今日から七十二候の一・天地始粛(てんちはじめてさむし)です。
「粛」とは、弱まる、しずまるという意味のようで、夏の暑さがおさまる、ということになるみたいですが、手持ちの漢和辞典にはそういう意味は載っていません。図書館へ行けばわかるかも、といっても、近くには市立図書館の分館しかないので、大漢和辞典のたぐいはありません。いつ解明できることになるのか。市立図書館の本館か県立図書館へ行く機会を探っているうちに、疑問に思ったことを忘れてしまう、ということのほうが早そうです。
涼しくなるとはいっても、現実は一昨日二十六日の我が地方は最高気温36・0度。昨日は34・7度と依然真夏の様相です。
毎日の日課である慶林寺参拝に赴くとき、二日か三日に一度くらいの割合で通り抜ける駐車場です。昨日は別の道を通りましたが、一昨日は確かここを通ったはず……そのときにはあったはずのものが……今日は、ない!
何がなくなったかというと……イヌホオズキ(犬酸漿)です。
一昨日までこのようにイヌホオズキがあったのですが……。
本土寺参道。騒々しかったミンミンゼミの啼き声はいつの間にか途絶えて、ツクツクボウシの声が多くなりました。
帰るときに本土寺仁王門前まで行くと、ほんのちょっとですが、遠回りになります。
観光シーズンからはずれたいまの季節。参拝客の姿はほとんど見られません。
本土寺参道を歩いて帰ろうとしたのは……もしかしたらイヌホオズキがないだろうかと思ったのですが、目につきませんでした。
我が庵のすぐ隣では、一週間近く前から一軒の民家の解体工事が始まっています。私がいまの住居に引っ越してきた十一年前、すでに主のいない家になっていましたが、取り壊されることはなく、ずっと空き家のままになっていたのです。
まだ八時になっていないという早い時間なのに、声高に話す人の声とピーピーとトラックがバックするときの音。
ブォーッブォーッバリッバリバリッとユンボが動き、家屋を崩す音。それが静まったかと思うと、ピーピーとトラックがバックする音。
何日つづくものかわかりませんが、私が考える世間というものは、お騒がせして相すみませんと挨拶があるものです。いつのころからか、そういう風潮が廃れてしまいました。
そういう残念さとは別の残念は、この家の庭に高さ4メートルぐらいのギンモクセイ(銀木犀)の樹があったことです。重機がアームを振り回すのに邪魔だったのか、解体が済めば売却するつもりなので、庭木などないほうがいいと思われたのか、アレッと私が思ったときには伐採されて姿を消していました。
慶林寺の観音像です。
観音様の右手の掌紋がなんとなく私の右手の手相と似ている。自分以外のほかの人の掌がどんな文様をしているのか、これまで注意を払ったことがありませんが、戯れ半分で人と見比べあったのは小指の長さでした。私の小指はこの観音様の小指ほど長くはありませんが、薬指の第一関節より少し長いのです。
ある性格判断では、そういう小指の持ち主は「人を寄せつける魅力のある人気者、チャーミングで社交的な性格なので、きっと友達が多いはず」とありましたが、これはハズレもハズレ、大ハズレでした。
ちなみにこの観音様は薬指と同じような長さなので、その性格判断によると、非常に珍しいタイプで、世界を変えるような指導者になる可能性を秘めている、とありました。
数日前から本土寺裏でシュウカイドウ(秋海棠)の花が咲き始めています。シュウカイドウ科ベゴニア属の多年草です。
貝原益軒の「大和本草」には「寛永年中、中華より初て長崎に来る。……花の色海棠に似たり。故に名付く」と記されているように、我が国古来の野草ではありません。
秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり 芭蕉
画像右は本土寺の森。樹が茂っているので、さほど急峻とは感じられませんが、本土寺は平賀中台という台地の端っこにあるので、裏手は崖です。
台地から本土寺裏へ下る坂は結構急です。
少し離れたところではクサギ(臭木)の花も咲いていました。
狭い我が庭は夏草で覆われています。コスモスとハーブの種を播こうと用意してあるのですが、炎暑~長雨~炎暑のぶり返しとつづいたので、出不精ならぬ仕事不精の私は炎暑のときは、もうちょっと涼しくなれば、と思い、長雨がつづくと、ちょっとでも雨の熄む間があれば、と思って、腰を上げるのが億劫です。
昼間は戻ってきた暑さにげんなりしていましたが、夕方になると、秋を思わせるような、こんな雲も出ました。
今月八日の薬師如来の縁日はたまたま二回目のコロナワクチン接種の日に当たってしまったので、プチ外出を自重し、地元の慶林寺参拝だけにとどめました。
ワクチン接種の予約がとれたのは午後三時、接種会場は我が庵から歩いて十五分ほどのところにある市の施設だったので、近場のお寺なら、行って帰ってきたあと接種、という芸当ができなくはなかったのですが、万が一疲労困憊のテイで帰ってきて、しかもギリギリの時間、というようなことだと、出なくてもよかった副反応に見舞われたりするかもしれないと考えたので、代わりに今日十二日に出かけようと決めて、とりやめにしたのです。
今回参拝に行くのは八千代市内ある二つのお寺、東榮寺と薬師寺です。地図を見る限り、行程の途中にはほかのお寺や史跡はないようなので、今回巡るのはこの二か寺だけ。事前のシミュレーションでは北小金駅発十一時五十八分の電車に乗り、巡る順番は薬師寺~東榮寺と決めていました。
出発の時刻を決めておかなくてはならなかったのは、勝田台という駅から東榮寺へ行くバスが一時間に一本しかないからです。
……と、入念に下調べをしておいたはずなのに、なぜか勘違いをして、当日乗った電車は予定より四十分も早い、十一時十八分発でした。
いつもは地元の慶林寺にお参りしたあと、電車の人となるのですが、この日は出発がちょっと遅れたので、慶林寺に寄っていては電車に間に合わない。ということは、一時間に一本しかないバスにも間に合わない。よって、慶林寺は帰ってきてから、と決めて駅への道を急ぎ、無事電車に間に合いました。出発時刻を勘違いしていた、と気づいたのはその電車に乗ってからのことでした。
北小金で電車に乗ると、わずか二分で乗り換えの新松戸です。早く出てしまったことに気づいて、「あっ」と思いましたが、二分の乗車時間内にスマートフォンを取り出し、電車の接続を調べるような余裕はありません。
予定より四十分早い電車でしたが、武蔵野線に乗り換えたあと、少し落ち著いた気分で検索……。薬師寺~東榮寺という順番を逆にすると、東榮寺へ行くバスに乗る、勝田台という駅に一時間早く着くことになり、一本前のバスに乗ることができる、と判明したのです。
やっとホッと息をつくことができましたが、その結論に到るまでは結構大変でした。
ガラケーからスマートフォンに変えても、小さな画面と太い指では操作が思うに任せないので、電車の中でスマートフォンを視ることはあまりありません。今日のような日に備えて、家で情報を入力するときは指に替えてタッチペンを握ることにしています。入力は家でしかしないので、出かけるときにタッチペンを持つことはありません。よって、電車の中でタッチしたつもりのない文字が入力され、それを消し、もう一度……と、悪戦苦闘しなければならなかったわけです。
北小金~新松戸~西船橋~船橋~京成船橋と乗り換えて、所要五十六分で勝田台駅に降り立ちました。
駅前のバス停で十分待ってバスに乗りました。乗客は私を含めてわずか六人。バスが進むのに連れて、一人降り、二人降り、というように客が減って行きます。乗ってくる客は一人もいません。
終点まで十四分の乗車時間中、ちょうどなかばの工業団地第三というバス停で、残っていた二人が降りると、客は私独りになりました。
降りたのは終点のもえぎの車庫という停留所でした。「車庫」とはいっても、屋根のついた車庫があるわけではなく、折り返すための広場があるだけ、という感じです。
帰りのバスの時刻を確かめて、目指す東榮寺へ、いざ出発です。画像の左に写っているのは私を下ろしたあと、車庫内でUターンし、回送になって走り去って行くバスです。
東榮寺までの途中、目に入る景色は見晴るかす稲田だけ。
シミュレーションでは、もえぎの車庫から東榮寺までは徒歩八分でしたが、実際は十分かかりました。
東榮寺に着きました。
シミュレーションどおりにいかなかったのは、この画像の向かって左側は長い塀がつづいていて、伽藍は見えるのに、どこに入口があるのかわかららなかったからです。実際に入ったのは庫裏と墓所に通じる裏口からで、この山門を目にしたのは帰るときのことでした。
真言宗豊山派の寺院です。境内はいつものように無人。
開山・開基は不詳ですが、大正二年編纂の「印旛郡誌」には「保品區字南にあり總本山三寶院末にして眞言宗新義派に屬し本尊薬師堂なり」と記されています。
本堂左に薬師堂がありました。お賽銭をあげます。
薬師堂の前には八千代七福神の一・福禄寿が祀られていました。
帰りのバスの時刻から逆算すると、私に許されていた時間はわずか十分余。お寺の由来などを示す説明板もないようなので、参拝を済ませたあとはそそくさと写真を撮り、ざっと境内を眺め渡して退散します。
東榮寺前にバス停はありましたが、まばらな時刻表でわかるように、土日は運行がなく、平日は四便だけです。
勝田台駅に戻り、一駅だけ電車に乗って、京成大和田駅で降りました。
踏切を渡って線路の向こう側に出ると結構急な上り坂です。
京成大和田駅から十二分で薬師寺に着きました。
応仁の乱(1467年~77年)のころの創建と伝えられるようですが、無住の寺でもあり、いまのところは得られる史料が何もないので、詳細はいっさいわかりません。
本堂前に並ぶ二つの御堂のうち左側には第五十九番という木札が貼られていました。これは八千代市を中心として行なわれていた吉橋大師講の五十九番札所であることを示すものです。
境内の片隅には異様に大きな竜舌蘭(リュウゼツラン)がありました。
寺の前を走るのは交通量の多い国道297号線。通称成田街道です。周辺はかつての大和田宿で、江戸から成田詣に向かう客で賑わったということです。
前日の段階での天気予想では、お昼を挟んで四時間ほど雨マークがついていたので、雨に降られるのは必至と思って折りたたみ傘を持参していましたが、開くことはありませんでした。
おまけに、例年であればまだ猛暑酷暑の時期であるのに、この日に限って結構涼しい。まぁ、涼しいとはいっても、連日つづいた酷暑の日々からすれば……という話ですから、せかせかと歩いていれば汗をかきます。
薬師詣での功徳だと思います。
そもそも出発時に新松戸で常磐線から武蔵野線に乗り換えるとき、常磐線も武蔵野線も十分間隔の運転ですから、どの電車に乗っても、待ち時間は二分と決まっています。常磐線のプラットホームからエスカレーターで武蔵野線のプラットホーム階に上がると、ほとんど待つこともなく武蔵野線の東京行か南船橋行がやってくるという寸法です。
ところがこの日は、エスカレーターを上り切ろうというときに武蔵野線の電車が滑りこんでくるのが見えました。なにゆえにこんなに早くくるのか、と首を傾げるのはあと回しにして、肥満気味のお腹をタポタポと揺らしながら小走りに及びましたが、乗ったあとで聞かされた車掌のアナウンスでは、どこかでトラブルが発生して、八分遅れて運転している、とのことでした。
そして本来なら私が乗るはずだった次の電車は十分遅れとのこと。早過ぎた電車を見送って、本来乗るべきはずの電車に乗っていたら、勝田台から先のバスは一時間近く待たされることになったはずです。歳を重ねるのに連れて癇癪持ちが進んでいる私は立腹して、この日の薬師詣では取り止めにしてしまっていたかもしれません。
やはり薬師詣での日には、ほんのちょっとした佳きことがある、というジンクスに変わりはないようです。
庵に帰る前、いつもは出かける前に参拝する地元の慶林寺に参拝します。
お薬師さんの功徳に感謝しながら、香炉に設えられた賽銭箱に心ばかりのお賽銭を……。
臭木(クサギ)の花が花盛りを迎えています。
我が庵がある高台は平賀中台と呼ばれる高台です。地元で生まれ育った友人によると、彼女が小学生だった六十年ぐらい前は森や林ばかりだったそうです。
もちろん当時とは道路事情も異なるのでしょうが、彼女の生家から当時通った小学校まで、現在の地図を使って所要時間を測ってみると、三十五分。これは大人の足の速さですから、小学生、とりわけ低学年だとすれば四十分とか五十分かかったかもしれません。そんなころの平賀中台の様子といえば、下から上るためには蔦を伝って上らなければならなかったそうです。
平賀中台には著名な本土寺があって、創建は七百年以上も前。遥か昔からあり、寺域の広さも現在よりはずっと広かったということですから、すべてがすべて蔦を頼りに上らなければ行けなかった、ということはなかったのかもしれません。
いまでは森もほとんどなくなり、畑や野原も極めて尠なくなりました。代わりに増えつづけているのは建て売りの住宅です。いまでも農業をつづけている人によると、代が替わるごとに払わなければならない相続税のため、農地を切り売りして行かなければならない、ということですから、畑は日毎に狭く、尠なくなっているわけです。
話が横道にそれて行きそうになりましたが、そんなふうに自然が尠なくなっている台地の一画に、ほんの少しだけ人が立ち入りそうもない林があり、そこにクサギ(臭木)が生えている一画があるのです。
近づくと、ほんのりとピーナツバターのような臭いがします。ビタミン剤みたい、という人もいます。
これは花の臭いではなく、葉っぱの臭いなのだそうですが、私には花のない時期は臭いがしないように思われます。決して「クッサァー」と唸ってしまうような臭いではないと思いますが、植物としては異例な臭いがするので臭木=クサギと名づけられたのでしょう。
分類上はシソ科です。
誰かが植えたのでしょうか。ここだけ下草もなく、整然と並んでいるように感じられます。
スイフヨウ(酔芙蓉)も咲き始めていました。
台風10号の影響で、日付が変わってからずっと雨です。
今日八日は薬師如来の縁日です。本来ならどこかへ薬師詣でに出かけているところですが、雨が熄むのを待つがごとく、朝から家でじっとしています。台風がきていたから、雨だから、という理由ではなく、前から今日は薬師詣でのプチ旅行はとりやめにすると決めていました。
なぜならば、二回目のコロナワクチン接種当日であったからです。
予約できた時間は午後三時でしたから、早めに出かければ薬師詣でに行けないこともない、と考えられるのですが、事故でもあって帰ってこられなくなる、という可能性は無きにしもあらずだし、疲労困憊して帰ってくることも無きにしもあらずと考えたので、今月は十二日に出かけることにして、八日の薬師詣ではとりやめることにしたのです。
ただ天気予想では十二日も雨、降水確率90%という高さなので、どうなるかわかりませんが……。
午前中に日課でもある慶林寺参拝を済ませました。本尊は薬師如来です。
薬師如来の縁日なので、普段と異なるのは香炉後ろにある小鐘を鳴らすことと下にある賽銭箱にお賽銭をあげることですが、コロナウイルスの猖獗以降、鐘撞きはできなくなっています。
雨は上がっていましたが、観音様のお顔とお召し物はまだらのお化粧。
ワクチン接種を済ませたあと、夕暮れ近い富士川を散歩しました。
毎年見慣れている田んぼの風景に、今年は「流山お田んぼクラブ」という旗と案山子が建てられていました。いかようなクラブなのか、ここで何かを為さんとしている集団を見たことはありません。
私が住んでいるのは松戸市ですが、五分ほど歩けば富士川河畔に出て、その富士川を渡れば流山市なのです。
雨に打たれたことも重なって、稲穂は重そうに頭を垂れています。
久しぶりに入院することと相成りました。九年ぶりです。
入院といっても、それほど大それたことではありません。
目的は大腸の検査。
かすかな下血が見られたので、ポリープがあるのだろうとの診立てだったのです。検査して、何事もなければ入院の必要はなし、あればその場で切除を行なうので、最低一晩の入院が必要。そう事前にいわれていたので、着替えの下着とパジャマ代わりのショートパンツと大きめのTシャツをトートバッグに詰め込んで検査に臨みました。
大腸ポリープの切除を経験するのは二度目です。前とは病院が異なるので、段取りも違っています。入院するのに気乗りがしないのは一緒です。
受付を通すと、しばらく待たされたあと、看護師がやってきて、点滴室と書かれた部屋に案内されました。
検査に臨むのに当たって、二日前と前日の夜七時に、それぞれ画像左のラキソベロン液、同八時に右のセンノシド錠を二錠服みました。
そして前日は、この紙パックに入っている、鶏と卵の雑炊(朝)、ゼリーミール二つとビスコ(昼)、煮込みハンバーグと白がゆ(夜)。
味はごく普通で、量的にもさほど不足はありませんが、普段の食事はとらない代わり、というわけですから、恐らく消化器内に残らないようなつくり方がしてあるのでしょう。
そして検査当日……。
病院に着いたのは朝早く(午前八時)、このマグコロール散をチビリチビリと飲みます。九年前の日録をひもといてみると、検査に先立って服んだのはスクリット配合内用剤で、同じ大腸検査・腹部外科手術前処置用下剤ですが、病院で服まされたのではなく、家で服んできたのでした。
肛門からエアーを入れて腸壁を伸ばすので、腹がはち切れるのではないかという痛みを覚えた記憶が蘇ってきましたが、今回は特段のことはありませんでした。
大腸ドットコムというサイトによると、ヘタッピな医師にかかると、腹がはち切れそうな痛みに苦しみ、上手な医師であれば、ほとんど気づかないうちに終わってしまうということですが、今回はほとんど痛くなかった代わり、いつまでもゴソゴソと腸内で蠢く感じがあったので、中の上か。
組織を採取。たんなる良性のポリープか、あるいは悪性か。ポリープが二つあり、無事切除。検査の結果、二つとも良性でした。
乳酸リンゲル液です。
数時間で終わりますが、久しぶりの点滴生活です。
十二年前、胃潰瘍で入院したとき、クリスチャンの友が無事の退院を願って送ってくれた守護神ミカエル。
いつもは自宅の鴨居に吊るしてありますが、二度の入院では特段困ったことにはならなかったという縁起をかついで、今回も登板願うことにしました。
ただ、ベッド周りには吊るすところがなかったので、サイドテーブルの上に置いて見守ってもらうことにしました。
ポリープを二つ切除した時点で、(良性だったので)入院は一晩だけと決まりました。
入院時に提出する書類(病院関係者の指示に従うという誓約書とか連帯保証人だとか)に記入したり、独り身だといろいろ面倒です。
入院は一晩だけなので、テレビカードは買わないことにしました。荷物が多くなるのを嫌って本や雑誌のたぐいは持ってきていません。そもそも目の衰えが始まってから読書というものをしていない。すると、無聊を慰めるものはスマートフォンしかありません。パソコンのキーボードでもミスタッチすることが多くなってきたのに、太い指でスマートフォンのちっちゃなキーボードをイジったところで、ミスタッチの連続。キャリアに勧められるままに買ったスマートフォンだからかどうか、触っていないのに画面が飛んだりします。
入院の翌朝-退院前に供された朝食です。
左上の丸い小鉢ははんぺんと小松菜の煮物、下はお粥。真ん中はお粥の味付け用の味噌ですが、なんとも微妙な味。右上の四角い小鉢は胡瓜&キャベツ&人参の酢の物かと思ったら、さにあらず。これも微妙な味。右下は麩が三つだけ入った味噌汁。
入院前にとった最後の食事は三十六時間も前だったというのに、食欲はありませんでした。夜勤のナースから、食欲がない場合はポリープの切除に問題があったという可能性がある、と脅されましたが、やってきた医師の診立てでは特段の異常はみられないので、無事退院という運びになりました。
退院後は庵に帰ってからまた出直してくるのもしんどい思いがしたので、足取りは覚束なかったのですが、病院帰りに日課の慶林寺参拝を済ませました。
残り花-今年は終わったと思っていたハス(蓮)の花がまだ残っていました。
今日六日はヒロシマ七十六年です。増加する一方の新型コロナの新規感染者数と、私としてはやらないほうがよかったんじゃないのでしょうか、と思うオリンピックのせいで、TVニュースの扱いも二の次三の次。すっかり影が薄くなっています。
八時過ぎ ― 私としては珍しく早い時間に庵を出ました。
三日後、大腸の内視鏡検査を受けて(もしポリープ等があれば、切除した上で)入院、ということになっているので、新型コロナウイルスのPCR検査を受けたのです。
庵を出るとすぐいくつかの幼稚園や保育園が送迎バスの停車ポイントにしている場所を通ります。「おはようございます」「おはよう」
「信じらんなーい、よね」
三人いたママグループの中で、一人のママの叫ぶ声が聞こえました。通り過ぎて行く瞬間、耳にしただけですが、そのあとの相槌からして、福岡県で置きた幼児の死亡事故だとわかりました。
幼稚園の送迎バスですから、何十人も乗れるような大型ではなく、十数人しか乗れないマイクロバスでしょう。そんな小さなスペースなのに、取り残されている幼児がいるかいないか、気づかないはずがない。
受付を済ませたのは八時四十五分。いつも通っている病院ですが、こんなに早い時間にきたことはありません。待合室にいる人影もまばらです。
内視鏡検査室。
「どうぞこちらへ……」。看護師に促されて入ったのは二十日ほど前、上部消化器の検査のために入らされた診察室です。
このベッドに横たわって胃カメラを咽んだのです。右に写っているのがファイバーの機器です。
PCR検査を受けるのは初めてですが、唾液による検査だと聞いていたので、こんなところへ通されて、どのように大がかりなことが待ち受けているのかと危ぶんだら……。
たんに人のいないところで、という配慮だったようです。
この容器 ― 看護師に確かめたところ特別な呼び名はないようです ― に、親指で押さえているあたり、5ccの目盛りのところまで唾液を溜めて、「溜まったら呼んで下さい」。そういって看護師は出ていってしまいました。「うん」と自分に頷いて唾液を吐こうとしましたが、緊張しているのか、緊張すると唾液は出ないものか、なかなか思うようになりません。
眠っているとき、気づくと枕を濡らしていることがあります。涙ではありません。恐らくだらしなく口を開けて、涎を垂らしているのです。
5ccまで溜まりませんでしたが、これ以上は無理だと思えたので、通りがかりの別の看護師に声をかけました。その看護師は「はい」といって受け取って立ち去りました。
最初の看護師がくるものと思って待っていたら、女子事務員がきて、「今日は会計はありません」といいながら、私の診察券を返してくれました。
内視鏡検査室やレントゲン室などは病院の奥のほうにあります。
「お帰りになって結構です」
そう事務員がいって、私がいた内視鏡検査室とは廊下を挟んだ反対側の扉を開けてくれると、道路の向こうに見たことのあるような石塀がありました。見たことがあるのは道理、この病院の出入口の直前にある家の塀で、つい何十分か前、今日はどうなるのだろうかと(恐らく)心配顔の私が通り、病院に入るときに見たばかりだったのです。
外に出たときに振り返ってみると、救急搬入口でした。ときたま救急車が停まっているのを見たことがあります。人目を憚って通常の出口を示さなかったのはなく、たんに近かっただけなのかもしれませんが……。
見上げると、今日も眩しいような空でした。カッと照りつけてくる陽射しはとても敵いませんが、雲は気持ちがいいほどの白さです。