今日八日はお薬師さんの縁日です。
去年の四月八日は印西市の竜腹寺と瀧水寺に参詣。一昨年の四月八日もやはり印西市の松虫寺と栄福寺に参詣しましたが、今日の目的地があるのは印西市ではなく、東京都の江東区です。
武蔵野線で西船橋まで行って東京メトロ東西線に乗り換え、南砂町で降りました。
四年前まで勤めていた会社では、主として通関業務を担当していました。通常の輸入貨物は船便を使っていたので、横浜港(たまに東京港)に入荷しましたが、貨物量が尠ないときは国際郵便で送られてきました。到着するのはこの南砂町にある東京国際郵便局(所在地は新砂)でしたが、受け取る前に通関手続きを済ませなければならないのは横浜港などに入荷したときと同じです。
丸八通りを歩いて行きます。当今、昔ながらの喫茶店というのはなかなかお目にかかれません。折角見つかったので、入ってコーヒーでも、と思いましたが、今日の旅程は始まったばかりです。ここでのんびり寛いでいるわけにもいかないので、名残を惜しむような気持ちで前を通り過ぎました。
南砂町駅から二十分ほど歩いて、目的の持宝院に着きました。
昭和十七年に刊行された「城東区史稿」によると、寛永三年(1626年)に尭存法印が創始したとありますが、「南葛飾郡砂町誌」によれば、第一世・尭存法印などは名のみで、没年は不明とされ、第六世・賢良法印が寛文十一年(1671年)に亡くなっていることがわかっているので、元亀天正のころ以前に創始されたのではないかとしています。「真言宗智山派持宝院」によれば、「砂町誌」と同じく元亀天正以前に開創されたとしています。
先の「砂町誌」によると、本尊薬師如来の由来は不詳ですが、言い伝えによれば、本尊と脇立光火不動明王は弘法大師作で、霊験あらたかで、住職が徳川幕府二代将軍・秀忠の許に出入りしていたとき、将軍が深くこの両尊を信じ、貴き尊像を護持するというので持(二)宝院の号を賜ったと記されています。別に、この二尊が「宝」であるので、その宝を「持つ」という意で名づけられたという説もあります。
持宝院本堂。
この日はお釈迦さまの誕生日でもあります。花御堂が設けられていました。
大日如来を祀る遍照堂。
持法院の裏手には亀高神社がありました。寛永年間(1624年-44年)の創建、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
境内では八重桜が咲き始めていました。
亀高神社のすぐそばには名にしおう砂町銀座があります。
明治通りから丸八通りにかけて、長さは670メートルもあり、百八十もの店があるのだそうです。地元では砂銀と呼ばれているそうな。
キョロキョロと眺めながら歩いて行くと、鰻蒲焼き一串が三百円台というのを見つけました。どこの産かはわからないものの、圧倒的に安い。衣料品店もあって、女性用のアッパッパーは五百円という、これも異常な安さ。
こんな商店街が近くにあったら、毎日出かけて買い物をするのに違いないと思われます。安い安いといって……結果的には出費がかさんでしまうかも……。
ふたたび丸八通りに出て、丸八橋で小名木川を越えます。
小名木川は行徳から江戸へ塩を運ぶため、徳川家康が命じて開削された人工河川です。橋は太鼓橋になっていて、かなりの急勾配……と、高所恐怖症の私は身をすくませながらカメラを構えましたが、あとで画像を見てみると、さほどの急勾配とは思えません。
さほどとは思えませんが、実際は急勾配なのです。上り詰めた先はどうなることやら……と、戦々恐々のテイで上り始めました。
てっぺんは逆光の中で魂消えるほどの高さです。
かつては蒸気船が銚子から利根川を遡り、利根運河~江戸川~小名木川を経て東京まで144キロを十八時間かけて結んでいた大動脈でした。
橋を下り始めると、右前方に神社らしき建物が見えてきました。大島稲荷神社でした。
慶安年間(1648年-51年)の創建。稲荷社なので、主祭神は先の亀高神社と同じ。しかし、表記は異なっていて、こちらでは宇賀之御魂神。併せて迦具土之命(かぐつちのみこと)を祀っています。
廃屋?……と思える一軒家がありました。近寄ってみると、真言宗智山派勝智院という表札がかけられていました。
庵に帰ってから調べてみると、創建は慶長元年(1596年)。昭和四十一年に千葉県佐倉へ移転し、現在は出張所になっているようです。
何気ない小庵と見えますが、享和三年(1803年)から翌文化元年(1804年)にかけて、短い間ですが、小林一茶(四十一歳から二歳にかけて)がこの勝智院に住んだことがあるのだそうです。
帰りは都営地下鉄新宿線大島駅から。本八幡~西船橋~新八柱~新松戸と乗り換えて帰ってきました。
➡この日の行程。