歳の暮、富士山を眺めに行こうと思い立ちました。
我が庵があるのは高台なので、こんな石段を下り……。
仲田橋という橋で富士川を渡ります。川を境にして、左が松戸市、右が流山市。画像奥が下流です。
道路の左右に栗林があります。春には土筆(ツクシ)が顔を出したりします。
富士川を挟む反対側も高台になっていて、結構急な坂を上らなければなりません。
最近は滅多にこなくなってしまいましたが、かつてはこの先に二匹の馴染みの猫殿がいたので、ちょくちょく上ったものです。上るときは自然に、永井龍雲の「つまさき坂」が口をついて出ました。この歌とこの坂とは、つまさき立てて上る、ということが共通しているだけで、すれ違う人もいない、まして気になる人をや、でありますが……。
坂を上り切ったところを右に曲がると、香取神社があります。
すぐ横を常磐線が走っています。快速線と緩行線の複々線ですが、快速線は近くに駅がないので、ものすごいスピードで飛ばして行きます。
この時節の日没は午後四時三十六分。
振り返ると、夕焼けに映える富士山が見えました。眼福です。
今月こそ念願の茨城県美浦村探訪ができると思っていたのでしたが、お昼に人と会わなければならない用ができてしまい、計画は敢えなく頓挫。
用を済ませ、昼過ぎに出発していたのでは、その日のうちに帰ってこられるかどうか覚束なくなる ― と、までいうのはオーバーですが、帰ってくるころは恐らく真っ暗です。
で、先月につづいて目的地を変更。さほど面倒なく行って帰ってこられる亀戸を訪ねることにしました。
亀戸を歩くのは何回目になるのか憶えがありませんが、寺社巡りということであれば、少なくともこのブログを開設してからは二度目です。
前回訪ねたときは藤の季節の終わりかけだったので、二年半ぐらい前だったかな、と思って調べてみたら、なんと四年半も前でした。
いつもなら薬師詣でに出かける前か、帰ってきてからか、どちらかで慶林寺参拝、となるのですが、この日は朝のうちに慶林寺だけに参拝して、一旦庵に帰りました。
慶林寺はこのところ門が閉ざされることが多くなりました。日課にしている毎日の参拝では必ず境内に入らなければならないということもないので、閉ざされた門の前で合掌すればいいのですが、薬師如来の縁日にはお賽銭をあげることにしているので、山門が閉ざされているときは通用門から境内に入らせてもらいます。
すでに迎春の準備も整っているようです。
用を済ませ、昼食も済ませて、勇躍出発です。
北千住で東武線に乗り換え、曳舟で亀戸線に乗り換えて、小村井(おむらい)駅で降りました。
小村井駅のすぐ先を明治通りが走っています。明源寺。
我が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝します。
右の黒っぽく、少し高いのが開山・大州安充大和尚の卵塔。
明治通りに戻り、花王の東京工場(画像右端)を右に見ながら、福神橋で北十間川を渡ります。
福神橋を渡ると、墨田区から江東区に入ります。
福神橋を渡り切ると、右手に龍光寺があります。
「新編武蔵風土記稿」によれば、本尊は恵心作の薬師如来。創立は弘治二年(1556年)で開山は元栄という僧。最初江戸横山町にありましたが、のちにこの地に移ると記されています。
しかし、「城東区史稿」には、真田幸村の家来・成川仁右衛門忠幸という侍が大坂城落城後、一族を引きつれて、押上村に居住し、寛永元年(1624年)、亀戸村に日夜信仰する薬師如来を本尊として寺を建立したのが始まりと記されています。
前回(四年前の四月)、亀戸を歩いたときにもこのお寺に寄ろうと思いましたが、工事車両が入っているのが見えたので、その日は薬師如来の縁日でもなかったし、チラと眺めてカメラにだけ収め、ほとんど素通りしたのでした。
香取神社。
創立は中臣鎌足が東国へきたとき、この亀島に船を寄せて太刀を一振り納めて旅の安泰を祈ったことが始まりであると伝えられ、鎮祭は天智天皇の四年(665年)と伝えられる江東区内で最も古い神社です。
また、平將門の乱のとき、俵藤太秀郷が当社に戦勝を祈り、祈願成就の後、弓矢を奉納し、以後武運長久を祈ることが多くなったといわれます。將門贔屓の私としては、境内にお邪魔させてもらいはしたものの、以上のような由来から参拝はしません。
亀戸大根の碑。
このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861年~64年)のころとされ、香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。
香取神社の門前にはこんなレトロな商店街がありました。門前から蔵前橋通りまでの長さ200メートル足らず。
坂本商店。
ナチュナルビューティサロン・カトリ(手前)。すみれ緑花園(左隣)。
蔵前橋通りに出ると、通称赤門と呼ばれる浄土宗浄心寺の山門が見えます。
先に引用した「新編武蔵風土記稿」によれば、この寺の創立は元和元年(1615年)で、開山は鑑蓮社吟誉至山不通。
「浄心寺誌」によれば、江戸初期、権大納言烏丸光広卿が江戸に下ったおり、鷹狩りに遊び、宝燈庵と称していたころの浄心寺に立ち寄りました。そのとき、不通和尚の法話に耳を傾け、その姿に心服。朱塗りの門と、自家の菊花紋を浄心寺に与えたので、赤門寺と呼ばれるようになったということです。
門前にある子育て観音像。
浄心寺本堂。
江東区の有形文化財目録には、本尊の阿弥陀三尊像、木造地蔵菩薩坐像と並んで木造薬師如来坐像が記載されています。
これにて今年一年の薬師詣でも終わりました。お疲れさまでした。また来年。
この日の天気予報は午後三時ごろから雨、でしたが、実際に雨が降り出したのは、私が薬師詣での行脚を終えて、すでに庵に帰り着いたあとの夜七時過ぎでした。
薬師如来の功徳でしょうか。雨に降られずに済みました。