桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

萬福寺と少林寺へ

2011年01月25日 10時43分17秒 | 寺社散策

 寒い日がつづいています。寒さにつれて、散策で歩く距離も減少気味です。
 先週は土浦へ行って、久しぶりに長時間歩いたという気分になりましたが、さほど広い街ではないので、思ったほど歩いてはいませんでした。

 日曜日はラグビートップリーグのプレーオフ準決勝戦がありました。私の応援するトヨタ自動車が三洋電機と対戦するので、じつにじつに久しぶりに秩父宮まで観戦に赴こうかと思ったのですが、出かけるかどうするかと思っていたときにテレビで視た天気予報は東京も千葉も午後からずっと曇。

 風邪はすっかり治ったという状況ではないし、曇って吹きっさらしのスタンドに一時間半も坐っていた日にはどうなることかと考えた末、行くのを諦めました。
 ところが、試合が始まろうという午後二時になっても、お日様が隠れる気配はない。
 こんなことなら行ったのに……と、切歯扼腕しても、常日頃天気予報は信じるに値しないと決めていながら、まさか二~三時間後の予報が外れることはなかろう、と思ったのは自分なのですから仕方がない。

 観戦は取りやめたけれども、東京まで行こうと思い立ったぐらいですから、体調はいいほうでした。代わりに、少し遠目の散策をしようと思い、柏の地図を拡げました。
 先だって電車に乗って訪ねた増尾城址の近くに萬福寺と少林寺というお寺があるのを見つけました。歩いて行くとすると、少しホネのある距離ですが、疲れを感じるようなら中断すればいいと思って出かけることにしました。幸い風もないようです。

 いつものように前ヶ崎の香取神社に寄って小春に餌を置き、そこから根木内歴史公園を抜けて旧水戸街道に出ます。



 根木内歴史公園の沼地は氷が張ったままでした。ここは夕方、陽が落ちる直前しか太陽が当たりません。

 


 マツモトキヨシ中新宿店前で旧水戸街道とは別れて右折します。下の画像はマツモトキヨシの直前、私が蜜柑をいただいた行念寺です。

 


 マツモトキヨシ前から200メートルほどのところに富士浅間神社がありました。
 拝殿への石段を上って行くと、新松戸にいたコツブに似た白と薄い茶色の端正な猫殿がいたので、餌を置いたのですが、逃げられてしまいました。

 


 去年九月、富士川の水源を探索したとき、支流を本流だと勘違いして歩き、わけがわからなくなって、さまよい出たところです。
 場所が違うので、道路の様子などが地図と合致するはずもなかったのですが、そうとは知らぬ私は狐に摘まれたような気持ちで坂を上って行き、グルッと大回りをして下の画像のところに出てきました。
 上の画像の地点から下の地点までは100メートル離れているだけですが、上り坂になっている上にカーブしているので、見通しが利きません。仮に見通しが利いたとしても、初めてでしたから、先ほど通ったところだとは気づくはずもない。
 わずか四か月前のことですが、当時は残暑厳しき折でした。季節がまったく違うこともあり、遙か昔のような気がします。




 麗澤大学前を通過。
 文明十年(1478年)、太田道灌と千葉孝胤が戦った境根原合戦で最大の激戦地となったのがこのあたりだと知って訪ねたときは、かなり遠いと思ったので、南柏駅からバスに乗りましたが、香取神社からここまでは2・4キロ。時間にして三十五分ほどで着いてしまいました。




 中原ふれあい防災公園に出ました。園内には耐震性貯水槽、非常用便槽などのほか、災害時にはヘリポートとして使える広場があります。ここまで五十分強。



 ユニクロ柏増尾台店。ここまでおよそ一時間。近くには、しまむらとかライフとかがあって、近辺のショッピングゾーンとなっているようです。

 ここで再び地図を見ると、方向違いを歩いています。しかし、突き当たれば県道市川柏線に出て、その道路を左に進めば目的地のはずなので、近道を捜すという邪心を起こすことなく歩きました。



 土(つち)農協前のバス停。
 この先には土小学校がありましたが、土というのは昔の村の名です。明治二十二年、近辺の十一の村が合併して成立。十一を縦書きにすれば「土」。柏市(当初は東葛市)の誕生で消滅。



 堀割を走る東武線を眼下に見下ろしながら……。ここから萬福寺と少林寺はほぼ等距離です。先に少林寺へ行くことにしました。

 約一時間半歩いて少林寺に着きました。臨済宗大徳寺派のお寺。柏市内にある臨済のお寺はここだけのようです。松戸には二か寺。
 永禄元年 (1558年)の創建。相馬重胤(?-1336年)の子孫に当たる相馬慶胤 (出家して嗣嶽慶胤)という人が、重胤と家来たちの霊を慰め、供養するために建てたお寺です。

 南北朝時代、北朝側に与していた相馬重胤は建武三年 (1336年)の片瀬川の戦いで北畠顕家に敗れ、鎌倉法華堂で自害しています(戦死という説もある)。
 出陣の際、重胤は母から授けられた観音像を兜の中に納めていたといわれています。この観音像は家来によって奥州相馬家へと持ち帰られ、それを携えてきたのが、嗣嶽慶胤でした。


 



 少林寺境内に聳える樹齢二百五十年の椹(サワラ・左)と同百年の欅(ケヤキ)です。見ていると心臓が締め上げられるように窮屈そうな根元。



 相馬重胤の供養塔。
 家に帰ったあと、インターネットを検索していたら、少林寺の住職日記というブログがありました。偶然この日が開山忌だったようです。しかし、私の訪れた時間が遅かったためか、墓参の人を一人見かけただけで、その余韻は何もありませんでした。



 少林寺前を走る県道市川柏線を横切って細い道に入り、500メートルで真言宗豊山派萬福寺に着きました。創建は寛永十六年(1639年)。
 歩いている間に遅まきながら天気予報が当たって、曇り空になりました。



 萬福寺阿弥陀堂。
 平安時代後期の作と推定される阿弥陀如来の木造坐像(高さ88・1センチ)が安置されています。


 


 境内にこんなモニュメントが飾られているのを見たのは、川口の錫杖寺、浦和の明照寺につづいて三か寺目です。本堂を写した画像の左下にもゴジラが写っています。
 明治五年に学制が公布されて、この地区に増尾学校(土小学校の前身)が創られたとき、萬福寺が仮校舎として使われたそうですが、幼児向けのモニュメントがあるのはそんなことと関係があるのでしょうか。

 帰りはさすがに歩く気力は喪失していたので、東武野田線の増尾駅から電車に乗るつもりでしたが、行きに東武線を越した少し先で、「→妙蓮寺」という看板があるのを見かけていたので、寄ってから帰ることにしました。



 萬福寺から700メートル。寺名に「妙」とつくからには日蓮宗のお寺だろうと想像していたら、案にたがわずそうでした。
 およそ四百年前、小金城主・高城氏の家臣だった平川某という人が持仏堂として建てたのが始まりのようです。本堂は工事中だったので、境内には入らず、門前を通過しただけですが、周辺には林が残されていて、なかなか趣のある雰囲気でした。



 東武野田線の増尾駅に着きました。ここから→柏→北小金と電車に乗って帰ります。所要二時間の散策はこれにて打ち止めです。

→前ヶ崎香取神社から少林寺、萬福寺を経て増尾駅までの参考マップです。

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