よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

毒になるテクノロジー

2012-10-31 | 

インターネットの普及によるPC、携帯端末の過剰な利用が、様々な精神疾患に類似した症状を発現したり助長するので、ほどほどに使いなさい・・・という本です。

ナルシシズム、強迫観念、携帯メール中毒、躁鬱、注意力散漫、コミュニケーション障害、サイバー心気症、摂食障害、統合失調症、覗き見趣味などが挙げられています。

ところで、○○課の同僚または上司と部下が、メールで会話している・・・なんてはなしを勤めていた会社で聞いたことがあって、「そりゃ、ないだろ?」と思いましたが、似たようなことが載っていて、日本だけの話しじゃなさそうです。 また、プログラマーの注意力は3分ほどしか続かなくて、それと同じか数倍の時間をネットをさまよったり、メールを確認したりするので、マルチタスクは効率が悪いといったことも述べています。 会社にいたとき「煙草を飲んでる奴は、その分仕事をしていない」と言われたものですが、プログラマーに限らず集中力が続く時間には限度があるというもので、 パソコンに向かっている姿を見れば仕事をしているように見えますが、後ろに回ってみればネットサーフィン。・・・それよりも気分をリセットする一服の方が良いように思うのですが・・・だめか

 


「日本の陶磁・九谷」

2012-10-29 | 陶芸

九谷焼についてイロイロみてきましたが・・・

じつは、呆れたことに本物というやつを一度も見たことがないのです。

しかも、歩いて10分ほどのところに九谷焼美術館があるというのにです。

ってなことを師匠に咎められ、「 わははは・・・(汗) 」 と笑って誤魔化していたのですが、

やっぱ、これじゃイカンということで、行ってきました。

展示品は古九谷から現代の九谷焼まであって、大きくもない館内ですが、見ごたえのある内容です。

そのなかに 本善寺(大聖寺)所蔵の「古九谷色絵孔雀図平鉢」 がありました。本書4頁の実物(下図右の器・クリックで拡大)

写真では分かりにくいのですが、○印をつけたところが、表面が剥がれ磁器と思えないような茶色い部分が見えていました。 

これは、九谷古窯の発掘品に多くあったという半磁胎というやつでしょうか?

また、こういう欠陥はいつ出来たものでしょうか? 色絵付けでは焼成温度が低いので起こりようもないことから、本焼きのときに既にあったのかもしれません。 とすれば、物原に捨てられていた発掘品というのは、完全に割れたものや、誤魔化しようもなくヒドイ状態のもので、多少の欠陥があっても可としていたということになります。 たぶん伊万里では許されないんじゃないでしょうか。

さて、本書5ページ(上図左)は石川県美術館所蔵の「古九谷青手松竹梅文平鉢」です。 解説には「九谷古窯発掘陶磁片と素地が全く一致する貴重な作品である」としています。

「え~っ?」

ってことは、古九谷は九谷でやかれていたという厳然とした証拠があるということではありませんか。

にもかかわらず、古九谷=伊万里焼古九谷様式 なんて論争が起きるとは、何とも不可解です。

ところで、古九谷には藍古九谷というのがあるそうです。 藍色の絵が染め付けられた中小の器なんですが、思うにそれらの図柄が古九谷風であることから、「伊万里焼も含めて藍古九谷にしちゃえ」というわけで、 もともと伊万里焼であったものを骨董商の都合で古九谷にしてしまったことが、間違いの始まりなんじゃないでしょうか。 なにしろ何時何処で誰が焼いたものか器に記されていないので、発言力の大きな人の主観で決められてしまう世界なんですから。

学者はそれを真に受けて、「科学分析の結果、古九谷はぜ~んぶ伊万里で焼かれた」 と、他の証拠を無視して結論付けたのでしょう。

バカですね。

きっと学者の方々も本物の古九谷ってやつを見ずに研究されてるのかもしれません。

素人のわたしと同レベル・・・なんちゃって、はははは


もでるさつぇ~かい

2012-10-28 | ポートレート

「なにを撮ってるんだ!」 って

そーどぇす。わたしが、変なおじさんったら 変なおじさん・・・

というわけで、ほぼジジイと呼ばれていい歳が10人余り集まって綺麗なモデルさんを囲んで撮影会。

秋晴れの空の下、楽しいのなんのって・・・


「九谷もジャパンである」

2012-10-25 | 陶芸

九谷焼の勉強をする学生を主人公に、古九谷やその産地論争、過去から現在の九谷焼について、様々な関係者のインタビューを交えながら俯瞰した、九谷焼総集編って感じの一冊です。

いままで読んだ本の著者や、九谷古窯跡や有田の窯跡の発掘調査をした人なども写真つきで登場したりで、全体像をつかむにはいい本だと思います。 なお編集が新聞社ということもあり、産地論争については中立的です。 九谷の地元人間にすると、なんとなくもどかしく感じる部分が無くもない気もしますが・・・


薬も手術もいらない めまい・メニエール病治療

2012-10-22 | 

耳鳴りが始まったのは会社を辞める2、3年まえからだから、もう4、5年が経つことになります。

いちど、何とか治らないかと病院へ行きましたが、医者曰く

『 騒音現場で働いてた人はよくなるのです。治りません。はい』 と言われました。

ところが、治らないと言っておきながら 大量の薬が処方されました。 

結局、薬を全部捨ててしまい、諦めていまに至るのですが、先日同窓会で会ったN氏から「私はコレを読んで治った。いちど読んでみなさい」と「薬も手術もいらない めまい・メニエール病治療」を勧められました。

しかし、メニエール病というのは、めまいを主症状として吐き気・難聴・耳閉感を伴うものだそうで、様々な薬があるそうですが、根本的な治療法がない特定疾患に指定されているそうです。

ところが、本書によると、原因はストレスによるもので、有酸素運動を毎日続けることで治るといっています。

なんだ簡単ではありませんか。

ただし疑問としては、

N氏の体型から「運動をやった形跡がみられない」(失礼)

自分はめまいが無いので当てはまらないような気がしなくもない。

とはいえ、治るものなら治ってほしい耳鳴りです。

とりあえず・・・明日から始めよう。

 


終焉の謎

2012-10-19 | 陶芸

古九谷の謎のひとつとして、始まってから50年ほどで止めているというのがあります。

もともとの始まりが、一般的には殖産興業を目的だとのことなので、事業に失敗したということになるのでしょうか。

また、その終わりは、藩財政の窮乏だともいわれています。

すると、そもそも収支上プラスにならないような事業だったわけで、殿様の道楽で始まったといえるのかもしれません。

藩祖 前田利家が莫大な貯銀を残した加賀藩は、1631年謀反の嫌疑をかけられるほど羽振りがよかったそうです。 その後も、長崎に茶道具を買付けに行ったり、オランダ東インド会社に多量のデルフト陶を注文するなど、とにかく大盤振る舞いが続いていたようです。

その時の藩主は、利家の四男 利常です。

利常の妻は徳川秀忠の娘であり、その長男として光高が後を継ぐのですが、家康の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった(wikipediaより)そうです。

というわけで、利常としては 『こりゃマズイかなぁ・・・』 と思ったのか、1639年に120万石あった加賀藩の20万石分を富山と大聖寺に分封し、自らは小松に隠居するのです。

このとき大聖寺藩主に就いたのが利常の三男利治、二十一歳。

利常と長男光高の仲が良くなかったとしたら、三男坊の利治が可愛がられていたのかもしれません。

棚ぼた式に一国一城の主に就いた利治は、江戸藩邸に書院と次の間を造ります。

しかし、華美に過ぎたのか利常の命により取り壊されてしまいます。

『ばか者、お前にゃ10年早い!』 と言われたかどうか分かりませんが、利治は血気盛んで生意気な若者だったのかもしれません。

『ところで利治、九谷の地で焼物を始めたそうだが、どうなっとるのだ?』

『オヤジ、な、なんでそれを・・・』

『フハハハ、おぬしの考えなどお見通しよ。なんせ嫁さんが佐賀藩二代藩主鍋島光茂と義兄弟なんじゃから、有田焼のノウハウも少しは入ってこよう・・・弟の利明も心配しておったぞ』
(利治の妻、徳姫の妹である虎姫は鍋島光茂の正室)

『は、じつは田村権左衛門が1655年に初めて花瓶を焼いておりますが、まだ有田のように見事なものには至らず・・・まぁ、いまにみていて下さい』

ってな想像をするのですが、完成を前に利常が1658年に死去し、利治は1660年に43歳の若さで亡くなってしまいます。

これを継いだのが利常の五男 利明です。 利明の妻亀姫は虎姫の妹で、またしても鍋島藩と姻戚関係になるのです。

というわけで、伝承では、利明藩主のときに才次郎忠清が1660年から肥前へと遣わされ、帰国した1667年から本格的な磁器生産が九谷で始まったとされています。

ところで、古九谷として伝世されている磁器類は大きな器が多く、庶民が日常的に使うようなものはないように思われます。 ほとんどが大名や裕福な武士、商人向けに採算無視でつくられていたに違いありません。

で、たかだか7万石の大聖寺藩ではありますが、大いに見栄を張っていたのかもしれません。

ところが、それも束の間、1681年、延宝8年の大飢饉が起き、大聖寺では翌年1682年に2587人の死者をだしています。 また1687年には 生類憐れみの令 により 犬小屋建設を命じられて大きな出費を強いられています。

それでも、利明が存命中は何とか作り続けられたとは思いますが、1692年に利明が亡くなると、その子利直は、幼い頃から何故か徳川綱吉に可愛がられ、利明死後も大聖寺に戻らずに藩政は家臣に任せきりにした結果、家臣の勢力争いにより財政が悪化したとのことです。

よって藩としては採算無視の焼物どころではなかったと思われます。

このとき、1655年から37年経過・・・

1711年に利直が亡くなると 大聖寺藩4代目は、金沢藩4代目藩主綱紀の五男 利章が継ぎます。 ところがこの利章は”放蕩三昧な生活を繰り返して藩財政を更に悪化させた” そうです。

こうして見ていくと、古九谷焼の製作期間は才次郎忠清が1667年頃から始めて利直が死去する1692年までの25年間で、ひょっとすると江戸の犬小屋を造らされた1687年頃には奢侈を見咎められぬよう閉窯していたのかもしれません。

以上、いままで読んだ本とWikipediaと私の妄想をごた混ぜにして出てきたモノですが、もし私がその道の第一人者だったとしたら、問答無用これで 『まちがいない!がははははっ』 と、証拠がどうあれ歴史の定説に据えてしまうところです。

・・・お粗末


 

 


大聖寺伊万里???

2012-10-18 | 陶芸

大聖寺に住みながら初めて耳にした 「大聖寺伊万里」

陶磁器に興味がなかった自分には、「はぁ?」 である。

師匠に伺えば、明治期に輸出用として作られた、伊万里を模した九谷焼だとのこと。

陶磁器発祥の地、景徳鎮でさえ当時人気のあった伊万里を模しているので、世界的な流行であったようです。

(でも、それってパクリじゃ・・・伊万里からクレーム出なかったのかな???)

伊万里焼というのは、それほどまでにスゴイ存在なんですね。

九谷焼が注目されるのは昭和になってからだそうで、売れなきゃしょうがないってことだったのでしょう。

まぁ、そんなこんなで今の九谷焼があるみたいですが、当初の五彩手や青手の様式から始まったものが、金ぴかや赤手、さらには作家独自のスタイルを創りあげるなど、じつに多彩な展開になっているようです。

そんな歴史の中で、九谷焼の中心は小松・金沢方面へと移り、発祥の地大聖寺で、それと分かるものは・・・唯一 「古九谷の杜」 と称した公園と美術館が駅の近くにあるものの、目立っているとはいえない、奥ゆかしさです。

で、世界的には古九谷が伊万里焼の一様式だなどということになっているようですが、歴史観を改めて誇りを取り戻し、産業なり観光の一助になるべく様々な活動・発信をやらなきゃイカンのでしょうね。

でも、そのときに作り手はオリジナルを大切にすべきなんだろうな・・・


いやはや・・・古九谷論争

2012-10-17 | 陶芸

一連の古九谷絡みの本を読んでみて、古九谷論争というのは、どうやら骨董商の代理論争なのかもしれません。

で、伊万里の骨董品が 「古九谷だよ~」 といえば沢山売れて儲かる、それを扱う骨董商のロビー活動が勝利した・・・といった感じです。

「儲かれば何でもあり」 の世界なんでしょうか。

それは、なにも伊万里に限ったことではないようで、古九谷を扱った大聖寺の骨董商についても大っぴらに出来ないような逸話を残しているそうで、結局のところ伊万里も古九谷も、そうした商魂に翻弄されてメチャクチャな歴史を作り上げられてしまったといった気がします。

対して、それぞれの地でコツコツと作り続ける陶工たちにすれば、伊万里でも論争自体「ばかばかしくて話しにならない」という人が多いそうです。

しかし、その結果として古九谷が伊万里焼古九谷様式になってしまっては、九谷焼のブランドにケチがついたようなもので、当地の不利益は計り知れないものがあるように思います。

もし、有田で焼かれていたとしても、たとえば、『 トヨタのヴィッツはダイハツで生産しているので、「ダイハツトヨタ様式ヴィッツ」というのが正しい 』 だから直しなさいと行政指導されるようなものです。

そんなことにならないのは、産地が何処であろうがトヨタはトヨタで、九谷焼は九谷焼であるはずなのです。

ところで、古九谷伝世品の多くが石川県に伝えられている理由として、伊万里焼説を推す人の中には 『加賀藩が有田に様式を指示して焼かせた』 との主張があるそうです。 それこそブランド名は 『古九谷=九谷焼 』 でなければならないはずなのです。

それなのに「伊万里焼古九谷様式」 とは、モノ作りを大切にする日本文化を侮辱するような所業・・・なんて大げさか。

とにかく、産地それぞれに作り手としての誇りがあるわけで、それを捏造による証拠固めで傷つけられていることに、「古九谷論争の最期」の著者は怒り心頭に発しギャワズベラなのです。 

でもって、それに同調している自分であります。