今日、八月二十八日の誕生花は桔梗です。
花言葉は「変わらぬ愛」「気品」「誠実」「従順」。韓国では「トラジ」。
http://greeting.rakuten.co.jp/ocard/?type=flash&category=VFLaug&ocardid=VFLaugXX0828FL
画像上は智積院(京都市東山区)、下は東福寺天得院(同)の桔梗。
廬山寺源氏庭(同上京区)の桔梗。いずれも各寺院のホームページから拝借しました。
いつか見に行きたい。
燕の巣が空っぽになっていました。
去年は九月一日まで雛の姿がありました。今年はやや異常気象。我孫子の気象観測では今年は熱帯夜が一日もありませんでした。秋の訪れも早いのでしょうか。
臨時の梨売場も今日から幸水に代わって豊水です。
幸水より大振りな品種なので、個数は一袋六個と減りましたが、400円という値段は変わりません。
仕事上、CDを買う必要ができたので、徒歩で往復三十分ほどの量販店へ行きました。
仕事はとくに立て込んではいなかったので、本将寺というお寺に少し寄り道。
坂を上り始めると、道はT字路になっていて、石の地蔵さんがおわしました。
日蓮宗本将寺。
かつては大野城内にあって、当地に移転したと聞いていましたが、いつ移転したのかわかりませんでした。
鎌倉時代からの寺なので、由緒はありそうですが、訪れたときはちょうど読経の声が聞こえていました。いつ終わるとも知れず、私も内緒の散策の途中なので、無制限に待っている時間はありません。住職に訊ねるのは今度の機会に……。伽藍の新しさを見れば、移転したのはつい最近かと思わせます。
本将寺境内にある市川七福神の一つ大黒天です。
本将寺があるのは大野城址がある台地とは別の台地です。到るところに梨園がありました。周辺にはまだ茅葺き屋根の家が残されています。
ブラブラと台地を下ったところで見つけた栗の樹。実はかなり大ぶりです。
その隣は梨農家。こちらでは一袋500円也。
つい三日前の日曜日、私は將門のあとを追って守谷市を歩いていました。いつものように強い西日を浴びて汗だくになっていました。
今日は朝から好天ですが、心なしか陽射しは弱く感じられます。
秋……なのですね。
またヴォーン-ウィリアムズでも聴きますか。
http://www.youtube.com/watch?v=_9pyzesgtyk
稲田を抜け、台地を上って行くと、墓地があり、海禅寺の伽藍が見えてきました。途中、稲田の小竜巻の跡に見とれて写真を撮ったりしていたので、南守谷の駅から三十分を要しました。
寺の縁起によると、承平元年(931年)、平將門が高野山を模して創ったとされています。周辺は高野(こうや)村といい、いまでも地名は守谷市高野です。
本堂前に並んだ八基の供養塔。一番右の一段と高いのが將門の供養塔です。
残りの七基は七人いた影武者の供養塔であり、墓でもあるといわれていますが、建立されたのは江戸時代に入ってから……。それぞれに名前が彫られているようですが、風雨に晒されてはっきりせず、読み取ることはできません。
將門の供養塔。これだけは「平親王塔」と彫られた文字を読み取ることができました。
釣り鐘の下に憩う小さきものあり。
眠っているふりをしながら、ときおり左眼を開けて私を窺っていました。我孫子の將門神社で私を歓迎してくれた猫の宮司殿とは違って、こちらはどうやらご住職ではないらしい。
南守谷駅に戻ると、取手駅と守谷駅を結ぶバスの便がありました。
守谷城址近くまでバスで移動しようとバス停を捜しました。バス通りは関東鉄道の踏切を越え、私道を思わせるような覚束ない道を辿って行った先にありました。
地図を見ると、カラオケハウスなどが記載されているので、そこそこに賑やかな場所だと考えていたら、古くからの街道らしい二車線だけの道でした。
時刻表を見ると、あいにくバスは五分前に通過したばかり。さほど距離もないと思われたので、歩いて行くことにしました。
海禅寺から徒歩五十分で辿り着いた守谷城址の碑。
ここにあるのは碑と説明板と記念碑だけ。城址として残されている公園まではあと五分ほど歩かなければなりません。
もともと守谷城が築かれたのは現在の城址公園で、鎌倉時代と推定されています。戦国期になると城域が拡大され、この碑のあるところに本郭が移されました。
守谷は相馬御厨の本拠地だったといわれます。
御厨とは在地領主たちが領地を侵されるのを防いだり、脆弱な地位を守るために、影響力の強い寺社(伊勢神宮や春日大社など)や有力貴族に寄進をした土地のことをいいます。領主自身は下司という管理人の地位を与えてもらい、収穫の一部を税金のような形で納めるのです。
將門は相馬御厨の下司の任を得て帰郷したので、守谷に館を構えた可能性があるといわれ、最初に守谷城を築いたのは將門だという説も生まれるのですが、歴史上、相馬御厨の名が現われるのは、將門の時代(?-940年)よりずっとあとの大治五年(1130年)です。
相馬郡司だった千葉常重が所領の相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進し、その下司職となったのが最初ですから、將門が下司になったというのはどうも眉唾ものです。
七月初め以来、二度目の訪問になる守谷城址の遠景です。
前に訪れたときは携帯電話のカメラしかなかったので、もう一度水濠跡を撮影。
守谷城本郭跡。
南守谷から私が歩いてきたバス通りには「平將門城址→」という標識がありました。確かに將門が築いたという伝説はありますが、発掘調査ではそれを裏づけるものは何も見つかっていません。
守谷市も先のような標識を掲げながら、本郭に設置している説明板では「可能性は低い」と否定しています。
実際にこの城を築いたとされる相馬氏は將門の子孫だと僭称しましたが、これは將門の人気が高いのに便乗しただけ。実際の祖は將門の叔父に当たる平將文です。
叔父の末裔であれば、遠縁には違いないので、真っ赤な嘘とはいえませんが……。
守谷城の空堀跡。
昼なお暗し……だけならいいけれども、この時期は藪蚊の巣窟です。森を抜け出したあともウィーンウィーンと追撃を受けました。
城址公園の北端には守谷沼があります。どのような経緯で形成された沼なのか、どこにも説明がなく、いまのところはよくわかりません。
かつては守谷城の水濠は小貝川に繋がり、利根川に通じていたそうです。沼から小貝川までの低地は稲田に変わっています。灌漑用に残したのでしょうか。
古城川プロムナード沿いに守谷駅を目指しました。
初めてきたときは本物の猫が昼寝をしていると思ったベンチ。一人ならいいが、二人で坐ろうとすると、動かせないのでちょっと邪魔な感じです。結局、誰も坐ろうとはしないようで、草も伸び放題です。
守谷駅間近でこんな看板を見かけました。
真ん中の瓢箪は目測50センチはあるように見えました。ほとんどはクラブの人が色付けをして、置物などの工芸品に仕上げるようですが、呑兵衛の私は酒器しか連想できません。酒を入れたら五~六升は楽に入るのでは……。中には1メートルに及ぶものがあるそうです。
庵に帰ってから知ったのですが、南守谷駅から守谷城址へ歩く間に、愛宕神社と西林寺がありました。
愛宕神社は將門が京の愛宕神社に模して創建したと伝えられ、西林寺は將門の持仏を安置していると伝えられています。守谷駅の向こう側には長竜寺があり、ここも開基は將門だと伝えられています。
いずれもたいして寄り道にはならない場所にありました。とくに愛宕神社は寄ろうかと思って路地を折れながら、行かなかったところです。將門に関連していると知っていたら、寄らずにはおかなかったのですが、当日はなんの知識も持っていませんでした。
一つのことを知ると、また新しい史料なり伝説に出会います。將門探訪の小旅行はポツポツとですが、永遠につづくのかもしれません。
↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56181.html
我が庵からそれほど遠くないところに、医王寺というお寺があるのを地図で見つけたので、昨日曜日、散策を兼ねて訪ねることにしました。
朝のうちは陽射しが出ましたが、いつの間にか雲が低く垂れ込めるようになっていました。近場(といっても小一時間を要しますが)で、一つだけ將門関係の遺跡を訪ね漏らしていたのに気づいていたので、行こうかと考えていたのですが、愚図愚図している間に昼を過ぎてしまいました。
天気も思わしくなさそうなので、歩いて行ける廣徳寺と医王寺だけを巡ろうと出かけることにしたのです。
新坂川で草の蔭に川鵜(カワウ)が隠れているのを見つけました。泳いでいる姿、飛んでいる姿を見たことはありますが、佇んでいる姿は初めて見ました。
本当は白鳥を見るか、紫雲たなびくのを見なければ意味はないのですが、あまり見ない鳥を見て、幸先が佳いような気分になりました。
五月の連休中に一度訪ねたことのある金龍山廣徳寺です。我が宗旨・曹洞宗のお寺です。
寛正三年(1462年)、 高城胤忠(たねただ)によって栗ヶ沢に創建されましたが、天文六年(1537年)、高城氏が大谷口城を築いて移ると、城の鬼門に当たる現在の場所に移されました。
この寺に着くころから雲行きが怪しくなって、傘は要らない程度ながらも雨になりました。これが川鵜のお告げだったのか。
医王寺。
廣徳寺の裏手にある真言宗のお寺です。背後を坂川が流れているので、かなり急峻な台地の上に建っています。
本尊は不動明王。
江戸時代初期の寛永のころ、越後国から一人の法師が不動明王の分身を供奉してこの地にきました。村の人々は挙げて帰依しましたが、高木治右衛門吉久という人はことに崇敬すること篤く、現在の境内地を寄進して、一宇を建立したのが寺の始まりといわれています。
この不動明王は田螺(たにし)不動とも、姿見不動ともいわれています。
田螺不動と呼ばれるようになったのは、落雷で祠が焼けたとき、本尊も焼けてしまったと思われたのですが、なぜか田螺がビッシリと張りついて、焼けるのを免れたという言い伝えからきています。
また姿見不動というのは、病で目の見えなくなった村の娘がこのお不動様に願をかけ、毎日不動滝の水で目を浄めていたという言い伝えです。
今日が満願という日、いつものように目を浄めていると、水面にお不動様のお姿が現われました。驚いた娘が滝壺を見ると、そこにお不動様が立っておられた。お不動様が見えたということは、娘の目は見えるようになっていたのです。娘は喜んで、生涯お詣りを欠かさなかったそうです。
医王寺境内に祀られている松戸七福神の一つ毘沙門天。
濡れるほどではありませんが、雨は熄みません。
訪ね漏らしていた遺跡の一つ-守谷市の海禅寺へ行くのは完全に諦めて、代わりに本土寺へ行ってみることにしました。医王寺からならわずか1キロという距離です。
長谷山本土寺の山門(仁王門)です。
阿吽の両像はガラスで囲われているので、上手く撮影することができませんでした。
寺域は「源氏の名門」平賀家の屋敷跡と伝えられ、建治三年(1277年)、当時の領主・曽谷教信が領内にあった地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮聖人から長谷山本土寺と寺号を授かったのに始まる、とあります。
しかし、「源氏の名門」という形容詞がつく平賀氏といえば、私が知る限り、信濃佐久を本拠とした平賀氏しかなく、その平賀氏であれば、主に京で活躍しているのですから、いまの千葉県に屋敷があったという話は信憑性に欠けるところがあります。
本土寺五重塔。
平成三年に建立されたばかり。塔内にはインドからの真仏舎利が納められているそうです。
本土寺境内の受付。これより先は有料(500円也)。
私がこの受付まできたのは二度目。地図で見ると、この奥はかなり広大で、本堂、開山門(建治三年以来の門)、宝蔵、その他見どころは多いようですが、なぜか私は入るのを躊躇してしまいます。
やはり二度行ったことのある野火止の平林寺も入山料は同じ500円なのに、二度とも抵抗なく入らせてもらったのですが……。
すでに季節の終わった紫陽花、もう少しすると紅葉で名高いお寺ですが、人がいっぱいくると思うと、その季節にわざわざこようという気にはなりません。
本土寺参道その1。
北小金駅に近い入口の石塔から山門まで、参道は約500メートルあります。楠の大木に混じって椎や杉の並木。水戸光圀が寄進したそうです。
本土寺参道その2。
参道にある漬物屋さん。
長い参道沿いには、この他、日本料理屋、カフェ、蕎麦屋などがあります。
山門から北小金駅までは徒歩十分。駅に着くころには雨は熄み、西の空も幾分明るくなったようなので、思い直して平將門と將門の影武者七人の供養塔があるという海禅寺まで脚を延ばすことにしました。
取手から関東鉄道のディーゼルカーに乗って十三分。私の中ではすっかりお馴染みとなった稲戸井駅を過ぎ、南守谷駅で下車。
目指す海禅寺へは真っ直ぐに行ける道がありません。地図の上ではクネクネと道を辿りながら約2キロの行程です。
車の排気ガスに追い立てられながら歩くのも嫌なので、回り道になるのと道に迷う危険を覚悟の上、できるだけ静かな道を歩こうと思いました。
坂東市を訪れて田圃道を歩き、私に驚く蛙たちがズボズボと水の中に飛び込む音を愉しんだのはほんの十日前のことですが、守谷の稲田ではすでに水を止めていました。
写真に撮るとわからなくなってしまいましたが、あちこちに小さな竜巻の舞った跡がありました。稲穂がなぎ倒され、竜巻が天空に消えたと思われる中心は「♪サ・ガ・ケンーッ」のはなわくんの髪型のようになっていました。
この稲田は向こうに見える台地(けやき台)と海禅寺のある台地に挟まれて盆地状になっているので、風の悪戯が起きるのでしょう。
松戸では小雨が降ったというのに、南守谷の駅を降りたときには強い西日が射すようになっていました。田圃道では陽射しを遮ってくれるものがありません。またまた汗だくです。
このあと、海禅寺と二度目になる守谷城趾を訪ねますが、そのブログは明日。
↓今回の参考マップを載せました。
http://chizuz.com/map/map56180.html
どうしてこうなるんだろうと思います。偶然にしてはあまりにも間が良過ぎる。
というか、悪過ぎる。
昨日、一か月に一回しか行かない横浜へ行くとき、それも私が電車に乗る時間に合わせるようにして停電事故があったのです。
五月、六月と外国からの荷物が多かった反動か。七月は一度の入荷もなく、八月も後半になって久しぶりの入荷がありました。
というわけで、久しぶりの横浜行でした。
船賃を払うのと通関書類をもらうために向かったのは、今回も関内にある海運会社です。十一時半までに着けばいいので、いつもどおりの電車に乗りました。
京浜東北線の乗り換え駅(秋葉原)で電車を待っていると、着いた電車からドッと客が降りてきて、車内は見る見るガラガラになりました。ラッキー、坐れる……と思ったのも束の間。なんたるアンラッキー !!
客が降りてしまうのも当たり前。「品川-大井町間で停電のため、当駅で運転を見合わせます」との車内アナウンスが流されていました。
山手線で東京駅まで行き、東海道線に乗ろうかと思いましたが、こちらも停電の巻き添えを食って、動いていない様子です。横須賀線は動いているようでしたが、横浜から先はまた京浜東北線に乗り換えなければならないので一緒です。
渋谷まで行って東横線に乗り、直通のみなとみらい線で行くことも考えましたが、切符ではなく、スイカで乗車していましたから、すでに改札を通ったあとでは他社線は無料扱いにはなりません。
それにこういうときはバタバタと走り回っているうちに電車が動き出し、結局じっと待っていたほうが早かったということになりがちです。
しかし、この日はバタバタと走り回ったほうが早かったようです。東海道線は十一時前に運転再開しましたが、京浜東北線は十一時過ぎと遅れて、関内に着いたときは十一時半を過ぎてしまいました。海運会社の昼休みは十一時半から一時まで。タクシーを飛ばしても間に合いません。
山下公園近くのジョナサンで早めの昼食を取って、一時まで近隣を散策することにしました。
関内の横浜市役所前にある港町魚市場跡の記念碑。
1874年(明治七年)、高島嘉右衛門が船便の良いここに、魚、青果、肉類の生鮮食品を扱う市場を開設したところです。
シルクセンター前にある「絹と女」の像。像を取り囲んでいる緑は桑の木なのです。
開港記念広場。
安政元年(1854年)三月三日に締結された日米和親条約を記念するモニュメントがあります。
禁煙にはエキセントリックなほど神経を尖らせている神奈川県と横浜市。罰則課徴金2000円也の標示がいろんなところに……。
私はここでこっそりと紫煙をくゆらせます。もちろん携帯灰皿持参。
横浜開港資料館。
幕末・開港期から昭和初期までの横浜の歴史に関する資料が公開されていますが、私はいつも前を通るだけ。
横浜市開港記念会館。
大正六年(1917年)創建。いまは中区公会堂です。
開港記念会館前にある横濱會所跡の記念碑。
明治七年(1874年)に町會所が建てられ、居留地の外国人や貿易商らの諸手続きや交流の場となって賑わったようです。
この日の予定はガタガタ。いつもなら二時過ぎには勤め先に戻るのですが、四時近くになってしまいました。
厄日かと思われた昨日、ドラゴンズは横浜に大勝しましたが、今夜は一日遅れの厄日だったようです。
今朝、通勤途上の駅近く、中華料理屋の軒先に懸けられている燕の巣をカメラに収めました。
昨日も撮ったのですが、ズームを使うときのカメラ操作に慣れていないため、ピンぼけでした。参考までにその写真↓。
この狭い巣に、昨日は五羽もの雛 ― 四羽しか見えませんが、左奥に一羽隠れているのです ― がいて、ビッシリという感じでしたが、今朝は二羽しか見えませんでした。兄貴分の三羽は飛行訓練ができるようになって、しばし外出中だったのか、それともすでに旅立ってしまったのか。
もし旅立ったとしたら、来年また元気な姿を見せてくれよ、と悦ぶところなのでしょうが、私は途中休む場所とてない大海原を小さな身体で飛んで行かねばならない彼らの姿を想像して、物悲しさが先に立ってしまいます。
第二梨園の梨。
駅から勤め先に向かう道筋に二つの梨園があります。第二とは私が勝手に命名しているだけで、二つ目の梨園という意味。
スーパーはもちろん、臨時の梨売場でも、とうに出まわっているというのに、第一、第二とも収穫の様子がありません。
私には二十世紀が違うというほかには、梨の種類の違いはわかりませんが、これはもう少しあとになると出る新高という梨なのでしょうか。いずれにしても、この梨たちもそろそろ旅立ちの時……。
熊蝉です。
昼休み、外に出ようとしたら、勤め先の玄関を出たところに転がっていました。この蝉は高いところに止まる習性があるので、啼き声は聴いても、その姿を見ることはなかなかありません。私も前に見たのは何年前であったのか。定かではないほど遠い昔です。
腹を見せてひっくり返っていたので、起こそうとしたらまだ生きていました。さすがに飛ぶ力は残されていないようです。彼もまた間もなく旅立つのでしょう。
旅立ち(出発)というと、私は上条恒彦さんを思い出します。単純な発想ですが……。
上条さんとはいまから十四~五年前、一度だけ会ったことがあります。余計なことながら、私には一度だけ、という人が多過ぎる。
私より七歳上。
どんな話をしたのか、ほとんど憶えていませんが、三歳のときに父上を亡くされているという話を聴いたことだけは鮮明に憶えています。このころの私の仕事は浪花節的な話を聞き出すことが多かったのです。
三歳の体験といえば、そのときに肉親の死に直面したというより、長じてのちに、切々と迫ってくる悲しみやこの世の不条理に直面させらることになったのだろうと思います。
見るからに優しそうで、温厚な人でしたが、私はこの人の優しげな眼差しは、そういう悲しみや不条理を知っていたからなのだ、と思い、返す言葉もなく、まじまじとお顔を見つめるだけでした。
(12) 出発の歌 上條恒彦(2001 OA) - YouTube
將門の遺跡を一通り訪ね終えて、虚脱感のようなものにとらわれています。
これで將門が好きになったのかというと、左にあらず。まだよくわからない状態です。
自分の住んでいる近くに將門の遺跡が数多く遺されていると知るまで、私は歴史に興味を持ってはいたものの、時代的には戦国時代以降でした。
その理由を、自分ではそれより前の時代になると、体温が感じられなくなるからだと分析していました。
まだほんの少しですが、名前だけしか知らなかった將門を知ることによって、平安以前でもとくに構えて見るようなことはなくなったようにも思います。かといって親近感を持つようになったか、というと、疑問です。
昨日曜日は朝方、近隣の散歩に出たほかは終日家におりました。そのせいではないでしょうが、来客の多い一日でした。来客といっても、顔見知りはおりません。
我がマンションが光対応になったので、インターネット回線を光に変えることにしました。朝一番でルータが届けられました。
髪を洗っている間に朝日新聞がきました。先週の日曜日にやってきて、一年間契約を延長したので、景品の洗濯用洗剤を持ってきてくれたのです。
それからマンション内の回覧板。
あとは人ではありません。ベランダに並べた植木類、手摺り、壁、網戸と蝉が代わる代わるやってきて、一声挨拶しては帰って行く。
うるさいことこの上ない。
が、彼らも最期だろうと思うので、追い払うようなことはせず、啼くのに任せておきました。
油蝉の来訪ばかりつづく中で、珍しくミンミン蝉が訪問してくれたので、訪問記念の写真を撮ろうとしたところ、あっさりと逃げられてしまいました。
写真を撮るためには網戸を開けねばなりませぬ。立て付けが悪いので、音を立てずに開けることができません。ギシッというだけで、客は啼き熄んで逃げてしまうのです。
虫コナーズがあれば、網戸を立てなくてよいのですが、あいにく虫コナーズの用意がありませんでした。そもそもそんなものを吊していたら、来客そのものがないかもしれない……。
以降の来客もことごとく逃げられました。
で、啼くのに任せておりましたら、日の暮れるまでに二十匹以上……。
朝方、前に行った大谷口(小金)城趾への途中、馬屋敷緑地というところまで散策しました。
大谷口城の西側で、文字どおり馬屋敷のあったところです。いまは樹木が覆い被さってトンネルのようになった公園になり、水飲み場が一か所とベンチがあるだけ。
この緑地へ行くのには、我が庵から横須賀橋で新坂川を渡り、流鉄の踏切を渡ります。
大谷口城、大勝院、廣徳寺などを訪ねて行くのに何度も通った道ですが、昨日は踏切のかたわらの一段下がったところに、小さな祠があるのに初めて気づきました。
広さ一坪あるかないかの祠です。
平戸弁天、別名・いぼ弁天と説明がありました。
時は元禄七年といいますから、赤穂浪士討ち入りがあった八年前です。
近辺に住む富豪の日暮玄蕃夫妻に、お逢(私は「お縫」の間違いではないかと思っていますが 、説明板には「お逢」と書かれています)という別嬪の娘があったそうです。近所で評判の別嬪でしたが、やんぬる哉、目の下に疣(いぼ)があって、それが玉に瑕。
両親は広く医師を求めたのですが、効果がない。お逢は疣が取れないことを気に病んで、やがて病気になってしまいます。
心配した母親が願をかけたところ、夢で大坂に弁天の祠があり、その弁天によく頼むがよい、というお告げを得ました。
行ってみると、清らかな湧き水がありました。三七二十一日の間、その水で疣を洗ったところ、疣は日ごとに小さくなり、ついに消えてしまった。悦んだ一家が寄進したのがこの弁天堂、といういわれです。
いまは清水の湧き出ている様子はありません。近世になって新坂川が開削されたので、水の流れが絶えてしまったのでしょう。
↓非常に近いところを歩いただけですが、大谷口城趾、廣徳寺を含めた参考マップをつけました。
http://chizuz.com/map/map55863.html
延命寺を出ると、またカンカン照りの野道です。
次に目指すのは高聲寺(こうしょうじ)ですが、プリントしてきたマップファンの地図を見ると、真っ直ぐな道はなく、「て」の字型に歩かなければなりません。
小さな川に突き当たりました。江川という川です。川に沿って歩くほうがいくらかでも涼しいだろうと考えて、道をそれました。しかし、川は方向違いに向かって蛇行を始めます。そこで田んぼの畦道に分け入りました。
歩を進めるたびに両側の田んぼでズボズボという音がします。私に愕いた小さな蛙が次々に稲田に逃げ込むのです。
♪お手ェ、天麩羅、つぅない,デコシャン、蚤の○○真っ黒ケェ、と歌いながら歩くと、ズボズボ……。結構面白い。
田んぼの畦道ですから太陽を遮ってくれるものは何もありません。たまらなく暑いので、脳漿が熱せられ、やけくそ気味でもあります。
このブログの一番下に添付した航空写真を見ると、一面平地に見えますが、東側は稲田、西側は小高い台地です。その台地のほうへ道が分かれていても、上り坂になっている上に曲がっていたりするので、見通しが効きません。通り抜けられそうだと思って上って行くと、民家の玄関で行き止まりだったりします。
背後になった延命寺の杜を目印にしながら。大きく曲がっているらしい田んぼ道を歩き、坂を上って突き返されるということを繰り返しているうちに、どれが延命寺の杜であったのかわからなくなってしまいました。
道に迷った……??。
としても、まだ陽は充分に高いので、さほど深刻な問題でありません。遠いけれども民家があるのが見えるし、車が走っているのも見えます。ただ、願わくば木陰がほしい。
しばらくして細い用水路に出ました。地図には高聲寺の裏手に小川が描かれています。多分同じ川だろうと勝手に決めて、その代わり、川から離れまいと川岸の道なき道を歩くと、ちょっとした高台があり、微かにお線香の匂いが漂ってきました。
僥倖のようなものですが、偶然高聲寺裏手にある墓地に突き当たったのです。
塀に沿って正門に廻ると、門は閉じられていました。鉄格子の扉に腕を突っ込んで撮影。
右手に廻ると通用口があって、寺内に入ることができました。延命寺は無人だったのに、こちらは墓参りの人が次から次へとやってきます。通用口前と寺内にも駐車場があって、結構繁盛している寺です。
創建は正応元年(1288年)。
唱阿性真という浄土宗の僧がこの地を通りかかったとき、眠気を催して仕方がなかったので、しばしうたた寝をした。すると、夢に平將門が現われて、「讒訴によって謀反人とされたことが残念でならぬ」と嘆くので、霊を鎮めようとこのお寺を建てた、という言い伝えがあります。
この寺が建つと、夜ごと「ええ、おお」という高い声が聞こえるようになりました。それが將門の声であったのかどうか……。いまのところ、それに触れた史料には出会えていません。高聲寺という寺の名はその声にちなんでつけられたということです。
高聲寺から市役所庁舎前を通って、メインストリートの国道354号線に戻ると、
「←ベルフォーレ800メートル」
という標識がありました。
ここには平將門公之像があるというのですが、ベルフォーレとはなんぞや。
家に帰ったあと、市のホームページを見ると、ベルフォーレとは音楽ホールと図書館からなる複合文化施設、とありましたが、アバウト地図も道路標識も「ベルフォーレ」との標記だけ。
札幌にはベルフォーレというラブホテルがあるし、こういう名のレストランをどこかで見かけたこともあるし、そもそもなんぞやと訝りながら、標識の指し示す道を進みました。
やがて信号のある交差点に到りました。アバウト地図によると、ベルフォーレはその道路沿いにはなく、右折しなければなりません。
一旦右折しましたが、像らしいものは見当たらない。
元の道に引き返してさらに進むと、山道に分け入って行くのか、という感じになりました。あとになれば、ここで家並みが途切れるのはほんの短い距離に過ぎないのですが、このときはどこかで道を間違えたと思ってしまいました。
間違っていたら戻ればいいと肚をくくって進み、緩い坂を下ると、視界が開けて、広い道路の向こうに、馬に乗った將門のブロンズ像が見えました。
我孫子の志賀直哉旧宅と同じように、途中に分かれ道があったり、交差点があったりする場合は改めて標識があったほうがありがたい。
像は北を向いて建てられています。京から自分の領地に帰ってくる姿を表現したものらしい。ベルフォーレの完成を記念して製作されたとのこと。
まあ、いまから千百年を去る昔、このあたりを將門が馬を駆って走り回った可能性はなくもないが、史跡とはいえません。一応写真だけ撮りました。
近くに平將門文学碑というものもありましたが、同じ理由で関係なしと判断してパス。
最後にしようと思っていた西念寺を目指します。
ここはちょっとホネのある距離です。ベルフォーレからは3キロ近く、三十五~四十分は歩かねば、と覚悟せねばなりません。
相変わらず陽射しは強烈です。民家や店舗が建て込んでいれば陽射しを遮ってくれるのですが、市の中心部から離れつつあるので、県道20号という幹線沿いなのに、疎らに空き地があります。すると真横から強烈な西日。
南東に向かっていた道は岩井消防署前を過ぎると、向きを東に変えます。今度は背中から西日。
バスは一時間に一本。きたときの遅れを考えると、時刻どおりにくるとは思えませんが、もし逃したらと思うと、ついせかせかと歩いてしまいます。増幅される汗また汗。
汗ぐっしょりとなって西念寺に着きました。
西念とは関東二十四輩と呼ばれる親鸞聖人のお弟子さん二十四人のうちの第七番西念(1182年-1289年)のことですが、このお寺の開山というのではありません。
西念の没後、彼が布教の道場としていた長命寺(さいたま市)が兵乱で焼けたとき、たまたまこのお寺(当時は天台宗聖徳寺)に縁があったので、長命寺の宝物が納められることになった。
西念寺と名を変え、浄土真宗のお寺になったのは江戸時代初期です。
遙か昔、この鐘楼の鐘を持ち去った者がいました。將門軍団の兵卒です。彼は陣鐘にするのにちょうどよいと考えたのですが、撞いてみると、鐘は西念寺のある土地(辺田)を恋しがって「辺田村恋し、辺田村恋し」と嘆いたのだ、とさ。
兵卒たちは気味悪がり、逆に士気が衰えてしまう。將門は肚を立て、寺に返させたということです。
坂東市内の將門の遺跡は、私が半日で巡った七か所(近くを通りながら端折ったところは三か所)のほかに、まだ五か所あります。
ところが、いずれも市街から離れていて遠い。歩いたら一日ではとても足りぬし、バスがあるかどうかもわからない。仮にバスがあっても、例によってどこで降りればよいのかわからない。
坂東市が誕生する前、岩井市の隣町だった猿島町には將門と藤原秀郷の主戦場となったところ、逆井城趾公園などがあって、行ってみたいと思いましたが、最寄り駅は東武線ではなく、東北線の古河になってしまうという方向違いなので、今日の日は断念。
將門の首は京に送られましたが、遺された胴を葬ったといわれる胴塚のある延命院。ここは西念寺から徒歩二十分と遠くはないのですが、ぼやぼやしていると、バスに乗れるのは二時間後ということにもなりかねないので、やはり今日の日は断念。
我孫子にも取手にもあったように、コミュニティバスというのがありますが、申し合わせたように日に二便しかありません。
歩いてくるような奴はくるな。きたければ車でこい、ということなのでしょうか。
↓今回のぶんの参考マップです。
http://chizuz.com/map/map55808.html
十三日、將門の里といわれる茨城県坂東市(旧岩井市)を探訪してきました。
柏から東武野田線に乗って、愛宕という駅で降りました。乗り換え時間も含めて、新松戸からここまで四十七分です。これまでの散策の中では、距離的にちょっとホネがあるかなと思っていましたが、意外とすんなり着きました。携帯してきた本を読んでいる間に呆気なく着いてしまったという感じです。
しかし、ここから先がいけない。
駅前でバスを待ちましたが、五分後にくるはずのバスがなかなかやってこない。駅前の通りは見るからに田舎の通りなのに、一体どこへ行く用があるのかと思うほどの交通量です。バス停が踏切手前にあることも手伝って、車の流れは渋滞気味です。
十分遅れで岩井車庫行のバスがきました。一時間に一本だけという便です。
途中、芽吹大橋で利根川を渡ります。愛宕駅から利根川までは5キロ弱なのですが、この日は四十分以上もかかりました。
坂東市のホームページから入手した地図はこんな地図です。
赤丸のつけられたスポットはそれぞれに別のWebページが開くようになっていて、解説があり、地図を見るというリンクがあるのですが、クリックしてもこの地図しか出てきません。
最初の訪問地は國王神社と決めていましたが、どこでバスを降りたらいいのかわからないので、中心街らしき町並みに入ったところ、同乗の客の多くがゴソゴソと席を立つのに釣られて、「岩井局前」というバス停で降りました。なんの「局」だかわかりませんでしたが、あとで郵便局らしいとわかりました。
国道354号線。旧岩井市のメインストリートです。妙にきれいです。
國王神社の祭神はもちろん平將門です。
上記のアバウトな地図とプリントアウトして持ってきたマップファンの地図を見比べながら歩き始めました。
目星とした交差点らしきところに出ましたが、現場に立ってみると、どっちがどっちやら方向感覚が失なわれてしまいます。
それでも、幸いなことに、道を間違えることもなく、方向を間違えることもなく、國王神社に着きました。バスを降りて2キロ弱。所要二十分強。
我孫子にある將門神社のうら寂しいイメージが残っていたので、境内が結構広く、森閑として静まり返っていたのがうれしかった。茅葺きの社殿も雰囲気があってうれしいものでした。神社には滅多に参拝する気の起きぬ私ですが、お賽銭をあげて二拝二柏手一拝。
誰もいなかったので、失礼して拝殿の中を撮影。
右手イーゼルらしきものの上に飾られている写真は將門の坐像で、拝殿を覗くだけでは拝めませんでしたが、この木造がご神体として祀ってあるそうです。
伝説ではこの像を刻んだのは將門の娘だといわれています。
父・將門が敗れたとき、娘は会津の恵日寺に逃れて出家。如蔵尼と称し、將門の死後三十三年目にこの地に帰って庵を結び、父の霊を弔ったのだそうです。そのとき、刻んだ像を祀った祠がこの神社の始まりだといわれています。
このところ、散策に出る日の午前中は曇、目的地に着くころには強い夏の陽射しが出る、というのが決まりみたいになっています。
この日も朝は曇っていたのに、愛宕駅でバスに乗るころから陽射しが出ました。すでに私の身体は汗みずくです。
國王神社の杜をあとにすると、左右は田畑になって、木陰はありません。
石井営所跡。
將門が関東一円の制覇を企てたとき、本拠地とした陣営の跡です。
石井の井戸跡。
石井営所跡から緩やかな坂を下ったところにあります。我孫子にある將門の井戸とは違って、水が出ている形跡はありませんが、台地の裾野にあって、いかにも湧き水が出そうな場所でした。
伝説によると、將門が王城の地を求めていたとき、喉が渇いて仕方がなくなった。ふと見ると、老翁が大きな石の傍らに立っていた。翁が大石を持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出して、將門は喉を潤すことができた。將門が翁の身許を訊ねると、岩井を守る翁だと歌を詠んで名乗り、姿を消してしまった。
將門はその翁を祀り、石井営所を本拠とすることに決めたのだと伝えられています。
石井営所、石井の井戸ともちょっとしたスペースはつくってありますが、結局は記念碑の域を出ていません。往時を忍べるような工夫はないものか、と思うのですが、記念碑だけではどうにも想像力が羽ばたいてくれません。
將門軍の特徴は馬と鉄でした。世界史上ではヒッタイトや中国北方の騎馬民族など、遙か昔から馬と鉄の軍を備えていた国々がありますが、十世紀というまだ黎明期に近い日本で馬と鉄に着目したのは、非常に先進的前衛的な考えだったと思います。他の陣営とは違って、將門の営所では独特な物音もあったのだろうと想像したいのですが……。
真言宗豊山派延命寺本堂。
將門の子孫(自称)相馬氏が文安二年(1445年)に創建したお寺です。前の石井の井戸跡の画像で左に写っているのがこのお寺の杜です。
周囲は稲田で、民家も数軒あるのみ。お盆だというのに、無人でありました。
延命寺境内にある薬師堂。
通称島の薬師と呼ばれ、將門の菩提寺でもあります。本尊の薬師如来は將門が守り本尊としていたものだと伝えられています。
國王神社拝殿と同じような、趣のある茅葺きの薬師堂山門。
相馬氏が創建したあと、寺は二度に亘って火災に遭ったようです。本堂も薬師堂も焼けましたが、この山門だけが焼け残りました。室町時代らしい、わびさびがあります。
將門の里探訪はまだつづきますが、最後まで行くと相当長くなりますので、今日はその第一部として、あとは後日。
↓市のホームページよりはマシかと思える参考マップです。
http://chizuz.com/map/map55655.html
台風9号は関東地方にはほとんど影響ももたらさずに過ぎ去りました。
昨日の強い風で落とされたのでしょう。通勤途上のそこここに栗のイガがありました。
写真を撮っただけで拾いませんでしたが、この時期の栗なら食べることができます。実を取り出して皮を剥き、ナイフの背などで渋皮をこそぎ落として生のまま食べるのです。
都会(人口が多いという意味で)生活しか知らぬ私がそんなことを知っているのも、遙か四十年も前、飛騨の山奥生活を体験したからです。
さて、紙芝居のおぢさんが今日もやってきました。そして、子どもにはあまり面白いとも思えぬ松平定信のお話のつづきをするのだそうです。
この人……定信の政敵・田沼意次です。その天下は将軍家治の死とともに瓦解します。
家治が死んだのは天明六年(1786年)八月二十五日。
その二日後の八月二十七日、意次は老中を罷免されてしまいます。
二か月後の閏十月五日には家治時代の加増分二万石を没収され、大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しが命じられました。
翌天明七年十月二日には、さらに石高三万七千石を召し上げ。蟄居の処分が下されました。
天明六年の処分のときには、松平定信はまだ幕閣に列していないので、意次の処分にどれほどの力を及ぼしたかわかりません。しかし、翌年の処分のときには堂々たる老中、しかも首座です。
加増分二万石を没収されて、五万七千石から三万七千石の大名に格下げになっていた意次から三万七千石を召し上げる。つまり無給の浪人に叩き落とした上、蟄居という苛烈な処分を下したのは定信です。
五万石といえば、家臣は少なく見積もっても五百人は下らない。この人たちがどうなったのか。私にはこちらのほうも気になりますが、知るすべもありません。
もちろん幕府は陪臣の行く末などには関知しない。
給料がゼロになったばかりでなく、意次の許にあった財産はすべて没シュートです。城主であった駿河相良城内、全国各地に拝領していた蔵や屋敷に収蔵されていた米は三百万石以上もあったそうです。
このころの徳川将軍家の実収は四百万石といわれています。わずか五万七千石の大名に、将軍家の年収に匹敵するほどの蓄えがあったのです。
その他、油、酒、各地の特産品などに混じって、夥しい量の金銀財宝がありました。
江戸屋敷の明け渡しを命じられたとき、荷物を運ぶのに、それこそ江戸じゅうの荷車を動員させて、二日もかかったというのですから、全財産がいかほどのものであったか計り知れません。それぐらい賄賂があったわけです。
中でもびっくりするような賄賂は島津重豪からのものでした。長さ三間(5・4メートル)もある純銀! の舟です。
長さ三間という純銀の塊だけでもすごいのに、舟の中には金銀財宝が山のように積まれていたというのです。
これを受け取ったとき、意次もさすがに愕きましたが、賄賂を受け慣れているので、いつまでも愕いてはいない。
長さが三間もあるような大きなものを座敷に持ち込まれても邪魔だといって、その舟専用の座敷を建て増し、そこに飾ったそうです。
島津がなにゆえにこのように豪勢な賄賂を贈ったかというと、十一代将軍家斉の誕生にかかわりがあります。
まだ一橋豊千代と名乗っていた家斉が将軍継嗣と決まると、ちょっとした騒動が起きました。
このとき、豊千代はまだ九歳でしたが、四歳ですでに婚約していました。相手は島津重豪の娘・篤姫(のちの広大院)です。ところが、次期将軍と決まると、夫人が島津の娘であるということが困った問題になるのです。
臣下である大名家の娘が将軍の正夫人となった先例がないからです。そのことを楯にとって難癖をつけようという者が出てきます。
真っ先に文句をつけたのは尾張宗睦だといわれています。弱った重豪は意次に相談。頭の回転が速い意次はすぐに打開策を思いつきました。篤姫をしかるべき公家の養女にしてしまえばいいと考えたのです。
白羽の矢が立てられたのは島津とは縁続きの近衛家。話はすぐにまとまりました。尾張宗睦は地団駄踏んで悔しがったけれども、あとの祭りです。
篤姫は近衛寔子(ただこ)と名前を改めて、豊千代とともに江戸城西丸に入りました。意次のおかげで、重豪は将軍の岳父となることが決まったのです。そのお礼が長さ三間もの純銀の舟だったというわけ。
意次もこのときは、次の将軍の懲罰人事で足許をすくわれようとは思っていません。悪の権化のように言い触らされていますが、基本的には人がいいのです。将軍が交替しても、自分はご奉公専一、と考えています。
意次の人の良さは情に厚いところにも顕われています。縁ある者で困っている人がいれば、手を差し延べずにはいられない。
このとき、困っていた一人は意次の父意行の朋輩で、西丸目付という役目に就いていた岩本正行という旗本でした。
岩本には富子という娘がおりましたが、非常に醜女だったそうで、年ごろを過ぎても縁づく先がない。
意次に相談を持ちかけると、即座に大奥へ上げてはどうか、ということになりました。大奥に上げることぐらい意次には造作もないことです。大奥にもいろいろな持ち場があって、全部が全部美女でなければ勤まらないということはないからです。
情に厚くても、情に溺れる人ではありませんでした。できるところまではしてやるが、ゴリ押しということは決してしない。
だから、富子についても、大奥へ上げるところまでは運動しましたが、それ以上に出過ぎたことはしない。
富子自身も、父親の岩本も、大奥へ召されるというだけで満足したので、それで充分でした。
富子が無事大奥へ上がると、家斉の父・一橋治済(はるさだ)が意次に超弩級の仰天話を持ち込んできました。
なんと富子を自分の側室にしたい、というのです。稀代の醜女という富子を、です。
さしもの意次もこれには心の臓がでんぐり返るほど愕いた。
その一方で、意次追い落とし工作は着々と進んでいました。
仕掛け人の一人は松平定信です。定信は白河藩主となったからか、それ以前からか、幕閣に連なって政治をやりたいという欲望を持っていました。
ところが、幕閣に連なるのには条件がありました。
江戸城では大名たちの家格、禄高、その他に応じて城内詰めの間(伺候席)が決められていますが、溜之間詰めでなければ中枢部には入れないのが決まりなのです。
残念なことに、白河藩は帝鑑間詰め。そこで定信が何をしたかというと、自身がもっとも忌み嫌っていた賄賂攻勢を仕掛けました。
貢ぎの対象となるのは一番権勢を誇っていた人物、意次です。
ここでも意次は人が良い。
青臭かった定信が政治に興味を持ったということは、ようやく世の中の甘い辛いがわかってきたんだな、と好意的に受け止めています。
じつに人が良い。定信の魂胆が見抜けていないのです。
ただし、定信も利用されています。それがもう一人の仕掛け人の仕業であることはいわずもがな……。
と、いうところで、紙芝居のおぢさんはドンドンと太鼓を鳴らして、帰り支度を始めました。
我が庵に近い飲み屋街の一角で見かけた野良の仔猫殿です。
ここに画像をつけたのにはとくに意味はありません。右後ろの黒っぽいところに立っていたのですが、私がカメラで撮ろうとすると、トコトコと歩いてきて、坐ってくれました。
鞄の中には食べられるようなものがありませんでした。「悪いね」といってカメラをしまうと、またトコトコと元の場所に戻って行きました。今年生まれたばかりのようです。なかなかの美形でした。
昨日曜日、EMS(国際郵便)で外国から貨物が入ることになっており、それにちょっとした細工を施して出荷しなければならなかったので、また休日出勤です。
郵便物が届けられる時間は午後二時~三時と幅がありましたが、一時前にくる可能性もあったので、配達人を待たせぬように出勤しました。
六月の終わり、咲いていることに気づいた路端の桔梗はとうに花期は終わっていると思ったのに、まだ花を咲かせていました。
貨物が届けられたのは二時。一時間半ほどかけて細工を施し、近くのクロネコの集配所まで持って行って、休日出勤は終わりです。
クロネコへ行くと、市川大野の駅までは、いつもとは違う道を経由するほうが近道です。その道は、かつて大野城があった丘を切り開いた道で、初めて歩きます。
この中学校の校庭に大野城の本郭跡があります。夏休み中でもあり、入ることはできないだろうと思って、入口だけ。
中学校先にあった浄光寺の二王門です。
両脇に高さ24・3センチという小さな二王像があるそうですが、小さいのと暗いのとで、肉眼ではよくわかりません。地面からは見上げるような高さにあるので、写真を撮るとしたら、足場が必要です。
この二王像は乳首がないことで知られています。
伝説によると、鎌倉時代の仏師・運慶がこの地にきて、死んだ母の菩提を弔うべく刻んでいたのですが、完成間近になって母の姿が現われたので、つい誤って乳をそぎ落としてしまったのだそうです。
失敗したと思って、壊そうとしましたが、母がこの地の安産の護りとせよ、と告げたので、そのまま完成させた、という伝承が遺っています。
浄光寺本堂。
運慶が関東に下り、先の無乳二王金剛力神を彫刻して、当寺多聞院に安置したのは承久年間(1219年-21年)という言い伝えがあるので、開創はそれ以前ということになりますが、いまのところはっきりした年代はわかりません。宗派不明(いまのところ)→日蓮宗→真言宗→日蓮宗と改められて現在に到る。
境内にある毘沙門天像。
浄光寺では「たまんぼう」と呼んでいるそうです。由来は不明ですが、毘沙門天は四方を鎮護する四天王の一つ多聞天のことです。「多聞天→多聞坊→たまんぼう」となったのではないかと推測されています。
旧大野城北方に祀られ、城郭の守護神でしたが、秀吉の小田原の役後、大野城の廃城とともになくなって、「たまんぼう」という名前だけが遺りました。
後年再建されて、いまは市川七福神の一つです。
↓参考マップです。
http://chizuz.com/map/map55578.html
昨日今日とやっと夏本番という暑さになりました。とくに昨日は猛烈な夕立。
ちょうど勤め先を出るときと重なったので、せっかちな私も出口でしばらく待機。ピカーッ、ベリベリ、ドガーンという光と音の一大ページェントに肝を冷やしておりました。
関東地方は七月十四日に梅雨明けとされましたが、その後、一昨日までの天候は決して梅雨が明けたという天候ではありませんでした。
私は人付き合いは苦手なほうですが、決して恥ずかしがり屋というわけでもなし、赤面症というわけでもない。しかし、うれしいこと、愕くようなことに意表を突かれると、どっと汗が噴き出します。
昨日の朝、勤め先まで、せかせかと歩く暑さに加えて、うれしいものを見たので、いっぺんに汗をかいてしまいました。
見たのは、通勤途中の道端の、こんなところで売られている……。
こんなもの……。
幸水梨です。
スーパーで売られているものと比べると少し小振りで、大きさも不揃いですが、十個も入っていました。これで400円也。スーパーの三分の一の価格です。
番人はいません。籠の中にはブリキの缶が結わえつけてあって、良心に従って、そこに代金を入れて持って行く仕組みです。
私は目撃したことがありませんが、毎朝早い時間と昼過ぎ、おばあさんとお嫁さんらしい人が何袋かの梨をここに運んでくるらしい。
結構ファンが多いようなので、私が通りかかるころには空っぽということもあります。この日、私が手に入れたのは朝の時間帯の最後の一袋でした。
残り物の福、ということになるでしょうか。
去年も食べましたが、味は高いものと比べても、決して遜色はありませぬ。
蝉(セミ)時雨です。
そんな中で蝉の死の瞬間を見ました。いまの時節、死んだ蝉はたくさん見ます。しかし、死ぬ瞬間を見たのは初めてです。
昼休み、漫然と散策に出て、他人の敷地内の道(マンションの中)を歩いておりました。前方に槐(エンジュ)の樹がありました。去年も見たのですが、少し前の時期が満開です。
去年は散ったあとに見たので、来年は注意しておこうと思っておりましたが、すっかり忘れていました。
今日、樹を目にして、満開の時期がきたら見ようと思いながら、見るのを忘れていたことを思い出しました。
ハラハラと白い花が舞い落ちています。今年も満開を見過ごしていたと思ったとき、私の右横をサッとかすめて行くものがありました。
油蝉でした。
まるで飛行機が着陸するように、私の顔のあたりの高さから地面に向かって斜めに飛んで行きます。あとで再度考え直すのですが、このとき、確かに羽は動いていました。
バタバタとやりながら、アスファルト路面に激突しました。
ほとんど一瞬の出来事です。激突する直前、クルリと向きを変えたように思えました。
近づいてみると、腹を見せてひっくり返っています。背面飛行をするとは思えないので、向きを変えた、と見えたのは幻ではなかったようです。
自宅のベランダやマンションの廊下でひっくり返っている蝉の中には、ヤワヤワと肢を動かしているものがいます。動きがないので、死んでいるのかと思ってつついてやると、身を翻して飛んで行くものもあります。
かたわらにしゃがんで指先でつついてみました。動きません。ちょっと乱暴に指パッチンをしてみました。20センチほど動きましたが、蝉自身が動く様子はありません。
目を上げて前方を見ると、槐の落花の花だまりまで2~3メートル。
「そうか」と私は独り言を呟いて腰を上げました。何が「そうか」だったのか、自分でもわかりませんが、「そうか」と呟いたのです。
それからしばらくして、蝉は槐の花を目指したのかもしれないと思ったのでした。本当は西行法師のように、満開の桜の花の下で死にたかったのかもしれない。が、蝉の季節に桜花はあり得ないので、槐の花だったのだが、目測を誤ったのかもしれない。
まともな画像が得られませんでしたが、槐の樹です。まだ花はたくさん残っています。
枝の下に立つと、まるで雨に打たれるように花が落ちてきます。ちょっと優雅な気分です。
こんな花の中で死なせてやりたかった。そう思って蝉の死骸を振り返りました。せめて落ちた花の中に、と思って、つと戻りかけましたが、このままがよいだろうという気がして、戻るのはやめにしました。
数分歩くと大柏川に出ます。
ゆっくりした流れの中に川藻がたゆとうています。その川藻の中に悠然と浮かぶ亀がいました。こちらの寿命は万年。
一昨日八月四日は旧暦六月十四日。
明智光秀公の祥月命日でした。
先月二十四日が私の母の月命日で、その日にお線香が払底。用意しておかなくては、と思いながら、私としては「したり」を犯してしまいました。
家に帰ってお線香がなかったことに気づきましたが、一昨日は帰った時間が遅く、求めるとすればコンビニしかありませんでした。ものがものだけに、そういうところで求めるのは気乗りがせず、一昨日は失礼することにして、昨日、一日遅れながら焼香しました。
明日にでも開店するかと思っていた梨の即売所はまだ開店していませんでした。前から立っていた佐川急便の幟に加えて、クロネコヤマトの幟も立ちましたが……。
代わりに無人の梨売場が開店。
いまの時期、出ているのは幸水です。スーパーで売られているものより小振りですが、一袋に八~十個入って400円という値は去年と変わりません。
地図なんかつけてもしょうがないと思いながら、地図をつけました。
http://chizuz.com/map/map55467.html
土曜日に行った我孫子・湖北の龍泉寺。
遠過ぎて本堂は見えませんが、ここの山門と本堂が一橋徳川家の菩提寺だった上野・凌雲院の遺構だと知って、ちょっとした因縁に愕いています。
湖北を訪ねたのは將門の伝承を追うことが目的で、その後に歩いたところは私にとっては付録に過ぎず、通り道にこのお寺がなければ、寄ることもなかったからです。
ブログで松平定信に触れたついでに触れることになった一橋治済(はるさだ)は、たまさか将軍の父となったために、死後葬られたのは上野の寛永寺。二代目当主でありながら、一橋家の歴代当主の中でただ一人、菩提寺の凌雲院には葬られなかった、というのも何か因縁めいて感じられました。
青年期の松平定信が激しく反発したのは田沼意次です。
直情怪行-青年にはありがちなことですが、どうも陰で糸を引いていたのは定信の従兄弟で、七歳年上の一橋治済であったようです。多感な青年期は身近に政治的人間がいると、その影響を受けやすい。
こうして、若造とはいえ、吉宗将軍の孫二人が自分に反感を持っていると知れば、普通ならちょっとはギョッとなるところですが、海千山千の田沼意次は歯牙にもかけません。現将軍から絶大な信頼を寄せられているのをいいことに、逆にジワリジワリと圧迫を加えます。
圧迫の数々はとてもここには書き切れませんが、脅威を感じた治済はある日、クルリと転向してしまいます。
現代社会でいえば、実力社長vs創業者の孫という構図です。孫には創業者の血筋というブランドがあり、株主でもあるけれども、自力で社長を罷免できるほどの株は持っていない若者と意次との暗闘というところです。
若者は多数派工作に出て、実力社長を罷免しようと株を集めようとするが、思いどおりには集められない。ボヤボヤしていると、実力社長に蹴飛ばされて、株もブランドも失ってしまいかねない。
ある日、そう気づいて、鮮やかに身を翻すのです。
気の毒なのは治済と肩を組んで「エイエイオーッ」とやっていた、やはりブランド品の定信です。二階に上がったのに梯子を外されただけでなく、追い討ちがかけられました。
田安家から白河藩に養子に出されることになったのです。
次期藩主含みではありますが、石高はわずか十一万石。松平の姓は許されているものの、御家門でもなく、親藩でもなく、譜代大名に過ぎません。
ものの本には田沼意次の懲罰人事と書かれていますが、私は治済の工作があったのではないかと睨んでいます。
つまり、背景にはこんなことがあります。
安永二年(1773年)、一橋家のお部屋様となった岩本富子は、玉のような男の子を生みます。のちに十一代将軍・家斉となる豊千代で、吉宗の曾孫に当たります。この富子に関する面妖な話がありますが、それは次の機会に回します。
その豊千代が生まれたとき、この子が将来公方の座に就くだろうなどと考えた人は誰もいなかったはずです。私の想像では父親である治済一人を除いて……。
なぜならば、十代将軍・家治はまだ三十七歳という若さ。病弱だった父の九代将軍・家重とは違って、健康でもあり、聡明でもありました。
その家治に万が一、コトがあったとしても、次期将軍候補としては、第一位に家治の嫡男・家基がいました。豊千代が誕生したときには十二歳。大禍なくすくすくと育っていて、この家基が次の将軍の座に就くのは明白でした。
この若君になんらかの事故があったとしても、腹違いの弟・貞二郎君がいました。
家基にも事故があり、貞二郎君にも事故があった場合、初めて御三卿にお鉢が回ってくることになりますが、御三卿の筆頭は一橋家ではなく田安家です。ここには七男の定信がいました。吉宗の孫です。
血の濃さ、という将軍位継承の重要な要素の一つからいえば、曾孫の豊千代より孫の定信のほうが断然優先です。が、それも家治、家基、貞二郎と三人に不測の事態がつづけて起きたときだけのこと。普通はあり得ないことです。
ところが、ところが……です。
貞二郎は夭逝。
定信も豊千代も、双六が一つ進みました。夭逝する子の多い時代ですから、貞二郎の死に疑問あり! と、誰かに疑いをかけるのは、まだやめておきましょう。
しかし、豊千代七歳の安永八年(1779年)、朝までピンシャンしていた家基が鷹狩りのあと、品川の東海寺で休息。そこで突然死んでしまうのです。
当時も後世も、田沼意次による毒殺説が囁かれました。家基が将軍になれば自分の身が危うくなる。それを未然に防ぐため、というのです。
聡明だった家基は政治への関心も高く、意次の専横を苦々しく思っていた、といわれています。
意次にとって、そんな家基が将軍を継ぐのは面白くない。
動機は充分です。
が、家基を亡き者にしても、犬猿の仲の定信将軍が近づくだけです。
将軍・家治はまだ四十三歳。意次に寄せる信頼は依然全幅といってよく、まったく翳りがありません。家治が病床にあるというのならわかりますが、そんな様子はまったくない。そういう時期にそんな危ない橋を渡るものかどうか。
家基の死を定信がどのように受け止めたかわかりませんが、定信も豊千代も揃って双六を二つ進めました。
そして定信の双六は終わり、豊千代だけが進むという事態が家基の死の四年後にやってきます。定信の養子話です。
先に書いたように、意次が自分に刃向かった若造を懲らしめた、という説があって、私はそれもあるかもしれないが、もう一枚噛んでいる、というより意次以上に働いた人物がいるのを見るのです。
-というところで、おぢさんがドンドンと太鼓を叩いて、今日の紙芝居は終わり。
また明日、お母ちゃんから十円玉をもらって、落とさないようにしっかり握ってくるんだヨォ~ン。ドンドン。
幽雨に濡れましたが、今朝は涼しい朝でした。
毎朝、こんな道を通って通勤しています。左手は崖で、大野城があった跡。右手は民家がつづいていますが、街路灯も少なく、夜はほとんど真っ暗になります。
崖下には「チカンに注意」の黄色に赤字の看板。学習塾帰りの子女を狙う痴漢、高齢女性専門のひったくりが出る、というのもむべなる哉、です。
今朝撮影した梨の実です。数日では目に見えるような変化もありません。
そろそろ立秋です。
まだ夏は真っ盛りで、天候不順の今年はこれからもっともっと暑くなるだろうと思われますが、自然は秋の訪れを告げています。
そして、考えたところで何もならないのですが、毎年八月初旬を迎えると、私は生けるものの生死を強く感じて、ブルーな気持ちになります。
弱った玉虫を見たときもそうでしたが、この時期、マンションの雨水溝などで、ひっくり返って腹を見せている蝉(セミ)の死骸を見るからです。
死ぬ前の蝉は気がふれたような飛び方をします。ベランダの鉄柵にぶつかったり、庇にぶつかって叩き落とされたり……樹液など吸えないのに、金属製の樋に止まって啼いてみたり……。
数日前、勤め先の近くで木槿(ムクゲ)の枝に止まっている油蝉を見つけました。金属製の樋とは違って、樹液はあるかもしれないが、木槿に止まる蝉など聞いたことがない。おそらく静かに死を迎えようとしていたのでしょう。
今日、勤めを終えて帰るとき、途中にある梨の即売所のシャッターが上がっているのを見ました。まだ梨は置いてありませんでしたが、いよいよ開店のようです。
八朔、土曜日の朝は涼しい曇り空でした。
歩くのには絶好の陽気だったので、平將門の伝承を訪ねて我孫子に行くことにしました。
目的地が駅を挟んで南と北に別れているので、普段の散策なら二度に分けるところですが、我孫子市内といっても、我孫子で成田線に乗り換えて湖北という駅まで行くので、気軽にまた行こうといえるところではありません。一日で二日分を歩く覚悟で出かけました。
湖北は初めて降りる駅です。
プリントアウトして持ってきた地図を頼りに歩き始めましたが、どうも現実と地図とでは道の様子が違うようです。地図には載っていない昔からの農道があったり、逆のこともあるのでしょう。のっけから方向を見失って、なるようになれ、と闇雲に歩き始めました。
山歩きはしたことがありませんし、もしするとなれば、慎重に行動すると思いますが、こういうせっかちな性格が遭難を招くのかもしれません。
今回の散策の第一の目的地・將門神社です。
駅を降りてから三十分以上さまよったあとに見つけました。その苦労に比して、あまりのうら寂しさに少しガッカリしてしまったことは否めません。
鳥居の真下まで行かないと神額の文字も読めません。
天慶三年(940年)、平將門が戦没したとき、遺臣がその霊を携えて手賀沼を渡り、丘に上って日の出を拝したのがこの場所、という言い伝えがあるそうです。
明らかに私道と思われる畑道をさまよっていたとき、周りにいくつも見える林の中で、一つだけ下枝が取り払われて、見通しのよさそうな林があるのを怪しんで近づいてみたら、この神社でした。
前面からアプローチすると、入口を示す標識がありましたが、私は後ろから近づくことになったので、ただ一つの標識すらありませんでした。我ながらよくぞ行き着けたと思います。
將門神社を出たところで私を出迎えてくれた猫殿。
ニャーニャーと呼びかけてくれたあと、親愛の情を示す仕種-尻尾を真っ直ぐに立て、私の足許に寄ってきて脇腹をこすりつける-をして去って行きました。
思うに、將門神社の宮司だったのではないか。
訪う人も稀そうな神社を、よそ者の私が訪れたのを悦んで、親愛の情を示してくれたのでしょうか。社殿も社務所もないので、どこかの家に仮住まいをしているのだと思われます。
いまは住宅が建っているので見通しが効きませんが、將門神社は確かに丘の上にありました。遙か昔なら日の出が拝めたかもしれません。
緩い坂を下り、さらに少し急な坂を下ったところにある將門の井戸。右手の樹の根元に見える窪みがそれです。
承平二年(932年)、將門が開いて軍用に供した、との伝承があります。
真上に立って覗いてみましたが、いまは単なる水溜まりと化しています。
再び將門神社に戻って脇道を通り抜け、県立湖北高校の塀に沿って国道356号線を目指しました。
湖北高校内にある相馬郡衙正倉跡。
住居跡は縄文時代と推定されるものが8、弥生時代2、古墳時代188が発掘されています。建物跡は奈良・平安時代の54棟が遺っていて、相馬郡の役所跡だろうと考えられています。夏休み中で校門が閉じられており、中に入ることはできませんでした。
観音寺・通称日秀(ひびり)観音にある首曲(くびまがり)地蔵です。
承平・天慶の乱のとき、朝廷は高雄山神護寺の不動明王像とともに、寛朝という僧侶を坂東に遣わして、將門調伏を祈願させました。その不動明王が祀られているのが成田山新勝寺です。
將門ゆかりの地の人々はいまでも成田山には参詣しないといわれていますが、この地蔵様も成田(左方向)には顔を背けています。
国道356号線(旧成田みち)で偶然見つけた一里塚です。通称中峠(なかびょう)の一里塚。
中峠と書いて「なかびょう」と読むのは面白い。日秀という土地の名も、電柱の地名表示をところどころで見かけて、日蓮宗の坊さんのような名前だと思いながら歩いていましたが、「ひびり」と読ませるとは思いも寄りませんでした。
国道356号線沿いにある龍泉寺。
山門と本堂は上野寛永寺の塔頭の一つ・凌雲院の建築物を譲り受けたということです。三葉葵の釘隠がついていましたが、まだカメラの操作が飲み込めていない(ストロボを強制発光させることができなかった)ので、カメラのモニタではなんとか認識できるものの、パソコンに取り込み、さらにこのブログに取り込むと、ただ黒いだけ。よって釘隠の画像は割愛。
凌雲院は前回のブログ(梨と松平定信)で触れた一橋徳川家の菩提寺です。ただ、定信といろいろ因縁のあった二代目治済(はるさだ)は将軍の父となったので、同じ寛永寺内でも一橋家の墓所とは別に葬られることになったのです。
龍泉寺から十五分で曹洞宗法岩院。天文十一年(1542年)、芝原城主(中峠城とも)だった河村出羽守勝融が創建。
大施食会が開かれていました。
施食会とはアーナンダ尊者にまつわる施餓鬼のこと。曹洞宗では施餓鬼とはいわず、施食会と独自の呼び方をしています。一般的にはお盆の時期ですが、ここでは昨日一日に開かれていました。
地区ごとに分けられて並べられた卒塔婆の中から自家のものを見つけて、少し離れた国道356号線沿いにある墓所まで善男善女が携えて行きます。私が持っていたのは例によってわかりにくい地図だったので、この善男善女たちと行き会うことがなければ、法岩院は見つけられなかったかもしれません。
法岩院の裏手から徒歩数分、古利根沼に着きました。
かつての利根川の本流の跡で、いまでも千葉・茨城の県境です。対岸に見える丘は茨城県取手市です。
利根川はこの地域で「ひ」の字を描くように、急激に湾曲していたので、河川の氾濫が絶えませんでした。そこで、明治四十四年から始まった河川改修によって流路が直線化され、遺されたのがこの沼というわけです。
古利根公園自然観察の森。この中に芝原(中峠)城址があります。ちょうど陽が翳ったこともあり、森の中は自然のエアコンが効いて、鳥肌が立つほどの涼しさでした。
早くも蜩(ヒグラシ)の声を聴きました。
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