よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

終焉の謎

2012-10-19 | 陶芸

古九谷の謎のひとつとして、始まってから50年ほどで止めているというのがあります。

もともとの始まりが、一般的には殖産興業を目的だとのことなので、事業に失敗したということになるのでしょうか。

また、その終わりは、藩財政の窮乏だともいわれています。

すると、そもそも収支上プラスにならないような事業だったわけで、殿様の道楽で始まったといえるのかもしれません。

藩祖 前田利家が莫大な貯銀を残した加賀藩は、1631年謀反の嫌疑をかけられるほど羽振りがよかったそうです。 その後も、長崎に茶道具を買付けに行ったり、オランダ東インド会社に多量のデルフト陶を注文するなど、とにかく大盤振る舞いが続いていたようです。

その時の藩主は、利家の四男 利常です。

利常の妻は徳川秀忠の娘であり、その長男として光高が後を継ぐのですが、家康の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった(wikipediaより)そうです。

というわけで、利常としては 『こりゃマズイかなぁ・・・』 と思ったのか、1639年に120万石あった加賀藩の20万石分を富山と大聖寺に分封し、自らは小松に隠居するのです。

このとき大聖寺藩主に就いたのが利常の三男利治、二十一歳。

利常と長男光高の仲が良くなかったとしたら、三男坊の利治が可愛がられていたのかもしれません。

棚ぼた式に一国一城の主に就いた利治は、江戸藩邸に書院と次の間を造ります。

しかし、華美に過ぎたのか利常の命により取り壊されてしまいます。

『ばか者、お前にゃ10年早い!』 と言われたかどうか分かりませんが、利治は血気盛んで生意気な若者だったのかもしれません。

『ところで利治、九谷の地で焼物を始めたそうだが、どうなっとるのだ?』

『オヤジ、な、なんでそれを・・・』

『フハハハ、おぬしの考えなどお見通しよ。なんせ嫁さんが佐賀藩二代藩主鍋島光茂と義兄弟なんじゃから、有田焼のノウハウも少しは入ってこよう・・・弟の利明も心配しておったぞ』
(利治の妻、徳姫の妹である虎姫は鍋島光茂の正室)

『は、じつは田村権左衛門が1655年に初めて花瓶を焼いておりますが、まだ有田のように見事なものには至らず・・・まぁ、いまにみていて下さい』

ってな想像をするのですが、完成を前に利常が1658年に死去し、利治は1660年に43歳の若さで亡くなってしまいます。

これを継いだのが利常の五男 利明です。 利明の妻亀姫は虎姫の妹で、またしても鍋島藩と姻戚関係になるのです。

というわけで、伝承では、利明藩主のときに才次郎忠清が1660年から肥前へと遣わされ、帰国した1667年から本格的な磁器生産が九谷で始まったとされています。

ところで、古九谷として伝世されている磁器類は大きな器が多く、庶民が日常的に使うようなものはないように思われます。 ほとんどが大名や裕福な武士、商人向けに採算無視でつくられていたに違いありません。

で、たかだか7万石の大聖寺藩ではありますが、大いに見栄を張っていたのかもしれません。

ところが、それも束の間、1681年、延宝8年の大飢饉が起き、大聖寺では翌年1682年に2587人の死者をだしています。 また1687年には 生類憐れみの令 により 犬小屋建設を命じられて大きな出費を強いられています。

それでも、利明が存命中は何とか作り続けられたとは思いますが、1692年に利明が亡くなると、その子利直は、幼い頃から何故か徳川綱吉に可愛がられ、利明死後も大聖寺に戻らずに藩政は家臣に任せきりにした結果、家臣の勢力争いにより財政が悪化したとのことです。

よって藩としては採算無視の焼物どころではなかったと思われます。

このとき、1655年から37年経過・・・

1711年に利直が亡くなると 大聖寺藩4代目は、金沢藩4代目藩主綱紀の五男 利章が継ぎます。 ところがこの利章は”放蕩三昧な生活を繰り返して藩財政を更に悪化させた” そうです。

こうして見ていくと、古九谷焼の製作期間は才次郎忠清が1667年頃から始めて利直が死去する1692年までの25年間で、ひょっとすると江戸の犬小屋を造らされた1687年頃には奢侈を見咎められぬよう閉窯していたのかもしれません。

以上、いままで読んだ本とWikipediaと私の妄想をごた混ぜにして出てきたモノですが、もし私がその道の第一人者だったとしたら、問答無用これで 『まちがいない!がははははっ』 と、証拠がどうあれ歴史の定説に据えてしまうところです。

・・・お粗末