような高くて大きなの神殿のようなものは発生しない。代わりに宗廟というご先祖のお墓のようなものが発達する。
 この宗族は、目にはなかなか見えないですが、今も中国の社会の基礎を成しています。

 ここで大事なのは、一族のご先祖様を祭る儀式は・・・・・・これは女はできないです・・・・・・男しかできないという決まりがある。これは日本の相撲界で「土俵には男しか上がれない」のと似た感覚です。
 ご先祖様を祀るのは「男によってしか祀れない」という考え方は定着しているし、長男が相続して祖先の祭祀、つまり日本でいえば供養を行う。この強さは日本の比じゃない。何百人も呼んで大々的にやる。

※ 王・諸侯から士にいたる支配階級の秩序をささえていたのは同族関係である。それぞれの邑では血統を同じくする親族が、本家の家長を中心に集会して祖先を祭り、青銅の祭器をならべて団結を誓った。祖先を同じくする男系親族がつくる組織を宗族、その決まりを宗法という。それは、長男が相続して祖先の祭りをつかさどること、族外婚のしきたりをまもること、本家と分家とのあいだの身分の秩序を重んずること、などである。(高校教科書 新世界史 B 柴田三千雄他 山川出版社 P69)




【夫婦別姓】 こういう一族の血の繋がりの濃さがあるから、中国人の姓は不変です。
 男はあまり意識しないかも知れないけれども、多くの場合、日本では女性Aさんが男性Bさんと結婚したら、AさんはBに姓が変わる。でも中国人は変わらない。
 A姓で生まれた女性は、男性Bさんと結婚しようが誰と結婚しようが、一生死ぬまでAさんのままです。これが夫婦別姓です。そして死ぬまで、生まれたA一族の一員である権利を保有します。
 いまも「日本でも夫婦別姓を認めよう」という話があります。でも日本の場合、女性Aさんは結婚してBさんになれば、自分の身分もBさん一族になれるんです。
 夫婦別姓の場合、結婚した女性が姓をAのままで変えないということは、男性Bさんと結婚しても自分が所属する一族はA一族のままで、Bさん一族の集会があったときも、Aを名乗っているお嫁さんはB一族ではないから、B一族の会議には入れてもらえないのです。
 つまり「よそ者扱い」なんです。何の権利もありません。

 その代わり実家のA一族に対しては様々な権利を引き続き持っている。だから夫婦別姓なんです。それはそれで理屈は通っている。夫婦別姓とはそういう社会制度なのです。

 「結婚してもA姓を変えず夫婦別姓のままでありながら、結婚したら結婚相手の男性B一族になってその権利をもらう」、そんな都合の良い社会があるのかどうか。
 中国はそんな都合の良い社会ではありません。夫婦別姓の裏には、どこまでも生まれ育った一族に対する権利と責任があります。強い血縁意識があります。
 相続にしてもAさんと結婚してたからと言って、A一族の財産はもらえません。結婚相手は一族にとってはあくまで外部から来た部外者であって、「よそ者」なのです。

 夫婦別姓にするには、そういう社会制度から作りかえなければならないことです。日本人が本当にそのことを望んでいるのならいいのですが、私にはそうは思えません。表面上の良いところだけを見ているような気がします。

 そこは一族の団結が固い代わりに、他の一族の者がその中に入ることを許さない社会であって、その中で権利と責任が完結している社会なのです。権利だけ見ていると、ものの両面が分からなくなります。
 日本の夫婦別姓は、血縁よりも個人を重視する考え方です。しかし本来の中国の夫婦別姓は、個人よりも血縁を重視する考えです。そのことを理解していない人が日本人には多いのです。
 そういう夫婦別姓の社会からは、日本にはないいろいろな問題が起こります。政治に対してもです。



【宗族】 周の封建制はこの血縁組織つまり宗族と結びついています。地方の土地の支配者は、この宗族の中から任命します。一族の者が一番信用できるからです。
 だから血縁者を諸侯にする。諸侯とは日本の大名みたいなものです。例えば、私が王であれば、私の弟を県知事に任命する。そして任命した以上はその領地の支配は弟に任せる。
 ただ一つ、「私が敵から攻められた時には、弟は軍隊率いて応援しなければならない」、これが条件です。軍隊を引いて戦う義務と、土地からの富をもらえる権利とが、交換条件になっています。これが周の時代の封建制です。

 しかしこれは私と弟が生きている間だけの関係であれば、非常に信頼関係が強い結びつきなんですが、欠点が1つあります。

 私が死んで弟も死んでしまって、その息子たちの代に時代が変わっていくとだんだん結びつきが弱くなることです。その後また30年経って孫の代になっていくと、孫同士は顔もみたこともない遠い親戚になっていきます。「誰だあれ、知るものか」、そういうふうに信頼関係がなくなっていく。
 それを防ぐために壮大な祖先祭祀を行うわけですが、それにも限界があります。だから時間が経つと信頼関係が崩れ、それで国が長くもたない。国が崩壊する。そういう欠点があります。



【儒教】 中国では昔も今も、結婚しても女性が姓を変えない夫婦別姓です。このように中国では父方、つまり男の血統が強い社会です。
 これは論理上は女方の血筋で行ってもいいのですが・・・・・・実際にそういう女系社会も世の中にはまれにありますが・・・・・・中国は男系社会なんです。
 日本も男が強い社会だと言われます。しかし日本は養子もできるし、男系・女系が混合している面もあります。男が相続することが多いだけで、女性が相続しても悪いことはありません。ただそれにともなう義務は果たさなければなりません。しかし中国では男系の血縁関係が非常に重視されて、この考え方が中国独自の宗教にもなります。

 中国で生まれた宗教は仏教ではありません。儒教です。儒教についてはあとでいいますが、儒教は血縁関係を非常に大事します。

 そういう血縁の強い社会組織だから、それに基づいた宗教が生まれるんです。両者は繋がっています。開祖の孔子が勝手に考えたんじゃない。その社会的背景があるんだということです。



【東周】
 その周は200~300年で一旦、西からやって来た遊牧民に攻撃されます。攻撃してきたのは犬戎といいます。名前だけわかっている民族です。
 もっともこれも中国人が勝手に名づけた名前で本当の発音は分かりません。「犬ヤロウ」みたいな意味で、相手を蔑んだ言い方です。こういうことを中国人は良くやります。ただこの民族は漢民族ではない。中国語を話す民族ではありません。また農耕民ではなく、遊牧民だといわれます。このような農耕民と遊牧民との対立関係はこのあとの中国の歴史をずっと貫くものです。

 それで攻撃された周は東に引っ越した。国は小さくなって東にずれる。東にずれたからこれを東周という。前770年、都を洛邑に移します。ここはあとで洛陽という名前に変わります。




【混血】 東周の時代は約500年ぐらい続きます。入ってきた犬戎はその後どうなったか分かりません。
 多分中国人のほうが人口が多いから、その中に混血していって子孫は中国人として生きていったのでしょう。彼らが中国を支配したわけではありません。中国は広大で、異民族を吸収してしまうところがあります。
 これで終わります。ではまた。


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