東漸寺の紅葉を見に行ってきました。
午後の木漏れ日が絵画のような景観を生み出していたので、レンブラントを気どってカメラを向けてみました。
いっぱいの陽射しを浴びた紅葉。
仁王門と紅葉。
鐘楼塔と紅葉。
併設された幼稚園の園児たちが境内を駆け抜けて行きました。右手にある本堂の後ろに広場があるので、そこで何かの催しがあったのでしょう。
去年のいまごろ、この樹の下は黄色い絨毯を敷いたようでしたが、今年はまだ落葉が始まっていません。
観音堂の屋根越しに眺めるイチョウ(公孫樹)の紅葉。
この観音堂の屋根を入れたアングルは東漸寺の風景の中で、私の一番のお気に入りです。
帰りは少し寄り道をして、ムクロジ(無患子)の様子を見に行きました。
たわわに実が実っていました。
本土寺の紅葉の様子も見に行ってみましょう。
参道入口の葛餅屋さん。
本土寺仁王門横の紅葉。
仁王門から見下ろした参道です。
池之端散策の〈つづき〉です。
台東区と文京区の区域が入り組んだあたりを歩いています。
日蓮宗妙顕寺。
創建年代は不詳ですが、日調上人(正保元年=1644年寂)による開基と伝えられ、浮世絵師・鳥居清信(1664年-1729年)の墓があります。
休昌院。臨済宗妙心寺派。
明暦元年(1655年)、本郷丸山(現在の本郷五丁目あたり)に創建、寛文七年(1667年)、当地へ移転しました。
何を商う店なのかと覗いてみたら……刷毛屋さんでした。
浄土真宗大谷派忠綱寺。
武蔵野本(現・東松山市)藩主・渡邉吉綱が神田台に創建。
寺名の忠綱とは徳川家康の家臣で、「鎗の半蔵」と呼ばれた渡邉半蔵守綱の孫・忠綱のことです。忠綱は二十歳という若さで死んで、弟の吉綱があとを継ぐことになります。その吉綱が寛永元年(1624年)、神田台に渡邉院忠綱寺と名を冠して創建したのがこの寺です。火災で焼失し、寛永八年、当地へ移転。
「渡邉」という表札が掲げられていたので、ご住職は末裔なのかもしれません。
真言宗霊雲寺派妙極院。
元禄十一年(1698年)、霊雲寺の開山・浄厳和尚が霊雲寺塔頭として当地に創建しました。
この妙極院をもって、池之端の寺巡りは終わりました。
ここからは番外です。
すぐ近くに江戸時代の儒学者・太宰春台(1680年-1747年)のお墓があるので、お参りして行きます。
妙極院前を過ぎてなおも行くと、南西から北東に走る広い通りに出ます。言問通りです。その言問通りを右折するとすぐ不忍通りとの交差点・根津一丁目。道はそこから緩い上り坂になります。
この坂は善光寺坂(信濃坂)と呼ばれていますが、名の元となった善光寺はいまはありません。元禄十六年(1703年)の大火で焼け、現在の青山に移転してしまったからです。しかし坂の名前だけ残りました。
臨済宗妙心寺派天眼寺。ここに太宰春台の墓があります。
起立は延宝六年(1678年)、開基は松平忠弘夫人・天眼寺殿慈光性輪尼大姉(肥後熊本藩初代藩主・細川忠利娘)。奥平松平家(忍藩)の菩提寺です。
太宰春台の墓です。
山門横にあった掲示板には、墓は円頭角柱形で高さ1・32メートルと表示されていたのですが、墓石が林立する中に入ると、そういうサゼッションだけでは見つけられません。墓石横に木柱一本でいいから建てておいてくれればいいのに、と感じたのですが……。
根津一丁目の交差点から坂を150メートルほど上っただけなのに、いつの間にかまた台東区に入っていて、天眼寺があるのは台東区谷中です。
名にしおう寺町の谷中です。言問通りを向こう側に渡り、坂を上って行けば、玉林寺、信行寺、妙情寺、上聖寺、本光寺……。天眼寺前の小径に入って行くと、本壽寺、瑞松院、臨江寺……と、谷中地区には全部で七十以上の寺があるのですから、とても「ついで」気分では歩けません。今日は天眼寺だけで引き揚げることにします。
番外ついでに根津神社へ行ってみることにしました。
根津神社の門前(南側)には明治の初めまで色街がありました。
そのせいでしょうか、こんな細い路地が残っていたりします。こういう路地をわざと選んで通り抜けてみます。
通り抜けると表具屋さんがありました。まさか江戸時代、ということはないでしょうが、充分に時代物らしい家作です。
天眼寺から8分で根津神社に着きました。右が神社の表参道口、左に上って行くのは権現坂(新坂、S坂とも)。この坂は森鷗外の「青年」に登場します。
楼門。
いまから千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建しています。
五代将軍・徳川綱吉は世継と定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より遷座しました。
唐門と透塀(すかしべい)。ともに国の重要文化財です。
透塀とは社殿を囲む塀のことで、総延長は200メートルにも及びます。格子を通して向こう側が見えることからその名がつけられました。
社殿。これも国の重要文化財。祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命。
乙女稲荷(祭神は倉稲魂命)の千本鳥居。
家宣公胞衣塚(えなづか)。江戸幕府六代将軍・家宣(綱吉の養嗣子)の胎盤が納められているそうです。
帰りは根津駅に出ました。
高校生の下校時間に当たっていて、電車は混んでいましたが、幸い坐ることができました。これまでの例だと、亀有でかなり空き、松戸でさらに空くのですが、この日は降りる人の数は大体いつもどおりでも、乗ってくる人が多く、松戸を出るときでも、立っている人が多く見られました。
→この日、歩いたところ(麟祥院から根津駅まで)。
九月なかば、リンパ関係の検査を受けるために短期間入院しました。
結果は万々歳とはゆかぬまでも、非常に遅速ではあるが、佳い方向に向かっているようだ、というので、それまで四週間に一度だった通院が八週間に一度ということになりました。
通院する曜日も、担当医の勤務日が十月から火曜日に変わる(それまでは木曜日)ので、変更になりました。
変更後、二十二日が初めての通院となりました。とくに変わった症状が出てこない限り、八週間に一度のペースで通院をつづけなければならないものの、問診と薬の処方だけ、ということのようです。
湯島へ通院するようになって、春日局の菩提寺である麟祥院前を通るようになっていました。前を通るとはいっても、私が通う道は春日通りという交通量の多い道で、湯島駅を背にすると、左側にある歩道を行き来します。
麟祥院があるのは右側ですから、道路越し車越しに眺めるだけでしたが、完治したわけではなし、治る見込みも遥か先というわけですが、どうやらこれ以上悪くはならないというご託宣を受けたのと同然という気がして、気分は晴れやか。帰りに寄ってみる気になりました。
麟祥院は東洋大学発祥の地でもあります。
明治二十年(1887年)、仏教哲学者だった井上円了(1858年-1919年)が私立哲学館を創設。 哲学館大学の名称を経て、明治三十九年(1906年)、東洋大学と改称。
春日通りには、湯島天神で菊まつりが開かれている、という幟が出ていました。まつりがあるのは、私が歩いていた翌日(勤労感謝の日)まで、と出ていたので、麟祥院を出たあと、再び春日通りを渡り、社殿裏の夫婦坂を上って境内に入りました。
今年のNHKの大河ドラマ「江」にあやかった菊人形もあったらしいのですが、見る気はありませんでした。本当のことをいうと、近道をするつもりで境内を横切るのが目的であったので、菊まつりには関わりがなかったのです。
気分の晴れやかついでに、東京都の区分地図を鞄に忍ばせていたこともあり、かねてから考えていた池之端界隈のお寺巡りをするか、という気になったのです。その手始めに湯島天神男坂下にある心城院に行くことにして、天神様の境内を横切ったのです。
湯島天神の男坂。
長いこと高い石段があるような街で暮らすことがなかったので、いつからとは不分明ながら、高所恐怖症になっていたことに気づきませんでした。
さほど高いとは思えぬこの石段でも、私は上り下りすることができません。画像右手・石段下に降りてくる女坂を利用します。
男坂の下、坂に向かって右手にある天台宗心城院。
浄土真宗大谷派の寺院・福成寺までは、心城院から再び春日通りを横断して350メートルほどです。
教證寺は福成寺の隣。50メートルも離れていません。ここも浄土真宗大谷派の寺院。
岩崎庭園前を通過。
この坂は無縁坂。この日、私が歩いていたあたりは台東区と文京区が入り組んだ土地です。坂の左側(旧岩崎庭園)は台東区池之端、右側は文京区湯島です。
グレープのヒット曲の題名でもあります。グレープ解散後、さだまさし自身もカバーし、ほかにも森昌子、水森かおりなどがカバーしていますが、私のイチ押しは中森明菜バージョン。
無縁坂を100メートルばかり上ると、右手に浄土宗・講安寺があります。慶長十一年(1606年)、湯島天神下に創建され、元和二年(1616年)に現在地に移転しました。
本堂は外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りです。江戸幕府十一代将軍・家斉の息女溶姫の生母であるお美代の方は、明治五年(年)、七十七歳の生涯を終えるまで講安寺に住んでいたそうです。
浄土宗稱仰院。連絡は根岸にある安楽寺へ、という貼り紙があるので、無住のようでした。
先の講安寺とこの稱仰院があるのは台東区池之端ではなく、文京区湯島。
宗賢寺(上)、覚性寺(下)。いずれも日蓮宗の寺院です。
数ある祖師方の中で、日蓮さんだけは好きになれず、興味も懐けぬ私は境内には入らず、参拝もせず、失敬します。宗賢寺は元和五年(1619年)の創建。覚性寺は寛永八年(1631年)。
臨済宗妙心寺派・東淵寺寛永七年(1630年)の創建。
大正寺。ここも日蓮宗の寺ですが、お寺に参るのではなく、お墓参りをするのだから、と屁理屈をつけて中に入らせてもらいます。草庵として創建されたのは慶長九年(1604年)。
誰のお墓参りかというと、幕末期の幕府勘定奉行だった川路聖謨(としあきら=1801年-68年)さんと妻・佐登子さんのお墓です。
臨済宗妙心寺派正慶寺。寛永七年(1630年)の創建。
正慶寺にある北村季吟(1625年-1705年)の墓。
季吟は近江国(現在の滋賀県野洲市)の生まれ。
〈池之端散策(2)につづく〉
亀有を歩く〈つづき〉です。
中川大橋(橋長134・4メートル)で中川を渡ります。
延命寺から四分ほどで日枝神社前を通りかかりました。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。永禄二年(1559年)ごろの創建と伝えられています。
日枝神社から三分で西念寺(浄土宗)。文安五年(1448年)、浄円という僧侶が結んだ草庵を起源とし、天文元年(1532年)、覚蓮社法誉が寺院として創建したと伝えられています。
四分で浄土宗・浄心寺。慶長十九年(1619年)、廓蓮社然誉潮呑和尚が開山、明呑が開基となって創建。江戸時代には両国回向院(墨田区)、小塚原回向院(荒川区)の住持の隠居寺であったということです。
浄心寺から三分で差しかかったのは馬頭観音堂です。傍らに建てられた故事来歴の碑には、このあたりはかつての馬捨場で、死んだ牛馬を供養するための馬頭観音像を安置する馬頭観音堂が正徳元年(1711年)に建立された、という旨の碑文が刻まれていました。
このあたりは葛飾区新宿(にいじゅく)です。「宿」の字が残っているように、江戸時代は水戸街道の宿場町であり、馬の乗継場でもあり、成田街道の分岐点でもありました。
明治になって鉄道敷設の時代を迎えると、地域の人々は数々の利権を巡って駅の設置に反対。結果、街は繁栄から取り残されることになりますが、それは吉であったか、凶であったか。こういう話はいろんなところにあります。
馬頭観音堂から五分で浄土宗・慶圓寺。
伝えられるところによると、近在の五郎右衛門という農夫が畑から阿弥陀像を掘り出したので、草庵を建てて、像を安置することになった。そして夫婦揃って下総国飯沼(現・茨城県常総市)弘経寺の南誉雪念(のちに増上寺二十世)の下で出家し、五郎右衛門は林誉慶円と号し、妻は円誉秀清となって草庵に住むことになったが、後年、師の南誉に乞うて一寺となしたので、慶円寺と号することになったということです。
画像下は南誉雪念の碑。
慶圓寺から五分で立増寺(日蓮宗)。永正年間(1504年-21年)の創建。
真言宗豊山派の宝蓮寺。立増寺からはすぐ近くに伽藍が見えるのですが、まっすぐ通じる道がないので、100メートル以上歩かなければなりませんでした。
元文四年(1739年)の「正福寺惣門末起立録」には、創建は天文元年(1532年)、開基は栄源としていますが、「新編武蔵風土記稿」では「天文元年、栄源ト云僧、中興セリ。是今ノ法流ノ祖ナリ」といっているので、天文元年以前に寺があったということになります。ただ本尊は両方とも不動明王としています。「新編武蔵風土記稿」には行基作と伝わる像を安置する薬師堂があり、さらに当時の門末として、大日如来を本尊とする山王山鏡智院が存した、と記されています。現在の本尊は薬師三尊です。
中川橋東詰にある椨(タブ)の木のモニュメント。周辺はかつては旧水戸街道・新宿の渡しがあったところです。
説明板の右下にはかつてあった椨の木の画像があります。
宝蓮寺から中川を渡り直し、七分ほど歩くと環七通りの交差点(亀有二丁目)に出ました。そこを右折すると、すぐに光明寺があります。真言宗豊山派の寺院で、慶長元年(1596年)の創立。天明六年(1786年)と寛政七年(1795年)の洪水で記録を失っているので、その由緒は不明ということです。
環七通りを亀有駅に向かって行くと、光明寺から100メートルも離れていないところに亀有香取神社への入口がありました。
ここにも両津勘吉の像がありました。神社をあとにすれば、亀有駅はすぐ近くです。
→この日後半の行程です(延命寺から亀有駅まで)。
所用があって亀有へ行ったので、所用を終えたあと、近辺を歩いてみました。
亀有駅北口から出発します。
亀有駅北口には「こち亀」の両津勘吉像が建っていました。南口にもあるみたいです。
常磐線に沿って松戸方向へ歩き、環七通りを越えると、曹洞宗の見性寺があります。亀有駅からは五分もかかりませんでした。
境内の宝篋塔。
左に建つ説明板には屋蓋を宝形屋根形としている点で、中世以降普及した宝篋印塔とは異なっているゆえに、区内では貴重なもの、と記されていますが、インターネットで調べた限りでは、どこがどのように違っていて貴重なのか、私にはよくわかりません。
我が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝して、次の西光院に向かいます。途中で葛飾区と足立区の区境を越して行きます。
約九分で西光院(新義真言宗)に到着。江戸時代初期の創建。
西光院の手前にあった長門鎮守八幡神社。創建年代は不詳。祭神は誉田別尊。
長門鎮守八幡神社から五分足らずで曹洞宗・正法庵(しょうぼうあん)に着きました。元禄年間(1688年-1704年)の創建。
ここも我が宗派のお寺だったのに、ほかに気を取られるようなことがあったのかどうか、歴住の墓への参拝を忘れてしまいました。
正法庵から五分足らずで善應寺(浄土宗)に到着。
はじめに念仏堂のようなものがあったのを、天正年間(1573年-92年)に廓誉理順という僧侶が一寺となした、と伝えられています。
次の恵明寺は足立区から再び葛飾区に戻り、常磐線のガードをくぐって南側に出なければなりません。善應寺からは十分かかりました。
この寺の過去帳の奥書および亀有村旧名主矢沢家文書には、弘安元年(1278年)の開山とある一方、「新編武蔵風土記稿」にはその二年前、建治二年(1276年)の起立とあります。近年まで御成門という萱葺きの門が残っていたということですが、いまはありません。
恵明寺の門前はかつて参道だったのだろうという名残があります。温かそうな陽を浴びて昼寝をしていた犬殿。
恵明寺から五分で真言宗豊山派・慈眼寺。
「新編武蔵風土記稿」によれば、天正四年(1576年)開山。過去数回にわたる洪水に見舞われて、記録散逸。よってその他の由緒は不明。
これはなんのポスターなのかよくわかりませんが、とにもかくにも亀有というところは到るところに両津勘吉がいる街です。
恵明寺から三分で香念寺。浄誉(寛永二十一年=1644年寂)が開山、亀有村の市郎左衛門が開基となって創建したと伝えられています。
石蕗(ツワブキ)の花叢がありました。
臨済宗円覚寺派の祥雲寺。
慈眼寺とは道一本挟んで隣り合わせにあったのですが、私は画像では左にある道を歩いており、この堂宇を目に入れるのには行き過ぎて振り返らねばならなかったので、一度は素通りしてしまいました。周辺をグルグル巡ったあと、やっと見つけました。
宝持院。
祥雲寺を捜し当てるのに手間取ったので、少し廻り道をしました。廻り道をしていなければ、香念寺から八分ほどで歩ける距離でした。
延命寺。嘉応元年(1169年)開山の新義真言宗寺院。宝持院から五分足らず。
本尊は地蔵菩薩ですが、鎌倉時代後期の武将・青砥藤綱(生没年不詳)の守り本尊であった摩怛梨天(またりてん)を祀っていることで、「青砥のやくじん様」として有名。
青砥藤綱という人に関しては次のような逸話が残されています。
北条時頼(鎌倉幕府五代執権)が鶴岡八幡宮に参拝した夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉という位を授け、引付衆とした。引付衆とは鎌倉幕府初期は有力御家人が任じられるという。御家人ではなかった藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な答えに大いに感じ入ったということです。
二十一仏庚申塔。
延命寺を出て、中川を渡ります。〈つづく〉
➡この日、歩いたところ。亀有駅から延命寺まで。
本土寺の御会式の季節になりました。
東漸寺を出発し、常磐線の北小金駅を挟んで、本土寺参道を練り歩きます。
練り行列は去年見ていますが、見逃してしまったのは出発するところです。今年こそ、と思っていながら、毎年ハッと気づいたときには出発の時刻を過ぎています。特別変わったことがあるとは思えませんが、うっかり時間を過ごしていて、今年も見ることは叶いませんでした。
大袈裟にいえば、なんだか自分のこれまでの人生を象徴しているようです。
笛や鉦の音を追いかけて行ったら、北小金駅南口のロータリーで追いつきました。
子どもたちの行進。これぐらいの年ごろの子どもたちを見かけると、早世してしまった我が子を思い出して、いつも涙をにじませてしまいます。
半纏の背中に染め抜かれた文字から推測するに、わざわざ台東区からお出ましくださったようです。
本土寺の仁王門前に先回りしてしばらく待っていましたが、聞こえてくるはずの笛や太鼓の音がしない。どこか予期しなかった方向へ曲がって行ってしまったのか、目指すのは本土寺のはずだから、そんなことはあるまいと参道を駅のほうに向かったら、途中にある駐車場で休憩タイムでした。
このあとの行程は去年も見ているので、今年はここで切り上げ。
本土寺裏の石段を下り、富士川を越えて寶蔵院へ行ってみることにしました。
秋色の濃くなった富士川土手に映るスノーマン(自分)のシルエットです。
晩秋も近いというのに、まだ咲いている紫陽花(アジサイ)がありました。
昨日は立冬でもあり、恒例の薬師詣での日でもありました。
市川市の下総国分寺へ行ってきました。
下総国分寺は去年八月に訪問しています。しかし、当時は薬師詣でをしようという考えはなかったので、このお寺の本尊が薬師如来だとは知りませんでした。
ふと全国にある(あった)国分寺の本尊はどんな感じなのであろうと思って調べたところ、薬師如来を本尊としている寺が圧倒的に多いことがわかりました。
国府台(こうのだい)公園の中にある下総総社の跡。
総社跡から坂を下り、また坂を上って徒歩九分。国分尼寺跡に着きました。
公園になっていますが、公園、というより草がきれいに刈り取られた空き地という風情です。
国分寺の裏手では考古博物館の発掘調査が行なわれていました。
国分尼寺跡から七分で国分寺に着きました。天平十三年(741年)の建立。
境内に掲げられた見取り図です。
国分寺本堂です。
細い径を挟んで国分寺の東隣にある宝珠院(真言宗豊山派)。元和七年(1621年)の創建。ここも本尊は薬師如来です。
子育て地蔵。
前回きたときも、どのようないわれでこの大きな薬缶があるのかと思いましたが、寺の人らしき人影がないので、知りようがありません。
中央の黒っぽい水の中で眠っているのはオオガハス(大賀蓮)だそうです。
龍珠院(真言宗豊山派)。享保三年(1718年)の創建。前回参拝しているので、今回は山門から写真を撮っただけで門前を通過。
臨済宗大徳寺派竺園寺。長享二年(1488年)の開基。
いったん国府台の台地を降りて真間川を見に行きました。
再び台地を上って帰路に就きました。下ると蓴菜(じゅんさい)池があります。
根本寺(真言宗豊山派)。寛延三年(1750年)の開創。
即随寺(浄土真宗大谷派)。寛永三年(1626年)の創建。昭和三、年浅草北清島町から現在地に移転。
浄土宗西棲院。元禄八年(1688年)、浅草に創建、本郷への移転を経て墨田区太平へ移転。関東大震災で被災し、昭和三年、現在地へ移転。
中原寺(浄土真宗本願寺派)。古くは天台宗で、甲斐国山梨郡牛奥村に一寺を建立したことに始まります。昭和二十二年、現在地に移転。
帰りは松戸街道に出て、松戸駅西口行のバスに乗りました。
今朝は雨だったので、朝の散策は中止。午前中は外に出なかったので、気づかないことがありました。
午後、雨は上がり、しばらく降りそうもない空模様だったので、買い物に外出。玄関のドアを開けて、初めて気がつきました。
玄関の真ん前に植えてあるツワブキ(石蕗)の花が咲いたのです。
数日前から蕾をつけた茎が伸び始め、日に日に伸びてヒョローンとなって行くのですが、蕾は硬いままで、咲く気配を一向に見せませんでした。
霧の濃い日だったので、遠望がどれほど効かないかと思い、我が庵近くでは最も見晴らしのよい、常磐線の跨線橋に上がってみました。画像奥が柏(下り)方面です。確かに遠望は効きません。
昨五日から本土寺の参道入口には老舗葛餅屋さんの臨時売店が店を開けました。
雨模様でもあり、紅葉狩りらしき行楽客の姿は皆無。
雨だから、紅葉狩りの客はまだこないと踏んだのか、本土寺仁王門前の土産物店・黒門家(上)、赤門家と両方ともシャッターを下ろしていました。
仁王門まで歩いてみても、カエデ(楓)の紅葉はまだまだでした。
Very Very 久しぶりのブログの更新です。
また体調を崩して瀕死の白鳥状態であったのかというと、左にあらず。
九月中こそ暑さに負けて体調の思わしくない日もありましたが、十月に入ってからはおおむね快調。近辺の散歩も、月々八日の薬師詣でも、そつなくこなしておりましたが、ブログを更新できない事情があったのです。
なんと一か月の間、インターネットは切断されたままでした。なにゆえにそんな事態を招いたかは日を改めて……。