桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

猩々草(ショウジョウソウ)再び

2022年07月27日 22時45分39秒 | 寺社散策

 私の祥月誕生日 ― こんな言葉はありませんが ― いつからか、実際の誕生日はもちろん、毎月の誕生日と同じ日は家にお祀りしている阿弥陀如来像に水のお供えをして焼香し、阿弥陀如来を本尊としてお祀りしている東漸寺に参拝してお賽銭をあげる、ということを毎月の自分への取り決めとしてきました。
 前置きが長くなり過ぎましたが、去年火事に遭って転居を余儀なくされ、東漸寺も少々遠くなってしまったので、ずっと欠礼をつづけていました。ただ、毎月参拝にくるのはむずかしいけれど、祥月だけは万難を排してこなければ、と覚悟はしていたのです。そんなたいそれたことではないのかもしれませんが……。

 そういうわけで、新しい庵のある新松戸から一駅だけですが電車に乗って、久しぶりにお邪魔をすることにしました。



 七月二十七日は2016、17、18年と最高気温は30度を下回りましたが、19年から例年どおり暑くなって、今年も30度を超えました。



 角を曲がると、東漸寺の杜が広がって、一気に涼しい感じになります。



 日陰に入ったところでスマートフォンを取り出し、温度計を表示させてみました。日陰なのでこの温度ですが、実際の体感温度は、示されている数字程度の暑さではありませんでした。



 東漸寺参道に置かれた小僧さん(地蔵さん?)の石像。これまで気づかなかったので、最近置かれたものでしょう。



 山門の瓦に照りつける陽射しもジリジリと焼けつくようです。

 

 久しぶりに仁王尊の撮影を試みました。コンパクトデジカメではなく、スマートフォンでもなく、ズームのデジカメを持ってきたので、暗いところでもちゃんと被写体を捕らえてくれました。



 山門から眺めた境内。



 空には秋を思わせるような雲がありましたが、とにかく暑い! 暑い!



 観音堂。今日の目的は観音様ではなく、本堂の阿弥陀様なので、立ち止まって拝礼したのみ。

 

 本堂と本尊の阿弥陀如来です。お賽銭をあげて、お礼の参拝。
 種々持病が出るようになり、歩くことにも少しずつ支障が出てくるようになりましたが、この歳までよくぞお守り下すったと改めて思いました。



 阿弥陀参りにきた日は必ず歴住の墓所に赴きます。



 中央の高いのが開山・経譽愚底さんの卵塔。
 いつもはこの画像を撮った位置で拝礼するだけで、近づくことはありませんが、この日は水鉢に枯れ葉が積もっているのが目に入ったので、取り除こうと真ん前まで行って、すぐ左隣が中興といわれる東漸寺第五世・行譽吟公上人の卵塔だと知りました。



 東漸寺が創建されたのは現在の場所からそれほど遠くない根木内という地ですが、開創から約六十年を経た、天文年間に現在地に移されることになりました。第五世・行譽吟公上人の代でした。
 寺伝には、根木内の地が狭少でかつ堂宇もいたく破損していたので、当時小金の城主であった高城氏の勧めで現在地に移し、初めて大殿、長廊、方丈、厨舎がすべて完備したと記述されています。
これよって、研学修行の徒が四方より雲集するようになり、名実ともに大法瞳として学行兼修の大叢林となったと伝えられているのです。 



 今日、東漸寺を訪れたのは祥月誕生日であったからですが、もう一つ理由がありました。それは、そろそろ咲いているであろう猩々草(ショウジョウソウ)を見ることでした。
 咲いている ― と記しましたが、紅い部分は苞葉と呼ばれる葉っぱであり、花ではありません。
 境内を隈なく歩いているわけではありませんが、この猩々草があるのは、歴住の墓所近くだけに限られています。



 花というか実を結ぶ部分は中央にあって、いまは緑色をしていますが、実を結ぶと黒い色に変わります。その途中はこれまで見たことがないので、画像の持ち合わせもありません。ウィキペディアから拝借しました。



 去年と較べると、赤い部分が小さいように思えますが、野草図鑑によると、花にたとえれば見頃は八月から九月ということなので、くるのが少し早かったのかもしれません。

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蓮始開(はすはじめてひらく)

2022年07月12日 19時16分38秒 | 

 今日十二日から七十二候の蓮始開(はすはじめてひらく)です。
 近くには蓮の花がないので確かめようがありませんが、季節的にはもうとっくに咲いていなかったっけ…そう思ってPCにストックしてある去年の画像を捜してみると、かつて日参していた慶林寺ではすでに先月の十三日に初開花がありました。
 今年は梅雨入りががあったような、なかったような、という奇妙な天気に加えて、六月の終わりに真夏がやってきてしまう、というような「
とりわけ」つきの異常気象つづきですから、まだ蓮の花は咲いているだろうかと訝りながら、慶林寺へ出向きました。
 去年、火事に遭って転居を余儀なくされたので、徒歩で慶林寺へ参拝に行こうとすれば、往復一時間近くかかることになり、とても日参という具合にはいかなくなってしまいました。参拝に向かうのは久しぶりです。
 今日十二日は薬師如来の縁日でもあり、毎週一度のボランティア活動に参加する日で、慶林寺近くにある活動のセンターへ出向くついでもありました。参拝してお賽銭をあげ、ついでに蓮の花の様子でも探ろうと出向いたわけです。




 本尊が薬師如来というお寺です。
 引っ越してしまうまで、毎月八日はちょっとした遠出となる薬師詣でに出かける前、このお寺に参拝してから電車に乗ったものでした。八日に薬師詣でを済ませることができた月は、十二日の縁日はこのお寺への参拝のみ。八日が雨降りだったり、体調が悪くて遠出を断念しなければならなかったような月は、十二日にここに参拝してから電車に乗ったものです。



 蓮の花は観音像の前にあります。



 とっくに明けたはずの梅雨が舞い戻ってきたような曇り空の下で、いま一つ映えませんが、咲いていました。参拝したのは午後早々だったので、朝開いた花が閉じかけているときだったのでしょう。



 こちらは閉じてしまったあとなのか、明日初めて花開こうとしているのか。
 去年は白い花も見かけましたが、今年は見当たりませんでした。

 


 参道に咲く牡丹臭木(ボタンクサギ)は例年どおりでした。

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2022年七月の薬師詣で・常総市

2022年07月08日 21時32分24秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では茨城県の常総市を歩きました。



 新松戸から武蔵野線に一駅だけ乗って、南流山でつくばエクスプレスに乗り換えます。



 守谷でつくばエキスプレスから関東鉄道常総線に乗り換えます。



 関東鉄道に乗るのは久しぶりです。一両だけのディーゼルカーが出発を待っていました。取手~守谷間はたびたび利用したことがありますが、守谷から先・水海道方面へ行くのは初めてです。



 新松戸から一時間かけて南石下駅に到着。降りたのは私ともう一人だけ。無人駅でした。



 電車を降りて歩き始めたあたりは、いまから七年前、2015年九月の関東・東北豪雨で、近くを流れる鬼怒川の堤防が決壊し、水没してしまった地域です。
 七年も経過しているからか、災害を偲ぶようなものはこの標識のほかには見当たりませんでした。浸水深(高さ1・5メートル)を示す紅いテープ(想定浸水深標示板の上)は自然に剥がれたのか、剥がされたのか、残っていたのはわずかな部分のみ。



 南石下駅から徒歩八分。この日、最初に訪ねたのは浄土真宗・東弘寺です。



 これまで数多くの薬師如来を訪ねてきましたが、親鸞さんのお寺で薬師如来を祀っているというのは初めてです。



 次に参拝したのは浄土宗・西福寺です。こちらは薬師如来には関係がありませんが、平將門と関係があるので寄ってみました。
 寛永九年(1632年)、了学上人(芝・増上寺十七世)の隠居所として建設されました。
 了学上人(1549年-1634年)という方は小金城主だった高城胤吉の三男で、私がよくお参りに行く東漸寺で出家され、増上寺十七世になる前、東漸寺七世の住職を務められました。



 平將門公菩提供養之碑。建長五年(1253年)、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が將門の祭祀がちゃんと行なわれていないことを憐れんで、当時の守護職・千葉胤宗に命じて法要を営ませ、建てさせた碑だと伝えられています。



 西福寺本堂。

 平將門の生誕地とされているところはいろいろありますが、私の受けた感じではこのあたりの臭いが強いような気がします。といって、私は霊感のようなものは殊更弱いのですが……。この小旅行の最後に、生誕の地と考えられている館跡を訪ねます。



 西福寺から三分で薬師堂。
 地図には「薬師堂」と記されているだけで、名がありません。現地に行けば、何かわかるかも……と思ったのですが、現地に行っても、扁額にはかすれた文字で「薬師堂」とあるだけ、境内というべきか、空き地というべきか、遊具は何もありませんが、「薬師堂遊園地」という掲示があるだけでした。



 格子扉に隙間があったので、カメラのレンズを突っ込んで撮影に及びました。
 祭壇には扉の閉ざされた黒塗りの厨子が三つ、薬師如来と日光・月光両菩薩が納められているのでしょう。十二神将とおぼしき仏像は十二体に満たぬ数でした。



 薬師堂への参拝を終えたあと、高所恐怖症を持つ私には今日最初の正念場が待ち受けていました。鬼怒川を渡らなければならないのです。
 橋は石下大橋。画像で見ると、歩道部分はゆったりとしているように感じられますが、幅は1メートルもありません。車道のほうだけ見て進めれば何も問題はないのですが、なかなかそうはいきません。遥か下を流れる川面が視界に入ってこないよう、極力車道近くを歩き、念のため、歩道と車道を区切っている鉄柵を手すり代わりに掴もうとしましたが、少し前から陽射しが出て、鉄柵は火傷しそうなほどに暑くなっていました。

 画像にはたまたま車は写っていませんが、道は茨城県道・土浦境線で、大型トラックがビュンビュンと行き交っていたのです。その様をカメラに収めることができればよかったのですが、カメラを構えるためには両腕を眼のあたりに上げるという無防備な体勢をとらなければなりません。すると、向かってくるトラックが行き過ぎた直後は巻き込む風が起きて、身体が吸い込まれそうになり、とても生きたた心地はしないのです。



 鬼怒川をなんとか渡り終えてホッと安堵の吐息を漏らし、振り返るとほぼ真横に筑波山が望めました。
 実際に橋に臨む前は、橋上で立ち止まって、鬼怒川の流れを入れてワンショット、と考えていたのですが、まさに這々の体で渡ったので、立ち止まることはもちろん、振り返ることはできませんでした。



 地べたに降りさえすれば余裕綽々です。かつてこの地区にあった豊田城を模した地域交流センターも遠望することができました。



 石下大橋を渡り終えて、五分ほどで峯薬師堂に着きました。



 薬師堂のかたわらには樹齢五百年といわれるシイ(椎)の巨樹がそびえています。



 シイノキの説明はあっても、薬師堂の説明はありません。
 峯薬師堂への参拝を終えれば今日のお勤めは終了ですが、もう少しだけ足を延ばします。



 峯薬師堂から十二分。最後に目指したのは向石下城跡です。



 向石下城が築かれる前、ここには豊田館がありました。平將門の父・良將(よしもち)が築いたとされ、ここが將門生誕の地とされています。



 レリーフに彫られた平將門像の髪はザンバラです。



 豊田舘跡の奥にはポツンと建つ御堂がありました。地図には法輪寺とありますが、あるのはこの御堂と右手に、お釈迦様の石像を中心とした石像と卵塔があるだけ




 豊田舘跡からは鬼怒川が見えません。しかし、帰るためにはもう一度鬼怒川を渡らなければなりません。先に鬼怒川を渡ろうとしたとき、帰りも渡ることになるのだから、渡るのをやめ、峯の薬師堂への参拝も断念して帰ろうかと思いました。
 帰りに渡るのは石下橋です。道が緩い上り坂になり、橋が近づいてくると、武者震いのような緊張感に包まれましたが、橋が見えると、ちょっと拍子抜け。歩道は幅3メートルはあるでしょうか。これなら余裕綽々です。おまけに歩く人はまったくいない。



 帰りは行きに降りた南石下の一つ下館寄りの石下駅に出ました。
 右に止まっている車は二台とも客待ちのタクシーです。利用しような客の姿はありません。写っていませんが、左にも一台止まっています。



 やってきたのは行きと同じ一両だけのディーゼルカーでした。待っていた客は五人だけでした。

2022年七月の薬師詣で・茨城県常総市

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