桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2017年四月の薬師詣で・つくば市(2)

2017年04月09日 22時42分02秒 | 薬師詣で

 四月の薬師詣での〈つづき〉です。



 標高461メートルの宝篋山も霧で煙っています。 




 公園を出ると、先ほど歩いたまっすぐな道が再び現われ、この道がなんであるのか、やっと得心が行きました。

 いつのことだったのか、はっきりとした記憶はありませんが、仕事で筑波山を訪ねたことがあります。
 土浦で、いまは廃線となってしまった筑波鉄道という列車に乗り換えました。この道はその線路の跡で、歩いてきた城址内には常陸小田という駅があったのです。

 庵に帰ってから調べてみると、筑波鉄道はちょうど三十年前の昭和六十二年に廃線になっているので、私がきたのはそれ以前、ということになります。

 遅れを取り戻そうという考えは、とっくになくしています。
 無人の原野を歩いているわけではなし、見渡せる範囲に家はなくても、少し歩けばあるはず。
 田園地帯を突っ切って、薬師堂のある千光寺を目指します。




 この先、霞ヶ浦に注ぐ桜川を渡ります。画像奥が下流。



 桜川を渡ったあと、田んぼ径を歩かなければならないのは覚悟していましたが、畦道だったとは予想外でした。
「いやぁ~、こんな径かよォ」とガックリし、もともと遅れている行程は今後どうなることかと再び諦め直しました。

 直前まで雨がショボショボと降ったあとなので、轍を踏み損なうと、濡れた草で靴底を滑らせてしまいそうです。
 こんなところですっ転んで、たまたま小石に後頭部を打ちつけたりすれば絶命か、などと考えつつ、遺体が発見されたときは、身分証明書のたぐいは持ってきていないけれども、財布に銀行のキャッシュカードやクレジットカードがあるので、やがて身元は判明するだろうか、などと考えながら歩いています。




 畦道らしき径を歩かされたのは一区画だけで、あとはアスファルト舗装された径になりました。ヤレヤレです。
 このあと、目的の千光寺がある大曽根という集落に着くまで、軽トラ一台が私を追い越して行き、二台とすれ違った以外に人影は見ませんせした。
 人家もありません。建物はありますが、農機具の小屋だったり、肥料置き場だったりして、人がいる気配はありません。

 田んぼ地帯を抜け出て、前方の小高い丘の上に寺らしい伽藍が見えると、やっと人家が見えるようになりました。
 立ち止まって地図を取り出します。見える伽藍は浄土真宗の常福寺のようです。
 田んぼが終わると、上り坂になります。




 坂を上って行く途中にありました。農業用水の溜池のようです。堰の向こうが私の歩いてきた田んぼ地帯です。

 常福寺には背後から近づいたようですが、坂を上り切る寸前に脇から境内に入ることができました。



 浄土真宗大谷派(東本願寺派)の常福寺。
 開山は親鸞聖人二十四輩十八番の入信。出家前は常陸国那珂郡久慈(現・常陸大宮市)の領主だった八田五郎知朝という人です。親鸞の弟子となり、専修念仏の奥義を授けられ、入信という法号を授けられました。寺は健保四年(1216年)、久慈に建立されましたが、天文十年(1541年)、現在地に移転しました。


 
 

 常福寺から三分、やっと千光寺門前に着きました。
 門前に到ったときは、事前のシミュレーションから遅れに遅れること五十三分。
 これまでの薬師詣でではバスの便が一時間に一本どころか、一日に数本という、綱渡りのようなところをしばしば訪れています。当然、目算が狂って、帰りのバスを逃してしまった、という経験もありますが、幸いにして、少し頑張って歩けば、鉄道の駅がある、というところでした。
 ところが、このあたりは最寄りの駅からはかなり離れています。万策尽きた、というときはタクシーを、とも考えますが、これまでの例でいうと、バス便のないところは総じて流しのタクシーも通らないものです。
 どうするか……頭を巡らせるのはあとにして、この日、最後の薬師詣でです。




 参道を進むと、正面に目的の薬師堂がありました。




 天台宗の寺です。開祖は比叡山天台座主三世の円仁・慈覚大師。大師は貞観四年(862年)、宝筐山中で千手の法を修め、中腹に建てた草庵がこの寺の始まりといわれます。
 建仁元年(1201年)、小田家の祖である八田知家が宝筐山麓の石崎(現・土浦市小高)に再建し、小田家代々の祈願所としました。その後、兵火によって焼失。天正十四年(1586年)、現在地に再建されました。




 常福寺から千光寺を目指して歩いていたとき、左手に小径があり、奥に御堂があるのが見えたので、千光寺参拝を終えたあと、訪ねてみました。



 何年か前まではここに説明板が掲げられていたのでしょう。鉄枠だけが残されています。



「つくば市教育委員会」と読み取れる標識は朽ち果てて横倒しにされたまま、捨て置かれています。屋根の形からして薬師堂のようですが、帰って調べてみるまではわかりません。

 今日、巡るべきところは、これにて巡り終えたということになりましたが、乗る予定にしていたバスの時間から、すでに一時間以上も遅れています。乗れない、ということは想定していなかったので、次のバスの時間をメモしていませんでした。ここから先の地図も用意していません。

 しかし、大きな通りに出れば、別の系統のバスが走っているのに違いない、と考えたので、アテもなくテクテクと歩いたら、幸い学園東大通りという大きな通りに出ました。




 薬師堂から三十分ほど歩いたころ、バス停の標識は見えませんでしたが、青年が一人立っているのが見えたので、バス停があるのではないかと急いでみると、花畑というバス停があり、ありがたいことに四~五分待つだけでバスがやってくるようでした。
 私が着いてしばらくすると、一組の男女もやってきました。


 バスが発車するとすぐ「次は終点つくばセンターです」というアナウンスが流れました。「な~んだ、あと一駅なら歩けばよかった」と思ったのですが、走り出したバスはなかなか終点に着く気配がなく、ブンブン飛ばします。オヤオヤと思っているうち、十分以上走って、ようやく終点に着きました。
 

 庵に帰ったあと、インターネットで調べて識るのですが、つくば市内には電車でいうと、特急や急行に当たるシャトルバスというのがあるのです。歩いていると、ところどころにバス停はあったのですが、シャトルバスは決まったところしか停まらない。たまたまシャトルバスが停まるところでバス停を見つけることができたわけです。
 知らずに歩いていれば、悠に一時間はかかったはずです。
 三十分も歩く羽目になったけれども、たまたまバス停に出会い、しかも待つこと数分でバスがきた、というのは薬師如来のお陰だったのではないか、と思った次第です。



 帰りは先月と同じTXのつくば駅から。

この日、歩いたところ

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2017年四月の薬師詣で・つくば市(1)

2017年04月09日 05時43分58秒 | 薬師詣で

 前日まで、今日八日の天気予報は終日曇でした。ところが、朝、目覚めてみると、雨でした。
 先月につづいて、つくば市を探訪するつもりでしたが、十一時ごろまでに雨が熄まなければ、予定を変更することにして、時が経つのを待ちました。今回は途中で田園地帯を横切るルートを設定していたので、雨に祟られたら、とても歩けないと思ったのです。




 十時半過ぎに雨が熄んだので、予定どおりつくば市を歩くことにして出発。電車に乗る前に地元の慶林寺に参拝して行きます。



 本堂に掲げられていた標語は道元禅師の「典座教訓」から「三心」。
 五十歳を迎えるころまで、道元禅師の著作はよく勉強したつもりですが、最近はすっかりご無沙汰です。




 先月につづいて今月もつくば市を訪れることになりましたが、先月はつくばエクスプレスのつくば駅から出発したのに、今月は常磐線の土浦駅です。

 駅を出ると、松戸では熄んでいた雨が降っていました。
 霧雨のような細かい雨ですが、熄むことなく降りつづいています。ここまできてしまっては、雨だからといって取りやめにするわけにはいきません。




 土浦駅西口から筑波山へ行くバスに乗り、二十分以上揺られて、小田というバス停で降りました。バスに乗っている間に雨は熄んでいました。

 

 今回は結構歩きでのあるコースを設定したので、事前にインターネットのルート検索を使って、大まかな所要時間をシュミレーションしておきました。

 この小田バス停から歩き始めて、最寄りの延壽院薬師堂に参拝。
 近隣にある二か寺を訪ねたあと、小田城址を抜けて、大曽根の千光寺薬師堂に参拝。
 そこからつくばエクスプレスのつくば駅に出るバス便のある大穂窓口センターに到るまで、計一時間十七分と算定しました。

 しかし、土地勘のない人間が立てた計画には最初から狂いが生じました。
 バスが土浦市街を抜けるまでに渋滞があったりして、小田に着いたときは五分遅れでした。

 五分程度の遅れ ― 。
 バスを降りたときには意に介していなかったのですが、この五分遅れがボクシングのボディブロウのように、あとあと効いてくるのです。しかし、この時点では私はまだノンシャランと歩いています。




 小田バス停から五分で延寿院薬師堂に着きました。
 事前のシュミレーションではバス停からは所要二分でした。バスの遅れに加えて、すでに八分の誤差が出ています。
 もともとは石上寺という寺院でした。いまでは廃寺となって、薬師堂だけが残されています。納められている薬師如来は坐像で、室町時代の作とされていますが、扉が閉ざされているので、どんな仏様なのか窺い知ることはできません。

 昭和三十年、旧小田村が周辺の町村と合併して筑波町が誕生するまで、この場所には小田村の村役場が置かれていたそうです


 延寿院薬師堂をあとに、次の勝龍寺に向かいます。
 途中、真っ直ぐ延びる道に出ました。このときはいやに真っ直ぐな径があるもんだ、と感じただけで、これが何を示すのか、深く考えませんでした。

 地図では、この道は撮影した地点の手前で、次に訪ねる勝龍寺に接しています。確かに寺の背後を見ながら歩いてきました。ただ、入口は自転車の記号があるところを左に曲がったところにしかありません。シュミレーションでは、実際には入れないのに、地図では接しているから入ることができる、と理解しますから、五分だった遅れは十分以上に広がっています。



 勝竜寺に着きました。

 


 曹洞宗の寺院です。本尊は釈迦如来。八脚楼門の上層には十六羅漢像が安置されています。開山の年代は詳らかでありませんが、本堂は享保九年(1724年)の建立です。



 我が宗門(曹洞宗)のお寺なので、歴住の墓所に参拝して行くことにします。


 

「→天満宮」の案内板。この天満宮には寄りませんでしたが、街の到るところには案内板が完備しています。それなのに、遅れをとるとはなんぞや。

 

 長久寺。真言宗醍醐派のお寺です。
 長禄三年(1459年)、那珂郡小場村(現在の常陸大宮市)に開山。小場氏が小田に移るのに合わせて慶長五年(1600年)、現在地に移転。画像下は近くにあった極楽寺から移設したとみられる鎌倉時代の石灯籠です。


 

 かつての武家屋敷そのままか、と思わせるような門や蔵がありました。
 
勝竜寺から長久寺、そしてこのあたりは、あとで訪れる小田城の旗本屋敷があったところです。



 小田の街を巡り終えて、やっと小田城址にやってきました。
 寸前で、こんなロボットを連れた三人連れの一行に遭遇して、声をかけられました。ユニセフか何かの募金要請であれば、シカとして通り過ぎるところですが、TVのニュースやCMで視たことはあっても、実物を見るのは初めてだったし、この日の行程はすでに遅れが生じていたので、ここをスルーして急いでも……と、なかば諦めの気持ちも生じ始めていました。
 ロボットの名はタロウくん。
「あなたの宝物はなんですか」と質問を投げかけられたときに、何か不具合が起きたらしく、タロウくんがガックリと前に倒れ、「何をするんですか!」と詰問されました。
 私は何もしていません。

 三人はタロウくんの肩に手をかけたりしてガタガタやっていましたが、「うーむ、どうもこれ以上はだめですね」ということで、タロウくんとお別れ。

 タロウくんと出会ったときは二十三分遅れでしたが、別れたときには三十分遅れとなっていました。
 小田城址に足を踏み入れます。

 この城が築かれたのは、いまから九百三十年も前、平安時代末期の文治元年(1185年)です。
 それから南北朝時代、戦国時代とずっと小田氏が治めてきましたが、天正元年(1573年)、手這坂の戦いで小田氏が佐竹氏に敗れて佐竹氏のものに。二十九年後の慶長七年、関ケ原の戦いで徳川方に与力しなかった佐竹氏が秋田に移封されるのにともなって廃城となりました。


 

 私が携帯してきた地図には、この城址公園を斜めに縦断する形で、真っ直ぐな道らしき線が引いてあります。
 城址を出てから気づくことになるのですが、旧筑波鉄道の跡です。

 どこかに見取り図があると思うのですが、見晴かす平らに均された土地があるだけです。
〈つづく〉

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