よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

「秘密」

2012-04-28 | 



マンガです。 それも少女マンガ

本の帯に 『文化庁メディア芸術祭・・・』 とお墨付きがついても手にとってレジの前に立つ勇気は、半分白髪頭の爺さんに有るわけがない・・・というわけで、N氏に借りた「秘密」です。

死んだ人の脳をとりだして生前の記憶を映像化できるようになった少し未来を舞台にしたサスペンス。
脳みそ内臓どばどば描かれ、刺激的で面白くて、オジサン、ジイサンにも十分楽しめるお話しです。

登場人物が美形の男子揃いでなきゃ、なんの抵抗もないというものです・・・そこで、ふと思うに、

まんがって、なんで男性向けと女性向けとに こうもはっきり分かれてるんでしょうね。
小説にしろ絵画にしろ作者の性別が反映される部分はあるでしょうが、だからといってマンガのような異性の作品に対する抵抗感はありません。
そもそもマンガって子供向けのものだったわけで、マンガ自体大人が読むには抵抗があるはずなんですが、さらに少女趣味ともなると、女性の秘密を覗くような、なにやらワルイことをしているんじゃないかという気分が加わるからかもしれません。 

ところで、少女マンガに登場する男子が、みな美形なのはいいとしても、どこかホモセクシャルな雰囲気を持ってるところがあって、それが抵抗感を助長していると思います。 しかし、子どもの頃から接し、そういう抵抗感をあまり感じないとしたら・・・異性への好みが影響されたとしたら、日本の男を 背が高くひょろひょろとした人間に変える性選択の力が働くかもしれません。 だから、若者にスラリと背が高い人が目立つのは、少女マンガのせいかもしれないわけで・・・ってなことはないか。


加賀市の歴史5

2012-04-26 | 

江戸時代に入り40年近く経ってから前田利常の三男、利治がきて大聖寺蕃が始まります。

大聖寺の町には大聖寺川が流れ低湿で地盤が軟弱、街をつくるにはどちらかといえば不適切な場所のようです。それでも、藩邸を構えたのは、越前との国境にあって、一向一揆の元になった吉崎御坊の近くでもあり、戦略的に重要な場所だからなんでしょうね。平和な江戸時代になっても武将たるもの戦を考えないわけにはいかなかったということでしょうか。 というわけで、大聖寺は頻繁に水の被害に遭うことになるのです。 

本書に大聖寺蕃史から作成したという近世の災害略年表というのがありました。

それをグラフ化したのが下の図です。



グラフは、水害(台風含む)、火災、地震、飢饉についてのもので発生件数を累積しています。

<o:p> </o:p>

さて、江戸時代後半となる1760年以降の水害発生率は約5年に一度の割合で起きています。 それ以前は20年に一度ですから、1760年を境に急増しているともいえますが、火災も同じく変化しているので単に記録上の問題なのかもしれません。 ところで、日本全体の人口は、1600年に2200万人だったものが、1650年には2500万人(300万人:14%増・、1700年・2900万人(400万人:16%増)、 1750年・2900万人(±ゼロ)、 1800年・2800万人(100万人:3.5%減) というように、前半は増加しているものの、後半は停滞から減少に至っています。 減少の原因としては天明の大飢饉や天保の大飢饉など、天候不順によるものは当然として、制度疲労による生産性の低下がありそうです。 こうした傾向は大聖寺蕃も同じだったはずです。 それで、前半に災害が少ないのは、平和で経済や文化が発展する高揚感の陰になったとか、発展途上にあって被害を受けるほどの規模に育っていなかったということかもしれません。

どちらにしろ、大聖寺以外の災害記録(水害・火災・地震など全てを含む)に比べると、その多さが際立っています。

今でこそ、大聖寺川上流に2つのダムができて、河川の改修もされて水害に遭わなくなりました。 ほんとありがたいことです。 とはいえ、この先も大丈夫かどうか分からないので、新たに住むのなら山に近いところの方が安全かもしれませんね・・・千年、二千年、生きられるわけでもないので考えすぎか (^^;

<o:p> </o:p>


加賀市の歴史4

2012-04-25 | 



以上、当時の風景を思い描きながら 「加賀市の歴史」を読み進めると、なんとなくイメージができそうです。 というわけで、本書の記載をそのまま載せると 『農耕が定着した弥生時代の末期から、村々の中では、有力な家とそううでないものとの差が次第に著しくなり始めた。 この有力な家を首長と仰ぐ村は、大聖寺川や動橋川の川筋、海岸沿いの台地に多く出現し、やがてそれぞれの地でまとまりをみせはじめた。 そして江沼地方の全体がほぼ一つのまとまったクニになるのは、おおよそ五世紀後半、すなわち狐山古墳の出現した頃と考えられる。 これが後に江渟国(えぬのくに)と呼ばれるクニの出現であり、その首長すなわち王の家が、のちに江沼臣(えぬまおみ)とよばれた豪族である。 江沼氏は、加賀の他の豪族たちとは違って、中央の大和王権との接触には積極的であったらしい。6世紀後半に越の海岸に到着した高句麗の使節の扱いについて、加賀の大族道君(みちのきみ)の意に反して、大和王権の側に立つ行動をしていることなどが、このことを示している。 大和王権の地方に対する支配権の拡大は、地方のクニの王を国造(くにみやつこ)に任命する、いわゆる国造制の施行によった。 江渟国の国造に任命されたのは江沼氏で、大和朝廷での身分を表すカバネとして臣(おみ)が許された。 以後の江沼氏は、江沼臣が公称となるのである。 ただ、江沼臣の国造任命の時期はわからない。 『国造本紀』
には反正朝(5世紀前半)とあるが、信用できない。先の欽明朝のことから推して、おそらく6世紀後半ではなかろうか。 江沼臣は、律令国家の出現する7世紀後半まで国造の地位を世襲した。』 というわけです。

<o:p> </o:p>

では、その後の江沼臣はどうなったかというと、京都に移って下級役人になったとのことです。 代って江沼を支配したのは中央から派遣された下級貴族や武士たちで、大江氏とか狩野氏とか富樫氏とかが来て、そのまま土着し権力を世襲していったようです。 それが平安、鎌倉、室町時代と続くわけです。

<o:p> </o:p>

そして、1471年、大聖寺川の河口近く、吉崎に蓮如が道場を開くと、浄土真宗による一向一揆が支配する地になり、信長に滅ぼされるまで100年のあいだ「百姓が持ちたる国」と呼ばれるようになるのです。

<o:p> </o:p>

そして、そして、賤ヶ岳の戦いにて、柴田勝家が羽柴秀吉に敗れたあと、大聖寺には尾張出身の 溝口秀勝が赴任します。 それも15年経って転封(将軍が、大名の所領を別の場所に移すこと) されると、こんどは小早川秀秋(丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主・秀吉の甥)が、一時的に 北ノ庄(福井)に移され、江沼郡も支配するのですが、大聖寺には、1598年に 小早川秀秋の家臣、山口玄蕃頭宗永(やまぐちげんばのかみ)が着任し、秀秋の転封が取り消されたあとも、加賀にとどまることになるのです。 

<o:p> </o:p>

ところが、それもつかの間、2年後に関が原の戦いが起きると、豊臣方についた山口玄蕃は前田利長に滅ぼされてしまいます。以後、金沢から派遣された城代に支配され、1639年になって前田利治が江戸時代の大聖寺蕃初代藩主となるわけです。

<o:p> </o:p>

というように見ていくと、地元生抜きの支配者というのは、7世紀頃までの江沼臣が最後で、以来千数百年間というものは、外から来た国司、武士に支配されたり、宗教の指導の下に集まったりというわけで、なんとなく威勢が削がれる気がしないでもない加賀の国ですね。




チハカ山古墳の横の池


加賀市の歴史3

2012-04-25 | 



ところで、お隣
福井の足羽山には在位期間507-531年,26代天皇である、継体天皇の像があります。 

伝承によれば
『ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。そこで大規模な治水を行い九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。』 とのことです。 

それ以前は山間部から福井市へと続く扇状地である大野・勝山あたりが中心だったのだろうと思いますが(実際のところ越前を治めていた朝倉氏は足羽川上流、山のふもとに構えていた)、扇状地の末端からは湿原の海が広がって、その中に島のように足羽山などが浮かんでいたわけです。 

江沼の地は、それを縮小したようなもので、加賀市の水田丸町から始まる扇情地形上に、先の法皇山横穴古墳群や狐山古墳があり、その下流域には柴山潟があって、さらには小高い山が潟の周りや大聖寺・橋立などにあるというわけで、よく似た地形をしているといってよさそうです。 
そして扇状地に続いて、そうした湿地帯の中の島々に居ついたのではないでしょうか。 
それに比べて加賀市以北の小松には梯川、金沢には浅野川、や犀川が流れていて、扇状地も広がっているとは思いますが、そこから海へと続く湿原の中の島が見当たらないのです。 

というわけで海の幸、山の幸を得やすい南加賀の地は、当時としては発展しやすいところだったのでしょうね。 

 

そして様々な古墳が小松や金沢に比べて多々見られるというわけで、江沼の地は今と違って加賀の中心だったのです。 おおお!


加賀市の歴史2

2012-04-25 | 


(今朝の中央公園:八重の桜がきれいです)

 

さて、本書を読んでも歴史が苦手なのには変わりがありません。 いくら読んでも言葉や数字を憶えられなくて、イメージが湧かず右から左へと抜けていくのです。 

じゃぁその頃の状況をイメージできれば多少なりとも克服できるのか・・・どうか分かりませんが、とりあえず、その足がかりとして人口を見てみることに。

しかし、本を見ても具体的な数字は載っていません。 しょうがないのでネットを調べると紀元400年ころの日本の人口は 150万人 とありました。 また600年頃には300万人となっています。 で、1975年の人口が11000万人ですから、その比率を加賀市の人口にあてると、紀元400年頃は74000×150÷11000≒1000(人)。600年頃には倍増して2000人というわけです。 人口密度にすると3.3人/平方km ・・・って、ちょっと少ないような? この人数で、江沼の豪族と謳われ、前方後円墳を造り・・・なんてのは、どうもです。

で、よく読んでみれば 「大化改新(645年)を経て律令国家ができてからのち、北陸は越前・越中・越後の三つの国に分けられた。加賀国という行政区分はまだされておらず、奈良時代においても、この地域は、越前国に含まれており、手取側以南の地はすべて江沼郡と称されていた。すなわち、いまの加賀市、江沼郡、小松市、能美郡の地はみな越前国江沼郡であって、越前の武生にあった国府にいる、中央政府から派遣された国司によって管理されていた。」 ということから、現在の加賀市の人口を基にしたのでは足りないわけで、金沢以南の人口(90万人くらいか?)を基に計算し直すと、90万人×150÷11000≒12,000 となります。 おお、この人数なら当地の暮らしやすそうな場所の幾つかに分散していたとしても、大きな集落には1000人とか それ以上の規模で村とか町のようなものが形成されていたとしても不思議ではないかもしれません。 で、1家族10人程度であれば、100家族が暮らす村になるわけで、これは現在でもありうる大きさですね。

では、その人たちは、どういう場所に暮らしていたのでしょうか・・・


加賀市の歴史

2012-04-23 | 



先日、カタクリの花を撮りに行った勅使の法皇山には、横穴古墳群があって、いまから1400年前ころに盛んに埋葬されていた墓とのことです。

以前、日本の歴史を勉強しなおしました。 早くもほとんど忘れてしまいましたが・・・法皇山を訪ねて地元の歴史について何も分っちゃいないってことに気付きました。 そこで図書館から借りてきた 「加賀市の歴史」 をみると・・・

・・・勅使より下流域の分校には前山古墳、チハカ古墳があります。 こちらは「動橋川の水利権を持った、畿内王権と結びつきの強い豪族の墓と推定されているそうです。

さらには、二子塚町に国の指定史跡になっている 狐山古墳があります。 ↓↓




この古墳は、全長55mの前方後円墳で、江沼最大のものだそうです。
「直径25mの後円部にあった板石を組合わせた箱式石棺は、内部全体に朱を塗った見事なもので、安置された壮年男子の遺骸の周りには銅鏡をはじめ多くの副葬品が置かれていた・・・」

というわけで、日本の古墳時代中期から後期にかけて、当地でも多くの墳墓が造られたようです。それらは動橋川中流域に集中しているようで、この辺りが当時の加賀市(江沼の地)の中心地だったようです。

時代を遡り、弥生時代のものとしては、高床式倉庫の痕が発見された、猫橋の遺跡跡あるそうです。

さらに遡って、縄文時代(紀元前3000年ころ)の柴山水底貝塚なんてのが見つかっているとのこと・・・わが町大聖寺が表に出てくるのはずっと後になってからのことです。


それにしても、歴史の本って難解です。 自分のアタマが歴史向きじゃないってことが よーく分った 「加賀市の歴史」でした (トホホ)


温泉に浸かりながら

2012-04-19 | 



そろそろソメイヨシノの季節も終わりですね。
なんとなく寂しいような気分です。
ところで、山中温泉の「ゆーゆー館」の露天風呂の横に桜が咲いています。
いまが満開で、ちらりほらりと花びらが湯面に散って、なんともいいものです。
温泉に浸かり空を見上げれば満開の桜・・・なんて贅沢なと思いつつ、のぼせる前にあがってきました。


カタクリ

2012-04-18 | 



日曜日、教えていただいた法皇山へカタクリの花を撮りに行きました。



法皇山には上の写真のような横穴古墳が多数あり、法皇山横穴古墳群と呼ばれています。
7世紀初頭が最盛期とのことで、上層農民の墳墓だろうと推定されています。
子どもの頃、遠足に行ったときには、先生の話も聞かず、原始人が住んでいたんだスゲー などと思っていましたが、とんだ間違いでした。




さて、カタクリの花はといえば、可憐でありますね。