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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

無患子(ムクロジ)に会う(2)

2010年03月29日 23時27分48秒 | のんびり散策

 高崎線は行き帰りとも電車のくるタイミングが絶妙だったのに、京浜東北線と武蔵野線は接続が悪く、大宮と南浦和で待つことそれぞれ十分ずつ。新松戸の二つ手前・三郷駅に着いたのは午後三時近い時間でした。
 馬橋・萬満寺の仁王尊股くぐりは午後四時までです。
 あと一時間では観音寺と赤城神社の二か所を巡る時間はありません。一つだけに絞っても間に合わないかもしれない。
 といいながら、春秋の例祭と正月と、年に三回しかない股くぐりと、来週でも再来週でも見に行ける二本目のムクロジ(無患子)と、どっちを優先するかといえば、むろん無患子(ムクロジ)のほうです。

 

 三郷駅で降りて江戸川を渡ります。堤には一面の菜の花。ツクシ(土筆)も見つけました。

 歩行者と自転車専用の橋のたもとに立つと、江戸川の彼方、左前方にこんもりと樹の繁った小山が見えました。ムクロジがあるという赤城神社です。

 伝承では、この小山はかつて洪水が起きたとき、群馬県の赤城山の山体の一部が流れてきてここに流れ着いたものだと伝えられています。流山という地名も、そのことに由来するといわれ、付近の地名も流山市流山。

 あるいは、その大洪水のときに、上州赤城神社のお札がこの小山に流れ着き、お祀りしたので赤城神社とした、という説もあります。
 赤城神社のある赤城山のカルデラ湖・大沼から流れ出る沼尾川は利根川の支流です。江戸川はかつての利根川ですから、こちらのほうがリアリティがあります。

 観音寺は橋を渡ったあと、赤城神社方向とは逆に、道を右に折れなければなりません。右へ行くか左へ行くか。寒風に吹かれて川を渡りながら、観音寺訪問は次の機会、と決めました。



 時間的に際どい、といいながら、お寺があれば寄らないわけにはいきません。ことにこの流山寺は我が曹洞宗のお寺ですから、なおさらです。



 本堂前には流山七福神のうち、大黒天が祀られていました。



 三郷駅から徒歩二十分で到着。赤城神社の大注連縄(しめなわ)です。
 長さ10メートル、太さ1・5メートル、重量700キロ。毎年十月初めに氏子たち総出でつくられるのだそうです。



 参道途中にあったムクロジの樹。
 向こう側に隠れている説明板がなければ、これがムクロジだとは気づかず、通り過ぎてしまうところでした。



 こちらは先に見てきた北上尾・龍山院のムクロジです。樹齢が格段に違うようだとはいえ、まるで似て非なるもののように見えます。
 木肌は同じはずですが、私には違うように感じられます。まあ、人間でも二十歳の肌と六十歳の肌は同じように見えて、じつは違うので、素人の私には違って見えるのかもしれません。
 しかし、樹齢によって木肌が違って見えるというのでは、観音寺に行ったときに、説明板でもなければ見つけられる自信はありません。
 赤城神社の説明板には、ムクロジの実を見つけたら持ち帰ってください、とありました。そんなことが書かれているので、みんなに拾われてしまうのか、ここでは収穫ゼロ。



 この熊笹は上州赤城山の熊笹と同じ種類なのだそうです。
 イネ科の植物ですから、洪水とともに種が流されてきたのか、あるいは本当に山の一部が流されてきたのか。



 赤城神社。



 赤城神社の麓にある真言宗光明院。
 本堂は改修工事中で、がらんどうでした。



 光明院境内にある秋元双樹夫妻の墓。
 秋元双樹、本名は三左衛門(1757年-1812年)。流山の醸造家の五代目で、家業のかたわら俳句をたしなみ、小林一茶のパトロンでもありました。



 一茶と双樹の交友関係が深かったことを記念して建てられた一茶双樹記念館です。
 先を急ぐので、写真だけ撮らせてもらって、前を通過。



 長流寺。慶長十二年(1607年)、開山の浄土宗のお寺です。
 伊勢の人・覺譽というお坊さまが東国布教のおり、ここに草庵を結んだのが始まりと伝えられていますが、天保七年(1836年)十月の火事で全焼。再建されたのは元治元年(1864年)。



 長流寺に祀られている流山七福神のうち、恵比寿天。



 長流寺境内から眺めた赤城山(赤城神社)です。右の青いシートは改修中の光明院本堂。



 馬橋へ行くため、平和台駅から流鉄に乗りました。



 通勤の行き帰りには必ず越えなければならない流鉄の踏切で毎朝見ている電車ですが、乗るのは二度目。



 二両編成の二両目に乗ったら、誰もいませんでした。
 乗客の大部分は平和台から三つ目の幸谷駅で降りて、JR(新松戸)に乗り換えるため、改札口に近い先頭車両に集まっているのです。

 馬橋到着は十五時五十五分。仁王尊股くぐり終了まであと五分。
 平和台駅で電車を待っているときから間に合わないのはわかっていましたが、時間を見るためにコートのポケットから何度も携帯電話を出していたので、同じポケットに入れていた切符を落としてしまったようです。流鉄はスイカに対応していないので、切符を買わなければならないのです。
 改札口に到るまでに、立ち止まってポケットをまさぐること数分。いくら捜しても見つけられず、もう一度百九十円也を払うしかない、と諦めたとき、ちょうど四時となりました。



 馬橋駅から萬満寺まではセカセカと歩いても、およそ五分かかります。私が着いたときにはすでに参詣人の姿はありませんでした。
 山門の向こうに屋台の青テントが見えますが、商売人たちも帰り支度をしていました。



 萬満寺本堂。



 本堂側から見た中門。ここに仁王尊がおわします。

 無病息災が叶うという股くぐりはできませんでしたが、ムクロジに会えたこと、その実を二つも得られたことで、私には充分に価値のある休日になりました。

 さらにもう一つうれしかったこと……。
 馬橋駅で料金を払おうとしたら、買った切符の金額を訊かれ、答えが正解だったからか、お金をとられなかったことです。
 駅員の名札をちゃんと見ておけばよかった。
中気除不動尊霊場


無患子(ムクロジ)に会う(1)

2010年03月28日 23時51分39秒 | のんびり散策

 手ぐすね引いて、待ちに待っていた休日がやってきました。
 先週の三連休は会社に出ずっぱりだったので、二週間ぶりの休日です。ちょっと疲れが溜まっているのと、冬が戻ってきたような寒さに脚はすくみがちではありましたが、三月最後の休日です。
 前々から考えていたように、無患子(ムクロジ)に会いに行くことにしました。

 ムクロジの樹があると知ったのは、我が庵から徒歩数十分のところにある流山市の観音寺というお寺です。ところが、私はムクロジの樹を見たことがありません。
 で、観音寺のムクロジについてネットで捜してみました。あることはあるらしいとわかったけれども、いま一つハッキリしません。
 たとえば、天然記念物か何かに指定されていて、これがムクロジですよ、とわかるような表示でもあればいいが、そうでなければせっかく行っても見極めることができないかもしれない。

 どうしようか。
 少し迷った挙げ句、所在のはっきりしている埼玉県上尾のお寺へ先に行き、ムクロジの樹の実態をしっかと目に焼きつけたあと、帰りに観音寺と、流山市内にもう一か所ムクロジの樹があると知った赤城神社を訪ねることに決めました。

 上尾といっても、目指すのは高崎線で上尾のもう一駅先の北上尾です。
 時刻表ナビで調べると、新松戸からは一時間十五分ぐらいかかります。さらにムクロジのある龍山院というお寺までは北上尾駅から徒歩二十分少々。
 南浦和で武蔵野線から京浜東北線に乗り換え、浦和か大宮で高崎線に乗り換え、と二度の乗り換えを強いられるので、電車の接続が悪い場合を考えると、行って帰ってくるまで四時間はみておくべきか。

 行き当たりばったりが得意な私としては珍しく時刻表や地図と睨めっこしながら、用意周到に準備を整えました。
 というのは、土曜からから月曜まで馬橋・萬満寺の春季大祭があって、仁王尊の股くぐりという催しがあるので、帰りにはそれを見に行きたいと思ったのです。

 九時、遅くとも十時には家を出ようと考えていました。
 野道のようなところを歩かされるかもしれないと予想したので、弁当にお握りを持って行こうと思い、土曜日の勤め帰りにダイエーに寄って、お握りを握ってそのまま携帯もできる、お握りパックというのを二つ、具にする鮭と鱈子を買って、夜のうちに焼いておきました。

 ところが、二週間ぶっつづけで出勤したからか、お風呂に入って床に就いたら、思わず寝過ごして、目覚めたのは九時近くでした。
 あわてて御飯を炊いたのですが、どういうわけか、二十分ぐらいで炊飯器のランプが炊き上がりを示す緑色に変わりました。ンなわけはねェだろうと蓋を開けてみれば、危惧したとおり半粥状態でした。
 ンもォ、どうなるのかわからねェが……エエイッ! もう一回、と早炊きのボタンを押す。

 こんな幸先の悪いことがあって、家を出たのは十一時半でした。50メートルほど歩いたところで万歩計を忘れたのに気づいて、あと戻りもする始末。
 新松戸で電車に乗ったのは十一時五十二分と、もはや昼です。ご飯のほうはグチャグチャに炊き上がっていたので、ほったらかしにして出てきました。もちろん握り飯は「なし」です。



 電車の接続は予想外にスムーズでした。新松戸から武蔵野線、京浜東北線、高崎線と乗り継いで、ちょうど一時間。北上尾で降りました。



 それらしき名残は何もないけれど、旧中山道です。
 中山道六十三次の宿があったのは上尾と桶川。このあたりはその中間地点です。



 上氷川神社。
 上(かみ)というのは、このあたりの土地の名です。このあたりの鎮守というだけで、神社の由来はまったくわかりません。

 

 上氷川神社の狛犬。
 漫画チックなつくりです。取り分け左(画像上)の吽形のほうは可愛い。



 上氷川神社のすぐ裏手に、目指す龍山院がありました。真言宗智山派のお寺。開山は1400年代か、それ以前。



 やっと会えたムクロジです。
 これがムクロジの樹であったのですか、としげしげと見上げました。幹周り4・1メートル、樹高15メートル。

 正徳元年(1711年)、当寺第十三世の覚本という和尚さまが檀徒代表らとともに、諸国巡礼するのを記念して、榧(カヤ)
、桜と一緒に植えたといわれています。すなわち来年でちょうど三百年。

 実はいつごろ実って、いつごろ落ちるのでしょうか。
 見上げたものの、一つもないようでした。「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という心境です。
 眼を凝らして幹の周りをゆっくり廻ること二度。落ちていた実を二つ見つけました。周りに誰もいないのを確かめ、ポケットティッシュにくるんで鞄の中に入れましたが、実も写真でしか見たことがないので、本当はムクロジの実かどうかわかりません。



 道路に出て眺め直したムクロジの全景です。
 3メートルほどの高さから枝分かれが始まって、それぞれの枝が勝手な方向に伸びて行く、という印象です。どこかで見たことがあるような樹形ではありますが……葉の出揃った季節に、いま一度見なければなりません。

 眼底に焼きつけるために、もう少しゆっくり見ていたかったのですが、とにかく滅茶苦茶に寒いのでした。
 寒そうだからと思って、真冬用のコートを着てきましたが、まさかマフラーまでは、手袋までは、と思ったので……コート以外は無防備。そろそろ桜の咲く季節だというのに、手がかじかむほどに寒い。
 ときおり木枯らしのような風も吹いて、ひたすら寒いのと先を急ぐ理由もあったので、龍山院を見たのを最後にして引き揚げることにしました。

 行きは浦和で乗り換えのとき、プラットホームに上がったら、タイミングよく籠原行の電車がきました。帰りは北上尾駅の階段を降り始めたときに上り電車が滑り込んできました。今日の行程の中では電車の本数が一番少ない高崎線なのにラッキーでありました。
 ただ、帰りに乗った電車は埼京線経由で東海道線の国府津まで行く快速でした。北上尾の先、上尾、宮原、大宮と停車したあと、埼京線を走って行くので、さいたま新都心も浦和も通らないのです。

 乗客の会話でそのことを知って、浦和で乗り換えるつもりだった私はあわてて大宮で降りましたが、車掌は寒いからといって、むせかえるほどの暖房を入れるというよけいなことをしながら、停車駅という肝心なことは一言も案内しない。
〈明日-勤めからの帰りが早ければ-のブログにつづく〉


六日の菖蒲

2010年03月27日 06時13分01秒 | つぶやき



 昨朝、「こざと公園」に夜桜見物用の提灯が吊されました。
 去年は二十五日でした。今年は一日遅れです。
 去年も一昨年もその前も……私はこの時期に、この提灯を見るまですっかり忘れていたことを思い出し、つれて思い出し笑いを禁じ得ないことがあります。
 それは……2001年のことでした。この年、四月一日が日曜日で、ちょうど桜の見ごろとなりました。私は浅草に棲んでいて、知り合いたちと隅田公園へ花見に繰り出しました。一日か二日前が満開期で、ときおりビールを注いだコップに花びらが舞い落ちる、という絶好のタイミングでした。

 この風流な光景を、ヒヤヒヤしながら、なかば絶望的に眺めている人たちがいました。
 私たちが陣取った近くに、いやに盛り上がらない集団がいると思えばその人たちで、気になったので、簡易トイレに立ったついでにこっそり聞き耳を立てて、盛り上がらない理由を知ってしまったのです。

 彼らは浅草からほんの少し離れた地域の商店会の人たちでした。なぜ盛り上がらなかったというと、すでに桜が散り始めているというのに、この年の桜祭りを一週間もあとの四月七日と八日に設定していたからです。
 幸い小雨の降った日が一日あっただけと冷え込んだ日があったおかげで、花はなんとか一週間保ちましたが、桜祭り当日は花よりも散ったあとの萼(がく)のほうが目立つという情況でした。

 偶然ながらも知ったという縁があったので、祭りを見に行きました。結論を先にいってしまうと、ヒジョーにつまんねェ、のでした。
 屋台でも出ていればと思ったのですが、出ているのはメンバーのテントだけ。飲食店はないようで、衣料品店や靴屋のような店ばかり。店で売れ残ったようなものの叩き売り、という観を呈していました。
 メインゲストがいたので、場違いのような舞台が設営されていました。しかし、メインゲストはいつくるのかわからず、舞台ではおばさんたちの踊りが披露されるだけ。客よりもメンバーのほうが断然多そうな会場でした。

 満開から十日も遅れて祭りを設定していたところをみると、この年の開花予想は遅かったのでしょう。
 一商店会とはいえ、何十人かが集まって物事を決め、場所を設営し、すでに広報も済ませたとなると、悲惨な結果になるとわかっていても、日程を変えるのはむずかしいのでしょう。ましてこの年は「五月みどりショー」があったのですから……。

 提灯を吊すのと「五月みどりショー」を一緒に論じられないのはわかっています。
 しかし、私は「こざと公園」の提灯を吊す日がその年によって微妙に違うということに気づくと、いつも「五月みどりショー」を抱えて盛り上がらなかった集団を思い出してしまうのです。
 そして花が終わって提灯がたたまれると、来年のいまごろの時期まで、その集団のことをすっかり忘れしまうのです。



 昨朝、通勤前に少し遠回りして見つけた立壺菫(タチツボスミレ)の群落です。



 そのすぐ先に咲いていた沈丁花も満開。
 不思議なことにこの花はあまり匂いがしませんでした。



 見事に咲いていた雪柳。
 小手毬(コデマリ)をベランダに置くまで、私は雪柳(ユキヤナギ)と小手毬の区別ができませんでした。芙蓉(フヨウ)と木槿(ムクゲ)の区別はいまだにつきません。



 提灯は吊されたものの、桜そのものはこんな状態で、まだ一輪も開花していません。
 電車ならわずか十分しか離れていない新松戸では、すでに三分咲きの樹もあるというのに……。
 提灯のおかげか、立ち止まって、桜の蕾を見る人が増えたようにも思えます。冬の寒さが戻ってきましたが、気分だけは春めいています。


ツワブキ(石蕗)の春

2010年03月24日 20時14分33秒 | 

 昨朝、桜が咲いているのを見ました。
 家のすぐ近くにある住宅会社のショールーム前です。ただし、何本かある樹のうちの一本だけで、それも二輪か三輪……。気象庁の基準でいうと、まだ開花したとはいえません。
 狭い道路ですが、反対側でもあり、出勤時の慌ただしいときには立ち止まってカメラに収めている時間的余裕がありませんでした。

 いつも朝はドタバタして余裕がありません。
 昨日は朝飯を食べなかったので、途中にあるサンクスに寄って、鮭ハラスの握り飯を買って行かねばならんと思いながら、ドアの鍵をかけようとしたときに、マンションのフロア理事(老♀)の顔が見えました。町会費の集金です。
「お忙しそうだから、お帰りになってからでも……」といわれましたが、私がお帰りになる物音を、耳をそばだてて聞かれているのか、という気にもなったので、ここで手間取るぶん、小走りに歩けばいいと思い、エレベーターが上がってくるのを待つ間に用を済ませました。遅れは数十秒。
 スティーヴ・マックイーンを真似て、身体を右に傾けながら、マンション入口から道路に出ます。セカセカと歩けば、数十秒の遅れはいともたやすく取り戻せます。

 しかし、握り飯を仕込みに入った、コンビニのサンクスがいけませんでした。
 買うものは決めているので、私は店に入ったときにはすでに小銭入れを左手に握っています。握り飯の棚に行って(この朝は鮭ハラスがなかったので)、明太子マヨを一つ。値段を見ながら素早く掴むと同時に小銭入れに指を突っ込んでいます。
 買ったらコートのポケットに突っ込むので、レジ袋などは不要。テープを貼ってくれればいい、というつもりです。
 レジは二つありますが、朝、開いているのはいつも一つだけ。若い♂が精算中、その後ろに若い♀が待っていました。
 二人とも二品か三品の買い物ですが、二人の行動がせっかちな私を苛立たせました。若い♀のほうはともかく(というとジェンダーじゃないか、といわれそうですが)♂が鞄をレジの台の上に載せ、おもむろに財布を取り出しているのです。
 おまけに、というより、こういう♂なら当然予想されたことですが、レジ袋を受け取ったあとの行動ものろい。さっさと引き揚げれてレジを明ければいいのに、ご丁寧にも台に載せたままの鞄の口を開けてレジ袋を突っ込んでいる。

 鳴呼、前からわかっていたことではあるが、ダンディズムや美学というものがどんどん死に向かって突っ走っている!! と慨嘆する私。

 つづく♀のほうは二十歳そこそことまだ若いのに気の毒だが、すでに多くのおばさんの域に達しています。おばさんの特権といわんばかりに、一円硬貨を整理しつつ同じような行動。
 明太子マヨをてめぇの脳天に振り下ろして、グチャグチャに潰してやろうかと、つい意気込んでしまう私。思わず知らず手に力がこもって、もう少しで握り飯を潰すところでした。

 小走りに歩いて取り戻していた遅れは完全に復活。駅に着いたときには電車は発車寸前でありました。
 駅のプラットホームでも亡霊が歩いているんではないか、と思いたくなるような若者が多い。朝のプラットホームは一人が通れるぐらいのスペースしか空きがありません。そういうやつばらのおかげで、いつもの乗車位置に辿り着く前に電車がきてしまう、ということが往々にしてあります。



 昨日の昼休みに歩いた「こざと公園」の桜です。
 このあと、燕が舞っているのを見ました。



 二月中は根づいてくれるかどうか心配だった我が庵のツワブキ(石蕗)です。
 三月に入ってやっと新しい葉を二つ出し、ヤレヤレよかったと安心させてくれたと思ったら、三つ目、四つ目、五つ目、と次々に葉が顔を出していました。
 逞しいというより、ちょっと空恐ろしくなるような増殖ぶりです。
 我が庵にきてから萎れてしまった葉を何葉か伐り取っていたので、その残骸かと思っていたものが新しい葉だったのです。

 地中から出たばかりの姿はゼンマイ(薇)のようです。植物の若葉はどれも美しいものですが、ツワブキの若芽は全体が土色をしていて、お世辞にも美しいとはいえません。
 拳を握り締めたような葉が開いて、やっとツワブキらしい艶のある緑の葉に変わるまでには、二~三週間を要します。



 コデマリ(小手毬)もこんな小さな蕾をつけました。

 土日と荒れ狂った低気圧のせいで、ベランダに置いた草花類は壊滅的な打撃を受けました。
 菜の花は葉をねじられて、ちぎり飛ばされました。紅花の鉢もクルクル舞いをさせられた揚げ句、叩きつけられて全身泥にまみれています。ツワブキも鉢がひっくり返されてベランダ中を転げ回っていたのを、途中で気づいて避難させたのです。

 昨日は夜になって小雨。
 朝、横目に見ながら通り過ぎていた桜の周辺がぼんやりと白っぽく見えました。もしかして、と思いながら近づくと、なんとすごい数の花が開いていました。日中は決して暖かいとはいえなかったのに、たった半日で様変わりです。
 コートの内ポケットをまさぐろうとして、もう一度、もしかして、です。やんぬる哉やんぬる哉。カメラを勤め先に忘れていたのでした。



 で、これは今朝ほんのちょっと早く出て、携帯電話のカメラで撮ったのですが、雨空が背景になって花が咲いているのかどうかよくわかりません。実際はたくさん咲いているのです。
 流鉄の線路端にある桜にも数輪の開花が見られました。

 市川大野の桜は昨日と変わらないようです。市川大野に較べると、新松戸のほうが都会度が高いので、それだけ気温も高いのでしょう。



 今日、昼休み中に更新したブログですが、なんとか桜を載せたいと思い、帰宅時にはカメラを忘れずに持ち帰って、再更新しました。
 冷たい雨の夜の桜です。


頓挫した無患子計画

2010年03月22日 23時10分46秒 | つぶやき

 無患子(ムクロジ)という樹があります。
 中部地方以西の山野に自生する落葉高木で、六月に円錐状をした淡緑色の花を咲かせ、秋には黄葉、十一月ごろになると実を結びます。

 ……と、書き始めましたが、関西在住の友に教えられるまで、私は無患子という名の樹があることは知りませんでした。

 奈良の春日大社参道には有名な古木があるそうです。高さ15・5メートル、幹の周り4・58メートル。
 春日大社のホームページにも紹介されています。春日山原生林にはたくさん自生しているそうですから、とくに珍しい樹というのではないようです。
 それなのに見たことがない、ということは? ……関東にはない樹なのかもしれない。
 そう思って、手許にある樹木図鑑をひもといてみると、「中部地方以西の山地に自生」とありました。
 道理で、ね……と納得しながら、正月、あいにく休園中で入れなかった国立科学博物館の「筑波実験植物園」に無患子の樹があったのを思い出しました。植物園にあるぐらいだから、やはり関東では見ることのできない樹だったのでしょう。

 ところが数日前、ひょんなことから無患子が関東地方にもある。それも我が庵から歩いて行けるところにあるらしいと知ったのです。
 そこは下総三十三観音の二十六番札所・観音寺というお寺です。松戸市の隣・流山市にあって、我が庵からはおよそ3キロ、四十分ほど歩けば行ける距離です。土曜日がやってくるのを待って、是非とも行こうと愉しみができました。



 無患子を教えてくれた友に、見たことがないし、関東にはないのかもしれないと伝えると、先の春日大社でひっぺがしたのか、落ちているのを拾ったのか、樹皮の断片を送ってくれました。わずか3センチ四方の小ささです。
 使い道もないので机の上に放り出してありましたが、急に見に行くことになったので、手許のペントレーに置くことにしました。
 植物図鑑で全体の姿をしっかりと頭に刻みつけたつもりですが、落葉樹で、春の芽吹きは取り分け遅い部類の樹だそうですから、いまの時期は葉がありません。この断片だけで見分けるのは非常に心許ないけれども、頼りになるのはこれしかない。

 万が一見つけられなければ、日を改めて埼玉県の北上尾というところまで行ってみるつもりです。
 龍山院というお寺の本堂前に、樹齢三百年といわれる無患子があると上尾市のホームページに紹介されていたのです。市指定の天然記念物になっていて、その旨の案内板もあるようですから、よもや見つけられぬということはありますまい。
 こうなったら、是が非でも見に行かずにはいられない。



 上尾市のホームページから拝借した画像です。左の巨木が無患子。


 ところが、ちょっとしたミステイクから土曜日は出勤が待っていて、無患子を見に行く計画は頓挫してしまったのでした。



 計画が頓挫するとは知らぬ金曜日。昼食を買いがてら周辺を散策。
 一輪だけですが、まさに開花せんとしている辛夷(コブシ)を見つけました。
 昼間はわりと暖かかったのに、夕方から冷え込んだので、完全な開花は持ち越しだったようです。



 染井吉野の蕾もこんなにふくらんでいました。

 さて、金曜日の夕方、得意先から、前日発送した商品に不備がある、との連絡が入りました。
 土曜着で送り返すということだったので、出勤しなければならないことになりましたが、これで無患子を見に行けなくなったわけではない。指摘された不備の部分はほんの数十分もあれば手直しすることができるからです。
 私の勤め先で使っているKYの宅配便なら、毎朝十時ごろまでに配達があり、午後五時に集荷があります。出勤しなければならなくなったけれども、遅くともお昼には解放されるだろうと踏んだわけです。

 ところが当日……。昼近くなっても配達がない。
 KYに問い合わせをしようと思って、得意先に連絡。送り状の控えをファックスしてもらうと、KYではなく、S急便でした。
 すぐ電話をしましたが、S急便では土曜から月曜にかけて三連休だろうと勝手に判断(なぜ勝手に判断するのか)して、車には積んでいないという返辞です。
 午前の便はすでに町を走り回っているので、積めるのは午後の便。届けられるのは早くても夕方五時以降だろうというので、ここにおいて無患子計画は破綻と決定しました。

 前々から春分の日と翌日の振り替え休日は出勤ということになっていたのです。世の中三連休の中で、たった一日だけあった土曜日の休みが消えて、無患子計画は敢えなく頓挫。次の日曜日まで日延べ、ということになりました。

 結局、S急便がきたのは五時半過ぎでした。手直しをして、再度送り返すために、近くにあるKY便の集荷所まで持って行ったころには、すでに真っ暗でした。そこで土曜出勤は幕。
 いつもの通勤路は通らず、大野城跡の中心部を切り拓いた道を通って帰ります。

 前もKYの帰りに寄った浄光寺。
 門は開け放たれていましたが、こんな時間に参拝するような酔狂な人間はおりません。
 折から猛烈な低気圧が発達中、というときだったので、ときおり身体ごと吹き飛ばされそうな突風が舞います。本堂の後ろにある木立がドウドウと葉を鳴らし、ちょっと薄気味悪い。

 お釈迦様は、百八つの無患子の実を糸で繋いで数珠をつくり、いつも身体から離さず念仏を唱えれば、災いを取り除き、正しきに向かう、といわれたそうです。
 流山の無患子が実をつけていたとしても、何もかも吹き飛ばしてしまうような低気圧が通過したあとですから、地面に叩き落とすだけでは済まさず、遙か彼方へ飛ばしてしまったかもしれません。
 百八個も集めて数珠をつくるのは無理だとしても、せめて一つか二つの実を得られたら、植木鉢に植えてみようと思います。


物忘れ

2010年03月18日 06時05分23秒 | つぶやき



 昨日撮影した「こぶし公園」の辛夷(コブシ)の蕾です。はち切れそうなほど
大きくなっていました。



「こざと公園」には南園と北園にアオサギがそれぞれ一羽ずつ飛来していました。
 アオサギはなぜ単独行動なのでしょう。見ていると、自分自身を見ているようで、少し寂しいような気がしないでもありません。



 木瓜(ボケ)の花も咲き始めています。隣には柊南天(ヒイラギナンテン)。
 桜の蕾もかなりふくらんでいました。我がカメラ(ペンタックスオプティオ)はピントが合っているというサインがモニタに出ても、桜に関しては常にアトピンで、上手く撮れません。



 満開の白木蓮。
 この公園にあるのは一本だけですが、並木のようになっていたら、きっと桜に劣らない眺めになるのではないかと思います。
 昼はこの白木蓮が見えるベンチに坐って、ファミリーマートで買ってきた弁当を食べました。

 カメラにSDカードを装着するのを忘れていました。自宅のパソコンに挿し込んだままだったのを忘れていたのです。
 幸いカメラ本体に10カット程度の記憶領域があるので、撮影はできましたが、電池を充電器に置いたまま、カメラを持って出ることも……。

 最近、忘れ物をすることが多い、のです。
 出勤時に必ず持つと決めているものがあります。
 コートの右ポケットに、デジカメ、定期券、携帯電話(au)、自宅と勤め先の鍵、USBモジュール二つ、のど飴かミントキャンデー。
 左ポケットには眼鏡(近と遠近)、携帯電話(Docomo)、小銭入れ、ハンドタオル。
 シャツの胸ポケットには観音経。
 スラックスの右ポケットには万歩計と100円ライター。煙草を吸わなくなったのに、なにゆえライターを持つかと問われれば、底にライトのついたヤツで、夜、鍵穴を捜すときに役立つし、梱包のビニール紐を解くときにも役立つ。
 左はいまは空。前は携帯灰皿を入れていました。
 鞄には長財布、バイブルサイズの手帳、ロールペンケースに入れた万年筆とボールペン、文庫本、マグボトル、メンタームなど薬を入れたポーチ、野良猫殿用のミオ。その他そのときどきで必要なもの。

 ひところ、パソコン机の片隅に「備忘箱」と名づけた桐の小箱を置くことにしていました。まだ煙草を吸っていたころのことなので、必須の持ち物はさらに増えます。
 朝はどうしても時間に追われるようにして家を出るので、常に何か一つは忘れている。
 そこで、勤めから帰ると、コートを脱ぐ前に、ポケットに入っているもろもろのものを、その中に入れておくことにしたのです。
 おかげで数日は忘れ物をせずに済みました。

 しかし、広さにさほど余裕のある机ではありません。公共料金の請求書がきていたりすると、つい「備忘箱」の上に置く。宅配便やメール便の送り状や不在配達通知などがあると、ついその上に置く。
 これがたび重なって「備忘箱」の役割はあっけなく崩壊することとなりました。

 さあ出勤という段になって、見つからないものがあると苛々してしまいます。駅に向かって歩き出してから気づいたときであればさっぱりと諦めますが、マンションのエレベーターの中で気づけば戻るので、それも苛々します。 忘れた、と気づいて諦めていたら、勤めを終えるころになって鞄に入っていたのに気づくということもあります。

 風邪気味だったので、昨日も風邪薬を持って出たつもりだったのに、昼食後、服もうとしたら、コートのポケットに入っていない。定期券など必須のものとは違うので、また忘れたか、と気楽に構えていましたが、帰り支度を始めるときに、鞄のポケットに突っ込んでいたのに気づきました。
 いつまで経っても……まあ、仕方のないことです。
 コートを脱ぐ季節がきたら、ポケットに入れていたもののいくつかは鞄に入れるようになります。気をつけていても、これからもっと頻繁になって行くのでしょうし……。



 夜八時ちょうどに退社。オフグ一家に会おうと遠回りして帰りました。
 いつものところには姿がありませんでした。そのあたりは細々とした光を放つ街路灯があるだけで、周囲はほとんど真っ暗です。
 少し先に行ったところに、黒いものが蹲っているのが見えました。近づくのにつれて仔猫殿だとわかり、ぼんやりと毛並みの色も判別できるようになりました。オフグに似た茶色です。ツワノかと思いました。しかし、暗いのでよくわかりません。
 しゃがんでミオを取り出そうとすると、立ち去る素振りを見せます。数か月会っていないとはいえ、ツワノならおぢさんの顔を見忘れても、ミオの匂いを忘れるはずがない。訝しく思いながら見ていると、どうやらツワノより身体が一回り小さいように見えました。

 オフグ一家の住まいに近いとはいっても、道路の反対側でした。オフグの縄張りとは違うのかもしれません。
 ツワノ似はやがて戻ってきて、ミオを食べてくれました。フキに似た黒っぽい仔猫が二匹現われましたが、あまり食欲はないみたいです。
 袋の中のものを全部空けて立ち去ろうとしても、三匹は知らん顔でした。ツワノやフキであれば、「ニャー」と一声挨拶をしてくれたものでしたが……。


松戸七福神巡り

2010年03月15日 00時21分20秒 | 寺社散策

 昨日もいい天気。散策日和でした。日ごろの運動不足を補うため、休みの日はできるだけ歩くように心がけています。

 何年前だったのか憶えがありません。少なくとも十年以上は前のこと、ある禅僧から「歩くためだけに歩けるようになったら、なかば達人の域」といわれたことがありました。
 まだ若きころだったので、そんなのはわけないことだと思いましたが、実際にやろうとすると、禅で説くところの「無」になるということでしょうから、なかなかにむずかしい。
 買い物に行くとか、運動不足を補うためだとか、達人になるためだとか、目的があったのでは、歩くためだけに歩くことにはなりません。

 いつもそんなことを考えていたわけではありませんが、今日出かけようと思ったとき、ふと昔聴いた、その言葉を思い出したのです。
 すでに達人になることを諦めている私は目的がなければ歩けません。
 で、昨日定めた目的は松戸七福神の四つ目(寶蔵院)と五つ目(善照寺)を訪ねることです。

 朝昼を兼ねて焼きうどんをつくって食べ、昼前には家を出るつもりでした。
 ところが、電車の中で読もうと思った文庫本が見つからない。買ったその日に革製のブックカバーに差し込んだはずでした。近々読もうと思っていたのですから、見えないような場所に置くはずはない。なのに、一時間近く部屋をひっかき回しても見つからない。
 捜し物が見つからないと、死んでも見つけてやるゾと、ムキになる性格です。挙げ句、疲れるだけ……。疲れるだけとわかっているのに、ムキになる癖が抜けません。

 怒りをぶつけるとしても、自分のうっかり癖と最近とくに目立つようになった物忘れ以外にないのですが、見つけられないことと、捜し物のために一時間も出発が遅れてしまったことへの二重の憤り。結局、疲れてしまったので、捜すのを諦めて外出しました。

 少し苛々しながら電車に乗りました。
 松戸駅のバスターミナルに行くと、ちょうど矢切高校行のバスがやってきて、待つこと数分で発車。
 一時間に二本しかない路線です。こういうラッキーなこともあるもんです。よって苛々はかなり後退。
  


 松戸七福神巡りのホームページには「宝蔵院前で下車」と記されていましたが、バス停はまさに山門の真ん前でした。狭い道なので、バスは塀に車体をこすりつけんばかりにして停まります。
 歩いて行って、道を間違えるといけないとバスを選択しましたが、これなら迷いようがない。



 松戸七福神の一つ大黒天と石造りの仁王尊、そして本堂。
 仁王尊はかなりズングリムックリの体型です。五等身? いや、四等身ぐらいか。
 お寺の由来はよくわかっていないそうです。松戸のお寺は江戸川の洪水、火事と災難に見舞われて、記録の失われたところが多いのです。



 寶蔵院から江戸川はすぐでした。対岸は私が棄ててきたのか、棄てられたのか、東京です。
 帰りは見晴らしのよい堤防を歩くことに決めていました。視界を遮るものはなし。右手に松戸駅のあるあたりを教えてくれる伊勢丹がずっと見えるので、行き過ぎる心配はありません。
 1・5キロほど歩いて、伊勢丹が真横に見えるようになったところで堤防を下り、流山街道に出ました。

 春雨橋で坂川を渡ると、宝光院、善照寺と甍が連なります。両寺院とも去年夏、暑いさなかに訪ねています。



 宝光院参道入口にあった「千葉周作修行之地」の標柱。
 去年夏も前を通っているはずだのに、ハテ?
……と思ったら、建てられたのは去年の秋とのことでした。このすぐ近くに小野派一刀流浅利又七郎の道場があって、ここが若き周作修行の地だったのです。



 これも去年は気づかなかった宝光院境内の牛の像。
 東京・向島の牛島神社には撫で牛というのがあって、自分の身体の具合が悪い部位を撫でると治るという迷信があります。
 当時、私は右膝に軽い故障を抱えていたので、撫で牛の膝を撫でましたが、信心が足らぬのか、いまも具合は悪いままです。

 隣の善照寺とは裏手にある墓所で繋がっていました。



 善照寺本堂前にある松戸七福神の一つ布袋尊。
 去年もカメラに収めましたが、当時は七福神には関心がなかったので、正面から撮った画像がありません。



 善照寺不動堂。
 このお寺も由来ははっきりしていません。明らかになるのは寛政期以降です。それまで現在の松戸駅東の松戸向山(相模台)にあったものが移築されたそうです。
 
 松戸駅へ戻ったのは午後二時。小腹が空いていたけれども、このあと、またスーパー銭湯へ行くつもりだったので、軽めに食べておこうと思い、駅の立ち食いそば屋に入りました。

 数日前に視ていたテレビ番組で知るまで意識したことはなかったのですが、それとなく気を配っていると、私より先に出て行った人、六人中六人が無言のままでした。
 そのテレビで視たのは、大阪の人は食べ終わったあと、「ありがとさん」「美味しかったわ」「またくるわ」というように、必ず店の人に声をかけるということでした。
 番組の趣旨に都合のいいところだけを放映しているのに違いないので、100%ということはないと思いますが、視ていると確かにみなが声をかけていました。
 インタビューに応じたおっちゃんは「お礼の声をかけるのは人間としての基本や」とまでいっていました。そこまでいうのはちとオーバーとしても、私は必ず「ご馳走様」だけはいいます。標本数が少ないとはいえ、無言で出て行く人が100%だったことには愕きました。

 松戸から一駅だけ新京成電鉄に乗って上本郷へ。
 いまや通い慣れた道を通ってスーパー銭湯へ向かいます。
 信号待ちで立ち止まったりすると、陽射しは灼けるようです。セカセカと歩く癖は抜けず、到着したときにはかなりの汗をかいていました。



 スーパー銭湯・湯楽の里(ゆらのさと)の食堂です。



 今日は湯上がりに生ビールと好物のフライドポテト。注文した料理ができると、手前のリモコンのようなもののブザーが鳴って、取りに行く仕組みです。
 十枚綴りの回数券も残り一枚となりました。

 日脚が長くなったので、帰る前に證誠院(しょうじょういん)という真言宗豊山派のお寺を訪ねることにしました。新京成
みのり台駅近くにあり、スーパー銭湯からは徒歩二十分ほどの距離です。

 


 南大門で私を睥睨する仁王です。
 吽形像はどことなく塩見三省という俳優さんに似ています。



 参道脇にあった石蕗(ツワブキ)。



 證誠院本堂。
 堂宇が新しい(といっても数十年)と思ったら、昭和十三年に創られたお寺だとのことでした。
 もともとは江戸麹町にあったのですが、時を経るとともに寂れていました。そのことを憂えた土地の素封家が私有地を寄贈して、落慶の運びとなったのが昭和十三年。
 豊山派の寺院といえば、私が入院中、見舞いにきてくれた友と訪れた新松戸の大勝院と同じです。大勝院本堂前の灯籠には、左に桔梗、右に違い鷹の羽と異なる紋があったのを不思議に思いましたが、この本堂の瓦には中央の卍巴を挟んで両方とも違い鷹の羽の紋がありました。

 このブログではブログ標準のピクセルにすると、画質が決定的に劣化してしまうのが玉に瑕です。もとの画像には瓦の紋がクッキリと写っているのですが……。しかし、おかげで写真のボロが出ないということもあり、双方痛み分け。

↓今回歩いたところです。
http://chizuz.com/map/map69918.html


久しぶりの横浜

2010年03月14日 08時08分28秒 | 日録

 一昨日、久しぶりに横浜へ行きました。去年の十月以来です。
 私の内勤の仕事が増えて、お役ご免がつづいていたのですが、一昨日はあいにく人を欠いてしまって、行ける者がいない。
 で、再び私にお鉢が回ってきました。



 しばらく通らなかった紫陽花径を通りました。かなり大きな芽が出ていました。



 横浜公園のチューリップ花壇を見るのが楽しみでしたが、あいにく改修工事中でした。花壇はフェンスで隠されていました。季節的にも少し早かったかもしれません。
 この公園はいつも通り抜けるだけでした。横浜スタジアムがあるほかは取り立てて特長のある公園ではないので、とくに注目することもなかったのですが、今回初めて横浜が開港した当時は港崎(みよざき)という遊郭があったのだと知りました。
 遊郭が公園に変わったのは火事が原因です。

 慶応二年(1866年)の十月二十一日朝、遊郭の南にあった豚肉屋・鉄五郎宅から出た火が遊郭に燃え広がり、遊女四百人以上の犠牲者が出たそうです。
 火はさらに外国人居留地、日本人町も舐め尽くし、鎮火したのは十四時間も経ってからでした。この火事は豚肉屋が火元だったので、豚屋火事とも関内大火ともいわれます。

 天気がよかったので、開港広場からは横浜ランドマークタワーがハッキリと見えました。

 開港広場隣にある横浜海岸教会。
 本邦初のプロテスタント系教会です。ここに石造りの小会堂が建設されたのは明治四年(1871年)のこと。翌年三月十日に日本基督公会が設立されました。
 現在の建物は関東大震災で倒壊したあと、昭和八年(1933年)に再建されたものですが、塔屋で鳴らされる鐘は明治八年の鋳造だそうです。



 横浜地裁裏から見た開港記念会館の後ろ姿。



 関内仲通り。
 開港広場のある通り(大桟橋通り)から日本大通り、みなと大通りと広い道路ばかりを横切って行くと、狭く、猥雑な感じのする通りに出ます。それが関内仲通りですが、いまはベイスターズ通りと呼ぶらしい。
 本町通りと横浜市役所裏手の尾上町通りを結ぶ、長さ400メートルほどの街路です。なんということのない、どこにでもあるような通りですが、私の好きな通りです。

 横切ってきた広い通り沿いには、神奈川県庁、横浜地裁、日銀と官公庁が多く、無機質で、よそ行きな感じがするのに対して、生活の臭い、人間の臭いが感じられるのがいいのかもしれません。
 関内へきたときの帰りは必ずこの道を通り、楽文堂という文具店を覗いて帰ることにしています。

 ベイスターズ通りという名前の由来は、この通りの終点・横浜市役所近くに、横浜ベイスターズの日本一を記念するモニュメントが設置されたことによるそうです。



 Barbarbarもベイスターズ通りにあります。この日も横目に眺めるだけで通過。
 一昨日十二日の出演は荒川和子(vo)、翌十三日土曜日はデキシー・ジャズ・オールスターズ、日曜は豊嶋映子(vo)。
 寡聞にして私の知らない人ばかり。

 


 1998年、優勝当時のメンバー四十人の手形があしらわれたベイスターズのモニュメント。上・いまはドラゴンズの谷繁、下・大魔神佐々木の手形。


Just Walking in the Rain

2010年03月08日 08時05分58秒 | のんびり散策

 ちょっと風邪気味。
 で、もって、一昨日は折角の土曜休みだったのに、雨降り。おまけに鬱陶しいモノが家にいて、気分の滅入ることばかり、苛々することばかり……。
 せめて日曜日が晴れだったらいいと願うのに、天気予報ではまた雨模様です。

 霽れない気分で日曜の朝を迎えると、当たらなくてもいい予報が当たって雨です。いっそ土砂降りというのなら潔く諦めもつくけれど、連日チマチマとセコイ雨です。おまけに風も強い。

 あるサイトで、ときおり伝言のやりとりをする大阪のおばちゃん(本人曰く)から伝言があった上、公開している日記も更新したようなので、読んでみました。

 その日記に曰く。
 勤め帰りにスーパーに寄ったところ、改装セールをやっていたので、衣料品を買った。何枚買ったのか知らないが、全部で1350円で、添付された写真には一枚に290円の値札がついているところを見ると、四枚か五枚買ったらしい。
 ところが、全部若者向けの衣料品で、自分が着られるのはせいぜい一枚。それなのに、「大阪のおばちゃんは、安いの大好きですねん。来週会社に行って、自慢するねん」と書いてあったので、思わず笑ってしまいました。いかにも大阪人らしい(私のイメージの中では)明るさがあって、少し気分がなごみました。

 新しい傘も新しいレインシューズもないけれど、おばちゃんの元気に背中を押されるような気になって、鬱々と家に籠もっていても詮方なし、と雨の中を散策に出ることにしました。
 目的地は先週の日曜日にちょっと興味の兆した松戸七福神巡りの一つ・福禄寿が祀られている八柱の圓能寺です。新松戸から一駅だけ電車に乗って新八柱へ。



 その前に安蒜(あんびる)家長屋門に寄り道。天保十一年(1840年)に建てられたものだそうです。
「21世紀の森と広場」脇にあります。左手に「私有地につき無断立入禁止」の看板がありました。断わりを入れようにも、門は開いていても、人がいる気配はありません。ズイと足を踏み入れてもよかったけれど、ちょいと躊躇する気が起きて、撮影は門だけ。

 松戸を歩いていると、ときどき「アンビル」という名のついた商業看板を見かけます。
 大谷口城主だった高城氏について調べていたころ、ところどころで「アンビル」という名を見た記憶がありますが、長屋門を見ていたときは確たる記憶は何もありません。
 家に帰って調べてみると、祖は上総国畔蒜郡(現在の千葉県袖ヶ浦あたり)から発生した畔蒜(あんびる)氏で、元寇のとき、防備のために対馬に渡った主流があり、そのまま対馬に居着いてしまったので、大部分もあとを追ったのだとか。そのため、対馬ではこの珍しい苗字が非常に多いということです。

 房総に残った人たちは何かの事情があって、「畔」→「安」へと字を変えたのものか。紆余曲折があって、高城氏の家臣となります。その中に安蒜丹後淨意という人がいて、この人は大谷口城の築城に当たった人です。



 閉園時刻の迫っていた「21世紀の森と広場」。
 雨でもあり、人影は遠くジョギングする人一人だけ。

 目指す圓能寺は「21世紀の森と広場」横の高台にあります。雨なので、傘を片手に鞄から取り出して眺めている余裕はないだろうと、地図は持たずに出てきました。



 おかげでとんでもない回り道をすることになりましたが、物事はいいほうに考えようという気持ちになっていたので、偶然通りかかったこの香取神社を拝めたもそのおかげ、と考えることに。



 香取神社前にある墓地に祀られた六地蔵。



 門は開いていましたが、やっているのかいないのか、よくわからなかったので、入るのをためらってしまった千駄堀民芸資料館。カラオケの伴奏のようなギターの音が聞こえていたのも、ためらいの原因。

 あとで調べると、江戸時代から昭和三十年代にかけての農具や生活用具約三千点を集めた私設の資料館で、日曜と祝日だけ公開されるとのことでした。



 室町時代の文安四年(1447年)開山と伝えられる圓能寺です。



 松戸七福神の一つ・福禄寿。
 徳蔵院の賑々しい参道に較べると、こちらはかなり控え目です。これで七福神巡りは医王寺、徳蔵院につづいて三つ目。



 武蔵野線沿いの道端で見かけた梅花。雨に打たれて落花盛んでした。

 闇雲に歩いたおかげで、身体は汗ばんでいますが、手先だけは非常に冷たい。八柱駅に戻ってまたスーパー銭湯へ行くことにしました。

 銭湯からの帰りはさらに尋常ではない寒さになりました。身体のほうは入浴直後でもあり、分厚い冬のコートを着ているので耐えられましたが、手指の冷たさが尋常ではない。
 何日か前、手袋をどこかに忘れているので、手袋なしでした。

 寒いと痛む右足の小指も、絶対温度ではなく、相対温度で痛むということがわかりました。氷点下に近い気温の日でも、前日がもっと寒いと痛まないのに、それよりは遙かに気温の高い日でも、前日がもっと暖かい日であったりすると痛んだりするのです。
 雨で靴が濡れるのも、足を一層冷やす原因になりました。
 この夜も、歩くのにつれて、冷えるのつれて、徐々に痛みが……。

http://www.youtube.com/watch?v=kCjTWYoRTzM

 これは失恋の歌なのですが、内容に反してテンポもメロディも軽快です。私が九歳のときのジョニー・レイ(当時二十九歳)という人のヒット曲。
 いまのように、アメリカで発表されれば即日聴けるという時代ではなかったので、実際に耳にしたのは何歳のときであったか。それも、日本人歌手が歌う日本語の詩でした。歌っていたのは確か雪村いずみ……。

 ジョニー・レイはちょうど二十年前に亡くなっています。死因は極度のアルコール依存症。


菜の花・石蕗・風信子

2010年03月05日 22時21分45秒 | 

 昨夜の天気予報では今日は雨。
 鬱陶しい天気はいつまでつづくのかと思っていたのに、目覚めたら、窓には朝日が燦々と降り注いでいました。
 このブログでは、三か月予報はおろか、週間天気すら当てられない天気予報にブツブツ文句をいうことが多いのですが、雨という予報が外れて太陽が顔を覗かせるのはうれしいものです。
 春なら、さしずめそよ風……と思わせる風は少し冷たいけれども、天候のほうは一日早い啓蟄です。

 いつもの年であれば、大体この時期まで私は鬱屈した日を過ごすことが多かったのですが、今年はなぜか滅入る日は少なかったように思えます。
 何が原因としてあったのか、すぐに思い当たるものはありません。けれども、何かがあったから、あまり憂鬱にならずに済んだのです。



 春の陽光に誘われたように、ベランダの菜の花が咲きました。
 一昨年の五月、犬吠埼へ行ったときに道端から種を失敬してきたもので、一昨年のうちに種を播こうと思っていながら、すっかり忘れていて、播いたのは年を越して、二月に入ってからでした。
 咲いたのはゴールデンウィークも間近になってから。のんびり癖がついてしまったのか、今年も遅めの開花です。



 風信子(ヒアシンス)も花を咲かせました。
 何年か前、鉢植えを買ってきて、一春だけパソコン机に置いたあと、どうしたのか記憶がないのです。
 こんなところに植え替えていたのか、と記憶を辿ろうと思いましたが、少なくとも去年は花を見た記憶がありません。ベランダに置いてありますが、ほとんど野草化しています。



 何よりもうれしかったのは、根づいてくれるかどうか疑心暗鬼になっていた石蕗(ツワブキ)が根を下ろしてくれたらしきことです。
 忍者の里・伊賀で生まれたものが、縁あって私の許にくることになりました。二月中は葉も萎れたようになったままでした。
 下方に写っているゼンマイのようなものは二本の新しい葉です。
 マンション住まいなので、鉢植えにして鑑賞するしかありません。いつの日にか、どこへだかわからないが、野に返そうと思います。



 何週間か前、ベランダを訪れた鵯(ヒヨドリ)を盗撮。
 香港カポック(シェフレラ)の葉を啄(ついば)んでいました。



 先週の日曜日にやってきた鵯。
 写っていませんが、この日はつがい(多分)でやってきて、右下の場所にある菜の花の葉を啄んで行きました。
 盛んに菜の花をつつくので、虫でもいるのかと思って見ておりましたが、飛び去ったあとベランダに出てみると、葉っぱの先っぽが荒らされていました。
 へぇ、葉っぱなんか食べるのだ。
 しかし、考えてみれば、鶏は大根の葉っぱを食べたりするのだから、なんの不思議はなけれど……。



 今朝、通勤時にオフグ(?)を見かけました。勤め帰りに私がミオを与える仔猫たちの母親です。仔猫たちは何度も見ていますが、オフグを見るのはやっと三度目。
 ?をつけたのは、最初見たときとは顔が違うように思えたからです。

 右手の郵便受けに乗っている仔猫はフキではないかと思いますが、今朝は「おっさん、誰?」という風情です。
 去年のうちは、私が通りかかるとニャーと挨拶をしてくれたものですが、最後に見かけてミオを与えたのは一月二十日のことですから、もう忘れられてしまったのかもしれません。
 今朝はあいにくミオを持っていなかったし……。


久しぶりの浅草

2010年03月02日 22時04分47秒 | のんびり散策

 ブログの更新をもたもたしている間に、友と会ったのは先月のことになってしまいました。
 二十一日日曜日は友が帰る日。
 今回会うことになって、友が地図が好きで、よって伊能忠敬を崇拝しているということを初めて知りました。伊能忠敬の話が出たのは、前日、銚子行を決めたときです。
 成田経由で銚子に行くと、佐原という町を通ります。伊能先生の生地です。以前は佐原市。合併して香取市となりました。
 佐原駅で途中下車して、伊能先生の生家なども見せたいと思ったのですが、友は第一に利根川、第二に九十九里浜を見たい、ということだったので、佐原に寄っている時間はなくなってしまいました。
 穴埋めに、せめて伊能先生の墓参りだけでもと思って、友が帰るのを東京駅まで見送り方々、かつて私が棲んでいた浅草を訪ねることにしました。



 伊能先生の墓所は台東区東上野の源空寺という浄土宗のお寺にあります。
 浅草の住民だったころ、台東区役所や上野動物園、アメ横など、上野へ行く用があるときは、大概歩いて行ったので、このお寺の脇の道を通り抜けたものです。

 いつの日だったか、ここに伊能忠敬のお墓があることを知って、折あらば覗いてみよう、と思うようになったのですが、墓所はいつも開かれている境内とは別の場所にあって、私が通るときは恐らく普段の心がけが悪いのでしょう。いつも鉄の扉が閉ざされていました。



 もしかしたら今日も……と危ぶみながら行ってみると、運よく法事があったようで、門は開け放たれていました。私の心がけの悪さを、友の功徳のほうが上回ったものか。



 伊能先生のお墓です。



 伊能先生の先生に当たる高橋至時(よしとき)のお墓です。
 至時は幕府天文方。伊能先生に西洋暦を教え、日本全国の地理測量を支援した人です。



 手前には幡随院長兵衛夫妻の墓がありました。
 当時、このあたりに幡随院という浄土宗のお寺があり(いまは小金井市に移転)、その裏に棲んでいたことから幡随院を名乗ったようです。



 合羽橋本通りにある曹源寺。というようりカッパ寺として有名。



 寺内にあった正体不明の河童のギーちゃん。



 海禅寺は通りから少し奥まったところにあります。
 同名のお寺が茨城県守谷市にあります。平將門と影武者たちの供養塔があるお寺で、私は去年八月二十五日のブログ(平將門補遺)で触れています。
 寺の名が同じなのは偶然の一致かと思いきや、開山(1624年)の覚印周嘉というお坊さんの出身地が現在の茨城県守谷だったらしい。きっと子どものころから將門のファンだったのでしょう。



 海禅寺境内にある梅田雲浜(1815年-59年)の墓(右)。
 左は藤井尚弼(1825年-59年)という人の墓。寡聞にして私の知らない人です。
 あとで調べると、幕末の尊攘運動家。西園寺家の諸大夫の家に生まれましたが、安政の大獄で京都町奉行に捕らえられ、安政六年、江戸の小倉藩邸で病死。海禅寺に葬られたのは小倉藩主・小笠原家が海禅寺の有力な檀家だったからでしょう。

 海禅寺から合羽橋道具街はすぐです。
 道具街を南へ行き、北へとって返し、言問(こととい)通りの一つ手前の信号を右に折れると、金竜公園の木立の向こうに、かつて私が棲んでいたマンションが見え隠れしてきます。
 ちょうど十年前、目白から移り棲んだ当日、物干し竿をかけようとして、ベランダに取り付けられた物干し用のフックが壊れているのに気がつきました。
 管理人にいうと、どこからか二脚の物干し台を持ってきてくれました。腕をガッと拡げたような大きな台で、道路から見上げると、我が家のベランダだけに突き出した物干し台が見えたものです。
 いまも変わらず突き出しているものが見えました。

 ひさご通りの喫茶店で休憩したあと、江戸下町工芸館を覗いて、遅めの昼食。



 浅草居住時代、よく五目焼きそばを食べに通った華春楼。
 ほぼ十年ぶりの訪問です。浅草に転居する前、八年間棲んで慣れ親しんだ目白にある揚子江(中華料理店)の味を思い起こさせてくれる店でした。
 松戸に支店を出しているのを知って、訪ねてみようと思っていたのですが、支店のほうは私が現在地に移り住んでしばらくあとに店を閉ざしてしまいました。



 久しぶりに出会った五目焼きそばです。
 長いこと食べていなかったせいか、少し味が変わったようにも思えましたが、昔の想い出が蘇っていたのか、なんとなくほろ苦い味がしました。
 千葉県内では頼まないと持ってこない練り辛子がちゃんとテーブルに置いてありました。
 ウェイターも同じ人でした(ような気がします)。



 食後は花やしき通りを抜けて、浅草寺へ。
 本堂は改修工事中でした。去年三月に始まり、今年十一月末まで。



 浅草寺は相変わらず人が多い。ことに仲見世の混雑には愕きました。
 浅草に棲んでいたころ、毎日気晴らしに散歩に出たものですが、行くところといえば、浅草寺境内しかありませんでした。
 しかし、休日は人出が多いことを予想して、行ったことがありません。行くとすれば、浅草寺の本堂が閉じられる夕方六時以降。仲見世も店じまいするので、人っ子一人いなくなります。
 浅草寺が一番賑わう正月も、四万六千日のほうずき市の日も、浅草寺の扉が閉まると、ものの見事に人がいなくなるのです。



 小旅行の締めくくりは、吾妻橋まで歩いて水上バスに乗ることにしました。約四十五分かけて日の出桟橋へ。
 右上は新しいテレビ塔になる東京スカイツリー。完成後は634メートルという、とてつもない高さになります。五日前(二月十六日)に300メートルを超えていました。

 日の出桟橋に着くころにはもう夕暮れでした。
 浜松町から上野に戻り、コインロッカーに預けておいた友の荷物をとって、東京駅へ。徐々に別れの時間が近づいてきます。

 子どものころのお正月と同じように、愉しい休日はこうしてあっという間に過ぎ去りました。「のぞみ」に乗って帰って行く友を見送ったあとは、なんともいえぬ虚脱感だけが残りました。


日暮(ひぐらし)の里の徳蔵院

2010年03月01日 21時46分54秒 | 寺社散策

 昨日曜日、ラグビー日本選手権決勝・トヨタ自動車対三洋電機戦をテレビ観戦しました。本来ならNHK総合で中継すべきところ、チリ地震による津波警報を愉しむ(?)NHKの都合で、教育テレビに廻されました。

 前半は三洋をノートライに抑えて12対0と想像以上の出来。ところが、つとトイレに立った後半二十六分、1トライ1ゴールを許し、あっけなく逆転されて12対17。さらに1トライ追加されたところで、私は観戦をギブアップ。
 午後、陽射しが出たので、散策に出ようか、テレビを視るかと逡巡しながら、結局テレビを視てしまったのでした。

 結果論ではないけれども、トップリーグの戦いをみても、トヨタの勝ち目は薄い、と戦前から思っていました。
 三洋に較べると、トヨタにはコスイところがないからなのです。
 それが如実に現われていたのが、タックルで倒されたあとの密集で、ボールを離さないとホイッスルが鳴らされるノット・リリース・ザ・ボールの反則。
 この行為は反則ということになっているのだから、反則には違いがないが、実際は離さないのではなく、離せないことが多いのです。

 敵味方大勢の選手がのしかかってくるので、ボールが下敷きになって、離そうにも離せない、ということもありますが、多くの場合、相手が手で押さえて離せないよう、コスイことをする、ということなのです。
 密集の中なので、レフェリーからは見えないでしょうし、理由はどうあろうと、ボールを出さない(出さないのではなく、出せない、のだとしても)のは反則ということになっているのだから仕方がない。
 とくに三洋スタンドオフのトニー・ブラウン(さすが元ニュージーランド代表)、フランカーの若松大志(関東学院大出)は巧妙。こすっからさで三洋に一日の長あり、と思わせた試合でした。

 来年はトヨタもこすっからさを身に着けて……とは思わない。勝てなくてもいいから、いまのままの泥臭くて、愚直なラグビーをつづけてほしい。

 まあ、負け惜しみはここまで、ということにして、近場の散策に出ました。
 ふと閃くものがあったので、武蔵野線に乗って隣駅の新八柱で降りました。閃いたのは、あの仏舎利塔へ行ってみようと思ったことでした。

 仏舎利塔というのは毎朝乗っている通勤電車が新八柱を出ると、少し離れた高台の端に見える塔のことです。天気のよい朝だと金色の尖塔が朝日を受けて燦然と輝いています。
 通勤で武蔵野線を利用するようになって二年経ちましたが、車内では本を読んでいることが多かったので、その塔の存在に気づいたのは最近です。

 新八柱はスーパー銭湯や県立西部図書館へ行くときに乗り降りする駅ですが、駅前以外は歩いたことがありません。駅前を少し離れると、たちまち方向感覚を失ってしまいます。お寺の名もわかりません。仏舎利塔だと思っていますが、もしかするとお寺ではないかもしれません。
 ともかく高台があって、それが切れて崖になっている場所を捜しました。

 知らず知らず東に向かっていました。武蔵野線から見えるのですから、目指すのは南東でなくてはいけない。
 私が間違ったのは、ときどき利用する県立西部図書館が新八柱駅の東方向にあると思い込んでいたことでした。実際は北北東だったのです。ほぼ直角に交差する道を曲がれば南向きと思ったのに、じつは東に向いていた、というのはそういう次第です。

 途中で太陽の位置がおかしいと気づいて、西に向きを変えました。道は緩い上り坂になりました。マンションに遮られているので見通しは利きませんが、左手にこんもりとした木立が見えます。
 坂の途中にあった交差点の名は日暮。
 ヒグレか? と思ったら、「HIGURASHI」とアルファベット表記がありました。どのような謂われかは知らねど、なかなか酔狂な地名だと感じました。
 その角に「徳蔵院墓苑」という案内看板あり。一画は高台になっています。例の塔があるのはここに違いないと交差点を左折すると、楠(クスノキ)の並木道がありました。



 画像はパソコンに取り込んだあと、明るく修正してありますが、実際はもう少し薄暗くて、もっといい感じです。
 ふ~む、東京に戻ることは叶わず、松戸暮らしがつづくのであれば、こんなところに棲むのがいいかな、と思いながら歩きました。
 高台の裾を抱き込むように曲がると、真っ赤な幟が賑々しく並んだ参道に出くわしました。

 


 参道を上り切ると、正面に本堂。
「徳蔵院誌」によると、創建は後花園天皇の時代というから、およそ六百年前です。市川にある下総国分寺の隠居寺として建てられ、のちに現在地に移されたようです。
 周辺はこの当時から日暮村と呼ばれていたそうですから、結構由緒のある地名です。



 本堂を左に見ながら墓所に入ると、目指していたものがありました。通勤電車から眺めるのはまさしくこの塔でした。
 仏舎利塔ではなく、密厳塔と呼ばれる合祀墓です。後継者がいなくても、三十三回忌までは法要を営んでもらえるとのこと。

 この世あの世とは人間が考えるだけの迷い事。
 とはいえ、気にしないといったら嘘になる。我が宗派とは異なるが、こんなところに入れてもらうことも考えましょうか
、と考えました。



 徳蔵院があるのはこんな高台です。



 段差の多い墓所を一周して本堂前に戻りました。梅がハラハラと散り始めていました。



 松戸七福神の一つ・寿老人です。



 徳蔵院前に掲げてあった松戸七福神巡りの案内図。
 松戸市内のお寺はいくつか巡ったつもりですが、七福神巡りとなると、徳蔵院でやっと二ツ目。真打ちまではまだまだ、です。