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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

三郷寺院巡り(2)

2012年10月16日 11時00分58秒 | 寺社散策

 三郷寺院巡りの〈つづき〉です。
 延命院を出て、再び彦成通りに戻ります。とくに何かがあるという通りではありませんが、見知らぬ街の見知らぬ道を歩くのはなかなか佳い興を覚えるものです。
 道は陽炎のようにゆら~りゆらりと曲がっています。
 特段古い建物が遺っているわけではありません。ところどころにお寺があり、郵便局があり、開いているのかいないのか、閉店してしまったのか休業日なのか、わからないような小さな店があったりします。
 ずーっと歩きながらふと気づいたのは、我が庵のある北小金の住宅地と同じように、コンビニが見当たらない、ということでした。



 次に目指す東光院はこのあたりを曲がるのだろうか、と見当をつけて曲がると、鳥居が見えたので寄ってみました。

 上口香取神社でした。創建年代は不詳、祭神は経津主命。かつては次に訪ねる東光院が別当でした。

 


 香取神社の狛犬。

 狛犬は阿吽が対のはずなのに、両方とも口を開けています。社殿側から撮影。



 香取神社の隣に東光院(真言宗豊山派)がありました。



 本堂の右手には薬師堂がありました。いつの日か薬師詣でで再び訪れる日がくるでしょう。



 東光院から四分で善照院。ここも真言宗豊山派の寺院。永禄年間(1558年-70年)の創建。



 善照院から十分で迎攝院(こうしょういん)。真言宗豊山派の寺院。



 迎攝院の観音堂。本堂の右にありました。

 室町時代の建立と推定される三郷市内最古の建物で、堂内の肘木(ひじき)は法隆寺金堂と同じ様式です。
 祀られているのは准胝(じゅんでい)観音。准胝観音は我が曹洞宗でもわりと重要視されている観音様です。



 迎攝院から八分ほどで円能寺。本尊は室町末期作とされる不動明王立像。真言宗豊山派の寺院で、悲願山正連院円能寺と称している。
当院は、武田信玄の家臣だった田中修理という人が、天正十年(一五八二年)の武田氏の滅亡後まもなくこの地にきたとき、携帯してきた不動明王像を本尊として建立したと伝えられています。




 円能寺から首都高速三郷線の高架をくぐり、九分で密乗院。三郷市による掲示によると、開基は寛永五年(1628年)卒の嶋根主計といわれている。



 密乗院から十三分。西善院。ここも真言宗豊山派。村民の五郎左衛門が開基となって、慶長年間(1596年-1615年)に創建。
 本尊は鎌倉時代の作と考えられている阿弥陀如来立像。



 西善院から六分で、この日、最後に訪れたのは成就院です。真言宗醍醐派の寺院で、本尊は不動明王です。
 寺伝によると、この不動明王は、最初は我が下総国小金領大谷口城主が本尊として供養していたもので、天正十八年(1590年)に落城したとき、家臣の神谷安右衛門が密かに持ち出した。その後、この神谷氏から分家に出た者が当地に移住し本尊としてこの不動明王を供養していたと伝えられています。あるとき、不動明王が安右衛門の子孫・神谷安兵衛の夢枕に立ち、「村人の願いごとは何でも聞き届けるから、そのことを人々に伝えなさい」と教えた。そこで安兵衛は僧となり、明治初年に一堂を建立したのがこの寺の始まりで、成田山新勝寺で開眼供養をして安置したのが本尊の不動明王です。



 帰りは第二大場川を渡って……。

 成就院から十二分……実際は曲がるべき道を間違え、行き過ぎてしまったので、十五分かかりましたが……TX(つくばエクスプレス)の三郷中央駅に出ました。
 ここから→南流山→新松戸→北小金と一駅ごとに乗り換えて帰ることにします。

延命院からTX(つくばエクスプレス)三郷中央駅までの地図です。


三郷寺院巡り(1)

2012年10月15日 22時11分12秒 | 寺社散策

 埼玉県三郷の寺院巡りをしてきました。



 吉川駅で降り、南口に出ました。



 先月、吉川の寺社巡りをしたときと同じメートー観光の路線バスに乗ります。ミニバスです。
 前回は「道庭(どうにわ)公園」という吉川市内の停留所で降りましたが、今回は道庭公園を越え、さらに吉川と三郷の市境も越えて、「円明院北」という停留所まで乗ります。乗車時間は九分。



 最初に訪れたのは圓明院(えんみょういん)。永正年間(1504年-21年)の創建。
 真言宗豊山派の寺院で、本尊は薬師如来ですが、有名なのは陣にある木造不動明王立像です。興教大師の作といわれています。檜材の一木造り玉眼で、像高は87・5センチメートル。



 三郷にも三郷七福神があります。その一つ・弁財天を祀る圓明院の弁天堂。



 圓明院を出て八分で彦名関跡に差しかかりました。
 近くを流れる中川は江戸時代に入って現在の利根川が整備されるまでは利根川でした。行き交う船から通行料を徴収する関があったのです。




 圓明院から十分で曹洞宗慈眼寺に着きました。



 本堂前には鎧兜に身を固めた一対の武将の石像に守られた、随分エキセントリックで、しかもかなり大きな墓がありました。
 妙な墓を建てる人があるものだ、と思いながら眺めると、廣徳寺殿傳照玄心大居士と彫られていて、右の少し低い塔には高城下野守奥方之墓とあったので、後ろに廻ってみると、右側面に「従五位下野守小金城主 高城胤吉公 永禄八年二月十二日殁」とあって、北小金・小金城の城主であった高城胤吉の墓だとわかりました。
 しかし胤吉の墓なら、私の地元の廣徳寺にあり、その夫人は月菴珪林尼で、墓は私が時に応じて参拝に赴く慶林寺にあります。ということは、墓ではなく、供養塔なのなのかもしれないが、なにゆえ北小金とは無縁と思えるこの地に供養塔があるのだろうと訝りながら、供養塔と一緒に建てられている當山暦祖年譜を見ると、開山は「雪庭樹柏大和尚 弘治二年三月廿九日」と彫られていました。

 庵に帰ったあと、以前廣徳寺で撮影してきた歴住碑の画像を見ると、雪庭樹柏大和尚は確かに廣徳寺の第三世で、慈眼寺開山と彫られてありました。
 これも帰ったあとに調べたことですが、「慈眼寺略縁起」によると、創建は弘治二年(1556年)。開基は下総国中金杉村の領主であった高城守胤が雪庭樹伯和尚を開祖とし、高城一族の菩提寺として創建した、と記されていますが、高城家の系図に守胤という人物はおらず、弘治二年当時の当主は胤吉なので、恐らく胤吉の創建になるというのが正しいのでしょう。




 慈眼寺から次の玉蔵院までは七分。
 玉蔵院の手前で東京外環と国道298号線が並走する高架下をくぐります。




 真言宗豊山派玉蔵院。創建は慶長十一年(1606年)。



 玉蔵院から十分で密蔵院。密蔵院も真言宗豊山派の寺院です。慶長七年(1602年)の創建。

 このあたりでハタと気づくことがありました。このへんの住居表示は三郷市「彦野」というのです。
 吉川の寺社巡りをしたときに詣でているので、今回は割愛しましたが、吉川の寺社巡りで、最初に詣でた安養院があるのは三郷市「彦糸」です。
 今日最初に詣でた圓明院は一字違いの同「彦成」にあります。次に「彦名」関跡という標識を見ました。二つ目の慈眼寺があるのは「彦川戸」。玉蔵院があるのは天神ですが、つづく密蔵院は「彦野」、次に行く延命院は「彦倉」と、彦、彦、彦……の連続です。
 さらにその先、次回のブログに回す予定の東光院(上口)、善照寺(同)、迎摂院(番匠免)と彦の字はつかないので、私には得体が知れないながらも、「彦」シリーズは終わったのかと思いきや、さらに先の円能寺は「彦沢」、密乗院が「彦江」と「彦」が復活します。



 「彦」の疑問を抱えたまま、密蔵院から五分歩いて、彦倉の延命院に着きました。延命院というより彦倉虚空蔵尊といったほうが通りがいいようですが、ここも真言宗豊山派の寺院です。
 虚空蔵堂は瓦の修復工事中でした。祀られている虚空蔵尊は文明十八年(1486年)に古利根川が洪水の折、奥利根の上流から流着して、当地に来臨。この地に滞留されたとされています。弘法大師の作といわれているそうです。




 境内にある鰻供養塔です。
 鰻は虚空蔵の使者や化身である、という理由から、虚空蔵を祀っている地域、および虚空蔵が守り本尊である、丑年寅年生まれの人はこれを食べない、という伝承は日本全国で数十か所もあるといわれています。それらの地域の特徴として、洪水が多発した地域である、ということが共通しているようです。
 彦倉虚空蔵尊を祀るこの地区(三郷市彦倉)でも、言い伝えによって現在でも鰻を食べない人がいるそうです。


 延命院本堂。
 創立は室町時代と推定されています。

〈つづく〉

この日、歩いたところ(吉川駅南口→円明院北はバスを利用)。


2012年十月の薬師詣で・印西市

2012年10月08日 22時09分55秒 | 薬師詣で

 十月の薬師詣では印西市を歩きます。



 北小金から西船橋~船橋(京成船橋)と乗り換えて、臼井駅で降りました。



 駅前で待ち構えていたのは大成交通のマイクロバスでした。



 乗車九分。岩戸というバス停で降りました。帰りのバスの時刻のメモも兼ねて時刻表をカメラに収めておきます。



 最初に訪れたのは高岩寺。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所を訪ね、焼香して参拝。



 次に訪ねたのは西福寺(臨済宗妙心寺派)。



 宗像神社。



 宗像神社拝殿。



 泉福寺(真言宗豊山派)。



 今日の目的の泉福寺薬師堂です。
 泉福寺の創建は明らかにされていませんが、この薬師堂は室町時代末期の弘治二年(1556年)に焼失して建て替えられたと伝えられています。



 最後に訪ねたのは廣済寺。ここも曹洞宗の寺院ですが、墓所のある気配がありませんでした。



 バスがくるまで二十分ほど時間がありました。バス停近くに喫茶店がありましたが、二十分というのはどっちつかずの微妙な間合い。入るかどうするかと逡巡しているうちに時間が経ってしまったので、結局入らず終い。



 帰りは印旛日本医大駅まで乗車。



 バスと違って電車は本数が多いので、時間を気にする必要がありません。駅から歩いて二十分ほどのところに、★年前★月にも参拝した栄福寺薬師堂があるので、足を延ばしてみました。室町時代中期の建築で、国指定の重要文化財です。



 銀杏がたくさん落ちていました。



 境内では彼岸花が花盛りでした。



 印旛日本医大駅に戻って帰ります。