桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2015年十月の薬師詣で・三郷市

2015年10月09日 05時01分58秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では埼玉県の三郷市を歩いてきました。三郷は三年前、2012年の十月、薬師如来の縁日ではありませんでしたが、今回歩こうと思っている順路を逆廻りで歩いたことがあります。
 今日は太平洋上を進む台風23号の影響で、強い風。そのおかげで空は雲一つない快晴に恵まれました。



 出掛ける前に地元の慶林寺に参拝して行きます。



 北小金から乗り換え一度を含めて四つ目の駅・武蔵野線の新三郷駅西口に降り立ちました。初めて降りる駅です。



 最初の目的地まで連れて行ってくれるのはこのマイクロバスです。スイカは使えませんでした。
 まだ新しい車体のように見えましたが、走り始めると、右側の真ん中あたりに坐っていた私の座席の下で、バリバリッと剥がれた鉄板が振動するような音がし、左側ではバコンッ! ボコンッ! と引っかけた段ボール箱を潰しているような音がします。
 その音が運転手に聞こえないはずはないので、運転手にとっては予期せぬ整備不良ではないのだと思われますが、ヤレヤレと思いながら乗っているうち、車酔いをしたような気分になってきました。
 我慢できなくなったら、目的地前でも降りてしまおうと考えていたのですが、なんとか保って、乗車すること二十数分。最初の目的地・延命院の東側にあるバス停に着きました。



 延命院山門です。
 文明十八年(1486年)、古刀禰川(現在の中川)から出現した虚空蔵菩薩を村民が祀ったのに始まるといわれ、その虚空蔵を管理する別当寺として元亀年間(1570年-73年)に開山したと伝えられています。




 境内にある鰻の供養塔です。
 鰻は虚空蔵の使者や化身だと考えられていて、虚空蔵を祀る地域および丑・寅年生まれの人は鰻を食べないという伝承が日本各地にあるそうです。この地区はうなぎとの関わりが昔から非常に深く、現在でもその言い伝えを信仰し、鰻は食べないという人がいるそうです。




 虚空蔵堂です。
 薬師詣でにきているのに、薬師如来を祀っていないこのお寺を最初の目的地に選んだのは、経路の順というほかに二つ理由があります。
 一つは友人の一人の干支(丑年)の守り本尊が虚空蔵菩薩であるということです。もう一つはその友人の息子が大学受験を控えているということです。虚空蔵は智恵や知識、記憶といった面での御利益をもたらす菩薩だとされています。お守りでもあればいただこうと考えたからです。
 そもそも虚空蔵を祀っている寺院は私が棲む街の周辺にはありません。なかなかお目にかかれない虚空蔵である上に、立像だというのですから、お守りをいただく際に、拝見できないかとお願いしてみようと考えていたので、虚空蔵堂の右奥にある本堂、さらに庫裏とおぼしき建物を訪ねてみましたが、人のいる気配はありませんでした。
 三年前に参詣したとき、庫裏とおぼしき建物の扉が開いて、住持様らしき男性が声を掛けてきたことがあるので、無住ではありません。法事か何かがあって、たまたまお出かけになっていたのかもしれません。次の御開帳は六年後、2021年の丑年です。



 延命院の並びには彦成小学校があります。明治六年開校、三郷市内では二番目に古い小学校です。



 延命院から六分で密蔵院に着きました。戦国期の武将・石川数正の家臣・下館祐胤が数正の菩提を弔うために出家。慶長七年(1602年)に創建したと伝えられています。



 密蔵院から七分で玉蔵院。東京・高田にある根生院(当時の所在地は湯島)の隠居寺として、慶長十一年(1606年)、祐堅和尚が開山したと伝えられています。



 玉蔵院から十一分で曹洞宗慈眼寺。「新編武蔵風土記稿」には「下総國中金杉村廣徳寺末、普門山と號す、(中略)本尊正観音を安ず」と記されています。



 仁王像のような甲冑武者が守る、墓にしては異形です。



 曹洞宗のお寺なので歴住の墓所に参拝します。

 画像だけを見ると、穏やかな陽の注ぐ秋の昼下がり、という風情ですが、この日は台風23号の影響で、猛烈な風が吹きまくっていました。いつもは焼香させていただくところですが、なまなかのことでは火が点かないことのないジッポーのライターをもってしても着火できません。着いたとしても、火を残したまま立ち去るわけにはいかないでしょうから、焼香するのは断念しました。



 慈眼寺をあとにして四分のところに彦名関跡がありました。
 室町時代、この場所には河関がありました。利根川(中川)を通行する船から通行料を取り、通行料は千葉県の香取神宮の運営費用に充てられていました。
 応永二十六年(1419年)には鶴岡八幡宮の社領となったことから、通行料は鶴岡八幡宮の運営費用に充てられたと思われます。




 彦名堰跡から八分で圓明院に着きました。本尊は薬師如来です。

 今月のお寺巡りは延命院に始まり、圓明院に終わるというシャレのようなことになりましたが、最初の延命院は「えんめいいん」、最後の圓明院は「えんみょういん」で、読み方が違います。

 薬師詣でを兼ねたお寺巡りはここで終わりにしてバスに乗り、吉川駅へ出て帰るつもりでしたが、最寄りのバス停に行ってみると、一時間に一本しかない吉川駅南口行のバスがくるまで、十分以上の間がありました。
 で、吉川駅に向かって歩きながら、バス停があると、立ち止まって、時刻表と腕時計を覗き込み……まだ時間があるようなら、次のバス停へ、と……三つ先のバス停まで歩いても、まだ残り四分。



 ちょうど安養院の近くだったので、立ち寄ることにしました。真言宗系単立寺院です。
 先に薬師詣でをした圓明院の末寺として、慶長十五年(1610年)、阿闍梨頼珍によって開山され、明和九年(1772年)、法印観道によって中興されたと伝えられています。



 境内には樹高28メートル、根回り約6・5メートル、幹周約4・6メートル、樹齢約五百六十年といわれる、このイチョウ(公孫樹)の大木があります。「厄除大銀杏」と呼ばれるこの樹の実は厄除けの実として、正月元旦から三が日の間に、近郷近在の老若男女が境内に集まって、家族の数だけ持ち帰り、これを食べてその年の無事を祈願したといわれています。




 安養院を出たところにタイミングよくバスがやってきました。
 吉川駅南口には吉川のシンボル・鯰(ナマズ)のモニュメントが午後の光を浴びて、黄金色に輝いていました。




 帰りの電車に乗った吉川駅です。

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