桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

我が庵の彼岸花

2011年09月29日 22時33分13秒 | 

 本土寺参道の彼岸花が咲いたのは(正しくいうと、咲いているのを目にしたのは)、二週間近くも前の十七日のことでした。その日、我が庭の彼岸花はどうであろうかと見てみると、全然咲いていませんでした。
 去年、彼岸花が咲き始めたのは九月二十五日ごろ。例年より一週間ほど遅いと聞きましたが、今年はさらに三、四日遅くなりました。

 

 我が庭に咲く彼岸花です。
 画像の中央後ろにある鬼百合の茎(すでに花は終わっています)からわかるように、同じ場所を一日違いで撮ったものです。前の画像が二十七日、後ろが二十八日です。たった一日で花の様子はこれだけ変わりました。



 しばらく東漸寺を覗いていなかったので、行ってきました。中雀門越しに望む本堂です。

 

 東漸寺には彼岸花はあまりありませんでした。

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蒲(ガマ)の穂を見に行く

2011年09月26日 23時34分13秒 | 風物詩

 いまの時節の日の出は五時半。
 五時というと、まだ真っ暗です。そんな時間に街灯のない富士川べりを歩くと、見えるのはせいぜい2~3メートル先ぐらいまで。すれ違う散歩人も、いきなり、という感じで目の前に現われるので、びっくりしてしまうことがあります。
 五時を過ぎると、うっすらと明るくなってきますが、車の下とか門の陰などはまだよく見えません。それでも、なんとなく何かがうずくまっているような気配が感じられるので立ち止まり、じっと目を凝らすと、これまで見たこともなかった猫殿だったりします。

 坂川近くへ蒲(ガマ)の穂を見に行きました。去年のいまごろ、偶然通りかかって見つけたのです。
 ついでに(といえるほど近くはないのですが)、一か月以上も間を空けているので、野良猫の黒介が棲む天形星神社へ足を延ばしました。



 幸田橋(こうでばし)で坂川を渡って流山市に入ります。
 橋上から上流を眺めたところ。右(左岸)が松戸市、左が流山市。




 幸田橋から五分ほどで目的の湿地帯に着きました。坂川までは直線距離で400メートルばかりありそうですが、湧き水でもあるのでしょうか、湿地帯になっていて、蒲が生えているのです。
 この湿地帯を過ぎると、坂川右岸は台地となって、目測ですが、標高差は7メートルほどあります。 

 何本かは爆ぜていました。この場所を含めて、ごくごくたま~に蒲の穂を見かけると、どんな感触なのか触れられないものかと思うのですが、どこも沼地になっているので近づくことができません。



 蒲が生えているところから台地に上って行く途中に無住の円徳寺の墓地があります。彼岸花が咲いていました。



 台地を上り、しばらく歩くと、道はまた下りになります。坂川の支流・八木川があるのです。その途中で家鴨を見かけました。



 まわりは里芋畑と葱畑で、湿地があるとは思えないところにも蒲の群生地がありました。

 


 天形星神社前の植え込みの陰に黒介がいました。
 ここへくるのは一か月に一回程度なので、顔を合わせるだけでは、私が私であるとはわからないようです。
 トートバッグからドライキャットフードのミオを詰めたタッパーウェアを取り出して、カシャカシャと音をさせると……。ようやく思い出したようで、馬でいうとギャロップの速さで近寄ってきました。

 黒介はまぎれもなく野良なので、一か月に一度といわず、一週間に一回ぐらいはきてやりたいと思うのですが、我が庵から片道四十分以上もかかりますから、おいそれときてやるわけにはいかないのです。その代わり、行けるときはタッパーウェア二つにドライキャットフードを詰め込んできます。
 ドライキャットフードを置いて神社に参拝し、戻ってくると、満腹になったのか、少し食べ残して姿を消していました。
 黒介がまた腹を空かせるより、蟻の餌食になるほうが早いかもしれませんが……。



 三月の大地震で、境内に三対六基ある燈籠は一基を除いて倒壊しました。一か月前にきたときはまだ修復されないままでしたが、無事修復されていました。



 岩本石見守を祀った石見様の燈籠も修復されていました。



 五日前に上陸した台風15号のせいでしょうか。
もう銀杏が落っこちていました。

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彼岸花を見に行く(持法院)

2011年09月23日 22時46分08秒 | 

 今日は彼岸の中日。手に手に供花を持った人々が朝早くから本土寺に向かって参道を歩いてきます。
 私は逆行する形で北小金の駅へ向かいます。



 柏で東武野田線に乗り換えて四つ目 ― 高柳という駅で降りました。

 高柳駅から持法院まではかなりの距離があります。ところが、バスの便がありません。代わりに乗合ジャンボタクシーという交通手段があるらしいのですが、私は利用したこともないし、目にしたことすらない。
 どのようにして持法院まで行くかと調べていたとき、柏市のホームページでこのタクシーがあることを知りましたが、どこで降りたらいいのかと路線図を調べると、最寄りは向台か藤ケ谷新田という停留所。
 やはり歩いて行くしかないかと心を決めて、歩き始めました。



 高柳の駅をあとにして十五分、茅葺き屋根の福寿院観音堂に着きました。建立年代は不明ですが、前の建物が、安政二年(1855年)、落雷によって焼失したと記録されていることから、それ以降の再建と考えられています。十一面観音が祀られています。

 

 このあたりは大津川という手賀沼に注ぐ川が形づくる狭い谷です。大津川11号橋を渡ると、左前方に大きな屋根が見えてきて、それが目指す善龍寺でした。



 善龍寺。



 本堂前にある五葉松です。
 高さは約4メートル、根本の太さ60センチで、中程より少し上から左右に長大な枝を張り、上下前後に二十もの大玉を形成しています。 全体として調和のとれた美しい盆栽様の形状です。
 この松の樹は、 文久二年(1862年)に上野寛永寺の輪王宮公現法親王より下賜されたものを、当時の住職が植樹した、とされています。



 善竜寺観音堂。

 さて、次の目的地にして今回の主目的地である持法院までは、半端ではないほどの距離がありますが、バス便はないし、仮にジャンボタクシーがあったとしても、どこに停留所があるのかわからない。運よく停留所を見つけたとしても、バスが何時にくるのかわからない。

 歩いていると、突然広い道路に変わりました。なんとかロジスティックスという看板が見えたり、道端に大きなトレーラーが止まっていたりするところを見ると、周辺は造成途中の工業団地で、道路もそのために整備されているようです。
 その先、私が持っていた地図では、T字路になって行き止まりになるはずが、十字路の交差点になっていて、地図にない新しい道路はなおも先へと伸びていました。

 開発途上の地域を歩いていると、よくあることですから、別段愕いたりしませんが、困るのはどこまで道ができているのかわからない、ということです。逃げ道のあるところで行き止まりになっていればいいのですが、そうでないところで行き止まりになっていると、あと戻り、という無駄足を踏まなければなりません。

 結局、善竜寺から持法院まで、四十分以上かかりました。




 持法院山門。
 私が歩いてきた方向からだと、この山門から入るのは遠回りになります。ここも天台宗のお寺です。



 持法院本堂。本尊は阿弥陀如来です。本堂前に説明板が建てられていましたが、天台宗に関しての説明があるだけで、寺の由来は何も書かれていませんでした。

 


 彼岸花を眺めながら境内を歩いて行くと、すぐ小高い丘になり、そこは墓所でした。



 ここにも白い彼岸花がありました。



 彼岸花はつくづく不思議な花だと思います。木陰になっているようなところは満開なのに、陽当たりのよさそうなところはまだこんな状態です。



 丘を上り切ると、さらに一段高い丘があり、そこにも墓所があって、真ん中に御堂がありました。
 建て札があったので近づいてみると、座高52センチの如意輪観音坐像を祀る観音堂で、観音像の製作年代は建久元年(1190年)。鎌倉時代の武将・千葉常胤(1118年-1201年)が運慶に彫らせた、とありました。



 石段を下って、山門の石柱を見たら、登慶山如意輪寺とあったので、別々のお寺が隣り合っていたのだと思いました。
 携帯していたグーグルマップを改めて見てみると、本堂のあるところに持法院とあり、石段を上ったところには如意輪寺とありますから、二つのお寺が隣接していると思ってしまいますが、持法院の山号は登慶山、院号は持法院、寺号は如意輪寺でありました。

この日の行程です。

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彼岸花を見に行く(祖光院)

2011年09月19日 22時59分56秒 | 

 三~四日前、本土寺の参道のあちこちで彼岸花がニョキニョキと茎を伸ばしたと思ったら、二日も経たぬうちに次々と花を開きました。去年より四~五日早いようです。
 彼岸花の咲く季節がきたら行こうと思っていたところがあります。
 松戸市常盤平にある祖光院というお寺です。今年の一月、偶然通りがかって、そこが彼岸花の名所だと知りました。
 同じ松戸市内なのですが、我が庵から行くのには電車を二度も乗り換えなければなりません。見に行くかと思ってから、しばし迷ってしまうのは、本土寺で咲いたからといって、祖光院でも咲いているのかどうか、ということです。今日行って咲いていなかったから、数日後にもう一度……というほど近くはないのです。

  一口に彼岸花といっても、種類が異なるのか、別に異なる何かがあるのか。本土寺参道からさほど遠くない我が庭にある彼岸花はまだ土の中で眠っていて、顔すら出していません。去年もそうでしたが、芽吹きと開花は本土寺参道のものより一週間近く遅いのです。
 なぜ一週間もの差が出るのか。日当たりの点でいえば、我が庭のほうが断然よいのです。「さてさて」と首をひねってみたものの、素人が首をひねったところで何もわからないし、ぼやぼやしているうちに、台風がやってくるらしいということになりました。
 で、咲いているのかどうかもわからないのに、急いで見に行かなくてはならなくなりました。



 北小金から常磐線に一駅だけ乗って、新松戸で武蔵野線に乗り換え。また一駅だけ乗って新八柱で新京成電鉄に乗り換え。また一駅だけ乗ると常盤平です。
 電車に乗っていた時間はものの八~九分。しかし所要時間は二十分以上もかかりました。



 祖光院に行く前に熊野神社に寄り道をしました。ここには梛(ナギ)の木があるのです。もしかしたら実でも落っこちていないかと期待したのですが、それらしきものはありませんでした。

 梛はマキ科の常緑高木で、樹高は20メートルにも達します。

 和歌山県にある熊野速玉大社には平重盛が植えたといわれる樹齢千年の巨木があるそうです。重盛が熊野詣でをしたのは亡くなる年ですから、治承三年(1179年)のこと。



 熊野神社から祖光院までは徒歩五分。
 入口にはこんな立て看板があったので、黒山の人だかりか、と思ったのですが……。
 見頃には三~四日早かったようです。



 自慢できるようなカメラでもなし、腕でもありませんが、撮った何枚かをスライドショーのように並べます。

 
 
 


 最後の画像の手前三本は白ではなくピンクなのですが、光の加減かカメラのせいか、白くしか写せませんでした。



 こちらは本当の白。

 


 黄色の彼岸花だけは別の場所にありました。他の花と較べると花期が早いようで、花期はすでに終わりかけでした。

 

 祖光院本堂です。



 祖光院は我が宗門(曹洞宗)のお寺なので、歴住の墓所を捜して参拝します。

  今年の初め、所用があって常盤平にきたことがあります。その用向き先で、近くにハーブ園があると聞いて訪ねました。真冬ですから、ハーブも他の花々もないのを承知で覗いたのですが、その帰りに偶然墓所を見かけて足を踏み入れたのがこの祖光院だったのです。
 名前も知らず、我が宗門の寺だとも知らず、彼岸花で高名な寺院だと知ったのも、境内に入って掲示板を見てからのことでした。

  そして、さらに駅へ向かって歩くうちに見つけたのが先の熊野神社でした。
 ちょっと覗かせてもらいましょうと思って鳥居の前に立ったとき、背の高い木があるのを見て、なんの樹だろうと近づいてみたら、頼朝と政子を結びつけた梛だったというわけです。

  彼岸花を見ることができたのも、梛の木を見ることができたのも、ここにハーブ園があったおかげ ― そう思って、最後にハーブ園へ行くことにしました。
 ハーブ園は松戸市営金ヶ作育苗圃の中にあります。



 休日でなければ係員がいるとのことでしたが(この日は敬老の日でした)、いないので、勝手にお邪魔して、勝手に見て廻ります。



 ベチバー(真っ直ぐ伸びているほう・イネ科)とレモングラス(垂れているほう・イネ科)。
 ベチバーの葉と根から採れる精油はシャネル・ナンバーファイブのベースノートに使われています。

 


 ベトニー(上・シソ科)とコモンラベンダー(下・シソ科)。

 


 ラズベリー(上・バラ科)とチコリ(下・キク科)。

 


 キャットミント(上・シソ科)とチャイブ(下・ユリ科)。

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龍ヶ崎を歩く(2)

2011年09月18日 19時28分36秒 | 寺社散策

 龍ヶ崎を歩く、の〈つづき〉です。



 来迎院から二十五分歩いて般若院に着きました。天台宗の寺院です。
 天元元年(978年)の創建とされますが、創建の地は別のところで、大永四年(1924年)、現在の場所に遷されました。江戸時代は仙台・伊達家の位牌所とされたということですが、なにゆえに仙台の大名がこの地に、というと、伊達政宗は慶長十一年(1606年)に徳川家康から常陸河内郡と信太郡二十六か村(一万石あまり)を与えられていて、現在の龍ケ崎市域の一部は仙台藩領だったのです。



 いったん寺をあとにしかけましたが、門前に設置された地図を見て引き返しました。桜の季節ではないのでノーマークでしたが、樹齢三百五十~四百年という枝垂れ桜(茨城県天然記念物)で有名な寺だったと思い出したのです。
 戻って見回したところが、しかし……見当たらない。
 樹高約10メートル、幹囲り約5メートル、枝張り東西約15メートル、南北約22メートルという大木だというのですから、目に入らぬわけがないのですが、どこをどう見回してもないのです。
 まあ、見つけ出したところで、花が咲いているわけでもない、と負け惜しみを呟きながら引き揚げたのですが、庵に帰ったあと、よくよく調べてみたら、桜樹があるのは本堂の後ろでした。



 般若院から細い路地をクネクネと歩いて六分。曹洞宗大統寺に着きました。
 天正十三年(1585年)、龍ヶ崎城主だった土岐胤倫(たねとも)が創建しました。
 根町台にあった大運寺という寺を現在の場所に移し、大聖院、天真院という二つの寺を合併させて、寺名を大統寺と改めたということです。
 当時は七堂伽藍が聳える大寺院だったそうです。



 大統寺本堂。本尊はお釈迦様。



 本堂前にある竹柏(ナギ)の樹です。龍ヶ崎市指定の天然記念物。

 文化年間(1804年-18年)に本堂を再建した記念として植えられたもの。元来、温暖な地に自生する樹木なので、関東地方でこれだけ大きくなる竹柏は珍しいそうです。



 歴住の墓所に参拝。

 開基・土岐胤倫の墓もありました。
 豊臣秀吉が小田原を攻めたとき、土岐氏は北条氏の傘下にあったため、豊臣方の攻撃を受けました。天正十八年(1590年)、江戸崎城主だった兄・土岐治綱とともに没落の運命をたどったのでした。

 龍ヶ崎市の市の花は桔梗です。土岐氏の家紋に由来しています。昭和四十五年に制定されたそうです。
 すでに季節外れであることは確かですが、松戸ではわずかながらも咲き残っているのですから、ここでも見かけていいはずですが、一輪もありませんでした。



 大統寺から龍泉寺に向かう途中に、小野瀬家店舗と住宅がありました。国の登録有形文化財です。
 小野瀬家は江戸時代からつづく絞油製造業兼肥料商でした。大通りに面している店舗は大正時代初期の建築。木造二階建て(一部平屋)、間口五間、奥行三間、建築面積は210平方メートル。
 奥に木造平屋建ての母屋があり、建築面積は65平方メートル。明治時代初期の建築。
 


 こちらは指定にはなっていないようなので、どのような由来を持った建物なのかわかりませんでしたが、右手に遺された門を見ると、こちらのほうが古そうな気もします。



 大統寺から十分で龍泉寺に着きました。通称・龍ヶ崎観音として親しまれています。



 お参りすれば、安産、子育ての御利益があるそうです。また出世、開運、厄除け、十三参り、家内安全、交通安全などの観音様としても信仰されています。天正年間(1573年-92年)、日光を開いた勝道上人の法弟・蓮雪上人が開山したとされています。本尊は弘法大師の作とされる聖観世音菩薩です。



 本堂右にはおびただしい数の地蔵と風車がありました。全部で二百体もあるのだそうです。



 龍ヶ崎観音から七分。龍ヶ崎巡りの最後は我が宗門・曹洞宗の醫王院となりました。締めくくりが自分の宗派のお寺、というだけでもなんとなく嬉しい気がするのに、本尊は薬師如来というおまけがつきました。

 慶長三年(1598年)の創建。龍ヶ崎城主だった土岐胤倫が設けた十二薬師の一つ。なお、薬師如来の開帳は三十三年に一度ということなので、滅多に見ることはできません。



 龍ヶ崎市観光物産協会のホームページには観光スポットとして十一か寺が載せられていますが、この日巡った六か寺(予期していなかった正信寺は除く)は


 最後に竜ヶ崎城址を訪ねて、今回の龍ヶ崎訪問を締めくくることにしました。

 


 城址は竜ヶ崎二高のグラウンドに変わっています。



 佐貫まで行く帰りの電車は成り行き……と、思っていましたが、一時間に二本しかないので、時刻表をプリントしていました。運よく発車間際に乗り込むことができました。

 駅前の交差点は六差路になっています。駅へ急いでいるとき、前方に神社仏閣らしき建物が見えていました。庵に帰ったあとで地図を見ると、薬師堂でした。いつの日にか、薬師詣でで参拝にこようと思います。



 竜ヶ崎から佐貫までは関東鉄道竜ヶ崎線で二駅七分。取手から出ている常総線と同じディーゼルカーでした。常総線では二両編成もありますが、こちらは一両だけ。 

↓龍ヶ崎を歩く(1)と同(2)の参考地図をつけました。
http://chizuz.com/map/map98130.html

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龍ヶ崎を歩く(1)

2011年09月17日 22時08分33秒 | 寺社散策

 竜ヶ崎へ行ってきました。



 利根川を越えて、取手~藤代と進み、佐貫駅で降りました。竜ヶ崎(佐貫も龍ヶ崎市内ですが)へ行くのにはここで関東鉄道に乗り換えるのですが、佐貫には寄ってみたいお寺があったので、ひとまず駅を出ることにしました。

 駅前のロータリーをあとにすると、しばらく住宅地がつづきます。住宅が途切れると、畑と原っぱが拡がっていました。



 江川に差しかかりました。牛久沼を水源とし、用水路としてつくられた河川です。全長は10キロほど。



 田園地帯を抜けると小高い丘に突き当たります。

 上って行く坂には「足袋屋坂」という標識が建てられていました。なんでこんな標識が? と訝りながら、標識の裏には坂の由来でも記されているのかと見てみれば、何も記されていません。なんのこっちゃ?

 坂を上り切ると、整然とした住宅街に出ました。畑と野っ原を越えた先に、忽然と街並みが現われるので、狐につままれたような気分です。



 住宅街を進むと曹洞宗の金龍寺があります。ここが訪ねたいと思っていたところです。佐貫駅からここまで徒歩十五分。
 創建は元享元年(1321年)です。約七百年という歴史を持つ古刹ですが、もとは上野国新田郡(現・群馬県太田市)に建てられたお寺で、建てたのは新田義貞(1301年?-38年)です。
 天正十八年(1590年)、義貞の子孫・由良国繁(?-1611年)が豊臣秀吉から牛久に五千四百石を与えられたことから、寺は牛久に遷され、さらに寛文六年(1665年)に現在地に遷されました。

 このお寺には国指定の重要文化財・絹本着色十六羅漢像(けんぽんちゃくしょくじゅうろくらかんぞう)があります。



 寺伝によれば、建長寺開山の蘭渓道隆(1213年-78年)に贈られたものが北条氏を経て、新田義貞の手中に帰したということです。



 我が宗門のお寺なので、歴住の墓所を捜して焼香することにします。墓所は本堂の後ろ、一番奥まったところにありました。

 

 歴住の墓所と同じ場所に、新田義貞(中央)、貞氏(左)、由良国繁の墓がありました。

 

 金龍寺の門前に戻ると、マップを貼り出している家がありました。このマップで界隈が水戸街道の若柴宿という歴史ある街並みであったことを知りました。

 このマップを貼り出していたのは、田舎庵というお蕎麦屋さんにして、界隈ただ一つの店です。



 千住宿から数えると七つ目の旧若柴宿跡です。藤代宿(江戸側)、牛久宿(水戸側)へ、ともに一里(約4キロ)と近いため、本陣はなかったということです。
 いまはなんの変哲もない街並みに変わっていますが、よくよく見ると、すべて建て替えられた形跡はあるものの、立派な四脚門を持つ家、広大な母屋を持つ家が並んでいました。
 昔の建物が遺っていないのは、何度か火災に遭ったからだそうです。



 仲宿坂(東屋坂)と書かれた標識。
 こういう標識があちこちに建てられていますが、先の足袋屋坂と同じく裏側はのっぺらで、由来その他の説明が何もないため、ここが若柴宿跡だと知ったばかりの私には、なんのこっちゃ? と首をかしげるだけで終わってしまいました。



 金龍寺門前から500メートルほど歩くと、道は鍵型に右(南=江戸方向)へ曲がり、下り坂になります。江戸方面からくると、若柴宿の入口になる大坂です。


 金龍寺に参詣したあとは佐貫駅に戻り、関東鉄道に乗って竜ヶ崎へ行くつもりでした。
 関東鉄道竜ヶ崎線は佐貫-竜ヶ崎間に、入地という駅が一つあるだけの全長4・5キロという短い鉄道です。次に訪れようと考えている来迎院はその入地で降りて、佐貫方面へ少しばかり引き返すということなので、大坂まできたあとで佐貫駅に戻るより、このまま歩いて行っても、それほど遠くないのではないか、と考えて、歩いて行くことにしました。
 ただ、インターネットからプリントした地図を持ってきてはいましたが、佐貫駅から入地駅までは電車に乗る手はずだったので、途中が抜けることになります。



 用水沿いの道を歩き出して七~八分。進行方向左手にずっとつづいていた斜面が急に開けたと思ったら、このように広い石段が現われました。苔むした石段なら、とくに不思議に思いませんが、妙に新しく、きれいなのが違和感を懐かせました。

 石段の前には祭りがあれば、奉賛額を張り出したり、提灯を吊るしたりするような鉄パイプの柵がありました。



 石段の上には一体何があるんだろうか、と訝りながら石段を上りました。上り切ると、じつに立派な山門が現われました。
 山門であるからには、普通は○○山という扁額がかけられていそうなものですが、何もありません。
 ここが来迎院? と思いながらも、目指していた来迎院にしてはあまりにも近過ぎるし、新し過ぎる感じです。付近は持参してきた地図がない部分に当たるので、何が何やら皆目わかりません。



 これまた立派な本堂(?)です。
 先の山門を恐る恐るくぐり抜けたとき、この画像に後ろ姿の写っているご婦人と出会いました。
 先方から挨拶をされたのを幸い、「ここは来迎院さんですか?」と訊ねると、しばし首をかしげたあと、「正信寺です」と答え、返す刀で「受付を通されましたか」と、なんとなく予測していたような質問を受けました。
 山門前には「一般の方の通り抜けはできません。御用の方は受付までお申し出下さい」という注意書きがあったので、ちょっとだけ覗かせてもらったら、すぐに退散しようと考えて入ったのでした。「いいえ」と答えると、携帯電話を取り出して、「受付に連絡しますので……」

 正信寺という寺の名は、ご婦人から教えられたときには「ショー○○ジ」と聞こえただけで、聞き取れませんでした。家に帰ったあと、Webで調べ、山門や本堂は「最後の宮大工」といわれた西岡常一さんのただ一人の内弟子 ― 小川三夫さんが建築に当たったとわかりました。この小池さんのことは、NHKBSプレミアムの「たけしアート☆ビート(今年六月二十二日放送)」で視ていました。
 ところが、この寺の実態はホームページもないのでわかりません。

 ともかく、ここが来迎院ではない、とわかったので、先のご婦人以外の誰か ― たとえば屈強そうな寺男 ― に誰何でもされては大変と、這々のていで境内をあとにしました。



 正信寺から三十分以上、延々と歩きつづけ、ようやく来迎院に着きました。天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来立像。
 創建は室町時代と推測されていますが、正しい年代は不明です。



 来迎院多宝塔。関東以北では最も古い塔で、国の重要文化財の指定を受けています。
 弘治二年(1556年)、当時の領主で江戸崎城主だった土岐治英(?-1584年)が、この塔を修復し、天下泰平、五穀豊穣、悪病除災を祈ったといういわれがあります。
 建立時期は不明ですが、
平成十~十二年度に実施された改修工事で、宝珠の銘文に「希代廟塔修繕之為檀越」とあることが確認され、土岐治英が祖先の霊を祭る希代の塔を修繕するために施主を務めていることがわかったのです。
 この地方ではほとんど類を見ない多宝塔形式で、室町時代の特色をよく示す建築物だと評価されています。
〈つづく〉

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福満寺へ行く

2011年09月13日 16時15分40秒 | 歴史

 平將門の王城の地跡が柏市内にあると知りました。
 その近くに將門の愛妾だった車ノ前の五輪塔と鏡の井跡があるということも知りました。車ノ前は將門の死後、この地に隠れ棲み、將門が信仰していた妙見菩薩を祀る御堂を建ててその菩提を弔ったというのです。
 それが妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年二月二十一日には將門の命日と称して妙見講を開くのだそうです。

 柏駅東口からバスに乗り、大井というバス停で降りて歩くこと六分。持ってきた地図に従って酒屋さん前のT字路を左に折れ、すぐ右に折れます。
 すると、左手に見える畑地の中に車ノ前の五輪塔があることになっているのですが、それらしきものは見当たりません。もう少し先か、と歩を進めると、径は右に曲がって、遠くに香取神社の鳥居が見えました。香取神社まで行ってしまっては明らかに行き過ぎです。
 五輪塔らしきものは依然として見当たりませんが、姿は見えなくとも、畑の中で農作業をしているらしい人の声が聞こえていたので、先に福満寺へ行き、戻ってきたら訊ねてみようと歩を進めました。



 香取神社です。
 この鳥居をくぐろうとすると、左手に山門が見えたので、ちょっと愕きました。福満寺の山門でした。
 地図では「卍」のマークが打ってある場所まではかなりの距離があると考えなければいけないのに、山門が見えたので愕いたのです。



 香取神社の創建は元和五年(1619年)とされていますが、古くからの言い伝えでは、江戸初期(1610年ごろ)からこの地に鎮座していたようです。現在の社殿は昭和五十年に再建されたものです。



 神社へのお参りは早々に済ませて、隣に見えた山門らしき建物に近づいてみると、山門を兼ねた鐘楼堂でした。
 私が携帯していた地図で「卍」のマークが打ってあるのは、本堂がある場所なのでしょう。

 福満寺は奈良時代、桓武天皇の代(781年-806年)の開創といわれる古刹ですが、戦国期に兵火に遭遇したあと、江戸期には二度(延宝年間と享保年間)の火災に遭って、堂宇伽藍の多くは灰燼に帰し、その後、再興なった諸堂も、本堂や薬師堂は明治三十六年(1903年)の火災でまたもや失われてしまいました。こうして江戸期の伽藍で現存するのは観音堂(現本堂)とこの鐘楼堂のみとなっています。

 鐘楼堂の横に立つと、目の下の谷底に拡がっている境内が見えました。かなり広そうです。木立に隠されていることもあるのですが、境内全体を見渡すことができません。



 鐘楼堂横の急な坂を下って行きます。
 下り始めると、木立の隙間を通して伽藍が見え隠れするようになりました。どことなく比叡山を歩いているような気にさせて、なかなか佳い雰囲気です。



 観音堂。祀られているのは聖観世音菩薩で、聖徳太子作といわれています。
 住職一代に一度だけ開帳が許されるそうです。世代交代の平均値から推し量れば、三十年に一度ということになりますが、前回の開帳はいつで、次の開帳はいつなのでしょうか。



 本堂。本尊は阿弥陀如来。妙見大菩薩も安置されています。妙見様は平將門の守り本尊でもあり、重臣の一人・坂巻若狭守の守り本尊でもありました。



 本堂右に平將門大明神を祀る小祠がありました。




 上野の不忍池と弁天島を模した弁天池。

 境内を一周しましたが、車ノ前の五輪塔らしいものはありません。
「柏市文化財マップ」を持っていたことを思い出しました。生憎庵に帰らないと見ることはできません。わりと苦労して手に入れた資料ですが、これまで役立った試しはないので、ファイルに放り込まれたまま、棚の一画を埋めているのでした。

※庵に帰ったあと、「柏市文化財マップ」を開いてみると、車ノ前の五輪塔は載ってはいましたが、地図上では径もないところに印があるだけです。妙見堂跡地にある、と添え書きしてありますが、妙見堂跡地がどこなのかわからないので、独力で辿り着くことはむずかしそうです。

 結局、車ノ前の遺跡にはお目にかかることはないのかも、などと ムニャムニャと独り言を呟きながら、ネットサーフィンをしていると、Webの柏市地図情報配信サービスというのに行き当たって、これを見ると詳細な地図がついていました。

 五輪塔と鏡の井を捜してグルグルと歩いているとき、私が持っていた地図には南に折れる小径があったので、そこを歩いてみようとしたのですが、その曲がり角がなかなか見えてこなかったので、引き返してしまったのです。
 じつはその角を曲がってしまったのでは駄目で、もう少し先に行くと、やはり南に折れる道があり、そこを曲がると、突き当たりに五輪塔があったのです。
  

 前々から不満に思ってきたことですが、柏市は史跡や文化財に標識を立てて説明することが嫌いなようです。
 そのことと関係があるのかどうか、柏駅東口にはバス乗り場の案内図がない(西口にはあるので、どこかにあるのかもしれませんが、私は見たことがない)ことも不親切で、私にはすべからく文化というものに対する、この市の体質が顕われているのだろうと思えます。

 
市のホームページのつくり方にもそれは現われているようで、ほかの項目についてはわかりませんが、史跡・文化財に関する限り、調べようと思うと、かなり苛々させられます。ホームページ内で「車ノ前&五輪塔」をキーワードに検索しても、そのページに飛ぶようにリンクが張られていないのです。

 もう一つ ― 。
 郷土資料室というのがどこにあるかというと、市の中心部ではなく、沼南庁舎です。六年前に吸収合併されて消滅した旧沼南町役場です。

 旧沼南町は柏市に較べると、史跡・文化財には関心が高かったようで、神社仏閣には簡素ながらも木標が建てられています。合併してこの世から沼南町が消えてから六年も経っているのに、旧沼南町で出会う史跡前に建てられている標識がなんびとによって建てられたことになっているかというと、いまだに「沼南町教育委員会」のまま、というのが多く残されています。

 私がちょくちょく訪ねる醫王寺も旧沼南町にありますが、ここの薬師堂前には木標より詳細な記述のある説明板があります。木標よりは断然目立つし、「○○指定有形文化財」と「○○教育委員会」の「○○」の部分には、風雪に晒されているので、画一的なシールを貼ったのか、白ペンキを塗って書き加えたのか判然としませんが、一応「柏市」と書き換えてありますが……。
 役所仕事で、やっつけ仕事、ぶん投げ仕事の最たるもの。
 しかし、ま、文句を垂れるのはこのへんで……。

 これらは庵に帰ったあと、もろもろ調べ始めてわかることどもでありますが、現地でも五輪塔捜しは諦めて、王城の地の捜索に移ることにしました
 


 最初の酒屋さん前に出て歩き出すと、十分ちょっとで「平将門王城通り」という標識に出会いました。



 武家屋敷を思わせるような塀がありました。

 


 標識がある、ということはここが本丸? 王城の地は畑だった?
 ほかに何かあるのだろうか、と思いながら先に進みましたが、何もないうちに道は下り坂になり、人家も絶えて、心細い思いで歩きつづけると、目の前が開け、手賀沼畔に出たのだとわかりました。



 王城通りを抜けて手賀沼畔に出ると、こんな標識もありました。
 去年十一月、同じ柏市の岩井にある將門神社を訪ねたあと、やはり手賀沼畔を歩いたことがあります。この標識の前を通過しているはずですが、気づきませんでした。時刻はすでに夕暮れだった上、雨が降り出したので、脇見もせずに歩いた、という記憶があるので……そういうことだからでしょうか。



 手賀沼越しに我孫子市街(我孫子駅あたり)を眺めました。



 遊歩道はこんなに広々としているのに、自動車は通行禁止になっているので、本来なら非常に快適……といいたいところですが、夏 ― とりわけ残暑の季節の真っ昼間 ― はいただけません。この道には一息つけるような日陰がまったくないのです。



 九月もなかばだというのに、真夏と同じような雲が湧いているのですから、暑いのも当たり前。



 手賀沼畔に出たところから炎天下を歩くこと四十分。常磐線の北柏駅に到着。この日の難行苦行は終了しました。

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2011年九月の薬師詣で・江戸川区(2)

2011年09月09日 22時47分12秒 | 薬師詣で

 九月の薬師詣での〈つづき〉です。



 二之江神社。昭和四十二年創建という新しい神社ですが、ここにはかつて二之江村の鎮守だった香取神社があり、このあと訪ねる妙勝寺には、寛文年間(1661年-73年)創建の八幡神社がありました。この二つの神社を併せ、旧地名(現在は江戸川区江戸川)を冠した神社が二之江神社です。

 古川親水公園を流れるせせらぎに沿って二十分近く歩きます。

 日蓮宗・妙勝寺。
 寺伝によると、この寺が始まるキッカケとなったのは弘安七年(1284年)のこと。堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を二之江村の漁師が救い上げたということです。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世・日高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建てました。これがこの寺の始まりで、徳治二年(1307年)三月のことといわれています。

 蓮華寺。
 寺伝によると、昔この地に観音堂があって村人の信仰を集めていたそうです。祀られていたのは聖観世音菩薩で、行基の作といわれています。
 永享十年(1438年)、栄源という僧侶が不動明王を背負って遍歴したのち、この地に永住するようになったので、人々が協力して御堂を建て、蓮華寺と称したのが始まりといわれています。

 

 宇田川家長屋門(上)と門前にある道標(下)。
 宇田川家は江戸時代に二之江村の村役人を勤めていた家柄です。道標は高さ67センチ、周囲152センチ。丸い自然石で、正面には「是ヨリ左リ行徳道」、左面には「田中孫右衛門」とあります。元はすぐ近くの突留橋にありました。



 西光寺(浄土宗)。
 天文元年(1532年)一月、常蓮社西誉報阿元光上人によって開山。



 真言宗豊山派真福寺。
 宝徳三年(1451年)の開山。


 ここから次の目的地・感應寺までは少し距離があります。最短距離を行く道はあるのですが、道を間違えるといけないので、遠回りを承知で旧江戸川畔に出て、新大橋通りを歩いて行くことにしました。



 日蓮宗・感應寺。前の真福寺から二十七分も要しました。
 元久二年(1205年)、空念という僧がが建立した真言宗寺院を、正応元年(1288年)、日蓮聖人が日蓮宗寺院に改めて創建したと伝えられています。



 日蓮宗・長勝寺。
 天正十一年(1583年)の創建。十三年創建という説も。
 先に訪ねた感應寺と次に訪ねる妙覚寺の中間にあるので、「中寺」とも呼ばれているそうです。いまは独立した寺ですが、昔は次に訪ねる妙覚寺の塔頭だったそうです。
 いったん外に出て妙覚寺を目指そうとしたら、裏門に当たる北側の門は閉ざされていましたが、境内は妙覚寺と繋がっていました。



 
日蓮宗・妙覚寺。
 弘安七年(1284年)、等覚院日全上人が開山となって創建。



 細い径を縫って行くと、また親水公園がありました。全然違う方向へ歩いてきているはずなのに、先ほどの川がこんなほうまで流れていたのかと思えば、違う流れで、一之江境川親水公園とありました。しばらく境川に沿って歩きます。



 浄土宗・法養寺。
 貞誉法養大和尚が大永元年(1521年)開山。



 真言宗豊山派・圓福寺。
 大永二年(1522年)、賢明法印が開山となり、創建したと伝えられています

 また境川に沿ってしばらく歩き、薬師詣での目的地である妙音寺(真言宗豊山派)に到着しました。



 この日の寺社巡りの最後です。
 建久元年(1190年)の開山といわれ、「江戸名所圖会」にも記載されている、江戸川区内でも有数の古刹です。本尊は木造十一面観音像で桃山時代の作といわれています。

 江戸川区教育委員会の掲示板には、「片目の鮒の伝説」が紹介されています。
 昔、目の不自由な娘がいました。その娘は、目を治そうと、妙音寺の薬師如来に二十一日の願をかけ、食を断って祈りました。すると満願の日に、目が見えるようになりました。娘はお礼にと薬師の池にたくさんの鮒を放ったところ、鮒はすべて片目になったといわれています。

 

 妙音寺薬師堂。
 薬師如来は仏師春日の作で高さ二尺(約60センチ)。
 秘仏と聞いていたのに、扉が少しだけ開いていたので、拝むことができるのかと思ったのですが、薬師如来は扉を閉じた厨子の中におわしました。



 帰途に就きます。一之江駅の手前-環七通りと今井街道の交差点(一之江駅北)歩道に埋め込まれていた今井の津(いまいのわたし)の絵タイル。



 妙音寺から歩いて十分とちょっと。都営地下鉄の一之江駅から帰ることとしました。

→2011年九月の薬師詣で・江戸川区(1)からつづく部分、古川親水公園の入口から一之江駅までの行程です。
http://chizuz.com/map/map97168.html

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2011年九月の薬師詣で・江戸川区(1)

2011年09月08日 22時32分51秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では江戸川区一之江にある真言宗豊山派の妙音寺へ行ってきました。
 最寄り駅は都営地下鉄の一之江です。我が庵からだと「ひ」の字を上から押し潰したようなルートを辿って行くしかなく、さほど遠くもないのに、新松戸、西船橋、本八幡と三度も乗り換えをしなければなりません。



 乗り換えの煩雑さを嫌ったわけではありませんが、私が降り立ったのは東京メトロの浦安駅でした。
 浦安から一之江はかなり離れていますが、江戸川を渡って東京都に入ると、なぜか数多くのお寺があり、その中に他生の縁ができた梵音寺という曹洞宗のお寺が含まれているので、やや長い距離を歩くことになりますが、今回の予定に組み入れることにしたのです。

 浦安橋で旧江戸川を渡ります。橋上から上流方向を望みました。



 浦安橋を渡り終えると東京都です。私にとっては懐かしい東京都の紋章(亀の子マーク)。

 最初に行き当たった寺は日蓮宗善徳寺。
 寛永十七年(1640年)に没した日延という人が開山となった、と知れるだけで、創建の年はわかりません。

 善徳寺から徒歩六分。真言宗豊山派自性院。
 ここも文亀元年(1501年)に亡くなった良範という僧侶を開山とする、と知れるだけで、創建された年の不明なことは前に同じ。

 自性院から徒歩わずか三分。曹洞宗梵音寺。
 創建は承和十四年(847年)で、慈覚大師・円仁が建立したと伝えられる古刹です。
 縁起によると、慈覚大師が唐から帰朝の際、大時化(おおしけ)に遭って、船が難破しそうになったのですが、観音菩薩の光明が輝いて風は止み、無事この地に上陸することができたのだといいます。
 そこで、観音の尊像を刻み、堂宇を建てて祀ったのがこのお寺の始まりといわれています。

 慈覚大師が創建 ― ということは、天台宗であるはずなのに、現在は曹洞宗、ということは、途中で何かの事情があり、宗派替えが行なわれているからです。
 その事情が何かはいまのところはわかりませんが、江戸時代の初めごろ、榮室壽盛という曹洞宗の大和尚が改めて開山となって、寺を中興したのです。
 榮室壽盛大和尚は廣徳寺の第八世で、寛永三年(1626年)入寂、と廣徳寺の歴住碑に刻まれています。

 廣徳寺というお寺は、我ながら何を思ったものか、私が作務(落ち葉の掃除)を始めたお寺です。
 ところが、始めてすぐ体調を崩して休み、体調が元に戻ってきたと思ったら、今度はしゃがんだり立ち上がったりするのに難渋する膝の故障が出て、再開すること能わずというていたらくですが、作務など始めようと志したお寺は全国に八万か寺あるといわれる寺院の中で、この廣徳寺だけなのです。
 そこの第八世住持がこの梵音寺の開山で、いま、私がそのお寺にきている、というのは他生の縁以上に深い縁なのではないか、と思ってしまいました。

 さらに、さらに……。
 今年の一月八日から始めた毎月八日の薬師詣で……。
 参詣しようと決めたのはいいけれども、第一回はどこにしたらいいのかと迷った挙げ句、時間も遅くなってしまったので、歩いて行ける(結構遠いのだけれど)柏市酒井根の薬師堂にしたのでした。

 この薬師堂は梵音寺の中興より遙かに古く、正長元年(1428年)に建立されているのですが、長らく荒れ果てていたようです。安政二年(1855年)になって、河瀬鳳瑞という人が堂守になり、この人によって境内の整備が進められて、四国八十八か所を模した石像が建立されました。実際に八十八か所を巡ってそれぞれの土を集めて帰り、石像の下に埋めたと伝えられています。この河瀬鳳瑞がいたのが梵音寺という次第です。



 歴住の墓所に参拝します。

 梵音寺から二分で真言宗豊山派東善寺。
 仁平二年(1152年)の創建。本尊は薬師如来で、別名・長島薬師と呼ばれています。
 妙音寺の薬師如来を訪ねて歩いてきた私ですが、ここにも薬師如来がおわすとは知りませんでした。はからずも一日で二体の薬師如来にお参りできることになりました。

 長島というのは昔の地名です。いまは東葛西という町名になって、消滅してしまいましたが、昔々は長島といい、城(といっても、多分館だったのでしょう)があったという言い伝えが残されています。

 本尊の木造薬師如来坐像は、眼病に御利益のある「薬師様」として有名なのだそうです。この薬師如来坐像は仏師春日が養老三年(719年)、河内国(大阪)春日野で制作したもので、寺が開かれたときに安置されたと伝えられています。

 香取神社。
 東善寺を出ると、すぐ先の角を曲がるだけなので、所要時間はわずか一分。

 旧名茂呂神社といい、旧長島村の鎮守でした。別当の自性院が文久年間(1861年-64年)に火災に遭い、古記録を消失したので詳細は不明ですが、四百年以前の古社といわれています。祭神は経津主命で下総の香取神宮から分神されたものです。

 香取神社境内の「乾海苔創業記念碑」。大正元年の建立。

 東善寺と香取神社の間にあった海苔店。すでに営業していないようです。



 浄土宗清光寺。香取神社から三分。

 文亀二年(1502年)の創建。



 新義真言宗正圓寺。
 清光寺の門前からすでに見えていたので、ものの一分とかかりませんでした。

 文明年間(1469年-86年)以前の草創と伝えられる古刹です。この日二番目に訪れた自性院を建立した良範法印が中興し、当寺第一世となっています。本尊は延命地蔵菩薩です。

 


 正圓寺の百日紅(サルスベリ)。
 すでに花は散ってしまっていましたが、ほんの数輪だけ白い花が残っていました。この樹は平成五年に檀家から寄贈されたとあるだけで、樹齢はわかりませんが、幹周りは悠に2メートルはあります。



 浄土宗智光院。正圓寺から二分。天正元年(1573年)、見譽光雲によって建立された浄土宗の古刹です。本尊の阿弥陀如来像は行基の作と伝えられています。



 下今井香取神社。
智光院から二分。創建年代は不詳。旧長島村と旧桑川村との村境に位置していることから、境の宮とも称されるそうです。



 浄土宗称専寺。下今井香取神社から一分。

 永禄五年(1562年)の創建。旧桑川村の古刹で、開山は誠蓮社法誉上人清教大和尚(元亀三年寂)です。本尊は阿弥陀三尊像。

 新川を渡る新川口橋からの眺め。称専寺から八分。
 新川は中川と旧江戸川を結ぶ人工河川です。主に行徳の塩を江戸に運ぶために開削されました。川は橋の下で暗渠になっています。黄色い船宿の看板が立っているのではっきりしませんが、その向こうに見えるのは新川東水門です。
 このあと、環七通りを目指して新川に沿ってに歩きます。〈つづく〉

浦安駅から新川までの行程です。

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白露

2011年09月08日 20時26分32秒 | のんびり散策

 昨日は二十四節気のうち、白露でした。
 朝方は冷え込むようになって、それまで透明だった露が白く見えるようになる、という意ですが、昨朝は暦どおりに涼しい朝でありました。
 涼しいので散策に出ました。朝の散策に出るのは久々です。ブログを更新するのも久々です。



 富士川べり。一週間前に歩いたとき、稲刈りが済んだ田圃は一枚だけでしたが、すでに八枚も終わっていました。



 柿も色づき始めています(近くの柿園で)。

 


 大震災から半年も経ったというのに、土砂崩れを起こした富士川左岸(松戸市側)の土手は修復されないままです。まさかモニュメントとして遺そうというのではありますまいが……。
 下の画像は右岸(流山市側)から見た土砂崩れの現場です。



 特段の注意書きがないところを見ると、このひび割れは地震と関係がないのでしょう。



 去年、名を憶えた薯蕷葵(トロロアオイ)。



 蒲(ガマ)は湿地帯を好むといいます。
 富士川と流山市前ヶ崎の高台に挟まれた土地は川の近くではありますが、雨の直後を除くと湿地と呼べるような土地ではありません。

 


 今年も大きな栗が実りました。



 常磐線のガードをくぐって、猫のたまり場へ行くと、ヒロが仔猫に乳を飲ませているところでした。ヒロは小柄なので、仔猫のほうが大きく見えます。
 身体がひと回り大きくなって、一丁前に飛んだり跳ねたりできるようになった仔猫は、見ていると危なっかしくて仕方がありません。このアパートの前の道は結構交通量が多いのです。



 私が餌を与えると(乳幼児をかかえていると思うので、ヒロには猫一倍多く与えることにしているのですが)、素早く自分の分を食べ終えて、他猫の分を食べにくるのがこのヒロです。
 我が子が危なっかしい行動を繰り返しているというのに、自分が食べることしか眼中にないヒロには、果たして母親としての自覚がありやなしや……と疑った私でした。
 ところが、乳を与えている現場は初めて見たので、ちょっと感動して……疑った自分を恥じて、「あとで食べな」と呟きながら、いつもの餌を置きました。すると―。

 乳を飲みながら、なかば寝ているのかと思った仔猫が起き上がってきて、成猫用の餌を食べたのです。
 おおッ!(いつの間にか仔猫が成長した、と思った私が思わず上げた声です)
 そしてすぐに「ふーむ」とうなり声を漏らしていました。他猫の餌にすぐに首を突っ込んでくるヒロが首を突っ込まず、じっとしていたのです。

 こんな神妙な様子のヒロは初めて見ました。
 またまたちょっと感動しましたが、もしかしたらそんな崇高なことが起きたのではなく、ただたんに食事を終えたばかりで満腹であった、というだけのことであったのかもしれません。

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