桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

春がきたよと猫殿が鳴く

2011年01月29日 18時37分06秒 | 地域猫

 昨日は朝から家の周りで「ウヮーォウヮーォ」という♂猫殿の呼び声。
 まだまだ寒さはつづいていても、自然界では春が近づいているのだなと、嘘寒い両肩を抱いて寒さをこらえながらも、ほんのりとうれしい気持ちになっています。

 獣医先生の話だと、猫殿の発情は日照時間によってコントロールされているそうです。日照時間が長くなると、発情が誘発され、日照時間が短くなると終結するのだとか。つまり、「ウヮーォウヮーォ」という鳴き声は猫殿が春を感じとっている証拠なのです。
 群れをなして生活している猫殿は、一匹が発情すると、発情の同期化という現象が起きて、初めはバラバラだった周期が徐々に同時期になってくるのだそうです。どうやら発情した猫殿の臭いを嗅ぎとることによって、そういうことが起きるらしい。

「ウヮーォウヮーォ」という鳴き声に誘われたのか、いつもなら我が庭に出没する前の家の飼い猫しか見ないのに、周辺で見慣れぬ猫殿を四匹も見ました。
 発情は二週間から三週間つづくらしいので、姿を現わせば食事を提供しようと待っていたのですが、独特の鳴き声は昨日一日で終わってしまいました。それとともに見慣れぬ猫殿も姿を消してしまったみたいです。



 猫殿がウロチョロしていた間、我が庭に飛んでくることのなかった鳩がやってきました。いつ買ったものだかわからない押し麦を庭に撒いています。



 ホワイトアスパラのように見えますが、まだなんの芽かわかりません。富士川べりで見つけました。



 うさ伎のいる近くで、道路を猫殿が走っているのを見かけました。
 遠くで見たときは、すわうさ伎か、と思ったのですが、一段高くなった栗畑に逃げ込んでから私のほうを振り向いたところを見ると、全然違う猫殿でした。
 私はどちらかというと面喰いなのですが、美形の猫殿にはなかなかお目にかかれません。

 うさ伎を見かけなくなって、いつの間にか一か月以上経ってしまいました。



 前ヶ崎の香取神社には二日間顔を見せなかった小春がいました。
 餌を食べ終える瞬間を、せっかちな私としては気長に待ちつづけ、初めて前からの撮影に成功しました。
 へのへのもへじのような顔をしていて、お世辞にも美形とはいえません。しかし、私を見つけるやいなやニャーニャー鳴きながら走り寄ってくるあたりは限りなく愛おしいものです。



 小春におやつを与えていた間に、鳴きながら走り寄ってきた新参の猫殿。この猫殿
も初めて見ました。
 小春のほうはおやつしか眼中にないようですが、こちらは小春を気にしながら食べています。仲良し、という関係ではなさそうです。

 香取神社から国道6号線に出て、信号のないところを横断。
 上り下りとも車の流れの絶えることがないような国道ですが、ときおりエアポケットのような瞬間ができます。近道を辿ってまず行念寺へ。



 前にこの近道を行ったときには気づかなかったのですが、ずいぶんモダンな家があるもんだと思ったら、この地区の自治会館のようでした。



 旧水戸街道沿いに在る行念寺。今日は境内に入らせてもらって、当山開山・經譽愚底(きょうよ・ぐてい)さんのお墓にお参りしました。
 ブロック塀越しに見える黄色と青色の建物はマツモトキヨシ流山中新宿店。その角を曲がって富士浅間神社へ。



 この神社は少林寺と萬福寺を訪ねたときに初めて知りましたが、先を急いでいたので、ほとんど通り過ぎただけでした。
 改めて参詣、というより、前回見かけた美形の猫殿がいないかと思って寄ってみたのですが……。



 かたわらに建てられた説明板には、建立の年代ははっきりしないが、五百年以上の歴史がある、と記されています。
 里の伝えによると、この地にあった朽ちた大杉を発掘したところ、金の像を得たので、それをご神体として祀り、地形が富士に似ていたので、富士浅間神社として祀った、とありました。ただ金の像がいかなる像なのか、説明はありません。
 小山になった林に張りつくようにしてある小さな社、と思っていたら、林全体が境内で、敷地は千三百坪もあるそうです。社殿右には集会場のような建物と専用駐車場もありました。

 ここから坂道を少し上って
下ると、富士川の水源(大清水湧水)探索に初めてチャレンジした去年の夏、支流を本流だと勘違いして迷い出たところです。
 そのまま道を進んでも、麗澤大学の前に出るだけで、今日はその先に目指すところとてないので、夏は川沿いに上ってきた径を下って行くことにしました。



 川の名前はあるのかないのか。橋があっても、短過ぎるからか、橋の名もありません。民家の軒先をかすめながら流れています。



 落ち葉が沈んで、夏とはすっかり趣の異なる流れです。
 水源はどこなのかわかりませんが、地図で見る限り、麗澤大学の敷地内のようです。湧き水でもあるのか、透き通ったきれいな水です。



 川の左岸は廣池学園(麗澤大・高・中)の広大なゴルフコースです。

 このあと再び旧水戸街道へ出て、ちょっと胸をわくわくさせながら北小金駅北口の慶林寺を目指しました。



 胸を躍らせたのは、もしかしたら慶林寺門前の河津桜がほころんでいるのではないか、と期待したからですが、連日陽射しはあっても冷気が厳しく、夜の気温は氷点下というのでは、どうやら今月中にほころびることはなさそうでした。

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辨榮聖者と水戸光圀

2011年01月27日 22時46分35秒 | 歴史

 借りていた本を返却するために県の西部図書館へ行くついでに、五香まで足を延ばして善光寺に参詣しようと思い立ちました。



 今月の初め、その本を借りるときに立ち読みした松戸関係の史料に、五香にある善光寺と辨榮(べんねい)聖者のことが載っていたからです。
 そのときはザッと読み飛ばしただけですから、なにがしかの縁があった、という概略しか憶えていません。この日はじっくり読み直すか、借りられる本であれば借りようと思って行ったのです。が、やんぬる哉、書棚にその本は在りませんでした。

 鼻から善光寺へ行くつもりで家を出てきていました。春を思わせるような陽射しがあったので、図書館の外にあるベンチに坐って持参の地図を眺め、前にも寄った念仏寺の脇を通って行けば、県道松戸鎌ヶ谷線に突き当たり、あとは一本道……と確認しました。
 実際はもう一本先の道を歩かなければならなかったのですが……。



 念仏寺はこの日も人影なし。写真だけ撮って歩き始めました。

 念仏寺の脇の道を直進して左折するだけ……。こんな単純明快な経路で、迷うヤツがいるとしたら、そんなヤツの気が知れぬ、と思ったのですが-実際は道を間違えていたので ― やがて県道に出るはず……、と思っているあたりで、道は善光寺に背を向けるようにカーブを始めました。
 左に折れる道があったら折れていたはずですが、生憎そういう道がなかった。
 ??と訝りながら歩いているうち、南東に向かっていた道は予想以上に鋭くカーブしていて、やっと左に折れる道があったと思ったときは、ほとんど真西に向いていたのでしょう。そこで左に折れたら、真南に向かうことになります。
 初めての土地を歩くとき、私は必ず地図とコンパスを持っているのですが、この日は初めてとはいえ、いつも行く図書館の近くだったので、コンパスを持っていませんでした。



「日本の道100選」という標識の掲げられた、けやき通りに出ました。
 携帯していた市販の地図に目を落としましたが、100選というからには有名な道であろうこの道が地図には載っていない。
 太陽は燦々と輝いていますが、午後の太陽の位置は方角を曖昧にさせてしまいます。私には少し焦りが出ていて、並木道をゆっくりと眺めている余裕がありません。

 けやき通りはちゃんと地図に載っていたのですが、ページの綴じ代のところにかかっていたので、よく見えなかったのでした。
 それに、私が歩いていた道はそのまま進めば、まさに善光寺に到ったのですが、新京成の線路を見ないことには安心できなくなってゴチャゴチャと歩き回り、やっと馴染みのあるさくら通りに出ました。
 この通りは三年前にきただけですが、桜の花を見ながら八柱の駅から五香の駅まで歩いています。両側の商店街はまったく記憶にないけれども、ともかく歩けば五香の駅に着けるわけです。 



 ようやく善光寺を探し当てましたが、三つある門はすべて閉じられていました。

 明治の初め、この近辺は荒れ地で、職と禄を失った武士たちが開墾に入りました。武士の商法ならぬ武士の農法ではなかなかうまく運びません。食べるものも事欠くような有様だったので、見かねた辨榮さんが集めてきたお金を惜しみなく分け与えたということです。

 辨榮さんはここにお寺を建てようと考えて、日々浄財を集めていたのですが、そのようなわけで、お寺は一向にできません。やっと小さな庵が結べただけですが、のちにこのようなお寺ができたのは、施しを受けた人々が恩返しをしたおかげなのです。
 ザッと飛ばし読みしたときの曖昧な記憶しかないので、間違っているところがあるかもしれません。

 霊鷲山という山号はいかにも辨榮さんゆかりのお寺らしい、と思いながら眺めました。いうまでもなく、霊鷲山は釈尊が法華経を説いたとされる山の名前ですが、そちらより辨榮さんの生地からつけたのではないか、という気がしたのです。

 辨榮さんが出家しようと思ったのは柏・鷲野谷の生家近くに東光山醫王寺というお寺があったからであり、そのお寺は北小金・東漸寺の開山でもある經譽愚底(きょうよ・ぐてい)上人が鷲野谷は幽遼蒼巒の境にあって、薬師如来霊応の地だと伝えられていたのを知って庵を結んだのが発端です。



 門前に建てられた辨榮上人草創道場の石碑。
 入れないので、門前を二度歩いて立ち去ることにしました。これに懲りずにまたきなさい、と辨榮さんがいっておられるようです。



 図書館で立ち読みした同じ本に、水戸光圀と本土寺のことが載っていました。本土寺には秋山夫人の墓があります(この時点では私はまだ見ていません)が、それを建てたのは光圀だというのです。

 秋山夫人は家康の側室の一人で、家康の五男・武田信吉(1583年-1603年)の生母です。信吉は二十一歳という若さで早逝してしまいますが、八歳のときに本土寺近くの小金城三万石に封じられ、佐倉十万石を経て、水戸二十五万石の藩主となります。

 水戸藩は信吉が死んだあと、信吉の異母弟・頼将(頼宣・のちの紀伊藩主)を経て、同じく異母弟であり、光圀の父でもある頼房が入って水戸徳川家の祖となるわけですから、光圀にとっては伯父・甥という関係よりさらに一段深い関係があったことになります。
 光圀にとって伯父の母である秋山夫人は信吉が小金にいたときに亡くなり、粗末な墓しかなかった(一説には墓もなかった)ので、光圀が改めて本土寺に葬ることにしたのです。

 本土寺の参道並木に光圀が寄進した杉と松があるらしい、ということは知っていましたが、どういう関係があって寄進したのかわかりませんでした。秋山夫人の墓を建てたことと関係があったのだろうと薄々わかったので、帰りは本土寺に寄ってみることにして、五香駅から電車に乗りました。



 本土寺に着きました。あと数日間、今月末まで参観料は無料だったので、境内に入らせてもらいました。



 建治四年(1278年)鋳造の梵鐘(国指定重要文化財)がある鐘楼。残念ながら梵鐘はよく見えません。

 本堂の右手前に「秋山夫人の墓→」という案内があります。それに従って初めて境内を歩きました。



 翁の碑。文化四年(1804年)に行なわれた芭蕉忌に建立されたもの。本土寺ではしばしば句会が開かれ、一茶も参加していたようです。



 本堂と像師堂を結ぶ回廊の下をくぐると、秋山夫人の墓がありました。貞享元年(1684年)に水戸光圀が建立した、とかたわらの説明板に記されています。

 秋山夫人は武田家の重臣・秋山虎康の娘で、名は於都摩(おつま)。十五歳のとき、家康の側室となり、信吉を産んだあと、天正十九年(1591年)、二十四歳という若さで病没してしまいます。
 松戸市の文化財マップによると、本土寺には夫人の父・虎康も葬られているとのことですが、これは寺の人に訊かなければ場所がわからないので、いつか機会を改めて。

 


 菖蒲池(上)と紫陽花。
 いくら無料だからといって、こんな冬枯れの景色を眺めるためにわざわざ遠くからくる人もおりますまい。現に工事関係者が数人いたほか、境内は無人でありました。
 されど、遠来の客がこういう枯れた景色を眺めることはないのだから、こういう殺風景な画像をブログに載せておくのも、近場で暮らす私の特権にして役割の一つかとも考える次第であります。

 


 本土寺をあとにして改めて参道を歩いてみました。
 並木はほとんどが椎(シイ)と欅(ケヤキ)ばかりで、杉は参道入口近くに数本、松に到っては一本もありません。古そうな杉は参道左側の一本ですが、幹の太さからいって、何百年とは見えません。
 水戸光圀が秋山夫人の墓を建立したのは、いまから四百三十年も前です。光圀名残の樹はもうないのかもしれません。

 ある説によると、光圀が秋山夫人の墓を訪ねたとき、墓はなく、土地の人が「日上の松」と呼んでいる松の老木が参道中ほどの西側にあっただけ、ということです。墓すらないことを悲しんだ光圀が本土寺に改めて埋葬したというのですが……。

 いまは常磐線で断ち切られていますが、当時の参道は現在のサティの南入口のある旧水戸街道から始まっていました。距離にすると、現在より400メートルほど長かったので、中ほど、というのはどのあたりになるのでしょうか。
 わかったとしても、参道の西側(つまり左側)は畑地と駐車場を除くと店舗が建ち並んでいるだけで、松の樹はありません。

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萬福寺と少林寺へ

2011年01月25日 10時43分17秒 | 寺社散策

 寒い日がつづいています。寒さにつれて、散策で歩く距離も減少気味です。
 先週は土浦へ行って、久しぶりに長時間歩いたという気分になりましたが、さほど広い街ではないので、思ったほど歩いてはいませんでした。

 日曜日はラグビートップリーグのプレーオフ準決勝戦がありました。私の応援するトヨタ自動車が三洋電機と対戦するので、じつにじつに久しぶりに秩父宮まで観戦に赴こうかと思ったのですが、出かけるかどうするかと思っていたときにテレビで視た天気予報は東京も千葉も午後からずっと曇。

 風邪はすっかり治ったという状況ではないし、曇って吹きっさらしのスタンドに一時間半も坐っていた日にはどうなることかと考えた末、行くのを諦めました。
 ところが、試合が始まろうという午後二時になっても、お日様が隠れる気配はない。
 こんなことなら行ったのに……と、切歯扼腕しても、常日頃天気予報は信じるに値しないと決めていながら、まさか二~三時間後の予報が外れることはなかろう、と思ったのは自分なのですから仕方がない。

 観戦は取りやめたけれども、東京まで行こうと思い立ったぐらいですから、体調はいいほうでした。代わりに、少し遠目の散策をしようと思い、柏の地図を拡げました。
 先だって電車に乗って訪ねた増尾城址の近くに萬福寺と少林寺というお寺があるのを見つけました。歩いて行くとすると、少しホネのある距離ですが、疲れを感じるようなら中断すればいいと思って出かけることにしました。幸い風もないようです。

 いつものように前ヶ崎の香取神社に寄って小春に餌を置き、そこから根木内歴史公園を抜けて旧水戸街道に出ます。



 根木内歴史公園の沼地は氷が張ったままでした。ここは夕方、陽が落ちる直前しか太陽が当たりません。

 


 マツモトキヨシ中新宿店前で旧水戸街道とは別れて右折します。下の画像はマツモトキヨシの直前、私が蜜柑をいただいた行念寺です。

 


 マツモトキヨシ前から200メートルほどのところに富士浅間神社がありました。
 拝殿への石段を上って行くと、新松戸にいたコツブに似た白と薄い茶色の端正な猫殿がいたので、餌を置いたのですが、逃げられてしまいました。

 


 去年九月、富士川の水源を探索したとき、支流を本流だと勘違いして歩き、わけがわからなくなって、さまよい出たところです。
 場所が違うので、道路の様子などが地図と合致するはずもなかったのですが、そうとは知らぬ私は狐に摘まれたような気持ちで坂を上って行き、グルッと大回りをして下の画像のところに出てきました。
 上の画像の地点から下の地点までは100メートル離れているだけですが、上り坂になっている上にカーブしているので、見通しが利きません。仮に見通しが利いたとしても、初めてでしたから、先ほど通ったところだとは気づくはずもない。
 わずか四か月前のことですが、当時は残暑厳しき折でした。季節がまったく違うこともあり、遙か昔のような気がします。




 麗澤大学前を通過。
 文明十年(1478年)、太田道灌と千葉孝胤が戦った境根原合戦で最大の激戦地となったのがこのあたりだと知って訪ねたときは、かなり遠いと思ったので、南柏駅からバスに乗りましたが、香取神社からここまでは2・4キロ。時間にして三十五分ほどで着いてしまいました。




 中原ふれあい防災公園に出ました。園内には耐震性貯水槽、非常用便槽などのほか、災害時にはヘリポートとして使える広場があります。ここまで五十分強。



 ユニクロ柏増尾台店。ここまでおよそ一時間。近くには、しまむらとかライフとかがあって、近辺のショッピングゾーンとなっているようです。

 ここで再び地図を見ると、方向違いを歩いています。しかし、突き当たれば県道市川柏線に出て、その道路を左に進めば目的地のはずなので、近道を捜すという邪心を起こすことなく歩きました。



 土(つち)農協前のバス停。
 この先には土小学校がありましたが、土というのは昔の村の名です。明治二十二年、近辺の十一の村が合併して成立。十一を縦書きにすれば「土」。柏市(当初は東葛市)の誕生で消滅。



 堀割を走る東武線を眼下に見下ろしながら……。ここから萬福寺と少林寺はほぼ等距離です。先に少林寺へ行くことにしました。

 約一時間半歩いて少林寺に着きました。臨済宗大徳寺派のお寺。柏市内にある臨済のお寺はここだけのようです。松戸には二か寺。
 永禄元年 (1558年)の創建。相馬重胤(?-1336年)の子孫に当たる相馬慶胤 (出家して嗣嶽慶胤)という人が、重胤と家来たちの霊を慰め、供養するために建てたお寺です。

 南北朝時代、北朝側に与していた相馬重胤は建武三年 (1336年)の片瀬川の戦いで北畠顕家に敗れ、鎌倉法華堂で自害しています(戦死という説もある)。
 出陣の際、重胤は母から授けられた観音像を兜の中に納めていたといわれています。この観音像は家来によって奥州相馬家へと持ち帰られ、それを携えてきたのが、嗣嶽慶胤でした。


 



 少林寺境内に聳える樹齢二百五十年の椹(サワラ・左)と同百年の欅(ケヤキ)です。見ていると心臓が締め上げられるように窮屈そうな根元。



 相馬重胤の供養塔。
 家に帰ったあと、インターネットを検索していたら、少林寺の住職日記というブログがありました。偶然この日が開山忌だったようです。しかし、私の訪れた時間が遅かったためか、墓参の人を一人見かけただけで、その余韻は何もありませんでした。



 少林寺前を走る県道市川柏線を横切って細い道に入り、500メートルで真言宗豊山派萬福寺に着きました。創建は寛永十六年(1639年)。
 歩いている間に遅まきながら天気予報が当たって、曇り空になりました。



 萬福寺阿弥陀堂。
 平安時代後期の作と推定される阿弥陀如来の木造坐像(高さ88・1センチ)が安置されています。


 


 境内にこんなモニュメントが飾られているのを見たのは、川口の錫杖寺、浦和の明照寺につづいて三か寺目です。本堂を写した画像の左下にもゴジラが写っています。
 明治五年に学制が公布されて、この地区に増尾学校(土小学校の前身)が創られたとき、萬福寺が仮校舎として使われたそうですが、幼児向けのモニュメントがあるのはそんなことと関係があるのでしょうか。

 帰りはさすがに歩く気力は喪失していたので、東武野田線の増尾駅から電車に乗るつもりでしたが、行きに東武線を越した少し先で、「→妙蓮寺」という看板があるのを見かけていたので、寄ってから帰ることにしました。



 萬福寺から700メートル。寺名に「妙」とつくからには日蓮宗のお寺だろうと想像していたら、案にたがわずそうでした。
 およそ四百年前、小金城主・高城氏の家臣だった平川某という人が持仏堂として建てたのが始まりのようです。本堂は工事中だったので、境内には入らず、門前を通過しただけですが、周辺には林が残されていて、なかなか趣のある雰囲気でした。



 東武野田線の増尾駅に着きました。ここから→柏→北小金と電車に乗って帰ります。所要二時間の散策はこれにて打ち止めです。

→前ヶ崎香取神社から少林寺、萬福寺を経て増尾駅までの参考マップです。

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土浦再訪(2)

2011年01月22日 19時07分19秒 | 歴史

 土浦再訪の〈つづき〉です。

 郁文館正門から千束町という交差点に出て左折。高架になった道路の下をしばらく歩くと、鍵形に曲がった道に出くわしました。その道に入って行くと、少し先でまた鍵形に曲がっています。標識らしきものは見かけませんでしたが、道筋だけは昔のままのようで、旧水戸街道なのであろうと見当がつきました。鍵形に次ぐ鍵形の道路は城下町ならでは、です。
 少し歩くと、細い路地の先に朱塗りの御堂が見えました。慶長十二年(1607年)創建の曹洞宗東光寺です。



 東光寺瑠璃光殿。元文四年(1739年)の建立。
 瑠璃光というからには薬師如来が祀られているものと思われますが、説明板の記述は御堂のことに終始していて、祀られているであろう仏像については一言も触れられていませんでした。



 東光寺本堂。
 民家に押し潰されるような形に境内があります。狭いところによくぞ建てたり、と感心するような伽藍の配置です。画像右上の庇は瑠璃光殿。



 浄土真宗大谷派等覚寺。創建は建仁年間(1201年-04年)。
 創建当時は極楽寺といって、土浦市街の北西7キロほどの藤沢城内にありました。江戸時代に入った慶長五年(1605年)、藩主となった松平氏が現在の地に再興。このときに寺の名も改められました。



 等覚寺の銅鐘。鎌倉時代の建永元年(1206年)の銘があり、年代が明確なものでは関東では最古といわれます。国の重要文化財です。



 旧水戸街道沿いには古い蔵が残されています。「しるこ」という電飾看板の掲げられた店。「しるこ」というのは店の名か、汁粉屋なのか。
 ほかに店の名を記した看板はなさそうですが、店は閉まっていたので、何を生業としているのか、不明のまま。



 矢口家住宅。嘉永二年(1849年)の建築。
 土蔵造りは天保十二年(1841年)の土浦大火後、瓦葺きの屋根などとともに防火の備えとして取り入れられたものです。

 


 旧水戸街道を挟んで向かい合わせの上・野村と下・大徳。
 野村は江戸時代後期から明治時代初期に建造された蔵で喫茶室があり、予科練関係の資料も展示されています。
 大徳は天保十三年(1842年)の建築。大正時代は呉服屋として栄えた店です。いまは観光協会の事務所が設けられ、土産品の販売、資料の展示などを行なっています。



 江戸後期の地理学者であり、天文学者の沼尻墨僊(ぬまじり・ぼくせん)が享和三年(1803年)に開いた寺子屋・時習斎の跡です。
 野村の先、引っ込んだところに御堂が見えたので寄ってみたら不動堂でした。隣に小さな琴平神社があり、その境内にこの塚がありました。

 琴平神社のすぐ脇には長唄小唄の教室がありました。戸はアルミ製に変わっていましたが、格子戸で、引けばカラカラといい音がしそうでした。路地は抜けられるようになっていて、この一画だけ江戸情緒が残っていました。

 城下町にしてはお寺の少ない街です。そう思いながら、行きに歩いてきた駅前通りを突っ切ると、民家の陰に隠れるように御堂がありました。

 


 臨済宗済岸寺です。
 土浦駅から歩けば十分ほどのところですが、裏手は広大な墓地でした。墓地に面して民家の縁側があったりします。御堂が瀟洒なところからすると、墓地がイヤに広いと思ったら、いくつかのお寺の墓地が背中合わせになっているのでした。

 下は済岸寺墓地で見つけた土浦藩儒であり、侍講でもあった中田正誠(1813年-57年・号は平山)の墓。



 済岸寺近くで見かけた土浦の猫殿。
 白猫は三倍ほどもありそうな黒猫の身体に押しのけられて、私が置いた餌にありつくことができません。安心して食べられるようにと、少し離れたところに置いてやったのに、気づかない様子です。やがて黒猫が見つけて、それも食べられてしまいました。
 しかし、喧嘩をしたり、威嚇し合ったりはしない。毛並みはまったく異なるけれども、親子のようです。



 浄土宗高翁寺。永禄三年(1560年)の開創。
 ここに「ブラリひようたん日記」で知られる高田保(1895年-1952年)の墓があったと知ったのは、家に帰ってからのことでした。



 阿弥陀院。
 名残は何もありませんが、江戸時代はこのあたりに水路があって、積み荷を積んだ舟が行き交ったようです。あたりには船頭たちを相手にした料理屋や旅籠のある盛り場であったそうです。



 千手院。
 済岸寺の墓所からこのお堂が見えたので、行ってみようとしのですが、柵があって行けませんでした。どんな仏様を祀っているのかわからないまま行くのを諦めたら、意外なところに路地があって行き着くことができました。



 土浦駅近くまで戻ってきたら、「さくら通り」という歓楽街がありました。通りの名はさくらでも、桜の樹はどこにもありません。賑わっているように見せるための、べつのサクラという意味か?

 病気をしてから外で呑むことはなくなりましたが、私は若いころからこういうところには鼻が利く、という天分があります。
 出張などで、見ず知らずの町へ行っても、誰に訊ねることもなく、寝るまでのしばしの時間を過ごす歓楽街がどの方角にあるか、ということがわかったのです。しかし、いまや無用の長物となりました。



 観光協会のあった大徳で、蜆(シジミ)のしぐれ煮と公魚(ワカサギ)の甘露煮をお土産に求めました。家で待つ者などいないので、酒の肴として我が胃の腑に収まるのみ。

この日歩いたところ

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土浦再訪(1)

2011年01月21日 21時46分25秒 | 城址探訪

 初雪の降った十六日を除いて、毎日毎日天気は晴です。そのぶん気温は低く、クリスマスの日からほぼ毎日最低気温は氷点下。それもマイナス5度台という日があります。
 血圧が低いせいか、寒い朝は人並み以上に苦手です。布団から抜け出しても、なかなかエンジンがかかりません。暖房器具がなくても動けるよう(すなわち、外に出ても平気)になるのは、十一時を過ぎてから……。
 暇なことは暇なので、ちょいと遠くへ行くか、と思うのではありますが、お昼ごろにならないと出発できないというのでは、それほど遠くへは行けません。

 一昨々年の十月、茨城県の土浦を訪ねたことがあります。土屋氏九万五千石の城下町ですが、霞ヶ浦を見たいと思って行ったので、亀城と呼ばれた土浦城址をちょっと見ただけ。街はろくすっぽ見ないままに帰ってきてしまいました。
 で、改めて行ってきました。



 常磐線の緩行と快速は乗換時間の折り合いが悪いのが常ですが、この日は柏で三分待っただけで土浦行の電車がきて、北小金からわずか四十一分で着くことができました。

 


 土浦駅西口から亀城公園へとつづくメインストリートを歩きます。
 上は佃煮の「武蔵
屋」、下は天麩羅の「ほたて」。「ほたて」は明治二年の創業で、建物はそのときのままのようです。「武蔵屋」も明治初期の創業とありますが、建物はもう少し新しい?



 桜橋跡。
 いまは市街地の南側を流れている桜川。中世までは現在の街の中心部を流れていたのが本流で、江戸時代初期、そこに架けられたのが桜橋。
 暗渠になっていますが、いまでも道路下を流れているようです。



 駅から少し離れるとシャッター通りです。

 土浦駅から徒歩十二分で亀城公園に着きました。
 土浦城は天慶年間(938年-47年)、平將門が城を築いたのが始まりといわれます。中世になると、筑波郡小田邑(現在のつくば市小田)を本拠とした小田氏が周辺を支配するようになり、土浦には重臣の若泉氏や菅谷氏が置かれました。
 江戸時代に入ると、松平氏、西尾氏、朽木氏、とそれぞれ二代ずつという短期間で藩主が入れ替わりますが、寛文九年(1669年)、土屋数直が六万五千石(のちに九万五千石)で入封したあと、ほんの一時期(五年間)を除いてずっとつづき、そのまま明治維新を迎えます。



 土浦城内濠と東櫓。櫓は松平氏のあとに入った西尾氏の二代目藩主・忠照(1613年-54年)が築いたもの。



 前川口門。武家屋敷と町屋を仕切っていた門です。
 明治維新後は土浦町役場や、あとで訪れることになる等覚寺の山門として使われていましたが、昭和五十六年、二の丸の入口に当たる、二之門があった現在の場所に移築されました。



 本丸の正門です。別名・太鼓櫓。西尾氏に替わって入った朽木稙綱(たねつな・1605年-61年)が前からあった櫓門をこの形に改築したもの。



 西櫓。これも西尾忠照が築いたもの。

 


 陽射しはたっぷりとあって風もなかったので、公園のベンチに腰を下ろして、自分でこしらえてきた握り飯の弁当を開きました。
 餌を与える人がいるとみえて、私が包みを開いただけで四、五羽の鳩が集まってきました。
 少しだけお裾分け、と思って飯粒を投げると、なんとなんと五十羽ぐらいがやってきて、中には私の膝の上に乗る無礼者もいる始末。
 上の画像はひとしきり餌を投げたあと、私も店をたたんでから撮ったので、もう飯は出そうもないし、三々五々帰るとするか、という風情の鳩たちです。

 下の画像は黒いので判別しにくいのですが、ごみ籠の上に止まっている鵯(ヒヨドリ)です。
 50センチも離れていない至近距離まできて、私が飯粒を投げるのを待ち構えていました。鳩がヨチヨチと歩いて行くより断然早く、弾丸のように飛んで行って、かすめ取ってしまいます。



 浄土宗浄真寺。創建は不詳。
 慶長六年(1601年)、最初の土浦藩主となった松平信一(のぶかず・1539年-1624年)が再興しています。二度の火災で堂宇は失われ、現在の本堂は安政二年(1855年)の再建。

 


 曹洞宗神龍寺。創建は天文元年(1532年)。当時の領主であった菅谷勝貞の開基。
 もう営業していないようですが、「ZEN」というレストラン兼喫茶店が併設されていました(画像下)。精進料理や抹茶をいただけるような寺は数多くあっても、コーヒーが飲めるという寺はそうそうありません。なかなか洒脱なお寺です。

 土浦では毎年十月、土浦全国花火競技大会が開かれます。これは秋田県大仙市、新潟県長岡市の花火とともに、日本三大花火大会といわれていますが、始まりはこの神龍寺の秋元梅峰(あきもと・ばいほう)住職が私費を投じて花火を打ち上げたのがきっかけです。
 時は大正十四年、関東大震災後で疲弊した土浦の経済を活性化させるためと航空殉難の霊を慰めようと始められたのでした。



 神龍寺を出ると、正面が土浦一中です。その校門として使われているのが藩校・郁文館(別名・文武館)の正門。
 郁文館は土屋氏第七代藩主・土屋英直によって城内に設置されましたが、十代・寅直が天保十年(1839年)に現在の場所に移しました。正門はそのときに建てられたものです。
 このあと時計の逆回りに街を巡ります。〈つづく〉

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初雪のち快晴

2011年01月18日 17時38分44秒 | のんびり散策

 十六日、千葉県地方に初雪が降りました。



 目覚めたとき、家の周りがいつもと較べて一段と静かであるように思えたので、もしや、と思って窓を開けたら、このような雪景色でありました。
 一旦は熄んでいた雪が七時ごろにはまた舞いましたが、熄むと陽の光が漏れて、抜群に日当たりのよい我が庭の雪は一時間もしないうちに解けてしまいました。
 あとは快晴……。



 そして昨日も快晴、今日も快晴。富士川上空は雲一つ見えぬ快晴つづきです。

 


 前ヶ崎キャンプ場の下に湧水があったのを初めて知りました。

 キャンプ場を抜けると野球グラウンドがあり、その先に前ヶ崎香取神社があります。
 このところ毎日、猫の小春に会います。散歩に出るのは気が向いたときなので、時間は一定ではありません。それでも、概ね午後一時から三時にかけて、と決まっているので、私がくるのを待ち構えているのかもしれません。
 香取神社の脇を歩いていると、いち早く私を見つけて「ニャー」と鳴いたり、鳥居をくぐった途端にガサゴソと熊笹の葉の鳴る音がしたかと思うと、「ニャー」と鳴きながら姿を現わしたりします。
 首輪をつけているところを見ると、飼い猫なのだろうと思われますが、何も食べさせてもらっていないのか、いつもがっついています。

 


 顔を撮ってやろうと思うのですが、こやつは片時もじっとしていることがないのです。
 じっとしているのはおやつを食べているときだけ。食べ終わると「ニャーニャー」とおやつの追加を催促しながら私に迫ってきます。向かってくるところを撮ってやろうと腰を下ろしても、動きが素早いので、ピントを合わせるいとまがありません。
 で、いまのところ撮影可能なアングルは上か横からしかないのです。尻尾がないので、後ろから見ると茶色の兎みたいです。



 もう一匹の猫・うさ伎(うさぎ)に会いに行くためには、こんな泥の坂道を上って行きます。上り口は窪地になっていて、陽が当たらないので、二日前の雪が氷となって残っていました。

 この方面に散策に出たときは必ず覗いていますが、うさ伎の姿は暮の二十六日から見ていません。この坂道を上り切ると、日当たりのよい梨畑があって、日向ぼっこをしているうさ伎がいたものですが、くる日もくる日もガッカリして帰る日がつづいています。
 そろそろ……もうここにはいないのだ、と考えを改めるころなのかもしれません。

 わずか二度目にして私の膝下に蹲り、顔を洗うなどリラックスした様子を見せていたのですから、もともと人懐っこい猫だったのかもしれません。猫好きな人にもらわれたのならよいのですが……。



 泥道を上ったところは梨畑です。いつもうさ伎が日向ぼっこをしていた場所です。



 県立西部図書館で「徳川實紀」を借りるときに立ち読みした「松戸郷土史談」という本に、東雷神社のことが載っていたので、久しぶりに足を運んでみました。
 その本には、旧水戸街道を往来する旅人たちが落雷に難渋していたのを鎮めるために祀られた、と記されていましたが、「東雷」をどのように読んだらいいのか、書かれていません。

 かつて私が住んでいた新松戸のマンションと流山の東福寺の中間に雷(いかづち)神社という社があります。その社と連関があるのかどうかわかりませんが、その社から見ると東の方角にあるので、私は「ひがしいかづち」と呼ぶことにしています。



 うさ伎のいる梨畑から東雷神社へ行くのには富士川を渡り、この跨線橋で常磐線を越えます。
 この跨線橋は鉄道写真マニアの間では有名撮影地なのだそうです。この日も三人の若者が電車のくるのを待ち構えていました。

 北小金駅近くの花屋さんに秋桜(コスモス)の種が出ているのを見ました。買おうかと思ったら、早咲きも含めて五種類もあったので、播き時まではまだ二か月以上もあることもあって、しばらく逡巡することにしました。



 北小金駅北口に慶林寺という曹洞宗のお寺があります。
 駅から近いのですが、私が帰るのとは反対方向なので、滅多に立ち寄ることはありません。二、三度寄ったことがありますが、いつも門が閉じられていたのでなおさらでした。
 昨日、散策ついでに気まぐれを起こして通りかかったら門が開いていました。



 門前にある河津桜です。早ければ今月下旬にも花が見られるかもしれません。
 春の兆しを見つけたせいか、朝晩は厳しい寒さがつづく中でも、私の心の中に暖かい火が灯ったような感じがしています。
 日の出は少しずつ早くなり、日の入りも遅くなっています。



 門が開いていたので境内に入らせてもらいました。
 前々から見てみたいと思っていた高城胤吉夫人・月菴珪琳(げったん・けいりん)尼の墓です。
 慶林寺は胤吉の嫡男・胤辰(たねとき)が母の菩提を弔うために永禄八年(1565年)、桂林寺として建立したお寺です。
 高城氏は秀吉の小田原征伐によって没落しますが、それは天正十八年(1590年)のことです。お寺を建てた当時は小金周辺を支配する領主でした。そのわりには質素な墓石です。

 高城氏の没落後、家康から朱印を与えられたのを機に、名を桂林寺から慶林寺へと改めます。
 本尊は大福薬師瑠璃光如来、祀られている寺院を追々捜しながら詣でようと思っていた薬師如来です。想像もしてみなかった近いところでお会いすることができました。ただ、お姿は外からではまったく見えません。



 こちらは小金牧の野馬奉行だった綿貫夏右衛門の墓。
 これも先の「松戸郷土史談」で読んだ話です。

 夏右衛門は元の名を山梨十(重)右衛門といい、馬術の名手だったそうです。秀吉の小田原征伐のときは北条方に味方して小田原城に籠城しました。しかし、城はあえなく落城。慶林寺の住職を頼って落ち延びました。

 北条氏に替わって関東を支配することになった徳川家康は小金牧を再興しようと考えます。そこで事情に通じた者に訊ねたところ、奉行役と牧士支配は夏右衛門がよいということになり、早速引見することになりました。
 夏右衛門が招かれたのは四月といいますから、いまでいうと五月。そろそろ暑くなるころなのに、没落して以降、貧乏暮らしをしていた夏右衛門が持っていた外出着は綿入れしかありません。やむなくその着物から綿を抜いて出かけました。
 その姿を見て、家康は腹を抱えて笑い、向後、綿貫夏右衛門と名を改めてはどうか、といったので、山梨十右衛門が綿貫夏右衛門となった次第です。
 ここには「山梨」と記されていますが、北小金には「月見里」と書いて「やまなし」と読ませる家が残っているので、恐らくは月見里十右衛門であったのだろうと思います。



 一度家に帰ったあと、湯屋に行きました。
 電気風呂というものに初めて入りました。入っていると、ときどきピリピリッときます。それほど強い刺激ではありませんが、どんなときにくるのか、と考えていると落ち著かない。一回入ったら、もういいか、という感じです。
 出たあとに気づきました。入ってはいけない人に、高血圧症、心臓疾患などと並んで、老人、潰瘍、とありました。
 電気風呂のほかにはサウナと水風呂、露天、ジェットバス、それに白湯、とありますが、サウナ、水風呂、露天はまだ試していません。

 湯屋に行ったときの私のパターンは大体決まっています。
 足と下半身にお湯をかけて洗ったあと、一回目の入浴。いまの季節、冷え切った身体で、いきなりザブリとは行かないので、数分間半身浴。下半身と手が暖まるのを待って、ようやく全身を湯船に沈めます。スーパー銭湯と違って、街の湯屋の良さはなんといっても熱めの湯温です。

 額にうっすらと汗が滲むようになったら、湯から出て身体を洗います。そして二度目の入浴。今度は頭髪と顔を洗って三度目の入浴。最後にもう一度身体を洗って四度目にして最後の入浴。
 このころには、目に入るほどの汗が額から噴き出していますが、両肩だけは暖まっていない。
 両肩も暖かいと感じるまで入ったことはありませんが、そんなことをしたら恐らく逆上せあがってしまうほうが先でしょう。



 湯上がりに牛乳を飲みました。ここでもスーパー銭湯とは違って、硝子張りの冷蔵ショーケースに入っているのを自分で取り出し、番台に¥120也を払う昔ながらのシステムです。



 湯屋を出るときにはすでに陽は沈んでいます。
 これは行きに湯屋の近くで撮った写真。右のブロック塀の家の飼い猫殿です。三匹いますが、この猫殿だけ私を憶えていてくれるようです。市立図書館の小金分館へ行くときもこの道を通ります。立ち止まって「やあ」と声をかけると、「ニャー」と鳴いて近寄ってきてくれます。

 湯屋を出たあと、北小金駅のコンコースを通り抜け、本土寺参道入口までスタスタと急ぎ足で歩いても十一~十二分かかります。
 
寒々とした参道の並木道に差しかかるころ、少しずつ冷え始めていた身体が、覿面に寒さを感じるようになります。そこから我が庵まではさらに六~七分。
 汗をかくほど温まったはずの身体は完全に冷え切っています。

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十五日の布施弁天

2011年01月17日 11時52分52秒 | 寺社散策

 一昨日十五日、寒い中を柏の布施弁天に行ってきました。
 天気予報は曇のち雨か雪、ということでしたが、ときおり薄日も漏れるような空模様だったし、十五日という日を逃せない理由があったのです。
 布施弁天とは通称で、正式には紅龍山東海寺といいます。真言宗豊山派のお寺で、毎月一日、十五日、それに巳の日(今月は二日、十四日、二十六日)に限って祈祷をするのです。真言宗のお寺ですから、護摩を焚いて祈祷をするのであろう。それを見てみたいと思ったのでした。

 柏市内にあるのに、バスで行くとすると、柏駅からの便数が非常に少ないので、我孫子まで行かなければなりません。こちらは一時間に三~四本ありますが、布施弁天前まで行くバスはないので、終点のあけぼの山公園入口から十分以上歩かなくてはなりません。

 季節が春であれば、桜、チューリップ、躑躅(ツツジ)などに彩られる、あけぼの山公園を見てから……というのも一興ですが、いまの季節は花など期待できないので、私は終点の一つ前-布施荒屋敷というバス停で降りて、わざわざ遠回りをしました。
 地図を見たら、南龍寺というお寺があるので、寄って行こうと思ったのです。

 


 浄土宗南龍寺。
 元和元年(1615年)の創建と伝えられますが、浄土宗千葉教区のホームページには創建の四十五年後、寛文九年(1669年)に現在地に移転、とあるだけで、最初はどこに建立されたのかはわかりません。



 南龍寺前にあった道標。右流山、左江戸道と刻まれていました。
 すぐそばの電柱には「→布施弁天1キロ」という標示がありました。
 利根川に向かって下る坂(寺山坂)を下りて行くと、ポッコリとお椀を伏せたような丘が見えてきました。樹々の間からお寺らしき翡翠色の巨きな屋根が垣間見えます。それが目指す布施弁天です。



 布施弁天の手前。何か? と思って入ってみたら、左から不動堂、大師堂、大日堂、そして薬師堂でした。

 


 思いがけず薬師如来を拝むことができました。
 脇侍が二体あるのが見えます。薬師三尊といえば脇侍は日光・月光菩薩ですが、小さ過ぎるのと遠過ぎるのとで、どんな仏様なのかわかりません。

 南龍寺に寄ろうと思わなければ、行きも帰りも違う道を通っていたはずなので、薬師如来に参拝することはできなかったでしょう。
 これで、近場で見つけた薬師堂は五つ目になりました。先はまだ遠いけれども、あと七つ見つかれば、八日の薬師如来の縁日には毎月違ったお堂に参詣できることになります。
 また、たまたま柏駅と布施弁天を結ぶ路線のバス停があったので、時刻表を見たら、ほどよい時間に柏駅行のバスがあることも知りました。



 柏駅へ向かうバス停の時刻表です。平日は朝夕に五本だけ。土日でも一時間に一本しかありません。



 東海寺の楼門「最勝閣」です。
 総欅の二階建てで、階下に四天王、階上には釈迦三尊が安置されています。文化七年(1810年)の建立で、間口三間(6メートル)、奥行き二間(3・9メートル)。



 石段を上り切ると、正面に本堂があります。総朱塗りのあでやかな建物です。享保二年(1717年)に建立されたもので、間口五間(11・6メートル)、奥行き六間(12・6メートル)。
 境内には二十人から三十人ほどの参拝客がいただけですが、訪れる寺社が無人であることが慣れっこになっている私には、それだけでも華やいでいるように感じられました。

 本堂ではちょうど祈祷の真っ最中でした。祈祷を願う人たちの住所と名前が読み上げられ、家内安全か交通安全か、願いの筋が読み上げられて、つづいて太鼓が打ち鳴らされて般若心経が唱えられます。
 祭壇前には祈祷をしてもらう人たちが並んで立っているので、僧侶がどこにいるのか、護摩を焚いているのかどうか、見ることは叶いませんでした。 



 鐘楼。文化十五年(1818年)の建立。一辺が11・4尺(3・4メートル)の八角形をした石積みの基礎の上に、十二角形に柱が建てられています。




 三重塔。こちらはまだ新しいのか、最勝閣、本堂、鐘楼にはそれぞれに由来を記した説明がありましたが、何もありませんでした。

 このお寺を建てたのは弘法大師といいますから、千二百年の歴史を誇り、東葛地方では流山の東福寺と同じように古いお寺です。そのわりに本堂や最勝閣が新しいのは、幾度も戦火や火災に遭っているからです。

 最初に寺に火をかけたのは平將門のようです。地蔵尊を念持仏としていた將門が寺を焼く、というのは私にはにわかには信じられませんが、寺伝にはそのように伝えられているので、仕方がありません。
 まあ、時代も人物も違うとはいえ、摩利支天を信仰しながら、敵の領地内とあれば、どんなに由緒のある寺社であろうと構わず(というより好んで)火をかけた武田信玄のような罰当たりもいるのですから、贔屓の引き倒しになってはいけませんが……。

 その寺伝によれば、將門を討とうとしていた藤原秀郷軍の武将(名前は明らかでない)が松の木の上に逃れていた本尊の弁財天を祀って寺を再興した、とあります。そして、その信仰が篤かったがゆえに、將門を討伐することができた、と解釈できるような記述があります。

 私は前々から日蓮の本場ともいえる千葉県や、親鸞が長く滞在して布教活動を行なった茨城県において、日蓮宗や浄土真宗の寺院より真言宗(とくに豊山派)の寺院が多いのを不思議に思っていましたが、どうやら国家戦略の臭いがするような気になってきました。東国におけるすべての真言の寺を調べたわけではありませんが、成田山新勝寺やこの布施弁天、私が雰囲気としては気に入っている流山の東福寺はいずれも真言の寺で、將門贔屓の私からみれば、いずれもアンチ將門なのです。
 ふーむ、どうやらそういうことか、と感じると、冷気がいっそう冷たくなったように思えました。



 布施弁天は小高い丘の上にあって、北側には林もないので、北風がまともに吹きつけてくる代わり、利根川が遠望できます。



 弁天茶や。
 最勝閣の石段下にある休憩所です。寒かったせいか、無性に甘いものが食べたくなって、お汁粉をいただきました。




 布施弁天の前があけぼの山公園です。
 こんなものが見えたので近寄ってみました。公園のシンボルだそうですが、いわく因縁はわかりません。春がくると、この前が一面のチューリップ畑に変わるそうです。




 いまの季節、咲いているのは水仙と蝋梅だけです。

 


 園内の地図を見たら資料館があるので、行ってみたら工事中でした。バーベキューガーデンがあって、建物に軽食コーヒーと書かれてあったので、コーヒーでも飲むかと思って行ってみたら、二月まで休業だ、と。
 どこもかしこもこんな標示ばかり。
 こんなところ、二度とこねぇゾ、と捨て台詞を吐いて、ばけもの山公園をあとにしました。

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育苗圃から祖光院へ

2011年01月13日 20時12分00秒 | のんびり散策

 常盤平に半日の仕事ができたので行ってきました。
 ハローワークは相変わらず空振り三振つづき。半日の仕事ではヘタを打つと足が出て、三振ゲッツーということにもなりかねませんが、打ってみなければゲッツーになるかどうかはわからないので、家にいて寒さを我慢しているよりはマシかと思い直して出かけました。
 九時に家を出たのですが、太陽は燦々と輝いているのに、ピューピューと北風。今冬は例年にない寒さではあっても曇の日が少なく、何よりかにより、風の強い日がほとんどないのが救い、と思っていた矢先の寒さです。おまけにひいたばかりの風邪は完全に治っていません。

 我が庵の最寄り駅である北小金から常盤平へ行くためには、次の新松戸で武蔵野線に乗り換えて、また次の新八柱で新京成電鉄に乗り換えると、次が常盤平です。わずか三駅ぶん行くのに、一駅乗っては乗り換え、また一駅乗っては乗り換えというように、非常に面倒です。
 都会の電車のように、プラットホームに立てば、待つほどもなく電車がやってくるというわけではなく、乗り換えるたびに数分待たなければならない。その間、ピューピュー北風。プラットホームには屋根があるせいで、陽は当たらない。

 二時半過ぎに仕事が終わったので、松戸市の育苗圃というところへ行ってきました。昼休みの雑談中、仕事をしていた場所のすぐ近くにあると教わったのです。


 


 正しくは松戸市営金ヶ作育苗圃というようです。広大な土地にいろいろな樹木、草花や野菜の苗に混じって、八十種類ものハーブが植えられているそうです。
 広さはどの程度あるのか、入口に左の画像のような地図があるだけで、パンフレットのたぐいはないので、しかとはわかりません。家に帰ったあと、インターネットで調べてみましたが、詳しく説明したページはないようでした。

 松戸地方はクリスマスイヴの日から雨がありません。こんな季節に見学にくるような酔狂な人間はいないとみえて、順路には足跡一つありませんでした。私が歩を進めるたびに土埃が立ちます。おまけに熄む気配のない強い北風。
 ここを教えてくれた人が「いまの季節は行っても駄目だろうけどね」と付け足しましたが、「まあ、春になったらまたきてもいいから、事前に一度」と答えてきたのでした。
 陽射しは結構強いのですが、それをチャラにしてしまうような寒気と北風、です。足早に巡って写真だけ撮りました。

 


 上=ポットマジョラム、下=アップルミント。

 


 上=キャットミント、下=サントリナ。

 


 上=ローズマリー、下=ベチバー。

 季節柄、花はまったく見られませんし、葉が枯れてしまっているものもたくさんあります。これはこんな季節にきた私が悪いのだから致し方ない。
 しかし、いまの季節は枯れているとしても、標識がなく、何がなんだかわからないものが多い。日当たりがいいので、折角標識があっても、灼けてしまって判読できないものもあります。

 よーく考えてみれば、ここは苗を育てる施設であって、植物園ではないのだから、見せることが主体ではないのです。見たければ「見ることもできる」施設なのです。だから、イーンジャないか、とも思いますが、それだったら、標識は全部とっぱずしてしまえば、と独り言をブツブツ。 



 常盤平駅に戻る途中に祖光院という曹洞宗のお寺があったので寄ってみました。



 細い径を歩いていたら、墓石が見えたので寄ったのですが、裏口から入ることになりました。「参詣者」と「老人」以外は通行禁止の看板。私が入った裏口には建てられていなかったので、通り抜けてしまってからしか気づきません。通り抜けたところで大して近道になるとも思えませんが、通る人が多く、迷惑しているのでしょう。

 


 境内の半分ほどは林で、林の下草になっているのはどうやらすべて曼珠沙華のようです。画像下・掲示板に貼り出された曼珠沙華の写真。赤色だけでなく、黄や白の花もあるみたいです。
 こんなところがあったとは……わずか数か月前、花の季節に知るべきでした。



 これは松戸市のホームページ「私が好きな松戸の景観スポット」から拝借した画像です。



 今年の秋、忘れずに見にきましょうと、北風の冷たさも忘れるような気分になって帰り道を辿っていたら、熊野神社の前を通りかかりました。

 ここでも偶然にしては思わぬ収穫。梛(ナギ)の樹があったのです。
 樹下に石碑があり、三人の氏子がいまから二十四年前、熊野の本宮大社に参詣したとき、本宮大社のご神木である梛の苗木を持ち帰って育て、十五年前の平成八年にこの神社に奉納した、という旨が刻まれています。

 これが梛の樹か、と思って見上げました。
 梛という樹があるのを知ったのは随分前のことですが、見たことはありませんでした。
 どのような経緯で知ったのかというと、北条政子に関して調べていたときのことです。政子は頼朝との結婚を父・時政に反対され、いまでいうなら駆け落ちをしたのですが、親の目を盗んで密会を重ねていたのが熱海にある伊豆山神社の梛の樹の下でした。駆け落ちが成功して、めでたく頼朝の妻となったあと、梛の葉をお守りとして大切に持っていたと伝えられています。

 その樹の下で密会を重ねた記念、というだけではなく、梛の葉は裏表の違いが少ないことから、裏表がない心に喩えられるということがあります。
 また葉が対生なので、仲のよいこと、つまり縁結びの象徴でもあり、葉脈が平行脈なので、葉がちぎれにくいことから、縁が切れないということにもなるからです。

 マキ科の常緑高木です。葉っぱの様子を見たかったのですが、葉のあるところは高過ぎて全然わかりません。葉っぱが落っこちていないかどうか捜しましたが、ありませんでした。

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2011年初薬師・柏市

2011年01月12日 15時08分49秒 | のんびり散策

 寒波が押し寄せるこの時節、私は決まって鼻風邪をひいています。たんなる鼻風邪であれば、洟水が垂れるのと戦えばよいのですが、ごくごく稀に熱を出すことがあります。
 そのごくごく稀なことが日曜日の朝、目覚めたときに起こっていて、ぼんやりしたまま今日までを過ごしてしまいました。

 四日も前の一月八日。薬師如来の縁日なので、お参りに行ってきたのですが、その夜からなんとなく身体がだるくなり、翌朝から熱っぽい頭を抱え込むことになったので、ブログを書こうと思っても、てんで文章がまとまらず、私と一緒に今朝まで布団の中で暖まっていました。

 八日は年が改まって最初の縁日、すなわち初薬師でした。
 去年の十一月、入院後一年を経過した日に、薬師如来を訪ねてお礼参りをしようと決めていました。十二月八日に早速、と思ったのですが、十二月は終い薬師(しまいやくし)ということになります。初め、が終(しま)いではなんとなく腰の据わりもよくないと感じて、一月八日になるのを待っていたのです。

 入院する直接の原因となった病気は完治しましたが、その後、発覚した別の病気-体質といったほうがいいかもしれません-があって、これが治るまでには時間がかかる。投薬と規則正しい生活と食餌療法とで気長に治して行くしかないようなのです。
 完治したはずの病気も、私はどうやら再発しやすい体質の持ち主であるようなので、それを防ぐためにも薬を服みつづけねばなりません。

 毎日欠かさず薬を服んでいるから、曲がりなりにも体調はよいのかというと、日によって偏頭痛に悩まされたり、胸苦しさに襲われたりします。去年はそういう日が何日もつづくことがありました。
 しかしいまでは、「きたな」と思うことがあっても、不快な気分が一日じゅうつづくようなことはなくなりました。しばらく横になっていれば治まったり、なだめすかしながら庭仕事をしていたりすると、いつの間にか去っていたりします。

 すっかりなくなってくれれば、それに越したことはありませんが、毎日毎日おかしな状態がつづき、次第に心も弱って、このまま逝くのかもしれない、と不安にさいなまれた日々を思い返すと、ときたま、それもほんのしばらく我慢していれば、遠ざかって行く、という現在の状態はじつにありがたいことである、と思えるようになりました。
 治ってほしいと思って薬師如来に願をかけたことはありませんが、よくなったのは私のような者にも薬師如来のご加護があったおかげであろうと考えて、毎月八日の縁日には薬師詣でをせむ、と決めたのです。

 さて、薬師如来をお祀りしているところといっても、近場でとっさに思い浮かぶのは、市川にある下総国分寺、我孫子の興陽寺、柏・鷲野谷の醫王寺、同じく柏・酒井根の薬師堂ぐらいしかありません。四か所とも一度ずつ訪ねて、御堂を見ています。
 薬師詣でというと、数に決まりはないようですが、一日にいくつか巡るのが本来のようです。しかし、私が思い浮かべた四つの御堂は離れ離れに点在しているので、一日一か所しか行けません。
 と、なると……と心を巡らせると、一番心を惹かれるのは柏の醫王寺です。しかし、距離的には四つの候補の中では一番遠い場所にあります。

 迷っているうちに、時間は昼を過ぎてしまったので、酒井根の薬師堂に行くことに決めました。
 この薬師堂と馬橋の萬満寺はなんの関係もありませんが、萬満寺の終い不動(しまいふどう)の催しは午後三時までだったので、時間的にはどこもそんなものかと考えると、間に合うように行けるのは、酒井根しかなくなりました。

 決めたあとも迷いのようなものが残っています。それは、ほかの三つがいずれもお寺の境内にあるのに対して、こちらは無住の御堂である、ということでした。



 酒井根の薬師堂までは、歩いておよそ一時間かかります。途中でかつて水源を探索して歩いた富士川を渡りますが、このあたりでは暗渠になっています。多分この道路の下を流れているはずです。

 裏口から迫った薬師堂はひっそり閑としていました。



 御堂の脇を抜けて前に回ると、予感は当たっていました。
 扉は閉まったままで、錠前が下ろされています。何か催しがあったけれども、早めに終わってしまった、という余韻は感じられません。持参の線香をあげようと思いましたが、小さな賽銭箱があるだけで、香炉もありません。

 何はともあれ、お賽銭をあげて……。
 自分の願はかけないけれども、他人の幸せや病気治癒を願うのは抵抗がないし、奥ゆかしいヤツじゃ、とお薬師さまが聞き届けてくださるような気もするので、最近交流を始めたばかりのメル友が転んで尻の骨を打ったというのと、慢性の病を抱えているもう一人の友のために、一日でも早くよくなるように祈願致しました。

 中を覗いてみようと近づいてみましたが、磨り硝子なので何も見えません。
 どんな仏像が安置されているのか気になるところではありますが、まあ、イワシのアタマも信心から、
というぐらいですから、中には何もなかったということでも構わないわけです。

 この薬師堂の創建は正長元年(1428年)と伝えられています。
 四百年後の安政二年(1855年)になって、河瀬鳳瑞という人が堂守りになりました。武蔵国葛飾郡長島村(現在の江戸川区東葛西)の梵音寺というお寺の住職でした。
 それまでは荒れ果てた御堂だったようで、この人の手によって境内の清掃と整備が進められました。
 御堂の後ろには四国八十八か所を模した石像が建立されていますが、これを建てたのも河瀬鳳瑞です。実際に四国八十八か所を巡って、それぞれの土を集めて帰り、石像の下に埋めたと伝えられています。
 梵音寺というお寺はいまも東葛西にあるようですから、いつか訪ねてみようと思います。



 御堂の左に、薬師堂の由来を記した、このような説明板が建てられています。
 無住なので誰の手によって管理されているのかわかりません。無縁仏ではないけれども、昔は村落の住民たちが共同で管理していたものが、時代を経て、顧みる人がいなくなってしまった、ということではないのか。

 そのように思っていたら、クレジットに柏市文化財保護委員会、柏市教育委員会と並んで、すぐ近くにある龍光寺、とあったので、この御堂を管理しているのは龍光寺なのであろうと思って、寄ってみることにしました。



 石段を降りると、四国霊場八十八箇所○(最後の一文字・○の部分だけ読めませんでした)と刻まれた石碑があります。
 文化九年(1812年)、いまはバス通りになっている御堂の入口に道しるべとして建てられたものです。昭和の初め、バス通りが改修されるのに伴って、ここに移されたのだそうです。

 


 龍光寺の山門(画像上)と安永二年(1773年)建築の本堂です。
 こちらもひっそり閑としていました。いつもの例で、私が訪れる寺院は十中八九人影がありません。
 庫裡を見ると、窓にはカーテンがかかっていて、物音もしません。子ども用の自転車が置かれていたので、たまたま一家揃って外出、ということだったのでしょう。
 本堂前に線香とチャッカマンが置いてあったので、お賽銭をあげて線香をいただくことにしましたが、よくよく見ると空っぽの火鉢が置いてあるだけで、ここも香炉がない。線香はやむなく持ち帰ることと相成りました。

 龍光寺を出ると、すぐ近くに南柏駅に出るバス停があります。なんとなく消化不良のような気分で歩いていたら、バスがやってきたので、とっさに乗ってしまいました。

 この日はちょっぴり暖かい日でした。油断したのかもしれません。慣れぬことをしたからかもしれません。
 病気が治った御礼参りと友人の病気平癒の祈願に行ったのに、風邪をもらって帰ってくることになりました。

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千住柳原を歩く

2011年01月07日 07時43分42秒 | のんびり散策

 昨日は小寒。私は今年初の通院。
 病院に八時に着くために、北小金駅で電車に乗るのは七時五分。庵を出るのはギリギリですが、六時台です。いまの時期だとちょうど日の出の時刻。
 天気の佳い日がつづいているのに、駅までの道は陽光が家並みで遮られているので、空が明るいだけで、陽射しの恩恵を授かることはできません。今冬から私の防寒必需品となっているスヌードの上にマフラーを巻いていても、駅までの道は超々チョー! 寒い!

 元旦に北千住の七福神巡りをしたとき、帰りは北千住駅の東口に回って、柳原地区を歩いてみるつもり(七福神はすべて西口)でしたが、やはり疲れたのか、駅に戻ったときにはそれ以上歩く気力を失っていました。
 そこで月に一度の通院帰りは恒例の(少し)遠くへ行く日なので、あまり遠くはないけれども、行ってみようということにしたのでした。
 柳原、といっても、何か特別なものがあるわけではありません。細い路地が走り、ゴミゴミ(いい意味で)した街があるだけです。

 私が生まれたのも同じ下町ですが、これほどゴミゴミしていない。いってみれば、同じ下町というだけで、似ても似つかぬ街なのですが、ずっと昔に一度だけ柳原周辺を歩いたとき、なんとなく懐かしいような想いがして、いつ知れず涙がこみ上げてくるような想いを味わったことがあるのです。

 それから幾星霜……。ゴミゴミはまだ変わらずにあるだろうか、という想いを懐いて再訪です。

 浅草に棲んでいた時分もときどき北千住にきていました。
 ルミネという駅ビルがあり、そこには浅草にはない近代的なステイショナリーショップと無印良品があったからでした。浅草からなら、日本橋へ行って、丸善でも覗いたほうがよさそうなものでしたが、なぜか足は北千住に向くのが常でした。

 

 北千住は駅の西口と東口ではまるで街が異なるようです。私は東口のほうが好きでした。



 駅東口の商店街・学園通りにあるサンマルクカフェ。
 文具や本を買ったあとはこの店の二階に上がり、窓辺の席が空いていればそこに坐ってコーヒーを飲みながら、街行く人を眺めておりました。

 


 痕跡は何も遺されていないとわかっていましたが、まず旧水戸街道を訪ねることにしました。西口を走る宿場町通り(旧日光街道)が荒川にぶつかるところで旧水戸街道が分岐していました。
 上の画像は東武鉄道のガードをくぐるあたり。この少し先に荒川を渡る渡しがありました。

 下の画像は旧水戸街道に面した日蓮宗清亮寺。元和五年(1619年)の創建。
 かつて門前には街道を跨いで枝を伸ばす松があったそうです。槍掛けの松と呼ばれる老木で、その名の由来は水戸光圀です。

 大名行列を先導する槍持ちは、いかなる理由があろうとも槍をまっすぐ立てたまま歩く、というのが決まりでした。ところが、道を跨いで伸びている枝があるので、槍を立てたまま通ることができません。
 邪魔をしている枝を伐り落とす、ということになったのですが、光圀が見事な枝を伐ってしまうのはあまりにももったいないので、一度槍を枝に立てかけて休み、出立するときは枝の向こうに回って槍をとれば、槍を寝かせたことにはならない、というイキな計らいをしたのだそうです。以後、ここを通る大名行列は等しく松の下で休息をとるようになったといわれます。

 こうして折角残された老木も昭和二十年ごろに枯れてしまったそうです。

 


 荒川の土堤に上がりました。手前から東武鉄道、つくばエクスプレス、JR常磐線、東京メトロ千代田線と四本の鉄橋が並んで荒川を渡っています。
 下は土堤から見た東京スカイツリー。さすがに川風は冷たかった。

 


 柳原地区にはそこらじゅうに幅1メートルあるかないかという細い路地があります。
 幾星霜前、どこをどう歩いたか、記憶にはありませんが、こういう路地に出くわすと、少しも変わっていないという気がします。
 住所表示を撮した下の画像はとくに意味のある画像ではありません。確かに柳原を歩いたのですよ、というアリバイ証明みたいなものです。

 


 テキトーに歩いていたら柳原千草園という公園に着きました。冬枯れで園内全体が寒々しい中に、まだ花をつけている石蕗(ツワブキ)がありました。



 柳原千草園前の眺め。
 上を行くのが京成電鉄、下が東武鉄道。このあたりの鉄道は線路が飴みたいにグニャグニャ曲がっています。



 桁下高さ1・7メートルと大書された東武鉄道のガード。実際は185センチ(身長177センチの私がくぐったときの感覚で)ぐらいあると思われますが、思わず首を竦めてしまいます。

 


 京成関屋駅(上)と東武の牛田駅(下)。関屋駅をカメラに収めたあと、グルリと振り向いただけで、一歩も動くことなく撮った画像です。

 


 ところどころに古そうな建物が残っていました。上は千住東町の八百屋さん、下は北千住駅東口からつづく学園通りを抜けたあたりのマッサージ院です。



 千住常東小学校前に建つ甲良屋敷跡の記念碑。
 甲良家とは近江の国・甲良荘から出た大工の棟梁で、代々徳川幕府に仕え、江戸城、日光東照宮など大規模な建築物にはすべて関わった家柄です。このあたりは敷地一万坪といわれる甲良家の別荘があったところ。

 


 北千住は銭湯王国といわれるほど湯屋の多い地域です。柳原の大和湯(画像上)から五分も歩かないうちに美登利湯があり、そこから六分、北千住駅近くには梅の湯(画像下)があります。

 駅を中心にして半径1キロ以内に十三軒もの湯屋があるのだそうです。入浴料は四百五十円と千葉に較べると三十円高いけれど、湯屋に通うとしたら、二十分近くも歩かねばならない私には羨ましい限り。



 こんなフリーペーパーも発行されています。
 若い人はどのように呼んでいるのか知りませんが、銭湯とはいわずに湯屋といい、それも「ゆや」ではなく、「ゆーや」と発音するのが東京の下町言葉です。
 


 この日も最後はサンマルクカフェに入って、コーヒー+柚子入りのタルトを摘みながら、道行く人を見下ろして、街巡りの締めくくりと致しました。

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2011年新年の寺社巡り

2011年01月06日 06時30分43秒 | 寺社散策

 調べたいことがあって、昨五日、千葉県立西部図書館へ「徳川實紀」を借りに行ってきました。



 借りたのは三代将軍家光の事跡を記した「大猷院殿御實紀」。図書館所蔵の国史大系では三十九、四十の二巻に収録されています。

 少し風が強かったものの、好天に恵まれたので、本を借り出したあと、歩いてみるか、という気になりました。この図書館へくるためには武蔵野線の新八柱で降りるのですが、いつもはそのままクルリと引き返すのが常でした。
 この日は新八柱駅に背を向ける形で東に向かって進み、図書館に隣接している「21世紀の森と広場」の東側をグルリと半周する形で回って帰ろうと考えました。すると、最寄りに駅はなくなるので、家まで歩いて帰る、ということになります。



 新京成電鉄の線路際。図書館から踏切を越えて、常磐平に向かってほんの少し歩いたところにありました。こちらの方向へは歩いたことがなかったので、こんなものがあるとは知りませんでした。料金は十五分¥500、三十分¥1000とありました。

 入浴しても、身体が芯から暖まった、という経験のない私には、岩盤浴とか陶板浴はじっくり暖まるような気がして、あこがれの対象でもあるのですが、暖まりたいと思う季節は当然冬です。
 こういう施設が近場にあるのならともかく、駅から遠いところにあるのでは、せっかく暖まっても、トボトボと帰る間にリバウンドのような症状が出て、かえって辛い目に遭ってしまいます。ここも最寄りの新八柱の駅までは十分以上かかるので、利用するかどうかは思案のしどころです。



 図書館から徒歩五分ほどのところにある梅松院念仏寺。
 地図で図書館のすぐ近くに「卍」があることを知って、足を延ばしてみようかと思い、ついでに武蔵野線沿いに北上する形で歩けば、これまで行ったことのない寺院がいくつかあるので、そこを巡りながら歩いて帰ろう、と思うきっかけをつくってくれたような寺院です。

 山門はなく、御堂が直接道路に面しています。宗派は何かと思いましたが、昨年から貼られたままになっている掲示に「南無阿弥陀仏」という文字が見える以外はよくわかりません。左手に寺務所らしき建物があるようでしたが、人はいないようでした。
 家に帰ったあと、千葉県学事課の宗教法人名簿を見たら、単立仏教系と分類されていました。由来、縁起などはいまのところ、いっさい不明です。



 念仏寺からもう一度新京成の踏切を渡って歩くこと十分少々。浄土真宗本願寺派の天真寺。昭和六十三年にできたばかりの新しい寺院です。とくに特徴もなさそうだったので通過。
 とはいえ、一寺にはそれなりの物語があります。ご興味があれば、以下にジャンプしてくだされ。
http://www.tenshin.or.jp/history.html



 天真寺から六分。八ヶ崎の八坂神社。お正月の名残は何もありません。無人の上、立て札のたぐいもないので詳細は不明。



 一神宮。地図で見たときは珍しい名の神社だが、「はじめじんぐう?」と読むのかと思いました。
 地図では道路から奥まったところに鳥居のマークがあったので、どこかに細い径があり、それを辿って行くのだろう思っていたら、いきなり大きな鳥居が目に入ってきて驚きました。その立派さに、左側に建っている「一神会入口」という標識が目に入りませんでした。

 鳥居をくぐって参道を進むうち、なんだか妙な雰囲気を感じ始め、本殿が近いかなと思うあたりで、どうやら参拝には会員登録(?)が必要だということがわかったので、退散することにしました。自由宗教一神会という新興宗教団体で、ホームページも開設していないようです。



 火の見櫓です。すでに使われることはないのでしょうが、このようなものが遺されているとは田舎だなぁと感じさせます。次に訪ねる子安神社手前で。



 八坂神社から十七分。子安神社。ここも無人。
 境内に建てられた由来には、正保二年(1645年)三月三日創建と記されていました。祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)。



 子安神社のすぐ隣。真言宗豊山派長聖寺。戦国時代の創建と伝わるようですが、戦火に遭って古文書も喪われ、詳細はわからないそうです。
 関係者以外の立ち入りを禁ずという立て札があったので、遠くから本堂をカメラに収めて退散。ここも無人。



 長聖寺の門前には十月桜が咲いていました。

 図書館を出てから、すでに四十分以上歩いています。借りてきた本二冊は七百ページあまりもあるので、バッグに入れて歩いていると、結構重い。このあたりでバッグの革紐が肩に食い込むようになってきました。
 手袋をしていても手は冷たく、耳まで覆い隠せる帽子を被っていても耳は冷たいのですが、上半身だけはうっすらと汗をかいていました。気がつくと、いつの間にか風が熄んでいます。



 長聖寺から三分。曹洞宗金谷寺。またまた無人でした。
 創建は慶長五年(1600年)。本堂左には七福神像。本堂内には松戸市内でただ一つといわれる閻魔像があります。

 金谷寺のあとはダラダラ坂を下り、松戸北部市場脇からけやき通りを経て国道6号線に出ます。



 金谷寺から十三分。浄土宗常行院。
 東漸寺を開き、醫王寺、行念寺(ともに柏市)を開いた經譽愚底(きょうよぐてい)上人による開山。何かゆかりのものでもないかと墓所に入ってみましたが、何も見つけられませんでした。ここでようやく墓参中の一人に遭遇しました。

 このところ、体調はやや下降気味。
 元日に千住の七福神巡りをしたあと、散策こそ欠かしませんが、近場をちょっと歩くだけで疲れが出るので、長い距離を歩いたのは四日ぶりです。
 今日は歩くぞと思って歩くから簡単には疲れが出ないのか、体調が悪くないので歩こうという気になるのか、どちらが先なのかわかりませんが、この時期、毎年恒例の鼻風邪に悩まされているわりには快調な足取りでした。
 そして体調の良し悪しと因果関係があるのかどうか。年が改まってから、気温が10度に達したのは元日以来四日ぶりのことでした。



 常行院から十二分歩いて、最後に東漸寺に寄りました。参道両側に吊られた提灯が普段とは違います。
 我が庵に帰り着くまで、まだ十五分ほど歩かねばなりませんが、ここまでくれば、ようよう帰り着いたという気になります。

 年が改まってからは初めてきたので、境内に入ろうとしたら、雲が出て陽が翳ってしまいました。それとともに急に冷え込んできました。直前まで汗をかいていたので、余計寒いような感じです。ブルブルッとくるような感じもしたので、参詣は取りやめと致しました。

↓昨日歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map81323.html

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千壽七福神詣で(2)

2011年01月02日 16時35分44秒 | 寺社散策

 昨日元日は晴。日記をつけ初めて二十年、朝方は曇って初日の出を拝めないという年もありましたが、二十年間、雨の降った元日は一日もない、ということになりました。

 さて、千壽七福神巡りの〈つづき〉です。
 八幡神社から千住神社まではわずか五分という近さでした。道路が斜めに走っているので、近くなっても境内がなかなか見えてきませんが、おびただしい数のチャリンコが止められていると思ったら、そこが門前でした。



 境内が見えるところまでくると、これまたおびただしい数の人、人……。

 七福神巡りを終えてみると、境内も一番広く、参詣人の数も一番多い神社でした。参拝待ちの行列もとりわけ長い。
 祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)。
 延長四年(926年)に創立された稲荷神社と弘安二年(1279年)創立の氷川神社を明治六年に合祀し、西森神社と名を改めましたが、昭和四年、現在の千住神社となりました。足立区内では一番格式の高い神社だそうです。

 



 お目当ての恵比寿様はどこか、と見回しましたが、見つからない。
長い行列をつくる人たちの陰に隠れていたのでした。
 門前に「回転する」と謳っているように、恵比寿は台の上に載っていてクルクルと回転します。

 男は時計とは逆廻りに三度廻し、女は時計廻りに三度廻して、願い事によって決まっている箇所を「白いハンカチ」で三度撫でながら願いの言葉を三度念じる。
 家に帰ったら一日に三度念じながら、恵比寿を撫でた同じ部位を撫でる。すると、祈願が叶うのだそうな。「三度」というのが重要なポイントのようです。
 行列が長い上に、普通ならお賽銭をチャリン、柏手をパンパンで済むところを、一人一人がヨッコラエッコラと恵比寿を廻し、ついでに(お参りにはきていない)「お祖父ちゃんのぶんも……」などとやっているので、自分の番がくるまでに、えらく時間がかかります。
 面白そうだと、しばらく列の人となりましたが、列が進むのにつれて、説明板が読めるようになり、つらつら読んでいるうちに、「白いハンカチ」がいやに強調されている(持っていない人は社務所で買ってください、と書いてあるのです)と思い始め、柄物のハンドタオルしか持っていなかった私は列を外れました。

 



 日光街道を横断して千住神社から七分、河原町稲荷神社に着きました。ここには福禄寿が祀られています。
 祭神は先の千住神社の祭神一体と同じ食稲魂神(うかのみたまのかみ)。千住神社の表記(宇迦之御魂命)と異なるのは、それぞれの神社本庁への届け出に従ったまでで、他意はありません。ただ、食稲魂神と表記しているのは「古事記」、宇迦之御魂神(命ではない)としているのは「日本書紀」です。
 この神は保食神(うけもちのかみ)とも呼ばれますが、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神のことです。食物の神・商売繁盛の神・出世の神で、千住市場(通称やっちゃ場)の守護神でありました。やっちゃ場は昭和二十年まで旧日光街道沿いにあったのです。



 千住青物市場創立三百三十年記念碑。高さは4メートルあまり。
 明治三十九年(1906年)に建てられたということですから、創立が三百三十年前というと天正年間です。そんな時代に市場が必要なほどの人が江戸に住んでいたとは思えないようにも思うのですが……。

  


 河原町稲荷神社を裏手から出て細い路地を辿り、墨堤通りに出ると、浄土宗の源長寺が見えてきます。ここも旧千住宿を探訪したときに訪れていますが、再度お邪魔することにしました。
 お寺に初詣する人も多く、私が庵を出てくるときは本土寺に向かう人々とすれ違ってきましたが、このお寺の境内は無人。お正月であろうとなかろうと、私は神社よりお寺にきたほうがホッとします。

 


 七福神巡り最後となる仲町氷川神社と弁財天。河原町稲荷神社からは徒歩で七分ほどです。
 祭神は素盞嗚尊。延喜年間(901年-23年)の創建。元和二年(1616年)、現在地に遷座。

 これにて全編終了と相成ったので、ひと休みすることにしました。墨堤通りを少し戻って、矢立茶屋という店に入りました。




 気のよさそうな客引きのおじさん二人が待ち構えていました。



 抹茶とお菓子(人形焼き)をいただきながら、陳列されている資料を拝見。

 資料の中になぜか坂本龍馬関係のものが見られます。なにゆえに? と問うと、龍馬の許嫁だった千葉佐那子という人が晩年千住に住んだからだとか。
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」では貫地谷しほりが演じていました。住んでいたというだけなのですが、目聡い視聴者は早速ゾロソロと出かけてきて、放映直後はかなりの人出があったということです。

 去年、この七福神巡りを思い立たっていたら、その混雑に巻き込まれていたわけです。去年でなくてよかったと思いながら、隣に目を移すと、見慣れた森鴎外さんの写真がありました。
 これまたなにゆえに? と思って資料を読んでみると、鴎外さんの父・静男さんが明治十四年、この地に移り住んで橘井堂(きっせいどう)森医院を開業。鴎外さんもドイツ留学までの四年間をこの地で過ごした、とありました。
 そうか、そういえば、「鴎外」という号は、隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」、つまり千住を意味する、と聞いたことがありました。医院の跡には石碑があるだけ、とのことでしたが、早速腰を上げて探索。




 再び仲町氷川神社前を通って、ミリオン商店街という道を進みました。見つけられぬまま突き当たると、右は飲食街で、北千住駅が近いようです。
 石碑だけというから、細い路地に隠れて気がつかなかったのか。
 しばし立ち止まり、矢立茶屋でもらってきたパンフレットを見直してみると、「千住1-30-8」と所番地が記してあったので、よし、虱潰しだ! と決意して振り向いたところにありました。足立都税事務所の角でした。

↓八幡神社から北千住駅まで。
http://chizuz.com/map/map81196.html

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千壽七福神詣で(1)

2011年01月01日 19時44分17秒 | 寺社散策

 謹賀新年、であります。
 今年も独りよがりなブログをつづけますが、宜しくお引き回しのほどお願い申し上げます。

 去年の元旦は同じ松戸市内でも新松戸に棲んでおりましたので、歩いて十分ほどのところにある赤城神社に初詣をしてお茶を濁しました。
 転居した北小金で徒歩十分というと、このところ日参している前ヶ崎の香取神社か八坂神社、あるいは東雷神社ということになりますが、二年つづけて安直なことでは我ながら情けない。かといって、あまり遠いところには行けません。
 この冬は血の巡りの悪い私には珍しく、手指や肩口は嘘寒いのに、足だけは暖かいという状態がつづいて、手には手袋をしているのに、足は素足にスニーカーという出で立ちで散策をしていましたが、いつの間にか寒くなって靴下が欠かせないようになり、そうこうするうちに身に沁みるような寒気がきて、ちょっとした奇形を持つ右足が痛むようになってきたのです。

 で、暮にインターネットを視ていたら、距離的には頃合いの北千住に千壽七福神があると識ったので、初詣を兼ねて行ってみることにしました。
 松戸七福神も流山七福神も巡りお果せましたが、気が向いたときに一つ二つと巡ったので、何日もかけています。しかし、千壽七福神は狭い地域に集中しているので、一日で巡ることができます。それもザッと巡るだけのつもりなら、所要時間は一時間半から二時間。

 右廻りと左廻りのコースがあります。
 私は左廻りで千住本氷川神社(大黒天)、大川町氷川神社(布袋尊)、元宿神社(寿老神)、千住神社(恵比寿)、八幡神社(毘沙門天)、河原町稲荷神社(福禄寿)、仲町氷川神社(弁財天)の順に巡ることにしました。



 北小金から常磐線で二十分ちょっと。北千住駅で降りました。
 庵を出たときは陽射しこそあったものの、まだ朝の冷気が残っていて、つれて歩き方もぎこちない。ラバーソールの靴を履いていても、冷たいと奇形を持つ右足だけ足の裏が返せないので、スーッ(左足)、バタン(右足)、スーッ、バタンとなるのですが、電車に乗っている間に暖かくなり始め、いつの間にか気にならなくなっていました。

 


 北千住駅を出てから九分で本氷川(もとひかわ)神社に着きました。鎌倉時代の徳治二年(1307年)、千葉氏がいまとは別の場所に建立したもので、祭神は素盞嗚尊。
 ここに祀られているのは大黒天。拝殿はともかく、大黒天堂にはお参り待ちの行列ができていたので、斜め後ろから撮影させてもらいました。
 社務所で御朱印帳を買うと、ガイドマップやスタンプラリーの台紙などをセットにした手提げ袋をくれます。みなその袋を手に提げて歩いているので、すぐにそれとわかります。

 次の大川町氷川神社に向かう途中に安養院があるので、再訪しました。去年九月、旧千住宿を訪ねたときにお参りしている新義真言宗のお寺です。

 


 安養院の本堂(上)と阿弥陀堂です。
 建長年間(1250年ごろ)に北条時頼が創建したと伝えられていますが、「足立風土記」によると、創建は応永二年(1395年)。本尊は鎌倉末期の作と伝えられる、金銅の阿弥陀如来。阿弥陀堂の扉が開けられていましたが、堂内は暗過ぎて撮影は不可能でした。



 去年は駅のほう(東側正門)から入ったので、南側からも出入りできることを知りませんでした。その南入口の正面に建つ地蔵尊二体。左は寛文四年(1664年)の建立、右は同十年。
 仲直し地蔵と記されているので、喧嘩別れかなんかした友達とヨリを戻せる地蔵さんなのかと思ったら、「なかよし」と読ませるようです。二体並んで仲良く立っておわす、というだけのことか。



 ほんのちょっと寄り道をして、順路を外れたかと思いましたが、そこここに幟が立てられているので、曲がり角にきても迷うことはないようにできています。

 


 本氷川神社から国道4号線のガードをくぐり、十五分で大川町氷川神社に着きました。安養院に寄り道をせずに、直行していれば、歩いて十分ちょっとです。ここに祀られているのは布袋尊。
 前の大黒天とは違って、拝殿にお参りする人はあとを絶たないのに、私がいた間は布袋尊に参る人はいませんでした。

 街を歩いていると、そこらじゅうで例の袋を提げた人たちを見かけるのですが、肝心の神社の境内に入ると、なかなか見ません。お参りしているのはいかにも地元、という人ばかりです。

 


 荒川が近かったので、また寄り道しました。この川は私に一番馴染みの深い川です。大きな河川で、水源も河口も見ているのはこの川だけ。下の画像は今日元日の荒川上空。

 


 大川町氷川神社から十二分で寿老人を祀る元宿神社に着きました。ここも寿老人前は閑散たるもの。

 元宿神社から次の千住神社までは少し間が空きます。空いているからかどうか、道しるべの幟がなくなってしまいました。
 今日、携帯していたのは市販の地図ではなく、「北千住の細道」というホームページからダウンロードしたイラストマップです。
 お目当ての神社と非常にアバウトな道路が描かれているだけなので、目印になりそうなのは日光街道(国道4号線)しかありません。
 ともかく日光街道に出て、袋を提げた人を見つければ、なんとか辿り着けるだろうと思って歩いていたら、千住神社を飛ばして先に八幡神社に着いてしまいました。元宿神社からは十八分ぐらいでした。

  


 八幡神社と毘沙門天です。この神社でも拝殿に参る人は引きも切らないのに、毘沙門天に参る人は見かけません。
 賽銭箱が傾いていて置かれていたのもちょっと残念。直そうかと思いましたが、木製とはいっても重そうだし、部外者が触れたのでは賽銭泥棒と間違われてしまうでしょう。

 七福神巡りはこれで四つ目が終わったところですが、このまま行くと、かなり長くなってしまいそうなので、明日に〈つづく〉ということに致します。

↓北千住駅から八幡神社まで。
http://chizuz.com/map/map81192.html

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