桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

旧日光街道草加宿を歩く

2012年08月17日 21時01分58秒 | 歴史

 旧日光道中・草加宿を歩いてきました。
 よりによってクソ暑い日に出かけなくとも……。
 その心は、というと、前はまったくフリーでありましたが、五月から不定期ながらもパート仕事を始めているので、休みの日でないと出かけられなくなったのです。


 


 旧日光道中の宿場町を歩くのは一つ先の越ヶ谷宿、さらにもう一つ先の粕壁宿につづいて三つ目です。



 明治末期建築の浅古正三(あさこしょうぞう)家。浅古家の地蔵堂から市役所を挟んだ旧街道に面して母家が遺されています。



 草加駅から徒歩六分。回向院。
「新編武蔵風土記稿」には恵光院と記され、「浄土宗、南草加村浄往寺末、草加山と号す。開山専誉順広元禄十四年二月二十五日化す、開基は村民源右衛門と云し者なり、本尊弥陀を置」と記されています。



 葛西道の道標。なぜか実際の葛西道の分岐点から100メートルほど離れた場所に建てられていました。



 明治期の町屋建築・藤城家。



 日光街道草加宿清水本陣跡。



 その昔、草加松原で「おせん」という人がやっている茶店があり、そこで売れ残った団子を平らにして天日干しし、焼き餅をつくったそうで、これが草加煎餅の始まりだと伝えられています。その「おせん」にちなんで「おせん茶屋」と名付けられた小公園が旧街道に面して設けられていました。



 このあたりで庵を出てから一時間半が経過していました。
 バッグの中には、冷凍庫で凍らせておいた500ミリリットル×2本の水分、同じくカチンカチンに凍らせた保冷剤が入れてあります。保冷剤は手ぬぐいでくるんであって、ときおり取り出しては額に当てたり、首筋に当てたりしながら歩いています。



 真言宗智山派の東福寺山門。



 甚左衛門堰。

 札場河岸公園の東側にある堰。かつて伝右(でんう)川と綾瀬川を結んでいました。寛永年間(1624年-44年)に綾瀬川の改修と伝右川の開削が行なわれた際に潅漑用と増水時に綾瀬川から伝右川に逆流するのを防止するためにつくられたものです。堰を造った野口甚左衛門にちなんで名づけられました。現在遺っている煉瓦づくりの堰は明治二十五年に改修されたものです。



 札場河岸跡。江戸時代、江戸との主な物流は、綾瀬川の水運でした。舟の荷は、この「札場河岸」で積み下ろしされました。



 望楼。



 松尾芭蕉像。元禄二年(1689年)三月二十七日に「奥の細道」の旅で千住をあとにした芭蕉が日光街道を北上し、最初に訪れたのが草加宿でした。



 草加松原。かつては千本松原と呼ばれたそうですが、現在の松の数は六百本。


 セカセカブンブンと歩き飛ばすだけで、休憩を取らないのが私の散歩の特徴です。しかし、この日は松の木陰にしつらえられたベンチに坐って、しばしの休憩を取りました。

 暑さに当てられたのでもなく、疲れたのでもありません。靴に砂が入ってしまったので、靴を脱いで砂払いをすべく、やむなく坐ることになったのです。

 小休止で元気が出たので、当初は草加の隣・松原団地駅まで一駅ぶん歩いたら帰ろうと考えていましたが、さらに一駅先の新田まで行くことにしました。



 かたわらを人工のせせらぎが流れるようになり、どこまでつづくものやら……と思った矢先に松原は終わり、だとさ。




 道は川に沿ってつづいていますが、松原が途切れると、桜並木に変わりました。

 前方に見えるのは東京外環自動車道です。



 蒲生大橋を過ぎると、陽射しを遮るものはまったくない、完全なピーカン状態となりました。




 新田駅はこのあたりであろうと小径を曲がって川岸を離れ、国道49号線を横切って迷い込んだところに呑み屋街がありました。まだ明るいので、やっている店は一軒もありませんでしたが……。




 帰りは新田駅から。

この日、歩いたところ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年八月の薬師詣で(1)・荒川区から台東区へ

2012年08月08日 23時18分43秒 | 薬師詣で

 去年一月、知人二人が無事息災であることをお願いするのと、自身の健康が恢復してきたのを感謝しようと始めた毎月一度の薬師詣でです。今月で二十か月目になりました。
 利己ではなく、利他を願うとは殊勝なり、と薬師如来さまが思ってくださるのか、

 今月の薬師詣では西日暮里にある真言宗豊山派の寺院・浄光寺に行こうと決めました。西日暮里の隣は谷中で、我が宗門(曹洞宗)の玉林寺があるので、そこにも参詣。さらに谷中ではもっとも有名だと思われる全生庵とそのすぐ近くに、やはり我が宗門の永久寺があるので、ここにも参詣することにしました。そのほかにも行く路々にお寺があれば寄って行くつもりなので、長いブログになるかもしれません。

 電車を降りるのは西日暮里。ここは浄光寺の最寄り駅ですが、ここで降りるとすると、玉林寺はもっとも遠いところになります。いつものように路々お寺を訪ねて行こうかと地図を取り出し、谷中(一丁目から七丁目まで)にあるお寺の数を数えてみました。
 見落としがあるかもしれませんが、その数なんと七十一か寺。



 西日暮里で降りました。



 西日暮里駅を出てわずか四分で諏方神社に着きました。隣り合わせてあるのが今日の目的地・浄光寺で、この神社の別当寺であったので、参拝して行きます。
 元享二年(1323年)の創建。祭神は信濃国諏訪神社と同じ建御名万命(たけみなかたのみこと)。日暮里、谷中の総領守です。ちなみに「すわ」の「わ」のほうですが、「訪」ではなく「方」の字が使われています。



 その浄光寺。本尊は薬師如来。
不詳ですが、諏方神社の別当寺であったことから、同神社の創建年代と同時期の元久二年(1202年)前後の創建と推定されています。
「新編武蔵風土記稿」には次のように記されています。
新義真言宗田端与楽寺末、法輪山法幢院と号す。本尊薬師。元文二年四月十四日、有徳院殿御遊猟の時始て当寺へ成せ給ひ、同五年正月二十五日御膳所に命せられしより、今も此邊放鷹の節は御膳所となれり」
 有徳院殿とは八代将軍・吉宗です。

 寺を建立したのは太田道灌とか豊島経康とかいわれているようですが、道灌は十五世紀の人、先の推定とは時代が違い過ぎます。
 豊島経康だとすれば、経康の生没年は明らかではありませんが、父は豊島有経(ありつね)です。この人も生没年は未詳ですが、源頼朝が鎌倉幕府を開くのに功のあった人です。その人の息子なのですから、年代的な辻褄は合います。

 眺望のすぐれた諏訪台の上にあって、展望がすばらしく、とくに冬の雪景色が美しく眺められることから、「雪見寺」と呼ばれてきました。



 江戸六地蔵の一。浄光寺の銅造地蔵菩薩。



 浄光寺前には根津のほうへ下って行く富士見坂があります。いまでも富士山が見えるのだそうですが、一体どの方角に?
 最初は坂下を覗いただけで通り過ぎましたが、あとでこの坂を上ってくることになります。

 


 浄光寺から三分で
養福寺(真言宗豊山派)の仁王門と本堂。元和六年(1620年)、法印乗蓮が創建。
 仁王門は宝永年間(1704-11年)の建立。

 養福寺を出てさらに先へ進むと、日暮里駅から谷中に到る御殿坂上の交差点に出ます。交差点の左角が延命院(別名・月見寺)。三年前の三月に訪れて以来、二度目なので画像は割愛。
 ここから谷中です。



 呑処「桔梗」。
 こんな店が近場にあれば、是非とも贔屓にしたいものですが、帰りの電車の時間を気にしつつなおも呑む、という年齢ではなくなりました。



「夕焼けだんだん」から見下ろした谷中銀座の入口です。

 平日で、しかも暑いのに、結構な人出がありました。形の上では私も「谷・根・千」散歩を試みていることになりますが、谷中銀座には入らず、下り切ったところ・谷中銀座の入口で右折。しばらくは谷中地区には入らずに荒川区西日暮里を歩きます。



 谷中銀座の入口から三分ほどで南泉寺(臨済宗妙心寺派)門前です。元和二年(1616年)の創建。
 南泉寺の北隣には法光寺(法華宗)、その先には谷中七福神のうち、布袋尊を祀る修性院(日蓮宗)とありますが、パスします。



 南泉寺から一分で青雲寺。
 ここも臨済宗妙心寺派の寺院。江戸時代から花見寺として親しまれており、谷中七福神の恵比寿神が祀られているほか、滝沢馬琴の筆塚碑、硯塚の碑があります。

 青雲寺でUターンして先ほどの富士見坂を上り、浄光寺前の道を経由して再び御殿坂上の交差点に出ます。前は交差点を右折して「夕焼けだんだん」を下りましたが、今度は交差点をまっすぐ突っ切って、いよいよ谷中に入ります。



 谷中最初の寺は臨済宗妙心寺派の霊梅院。山号は百丈山。



 霊梅院からこの海蔵院(臨済宗系単立)、次の観音寺まで墓所を挟んで繋がっています。



 観音寺(新義真言宗)。慶長十六年(1611年)、神田に創建。廷宝八年(1680年)、現在地に移転。



 観音寺にある赤穂浪士供養塔。赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第六世・朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われたため建立されました。



 観音寺の築地塀。二百年前のもの。関東大震災で一度崩れましたが、復旧されています。



 新義真言宗・加納院。尊慶(寛永十三年・1636年寂)が開基となり、慶長十六年(1611年)、神田北寺町に創建、延宝八年(1680年)、現在地へ移転。



 興禅寺(臨済宗興聖寺派)。

 慈眼大師・天海によって天台宗寺院として開基しました。慈眼大師が京都の興聖寺を訪れたことを機に天台宗・臨済宗兼学となっていました。



 長安寺(臨済宗妙心寺派)。



 長安寺にある狩野芳崖(1828年-88年)の墓。



 了俒寺(天台宗)。
 寛永元年(1624年)、日安尼によって現在地に草創されました。日安尼は徳川家康の異父弟・松平康元の長男・忠良の側室で、信濃国袮津(長野県小県郡)に五千石を領した松平忠節(忠利)の生母です。



 了俒寺の隣は谷中霊園です。



 功徳林寺(浄土宗)。明治二十六年建立という新しい寺です。



 真言宗豊山派観智院。慶長十六年(1611年)、照誉法印が神田北寺町に開山、慶安元年(1648年)、現在地へ移転。



 永久寺(曹洞宗)。
 このあと訪れる予定の王林寺の中興開山・風室興春和尚(慶安三年・1650年遷化)が隠居寺として創建しました。



 墓域は石段を上がったところにあり、仮名垣魯文(1829年-94年)の墓がありました。



 歴住墓所に参拝して永久寺をあとにします。〈つづく〉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布佐を歩く

2012年08月04日 20時55分10秒 | のんびり散策

 千葉県の利根川沿いに布佐(ふさ)という街があります。いまは我孫子市の一部ですが、江戸時代から明治の初めにかけては、銚子で獲れた海産物や東北地方の物産を江戸に運ぶ、一大物流拠点であった街です。
 その町をそぞろ歩いてみました。

 降りたのは成田線の布佐駅。この駅に降り立つのは去年五月以来二度目です。そのときは隣県・茨城の利根町へ行くために通り抜けただけなので、見物らしい見物はしていません。

 物産を江戸に運ぶ街道は「なま街道」と呼ばれていました。「なま」には「鱻」という字を当てるのですが、読める人はほとんどいないでしょう。「鮮魚」と書いて、「なま」と読ませるようにしているみたいです。

 私が布佐を歩いた四日 ― 。
 松戸の江戸川畔では松戸花火大会があり、我が北小金にある東漸寺ではヴェルヴェッツなるヴォーカルユニットのコンサートがありましたが、私はそれらの催しに背を向けるように出かけてきました。花火大会のほうは暗くなってからなので、行こうと思えば行けないわけではなかったのですが、最初から行く気はないのです。



 我孫子で成田線に乗り換えると、四つ目が布佐です。



 我孫子・上野方面行(いわゆる上り)のプラットホーム。
 私が降り立ったのは反対側の下りホームだったので、改札口を出る前に立ち寄って、カメラに収めました。

 ホームの端っこのほうに、高さ70~80センチと見られる、このような金属製の棚がいくつか並べられています。何に使われるのかというと、行商のおねいさんたちが電車がくるのを待つ間、ここにリュックサックの化け物のような背負子(しょいこ)を下ろすのです。
 布佐駅のプラットホームは二つのプラットホームが二本の線路を挟んでいる形の川式ですが、この棚があるのは上野方面行のプラットホームだけ。上野からくるほう ― すなわち帰ってくるほう ― にはありません。



 布佐駅北口にある石井ストア。
「布佐観光案内図」には「石井商店では、毎朝、元気なおしゃべりとともに、品物を仕入れたり、交換したりするおばちゃん達を見ることができます」と紹介されています。行商のおねいさんたちは東京へ向かって出発する前、この店に集まってワイワイガヤガヤとやっていたようです。昔むかしのお話かと思いきや、案内図の奥付を見ると、平成二十二年の発行となっています。すなわち一昨年。ひと昔前のお話ではなく、いまでもおねいさんたちの活躍はつづいているようです。



 最初に利根川を眺めに行きました。利根川に架かるのは栄橋。対岸は茨城県利根町です。
 この景色を撮すためには堤防上を走る国道356号のバイパスを横断しなければなりません。二車線の道路を大型トラックと普通乗用車、商用車が入り交じって走っているので、車の流れの途切れることがなく、わずか数メートルの道路を渡るのに五分以上も待たされてしまいました。



 堤防から上流に目をやると、寺院の伽藍らしき建物の側面が見えました。

 延命寺(真言宗豊山派)の虚空蔵堂でした。



 延命寺本堂。創建は文禄二年(1593年)。本尊は薬師如来のようです。

 布佐駅から栄橋のたもとを経て延命寺まで、十五分ほど歩きましたが、車以外に歩く人の姿を見かけませんでした。真夏の暑さに眠っているような街です。



 先ほどバイパスを渡った、国道356号の本線です。信号のないバイパスができたので、こっちを走る車はあまりありません。
 のんびりとした道を歩いていると、「ビジネス旅館布佐」という看板が目に留まりました。つげ義春の世界を思わせるようで、暑さに閉口しつつも、のどかで佳い雰囲気に浸ることができました。



 延命寺から細い路地に入って、100メートルばかり歩くと、勝蔵院(天台宗)に着きました。

 創建は延命寺より一年早い文禄元年(1592年)。本尊は阿弥陀三尊です。



 勝蔵院を出て、また細い径を歩いて行くと、松並木の道が現われました。布佐の鎮守・竹内神社の参道でした。

 


 神社正面の石段はさほど高いとは思えませんでしたが、齢とともに高所恐怖症が顕著になってきた私は切り立つように見える石段を避けて、右手にあった緩やかな女坂を上ります。

 女坂といえど、結構急で長い。

 林に隠れているのでよくわかりませんでしたが、ずんずん上って行くと、社殿らしき建物が下方に見えるようになりました。



 ??
 神社の屋根が眼下に見るようになってしまって、一体全体どこへ出るのか? と訝りながら坂を上り詰めると、目の前に拡がっていたのは布佐小学校の校庭でした。

 我孫子市内ではもっとも古い小学校で、明治六年(1873年)に刀寧(とね)小学校として開校したのが始まり。今年で創立百三十九年を迎えます。
 夏休み中なので、ひっそりとしています。

 遠慮しつつ校庭の隅っこを歩くと、社殿の背後を回り込む形で竹内神社の境内に入る径が見つかりました。



 竹内神社。創始は承平年中(931年-38年)。
祭神は天之迦具土命(あめのかぐつちのみこと)。



 上るのを避けた石段の上に立って、下を覗いてみました。
 やはり急です。ここを上っていたら途中で腰が引けてしまったでしょう。上らなくてよかったと思いながら、帰りも女坂を下りました。

 さほど大きな神社とは見えませんでしたが、毎年秋に挙行される例大祭では交通規制がされるほど賑わうようです。
 例大祭は享保年間(1716年-35年)に発祥した伝統ある祭りです。地元の上町・布佐一丁目・二丁目・三丁目・大和町の五つ地区のうち、一地区が持ち回りで当番町を受け持ち、神社神輿を担ぎます。
 今年の当番町は上町。ほかの四地区はそれぞれの山車で練り歩きます。成田街道(国道356号線)沿いで神輿・山車が巡行する際は、多くの見物客で賑わうそうです。最終日には神社の参道から歩いて十分ほどのところにあるスーパー(ナリタヤ食彩館布佐店)の駐車場に神輿と山車が集結して競演を繰り広げるということです。

 布佐駅前に戻って駅前を通り過ぎ、350メートルほど歩くと、旧鮮魚街道との交差点に出ます。



 交差点に立って左手(北=利根川方向)を見たところ。昔の面影は何もありません。



 交差点をそのまま左へ行けば利根川に突き当たり、そこが布佐河岸跡ですが、まずは右に曲がって成田線の踏切を越え、国道356号我孫子バイパスの交差点まで行ってみました。

 画像奥が松戸方面ですが、ここもかつての面影らしいものは何もありません。

 


 鮮魚街道近くにはこんな店や家が数多く残されていました。このあたりは去年三月の東日本大地震で、液状化現象という被害の出た地域です。

 去年、私が訪れたときは地震の二か月後だったので、到るところで電柱が傾き、道路の補修工事が行なわれていました。
 今回きてみると、インフラは復旧されたようですが、道路に人影はなく、ひっそりとしていることは前と変わりがありません。
 この家々は地震前から廃業または廃屋状態であったのか、地震後、とても修復不能と判断されて廃されたものか。道行く人もいないので、訊ねようにも訊ねられません。



 鮮魚街道の起点―利根川の堤防下にある布佐観音堂です。

 祀られているのは馬頭観音。魚藍観音も祀られています。
 魚を運ぶのに貢献し、死んでしまった馬の霊を慰めるため、問屋と馬主が建立したものです。
「江戸みち」とも呼ばれる鮮魚街道はこの御堂の裏に沿って延びています。この御堂は明治三年(1870年)の利根川堤防決壊で流失し、大正二年(1913年)に再建。



 再び堤防の上に出て、布佐河岸跡を捜します。

 建て札も何もないので、このあたりだったのだろうというところをカメラに収めました。画像奥が上流。遠くに栄橋が望めます。



 先の「布佐観光案内図」に掲載されている鮮魚街道図です。

 江戸時代、銚子や九十九里方面から利根川を遡って運ばれてきた鮮魚はここで荷揚げされ、一刻も早く日本橋市場に出すため、松戸河岸まで馬で陸送する鮮魚街道の起点となったところです。最盛期は一日四千籠の鮮魚を百三十~五十頭の馬で運んだといわれます。
 布川(布佐の対岸の町・現在は茨城県利根町)に生まれた医師・赤松宗旦は自著「利根川圖志」に、
「銚子浦より鮮魚を積み上げするをなま舟という。舟子三人にて日暮に彼処を出で夜間に二十里余の水路を遡り未明に布佐布川に至る。特にこの処を多しとす。故にその賑い他所に倍し、人声喧雑肩摩り踵接し、傾くる魚は銀刀を閃かし(中略)而して冬は布佐より馬に駄して松戸通りよりこれを江戸に輸り夏は活舟(いけぶね)を以て関宿を経て日本橋に到る」
 と記しています。
 この先、浦部(印西市)~平塚(白井市)~藤ヶ谷(柏市)~佐津間(鎌ヶ谷市)~五香(松戸市)~金ヶ作(同)~門前(同)を通って松戸の納屋川岸まで運ばれたのです。




「利根川圖志」から布川魚市之光景。



 前の画像を撮ったのとほぼ同じ場所から下流を眺めたところ。このあたりが網代場跡。

 赤松宗旦は「利根川圖志」に、「その味利根川一」と称賛していますが、布川鮭の網場です。
 ここも建て札はないので、このあたりであろうというところを撮影。



 堤防を降りて五分ほど歩くと、岡田武松邸跡(現在は我孫子市近隣センター・ふさの風)があります。岡田武松(1874年-1956年)は第四代中央気象台長(現在の気象庁長官)。予報課長時代(三十一歳)、日露戦争の日本海海戦時に「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」と予報したことで著名です。



 帰りは再び鮮魚街道を歩いて、布佐駅南口から。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする