桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

無患子(ムクロジ)の花、美栗(ミクリ)の花

2011年06月29日 23時24分35秒 | 風物詩

 急に暑くなりました。徐々に暑くなってくれるのならいいのですが、六月の後半にしては涼し過ぎるのではないか、と思っていたら、突然暑くなったので、身体のほうでは、どのように対応したらいいのかわからなくなったとみえて、またダウンです。

 不肖我が庵は玄関と庭に面した窓を開けていると、非常によく風が通ります。暑くなって二日目の二十九日は、暑さに少しは慣れたせいもあり、体調も普通に戻ったようです。
 風通しがよいので、庵にいる限りはそれほど暑いとは感じません。暑くなさそうだし、体調もよさそうなので、散歩に出るか、と庵内の涼しさに騙されて外に出てみれば、三十分も歩かないうちに汗みずくになってしまいました。

 


 久しぶりにムクロジの樹を見に行ったら、そういえば花の季節でした。



 ムクロジの樹の手前にありました。ダリア系の花のように思えます。
 家に帰って植物図鑑で調べてみましたが、ダリアとは葉の形が違うようにも思え、いまのところはどういう名の花なのか調べがつきません。



 ムクロジの樹があるのは、私が無患子坂と呼んでいる坂の途中です。
 上り切ったところで前ヶ崎のあじさい通りから上ってくる坂と合流します。この坂にはキウイ畑があるので、キウイ坂と呼んでいます。その先を右折して進めば、猫の小春のねぐらです。
 暑くなってきたので、日中はいないかもしれぬと思っていたら、案に相違して、いました。この日も餌を食べるのに一所懸命です。

 小春のねぐらから常磐線に沿った細い径を辿って行くと、香取神社があり、下り坂(香取坂)になって梨畑があります。
 いまはネットが張られています。そのネットの中に、うさ伎(うさぎ)がいました。四月なかばに会って以来ですから二か月ぶりです。

 


 去年の暮に初めて見かけて以来、二か月に一度ぐらいずつしか会うことがないのに、ちゃんと私のことを憶えてくれていて、私の姿を認めると、かぼそくかすれた声で鳴きながら、近づいてきてくれます。

 細い径を一本挟んで、常磐線が走っています。緩行線のほうは北小金の駅も近いので、上り下りともゆっくりとしたスピードですが、駅のない快速線のほうは思い切り飛ばしています。
 うさ伎は外に出る機会が少ないので不慣れなのか、快速線の電車が通るたび、その轟音に恐れをなして近くに止めてあるミニバンの下に隠れます。

 



 久しぶりに根木内歴史公園へ行ってみて、タコノアシという植物があるらしいのを知りました。
「らしい」というのは、ベンケイソウ科の多年草でタコノアシという要保護植物になっているらしき植物、という標識があって知ったのですが、私には名も知らぬ野草がぼうぼうと生えているだけのように見えて、どれがどれだかわからないので、家に帰ってから植物図鑑でも引いてみようと、標識の建っているところをカメラに収めました。

 調べてみると、夏、茎の先に黄白色の小さな花を多数つけるのが蛸の足のように見える、とありました。改めて行って確かめないとわかりませんが、写真を撮ったあたりにはそのような花はなかったし、図鑑に載っていた写真に似た葉もないようです。
 別名はサワシオン(沢紫苑)。タコノアシというよりこのほうが風流な名前です。




 根木内歴史公園には美栗(ミクリ)という多年草の抽水植物もあります。
 実が栗のイガに似るのでこの名があるのだと、うろ覚えで思い込んでいたら、イガのようなものは実ではなく、花序でした。

 



 確かに栗によく似ています。かつては水辺であればどこにでもあった植物のようですが、徐々に減少しているそうです。



 散策帰りに近くのスーパーに寄ったら、こんな絵柄の団扇があったので、買ってしまいました。

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立葵とブルーベリー

2011年06月21日 17時43分48秒 | 

 流山・前ヶ崎のあじさい通りの中には一向に花の咲かない株があります。



 斜面のちょっと高い場所にあるので、人影がないのを狙って、土留めに足をかけて上り、覗いてみたら、まったく蕾がありませんでした。

 紫陽花(アジサイ)にも雄木と雌木の別があるのか、それとも礼文敦盛草(レブンアツモリソウ)のように、花を休む年があるのか?
 土が乾燥し過ぎると、翌年花が咲かないことがある、と聞きましたが、同じ群落の中なので、この株の周りだけ乾燥し過ぎた、ということはないはずです。



 か、と思うと……すでに花の盛りを過ぎて、衰退期に入ろうとしている株もあります。

 紫陽花が一面に咲いているのを見たのは今年が初めてなので、気づかなかったことがたくさんありました。私の頭の中では、あじさい通りの斜面いっぱいに色とりどりの紫陽花が咲き誇る、というイメージであったのですが、品種の違いがあるのか、個体ごとに特徴があるのか、咲き方は千差万別です。



 これはアナベルという最近人気になっているらしい品種です。一般的な紫陽花に較べると、開花期は半月ほど遅い、ということです。

 額紫陽花の系統で、蕾はあるけれどもまだ小さく、とてもすぐには咲きそうもない株もあります。

 紫陽花ばかりを気にかけているうちに、立葵(タチアオイ)の季節になっていました。



 我が庵近くには庭に立葵をいっぱい植えている家がありました。
 二日に一度は前を通るのですが、生け垣が人の背丈ほど高いので、今日までそんなに花があるとは気づきませんでした。
 人間にたとえると、腰のあたりから上しか見えません。背伸びをして見る程度では充分に見えず、ジャンプすれば見えますが、ジャンプしながら写真を撮るなどという芸当はできません。
 10メートルほどの奥行きの私道があり、奥まったところに玄関があります。無断進入を試みてカメラに収めました。

 
 
 
 


 改めて注意をしながら近辺を歩いてみると、結構立葵があったので、気儘にパチリパチリと……


 


 本土寺参道は紫陽花見物の人が日増しに増えるようです。
 上の画像は北小金駅から本土寺に向かう途中の参道で信号待ちをする人たち。下は葛餅店。店の中でも食べられるようになっていて、中は満席でした。



 本土寺参道を外れたところに人だかりがあったので、なんだろうと思って行ってみると、ブルーベリーやらスズメバチの焼酎漬けやら自家ブレンドハーブティやらの即売所でした。

 


 前の画像の即売所の後ろもブルーベリー畑ですが、気をつけて見てみると、我が庵近くには何か所かブルーベリー畑がありました。

 そういえばこの春先、この畑に四、五人が出て、パイプを立てたり、ネットを張っているのを見かけていました。花も(もちろん実も)ついていない苗を、もったいぶった所作で植えていたので、一体何を植えるつもりかしらん、と訝ったのを思い出しました。

 


 鉄砲百合を栽培している畑もあります。トルコ桔梗もあります。
 トルコ桔梗のほうは二か所ありますが、二か所ともハウス栽培で、扉が閉じられているので、写真に撮ることはできません。

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桔梗を買いに行く

2011年06月20日 16時50分13秒 | 

 我が庭の桔梗はなかなか咲きません。
 代が替わったので同じ株ではありませんが、例年なら遅くとも六月中には咲いたものです。蕾は日増しに大きくなっていますが、六月も残りあと十日、と思うと、開花はどうやら七月に持ち越しそうです

 六月中に花がないというのは寂しいので、歩いて行くと四十分ぐらいかかるマツモトキヨシのホームセンターまで、桔梗の鉢植えを捜しに出かけることにしました。



 旧水戸街道を歩き、我が庵を出てから二十五分で国道6号の交差点に出ました。
 ここに大きなガーデンセンターがあります。この店に置いてあれば、遠いマツモトキヨシまで行かずに済むのですが、桔梗は置いてありませんでした。



 国道6号線沿いに歩くので、常行院に寄って行くことにしました。
 浄土宗のお寺で、東漸寺の開山・經譽愚底さん(?-1517年)が文亀二年(1502年)に開いたお寺です。



 經譽愚底さんは柏市にある行念寺の開山でもあります。そこに供養塔があることを知ったあと、東漸寺とこの常行院にも何かゆかりのものがあるのではないか、と見にきたことがあります。
 そのときは何も見つけられなかったと思って引き返しましたが、よくよく見れば歴住の碑がありました。
 右奥の無縫塔が一番古そうで、これが經譽愚底さんの供養塔かと思われましたが、文字はすっかり摩耗して一字たりとも読めません。左手前にある墓誌に開山としてその名が刻まれていました。



 国道6号沿いという車の排気ガスいっぱいの環境のせいかもしれませんが、いまは野草の花は少ない季節のようです。
 春紫苑(ハルジオン)か姫女苑(ヒメジョオン)か? ガードレールの外側で、結構深い草叢だったので、ズームで撮影しましたが、間近に見ることはできません。



 我が庵を出てから四十分弱でマツモトキヨシのホームセンターに着きました。店の前が園芸用品売場になっています。



 国道6号を挟んでマツモトキヨシの向かい側にあるマクドナルド。お昼はここでコーヒーとビッグマック。



 マツモトキヨシには、桔梗は十鉢もありませんでした。よくよく見ると、すでに花が終わって剪定されてしまった茎の目立つ鉢もありました。
 一鉢98円と安価だったので、両手で提げて持てるだけ(つまり店先に出ていた全部)買ってもよかったのですが、この日、買ったのは三鉢だけ。

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ミー、ヒロ、マユ&シマタロウ

2011年06月17日 23時22分24秒 | 地域猫

 十六日、また内視鏡の検査を受けました。
 消化器系なので、行くのは湯島の検査センターではなく、前に入院したことのある新松戸の病院です。検査は十一時過ぎから。電車で一駅なので歩いて行くことにしました。




 予約表には、指定時間の十五分前においでください、と書いてありますが、検査も診察もこちらが忠実に時間を守っても、時間どおりに始まるということはまずありません。



 内視鏡室は病院の一番奥にあって、レントゲン室、エコー検査室などが並んでいます。
 一昨年の十一月、這々のていでこの病院に辿り着いて診察を受けたら、緊急扱いといわれてストレッチャーに載せられ、レントゲン室、内視鏡室と引き回されることになりました。
 そして、あれよあれよという間に「入院」ということになってしまったのですが、ストレッチャーに仰向けで寝ている私の眼に入るものは病院の天井しかなかったし、呆然としているうちにコトは運ばれたので、レントゲンを撮るために運び込まれたのはこの部屋だったのかどうかも定かではありません。

 内視鏡検査そのものは十五分程度で終わります。
 前の検査では一時間後に水を飲み、異常を感じないようなら食事をしてよいといわれましたが、この日は検査をするために胃の組織を採ったので、制限時間が二時間と長くなりました。
 前回(四月)の内視鏡検査のときはブスコパンという注射を打たれましたが、今回は喉の麻酔薬を服んだだけです。部屋は前回は明るいままでしたが、今回は暗くなりました。

 診察の予約が入っていたのは二時間後です。
 前夜から何も食べていないので、腹が空き始めていましたが、食事ができるのは診察を終えてから、ということになります。
 コーヒーを飲むことはむろん、何も食べられないのですから、喫茶店に入って、診察が始まるまでの時間を潰すわけにもいきません。近いので家に帰る時間はありますが、水すら飲めないのでは、帰ってもしょうがない。

 どこか適当に散歩しながら時間を潰そうと思い、あじさい通りへ行くことにしました。



 開花する株がふえるのにつれて見物客もふえてきました。



 このあじさい通りでは「※住宅街の中にあるため車での来訪はご遠慮ください」とありますが、そのように書かれているのは流山市役所で出している観光マップだけです。現地にはなんの表示もないので、遠慮なしに車が入ってきます。
 まぁ、このへんの住民は「自転車は降りて通行してください」という注意書きが出ていても、100%降りないのですから、相手ではなく、自分にとって面倒な所作を伴う表示であれば、守ろうとする気はないので、何か掲示を出したところで、無駄なことではありますが……。

 車がすれ違うのはやっと、という感じの狭い道ですが、普段は地域住民が利用するだけですから、一方通行にはなっていません。勝手を知らぬ車も入り混じって、そこらじゅうで角突き合わせていました。

 ここに紫陽花(アジサイ)があると知って、初めてきたという人ならしょうがないと思いますが、すれ違った車の運転席で「ほら、きれいだろ、この先にもまだ咲いているんだよ」と助手席に乗せた彼女に自慢している(自分が育てたわけでもないのに)輩は、どう考えても確信犯です。
 やれやれ。先の大震災で日本人全員が他人を思い遣るようになり、優しくなった、と感じたのは私の見当違いだったようだ。そう思いながら、あじさい通りを離れました。

 キウイ畑のある坂を上り、坂を下っても、思ったほど時間は経過していない。猫を見に行くことにしました。



 この猫の名はミー。ほかの猫がいないときでも、この猫だけポツンといることがあります。しかも少し離れて……。
 元は飼われていたのに(飼われる前は野良だったようですが)、なぜか家に馴染もうとはせず、再び野良化したのだそうです。かといって、遠くへ行ってしまったりはしないらしい。つかず離れずという感じ。干渉されたくないけれど、もらえるものはもらいましょうという姿勢のようです。
 おやつを与えるためにしゃがみ込んでいたら、元飼い主の老嬢が出てきて教えてくれました。先日、顔見知りになりました。全部で十五匹も飼っているそうです。



 上のミーにおやつを与えていると、いつも真っ先に出てくるのは左のヒロ(♀)と右のマユ(♂)。
 二匹は兄妹です。ヒロは身体が小さいので、てっきり仔猫かと思っていましたが、つい先日二匹の赤ちゃん猫の母になったばかりです。



 これは何日か前、ヒロの名をヒロとは知らぬころに撮った画像です。美女です。



 アメリカンショートヘアが混じったようなのには、確かにアメリカンショートヘアの血が入っているそうで、名はシマタロウ(♂)。手前は名と性別を聞いたように思いますが、憶えられませんでした。



 これも名前は憶えていません。

 次から次へと出てくるものだから、飼い主である老嬢も「エエッと、これはなんだったかな」と、わけがわからんようになってきているので、私に到っては完全にわけがわからん状態です。
 時間潰しの散歩の途中ですから、手帳など持っていない。あれもこれもと欲張ることは最初から諦め、この日は四匹の名前だけ憶えて、あとは憶えないことに……。無理に憶えようとすると、全部忘れてしまいます。

 やがてヒロが産んだばかりという体長15センチほどの仔猫(二匹)まで出てきましたが、撮そうとしたらカメラは無情にも電池切れ。
 画像はまた次の機会に……。

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妙法寺から中野宝仙寺へ

2011年06月16日 22時32分07秒 | 寺社散策

 妙法寺。
 山門をくぐると、正面に見上げるばかりの大きな祖師堂があります。

 


 祖師堂は明和六年(1769年)の大火で、他の堂宇とともに焼失。
 元和年間(1615年-23年)、真言宗寺院だったのを日蓮宗に改宗したのをもって寺の開創とするそうですが、火災に遭った際に記録も失われているので、実際の歴史は不明のようです。この祖師堂は文化九年(1812年)の再建。



 祖師堂と御成の間を結ぶ回廊越しに本堂が見えるはずだったのですが、残念ながら修復工事中でした。
 御成の間とは徳川将軍が野遊の際、妙法寺に立ち寄ると、その御座所として使用された座敷です。
 修復工事が終わるのは来年四月の予定。何も早まって断言することもないのですが、真盛寺ともども私が見ることはないと思います。



 日朝上人の像を祀る日朝堂。
 日朝上人は久遠寺十一世法主。寝る間を惜しんで勉学に励んだのがたたって両目を失明。されど、厚い信仰の力で病を克服し、眼病で苦しむ人がいたら、守護して平癒させたいという願を立てました。



 日朝堂横に建てられている有吉佐和子さん(1931年-84年)の碑。
 前回のブログで紹介した修行寺近くに、妙法寺の裏口に当たる入口があり、境内を縦に通り抜けることができます。近くに住んでいた有吉さんは妙法寺に親しみを持ち、境内を歩く姿が見られたそうです。
 ただ、有吉さん自身はキリスト教信者で、墓地は小平市の小平霊園。



 妙法寺門前の商店街は環七通りを越すと、和田帝釈天通りと名を変えます。環七からこの帝釈天まで200メートル余。
 あまり広くない道ですが、この先はクネクネと曲がりながら鍋屋横丁で青梅街道に合流します。江戸から妙法寺に参詣する人たちはこの道を通ったようです。
 今日のお寺巡りはこれで終わりましたが、確かめたいことがあったので、東高円寺駅に戻り、しばし青梅街道を歩くことにします。

 毎月真盛寺に参詣していたころ、参詣のあとは青梅街道沿いの国島書店という古書店を覗いてみるのが常でした。その書店がどうなっているか確かめてみたかったのです。

 古書店でなければ手に入らぬような本を、予期しなかったところで偶然見つける、というのは私にとって無上の喜びでした。
 いまは感受性も稀薄になって、その種の喜びとは無縁になりつつありますが、まだ四十代で好奇心も旺盛だったころ、そのような本に出会えると、本当に飛び上がりたいほどうれしかったものでした。
 そういう本の一つ、誠信書房で出ていた中村宗一師訳の「正法眼蔵」全四巻を見つけたのはその書店でした。
 その当時、岩波文庫の「正法眼蔵」は絶版中。新版(水野弥穂子校注版)が出始めていましたが、まだ全巻の刊行を見ていなかったので、全巻手に入れたいと思えば、古書を捜すほか手に入れる方法がなかったのです。
 ほかに、成島柳北の何冊か、梶山季之さんの「松田重次郎(マツダ創業者)伝」などを手に入れたのもこの書店でした。



 環七通りの交差点から東高円寺の駅までの間、すでに古書店はありませんでした。
 新しい建物もあったので、建て替えられたかもしれませんが、なんとなくここではないかという気がしたので、カメラのシャッターを切りました。
 私が四十代だったころ、店主はいまの私ぐらいの年齢でした。元気で過ごされているとしても、恐らく八十代なかば……。

 ふっと溜め息を漏らして、このあとはどうしようかとしばし考えた挙げ句、かつて私が暮らしていた近くでもあり、仕事で何度も近くを通りながら、行く機会のなかった宝仙寺に参詣して帰ることにしました。



 鍋屋横丁近く、青梅街道に面して慈眼寺がありました。
 目指す宝仙寺と同じ真言宗豊山派の寺院で、天文十三年(1544年)の創建と伝えられています。中央に見えるのはパゴタ、右は鐘楼です。



 中野新橋入口近くで見つけた看板。冷やしメロンパンというのを食べたことがあるので、そのたぐいかと想像して一度は通過。
 ところが、通常のメロンパンは常温だから、冷やせばオツかもしれないが、たい焼きは温かくてなんぼ、のはず。それを冷やしたら? オットット、話の種に食べてみるべし……と戻りかけたのに、あいにく休業日だとさ。



 青梅街道と環七通りの交差点・高円寺陸橋下から徒歩三十分弱で宝仙寺に着きました。



 宝仙寺本堂。
 創建は平安時代後期の寛治年間(1087年-94年)で、源義家が建立したと伝えられています。義家は後三年の役を平定して京に帰る途中でした。

 寺が竣工したとき、地主稲荷の神が出現して、義家に一顆の珠を与え、「この珠は希世之珍宝中之仙である。是を以って鎮となさば、則ち武運長久、法燈永く明らかならん」といい、白狐となって去ったということです。
 創建の地は現在地から少し離れた阿佐ヶ谷。室町時代に現在地に移転。



 明治二十八年から昭和初期まで、境内に中野町役場が置かれていました。



 石臼塚。
 江戸時代、神田川には水車が設けられて、蕎麦粉を挽いていました。中野は全国から蕎麦の実を集め、江戸じゅうの蕎麦店に蕎麦粉を供給する一大拠点であったのです。ところが、やがて機械化が進むと、使われなくなった石臼は道端に放置されるようになりました。
 それを見た宝仙寺第五十世住職・富田敦純(宝仙学園創立者)師が境内にこの塚を建てて供養するようになったものです。



 三重塔。戦災で焼失。戦後復元されました。



 帰りは中野坂上から地下鉄に乗りました。何年も乗らなかった間に事故防止の可動ステップが設置されていました。
 行きに国会議事堂前で丸ノ内線に乗り換えたときから可動ステップには気づいていましたが、国会議事堂前はプラットホームの幅が狭く、カメラを充分に引くことができなかったので、撮影できなかったのです。

 東京を離れて七年……。隔世の感、というのはいささかオーバーですが、段々おのぼりさんになって行くワイ、とちょっぴり慨嘆しつつ電車の人となりました。

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杉並真盛寺から妙法寺へ

2011年06月15日 22時26分30秒 | 寺社散策

 昨六月十四日は明智日向守光秀公の祥月命日でした。
 東京・目白で暮らしていたときは、毎月十四日には杉並区梅里にある天台真盛宗のお寺・真盛寺へお線香をあげに通ったものですが、目白を引き払うとともに行かなく(行けなく?)なっていました。
 何年ぶりになるのか。にわかには思い出せないほど久しぶりに、杉並の真盛寺へ行ってきました。

 なぜ日向守殿=真盛寺なのかというと ― 。
 天台真盛宗の総本山・西教寺(滋賀県大津市坂本)には日向守殿のお
墓があって、毎年六月十四日には明智光秀公御祥当法要が行なわれています。
 西教寺に参拝したことはありますが、法要とは関係のない日だったので、一度はその法要に参列せねば、と思いながらも、遠隔の地でもあるので、志を果たすことができません。そこで、西教寺の東京別院である真盛寺を見つけたのを機に、家で焼香するよりは多少なりとも効き目(?)があるだろうかと愚考して、毎月十四日に参詣することにしたのです。



 我が北小金駅からは常磐線(地下鉄千代田線)の国会議事堂前で丸ノ内線に乗り換え、悠に一時間以上かけて東高円寺に到着しました。



 地下鉄の階段を上がると、蚕糸の森公園です。
 いまから九十九年前、ここに農商務省原蚕種製造所(農林水産省の蚕糸試験場)がつくられました。つくば市に移転したあと、約3万平方メートルが杉並区立公園に。

 公園西側に遊歩道を思わせるような道があります。400メートルほど歩くと、環七通りに出ます。そこがちょうど真盛寺の真ん前です。




 環七通りとの合流点直前にあった日蓮宗蓮光寺。詳細は不明。幾度となく前を通っているはずですが、まったく記憶にありません。



 広い環七通りの向こう側に目的の真盛寺を眺めながら、横断歩道のあるところまで行って渡ると、日蓮宗の宗延寺があります。
 ちょっとだけ中を覗かせてもらって……いよいよ真盛寺です。



 長い参道。
 入口から山門まで70メートルほどもあります。山門から本堂前までは100メートルほど。

 


 こういう標識は私が毎月通っていたときにもあったものかどうか……。
 参道入口にも同じ内容の標識があったので、ちょっと臆した気分になりましたが、断わろうにも境内には人の姿はなく、かといってここまできて引き返すわけにもいかず、無断でズイズイと足を踏み入れました。



 本堂。安永五年(1776年)の建築。
 お寺そのものは寛永八年(1631年)、江戸湯島に創建されたのが始まり。谷中、本所と二度の移転を挟んで、大正十一年に現在地に移転。
 三井財閥の祖・三井高利が越後屋を創業して以来の菩提寺として知られており、俗に三井寺と呼ばれています。



 元三大師堂。文政三年(1820年)の建築。



 墓所入口の門。
 この手前に地蔵があり、そこへ香華を手向けにきていたのですから、毎回墓所に入ったわけではありませんが、こういう門があったかどうか、記憶にはありません。



 三井家墓所入口。広い墓地は森閑と静まり返っていました。

 目白の住人であった八年間、毎月通っていたのですから(出張で東京にいないときもありましたが)、百回近く通ったことになります。その都度、地蔵様に焼香したはずですが、広い境内に人影を見たことはほとんどなく、見ても、見とがめられるようなことはありませんでした。
 しかし、この日は他人の家に無断で入って歩き回っているような罪悪感があって(実際、入るなという標示があったのですから、まさにそのとおりなのですが)、お線香を携帯していたのですが、火も点けずに持ち帰ることとなりました。

 真盛寺を出たあと、堀之内の「おそっさま(お祖師様)」と慕われている妙法寺に行ってみることにしました。
 昔から人々に慕われてきたとはいえ、日蓮宗の寺ですから、まかり間違っても私が慕うことはありませんが、著名な寺でもあり、前にきてから二十年近くも経っていて、記憶も定かではなかったし、真盛寺で肩すかしを食ったような気分になっていたので、行ってみることにしたのです。



 真盛寺から妙法寺に行くには環七通りを通って行くのが普通ですが、なんとなく奥のほうには寺のある気配が感じられたので、宗延寺と真盛寺の間の小径を歩いて行くと、日蓮宗の本佛寺がありました。
 寛永八年(1631年)、谷中三崎町に創建。
 江戸時代は中山法華経寺、雑司ヶ谷鬼子母神堂と並び、江戸三大鬼子母神の一つとして人々の崇敬を集めたそうですが、いまも鬼子母神はあるのでしょうか。昭和十七年に現在地へ移転。



 日蓮宗修行寺。
 寛永三年(1626年)、麹町に開創されましたが、八年後には赤坂一ツ木へ移転。さらに明暦の大火(1657年)後は市ヶ谷谷町に移転ののち、大正元年に現在地へ移転。
 江戸時代は我が庵近くにある本土寺の貫首が江戸に滞在する際の住居となっていたそうです。



 日蓮宗妙祝寺。
 この寺の開基・日栄大姉は伊予西条藩の初代藩主・一柳(ひとつやなぎ)直盛の正室です。寛永五年(1628年)、麻布桜田町にあった藩邸内に創建したのが始まり。大正三年、現在地に移転。
 西条藩一柳家は直盛の孫・直興(なおおき)の代に、改易されていますが、分家(播磨小野藩と伊予小松藩)は明治維新までつづきます。
 この墓は播磨守一柳直方之墓とあり、もう一つ別の墓には一柳主税直長とありましたが、私の手許にある一柳三家の系図では、いまのところ該当する名を見つけることができません。



 妙法寺の背後をグルリと廻る形で門前に到着しました。
 山門に当たる仁王門です。天明七年(1787年)の建立。



 妙法寺の門前には三匹の野良殿がいました。
 おやつを与えながら、近くに坐って私も持参の握り飯と冷たい緑茶で腹ごしらえです。腹がふくれたところでおもむろに腰を上げ、妙法寺の山内に入りますが、〈つづき〉は明日のブログで。

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2011年紫陽花日記(3)

2011年06月12日 17時42分36秒 | 

 日曜日、本土寺参道は紫陽花(アジサイ)見物に行く人、帰る人でさすがに賑わっていました。



 私は参道の様子をチラリと覗き見ただけで、すぐに引き返して前ヶ崎のあじさい通りを歩くことにしました。



 拝観料をとる本土寺とは違って、こちらは無料のあじさい通り。
 私はあじさい通りへは二日か三日に一回は足を延ばします。朝早めに行くことが多いので、人影を見ることはありませんでしたが、花が咲き始めると、見物に訪れる人をチラホラ見かけるようになりました。

 一体全体何株あるのかわかりませんが、この斜面に植えられているのはすべて紫陽花です。
 花の咲く時期にはずいぶん差があるようです。種類が異なるのか、まだ蕾の固そうな株もあります。この斜面全部が花で埋まるという光景を見ることはできるのでしょうか。

 
 
 
 
 
 


 見た目にきれいな花で、素人判断ながら種類が異なるのだろうと思われるものを、アトランダムに撮影して並べてみました。



 キウイ畑のキウイはようやくキウイらしくなってきました。



 こちらは梨。すでに梅の実ほどの大きさになっています。

 かつての仕事先があった市川大野近辺と違って、我が庵近くの梨畑は警戒厳重で、一分の隙もなく、ネットがビッチリと張り巡らされています。ちょっとした隙間でもあれば、カメラのレンズだけ突っ込んで撮影してやろうと考えていたのですが、隙間すらありませんので、青いネット越しの撮影です。

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2011年六月の薬師詣で・葛飾区

2011年06月11日 20時44分55秒 | 薬師詣で

 八日は薬師如来の縁日だったので、葛飾区にある木下川(きねがわ)薬師というところへ行ってきました。
 毎月八日の縁日には薬師詣でをすることにしましょうと、今年一月から始めて六か所目……ともなると、できるだけ近いところを捜しているつもりですが、段々遠くなるとともに、電車の乗り換えも面倒になってきます。
 今月はどこにしようかと、数日前から地図その他と睨めっこして、木下川薬師か、江戸川区一之江の妙音寺か、印西市の松虫寺か、と候補を三か寺に絞り込みました。

 一番心惹かれたのは松虫寺です。通称・姫寺といい、本尊はもちろん薬師如来です。
 姫寺という名の起こりは聖武天皇の第三皇女・松虫姫と関係があります。
 あるとき、姫は重い病気にかかりましたが、夢に下総萩原郷の薬師如来が現われて、下総に下って薬師仏に祈れば病が治る、というお告げがありました。姫がはるばる下総まできて祈ると、果たして病は治りました。聖武天皇はおおいに喜ばれ、行基に命じて建てさせた寺が松虫寺だというのです。

 ただ、松虫寺は我が庵からは非常に行きにくいところにあります。最寄り駅となる北総鉄道の印旛日本医大駅へ行くのには二度も乗り換えを強いられる上、そこから二十分は歩かなくてはなりません。
 二十分という距離なら私にとってさほどのものではありません。問題は、滅多に行けないところへ行くのだから、もう一か所寄りたいところ(ひょんなことから御縁のできた東祥寺という曹洞宗のお寺)があり、それは松虫寺とは北総鉄道の線路を挟んで正反対の方向-歩くと三十数分というところにある、ということなのです。
 どちらを先にするにせよ、印旛日本医大というまだ見たことのない駅に降り立ってから、再びその駅に戻ってくるまで、二時間近く歩かなければならないので、いつもの薬師詣でに比して、少し早めに出ることに致しましょう、と早めに床に就きました。

 前日七日時点での天気予報は曇のち晴でした。
 ところが、翌朝目覚めてみると、雨です。十時ぐらいまでに熄んでくれれば、と思っていましたが、完全に熄んだのは午後一時過ぎでした。
 で、行き先は急遽変更ということになりました。



 常磐線を金町で降りて京成電車に乗り換え。
 京成金町から出る金町線には京成高砂行の電車しかなく、どこ行きに乗ればいいのかと迷う暇もありません。京成金町からわずか二つ目で終点の京成高砂です。
 次に乗るのは京成本線。同じ京成電鉄なのに、一度改札を出て入り直すという、けったいなことがあります。
 私が降りる予定の駅は各駅停車しか停まりません。時間によっては各駅停車がこないので、次の青砥まで行ってまた乗り換え。金町からわずか五つ先の駅へ行くだけだったのですが……。



 四ツ木駅で降りました。



 木下川薬師に向かう道の右手は綾瀬川と荒川の高い堤防と首都高速の高架に遮られ、左手は家が建て込んでいるので、まったく見晴らしが利きません。
 四ツ木駅から歩くこと十数分。そろそろのはずだが、と思ったところに、こんな看板が目に飛び込んできました。

 木下川と書いて「きねがわ」とルビが振ってありますが、「江戸名所圖会」などを見ると、木毛川、あるいは亀毛川という表記もあるので、もともとは「きけがわ」だったのが、いつの間にか訛ったのでしょう。
 調べてみると、昭和七年に葛飾区が誕生したとき、すでに「きねがわ」と呼ばれるようになっていたので、表記を「木根川」と改めたのだそうですが、町名はその後、四ツ木と改称されて、かつての地名は小学校や橋にその名を残すだけとなっています。



 なかなかに荘厳な仁王門です。
 寛文三年(1663年)につくられた金剛力士像。像の高さはともに275センチ。

「江戸名所圖会」には広々とした境内の様子が描かれていますが、そのころ、寺があったのは別の場所(現在地から西北へ約600メートル)です。大正八年、荒川放水路の開削工事のため、現在地に移転しました。



 木下川薬師の本堂であり、薬師堂です。縁日だというのに何も催しがなく、境内は無人というのにも私はすっかり慣れてしまいました。ただ、黙々と(見えぬ)薬師如来に手を合わせるだけです。

 この薬師さまのことをもう少し早く知っていれば……。
 この寺のホームページがあります。年中行事を見ると、先の四月八日には薬師如来大縁日というものがあったようです。ただ、薬師如来の開帳は十一年後とも記されているので、四月にきても拝めなかったかもしれませんが……。

 広智という僧侶がこの地にあった草庵に薬師像を安置したのがこの寺の始まりといわれています。
 時は嘉祥二年(849年)といわれていますが、広智が薬師像を持っていたのは、伝教大師最澄から託されたからです。
 ことの次第は最澄が東国の教化を願って薬師像を彫り始めたことにあります。ところが、途中まで彫ったところでお告げがあり、像は未完成のまま、比叡山から下野の国に帰ろうとしていた広智に託されることとなったのです。

 ……と、そこまではいいのですが、腑に落ちないのは薬師像が安置された年と最澄が生きていた年とのギャップです。
 最澄が亡くなったのは弘仁十三年(822年)ですから、亡くなる直前に薬師像を託したとしても、広智は嘉祥二年までの三十年近く、何をしていたのだろうと考えてしまうわけです。



 視界を塞いでいた堤防に上ってみると、首都高速の通称ハープ橋が望めました。右は荒川、左は綾瀬川。



 東京スカイツリーも間近に見えました。
 前日七日に開業日と料金が決まっていました。ニュースを視ていたら、料金がちょっと高い、という人が大半。だけど、一度は上ってみたい、という人が大半。そして一度上れば二度目はいい、という人が大半。
 私は常磐線の跨線橋を渡るときですら眩暈が起きそうなほど高所恐怖症がひどくなってきていることもあり、開業が来年というのならなおさら……鳴り物入りの東京新名所ですが、まず行くことはないだろう、まして上ることは、神に誓ってもないと思います。



 京成電鉄の高架をくぐり、真言宗西光寺を訪ねました。創建は嘉禄元年(1225年)。



 この寺は鎌倉幕府初期の重臣・葛西三郎清重(1161年?-1238年?)の居館跡に建てられたと伝えられています。

 

 古くからあるらしき商店街(マイロード)を、四ツ木から立石にかけて一駅ぶんだけ歩いてみました。結構古い(といっても、せいぜい昭和か)建物が残されています。
 遙か昔、仕事で本田(ほんでん)警察署(現在は葛飾警察署)を訪ねたことがあります。確か立石で降りたはず……と思いながら歩きましたが、景色はそれほど変わっているとは思えないのに、まったく記憶にない景色でした。



 立石駅近く、公園があったのでブラリと入ってみると……。
 葛飾区セルロイド工業発祥記念碑なるものがありました。大正三年、千種稔という人がこの地に玩具工場(千種セルロイド工業)をつくったのが嚆矢。
 記念碑には、「いまや(記念碑が建てられたのは昭和二十七年です)関係業者数万を超え、生産額は我が国輸出総額の過半数を占める」とありました。

 いつもならもう少しお寺巡りをするところであるし、途中には寅さんで名高い柴又の帝釈天もあるのですが、雨のせいで出発が遅くなったので、この日は二か寺を巡っただけでおしまいにしました。

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本土寺から天形星神社へ

2011年06月08日 19時29分42秒 | のんびり散策

 梅雨はどこへ行ってしまったのか、と思ってしまうような天気つづきでした。週間天気予報でも土曜日まで雨マークがないと思っていたら、今朝は雨……。
 ところが、夕方には陽射しの出る天気にあと戻りして……。
 五月中の梅雨入りは異例-と華々しく花火を上げたものの、じつは梅雨入りはしていなかった……と、二転三転、菅直人氏や東電のようなことにならなければよいのですが。



 本土寺参道にはこんな幟が立てられるようになりました。日曜日から紫陽花(アジサイ)見物らしき人の姿が多くなってきています。



 境内に一万株もあるという本土寺の紫陽花を見るためには入山料を払わなければならないので、どの程度咲いているものかわかりませんが、椎と楠の並木に陽射しを遮られる参道の紫陽花はまだほとんど咲いていません。



 紫陽花を模した金平糖。
 お手玉ほどの大きさでしかないのに一つ¥400。四色あるのですが、なぜか三つセットで¥1000。
 見物客は少しずつ多くなっても、まだ店の売り上げに寄与する、というところまでは行かないようで……。



 あじさい茄子。このあたりはなんでも「あじさい」。
 買ったことがないので、どんな味がするのかわかりませんが、これは漬物です。
 あじさい葱というものも売られていて、こちらは生野菜。長葱と浅葱の中間ぐらいの太さの葱です。



 今年になって開店した花屋さん。中央奥は喫茶ルームになっていて、幟に書いてあるソフトクリームを売っているようです。



 枇杷(ビワ)の実が少し色づき始めています。
 葉っぱがほしいと思うけれども、枝を折るのは人目があるし、人目がなくても抵抗がある、と思っていたら、運のいいことに一週間か十日置きぐらいに強風の吹く日があり、十枚から二十枚ぐらい葉っぱのついた枝をたたき落としてくれます。
 私は靴の中敷き代わりに枇杷の葉を敷いています。



 昨七日の午後、枇杷の樹を捜しながら、天形星神社まで行きました。



 天形星神社に住まう野良殿です。
 ごくごくたまにしかこられないのに、私のことを忘れずにいてくれるらしいので、黒介(くろすけ)と名づけました。
 できることなら頻繁にきてやりたいのですが、我が庵からこの神社まで片道四十分もかかるので、そうそう気軽にくる、ということはできないのです。



 帰り道、少し遠回りをしたら、途中のアパート前にこんな美人猫がいました。首輪はしていませんが飼い猫のようで、食事を済ませたばかりだったのでしょう。いままでのドライフードのほかに、じゃこ煮干しも持つことにして、早速提供したのですが、一口も食べてくれませんでした。

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2011年紫陽花日記(2)

2011年06月05日 16時24分05秒 | 

 昨日、一昨日と梅雨の合間の晴れ間だと思ったら、今日も朝のうちは晴。
 週間天気予報も関東に限れば、曇の日が多いものの、梅雨らしい雨は降らないようです。

 梅雨の季節になったので、いよいよ紫陽花(アジサイ)の花も本格化し始めるかと、我が庵から歩いて十分から十七分のところ、流山・前ヶ崎のあじさい通りと東部あじさい苑へ、花の様子を見に行くことにしました。



 途中にある富士川べりの田んぼもすっかり青々としてきました。すでに蛙の合唱が始まっています。



 時計草という名の花だそうです。流山市前ヶ崎にある民家の玄関先で見つけました。
 原産地は中南米。写真で見たことはありますが、実物は初めて見ました。地球上の生命体ではなく、どこか遠い宇宙からやってきた植物という感じがします。

 


 最初にあじさい通りを歩きました。花を開き始めた株が多くなってきたので、全体的な眺めは白っぽい印象を受けるようになりましたが、桜にたとえればまだ一分咲きともいきません。



 流山市の観光パンフレットには、あじさい通りの長さは250メートルとありますが、歩いてみると、それ以上ありそうです。
 紫陽花が植えられている斜面に沿って歩いてみました。途中、一か所だけ途切れるところがありますが、自分の歩幅を元に測ってみたら、450メートルもありました。



 これより東部あじさい苑。
 あじさい通りの終わったところから200メートル少々歩くと、また100メートルほどつづく群落があります。

 


 あじさい通りと違って、東部あじさい苑は杉林の陰になっています。日当たりはよくなさそうですが、両方を較べてみると、咲き方には大差ないようです。日当たりは関係ないのかという気もします。

 


 この二枚の画像は散策途中で見かけた民家の庭先です。両方とも日当たりのよい場所にありました。

 これまで考えたことはありませんでしたが、我が庵周辺には紫陽花を植えている家が多いように思えます。本土寺という紫陽花で著名な寺が近いせいで、庭木を植えようと思ったとき、無意識のうちに紫陽花を思い浮かべるのでしょうか。



 我が庭の一画にこしらえたドクダミ畑です。
 去年引っ越してきたときは、この草が持つ独特の臭いに耐えられず、引っこ抜いて廻ったものですが、ドクダミ茶のつくり方を教わったので、今年は区画を限定して伸びるのに任せてあります。

 カモミールを合わせてお茶にする方法もあるようです。カモミールはローマンもジャーマンも去年播いた種からいくつもの花を収穫することができました。このドクダミももう少し背丈が伸びたら刈り取って陰干しにし、我が健康管理のために使おうと思います。



 一輪だけですが、秋桜(コスモス)の花が咲きました。
 種の入っていた袋に記されていた能書きによると、種を播いて七十~八十日で草丈1メートルほどになって開花する、とありました。
 私が種を播いたのは三月六日ですから、九十日かかったことになります。ただし草丈は30センチもありません。

コメント (2)
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