日光御成道・川口宿につづいて、大門宿を歩いてきました。
また越谷に所用ができたので足を延ばしたのですが、所用があったのは当初北松戸。そのあと、越谷に行くことになろうとは思わなかったので、資料も地図も持っていませんでした。
川口宿を訪ねたときと同じ東川口で降りました。書店があれば、地図を買おうと思いましたが、駅の北口南口と見回したところ、書店はありません。地図が得られないとなると、川口宿を訪ねたあと、大門宿に関してインターネットをさまよっていたときのおぼろげな記憶しかありませんが、我が庵からはそれほど遠いというところでもなし、収穫が得られなければ、またいつの日か出直しましょう、と思って歩くことにしました。
東川口駅の西側は台地です。
日光御成道は結構長い坂を上り切ったところを通っていました。そこから貝殻坂という坂を下り始めるまで、街道は高台の端っこを縫って走っています。いまは家が立ち並んで、台地の下はところどころから覗けるだけですが、昔は見晴らしのいい場所だったのだろうと思われます。
坂を下ってやや広い道と合流するまで、街道には歩道も白線もありません。歩いているすぐ横を車がビュンビュンと飛ばして行きます。
カメラに収めたこの景色を目にするあたりで、川口市からさいたま市(緑区)に入ります。
東川口駅から歩くこと約二十分。朱色も鮮やかな大鳥居が目に入りました。
大門神社です。主祭神は天神七代之大神・地神五代之大神とありました。十二の大神を祀るので、かつては十二所社と呼ばれていたそうですが、記録も旧蹟もなく、創立年は不詳。
参道は200メートル以上あって、三の鳥居までありました。この神社がかつての大門宿の南端に当たるようです。
大門神社から四分ほどで本陣表門に差しかかりました。つくられたのは元禄七年(1694年)。大門宿の宿泊所は本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠六軒と小さな宿場です。
本陣表門のはす向かいにある脇本陣表門。交通量が多く、道路を渡れなかったので、さいたま市のホームページから画像を拝借。こちらは安永五年(1776年)の建築。
大興寺に着きました。ここが大門宿の北端に当たります。南端の大門神社前から十分足らずで宿を通り抜けることになります。
この山門(画像上)が大門という土地の名前の元になったのだそうです。山門奥に見えるのは観音堂。本尊は行基作と伝えられる如意輪観音ですが、盗難に遭って、いまはないそうです。画像下は徳本上人念仏供養塔。
大興寺本堂と観音堂(下)です。真言宗智山派の寺院で、永禄年間(1558年-70年)の開山。
建築中の鐘楼塔。
他の大興寺探訪のブログを見ると、茅葺きの鐘楼塔が載っています。樹木や宝輪塔の位置関係からいって、間違いなくこの場所ですのに、茅葺きの鐘楼塔はなくなってしまったようで、新しきものをつくっていました。目隠しされているので、写真には写せませんでしたが、釣り鐘が提げられているのは見えましたから、鐘楼塔に違いありません。
私が訪れる寺社は無人であることが通例なので、茅葺きの鐘楼塔がどうなったのか、いまのところは不明です。
東北自動車道と国道122号線を越すと、埼玉スタジアムが見えました。見えることは見えますが、カメラに収めても、それとわかるかどうか、という遠さでした。この画像はこのあと近くまで辿り着いたときに写したものです。
これより先に進むと、東武野田線の岩槻まで鉄道の不毛地帯です。岩槻までは9キロ。とても歩く気力はないし、進めば進むほど、近くに駅がなくなると認識していたので、帰路に着くことにしました。
どこへ向かう道かわからねど、埼玉スタジアムの最寄り駅は埼玉高速鉄道の浦和美園駅だと知っていたので、スタジアムを目指して歩けば、なんとかなるでしょう、と再び東北自動車道を超えました。ちょうど浦和の料金所があるところです。
何をしているのか、道は到るところに「通り抜けられません」「迂回してください」という表示。その先を眺めると、ガーガーという建機の騒音。反対側では料金を払い終わってブーブーと発進して行く自動車の騒音。
墓所が見えたので、寄ってみると、明照寺という曹洞宗のお寺でした。
開基は春日景定という人。生没年はわかりませんが、江戸時代の旗本で、このあたり(中野田村)が知行地の一部だったようです。家康に召し抱えられたとあるので、十六世紀後半から十七世紀前半にかけての人です。
春日氏は中世には足利氏や上杉氏、太田氏などに仕えた一族です。この場所から10キロほど離れた見沼区南中丸というところに陣屋を構えていたようです。
水子地蔵の脇侍のように置かれていたピカチュウの石像。後ろはキティかと思いますが、キティらしくないキティです。ピカチュウに対する右の脇侍はドラえもんでした。川口宿の錫杖寺で見たキティ像といい、ここといい、子どもに親しみを持ってもらおうという傾向は最近のお寺の流行なのでしょうか。
向かい側には明照寺児童遊園と書かれた広場があって、子ども向けのフィールドアスレチックなどがありました。
明照寺のすぐ隣にあった重殿社。
「じゅうでんしゃ」ではなく「じゅうどのしゃ」と読むようです。前身は重殿権現と呼ばれていたらしく、蔵王殿がなまって重殿となったという説もありますが、よくわかりません。
本殿(画像上)と拝殿内に掲げられた扁額がさいたま市の文化財に指定されているようですが、扁額は暗くて見えず、本殿は厳重な囲いがスッポリと被されていて、これもまた見えません。せっかく建てられている説明板も浦和市時代のもので、風雨に晒されて、非常に読みにくい。
中野田不動堂。
棟材に天明六年(1786年)の建立と明記されているそうですが、その旨を記す説明板も浦和市時代のもの。こちらも風雨に晒されています。
いよいよ浦和美園駅を捜しますか、と歩き始めたところで見かけた山茶花です。5~6メートルの高さがあります。花を見れば確かに山茶花ですが、花の大きさは樹高に比例するものかどうか、大ぶりに感じられました。
山茶花の隣で咲いていたビワ(枇杷)の花。白い小さな花で、薄く甘い香りがします。あとで調べて、枇杷はバラ科だったと知りましたが、知ってみるとバラ(薔薇)に似た香りだったような……。この寒い季節に花を咲かせるとは知りませんでした。
私が写真を撮っていたら、不審者と思われたのでしょうか。隣家の老女がしげしげと私を観察していました。振り向いて目が合うと、クルリと向きを変え、何事もなかったような風情で姿を消しました。
姿を消したのではありません。木陰に隠れて依然私を窺っていたのです。その家の前を通り過ぎるとき、また目が合ったので、会釈すると、「写真を撮られたのかね」と声をかけられました。
「あれは山茶花ですか? だとしたら、随分背の高い樹ですね。初めて見ました」と私。
「私らの若いころはあの花を伐って市場に出したもんですよ。いまはもう駄目。外国から安い花が入ってくるから……」
歳のころは七十代。若いころ? ふーむ、五十年ぐらい前のことか、それとも少女時代のことをいっているのか。山茶花の切り花? 茶室で使うぐらいしか思いつかないが……。
陽が沈もうとしていました。木陰に入ると覿面に寒くなります。
細い径を下ると清水の流れがあり、立派な道路に出た、と思ったら、先に画像を載せた埼玉スタジアムが見えました。周りは荒れ地か、そうでなければ建機が入って造成中の土地です。そこに不釣り合いにきれいな道路が走っています。
自転車に乗った女子高生と女子中学生の一群が私を追い越して行きました。女子中学生は全員白いヘルメットを被っています。近くにいれば、こまっしゃくれて、うるさくて、憎たらしいだけなのに、三人、四人と連なって、先頭に遅れまいと自転車を漕いで行く中学生たちは可愛らしい。
浦和美園駅に着きました。東川口までは一駅ですが、料金は¥210。北総開発鉄道もびっくりの高料金です。
すっかり暗くなったころに庵に戻ってきて、本土寺のライトアップが終わっているのに気づきました。
この一週間、狭い参道を結構な数の車が行き来して、(駐車場はあるのかなぁ)という感じで、ノタリノタリと走っていたので、かなり鬱陶しかったのです。参道の途中までは歩行者専用の道があるのですが、なくなったところで車がすれ違ったりすると、いっぱいいっぱいで歩けやしないのです。
北小金駅から参道につづく道も、車が通るとは思わないのか、紅葉を見に行こうという人がいっぱいに拡がって歩いていたりしました。追い越すに追い越せない車がノタリノタリ。私はカッカカッカ……。それも終わりました。
→この日歩いたところ。
今朝の富士川上空です。朝のうちは少し雲があって、ときどき陽射しが遮られましたが、今日も暖かい一日になりました。
暖かいのはありがたいけれども、暖か過ぎると、夜や朝の冷え込みがこたえる年齢になってしまいました。手指は冷たいので手袋をしていますが、足はまだ素足にスニーカーです。
またスノーマンの自画像。
富士川にはチュウサギが一羽だけきていました。
ムクロジ(無患子)は随分落葉が目立つようになってきました。実のほうはまだ緑色を残していますが、少しずつ茶色くなり始めています。
富士川からこの樹に向かって上って行く坂に、無患子坂と名をつけました。
無患子坂の一本南側・栗坂(これも私の命名。坂の下に栗園があるので)を上ると香取神社の裏手に出ます。
香取神社の狛犬。
拝殿後ろには本殿もあって、郷社にしてはきちんとした造りです。
五日前の散策で出会ったときの画像です。前も境内で見かけていたので、この神社の住人かと思っていたのですが、ねぐらは別にあるようです。
その翌日も行ったのですが、姿がなかったので、同じ場所にキャッティを置いて帰りました。そして今朝も不在。しかしキャッティはなくなっていたので、またキャッティ……。
昨日曜日の午後、また東漸寺へ行ってきました。昨日も暖かくてよい天気でした。
紅葉の彩りは一層濃くなったようです。好天で暖かい日曜の昼下がり、とあって境内はかなりの人出でした。
画像に人が入るのは鬱陶しいし、どこの誰と特定できるように写ってしまうのも、あとあと面倒臭い。で、人が写らないようなアングルは……というと、下から見上げて撮るしかありません。
東漸寺へ行ったのは、紅葉を見るためでもありますが、仁王門と中雀門の中間で、こういうものが開かれていたからです。なんかのバザー? と思ったら……。
正体はこれ。
東漸寺周辺の三町会の人々が主催する芋煮会があったのです。一杯¥100。ビールも日本酒もジュースも¥100。
芋煮には八ツ頭がいっぱい入っていて、これ一杯で満腹になりました。
二時ごろに最後の一杯が売れて芋煮会は終了。「来年もやりま~す」と世話人が叫んでいましたが、来年? 私はくることができるだろうか。
ふと、あの石蕗(ツワブキ)を見に行こうという気になりました。かつての勤め先があった市川大野駅近くに咲いている花です。
ツワブキは知っていても、花を咲かせるとは知らなかった私が、初めてそのことを教えられたのがその花でした。
ただ、その勤め先には重苦しい思い出しかないので、「市川大野」と聞くだけで口の中が苦くなるような思いがしていました。それが増幅されたものか、市川大野というところのすべてが忌むべきところに思えました。
ツワブキの花も見てみたい、ときおりミオを食べてもらった野良のオフグたちが元気にしているかどうかも気に懸かる……。
しかし、二度と行くことはないだろうと思っていました。
ところが、なぜか急にそんなわだかまりが溶けてなくなったのです。
別に勤務先に顔を出すわけでなし、万が一、だれかと顔を合わせたとしても、春風駘蕩+飄々+恬淡、という感じで受け流しておけばいいじゃないか、と。
おぢさん、なんのために歳をとってきたのですか、と。
で、七か月ぶりに市川大野駅に降り立ちました。
真っ先にツワブキを見に行きましたが、そのあとでオフグたちを訪問するのは当然としても、すぐ近くにありながら、行く機会のなかった萬葉植物園と平將門が勧請したという言い伝えのある天満天神宮もついでに訪ねてみようと、身も心も軽い思いで歩き出しました。
市川大野駅から歩いて三~四分のところ。今年も見事な咲きっぷりです。ただ、私が知る限り、咲いているのはこの一画だけです。
ツワブキに気を取られていて、ふと気がつくと背後に何かの気配。
あれ、こういうことはいつかもあったな……と思いながら振り返りつつ、おお、そうであった……と思い出しておりました。
去年、勤め帰りにこのツワブキを見てみようと寄り道したとき、背後に人がいるような気配を感じた、と思ったら、私の脚に身体をすり寄せてきた野良の猫殿がいたのです。
夜だったので、毛並みをはっきりと見ていませんが、同じ場所で、野良でありながら人懐っこいというのは、同じ猫殿と断言していいと思います。早速ミオを……。
さて、次はオフグ一家です。
最後に見たのは勤めを辞めるときですから、今年四月上旬。そろそろ八か月が経とうとしています。ちょっと胸がワクワクするような気持ちと、もしかしたらもういないのではないか、という気持ちを交錯させながら、いつもいたところに着きました。
ところが……いない。先ほどの野良殿に、一袋の半分を贈呈してしまいましたが、今日はオフグたちに会えるかも、と考えたので、40グラム入りの袋を四袋も持ってきていたのです。
いつもオフグ一家のいたねぐらです。
道路にある白いものはごみ袋ですが、二か所ある塊の真ん中あたりがねぐら(いつも仔猫殿がここから顔を覗かせていたので、多分)です。
十数メートル離れた家の門柱の上や玄関前の石段で見かけることもあったので、そちらへも行ってみましたが、やはり姿はありません。
たまたまどこかへ出稼ぎに行っているのか、あるいは子どもたちは独立して、それぞれ縄張りを持ってしまったのかもしれません。
バッグから取り出していたミオを味気ない思いを味わいながら、再びバッグに戻す私。
駅前からつづくバス通りを横切って、中世、大野城があった高台に向かいました。上り切ったところに市川市萬葉植物園があります。万葉時代の人々が愛で、生活の糧ともしていた草木を中心に一五五種の植物を集めています。
前々から覗いて見たいとは思っていたのです。ことに今年の正月、筑波山神社へ初詣に行こうかと考え、結局は行けなかったのですが、ツクバネソウという草があるのを知りました。秋になると黒い実を結び、その実は羽根突きの羽根に用いられた草です。それがこの植物園にもある、と知ったので、是非に、と思いを強くしていたのです。
私が勤めていたころ、出勤する時間は開園時間前、帰る時間はとうに閉園、という状態だったので、五年間近くを通りながら、ついに一度も覗いてみる機会がありませんでした。
坂を上りながら、入園料の用意をしておこうと小銭入れをまさぐりました。
ところが、なんと財布がない!
出かける前、いつもは鞄にバラバラに突っ込んでいる長財布と小銭入れをポーチにまとめていました。買い物をしたときに、長財布はすぐに見つかるけれども、小銭入れが鞄の奥深く沈んで見つからない、ということが往々にしてあったからです。
結局、お札で会計を済ませるので、小銭入れを持っていながら、どんどん小銭が貯まって行く。そういう悪循環に終止符を打たんものと知恵を働かせたのですが、そっくり忘れてきたのでした。
電車賃を払う必要があれば、くるときに気がついたはずですが、幸か不幸か、スイカを持っているので、気づきませんでした。いつかもこんなことがあったような……。
まったく余計なことばかりして、どうしようもないオヤジだなぁと呆れながら、入口直前まできていたので、そのまま入口に到り、掲げられた利用上の注意書きを読みました。開閉園時間、休園日が書かれた最後に「入園無料」とありました。
前に下総国分寺を見に行ったときに通りかかった郭沫若記念館も入場無料でした。市川市はお金に余裕があるようです。
いまの時期はほとんど花がありません。多年草の草も葉を枯らせてしまっているものがほとんど。
上・野路菊(ノジギク)、下・足摺野路菊(アシズリノジギク)。
翁草(オキナグサ)。
……と数少ない緑と花を見ながらツクバネソウを捜しましたが、見当たりません。さほど広い敷地ではないので、もう一度巡ってみましたが、やはりありません。
捜しあぐねた挙げ句、水遣りをしている職員を見かけたので、訊ねてみました。なんと無情にも、去年枯れた、というのです。
その人は話し好きの上に、植物採集と植物の世話が大好物というおじさんで、ツクバネソウ目当てにきてくれたのは残念だけれども、大変うれしいといって、その他もろもろの話を聞かせてくれました。ツクバネソウは宿り草なので、草だけ採取すると、やがて枯れてしまうということ。栽培するつもりなら、種から育てるのがいいということ……。その間、立ったまま三十分。
次は天満天神宮です。
植物園を出ると、入口すぐ横にあった跨線橋で武蔵野線を越え、歩いて六分ほどで市川市立五中に着きました。
校庭が大野城主郭のあったところです。が、遺構は何もありません。周辺には、かすかながらも土塁跡が遺されているようですが、見当のつかないまま眺めても、どこにあるのかわかりません。
伝承ではこの城を築いたのは平將門だといわれていますが、昭和四十四年と五十四年の二度にわたる発掘調査の結果、將門の時代(十世紀)ほど古いものではなく、十三世紀の遺構としか判明しなかったそうです。
目的の天満宮は城の鬼門に当たる方角にあります。従って將門が勧請したという言い伝えが遺されているのですが、城を築いたのが別人であれば、天満宮もその別人が勧請したものです。
学校は崖っぷちに建っています。校門すぐ脇からかなり急な下り坂。
谷に当たるところを天満天神宮を捜して歩いている間、道路に案内標識が出ていたり、墓所が見えたので寄ってみた充行院(画像上)と礼林(らいりん)寺。二か寺とも日蓮宗の寺院なので、参拝はしません。
このほかにも、かつて大野城内にあった本将寺、法蓮寺、浄光寺、本光寺と、市川大野というところにある寺は日蓮宗ばかりです。
しばらくさまよったあと、ようやく天満天神宮を見つけました。急な石段の上に小さな祠だけがありました。
市川市教育委員会が石段下に建てた説明板によると、菅原道真を描いた掛け軸があって、そこに「平親王將門公、皇都天満宮、下総大野ニ移ス」と由来が示されている、とありますが、その掛け軸がどこにあり、時代的にはいつのものなのかは説明がありませんでした。
天満天神宮から市川大野駅までの途中にある、天満天神宮の別当・本光寺です。ここにも將門ゆかりの天満宮が建てられていました。画像下は本堂。町にある医院の玄関を思い起こさせます。
この寺を出たあとに思い出したのですが、以前、この前を通ったことがあります。そのときは本堂の建設工事中だったので、入りませんでしたが……。
日光御成道・川口宿を探索してきましたが、その日のうちにブログに書くことができず、翌日は立花誾千代の祥月命日だったので、書くのはそちらを先にしたため、五日も前のことなのにあと回しになってしまいました。
二十一日の日曜日、越谷に所用があって出かけたので、帰りに川口へ足を延ばしていたのです。
先日赤羽へ行ったとき、赤羽に日光御成道の岩淵宿があり、荒川を挟んで川口宿もあったのだと識りました。岩淵宿には面影はまったくといっていいほど遺されていませんが、川口宿には多少なりとも遺されているような……と識ったからです。
武蔵野線の南越谷から東川口へ行き、地下鉄南北線(埼玉県内の呼称は埼玉高速鉄道)に乗り換えて、川口元郷(かわぐちもとごう)という駅で降りました。
旧街道がありそうな方角を目指して歩くと、国道122号線からJR川口駅に通じる道路との交差点にミニ緑地がありました。「鍋屋の井」という石碑が建てられています。
かつてはここに噴き出しの井戸があったようです。しかも名水で、それに目をつけたユニオンビールという会社が進出してきたために、名水も涸れてしまったとか。
川口市立文化財センター。
二階へどうぞ、とあったので階段を上って行くと、事務室兼受付がありましたが、入館者は私だけでした。「御成道を見にきたのですが……」というと、男性職員がおもむろに出てきて、「片づけちゃったかなァ」といいながら、シャッターの下ろされた別室に案内してくれました。私が訪ねた前の週まで御成道の企画展があったのだそうです。
幸いにしてまだ片づけられずにいましたが、決して広い展示室とはいえないのと複製地図と写真が中心の展示だったので、上手く写真に撮ることができません。
常設展示を見ていたら、こんなストーブがありました。
小学校か中学校、もしくは両方とも、であっただろうか。両方とも見た憶えがありますが、どっちがどっちだったかは憶えがありません。画像(下)のほうが近代的な感じがします。こちらは高校時代だったかもしれないという気もします。
文化財センターをあとにして、教わった道を荒川に向かって歩くことにしました。文化財センターを訪ねていなければ、私が見当をつけていたのは方向違いの道でした。またとんでもない道を歩くところでした。
「鍋屋の井」のあったミニ緑地のすぐ前が、いまは「本一(本町一丁目)通り」と呼ばれている寂しげな商店街の入口です。昭和四十年ごろまでは活気溢れる商店街だったそうですが、この通りがかつての御成道であり、岩槻街道です。
パンフレットも案内地図もないので、古そうな建物を見つけてはカメラを向けました。
美濃屋畜産店(上)と福田屋洋品店。福田屋洋品店の手前・植木鉢を並べた家はかつては商店だったと識れますが、何を商う店であったかは不明。
縄屋商店。現役かそうでないか。現役だとしたら、何を生業(なりわい)としているのか、まったく不明。
お菓子とホビーの名古屋本店。このスタイルからすると昭和初期か。
中西日進堂薬局。古そうですが、大正時代の建築。江戸の面影を求めたいので、大正は新し過ぎます。
濱田接骨院。こちらはもうちょいと古く、明治期の建築。
残念ながら江戸時代の名残は何もありませんでした。
どこかの路地を入ったところに本陣の門が遺されているようですが、どこを曲がればいいのか、見当がつかないので、本日の取り組みはこれにて打ち止めです。
時代は問わず、古い建物の遺された町という観点で見れば別だったのかもしれませんが、川口宿=江戸時代という観点で歩いたので、ふーむと考え込むことしきりの道中でありました。
川口市も私とは違う観点から同じようなことを考えるのか、川口宿に関しては熱心ではなさそうです。それが証拠に案内板のたぐいは一つもありませんでした。あれば、本陣の門を見ることができたのに……。
荒川堤防下に建つ鎌倉橋の碑。
鎌倉時代、このあたりは舟戸が原と呼ばれる原野でしたが、鎌倉から奥州に向かう街道があったので、小川に架けられた橋を鎌倉橋と呼んだようです。鎌倉と奥州といえば、源九郎義経です。兄・頼朝を応援しようと平泉から駆けつけた義経もこの橋を渡ったのです。
このあと「本一通り」に一度戻って訪れる錫杖寺というお寺が川口宿の北端ということですから、そこからこの碑のあるところまで500メートル少々しかありません。
中仙道追分(現在の東京・本郷)から近く(約11キロ)、江戸を出た旅人は川口宿から三つ先の岩槻宿で泊まるというのが普通だった(将軍の日光社参も第一日目の宿は岩槻城)ので、隣の岩淵宿と併せて一宿と数えられました。本陣脇本陣それぞれ一軒ずつありましたが、旅籠の数はわずか十軒と、旅籠の数だけでいうと、我が小金宿の十分の一という小さな宿場町でした。
広い河川敷を横断して荒川の川岸まで行ってみました。
画質が悪く、判別できるかどうかわかりませんが、遠くに写っているのは、先週訪ねた赤と青の新旧岩淵水門です。
「本一通り」を逆戻りして錫杖寺へ。
真言宗智山派のお寺で天平十二年(740年)、行基が草案を結んだのが始まりと伝えられています。
江戸時代に入った元和八年(1822年)、徳川秀忠が日光参詣の折、この寺で休息したのにならい、翌年、家光の参詣の折にも休息所となって、以来、将軍が日光に参詣するときは必ずここで休息することになりました。
境内にあった可愛い石像。
讀賣新聞に務臺光雄(1896年-1991年)という人がいました。社長・会長を歴任した人です。
務臺さんのころの讀賣は、まだ全国紙ではなかったこともあって、「朝毎讀」といわれるように三番手でした。なんとか毎日を抜き、朝日を抜いて部数を日本一にするために、務臺さんが知恵を絞った手段の一つは、讀賣巨人軍を使って、子どもたちのファンをつくることでした。新聞を取ってくれる家に子どもがいれば、後楽園球場の入場券をプレゼントしたりしたのです。
子どもが新聞を買ってくれるわけではない(つまり無駄な投資ではないか)、と幹部たちは異を唱えたそうですが、務臺さんは「いずれ大人になったとき、讀賣のファンになってくれる」といったそうです。
直接聞いたわけではありません。務臺さんを心から崇拝していた讀賣OBで、のちに脱税で捕まった人から聞いた話です。
脱線しました。
右のほうには「かわぐち地蔵」の石像があるのですが、キティの像はそれと同じような扱いになっていました。これを見て、錫杖寺の住持も務臺さんのようなことを考えているのか、とふと思ったまでです。
錫杖寺に参詣しているとき、荒川河畔に善光寺というお寺があったことを思い出したので、再び荒川へ戻りました。
今度は違う道を歩いてみました。
金山町といういかにも鋳物にゆかりのありそうな地域で見つけたキューポラの排煙塔です。
文化財センターの係員に教わるまで、私はキューポラといえば、煉瓦か何かでこしらえた煙突がニョキニョキと立っていたのだろうと思っていました。この形とは違う煙突型のものもあるそうですが、キューポラそのものは建物の中なので、外から見ることはできません。
ことにいまは高層マンションが林立しているので、鋳物工場のある路地に偶然迷い込まない限り、排煙塔に出会うことすら困難です。
こうして、川口からキューポラがなくなったわけではないけれど、外見的にはキューポラのない街へと変わりつつあります。
夕陽を受ける善光寺に着きました。荒川堤防の上にあります。昭和四十三年、火災で焼失したあとに建てられた近代的な堂宇で、江戸時代の面影はまったくありません。
「江戸名所図絵」(ちくま文庫から)に描かれた善光寺。
開創は建久六年(1195年)。信濃の善光寺にお参りするのとと同じ御利益があるとされたので、江戸市民はこぞって参詣したということです。
帰りは京浜東北線の川口駅に出ました。
このブログを書こうと資料を捜していたら、川口宿の先、大門宿(武蔵野線東川口駅近く)にはもう少し「らしい」遺構があるようです。近いうちに訪問しようと思います。
東漸寺で紅葉のライトアップが始まりました。昨日の夜、早速鑑賞に行ってきました。
東漸寺へ行くときは北小金駅のコンコースは通らず、まてばしい通りの跨線橋で常磐線を越えて行くのが常ですが、駅の南口でもライトアップをしているので、寄ってみました。
陽のあるうち(昼間も行ったのです)、東漸寺境内には結構多くの人がいましたが、夜はまったくの無人でした。昼間のカシャカシャ(携帯のカメラの音-静寂の地なので、微少な音なのですが、結構響いて聞こえるのです)からは打って変わって、恐るべき静けさでした。
ライトアップをするという広報もないようなので、地面に埋め込んであるライトを目にして、ああ、そうか、と気づかなければ、知る人もいないかもしれません。
昨日は勤労感謝の日だったので、暗くなってからは門前を通る人もあまりいませんでした。たまに通る人があっても、みな知らないのか、関心がないのか、立ち止まって寺を覗いてみようともせずに通り過ぎて行きます。
シャッタースピード不可変のコンパクトデジカメで撮影した画像なので(と、エクスキューズしておいて)、たいしたものが撮れたわけではありませんが、ライトアップされた紅葉の画像を並べてみました。
旧水戸街道に面した入口から本堂に到るまで、およそ300メートルの距離がある参道には、入口から山門、仁王門、中門(東漸寺では中雀門と呼ぶようです)と三つの門があります。仁王門と中雀門の二つは上から二番目の画像にあるように、夜になると通せんぼになります(画像は中雀門)。
しかし、門の左右にある塀は途切れていますから、完全に塞がれているわけではありません。脇のガードが甘いので、いくらでも通り抜けることができます。仮に山門が閉じられていたとしても、入口右手には、中雀門と本堂の間にある鐘楼塔の下までつづく細い道があるのです。
ただし、夜はほとんど真っ暗なので要注意です。とくに雨の降ったあとなど。
最初に山門をくぐったとき、私の左を小さきものがスルスルッと走るのが見えました。夜目ですから毛色ははっきりしませんが、斑(まだら=灰色と白)の仔猫殿でした。ライトアップを見にくるだけのつもりだったので、ミオなどは携帯していません。
ああ、こういうことなら……と後悔しました。
しかし、そのことはすぐに忘れて参道を進み、ゆっくりと紅葉を愉しませてもらうことができました。
ひととおり夜の紅葉を愉しんだあと……。
ライトアップされている場所を離れると、周りは漆黒の闇です。参道は高い樹々に囲まれているので、暗闇はなおさら深いようです。
遙か前方、石畳に何かがうずくまっているように見えました。立ち止まると、うずくまったものはのっそりと動きました。やがてライトの光に照らし出されているところを横切って行きました。毛色はわかりませんが、やはり猫殿でした。
参道脇には、トイレや学寮、談話室という建物があります。すでに人はおらず、弱い明かりだけが灯っています。
その光を受けてぼんやりと浮かび上がっているものがいる。これも猫。おや、と思うと、また少し離れたところにも猫。ライトに照らし出された場所で首のあたりを掻いている猫もいました。
ふーむ、夜のお寺は初めて覗きましたが、これは猫の王国です。なんだか愉しい気分になってきました。
SWEETCATというサイトがあって、そこに猫の集会のことが載っています。
それによると、数匹から十数匹の猫がいつも一定の場所に集まっていたら、これが猫の集会といわれるものなのだそうです。
夕方や夜、公園など、ちょっとした空きスペースが集会所になることが多いそうですから、東漸寺の境内はちょっとした空きスペースどころではない広さなので、格好の場所なのでしょう。
集会には野良殿だけでなく、飼い猫殿も参加するみたいです。飼い猫で夕方になると外へ出て行く猫がいたら、集会に行くのかもしれません。
普段争っている猫たちも、集会で喧嘩をすることはないらしい……。
と、かようなことが紹介されていますが、本当かどうかはわかりません。
ライトアップがあることを知ったのは、前日が立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)の祥月命日だったので、お線香の一本もあげようとお参りにきたときです。
その日の夜は雨、という予報だった(雨は降らなかったようですが)ので、翌二十三日に見にこようと決めて帰りました。
しかし、きてみたらライトアップされていない、ということではいけないと思い、昼間、ライトが設置されたままになっているかどうかを確かめに行ったのです。まあ、暇だし、わりと近いところに棲んでいるから、できることなのですが……。
以下は昼に訪問したときの画像です。何カットか撮りましたが、すべてアングルは気持ち上目。少しでも下げると、うじゃうじゃと人がいます。中には三脚を立てて、いなくなるのを待っていても当分動かないぞ、と背中で宣言している人も……。
本堂のほうから見た仁王門です。
本堂横にある墓所からの眺め。左の屋根は観音堂。晩秋の東漸寺で、私が一番好きな景色です。
公孫樹(イチョウ)の絨毯。本堂横から裏につづく道です。
初めて歩きました。裏に出ると、なぜか小さめのサッカーグランドがあり、ゴールネットもちゃんとありました。ここはほとんど通る人がいませんでした。
今日二十二日は旧暦の十月十七日。立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)の祥月命日に当たります。
誾千代が亡くなったのは現在の熊本県長洲町です。いまから四百八年前の慶長七年(1602年)の今日でした。
菩提寺は福岡県柳川(当時は柳河)市にある良清寺。
元和七年(1621年)、夫の立花宗茂が誾千代を弔うために建立したお寺で、寺の名は誾千代の院号「光照院殿泉誉良清大禅定尼」にちなんでつけられました。
とはいえ、寺を建立したのが死後十九年も経ってから、というのはやっぱりおかしい。
やっぱり、というのは、誾千代と宗茂は夫婦仲が悪かったと伝えられ、八年も別居生活を送っていたからです。
宗茂は入り婿です。もともと武将としての素質はあったのでしょうが、誾千代と結婚せず、立花という看板を背負うことがなければ、その素質が開花することもなかったかもしれない。
仲の良い夫婦ではなかったけれども、いま、自分が大名としてあることができるのも、誾千代と夫婦(めおと)になったおかげ。
年をふるにつれ、やはり菩提寺を建てなくては……、と思い到ったのが十九年後ということか、と下司の勘ぐりをしていたら、寺を建てる前年・元和六年まで、宗茂は柳河から遠く離れた陸奥棚倉(いまの福島県)にいたということを知りました。
その年、関ヶ原の戦いで敗れた敵将・石田三成が潜んでいるところを見つけ出し、捕らえたという功績で、三河岡崎十万石から筑後柳河三十二万石の太守となっていた田中吉政の後継・忠政が死に、嫡子がいなかったことからお家は断絶。三十二万石は分解されて、宗茂が柳河に返り咲くことになったのです。
故地ともいえる柳河に帰って、早速夫人の霊を弔う寺を建てた、ということになりますが、柳河に帰れるということがわかっていたはずはない。それまではどうしていたのだろうと思うと、死後十九年というのが引っかかってしまいます。
朝、降り出した雨が昼前に熄んだので、東漸寺へ行ってきました。
誾千代の菩提寺・良清寺は浄土宗のお寺です。いささか牽強付会が過ぎるかもしれませんが、柳川まではとても行けないので、同じ宗派のお寺へ行って冥福を祈ろうと考えたわけです。
東漸寺でもライトアップをしているようです。
本土寺と違ってこちらは参拝料は取りません。今夜は雨という予報だったので、明日勤労感謝の日の夜に改めて……。
観音堂は前扉だけが開いていました。聖観音が祀られています。画像でははっきりしませんが、坐像でした。
誾千代と中庵宗厳こと大友義統のことは二年前のいまごろ、ブログに取り上げていました。しかし、九州から遙か遠く離れた地で暮らしていると、史料を手に入れるのもままなりません。新しくわかったことが何もないので、ブログも結末がついたのかつかないのか、宙ぶらりんになったまま、いつの間にか二年も経過してしまいました。
ただ、新しく知った話があります。私の感覚では、どうも史実とは思えないので、「わかった」とは記さず、「知った」と書くのですが……。
熊本県長洲町には、その形状から「ぼたもちさん」と呼ばれる誾千代の墓があるそうです。
長洲町は宗茂と別居したあと、誾千代が住んで、その生涯を終えた地ですが、史実とは思えないというのはこの墓のことではなく、伝えられている次のような話です。
誾千代が亡くなる前年、いまは長洲町の一部になっている腹赤村の庄屋に、阿弥陀寺という寺の住持から「気のふれた女が現われた」という報告が届いたそうです。
庄屋が見に行ったところ、確かに狂人に違いなく、いろいろ訊ねてみても、柳河からきたということしかわからないので、阿弥陀寺で預かってもらうことになりました。
翌年の十月十七日、阿弥陀寺から、柳河からきた女が寺の前にある古井戸に身を投げて死んだ、と連絡がありました。出向いた庄屋は阿弥陀寺の住持や村の者と一緒に女の亡骸(なきがら)を古井戸に葬ったというのです。
いうまでもなく、この柳河からきた女というのが誾千代で、身を投げた古井戸に建てられた墓が「ぼたもちさん」の始まりであるという話です。
ふーむ、と思いますが、誾千代が亡くなった慶長七年という年―。
その二年前の関ヶ原の戦いで西軍に与した宗茂は浪人中です。誾千代の内証が豊かだったとは考えられません。しかし、落ちぶれていたとはいえ、かつての領主夫人です。気がふれていなかったと断言できるものではありませんが、いくら気がふれていたとしても、侍女の一人や二人はいたはずです。独りで歩き回るとは考えられません。
別居したとされる年には二つの説がありますが、文禄四年(1594年)説と慶長四年(1599年)説ですから、亡くなる前年、突然、しかも気がふれて、単身で現われる、ということはまずないのではないかと思われます。
宙ぶらりんになっているといえば、京都東山にある清閑寺(せいがんじ)のブログも(1)を書いたあと、〈つづき〉が書けず、こちらもいつの間にか一年が経ってしまいました。
進まなかった原因は平清盛に疎まれた小督局(こごうのつぼね)の結末を、どのようにつけたらよいか、と思いあぐねてしまったからです。
結末はまだ思いつきません。
小督と誾千代とでは時代も違うし、両者の間には関係もまったくありません。結末とはなりませんが、九州ということで思い出したことがあります。
小督は京都で亡くなったとされていて、墓があるのは清閑寺境内、あるいはかつて清閑寺境内だった高倉天皇御陵、はたまた隠れ棲んでいた嵯峨野、と諸説あるのですが、九州で亡くなったという言い伝えもあることです。
なにゆえに九州かというと、小督は清盛を懼れて嵯峨野に隠れていたのですが、身の危険を感じて、太宰府にいた親戚を頼って落ち延びたというのです。
しかし、無事九州に渡ったのに、慣れぬ長旅の疲れと心労が祟って、現在の福岡県田川市で亡くなってしまった、という伝承です。
市内にある成導寺という寺に逗留していたときに息を引き取ったので、墓だといわれる、このような七重の供養塔が建てられたのです。
※ぼたもちさんと小督の供養塔の画像はそれぞれ長洲町役場と田川商工会議所のホームページから拝借しました。
昨朝、朝の散策に出るとき、今日で一年か、といささかの感慨を催しました。
朝の空気は冷たそうだったので、Tシャツの上にフリースのジャンパーを着て、裏地のついたウィンドブレーカーを羽織り、帽子に手袋というスタイルで出ました。大丈夫かな、と案じたのは足が裸足であったことです。
このところ家の中にいても、手指は冷たく、肩口は寒いのに、足だけは暖かいので、近場の散策や買い物に出るときは裸足にスニーカーです。パソコンに向かっているときも、手にはフィンガーレス手袋をはめているのに、足は裸足です。
夏はもちろん裸足。裸足で靴を履くのは石田純一なんかより、私のほうがずっと先輩なのです。
一年前、いや、もう少し前から、冬になると靴下が足(?)離せず、眠るときも厚手の靴下を履いたものなのに、今年はそんなことをしたら暑くて眠れない。
汗をかくまでお風呂に入っても、浴槽を出ると、身体の芯まで暖まっていないのは去年も今年も同じ。
ところが、げに、げに、不思議です。
昨冬などは靴下に貼る使い捨てのカイロを買ったというのに、今冬は心臓から近いはずの肩口が薄ら寒いのに、一番遠いはずの足だけが暖かいのです。
日中は陽射しがあふれて暖かい日もありますが、朝はさすがに寒くなりました。ツワブキ(石蕗)の花を見に行くのは、昨朝は取りやめ。朝のうちは陽の当たることのない本土寺の森の陰を通って行かなければならないからです。
富士川に足を向けました。途中までは家が建て込んでいるので、日陰に入ると覿面に冷えます。しかし、川べりに降りれば、朝日を遮るものが何もないので、空気の冷たい朝でも暖かい。
上空は雲一つない快晴でした。
朝日をいっぱいに浴びたスノーマン(?)の自画像です。
去年の昨日、つまり2009年の十一月二十日は朝六時半に目を覚ましました。前夜は何時に眠ったのか、日録(日記です)には、「記憶がない」として記載していないのでわかりませんが、体調がすこぶる悪く、勤めも休み、ほとんど欠かしたことがない飲酒もしていないので、多分早めに寝ているはずです。
だから、時間的には睡眠は充分であるはずですが、数日前から眠っても眠っても眠い、という体調がつづいていました。
前日 ― 勤めを休むと決めたあと、近くにある総合病院に電話を入れて、午後受診することにしました。ところが、ひたすら眠いものですから、ぼんやりしているうちにまた眠って、目覚めてみたら夕方でした。
目覚めた瞬間は体調は元に戻ったように感じられます。しかし、水を飲んだり、小用に立とうとして起き上がると、全身がグラグラ揺れているようだし、足許も覚束ないのです。
テーブルに手をつき、壁や食器棚を支柱代わりにして立ち上がり、なんとか用を足して戻るだけで、すっかり疲れ果てていました。そうして戻ってきたあと、再び横になっても、本を読む気力もないので、仰向けになってぼんやりしているうちに、先ほど目覚めたばかりだというのに、また睡魔に襲われて、いつの間にか眠っています。
真夜中に目覚め、未明に目覚め、朝九時になったら病院へ……と思いながら、次に目覚めたのは十一時ごろ。眠くなっても眠ってはいけない! と我が身を叱咤して、ともかく出かける服装に着替えて椅子に坐りました。
立ち上がるとクラクラしますが、坐っていると、自分でも「どこが悪いんですか?」と訊いてみたくなるような、じつに不可思議な体調でした。
当時棲んでいたマンションから病院までは700メートルもありません。ふだんなら数分で歩いてしまう距離です。
ところがこのときは、100メートルも歩けば、息が切れて腰を下ろしたくなる。道路に出たばかりだというのに、隣のマンションの生け垣に腰を下ろしてしばらく休み、新坂川という放水路を渡る橋のたもとでまた休み……。都合三度も腰を下ろして、数分で行けるところに着いたのは三十分後でした。
すこぶる体調が悪い、いったいどうしちまったんだい、という自覚はあるものの、実際に起きていた現象に関して、私はまったくノー天気でありました。
あとで、医師から「下血はいつごろからあったのですか!」と強い調子で訊かれましたが、私が嘔吐をしたり、下痢をしたりして、コリャ本格的な何かの病気だ、と悟り始めた三、四日前は下血などしていないのです。
結局、いつ出血に見舞われたのかわかりませんが、三十分もかけて病院へ歩いていたときの私は、平常の80%ほどの血液しか持っていなかったのでした。
血液の量の少なさに加え、検査を受けて判明したのは圧倒的なヘモグロビンの少なさでした。眠くて眠くて仕方がなかったのは、血液が運んでくれる酸素量が少なく、呼吸困難と同じ症状を起こしていたからでした。
診断を受けたら、胃潰瘍とそれに因る出血多量、さらに鉄分欠乏症貧血ということで、即刻入院となりました。
それから一年……。
すっかり……と形容するのはまだ「?」がつきますが、胃潰瘍のほうは完治したものの、リンパの循環が急激に悪くなって、血圧も下がり、もしかしたらこのまま死んで行くのではないかと感じた今年四月後半~六月にかけての、すこぶる体調劣悪だった日々をなんとか通り抜けて、かなり元気にはなりました。
ときおり体調が優れないという日はありますが、それは多分に歳のせい。寝込むようなことはなくなりました。かなり長時間の散策を試みても、足腰の痛みが残る程度です。
寒い朝でも、裸足にスニーカーだけで歩けるようになりました。
松戸七福神も結願(けちがん)し、流山七福神も結願したので、今度は近場の薬師如来を捜して、お礼参りを試みようかと考えています。
花屋さんを覗くと、寒くなっても咲いているビオラに「ど根性!」という形容詞がつけられていました。
散策していると、「ど根性!」はビオラの専売特許ではないようです。ただ、いずれも人の手の入った花が多く、さすがに野草の花はなくなりつつあります。
流山七福神巡り最後の日、蒲(ガマ)の穂を見たので、湿地帯のある根木内歴史公園に行けば見られるかもしれぬ、と思って足を延ばしました。
ここでガマを見た、という記憶はありませんが、ガマの仲間であるミクリ(実栗)の群生地があるので、多分あるのではないかときてみたのですが、枯れ草はすっかり刈り取られてしまっていました。
我が庭の桔梗殿。
ほかはすっかり枯れてしまったのに、一株だけまだ枯れずにあります。枯れぬどころか蕾をつけています。
十日ほど前、蕾に気づきましたが、全然大きくなりません。鉢から庭に移し替えたのですが、もう一度鉢に戻して、夜は部屋に取り込むことにするか、と思案中です。
北小金駅南口では毎年恒例のライトアップが始まりました。
本土寺の紅葉のライトアップは今夜から……。参道もライトアップです。
昨夜は参道全体に燭台が並べられていましたが、今夜は山門前の150メートルほどだけでした。
観光バスでやってくる団体がいます。私からすれば、どうせならほかのお寺を訪ねればいいのに、と思うのですが、畏れ入りました。
今日、南越谷に所用ができたので、所用を済ませたあと、少し足を延ばして、川口まで行ってきました。先日、赤羽へ行ったとき、日光御成街道が岩淵(赤羽)~川口~鳩ヶ谷と通っていたのを改めて知ったからです。
夕方、帰ってきて知ったうれしいニュース。
関東大学ラグビー対抗戦。メイジが昨季大学チャンピオンの帝京大に勝ちました。これで今季は6連勝です。明後日、勤労感謝の日に行なわれる早慶戦で、憎っくき早稲田が勝てば(多分勝つでしょう)、十二月五日はなんと18季ぶりという全勝対決になります。
昨十八日、流山七福神巡りで残されていた一つ、西栄寺の福禄寿を訪ね、ついでに、といえるほど近くないのですが……もう一度福性寺のムクロジ(無患子)を見に行ってきました。
この日の散策はちょっと強行軍です。地図を前にザッと計算すると、我が庵から西栄寺まで約5・7キロ、西栄寺から福性寺までは約3キロ……。
これは最短ルートを辿った場合で、途中で寄り道をするかもしれないし、福性寺からの帰りは電車に乗るつもりでしたが、最寄りの駅まで歩かなければならない。そんなこんなを合わせると、10キロは歩くのを覚悟しなくてはならないようです。
朝の段階の天気予報では、昼ごろから晴れるが、夕方には雲が出て、ところによって雨、でした。
晴れるという時間は少し外れて、九時ごろには陽射しが出ました。このところ、冷え込みが強いので、もう少し空気が暖かくなってからと思い、十一時に庵を出ました。
出るときにすでに寄り道することを決めていました。
先日、偶然春山寺というお寺に行くことになって、そこに布袋尊が祀られていたことから、企図したわけではないのに、流山七福神巡りがたまたま残り三つとなって、いっそのこと全部巡ってしまおうと決めたのですが、春山寺から帰ってくるときのこと、地図を見たら「卍」印があって、円徳寺と記されていたので立ち寄ってみたものの、墓所はあったのですが、寺がなかったのです。
あたりは坂川に削り取られた台地の斜面で、結構深い森があります。その森の中だろうかと思いながら、近づいてみたり遠く離れて眺めてみたりしましたが、寺らしき建物はない。
どうしても行きたいお寺というのでもないので、その日は見つけられぬまま帰りましたが、庵に帰ってインターネットの地図を極限まで拡大してみると、確かに寺は存在することになっている。
ところが、グーグルアースに切り替えると、寺を思わせる建物がないのです。
なんじゃ、コリャ? と思いながら、この日を迎えたというわけです。
前回見かけた墓所に行ってよくよく眺めると、横に幅1メートルもない砂利道がありました。その先にはこんな小さな大師堂とこの地区の集会所があるだけでした。むろん住む人は誰もいません。
出発後一時間ほどで流山街道に出ました。しばらくはこの街道沿いに歩きます。
町中で見かけるイチョウ(公孫樹)はどの樹も黄色く色づいているというのに、この公孫樹並木はほとんど色づいていません。
茂侶(もろ)神社がありました。
平安時代初期の延喜式神名帳に名前が載っているというので、由緒ある神社のようですが、奈良県にある大神(おおみわ)神社の主祭神・大物主命を分霊したという説明があるほか、来歴や茂侶という珍しい呼称などについては書かれていません。
大神神社は別名三輪神社とも三輪明神ともいわれます。このあたりの地名は流山市三輪野山。狛犬のない神社でした。
一の鳥居(上の画像の鳥居は二の鳥居)横には奉納された大黒天像。
これは円徳寺を捜し当てる前に見たガマ(蒲)の群落。
松戸近辺は湧水が多く、湿地帯もあるので、水草を目にする機会は多々あるのですが、蒲を見かけるのは意外に少ない。大黒様を見たので、無理矢理因幡の白ウサギに関連づけたわけです。
西栄寺に着きました。室町時代の永正十二年(1515年)開山と伝えられる真言宗豊山派の寺院です。
琵琶首観音像(高さ約160センチ)を祀る観音堂。琵琶首というのは、かつてこの像が祀られていた西福寺という寺があった地名のようです。
西栄寺を訪れたのは福禄寿に参るためですから、写真撮影を忘れたわけではありません。
流山七福神巡りは、これにて一応結願(けちがん)を迎えましたので、画像は七福神を一括して記事の下のほうに載せました。
地図では、常磐道を越えて少し道を外れたところに「卍」の印があって、浄栄寺とあったので、また寄り道することにしました。
民家の玄関先をかすめて伸びる細い径があって、通せんぼをするように枯れ枝が落ちていました。
ここも住む人のいない寺。つつましい観音堂と墓所があるだけでした。
墓は三十基ほどありましたが、中谷と戸張という二家のものがほとんどでした。
戸張といえば、柏の戸張に城館を構えていた戸張氏があります。千葉氏の流れを汲む武将で、柏駅近くにある長全寺の大檀越でもありました。しかし、理由ははっきりしませんが、何か落ち度があったらしく、隠居させられて、いまの埼玉県吉川市に蟄居することになりました。
墓石に彫られた家紋を見ると、少しずつ意匠は違いますが、いずれも「丸に橘」でした。
庵に帰ったあと、本来の戸張氏の家紋を捜してみましたが、武将としては途中で絶えてしまったためか、見つけられませんでした。従って、ここに墓を祀っている各戸張家が戸張氏の流れを汲む家かどうか関連づけはできません。何しろ無住なので、いまのところは手がかりがないのです。
小径を辿って再び流山街道に戻ると、西善院がありました。
このあと訪れる香取神社の別当だった寺で、西栄寺と同じ真言宗豊山派。ここも石塔と墓所があるだけで、堂宇がありません。右に見える建物はこの地域の自治会の集会所です。
香取神社。前回(今月十二日、ブログは十三日)は福性寺から西栄寺を目指して流山街道を南下したのですが、暗くなってきてしまったので、ここで西栄寺へ行くのを諦めたのでした。
中門には左大臣右大臣の木像があります。京都御所から見た左京区右京区と同じで、左大臣は向かって右側、右大臣は左側。
香取神社を過ぎると、流山街道はいったん谷を下り、また上ります。
上ってしばらく歩いたところが中野久木というバス停で、ここで流山街道を離れ、前に歩いた道を逆行します。
この道は腹を空かせた野良の猫殿がいた道です。前に姿を現わしたあたりでしばらく立ち止まってみましたが、そうそう都合よく姿を現わしてくれるものではありません。
円徳寺を捜しているころまで、風は冷たく強かったものの、歩いていると暑く感じるほどの陽射しがあったのに、西栄寺に到るころには雲が拡がって肌寒くなり、福性寺に到るころには小雨になりました。いつも当たらない天気予報なのに、ここまで細部にわたって当てるとはたいしたものです。
福性寺に到着。またムクロジ(無患子)に会いました。
前回は先を急いでいたので、じっくり見ていません。この日の予定はここでおしまい。まだ二時前という早い時間だったのに、あいにくの雨です。
振り仰いでみましたが、実はつけていないようです。もしかしたら雄木と雌木があるのかしらんと思って地面に目を落とすと、三つだけ実を見つけました。二つはすでに泥にまみれています。泥のついていない一つだけ拾って家路に就くことにしました。
七福神を巡り終わったので、寺名と初めて参詣した月日を。
長流寺恵比寿(三月二十八日)と流山寺大黒天(同)。
清瀧院寿老人(八月五日)と春山寺布袋尊(十一月八日)。
成顕寺弁財天(十一月十二日)と福性寺毘沙門天(同)。
そして最後が昨日十一月十八日の西栄寺福禄寿。
帰りは真っ直ぐ東武野田線の江戸川台駅に出ました。
初めて福性寺を訪ねた日は、二つのお寺に寄り道したこともあり、そのお寺を捜すときも福性寺を捜すときも道に迷って、駅から一時間以上要しましたが、土地勘を得たこの日はわずか十五分で着いてしまいました。
↓この日歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map79014.html
昨十六日、朝八時から十二時まで、半日限の仕事が発生したので、赤羽に行ってきました。
仕事が終わったあと、赤羽駅周辺のお寺巡りをしました。最初に訪ねたのは静勝寺(じょうしょうじ)という曹洞宗のお寺です。
赤羽駅から歩くことわずか数分。急な石段のとっつきに稲付(いなつけ)城跡という石碑が見えました。
太田道灌(1432年-86年)が築いたといわれる戦国時代の砦跡で、明暦元年(1655年)、道灌の子孫で浜松藩主であった太田資宗(すけむね・1600年-80年)が堂舎を建立したものです。
石段を上り切ると、そこが砦跡であるとともに静勝寺の境内で、正面に太田道灌を祀る道灌堂が見えました。
厨子に納められた太田道灌の坐像(高さ44・5センチ)が安置されていますが、外から見ることはできませんでした。
静勝寺本堂と弁天堂(画像下)です。弁天堂は元禄七年(1694年)に建立された旧本堂です。
このお寺には中里介山が下宿していたことがあり、その部屋が弁天堂内に保存されているそうですが、いまは本堂内陣が工事中のため、本尊の釈迦三尊がこちらに移されているので、どうなっているのか、よくわかりません。
安岡章太郎さんも中学生(現在の都立九段高校)時代、このお寺で二年間暮らしたことがある、と「花祭」という作品に書かれていますが、安岡さんの場合は下宿ではなく、預けられたのです。
なぜ預けられたのかというと、学業成績がビリであったため。
そういう生徒を待ち受けている運命は、落第か退校か、そうでなければ「入院」することでした。「入院」とは担任の家に預けられるということです。
安岡さんの担任がまだ若くて独身であったため、隣のクラスの担任の家に「入院」することになりました。その先生が静勝寺の住職でもあったというわけです。
静勝寺から徒歩六分。真言宗智山派の普門院です。徳治二年(1307年)に創建されたと伝えられています。入口の鐘楼門も本堂も中国風のデザインです。
普門院から徒歩七分。日蓮宗法眞寺。創建は天正元年(1537年)、当初は天台宗寺院。
法眞寺から徒歩四分。曹洞宗・鳳生寺(ほうしょうじ)。建立は文明十年(1478年)。開基は太田道灌と伝えられています。
多摩丘陵からつづく武蔵野台地が隅田川で削り取られるので、赤羽は坂の多い町です。鳳生寺前から西に上って行く鳳生寺坂。
赤羽駅に戻り、北本通りに出ました。
赤羽駅から歩いて十分ほどのところに東京メトロ南北線の赤羽岩淵という駅があります。
何をするためにきたのか、まったく憶えがないのですが、南北線が開通したばかりのころ、この駅にきたことがあります。
赤羽岩淵駅。ここで降りたはずですが、周辺の風景はまったく記憶に残っていません。
大満寺。真言宗智山派の寺院。画像下は岩淵不動尊として親しまれている不動堂。
大満寺に隣接している正光寺。
本堂が新築工事中で、門が閉じられていました。本堂は昭和五十三年、失火で焼失したままだったそうです。入れないと思ったら、墓所の横手が開いており、聖観世音菩薩を見ることができました。高さは約10メートル。
このあと、梅王寺という浄土宗の小さなお寺を見て、荒川に足を向けました。
荒川と並行して流れている新河岸川に着きましたが、このあたりはあたかも刑務所を思わせるような高い壁がつづいているだけ。旧岩淵水門のある志茂橋まで行かないと、川を見ることができません。
旧岩淵水門です。ゲートの色から通称赤水門と呼ばれています。大正十三年の完成。
大正二年から昭和五年まで、十七年にわたる荒川放水路開削工事がありました。工事の責任者は青山士(あきら・1878年-1963年)という人。パナマ運河開削工事に携わったただ一人の日本人だといわれています。
水門そばに荒川知水資料館というのがあって、荒川放水路開削工事と青山士の概要を知ることができます。
荒川放水路ができるまでは隅田川が荒川でした。千住大橋から下流を隅田川と呼んでいたのです。
昭和四十年、放水路が荒川の本流とされ、それに伴って岩淵水門から千住大橋までの荒川も隅田川と呼ばれるようになったので、荒川区もあらかわ遊園も荒川とは無縁となりました。
旧岩淵水門から見た新岩淵水門です。旧水門の老朽化に伴い、昭和五十七年、300メートルほど下流に建設されました。赤水門に対して青水門と呼ばれます。
ここで新河岸川が合流し、隅田川が分かれます。水門の向こうが隅田川。
北区志茂5丁目あたり。何か? と思って立ち止まり、よくよく見たら、電車の連結部に使われている「ホロ」でした。修理工場のようです。
西蓮寺。創建は弘安年間(1278年-88年)という真言宗智山派のお寺。
ここも山門が閉じられていて入れないと思ったら、通用門が開いていました。山門前の掲示板には本堂前に鎌倉から戦国時代にかけての板碑(供養塔)が八基並んでいる、と書かれていましたが、見当たりませんでした。
行きは北小金→松戸→日暮里→赤羽という経路で行きましたが、帰りは赤羽→南浦和→新松戸→北小金という経路を辿りました。近いのに、どちらも二度の乗り換えを強いられるので、ちょっとばかり不便です。
本土寺の参道入口にある店でこんなもの(瓢箪)を売るようになりました。
→この日歩いたところ。
土曜日は久しぶりにハローワークに行って職捜しをしました。
平日と較べると、訪れる人の数は少ないものの、相談に応じてくれる担当官の数も少ないので、長時間待たなければならないのは同じです。備え付けのパソコンで求人情報を視て、相談の順番を待つ間、坂川へ散策に出ました。
川べりには竹をドーム型に組んだ得体のしれないものがありました。
来週二十一日から始まる「松戸アートラインプロジェクト2010」なるフェスティバルのオブジェのようですが、三角コーンが置かれたままになっているところを見ると、製作の途中なのでしょう。パンフレットによると、テーマは「森」で、松戸駅前や坂川沿いにオブジェを置いたり、シンポジウムを開催したりするようです。
ここ何日か暖かな日がつづいています。そのおかげか、前世が冷血動物だったと思われる私は血流もリンパも巡りが悪いのに、不思議と足だけは暖かいのです。ただ、暖かいとはいっても、外に出れば手指だけは冷たいままなので、手よりも心臓から遠いはずの足が暖かいのを不可思議に思いながら歩いています。
先日見つけたツワブキ(石蕗)を観察に行きました。
このツワブキが咲いているのは……。
本土寺裏にあるこんな急な石段を下ったあと……。
こんな急坂を上って行く途中、右手の樹の繁みの中です。
少し離れたところにも一叢だけありました。
道の端を右、左、とキョロキョロ見回しながらツワブキの花を探索して歩きました。これはまったく別の場所。
これら以外にこの散歩で見つけたツワブキの花はあと二か所。いずれも民家の庭の中だったので、写真を撮ることはできませんでした。
幸田(こうで)第3公園という公園にあるイチョウ(公孫樹)です。
周辺をグルリと巡って本土寺の参道に出たら、こんな掲示が目に入ったので、ちょっと首を傾げながら、「アレアレ」と呟きました。
首を傾げたのは日中の参観料と夜間の料金が別立てになっていることでした。料金は日中と同じ¥500(小学生¥300)。日中のチケットでの再入場はできませんと朱文字で注記があります。
日中の閉門時間は午後五時。ライトアップの入場は午後六時から、となっていますから、言葉は悪いけれども、日中の参観客 ― あえて参拝という言葉を使わないのは、くる人が日蓮宗の信徒ばかりではないだろうと思うゆえですが、本土寺では入山料金を参観料とはいわず、参拝料といっています ― を、一旦キッチリと閉め出しておいて……ということなのです。
しかし、ほとんどは遠くからわざわざきてくれる人で、紅葉目当てにくるのでしょうが、ライトアップしているなら、夜も見たいという人もあるでしょう。
広大な寺域を維持管理して行くのとライトアップそのものにもお金はかかるでしょうから、部外者である私がはた迷惑な感想を述べるのは控えるべきかもしれませんが、浅草の浅草寺はライトアップするからといって、料金は取りません。第一、浅草寺には塀や囲いがなく、どこからでも出入り自由なのですから、料金を取ろうにも、取りようがないのですが……。
浅草寺とは参拝客と参観客の数が比較にならぬので、賽銭と物品販売だけではやって行けぬだろうし、夏の紫陽花や菖蒲にしても、手入れにかかる諸掛かりは「ただ」ではないのだから、対価を取ることに反対ではありません。
けれども、再び遠くからやってくる人がほとんどであろうということを考えると、せめて通しの割引料金を設定するということはできなかったのだろうか、と首が傾いでしまったわけです。
これまでずっと入るのを敬遠してきたのに、万灯行列を見物させてもらった際、折角近くに引っ越してきたのも何かの縁なのだから、一度くらいは参観料を払って入らせてもらうか、と心を入れ替えたのに、やっぱりなぁ、とまた敬遠気味に心の引いて行く私です。
ライトアップの左に貼られたポスターは「お堂シャンソンの夕べ」と題したシャンソンコンサートのお知らせ。
ライトアップは二十六日の金曜日でおしまい。終わった翌日がコンサートです。料金は¥1000で、境内参観料もコミコミですが、まあ、手を変え品を変え、なかなか忙しいようです。
外から覗く限りでは、紅葉はあと一週間後ぐらいではないかと思えます。今日のような曇り空だと、陽光に透けて見えるような美しさは望めませんが、暖かい日曜とあって結構な賑わいを見せておりました。
参道沿いの店も貴重な稼ぎ時です。
観光客がまず通ることはなく、地元の人しか買わないような農家の玄関先の無人販売とは異なって、大根も柿もその他の野菜も、一応見目麗しいものを並べてあります。そのぶん五割程度高い値がついていました。
本土寺の樹の上で睨み合う蒼鷺と鴉。
鴉は無言でしたが、蒼鷺のほうが盛んに「エーッエーッ」と喚いていたので気づきました。拡大してあります。かなり遠い距離でした。
近くにはまだ歩いたことのない径が残っています。幟に釣られてひょっこり小径に入ってみたら、見目麗しくないとはいいませんが、いかにも畑から抜いてきたばかりという野菜と柿が並んでいました。
柿を買いました。四つ入りで¥100也。
食べてみたら、非常に堅くて、甘みもあまりない。残り三つはもう少し熟成期間を置くことにしました。
途中でこんなものを拾いました。鈴懸の実です。
このところ好天つづき。
先日、偶然立ち寄った春山寺で布袋尊を見たのが流山七福神の四つ目。残りの五つ目~七つ目は我が庵から歩きでがありますが、一気に制覇してしまわんものと出かけることにしました。
最初に東武野田線豊四季駅近くにある成顕(じょうけん)寺の弁財天を見に行きます。
富士川と坂川沿いに歩いて、野々下水辺公園から始まる坂川の出発点を通過。放流のない日もあります。今日の放流量は中程度。
東武野田線の豊四季駅を通り過ぎ、我が庵を出てから徒歩五十分で大堀川を渡る駒木橋に到りました。手賀沼に注ぐ川です。
成願寺へは豊四季駅前の通りをもう少し進んでから曲がらなければならなかったのですが、一つ手前を曲がってしまいました。ために、成願寺の裏手を半周して裏門から入ることに……。
成顕寺。本堂右手に本尊の釈迦如来、左手に諏訪龍神を祀るという神仏習合の寺。豊四季駅近くには去年訪れた諏訪神社がありますが、かつてはその奥の院であったようです。
真言宗寺院として大同年間(806年-09年)に創建、鎌倉時代の弘安年間(1278年-87年)に日蓮宗に改宗、と伝えられています。
ここでも万灯練り行列があると知りましたが、期日は日蓮の命日(十月十二日)とは程遠い八月二十二日です。その日には諏訪神社の例祭があるので、それに合わせているようです。
鰐口。直径90センチ、厚さ50センチと大型です。
流山七福神・五つ目の弁財天。
境内は落ち葉盛ん。十人近い人が境内に拡がって落ち葉の掃除をしていました。
六つ目の毘沙門天がある福性寺まで歩いて行くのはかなり厳しい。豊四季駅に戻って電車に乗り、三つ先の江戸川台で降りました。
江戸川台で降りて地図を見ると、駅からそれほど遠くなさそうなところに慈眼院と浄信寺という「卍」の印がありました。「慈眼」というのは慈眼大師 ― 天海僧正の諡号(しごう)です。
地図では宗派がわかりませんが、天台のお寺なら、きっと何かの因縁があるはず……「慈眼」という字を見れば寄らずにはおれません。
道が間違っていなければそろそろあるはず、と思って歩みを進めましたが、一向に寺らしきものがない。間違ったかもしれないと思って途中で横道に入り、周辺をウロウロ。
広く交通量の多い道路に出てしまうと、バス停があって、やはり先ほどの道が正解だったのだと知らされてあと戻りしました。
遠いのも道理でした。私が携帯していた地図の縮尺は、中心街は一万五千分の一なのですが、慈眼院と浄信寺が載っている周辺部は三万分の一であったのです。
慈眼院は天台ではなく、真言宗豊山派の寺でした。無住のようで、山門も通用門も閉じられていて、本堂は見えますが、写真に写せるようなアングルがありません。流山市が建てた説明板で創建が戦国時代とわかるだけでした。
慈眼院と向かい合わせて浄土宗浄信寺がありました。創建は天正六年(1578年)。
説明板には六十年に一度開帳の秘仏・聖観音(しょうかんのん)が祀られている、とありました。六十年に一度とは、一度きりの人生で二度拝めることはむずかしいはず。それなのに前の開帳はいつであったのか、何も説明がありません。
浄信寺から福性寺へ向かうとき、この日二度目の道の間違い。
間違えたおかげで野良殿に出会えました。
私がバッグに忍ばせているミオは一袋40グラム入り。野良殿に出会えば、一匹に対して手のひらに一握りずつ、一匹しかいなければ三回か四回ぶんあるのですが、この野良殿はよほど腹を空かせていたのか、猛烈な勢いで食べ始めました。
食べ終わっても鼻を伸ばして匂いを嗅いでいるので、もう一握り、もう一握りと、結局一袋まるまる食べてくれました。
※いつだったか、電車の中で漏れ聞いた話です。
猫は犬に比べると嗅覚がかなり落ちるようです。そこでキャットフードなるものは幾分強めの匂いがつけてあるらしい。
その話を聞いたからか、それ以前からか、確かな記憶はないのですが、野良殿に出会ったとき、私はミオの袋を振ることにしています。封を切っていない場合は封を開けて……。
チッチッと舌を鳴らしても、素知らぬ顔を決め込んでいる野良殿も、音を聞くと(実際は強めにしてある匂いが漂うのでしょうか)近寄ってきてくれます。いまのところ百発百中です。
周辺は畑を縫うようにして曲がりくねった道ばかりです。高い建物はないので、見晴らしはよいのですが、神社や寺かと思わせる森がそこらじゅうにあります。あれか、と目星をつけて行ってみると、残念ながら屋敷森。二つアテが外れてさまよっているうち、ようやくお寺らしい高い屋根を見つけました。
福性寺本堂前に聳える無患子(ムクロジ)と公孫樹(イチョウ)です。
無患子は一年近く前までは名前すら知らなかった樹なのに、研鑽を積んだおかげで、いまでは葉と大まかな姿を見れば、無患子だとわかるようになりました。
無患子(上)と公孫樹(下)の根元です。両方ともこれだけの大樹であるのに、流山市の保存樹木に指定されているというだけで(それも流山市のホームページで知りました。現地には何もなし)、樹齢その他は何一つわかりません。
無患子の根周りは目測で3メートル。公孫樹は6メートルは下らないと思えます。樹の高さは公孫樹のほうが少しだけまさっています。
福性寺本堂です。真言宗豊山派のお寺で、弘化元年(1844年)の創建。
肝心の毘沙門天です。無患子に見とれてしまって忘れるところでした。
これで六福神を巡りました。これまで見たものはすべて石像でしたが、この毘沙門天だけは青銅のようです。右手につかんだ三叉戟(さんさげき)を石から彫り出すのはむずかしいからか。
七福神の残る一つは西栄寺の福禄寿ですが、福性寺からは流山街道沿いに歩いて四十分ほどかかりそうです。二度も道を間違えてウロウロしているので、一時間近く時間を無駄にしています。
陽もかなり傾いてきました。陽光のあるうちに辿り着けるかどうか、と危ぶみましたが、ともかく流山街道を歩き始めました。
秋の陽は釣瓶(つるべ)落とし、とはよくぞいったものです。右手に夕陽を見ながら急いだものの、香取神社前を通過するころには薄暗くなってしまったので、西栄寺訪問は断念。
到着までにまだ二十分ほどかかりそうでした。コンパクトデジカメのストロボではきっと写真にはならないだろうし、真っ暗になったあとに、歩いたことのない道を帰らなければならないのも心配だし、夜目では地図も読めなくなってしまいます。
降りた江戸川台駅は遙か遠くに去っているので、一つ柏寄りの初石駅に出ることにしましたが、常磐道を越すころには完全に日が暮れて、この日三度目の道の間違いを犯しました。
夕陽に燃える森。芸術的で絶妙な色合い、と思ってシャッターを押しましたが、モニタを見てみると、さほどのことはありません。パソコンに取り込むと、なお一層さほどのことはない。
しかし、実際は実に実に美しかったのです。道を間違え、西栄寺行を断念したおかげです。流山市上新宿(かみしんしゅく)の八坂神社で。
↓この日歩いたところ第一部。坂川放水口→成顕寺→豊四季駅まで。
http://chizuz.com/map/map78606.html
第二部。江戸川台駅→福性寺→初石駅まで。豊四季→江戸川台は電車利用。
http://chizuz.com/map/map78607.html
風邪ひき四日目。グスグスしていた洟水が治まったようなので、朝の散策に出ました。
庵を出てほんの二、三分のところ。名前を憶えたばかりの貝殻草が咲いています。朝の冷たい空気は苦手なようで、ピッチリと花を閉じています。ハハーン、貝のように開いたり閉じたりするので、貝殻草(?)。
いまの時節、日の出は六時過ぎ。我が庵は本土寺近くの高台にあるのですが、東方には富士川を挟んで流山・前ヶ崎の高台があるので、実際に太陽が拝めるのはもう少し遅いのです。
わりと暖かい朝、と思って外に出ましたが、さすがに朝の冷気は厳しくなっています。朝露も寒々しさをかき立てます。もう一枚何か着ないとヤバイ! と感じて一度引き返しました。
玄関を入る前に庭を覗くと、バサッという音。
見れば、前の家の飼い猫です。私に気づいて、ちょっとだけ逃げましたが、余裕綽々でこっちを振り返っています。「このォ~」と足を踏み鳴らして威嚇してやると、一目散に逃げて行きました。
ときおりコヤツが私の庭にいるのを見かけます。朝、カーテンを引く音に愕いて逃げて行くのを見るのもしばしば。そしてこの一週間ほどで、ハハーンと気づくことがありました。
苗を植え替えようと庭の土を掘り返し、小石やドクダミの根を抜いて篩った土を入れ直しているのですが、細かい土に入れ替えたところはスポンジケーキのように、ふんわりと柔らかくなっています。そこに猫のものらしき足跡を見つけるのです。
入ってくるだけなら、威嚇して追い払ったりはしません。なぜ追い払うのかというと、柔らかくした土を掘って、苗のための溝をつくると、やられた! ということがあるのです。なんと糞をする場所に我が庭を選んでいやがった!
野良を見るとついミオを出してしまう私は、食べ物を与える以上、野良も糞をせねばならぬということは知っています。野良を嫌う人たちの悩みと怒りの対象の一つがそういうことだとも……。
その飼い猫は黒と白の斑(ぶち)で、わりと身体もデカイ♂です。
何か月か前、その斑と、どうやら野良のオイチらしい♀が我が庭で睨み合っていたことがあります。睨み合いのあと「フニャーッ」ととっくみあいが始まって、オイチは呆気なく負けてしまいました。
そのオイチや一家の三姉妹たちの糞であれば、私はヤレヤレと思いながらも、決して追い払ったりはしないつもりです。しかし、縄張り争いに負けたオイチが我が庭にくることはないでしょう。
だからよけいに斑が憎らしい。おまえには家があるんだろう? あるんならテメェんちでしろよ、と威嚇してやったわけであります。
家に入ってしばらくしてから庭に出て見ると、朝は気づかなかったところがへこんでいます。「ヤロウッ」と土を掻いてみると、やっぱりだ。
癇癪玉とパチンコを買っておいて、もしきたら一発お見舞いしてやろうと考えましたが、いまどき癇癪玉を売っているような駄菓子屋など近辺にはありません。
そのまま戻って家に居つづけたあと、太陽が充分に高くなった昼過ぎに再出発。
とくにどこを目指すというアテはなかったのですが、歩いているうちに、ツワブキ(石蕗)の花を捜しながら、坂川の始まりである野々下水辺公園へ行ってみようと思いました。
今年の秋は曼珠沙華も金木犀も開花が遅れたように、石蕗も遅いのだと思っていたら、ブログ友達のブログにツワブキの写真が載せられていました。
少なくとも松戸よりは寒い地方に住む人です。ということは、松戸でも見かけていいはずなのに、見ていない。そういえば、ときどき行く廣壽寺にある以外、周辺でツワブキの葉っぱを見た、という憶えがありません。
前は富士川と坂川に沿って歩いたので、今日は違う道を、と思って富士川べりには下りず、本土寺裏の道を直進。
前回野々下水辺公園へ行ったときに渡った御體橋(おたいばし)の一つ下流・八木乃橋(やぎのはし)で坂川を越えました。ここから先は流山市。なおも直進。
ツワブキの花はどこにもありません。野々下水辺公園へ行くためには、そろそろ右折するころかと思った交差点でこんな標識を見かけたので、どんなお寺か、行ってみることにしました。
標識の建っていた場所から八分もかかりました。我が庵からだと三十五分。
春山寺は曹洞宗のお寺で、創建は天文年間(1532年-55年)。当初は天台宗寺院。江戸時代初期に曹洞宗に改宗。
まったく知らずにきましたが、流山七福神の一つ・布袋尊が祀られていました。
松戸七福神巡りをしたとき、当初は七福神巡りをしようと考えたわけではありませんでした。お寺巡りをしているうち、徐々に七福神を巡ることになり、確か四つほど巡ったころに、どうせなら、ということで目的にしようと考えて、一応結願(けちがん)したという次第でありました。
流山七福神の場合も、流山の中心街近くにある流山寺、長流寺がそれぞれ大黒天、恵比寿神を祀っていましたが、あと五つを捜して巡ろうとは考えませんでした。
たまさかいまの住居に引っ越して、廣壽寺に行ったついでに参詣した清瀧院に寿老人が祀ってあったのを知っても、残り四つだとは考えませんでした。しかし、偶然四つ目に出会ってみると、むむ、という気にはなります。
ただし、庵に帰ったあとで調べてみると、残り三つは我が庵から非常に遠いのです。
中でも一番遠い福性寺(毘沙門天)は柏まで行って東武線に乗り換え、江戸川台という駅まで行かなければなりません。とても歩いて行けるところではありません。
が、このお寺にはムクロジ(無患子)の樹があるということですから、いつか行かなければならないということになりました。
ブラブラ歩いているうちに、浄蓮寺という日蓮宗の寺院の前にきました。寛永八年(1631年)の創建。眼病平癒の霊験あらたか、と知られているそうです。
浄蓮寺門前からは博物館か美術館を思わせる建物と一面の緑が見えました。行ってみると流山総合運動公園でした。博物館かと思った建物は体育館でした。
我が庵を出てからすでに四十分。知らず知らず随分遠いところまできてしまいました。
公園内には日曜画家ならぬ火曜画家が到るところでキャンバスに向かっていました。
歩き詰めに歩いてきた私はここで初めてベンチに腰を下ろして休憩。自分で握ってきた明太子と梅のお握りをパクリパクリ、ペットボトルに詰めてきた伊右衛門をゴクリゴクリ。
公園隣にある日蓮宗本妙寺のエノキ(榎)です。正中元年(1324年)の創建と伝えられていますが、詳細は不明。
本土寺近くまで戻ってきて、行き止まりかもしれぬが……と細い径に入ったら、ツワブキが咲いていました。葉叢は数か所ありましたが、花が咲いていたのは二つだけ。
この花を捜す散策だったはずなのに、歩いているうちにすっかり目的を忘れておりました。
この画像はかつての勤務先があった市川大野で去年見たツワブキです。これだけ立派な花にはなかなかお目にかかれない。
勤めを辞めたあと、市川大野へは二度と行くことはないだろうと思っていましたが、ツワブキが咲いているはずの場所は駅からさほど遠くないし、オフグ一家にも会えるかもしれないので、ちょっと行ってみるか、という気にもなりかけています。
本土寺裏の坂でドングリ(団栗)拾いをしていた子どもたち。
風の強い一日でした。しかし、強風は落ち葉を吹き散らすことなく、まるで掃除をしているように上手に集めて行きます。本土寺横で。
帰り途、貝殻草を見ると、充分な陽光を浴びて、パカッと開いていました。
昨日は立冬。
去年もそうでしたが、冬の始まりにしては暖かい朝でした。晴天がつづいて、玄関前にこしらえた「探査装置」によれば、廣徳寺の湿った落ち葉もごみ袋に詰めごろ、と思われるのですが、風邪をひいてしまいました。前日から洟水が止まらず、朝になって頭も重い。
寒くなってきたので、好天がつづいているのを幸いに、羽毛布団を出して陽に干し、ヌクヌクにくるまれて、極楽極楽と眠ったのですが、さすがに暑かったとみえて、夜中に目覚めると、布団を蹴飛ばしている。未明にもまた蹴飛ばしている……てなことが風邪ひきの原因のようです。
それでも、作務に励んで汗をかけば治るかもしれない、と腰を上げかけましたが、イヤ、暖かい時期ならいざ知らず、汗に濡れた身体で寒い中を帰ってきたら、もっとひどくなるかもしれない……などと思いあぐねているうちに、七時になり八時になり、風邪はひいても腹は減るので、朝飯を食いますか、と用意をしている間に九時を過ぎて、出るタイミングを失してしまいました。
昨日は本土寺の御会式。万灯練り行列がありました。
午後一時に行列の出発地の東漸寺へ行くつもりでしたが、モタモタしているうちに出かけるのが遅れ、北小金駅近くまで行ったときには、すでに「ソレソレソレソレーイッ」という掛け声と団扇太鼓、鉦、笛の音が間近に聞こえ、行列の先頭は駅南口のロータリーを廻っていました。
行列をやり過ごして東漸寺へ行きました。
行列が出払ったあとなので、森閑としていました。ほんの少しですが、紅葉が始まっていました。
日蓮宗の本土寺に対して、こちらは浄土宗。
日蓮は攻撃的な人(としか私には思えないのですが)で、とくに「諸仏諸経の怨敵 聖僧衆人の讎敵(しゅうてき)なり」とか「念仏は無間地獄の業」といって批判したのが浄土宗の宗祖・法然上人です。
それが一千年近くも経てば、場を提供しただけとはいえ、呉越同舟のようなことにもなるのですな、と紅葉を眺めながら思ったことでした。
行列の進む速さは一時間に500メートルぐらい。
旧水戸街道を通り、常磐線の跨線橋に向かいます。そのあたりで休憩と聞いたので、私もいったん家に戻って、仕残した農作業のつづき。
大きくなってきたハーブと桔梗の苗を庭に移し替えようと、土を篩って畝をつくっているのです。
ついでに我孫子の志賀さん邸と与野の妙行寺で拾ってきたカクレミノ(隠れ蓑)とモッコク(木斛)の実を庭に埋めました。
芽を出してくれるかどうかわかりませんが、出るとしても来年の春。それまで生きなければならぬと、ちょっとオーバーながらも考えました。あと十年、歳をとったら、本気でこうして自分を叱咤しなければならなくなるのでしょう。
本土寺参道に入った練り行列。
万灯行列を先導するのは纏です。江戸の火消しが万灯行列を見て、法被姿に纏を持って加わったのが始まり。
ひと通りクルクル廻すと、周りを囲んでいる人が順繰りに交替して行きます。持った瞬間、「重ーッ」といっていますが、一本5~7キロあるそうです。ただ、江戸時代、火消しが振った纏は15キロ。しかも地上ではなく、屋根の上でした。
男と女の違いがあるのかもしれませんが、上の画像は男で、私のかつての地元・台東区からやってきた人たち。画像下は女で、いまの地元・松戸の人たち……。台東区に較べると、松戸の法被の着方は少しだらしなく見えます。
祭なのだから、足許は紺の地下足袋と思っていましたが、白足袋に草履の人のほうが多かったようです。纏を持ったときは大変ですが、あとは手を叩きながら掛け声をかけ、時速0・5キロで歩くだけ。御輿を担ぐわけではないので、草履履きでも支障はないのでしょう。
本土寺山門脇を通って境内に入って行きます。
通常¥500の参拝料が本日は無料。
行列見物はそっちのけで、ここぞとばかり境内を巡る人が大勢いましたが、私はなんとなく後ろめたいような気持ちが湧いて、境内はちょっと見ただけ。紅葉もまだまだであったし、とくに見たいものもありません。
五重塔前では寺の関係者がお出迎え。最後に南無妙法蓮華経の大唱和。
どんなに譲っても、南無妙法蓮華経だけはいただけないので、私は心の中で南無釈迦牟尼佛と唱えつつ帰路に着きました。
さて、ドラゴンズは残念賞。
よく「打」は水物、よって守りを固めるのが常道といわれますが、稲尾、権藤、村山といった投手の出現は夢のまた夢であるいま、守りの中心である「投」もまた水物。
今季両リーグ一という防御率を誇った「投」はやっぱり水物であったという結果に終わってしまいました。水物でなかった投手がチェン独りというのでは四つ勝つことは望めません。
なんという花なのか名前は知りませんが、近くの畑地脇に色とりどりの花を咲かせていました。花が少なくなったいまの季節、とりわけ目立ちます。(後記:このブログへのコメントで貝殻草であると教わりました。ドライフラワーに最適な花だそうです)
こちらは菊。これも畑地脇。
富士川にはチュウサギとコサギがきておりました。
昨四日は一か月に一度(正確には四週に一度)の通院の日でした。
先月は講習に出ていたので、指定されていた七日には行けず、十二日に薬だけもらいに行って、二十一日に診察を受けました。これまでは朝八時に行って採血、九時から受診という手はずであったのが、臨時だったせいか、十一時半に行って採血、受診は午後一時から、と変更になりました。
四週に一度であれば、次回は今月十八日のはずでした。ところが、前回の帰り際、担当医が「次はまた元に戻しましょう」というのを、「診察日は……」と付け足してくれればすぐに合点が行ったのに、いってくれなかったものですから、私は元通り八時出勤と思いながら診察室を出たのです。
しかし、なんとなく引っかかるものがありました。処方箋が出てくるのを待っている間、引っかかりが解消しなければ、戻って、「何を、(元に戻すの)ですか?」と訊ねようと思っていたところ、処方箋を見て合点が行きました。
次回の診察日が四週間後であれば、二十八日分の薬と書かれているはずのところに、十四日分としか書かれていなかったからです。
処方箋を渡してくれた、おちょぼ口のナースが「次わーあ」と、幾分哲学的な表情で念押ししてくれたのが昨四日午前十一時半の出勤でした。
通院の帰りは恒例の遠くへ行く日です。
石岡も行き、栃木、古河、佐倉と行ってしまったあと、上野から行ける(ちょっと)遠いところは即座に思いつかなかったし、これまでとは違って、病院を出るのが午後一時半という決して早い時間ではないので、与野のオオカヤ(大榧)を見に行くことにしました。
すでに見た市川・本八幡の千本公孫樹、小岩の影向(ようごう)の松の二本と同じように、日本の銘木100選のうちの一本であり、国指定の天然記念物です。
上野から京浜東北線に乗り、赤羽で埼京線に乗り換えて南与野で降りました。
南与野で降りるのは十数年ぶりです。仕事で埼玉大学を訪ねたとき以来で、景色の明確な記憶はありませんが、コンビニや多少の店ができたほか、駅前の風景は変わっていないように思えました。
うっすらと記憶に残っている埼大大通りの欅(ケヤキ)並木。十数年経っているので、ちょっとは高くなったのでしょうか。
南与野駅から徒歩十分。正面に山門が見えましたが、オオカヤと思えるほどの高木は見えなかったので、どこにあるのだろうと背伸びしながら歩いていたら、参道を外れた右手に聳えていました。
これはデッケェー! と圧倒されます。樹齢は推定一千年。樹高21・5メートル、根周り13・5メートル。駐車場になっている空き地が狭いので、カメラを引き切れず全容を写すことができません。
大榧の樹下には金毘羅天堂がありました。
妙行寺の山門と本堂。
日蓮宗のお寺です。開創年代は不明。カヤの樹はこの山門の右手、金毘羅天を祀るお堂の境内にあります。
本堂後ろにあるモッコク(木斛)。こちらは樹齢六百年。
上部は枯死してしまっています。頑丈そうな鉄製の支柱と張り巡らされたワイヤに支えられて命を保っています。幹周3・4メートル、樹高19・7メートル。埼玉県指定の天然記念物。
山門横の板石塔婆。梵字は阿弥陀如来を示すキリーク。その下に正元二年(1260年)の銘が彫られています。日蓮宗の寺院なのに、なぜに阿弥陀如来かといえば、古名は心浄寺といって、臨済宗の寺院だったからです。
このあと圓乗院というお寺を目指すことにしました。
私が歩いているのはさいたま市中央区。百万都市であるのに、野菜の直売所があったり、地場チェーンと思われるコンビニでも野菜の種を売っていました。道路沿いは家が建て込み、マンションなどもあって、農地などは見えなかったのですが、漂う雰囲気は田園地帯です。
この店の前に苗を売るコーナーがあって、苗を買うために与野へきたわけではないが、ハーブの苗でもあれば、一鉢二鉢なら荷物にもならぬと思って巡ったのですが、ハーブ類はありませんでした。
さほど広いわけでもない野菜直売所ですから、とくだん変わったところはありませんが、私にとっては予期せぬ店だったので、急に愉しくなって、野菜や柿などをためつすがめつしながら、三十分近く過ごしてしまいました。
柿は富有柿とも次郎柿とも書かず、ただ「柿」でした。まかり間違っても千疋屋などでは決して売らないような風体がよい。
心惹かれつつも買うのを断念した玉葱の苗(上)。五十本入って¥400。十本入りがあったら買ったかもしれません。
下の画像の中央は空豆、その右横はスナップ豌豆(えんどう)の苗。ともに一鉢¥50。こちらも手を伸ばしかけたり引っ込めたり……。
妙行寺から徒歩二十分で安養山西念寺円乗院に着きました。
建久年間(1190年-99年)、畠山重忠が現在地から3キロほど離れた道場(どうじょう)村(現在のさいたま市桜区道場)に創建した真言宗智山派のお寺ですが、慶長年間(1596年-1615年)に現在地に移建されたと伝えられています。
多宝塔。塔中央にはお釈迦様の真骨が奉安してあるそうです。塔の高さは30メートル、高野山、根来寺に次ぐ大塔だそうです。
大日堂と与野七福神の一つ大黒天。
本堂前の千代桜。エドヒガンの変種で、開花は四月初旬。樹齢三百年。樹高5・3メートル。
万霊塔。
もしかしたらアントニオ・ガウディがきていたのではないかと思ってしまいました。納骨堂だそうです。
向こう側にも石仏が林立しています。このお寺の誇りとするところは先の多宝塔だそうですが、私はこっちに興味を惹かれました。
帰りは一駅大宮寄りの与野本町まで歩いて電車に乗りました。
妙行寺でモッコクの実を拾ってきました。ツバキ科の樹木だそうで、なるほど椿と同じような、堅そうな殻に覆われていますが、大きさは椿の実の四分の一から八分の一程度。豆菓子みたいです。
樹木図鑑によると、千葉県以西の温暖な地に生育する樹木で、実は直径1・5センチとありましたが、私が収穫したものはどれも1センチそこそこしかありませんでした。
やっと辨榮(べんねい)聖者のお墓を訪ねることができました、とホッとして帰ってきた日曜夜、さてブログを更新しますか、と「醫王寺」やら「辨榮」をキーワードにインターネットで検索を始めると、アリャリャ? と思うことがありました。
辨榮さんのお墓がある醫王寺を開いたのは、東漸寺の開基でもある經譽愚底(きょうよ・ぐてい)という浄土宗の僧侶なのですが、その人の墓所も醫王寺にあったことを発見したのです。
醫王寺を訪ねたのは辨榮さんのお墓参りが目的ではあったのですが、愚底上人のお墓があると知っていれば、ついでながらもお参りしていたはずです。また忘れ物をしたような心地です。
昨日、サティで買い物をしたあと、こんなものがぶら下がっているのを見つけました。イオンということはジャスコも、ということでしょう。
ジャスコの母体の一つは三重県四日市が発祥の地の岡田屋です。中京圏の血が入っているのに、ドラゴンズの応援はしないというのですね。
そういうことなら、これから先ずっと……ということだと、私が買い物のできるスーパーは北小金にはほかに一店だけということになり、よく使うものなのに、サティにはあってそのスーパーにはないというものがあるので、生活に支障もきたしますから、少なくとも日本シリーズの間はサティでは買い物をしない! と決めました。
北小金駅のプラットホームから改札口へ上がる階段は抱き合わせになった二つだけです。松戸寄りは上下ともエスカレーターですから、なんの問題もありませんが、柏寄りは階段で、当然上り下りの標識があります。見ていると八割方の人は下り階段を上って行きます。
同じように目測ですが、乗降客の数が比較にならぬほど多い松戸駅では一割程度のルール無視派がいます。柏駅になると三割ぐらい。私が利用する時間帯によるかもしれません。
もう少し若かったころは、こういう光景を見ると無性に肚が立ち(肚を立てたところで、なんにもならぬのですが)、こういうヤツラが大部分という日本の国を憂えたりしましたが、いまは肚を立てることもなく、相変わらずだワイと呆れるわけでもなく、じゃあなんなのだ? とつらつら考えてみると、悲しい-という気持ちに近いのです。
北小金駅-日中はそれほど人の乗り降りのない駅ですが、利用するのは地元のヤツラが大半なので、階段近くの車両に集中して乗っています。ドアが開くと、何をそんなに急ぐのかと思うほど先を争って階段を上って行きます。八割方が自動車でいうなら、反対車線を逆走です。
こういうヤツラは車を運転するときも反対車線を走るのかというと、決してそういうことはない。そんなことをしたら死ぬか、死なぬまでも交通違反だと知っているからです。人対人なら反対車線を歩いても死ぬこともなければ、罰金をとられることもない。
血相変えたヤツラがドドッと上がってくるので、降りようとしていた人は我が意に反して反対車線を選ばざるを得ません。
ある人にこういう話をしたら、そんな細かい、どうでもいいようなことにこだわりを持つ私がおかしい、ということをいわれましたが、おかしかろうが、妙竹林だろうが、悲しいものは悲しいのです。
北小金駅南口から徒歩十分のところに松戸市立図書館の小金分館があります。蔵書はさほどないので、引っ越してきた直後に覗いてから、行っていなかったのですが、散策の途中にまたブラリと寄ってみたら、小さい図書館なのにCDの貸し出しがあり、桂枝雀の「落語大全」があるのを見つけました。
ふと聴いてみようかという気になって借りてきました。上方落語なので、「枝雀」という名前と「すびばせんねぇ」というギャグを識っているだけで、寄席はもちろんテレビやラジオでも親しく接した記憶はありません。
二代目桂枝雀。昭和十四年、神戸・灘の生まれ。家計が苦しく、定時制高校に通って二十歳で神戸大学に入学。翌年三代目桂米朝に入門。平成十一年四月、心不全で死去。五十九歳。
得意とした「ちしゃ医者」や「饅頭こわい」を聴きながら、何度も笑わされました。しかし、笑いながら悲しくなりました。天寿をまっとうしたのならいいけれども、鬱病に悩み、自殺を図ったのが原因で、意識不明のまま心不全を起こして亡くなった人だからです。
五十九歳という年齢は噺家としてはいかにも早い死です。
死とCD、という関係からルチア・ポップ、ジャクリーヌ・デュ・プレとジャニス・ジョプリンを連想しました。ルチア・ポップは以前のブログで取り上げました。
ジャクリーヌ・デュ・プレ。
イギリスのチェリスト。1987年、四十二歳という若さで死去。死因は多発性硬化症。私は「Les Introuvables de Jacqueline du Pré」というCD6枚組のボックスセットを持っています。収録曲はバッハ、シューマン、サン=サーンスなど。
私はクラシック音楽を聴くのも趣味のうちですが、バッハはほとんど聴かないのに、彼女が演奏する無伴奏チェロ組曲だけは聴くのです。
そしてジャニス・ジョプリン。
初めてジャニスの歌を聴いたのは私が大学三年生(留年して学部には進めずにいたので、正しくいえば、大学三年目です)のときでした。とんでもない歌手が出てきたものだと舌を巻いたことを憶えています。
そして、名前を識ってから、わずか一年後に迎える死。
音楽がかなりの比重を占めていた私の青春時代を、まっしぐらに駆け抜けて行った人になりました。
それから四十年。
私の所蔵はLPからCDに変わりましたが、ほんのときたまモソモソと引っ張り出しては聴くことがありました。ときたま、といっても、五年か十年に一度ぐらい……。
ところが、去年の終わりごろか、今年になってからか、何かの拍子にジャニスが歌う曲のメロディがポッと頭に浮かぶようになり、最初は誰が歌う歌だったのか見当もつかず、やがて、「そうじゃ、ジャニスじゃ」と思い当たって、CDを入れた段ボール箱を引っかき回し、五枚持っているのを次々とプレーヤーに押し込んで、早送りで見つけたのが「コズミック・ブルーズ」という曲でした。
曲調がマイナーからメジャーに変わるところ、私はなぜに感極まるのか、涙ぐんでしまいます。
ジャニスには「フェアウェル・ソング」という白鳥の歌を思わせるナンバーがありますが、私はいつごろからか「コズミック・ブルーズ」こそがこの世への別れの歌だったのではないかと思うようになりました。
You Tubeに、亡くなる年に歌ったヴァージョンがありました。
この歌声を聴きながら、曲調がマイナーからメジャーに変わるところで、私は再び涙ぐんでしまいます。
昨日は午後から雲が出ましたが、今日は朝から快晴。
雨で濡れた落ち葉も乾いているかもしれぬ。いよいよ廣徳寺の作務に出向くべきか、と玄関前にこしらえてある「探査装置」をひっくり返してみますと、中はまだ湿っていました。
探査装置などというと大袈裟ですが、玄関前に生えている茗荷(ミョウガ)が枯れ始めたので、茎を抜いて積み、小規模ながら廣徳寺の落ち葉置き場と同じようなものをこしらえたのです。これを見れば、廣徳寺に出向かなくても、落ち葉がごみ袋に詰められる状態まで乾いているかどうかがわかるというわけです。
洗濯は昨日のうちに済ませたので、今日は布団を干し、その間に散策に出ました。タオルと石鹸とシャンプーをトートバッグに入れて……。
去年のブログを読み返していたら、去年の十一月二日に初めて石蕗(ツワブキ)の花を見ていました。そこで、タオルと石鹸とシャンプーを使う前に、廣壽寺へ石蕗(ツワブキ)を見に行ってみようと思い立ったのです。
富士川沿いの背高泡立草(セイタカアワダチソウ)の群落。
初めて所帯を持った二十六歳の秋、この黄色い花がなんの花であるとも知らず、近くの公園から刈り取ってきました。花瓶(といっても、インスタントコーヒーの空き瓶でありました)に飾ってドライフラワーになりそうかな、と素人考えで眺めていたところ、花が枯れて乾くころには部屋の中が大変なことになりました。
この富士川でも雨の降ったあと、なぎ倒された葦の上に缶コーヒーの空き缶などが乗っているのを目にするのも悲しい。
廣壽寺の石蕗(ツワブキ)です。
今年は曼珠沙華も金木犀も、開花が一週間ほど遅れていました。石蕗も同様のようです。真ん中にちょっとだけ黄色い顔を見せた花が写っているのですが、まだ項垂れた状態です。
北小金駅と図書館分館の間にこんなものがあります。小金バスランドという銭湯です。トートバッグにタオルと石鹸とシャンプーを入れたのはここに寄るため。
狭いながらも露天風呂もあります。家の風呂では絶対に味わえぬ伸び伸び感。極楽です。
新松戸から引っ越したあと、スーパー銭湯へ行く気を喪失しました。前は新八柱での乗り換え一回でしたが、今度は二回乗り換えることになったので、面倒臭くなってしまったのです。代わりにこの銭湯が近くなりました。
銭湯の帰り、花屋さんでハーブの苗を買って、早速庭に移し替えました。
左からブッシュバジル、オーデコロンミント、ペパーミント、クールミント、レモンバーム、コリアンダー。各鉢とも¥98均一でした。
チャイブも買いましたが、太陽の光が好きではない種類のハーブなので、別の場所に……。後ろの細いものは前からある韮(ニラ)です。
こちらも前から植えてあるローズマリーとバジル。下はクリーピングタイム。
苗床に種を播いた、上からレモンバーム(二列)、桔梗(二列)、カモミール、ローズマリー。下の二つは生育が思わしくありません。