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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

みんな夢の中

2009年04月30日 12時08分37秒 | つぶやき

 私の究極の夢はエール(アイルランド)に移住して、じゃが芋を栽培することです。
 アイリッシュウルフハウンドという大型犬を数頭飼い、さらに馬か驢馬のたぐいと一緒に暮らせたらいい。

 しかし、夢の実現に向けて着々と準備を整えているかというと、格別なことは何もしておりません。アイルランド大使館を訪ねてみたこともありません。
 むしろ自分が着実に年老い、身体への自信も日増しに心細くなって行く現実を直視すると、見果てぬ夢に終わるかもしれぬ、という思いのほうが強くなっています。
 だから、というのではありませんが、国内に代替地を求めるか-という、コスイ考えが顔を覗かせるようになりました。

 日曜日の二十六日午後、テレビで宮城県田代島のドキュメンタリーを視ました。民宿の女将さんが始めたブログで、島の野良猫たちが人気者になり、国内はもとより外国からも観光客がくるようになったという番組でした。

 インターネットを始めて以来、優れた海産物や農産物に恵まれていながら、まだ消費者とは充分に結びついていない地域を見つけ出して、そこに棲んで、それらをネット流通に乗せることはできないだろうか、と考えるようになりました。
 そう思って耳をそばだてるようになると、私より遙かに早く着目している人がいました。なるほど、なるほど、と感心するだけで、なんら行動を起こさない間に、食の安全に注目が集まるようになって、産地直送というのがブームにもなっていました。

 このままでは、知られざる食の秘境はなくなってしまうかもしれないと思いながら、夢が破れることに慣れっこになっている私は、まだ夢を見ながらのんびりと構えています。

 国内で移り棲むとしたら、農産物に関しては心当たりがないので、海産物です。
 海産物のあるところで土地勘があるのは、と思い浮かべてみると、江ノ島か西伊豆ぐらいしかありません。
 江ノ島はすでに立錐の余地はないでしょうから、私などのしゃしゃり出る幕はない。それに、家賃を含めた生活費が高い。温泉がない。

 西伊豆でも戸田(へだ)、土肥(とい)、松崎、というあたりは観光に毒されている(不穏当な表現ですが)気配濃厚です。しかし、井田、宇久須(うぐす)、安良里(あらり)、田子、岩地というあたりになると、観光客もまばら、土地によっては温泉もあります。
 それぞれ漁港がありますから、海産物には恵まれているはずです。交通は修善寺か下田に通じる道路しかないので、いまのところはそれらの海産物が世間にそれほど出回っているとは思えません。後発の私にもチャンスがあるかもしれないと思わせます。

 そんなところに棲めたら-と夢を膨らませています。

 伊豆では著名ブランドの下田でも、温泉の権利が買える中古住宅が結構安く手に入ります。私が挙げた土地においてをや、です。ひょっとしたら無償で手に入る廃屋があるかもしれない、と鼻の下も伸びます。

 メシのタネの見当をつけてから、というのが最重要事項ですが、夢見る夢男さんの夢は勝手に拡がって行きます。
 温泉付きの別荘ふうの家(見てくれではなく)に棲むようになれば、一気に友達が増えるかもしれません。私は基本的にはみんなでワイワイ騒ぐのが好きなのです。

 海も近い場所で、温泉もある、という好条件なのですから、夏になると、いま、私が飲んだくれている飲み屋のおねいさんたちがこぞって押しかけてくるようになるかもしれない。そうなったら貸し布団の手配やらなんやらと大変だぞと、実現するかどうかもわからないのに、シャツの袖をまくったりしています。

 海の近くに棲むからには、念願だったシーカヤックもやってみたい。
 そう思って関連のホームページを捜し当ててみたら、一人乗りでも二十五~四十五万円もするとわかって、頭から冷水をぶっかけられたような気分になってしまいました。

 毎朝の出勤時、流鉄の線路端を歩くのですが、時間が一定なので、いつも流山に向かう電車とすれ違います。転居してわずか一年とはいえ、毎朝同じことなので、とくに何も考えずにやり過ごすのですが、今朝の私は夢から覚めていませんでした。見慣れた電車ともお別れが近いかもしれないと思いながら、しばし立ち止まって去り行く車体を見送っていました。

 そして、踏切の警報音が鳴り熄んだとき、今朝もコンビニに寄って昼食用の弁当を買って行かなくては、と思い、夢から覚めました。
 そのとき、ふと口をついて出た歌が「みんな夢の中」でした。内容はまったく異質ではありますが……。

 浜口庫之助作詞作曲 高田恭子唄

 ♪恋はみじかい 夢のようなものだけど
 女心は 夢をみるのが好きなの
 夢のくちづけ 夢の涙
 喜びも悲しみも みんな夢の中

 ♪やさしい言葉で 夢がはじまったのね
 いとしい人を 夢でつかまえたのね
 身も心も あげてしまったけど
 なんで惜しかろ どうせ夢だもの

 ♪冷たい言葉で 暗くなった夢の中
 みえない姿を 追いかけてゆく私
 泣かないで なげかないで
 消えていった面影も みんな夢の中




「こざと公園」南園ではハス(蓮)の花が咲き始めていました。蓮華往生というまったく別の話を思い出しましたが、それについてはまた後日。


時節外れの菜の花

2009年04月27日 12時57分18秒 | 

 ベランダの菜の花が咲きました。世間ではすでに花の時期は終わっているというのに……。



 種を播いたのが二月に入ってからと、遅かったのです。
 去年のいまごろ、犬吠埼へ行ったとき、道端にあったのを失敬してきたものです。秋になったら播いてみようと思っていましたのに、すっかり忘れていて、思い出したのは二月でした。

 一か月で芽が出ましたが、小松菜を思わせるような葉が続々と出るだけで、スクッと立つ特徴的な茎がなかなか現われません。このままモヤモヤとなって、わけのわからぬままに終わるのだろうと思えたので、花が咲くのは期待していませんでした。

 しばらく観察しないうち、茎らしきものが姿を現わしたかと思うと、それこそ一日に数センチという速さで伸びて、今朝、ついに黄色い花を咲かせた、という次第です。

 こんな時節に花を咲かせるのは、ひとえに種を播くのが遅かったからなのですが、時節外れに咲くのは、つむじ曲がりの自分にふさわしい花ではないかと結構気に入っています。

  

 土曜日に雨をもたらした低気圧がいまだに日本付近をウロウロしているせいで、強い北風が吹いています。
 私にとっては鬱陶しいだけですが、「こざと公園」の鯉幟たちには佳い風で、気持ちよさそうです。
 あまりにも強過ぎるので、桜の枝に尻尾をとられて、もがいている鯉もおりますが……。

 鯉幟が初登場した日は曇天で、写りがよくなかったので、再度撮影に及びました。


臨死体験?

2009年04月24日 12時08分13秒 | つぶやき

 二百年近くも前に死んだ人(矢部駿河守定謙)の石碑を訪うて会話を交わす、と考えて ― 自分では霊感はことのほか鈍いほうだと思っているので、死者と会話することなどできっこないと思ってはいるのですが ― そんなことを考えたせいで、ふと数年前の出来事を思い出しました。
 ずっと日記をつけているので、読み返せば、それは200*年*月*日と明確に記すことはできるのですが、その出来事の端緒となったのは知人が死んだことなので、できることなら読み返さず、日付は曖昧なままにしておきたい。

 ともかくその日の何日か前に知人が死んでいました。
 死んだときは身許が明らかになるようなものを何も持っていなかったので、死んでいるということを誰も知らない。ただ、その少し前から行方不明になっていたので、仲間うちではひょっとしたら……という声はありました。

 浴びるようにウィスキーを呑む人でした。脳が冒されているんだろう、と冗談半分に揶揄する仲間もいました。知人ではありましたが、取り分け仲がよかったというのでもありません。

 新宿の裏町にある呑み屋の亭主でした。足繁く通ったこともあり、何か月も行かないこともありました。
 彼が死ぬ直前、私は新宿から浅草に転居しておりましたので、一年に一度ぐらいしか行っていなかったと思います。

 その店に初めて行ったのは二十九歳のときでした。それから三十年近い付き合いをしてきました。
 私が口切りの客で、ほかに客はいなかったりすると、「仕事は順調か」と訊いてくれたり、「お前はいい歳をしてまだ呑んだくれているのか」と憎まれ口を叩いてくれたりしました。強がりをいってみたり、女々しいことをこぼしてみたり……。

 三十年も付き合っていれば、お互い様ですが、おっさん、年老いたなと感じることがままありました。仲間がからかうように、おっさん、頭がいかれているんじゃねえか、と思うしかないようなこともありました。
 そうかと思うと、突如しんみりとして、私が初めて店を覗いたときの印象を話し出したりしました。私は事細かには憶えているはずがないので、ほんまかいな、と思いながら聞くしかありませんでしたが……。

 思わず前置きが長くなってしまいました。
 某年某月某日 ― 。
「やっぱり死んでいました」という電話連絡が入りました。お姉さんからでした。
 涙は出なかったと記憶していますが、そのときの心の動きがいかようであったか。いまとなっては思い出すことはできません。
 新宿で商売をしていたので、すぐ近くに住まいを借りていましたが、自宅は北鎌倉にありました。そう聞いていただけで、訪ねたことはありません。

 いまから思うと、生きているほうのおっさんは情緒不安定だったのでしょう。死んでいたと聞かされて、家も知らないのに、北鎌倉へ行ったのです。
 行ってみたところで、呆然と佇むしかありません。

 北鎌倉の駅に着いてからどうなったかがまったくの謎です。
 やっぱり新宿へ行くしかないか、と思ったのかどうか、東京に戻る電車に乗りました。すでに暗かったという記憶がありますが、真冬だったので、実際はまだ夕方だったと思います。
 電車は空いていて、乗ったときから座席に坐りました。

 多分……すぐ眠りに落ちました。

 銀色とも金色ともつかない光景がありました。あとでこじつけたのかどうかわかりませんが、私はこれがまさに「臨死」というやつなのだと思いながら、その光景を見ていました。

 臨死体験をした人が、一面の花畑が拡がる、といっているのを聞いたことがあります。
 私が見ていたのは花畑ではなかったけれども、キラキラと輝いていました。海か川か、水面が光っているみたいです。その水面を見ながら、こちらに背を向けて立っている人物がいます。
 カメラで撮るとしたら、逆光なのですから、その人物は真っ黒にしか見えぬはずですが、金色がかった灰色に見えます。
 やがて、そこに立っているのは自分なのではないかと思うようになりました。

 鳥が飛び立って、俯瞰図を見るような光景に変わって行きました。自分が自分を見下ろしています。
 そのうち、鳥となって見ているのは自分ではなく、私の両親ではないか、と思えるようになりました。一人の目で見ているのですが、父親単独でもなく、母親単独でもなく、両親なのです。
 不器用な生き方しかできない息子を心配しています。「また、莫迦なことをして」と声をかけるのですが、声は届きません。

 夢だったのでしょう。
 そのあともいろんな光景が繰り広げられるのを体験しましたが、定かな記憶はありません。

 夢から醒めたというか、気づいたのは夜の十一時近くでした。
 ワイワイと騒ぐ声で我に返りました。
「大丈夫?」「救急車?」という途切れ途切れの声。私の肩に手をかけている二人の制服の男。

 千葉駅でした。
 北鎌倉から乗ったのは午後四時ごろ(多分)。東京駅を通り越して上総一ノ宮というところまで行き、そのまま折り返して久里浜へ行き、また折り返して、七時間後に千葉駅で目を覚ましたのでした。

 幸い駅員の世話にもならず、救急車の世話にもならず家に帰りましたが、千葉から当時棲んでいた浅草まで、どういう経路で帰ったのか、まったく記憶にはないのです。
 誰にも不思議がられずに電車の中で七時間眠っていた、あるいは意識を失っていたのは確かです。
 終点で駅員に見つかりそうなものなのに、見つからなかったというのも不思議です。それほど私には存在感がなかったのか。透明人間になっていたのか。
 
 これが単
なる夢だったのか、いわゆる臨死体験(のようなもの)だったのか、私にはわかりません。
 臨死体験だったとすると、その後の人生に変化をもたらす-良い方向に変わる-と聞いたことがありますが、私にはとくに変わったこともありません。

 そのころ、私は本を一冊書くことを引き受けていて、最終段階に入っていささか疲労気味ではありました。
 営業的なことが苦手な私は依頼主と自分との間に仲介者を立てていました。そやつがボケナスでした。本が出来上がったのに、原稿料を取れなかったのです。ボケナスを選んだのは私ですから、呪うとしたら自分しかありません。
 


 今朝、「こざと公園」では毎年恒例の鯉幟の飾りつけが始まりました。

 

 午前中、郵便局へ行く道すがら見つけた野生のポピーです。なぜか市川大野界隈では野生のポピーを見かけます。


深川を歩く(2)

2009年04月21日 22時26分46秒 | 歴史



 明治から昭和期にかけて、川崎紫山という新聞人がいました。
 この紫山が矢部定謙(やべ・さだかね)を「幕末三俊」の一人に挙げ、墓所のある淨心寺へ回向に出向いています。遺徳を忍ばんものと私と同じように、浄心寺を目指したのですが……。

「此寺院(淨心寺)の裡に沿ひて、一簇の墓塋有り。而して、累々たる大碑小碑、碁の如く羅列したるが中に、二個の花崗石、石径の一端に立てり。嗚呼、是れ、矢部駿州の碑。
 勢州桑名の幽囚中に憤死したる矢部駿州の英魂は、招かれて浄心寺に帰しぬ。余、之を寺僧に尋ね、漸くにして、其碑を発見し、手づから香火を捧げ(後略)」…川崎紫山「幕末三俊・矢部駿州」より。

 淨心寺の墓域は、確かに「累々たる大碑小碑、碁の如く羅列したるが」ごとしでした。紫山にして寺僧に尋ねなければわからなかったようですから、訊ねる人もなき私が見つけ得なかったのもむべなる哉、です。

 当初私は矢部定謙にはさして興味がありませんでした。八年前、矢部さんの後輩にあたる川路聖謨(かわじ・としあきら)のことを調べていたとき、川路さんが矢部さんを非常に尊敬していたというのを知って、興味を懐くようになったのです。
 矢部さんは三百俵取りという下級旗本から三千石の勘定奉行、町奉行に出世します。
 そして「妖怪」と嫌われ、恐れられていた鳥居耀蔵に貶められて失職。
 そればかりか、罪に落とされることとなって、桑名藩へ預けられ、言い伝えでは鳥居と鳥居を用いた老中・水野忠邦を恨んで、絶食……みずから餓死、という壮絶な自殺を遂げたというのです。

 矢部さん自身は罪を問われるようなことは何もしていません。現在の裁判にたとえるなら、罪に問われた人を弁護する発言をしただけです。
 まあ、最初から矢部さんを貶めようとしていた人にとっては、罪人に好意を見せることすなわち罪に値するのでしょうが……。

 ただ、矢部さんは罪人を弁護することは自分を危うくするということに気づかなかったのでしょうか。三俊の一人として称えられるほどの人ですから、気づかなかったはずはないでしょう。わかっていながら、黙っていられなかったということだと思います。
 言い方を換えると、直情径行型の人物。

 典型的なのは大塩平八郎の乱に関してのエピソードです。

 矢部さんが大坂西町奉行に就任したとき(1833年)、東町奉行所与力だった大塩はすでに隠居していましたが、大塩の見識が高いのを知った矢部さんはしばしば大塩を招いて食事をともにし、歓談したようです。そして当時の幕政に悲憤慷慨する大塩の意見はもっともだと同調した。

 奉行を退任するにあたって、後任の跡部良弼が奉行としての心得を訊ねたのに答えて、とくに大塩に関する注意を伝えました。対応を誤ると恐ろしい人物だと忠告したのです。
 それを聞いた跡部は、矢部は傑物だと聞いていたが、すでに隠居している与力に心を用いよ、などと心配するとはたいした人物ではない、と周辺に漏らします。
 やがて、ノー天気な跡部をよそに、大塩平八郎の乱が起きます。

 乱が起きたとき、矢部さんは江戸に戻って勘定奉行になっていましたが、大塩がなにゆえに乱を引き起こすに到ったか、弁護する発言をするのです。
 大塩に同情を寄せる、ということは幕府を批判することになります。それも、独り言を呟いたのではない。おおっぴらにいってしまったのです。
 矢部さんの性格からして、黙っていられなかったのはわかりますが、理由はどうあろうとも、謀反という重大事に関して勘定奉行が意見を差し挟む、しかも弁護するなど、越権行為もはなはだしい。

 当時は水野老中が天保の改革に躍起になっているときです。
 水野の施策は評判が悪く、やがて老中の職を解かれ、減封の上、謹慎ということになります。
 賢明な矢部さんが水野の施策には無理があると見抜いていたのは、後代の辻褄合わせではない、と思えますが、考え方が違うとはいえ、幕政に関与している者がその長を批判するのはやはりまずい。
 かくてせっかく出世街道を上り詰めながら、上手の手から水がこぼれるのです。

 近いうちに深川再訪と参りたいと思います。今度こそ矢部さんの碑を捜し当てて、なにゆえに直情怪行でなければならなかったのか、じっくりと訊いてみなければなりません。 


大勝院から東漸寺へ

2009年04月20日 07時58分53秒 | 寺社散策

 土曜日の就寝時。また深川へ行こうと考えていました。
 眠る前に読んだ本で田中平八(1834-84年)のことを識りました。「天下の糸平」という異名は識っていましたが、詳しい人となりについては何も知りませんでした。
 面白い男だなと思いました。伊藤博文が揮毫した石碑が東京・向島の木母寺にあると識って、深川はまたの日にして向島へ行こうと予定を変えました。

 されど、金曜日は一か月ぶりに午前様をやらかしていました。寝たのが午前二時半という時刻だったのに、六時半に目が覚めていました。翌土曜日は早い時間に床に就いたのですが、日曜日、目を覚ましたのはすでに陽が高い時間でした。

 ここ二日間は肌寒かったものの、急に暑くなっていたのに、冬服しかありません。
 月曜からまた出勤、と考えると、休みのうちに衣替えをして、冬物の洗濯もしなくてはなりません。用を済ませてから向島くんだりまで行った日には、お天道様があるうちに帰れるかどうか覚束ない。予定はまた変更です。

 私にとっては不愉快な風ながら、洗濯物には恵みの強い風があったおかげで、三時ごろにはとりあえず格好はついたので、近隣の散策に出ました。
 散策といっても、近場なら大勝院というお寺しかありません。このお寺の山桜(樹齢七百五十年だそうです)を見に行こうと思いながら行かないうちに、花はすっかり散っていました。



 山桜と並んで境内に聳えるイチョウ(公孫樹)の樹を撮影しました。樹齢は定かではありませんが、これも充分に古木です。

 一週間前、北小金の内田さんという靴の修理屋さんに修理をお願いした靴が土曜日のうちに、新品のようになって戻っていました。
 踵が片減りしたチャッカブーツ二足、デザートブーツ、ドライビングシューズ、ウォーキングシューズ計五足を直してもらったのです。
 お蔵入りにしてから、ときおり陰干しをして、手入れはしていましたが、どれも四~五年履かないままでした。

 気に入っていた靴ばかりですから、全部試し履きしたいのですが、二本脚では一足しか履けません。どれから試してみるかと頭を悩ませた揚げ句、ウォーキングシューズで出ることにしました。
 踵が減って歩きづらいと感じるようになるまで、毎日のように履いていた靴です。それなのに、久しぶりに履いてみると、足に馴染まないし、すごく重く感じるのです。

 我が庵から大勝院までは1・5キロ。
 途中からずっと上り坂になりますが、二十分もあれば行ける距離です。
 しかし、坂の途中で靴の重さに疲れてしまいました。大学生のころなら十五分で歩いたな、と無意味なことを思いながら、寺をあとにし、北小金駅の通路を通り抜けて南口に出ました。
 駅南口のサティに喫茶店があったので、コーヒーを飲んで帰ろうと思っていましたが、そのころには靴が少し馴染んできました。

 コーヒーを飲むのはやめて、東漸寺まで足を延ばしました。
 枝垂れ桜の名所ということですが、もちろんすでに花はありません。代わりに松の枝が風にそよぐ音の他にはなんともありがたい静寂がありました。



 かつては広大であったらしい寺領は、両側をそぎ取られたようになっていて、木立の間から学校の校舎が見えたり、マンションが見えたりするのがいささか興醒めですが、長い参道は風情があります。

 深川はもちろん、東京でこれだけの参道に恵まれたお寺は滅多にありません。
 僧侶にとってはどうだかわかりませんが、門外漢にとって参道はその寺のイノチに近いものだと思います。ろくなことは考えていないのですが、適当な長さの参道があると、本堂に到るまで、なにがしか考える時間を与えてくれます。



 写真の仁王門(東漸寺では山門)をくぐると、前方に本堂が見えてきます。入口付近には二組の参詣客、というより私と同じような観光客がいましたが、本堂近くはまったくの無人……。日曜日で付属の幼稚園も隣の小学校も休みなので、物音一つしません。
 久しぶりにお寺らしいお寺に詣でさせてもらった、という思いがしました。

↓大勝院~東漸寺位置関係図
http://chizuz.com/map/map56538.html


梨の花

2009年04月18日 09時46分31秒 | 風物詩

 仕事で横浜へ行った日、市川大野の駅まで少し遠回りをしました。そろそろ梨の花が満開だろうと思ったのです。

 私の頭の中では、梨の花は染井吉野が散ってからしばらくして咲くというイメージがありました。しかし、すでに満開期は過ぎて、散り始めでした。
 いつもは撮影のことなど念頭に置かずに眺めていたので気がつきませんが、近寄ってみると、盗難除けのネットがちょうど花の高さまであって、撮影することができませんでした。高台があれば見下ろせるのですが、それもありません。

 八月になると、通勤途中に梨の配送所が店を開きます。
 その先の、物陰でも梨の売り出しが始まります。配送所のほうは多くの人が出て、宅配便の受付などもしていますが、こちらは無人です。
 プラスチック製の籠に五個~八個程度詰められた袋が入っています。籠の横に金属製の料金箱があって、客はそこに料金(400円也)を入れて、袋をもらって行くという仕組みです。

 私は見たことはありませんが、朝と昼の二回、老婆とお嫁さんらしい人が梨を運んでくるらしい。みんなが待ち構えているようで、私が通るころには空っぽということがよくあります。
 最初に出る幸水だと、大きさはまちまちですが、一袋に八個は入っています。それで400円なのですから、すぐに売り切れてしまうのです。
 配送所のほうを覗いてみると、大きさ、形を揃えていますが、最低でも一個100円近くしています。スーパーへ行けば、さらに倍はします。
 豊水、新高と季節が移ろうのに連れて、果実の大きな品種に変わって行きますから、個数は減りますが、400円という値は変わらない。

 ただ、非常に重いのが玉に瑕です。
 400円という話をすると、新松戸近辺でほしいという人がいますが、自家用を含めて二袋も買うと、持って歩くのに難渋します。さらにもう一人ぶんなどというのは論外です。
 しかし、今日買えたから明日も買えるという保証はありません。三袋頼まれていて、おりよく三袋残っていれば買うべし、なのです。

 朝、仕事を始める前に、荷の重きに耐えかねて、疲労困憊してしまいますが……。



 上溝桜(ウワミズザクラ)が満開になっていました。梨の花の代わりです。


厄日の横浜行

2009年04月16日 12時23分08秒 | つぶやき

 昨日は三か月ぶりの横浜行でした。
 多分、横浜公園 ― ベイスターズ本拠の横浜スタジアムがあります ― の花壇ではチューリップの花が満開で、ドラゴンズに開幕3連勝をプレゼントしてくれたお礼もこめて、写真を撮り、ブログに掲載、と思っていたのですが、予想に反して、今回の倉庫会社は横浜公園前を通って行く会社ではなく、桜木町から二十分に一本しかないバスに乗らなければならないところでした。

 そこは本牧埠頭という、ただただだだっ広いだけのところで、撮影に値するようなものもないゆえ、と思って、桜木町駅前のバス乗り場まで歩きながら、ランドマークタワーを撮りました。



 海運倉庫会社の仕事は朝早くから始まります。十時になると、まだ仕事が途中であってもキッチリと休憩をとり、昼休みは十一時半から一時までです。
 市川大野にある勤め先を九時に出て、総武・横須賀線に乗っても、市川で三分停車、東京駅でまた三分停車、なおも懲りず品川でも三分停車という田舎電車で行くしかないので、桜木町に着けるのは十時半を過ぎてしまいます。

 桜木町から本牧埠頭入口というバス停まで、およそ二十分かかります。そこから目指す倉庫会社までは徒歩十五分。だだっ広い場所ですから、目的の建物は見えているのに、容易に近づいてこない。
 二十分に一本しかないバスが順当にきてくれないと、折角辿り着いたのに、相手は昼休み、ということになりかねません。

 間の悪いことに、この系統のバスは山下公園という観光スポットを通ります。
 
昨日のように陽気のよい日は、始発の横浜駅で大勢の乗客があって、出発に手間取るらしく、大概遅れてきます。昨日もかなりの乗客があって、数分遅れでした。
 私が知っている限り、倉庫会社は役所に似ていて、書類に一文字でも書き間違いがあると、受付不能といったり、昼は担当者不在で受付不能などといって、とても客商売をしているとは思えません。
 食堂も喫茶店もないようなところで一時まで待つのは非常に苦痛だし、第一時間がもったいない。この会社へ行かなければならぬとわかったときは、いつもギリギリ覚悟なので、ヒヤヒヤなのです。

 桜木町より前(おそらく横浜駅でしょう)から乗っていた老人たちが山下公園の一つ手前、大桟橋入口でドヤドヤと降りました。
 バスはガラガラになりましたが、ドヤドヤと降り終わるのに時間がかかって、私は腕時計と睨めっこです。しかし、運のよいことに赤信号に引っ掛かることは少なく、スイスイと走りました。
 本牧埠頭入口着は十一時十分。倉庫会社の入口に着いたのは二十五分でした。本当に建物はすぐそこに見えているというのに、歩くと十五分もかかるのです。
 昼休みに入るまであと五分しかない、といっても、五分あれば充分です。運賃と倉庫保管料を払い、領収証と税関に提出する書類をもらうだけですから……。

 それまでは今日が厄日だとは考えてもみませんでした。
 厄日が始まるのはこれからです。
 
 目指す事務所に着きましたが、ドアに貼ってあった会社名が剥がされていました。
 いくつかの事務所が共同で入っている建物です。通りがかった人に訊ねると、先日引っ越したという。
 ムカムカときました。

 私の勤めている会社がこの倉庫会社を利用するのは年に一回あるかないかです。決して上得意とはいえません。
 しかし、毎年一~二回は利用する客であることは歴然です。それなのに、移転を知らせるファックスも葉書もなかった。温厚で鳴る私にしては珍しく、真底から腹を立てました。

 電話をかけると、幸い移転先は歩いて二十分ほどのところでした。
 しかし問題は、敵が昼休みに突入する直前だということです。急いで歩いても、敵の本拠を襲えるのは十二時近くになってしまいます。
「待ってろよ」と乱暴な言葉遣いではなかったものの、移転の案内をもらっていないのだから、昼休みだろうとなんだろうと、待つのが当然だということをいいました。「参ったな」という呟きが聞こえました。

 私が着いたとき、事務所には四人の事務員がおりました。心なしかみんな俯いて私と眼を合わせないようにしている、と感じられました。
 机の向きからして責任者らしき男は向こうを向いてそっくり返っていました。むろん一言の挨拶もありません。
 内証はいざ知らず、こういう会社が潰れずに残り、たぶん一所懸命に働いてきたであろう従業員たちの会社が潰れる。
 前から天に道なし、と疑ってきましたが、今日はっきりと天に道なしと思いました。

 それでも、手続きを終えたときは一時まで待つことがなくてよかった、と思いながら、厄の事務所をあとにしました。とんだ目に遭ったと思いながらも、まだ厄がつづいているとは思いません。
 二十分も歩かされたおかげで、帰りはバスの便数が多い通りに出ることができます。
 ところが、バスがこない。やっときたと思えば、真っ昼間だというのに、異様に混んでいました。乗降客がいるのでバス停ごとに停まり、走り出すと、赤信号に引っ掛かってばかりいる。
 運転手は自分のせいではなく、交通事情だと思っているのでしょうが、バス停から発車させるときの運転ぶりを見ていると、いかにも要領が悪い。
 こういうときに限って、こういう間の悪い運転手に出くわすものなのでしょう。同じ横浜駅へ行く別の系統のバスが追い抜いて行きました。乗客はまばらです。

 結局、普段の倍ぐらいの時間をかけて、横浜駅に着いたのは一時近くでした。昼飯も食わぬままです。昼をどうすべぇかと思いながら改札口を入ると、四分後の東海道線がありました。横須賀線は九分後でした。

 横須賀線に乗れば市川で乗り換えです。東海道線なら東京駅と秋葉原で乗り換えです。
 問題は腹が空き始めていたことで、横須賀線に乗ったら、西船橋まで、およそ一時間以上、食べるところがありません。東海道線なら東京駅はむろんのこと、秋葉原も乗り換え途中に食べるところがあります。東京からは山手線か京浜東北線に乗るのですから、いっそ品川で乗り換えることにしてもいい。
 そう思ったので、東海道線に乗り、品川で降りて、やっと昼飯にありつきました。食べ終えたのは二時近くでした。

 品川からは京浜東北線に乗りました。
 ところが、東京駅に着いたあと、電車はなかなか発車しません。こういうときの一分二分という時間は非常に長く感じられます。
 車内がザワザワし始めたとき、車掌のアナウンスがありました。五つ先の鶯谷で人身事故があったというのです。
 ヤレヤレですが、こんなことつづきの世の中で、一つずつ肚を立てていたのでは身が保たない。このあとは勤め先に戻るだけなので、ジタバタしないことに決めました。

 結局、勤め先に戻ったのは三時を過ぎていました。たかだか横浜へ行って戻ってくるのに、六時間も要したことになります。仕事に要した時間はものの三分か四分。
 莫迦莫迦しい話で相済みません。
 

 
 なんでもない風景です。
 くだんの倉庫会社の旧事務所から新事務所への移動途中、カリカリしている頭を冷やすべく、本牧大橋の上で立ち止まったときに写した画像です。


深川を歩く(1)

2009年04月13日 12時54分43秒 | 歴史

 昨十二日、深川へ行ってきました。
 目的は墓参りです。といっても、血族ではありません。

 香華を手向たいと思った人の名は矢部定謙(やべ・さだのり。さだかね、とも)。
 幕府勘定奉行、南町奉行などを歴任した幕末期の賢人の一人です。天保十三年(1842年)、明治維新の三十年近く前に亡くなっていますから、幕末期、というのにはチト早いかもしれません。

 門前仲町で地下鉄を降りて、清澄通りを両国方向に歩きます。
 門仲は幾度となくきたことがありますが、きていたのは東西線しかないころで、都営地下鉄大江戸線が開通してからは初めてです。東西線の改札口は位置も向きも変わっており、地上に出た途端、方向感覚を失っていました。
 交差点角に、よくコーヒーを飲んだ東亜という喫茶店があるはずですが、キョロキョロ見廻したものの見つからない。のっぺらとした印象だった下町繁華街に新しいビルが建て込んで、風景もすっかり変わっておりましたから、店もなくなってしまったのだと思いました。

 数分の間、まったく正反対の方角を目指して歩いておりました。誰も聞く人はおりませんが、私としたことがなんてこったい、オリーヴ! と独り言を呟きながら、回れ右です。
 再び交差点に戻って気がつきました。東亜はなくなってなどいなかった。地下鉄の階段を上がって地上に出たとき、私の背後にあったのです。

 改めて目指したのは淨心寺という日蓮宗のお寺です。
 四代将軍・家綱の乳母だった三沢の局が発願して建てた寺で、彼女自身の墓もある、と江東区の資料にありますが、墓は見つけられませんでした。資料に載せるぐらいなら案内板の一つも立てればよいのに、何もありません。
 別の資料には三沢の本名はお秀といい、小堀遠州の側室だったともありますが、信頼できる史料によると、家綱の乳母には三沢という名前はなく、矢島の局という名前しか見当たりません。

 まあ、目的は三沢の局ではなく、矢部定謙なのですから、三沢でも矢島でもいいわいと思いましたが、矢部定謙の墓も見つけることができませんでした。



 お彼岸も過ぎているので、墓所には人影もありません。寺務所がありましたが、窓はカーテンが閉められて無人のようでした。
 お寺の真ん前はまだ新しそうなマンションでした。通りがかる人もおりません。仕方がないので、引き揚げることにしました。
 再度こなければならない、という理由ができたのが、なんとなくうれしいと思いながら門を出ました。

 また深川に行きたいと思うのには理由があります。
 私は浅草で四年間暮らしましたが、できることなら深川でも暮らしてみたいと思っているからです。
 ただ、自分の年齢と(多分)いまの生活から脱却できることはなさそうなので、千葉県の市川近辺に棲みつづけるしかないだろうということを考えると、深川暮らしができるのは来世に持ち越すしかなさそうですが……。

 深川-ことに門前仲町あたりはかつての色街です。
 江戸時代、吉原が官許の色街であったのに対して、深川(辰巳)の色街は「岡場所」といわれて、いわばモグリでした。モグリであるぶん安く遊べるのは当然です。ために、吉原からは随分焼き餅を妬かれ、迫害も受けました。

「粋」と「鯔背(いなせ)」、あるいは「侠(きゃん)」という言葉は同じような意味です。しかし、同じ言葉でも順位があるようで、一番粋なのを粋といい、次に粋なのが鯔背と侠、三番目が勇み、なのだそうです。
 江戸の人たちは吉原の女を褒めるときには「粋」といい、深川の女を褒めるときには「鯔背」と使い分けたようです。

 深川に棲みたいと思うのは色街があったからではないのですが、吉原(実際はピンからキリまである)がなんとなくお高くとまっているのに対して、深川はごくごく普通で、人情味に溢れていたような気がするからです。

 この日、深川を訪ねた目的はただ淨心寺だけで、時間に余裕があったり、歩き疲れるようなことがなければ霊巌寺と雲光院という二つのお寺も訪ねようと思っていましたが、昨日は初夏を思わせるように暑かったのと、昼を食べていなかったので腹が減ってしまいました。
 お寺が密集しているあたりには食べ物屋もありません。空腹を充たすには門仲に戻るしかないと、寺巡りはやめて、そそくさと戻ってしまいました。

 深川にきたからには深川飯か天丼を食べようと思っていました。
 歩いているうちに空腹は耐えがたい状況になってきました。チェーン店の天やを見かけましたが、天丼とはいっても、まさか天やでもあるまいと歩くうちに、深川不動尊の参道まできていました。

 深川飯も天丼も食べさせてくれそうな店はありそうでなく、適当なところで妥協するしかないと思ったところ、海老重というサンプルが目に飛び込んできました。「うむ、これこれ」と入りかけて、ラーメンや白玉なども一緒にサンプルケースに並んでいたのを横目に見たので、我が選択は失敗だったかもしれぬ、と少し不安に駆られながら、勢いで店に入ってしまいました。
 とにかく坐って、冷たい水で喉を潤しながら店内を見渡すと、浅草にもたくさんあった観光客目当ての店のようです。

 結果は大失敗でした。
 海老の天麩羅、というより、海老フライに親子丼の具をぶっかけたような代物でした。
 海老重と謳いながら、お重ではなく、丼に入っていました。
 タレが少なくて、御飯は白いままです。
 ただ、海老フライ(?)は無闇に熱が通って熱かった。ついてきた滑子の味噌汁も滅法熱かった。
 外も暑い。

 矢部定謙の人となりは明日以降のブログに回します。


我が庵の「結構」

2009年04月11日 12時43分02秒 | 風物詩

 週末を待たずに桜の季節が終わってしまいました。
 通勤の途中にチラと眺めるだけで、ワタクシの今年の花見も終わりました。

 通勤途上に新松戸ハイツ、新松戸東パークハウスという二つの大規模マンションがあって、両方とも敷地内に桜の樹が何本か植えられています。
 中でも新松戸東パークハウスにはライトアップの夜間照明があって、今年は会社帰りに二度夜桜を愉しませてもらいました。

 我がマンションにはこのような「結構」はありません。
 大体桜の樹がありません。



 あえて「結構」といえば、菫(スミレ)の群落ぐらいです。太陽がある方向には武蔵野貨物線の土手があるので、ほとんど陽の当たらない場所で花を咲かせています。健気な思いにとらわれて、出勤時に撮影しました。

 暖かいというより、暑いほどの陽気がつづいています。間もなく梨の花と鉄線(クレマチス)の花が咲きます。
 市川大野の駅から勤め先までの間、道路一本回り道をすると、鉄線を植えている家があります。

 紫陽花(アジサイ)が咲き出す少し前、五月の中ごろから通勤時は回り道をすることになります。汗っかきの私は強い朝の陽射しを避けるため、丘の下の陰になった道を通ることにしているからです。
 もうじき鉄線の家の前を通ることになりそうです。
 その隣家には黒い猫がいます。いつも出窓に身体をピタリと押しつけて外を見ています。身じろぎ一つしないので、初めて見たときは縫いぐるみかと思ったほどでした。

 去年の秋、陽射しの弱まりとともに、その道を通らなくなってから、七か月が経とうとしています。
 猫や犬の一生を思うとき、人間の一日は彼らにとって六日とか一週間にも当たると思ってしまうのです。
 この七か月の間、私は七か月歳をとっただけですが、彼らにとっては三年か四年にも当たることになる。まだ出窓に身体を押しつけて外を見ているのだろうか。それとも……。



 上溝桜(ウワミズザクラ)の花が咲き始めました。昼休みに撮りました。



 近くのマンションの中庭に山吹も咲いておりましたので、ちょっと失敬と無断侵入を試みて撮りました。


上溝桜と杏仁子

2009年04月06日 20時31分25秒 | 

 土曜日曜と連休で勤務先にこなかった間に、若葉を出した樹が多くなっていました。
 上溝桜(ウワミズザクラ)の蕾も、二日の間、見ないうちに随分ふくらんでいました。
 カメラに収めようとしましたが、シャッターを押すタイミングを計って待っていた間、枝を揺らす無粋な風が熄みません。待ち切れずにシャッターを押したものの、八枚撮ってすべて手ぶれのような状態でした。画像を載せるのは、次回上手く撮れたときに回すことにします。

 ウワミズザクラを漢字で上溝桜と書くのは、遙か昔はこの材に溝を彫り、吉凶の占いに用いた(「古事記」には波波迦 ― ハハカと記されている樹らしい)ことからウワミゾといい、それが訛って、ウワミズと呼ばれるようになったのだそうです。

 白い花が咲くのも間もないようです。
 花が散ると緑色の果実が生ります。
 新潟地方では蕾の花穂や果実を塩漬けにしておいて、杏仁子(あんにんご)と呼んで食用にしたり、果実酒にするそうです。
 越後川口あたりでは特産品として瓶詰めにしたものを売っています。私はまだ食べたことがありませんが、名前からすると、杏仁豆腐に用いる杏仁に似た味がするのでしょうか。

 余談です。
 杏仁とは、杏(アンズ)の種子の中にある仁(にん=さね)のことですが、仁といっても二種類あり、一つは苦杏仁(くきょうにん)といって漢方薬として用い、もう一つは甜杏仁(てんきょうにん)といって杏仁豆腐などのお菓子類に用います。
 面白いのは、漢方薬に用いるときは「きょうにん」と読み、お菓子に用いるときは「あんにん」と読むことです。

 中国では杏の林を杏林といいます。杏林大学、杏林製薬の名はここからきていたのだと知りました。



「こざと公園」の桜もようやく満開になりました。
 土曜日はウィスキーを入れたスキットル片手に我が庵近くの桜を眺め、それから近くのお寺にある山桜を見に行くつもりでしたが、出かける気持ちが湧かず、終日庵から出ることなく過ごしてしまいました。


新松戸の桜(2)

2009年04月03日 12時58分53秒 | 



 我がマンションの並び(新松戸駅寄り)のマンションの裏手を飾る桜です。
 明日は月に二度しかない土曜休みの貴重な一日です。日曜日は雨という予報なので、明日ここで独りひそかに花見をして-桜見物をともにする相手もおりませんゆえ-今年の花見を終えようと思っています。

 すでにスキットルにはアイリッシュウィスキーを詰めてあります。明日はそれをポケットに忍ばせて出かけるだけです。
 人も車もほとんど通らない道路ですが、弁当を開いたり、坐り込んだりできるような場所ではないので、しばし立ち止まって花を愛でながら、ウィスキーを口に含むだけです。
 そのあと、近くにある大勝院という古刹の山桜を見に行こうと考えているのです。

 じつは花見には誘われているのですが、誘ってくれたのは夜のおねいさんたちばかりです。誘われたというより、せがまれている、というのが正しい。

 かつて浅草におりましたので、東京都内では屈指の花見スポットの一つ隅田公園は、勝手知ったる自分の庭のようであろう、とおねいさんたちには思われています。
 松戸にも桜の名所はたくさんありますが、隅田公園や上野公園のように、大々的な宴会場と化す名所はないみたいです。おねいさんたちは桜を愛でたいというより、宴会場の壮絶さをじかに見てみたいようです。同時にもろもろの経費はおぢさんに負担させようという魂胆です。

 隅田公園なら不案内ではありませんが、紀文や奈良茂のように内証が豊かではないおぢさんが、きれいどころを引き連れて豪遊するわけにはいきません。
 せっかくのお誘いですが、年度末-もう過ぎてはいるが、仕事があとを引いていると言い逃れる-で忙しいというか、体調がいま一つだといって、内々に拒否権を発動して、あとは桜の花が早く散ってくれるのを祈るばかりです。



 犬四手(イヌシデ)の花です。マクロ撮影でも手ぶれせずに撮影することができました。
 ということは、これまでの失敗作はカメラが悪いのではなく、ただただおぢさんの腕だった、ということになります。
 


 こざと公園の桜はようやく夜桜鑑賞用の提灯が似つかわしい状態になってきました。


新松戸の桜

2009年04月01日 12時31分26秒 | 



 通勤途上の流鉄線路端の民家に咲く桜です。
 通勤の途中、歩きながら撮影しましたので、少し手ぶれがあります。手ぶれ補正付きのカメラがほしい。
 ようよう三分咲きというところ。
 一本だけの桜というのも風情があって、おぢさんは好きです。

 今朝は雨のせいか、冷え込みは少しだけ和らいだようですが、相変わらずの花冷えです。
 花冷え、というのは桜が咲くいまの時期の、一時的な冷え込みを指す言葉です。しかし、一週間もつづいたのでは一時的とはいえないので、べつの表現を考えなければなりません。



 一方、こちらは新松戸から電車で三駅、時間にして十分離れただけの市川大野「こざと公園」の桜です。まだ一分咲き、とまでもいきません。
 ただ、画像に収めることはできませんでしたが、右下の葦の枯れ草の下には早くも10センチほどの若草が芽生えておりました。



 勤め先の近くで上溝桜(ウワミズザクラ)を見つけました。
 腕もカメラも悪いので、ハッキリ識別できないかもしれませんが、真ん中の葉の塊の上に突き出している(実際は垂れ下がっているのですが)棒(房)状のものが花です。

 いまは葉っぱと同じ色をしていますが、染井吉野の花が終わるころ、白い色へと変化します。いわゆる桜の花とは似ても似つかぬ形状をしています。