昨日元日は晴。日記をつけ初めて二十年、朝方は曇って初日の出を拝めないという年もありましたが、二十年間、雨の降った元日は一日もない、ということになりました。
さて、千壽七福神巡りの〈つづき〉です。
八幡神社から千住神社まではわずか五分という近さでした。道路が斜めに走っているので、近くなっても境内がなかなか見えてきませんが、おびただしい数のチャリンコが止められていると思ったら、そこが門前でした。
境内が見えるところまでくると、これまたおびただしい数の人、人……。
七福神巡りを終えてみると、境内も一番広く、参詣人の数も一番多い神社でした。参拝待ちの行列もとりわけ長い。
祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)。
延長四年(926年)に創立された稲荷神社と弘安二年(1279年)創立の氷川神社を明治六年に合祀し、西森神社と名を改めましたが、昭和四年、現在の千住神社となりました。足立区内では一番格式の高い神社だそうです。
お目当ての恵比寿様はどこか、と見回しましたが、見つからない。長い行列をつくる人たちの陰に隠れていたのでした。
門前に「回転する」と謳っているように、恵比寿は台の上に載っていてクルクルと回転します。
男は時計とは逆廻りに三度廻し、女は時計廻りに三度廻して、願い事によって決まっている箇所を「白いハンカチ」で三度撫でながら願いの言葉を三度念じる。
家に帰ったら一日に三度念じながら、恵比寿を撫でた同じ部位を撫でる。すると、祈願が叶うのだそうな。「三度」というのが重要なポイントのようです。
行列が長い上に、普通ならお賽銭をチャリン、柏手をパンパンで済むところを、一人一人がヨッコラエッコラと恵比寿を廻し、ついでに(お参りにはきていない)「お祖父ちゃんのぶんも……」などとやっているので、自分の番がくるまでに、えらく時間がかかります。
面白そうだと、しばらく列の人となりましたが、列が進むのにつれて、説明板が読めるようになり、つらつら読んでいるうちに、「白いハンカチ」がいやに強調されている(持っていない人は社務所で買ってください、と書いてあるのです)と思い始め、柄物のハンドタオルしか持っていなかった私は列を外れました。
日光街道を横断して千住神社から七分、河原町稲荷神社に着きました。ここには福禄寿が祀られています。
祭神は先の千住神社の祭神一体と同じ食稲魂神(うかのみたまのかみ)。千住神社の表記(宇迦之御魂命)と異なるのは、それぞれの神社本庁への届け出に従ったまでで、他意はありません。ただ、食稲魂神と表記しているのは「古事記」、宇迦之御魂神(命ではない)としているのは「日本書紀」です。
この神は保食神(うけもちのかみ)とも呼ばれますが、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神のことです。食物の神・商売繁盛の神・出世の神で、千住市場(通称やっちゃ場)の守護神でありました。やっちゃ場は昭和二十年まで旧日光街道沿いにあったのです。
千住青物市場創立三百三十年記念碑。高さは4メートルあまり。
明治三十九年(1906年)に建てられたということですから、創立が三百三十年前というと天正年間です。そんな時代に市場が必要なほどの人が江戸に住んでいたとは思えないようにも思うのですが……。
河原町稲荷神社を裏手から出て細い路地を辿り、墨堤通りに出ると、浄土宗の源長寺が見えてきます。ここも旧千住宿を探訪したときに訪れていますが、再度お邪魔することにしました。
お寺に初詣する人も多く、私が庵を出てくるときは本土寺に向かう人々とすれ違ってきましたが、このお寺の境内は無人。お正月であろうとなかろうと、私は神社よりお寺にきたほうがホッとします。
七福神巡り最後となる仲町氷川神社と弁財天。河原町稲荷神社からは徒歩で七分ほどです。
祭神は素盞嗚尊。延喜年間(901年-23年)の創建。元和二年(1616年)、現在地に遷座。
これにて全編終了と相成ったので、ひと休みすることにしました。墨堤通りを少し戻って、矢立茶屋という店に入りました。
気のよさそうな客引きのおじさん二人が待ち構えていました。
抹茶とお菓子(人形焼き)をいただきながら、陳列されている資料を拝見。
資料の中になぜか坂本龍馬関係のものが見られます。なにゆえに? と問うと、龍馬の許嫁だった千葉佐那子という人が晩年千住に住んだからだとか。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」では貫地谷しほりが演じていました。住んでいたというだけなのですが、目聡い視聴者は早速ゾロソロと出かけてきて、放映直後はかなりの人出があったということです。
去年、この七福神巡りを思い立たっていたら、その混雑に巻き込まれていたわけです。去年でなくてよかったと思いながら、隣に目を移すと、見慣れた森鴎外さんの写真がありました。
これまたなにゆえに? と思って資料を読んでみると、鴎外さんの父・静男さんが明治十四年、この地に移り住んで橘井堂(きっせいどう)森医院を開業。鴎外さんもドイツ留学までの四年間をこの地で過ごした、とありました。
そうか、そういえば、「鴎外」という号は、隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」、つまり千住を意味する、と聞いたことがありました。医院の跡には石碑があるだけ、とのことでしたが、早速腰を上げて探索。
再び仲町氷川神社前を通って、ミリオン商店街という道を進みました。見つけられぬまま突き当たると、右は飲食街で、北千住駅が近いようです。
石碑だけというから、細い路地に隠れて気がつかなかったのか。
しばし立ち止まり、矢立茶屋でもらってきたパンフレットを見直してみると、「千住1-30-8」と所番地が記してあったので、よし、虱潰しだ! と決意して振り向いたところにありました。足立都税事務所の角でした。
↓八幡神社から北千住駅まで。
http://chizuz.com/map/map81196.html