よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

ワクチン3回目

2022-02-14 | 日記


コロナワクチン3回目打ちました。
翌日、寝返りできないほど肩が痛くて
「こりゃ大変だ・・・」と思っていましたが
次の日には痛みも治まり、熱も出ず、
2回目のときより軽い反応で済みました。

2回目を打ったとき、翌日に熱が出て、
その後2~3カ月の間五十肩の如しで
腕を上げるのがきつかったものです。
思えば2回目のとき、針を刺してから抜くまで随分と痛かったから。
きっと看護師さんが下手だったのだろうと思います。
で、肩の筋肉を傷めたんじゃなかろうか・・・などと。

というわけで、心配していた3回目ですが、杞憂に終わったようです。
早くコロナ禍が収まりますように!

大聖寺藩について

2022-02-05 | 日記


義兄は歴史に詳しい。
いろいろ調べたことを記事にして渡してくれた。
でも、そこに九谷焼が絡んだ話というのは、殆どない。
他の文献にも見当たらない。

しょうがないので以下に勝手に綴る。

大聖寺藩は寛永16年(1639年)6月、加賀前田家第三代当主、
利常が隠居するさいに加賀藩から7万石を割いて立藩させた。
同じく富山藩を10万石で立藩させている。
富山藩には利常の次男・利次を、大聖寺藩には三男・利治を立てた。
そのとき大聖寺藩初代当主利治は若干22歳。
まぁ棚ぼたというか、なんというか、そりゃもう嬉しかったことでしょう。
冷や飯食いから、あっと驚く一国の藩主なんですから。
また小堀政一(遠州)から手ほどきを受けた茶人であったそうで、
始めた古九谷(九谷焼の元になる)の器を手に、嬉しさ余って「やったぁー!」とか
叫んでいたかもしれません。
ところが43歳の若さで死去する。そして、その意を継いだのは弟の利明です。
利明はWikipediaによれば「富国政策を重視して藩政を確立した名君」とのことです。
そして1692年に死去しているのですが、ここまで立藩してから約50年。
古九谷も50年ほどで廃窯しているとのことで、どうやら次の代に問題があったようです。

で、第三代は利明の子、前田利直なんですが、徳川綱吉の寵愛を受け藩政は家臣に任せっきり、
あげくに弟の利昌が徳川綱吉の葬儀・法要の前日に、饗応役筆頭の織田秀親を刺殺!
(そのときの様子についての描写
 ・・・彼の右手を押さえ小刀で胸から背中、肩、頸を突刺して絶命させた)
こりゃ、赤穂事件の再来! 
もう、ひっちゃかめっちゃかじゃぁありませんか!
まぁ不幸中の幸いは本懐を遂げたこと。
利昌の切腹で一件落着しています。

で、まぁ焼物どころじゃなくなったんだろうね。
無理もない。

注)前田利昌 Wikipediaより
元禄5年(1692年)、大聖寺藩3代藩主である兄・利直から1万石を分知され大聖寺新田藩を立藩、大名となる。同藩は領地を持たず、大聖寺藩の収入分から1万石分を与えられただけで、独自の藩庁などの行政機関は持っていなかった。
宝永6年(1709年)1月15日、東叡山寛永寺で行われた5代将軍徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられる。同役の大准后使饗応役は以前から仲が悪かった大和国柳本藩主の織田秀親であった。2月15日、翌日の将軍徳川家宣の参詣の行事について書かれた老中の奉書が届けられた際、饗応役はそれを回覧することになっていたが、秀親は利昌に見せようとしなかった。その場で利昌は一時小刀に手をかけるも、赤穂事件のことを考えて一旦踏みとどまった。翌2月16日、利昌は寛永寺吉祥院の宿坊で、家老の木村九左衛門に秀親を後ろから羽交い絞めにさせた上で刺殺した[1]。その後山城国淀藩主・石川義孝に預けられ、同月18日に切腹となった。凶行前日、利昌は家臣の木村九左衛門に赤穂事件について感想を求め、木村は「内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた」と返答したという。
大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されたが、すぐに大聖寺藩に還付された。