桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

鹿鳴草(ロクメイソウ)

2017年09月29日 21時23分15秒 | のんびり散策

 ひょんなことから萩の別名が鹿鳴草(ロクメイソウ)だと知って、ちょうど季節でもあり、紅葉狩りならぬ萩狩りをしてみむと、散策に出ました。
 とちのき通りにも久しく足を向けていなかったので、ついでに栃の木の様子も見てみようと思いました


 日中は汗をかくほど気温が上がりましたが、朝はかなり冷え込みました。夏がきてからずっと開けっ放しだった窓を、昨日の夜は初めて閉めました。




 とちのき通りの栃の並木です。紅葉の季節にはいささか早いと思われるのに、葉はすっかり茶変しています。

 


 近づいてみると、秋、というより、自動車の排気ガスのせいなんじゃないの、と思わせるような色の変わり方です。




 コキアも色づきが始まっています。



 こちらはもう少し。



 先のコキアは別々の畑にあるものですが、明らかに人の手によって植えられたものです。近くには道路のアスファルト舗装の割れ目から芽を出したものが幾株かありました。
 近くに寄ってみると、花なのか種なのか、紅い粒々があるのがわかります。これが風に飛ばされるなどして芽吹くのでしょうか。




 完璧な秋晴れでした。



 そこかしこで赤とんぼが羽を休めていました。


 
 

 本土寺裏では例年どおりシュウカイドウ(秋海棠)の花が満開です。

 鹿鳴草という字面を目にして、つい鹿鳴館を思い出したので、私は「ロクメイソウ」と読みましたが、「シカナグサ」、あるいは「シカナクグサ」と読むのが一般的なようです。
 ちょうどこの花が咲くころ、鹿の発情が始まり、♂が♀を求めて鳴くことからこの名がつけられたのだそうです。

 ところで、散策に出たものの、肝心の萩にはついぞお目にかかれず、帰ろうかと思って、引き返したところで見ることができました。



 見つけづらかったので、季節的に早いのかと思いましたが、庵に帰ったあと、手持ちの植物図鑑をひもといてみると、初夏から咲いている、とありました。すでに花の季節は終わりに近づいていたのです。

 鹿鳴草といい、秋の七草の一つといいますが、萩は草ではなく、れっきとした樹木です。とはいえ、見るからに弱々しい枝はすぐ折れそうで、草のようではありますが。




 今年から我が庭に加わったコキアです。

 先週はじめの台風18号でなぎ倒されたあと、いまのところは自力では立ち上がれず、横になったまま、少しずつ色づき始めています。

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ヤブミョウガ(藪茗荷)

2017年09月10日 23時11分43秒 | 

 今年になって名前を知ったばかりのヤブミョウガ(藪茗荷)です。本土寺の塀の内側 ― 目より高い位置に咲いていました。
 名前のわからない花や葉の画像を投稿しておくと、知っている人が教えてくれるというサイトがあり、そこに投稿してみて初めて名前を知りました。



 ミョウガ(茗荷)と名がつけられていますが、ツユクサ科の多年草です。葉がミョウガに似ているので名づけられたようです。六月から九月にかけて、林や竹藪の中で白い花を咲かせます。

 先月の十八日、東漸寺へ参拝に行ったとき ― 十八日は観音菩薩の縁日なので、毎月お参りに行くことに決めています東漸寺にもヤブミョウガがあるのに気づきました。



 これはそのときの画像。
 すでに実を結んでいる茎があったので、何粒かいただいて帰りましたが、トートバッグの内ポケットに入れたまま忘れていました。今月に入ってふと思い出し、内ポケットを覗き込んでみると、種はすべて潰れていました。

 散策時に持って歩くトートバッグには、ときには買った焼酎の一升瓶や烏龍茶や麦茶の2リットルペットボトルを入れ、ユサユサ揺すりながら買い物から帰ってくることもあるので、摺り潰されてしまったようです。



 改めて東漸寺に参拝に行き、もう一度実をいただいてきました。
 八月には黒っぽかった実がブルーベリーのような色に変わっていました。落っことさないように、指先でそっとつまんで、今度はポケットティッシュに包んで、長財布などを入れているバッグインバッグに納めて持ち帰りました。



 こちらは花のように見えますが、花から実に変わりつつある途中です。

 

 収穫したあと、本堂と開山の經譽愚底さんのお墓にお参りします。
 久しぶりに暑い日が戻ってきたので、經譽愚底さんの卵塔には持参の冷たい烏龍茶を振る舞いました。



 本土寺の参道では彼岸花が咲き始めていました。




 我が庭でも咲き始めています。



 ヤブミョウガの実です。直径は3~5ミリ。
 本土寺でも東漸寺でも花を咲かせていたのは、あまり陽のあたらない場所だったので、我が庭では雪柳の陰に播いてみようと思います。
 来春、芽を出してくれるでしょうか。

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2017年九月の薬師詣で・千葉市

2017年09月09日 00時38分29秒 | 薬師詣で

 九月の薬師詣では千葉市を訪問することにしていました。
「していた」というのは、朝方の体調が思わしくなく、どうしようかと逡巡していたからです。
 目覚めたときには上がっていましたが、払暁は雨。天気予報ではそれ以上雨が降る気配はないようでしたが、午前中は陽射しに恵まれませんでした。
 逡巡して庵を出るのに少し手間取ったので、慶林寺参拝は帰ってきたときにすることにして、出かけました。

 


 北小金から新松戸、西船橋と乗り換えて、幕張本郷へ。ここでさらに京成線に乗り換えました。

 千葉市は我ら
が千葉県民の県庁所在地です。しかし、行こうとすると乗り換えが面倒くさく、また行く用もまったくといっていいほどないので、房総への観光で通り過ぎたり、千葉駅で乗り換えたりしたことはあっても、降りたことはほとんどありません。千葉市内の駅で乗り降りしたことがある駅は、千葉駅が一度、千葉みなと駅が二度と、わずか三度しかありません。



 幕張本郷で乗り換えて九つ目、千葉寺駅で降りました。初めて降りる駅です。



 駅前を広々とした道路が走っています。この道を六分ほど歩くと、大網街道の交差点に出ます。そこを左折。

 左折すると、緩い上り坂が始まり、海上山千葉寺修練場とか同・参拝者バス駐車場という看板が見えるようになるので、目的の千葉寺も近いと知れるようになります。




 千葉寺駅から九分歩いて、千葉寺に着きました。
 落雷で失われたあと、天保十二年(1841年)に再建された山門です。山門前を走る大網街道があまり広い道路ではないので、山門全体をカメラに収めようと後退りすると、山門がのしかかってくるようで、圧倒されます。 
 駅の名は「ちばでら」ですが、お寺の読みは「せんようじ」です。千葉市内最古の寺院で和銅二年(709年)、行基菩薩による創建とされています。
 



 千葉寺本堂。
 本尊は十一面観音ですが、どこかで十三仏もともに祀られていると知ったので、今回参詣することにしたのです。しかし、いざブログを更新しようと十三仏が載っているサイトを捜したのですが、そういう記述はどこにも見当たりませんでした。

 インターネットをさまよっていて、薬師如来が祀られているという記述を見つけると、とりあえずグーグルマップに「★」印をつけておくのですが、いつなんどき、どこで識ったか、というメモは用意していないので、何かを取り違え、誤って「★」をつけてしまった、ということは、なきにしもあらずです。
 千葉寺にはホームページがあるのですが、どういう事情からか、閲覧できなくなっています。

 まあ、間違えて参拝したとしても、お薬師様が「私が祀られていないところにお参りなんぞしおって」とお怒りになるはずもないのですから、と思って参拝。




 境内にあるイチョウ(公孫樹)の巨木です。
 幹周りは8メートルもあります。何本かの株が合体しているようにも見えますが、一本なのでしょうか。ともかくブッテェ! の一言に尽きます。
 創建の翌年に植えられたといいますから、苗がその年に芽吹いたものであったとすれば、今年で樹齢一千と七年を数えることになります。




 高さは30メートル。
 この日は軽装を心がけたので、広角レンズつきの一眼レフは携帯せず、コンパクトデジカメしか持っていませんでした。引いても引いても全容が捕らえられぬほど巨大です。

 千葉寺に参拝したあとは、さらに大網街道を進んで、坂を上り、やがて下ります。ブロックで区切られた形ばかりの歩道がありましたが、歩く人はほとんどいないのでしょう。草が歩道の上までせり出していて、車道に出なければ歩けないようなところもありました。

 最初の信号で「曹洞宗東禅寺信号右折」という標識が見えました。東禅寺は今日二つ目の目的地です。
 地図で当たっておいた感触からいうと、随分早く着くことができた、という感じでしたが、指示どおりに右折することにしました。




 妙導寺という本門佛立宗の寺院がありました。ここで地図を開き、早く曲がり過ぎたことに気づきました。

 徒歩なら、先の大網街道をさらに進み、県立千葉高校裏の道を歩いたほうが早かったのですが、「曹洞宗東禅寺信号右折」という案内は、考えてみれば当たり前の、自動車用の標識でした。本来私が歩いて行こうと思っていた道路は、車は逆イッツウになっていて、手前の標識があったところで曲がらないと着けないのでした。



 千葉寺から二十分近く歩いて東禅寺に着きました。曹洞宗の寺院です。千葉氏十一代・貞胤(1292年-1351年)が嘉暦二年(1327年)に建立。



 瑠璃光殿。
 まぎれもなく薬師如来が祀られています。ただ、賽銭箱はなかったので、お賽銭のあげようがなく、扉も開かないので、どんな仏像がおわすのかわかりませんでした。

「千葉市史」には、東禅寺の薬師如来は眼病にご利益があり、明治の末年ごろまで、毎月十一日の「縁日」には参拝客で賑わい、夜店が並ぶほどだった、と記されていますが、縁日が八日でもなく、十二日でもなく、十一日という説は初めて知りました。




 我が宗派の寺院なので、歴住のお墓に焼香させてもらおうと、道を挟んである墓所に足を向けましたが、見当たりません。瑠璃光殿前に戻ってきて、周辺を注意深く見渡しましたが、やはりそれらしきものは見つけられません。
 参拝するのは諦めて、画像上部に横断歩道の交通標識が写っている道を歩き出して、瑠璃光殿横に背の高い卵塔があるのに気づきました。戻って参拝。

 東禅寺前の道は左にゆっくりとカーブして、そのまま進めば先の大網街道に出ます。
 当初の腹づもりでは、その道を入ってきて参拝し、同じ道を引き返すことにしていたのですが、逆方向から入ってしまったので、なぜ引き返すことにしていたのかを忘れてしまったようです。前方に石段が見えてきたので、思わず上ってしまいました。

 石段を上ることなく進めば、高徳寺という閻魔大王を祀っていることで名高い、やはり我が宗派の寺院があったのですが、忘れたことに気づいたのは庵に帰ってからでした。




 石段の上は千葉県立文化会館でした。敷地内を通り抜けます。



 胤重寺。浄土宗の寺院です。
 開山は雲巖上人。千葉氏三代で初代下総守護・常胤の四男(三男とも)・武石三郎胤重の末孫です。胤重の菩提を弔うため、永禄元年(1558年)、当寺を建立しました。




 本堂右前に疣(いぼ)地蔵が祀られていました。
 疣地蔵の足許に山積みされた白いものは奉納された塩です。東京を中心に多い、祈願に塩を奉納する塩地蔵の一つです。
 この塩をいただいて帰り、疣につけて祈願をすると、疣が取れるといわれています。
 私も頭の後ろに疣があります。我が先考は額にありました。私の場合は髪の毛で隠れているので、他人にはわかりませんが、床屋さんへ行くと、いつも櫛を引っかけられ、理容師がなんだろうという表情で髪を掻き分けている気配が感じられるので、床屋へ行くのは気が進みません。




 智光院。
 康正二年(1456年)、千葉家の内乱を経て千葉家を相続した千葉康胤(1374年?-98年?)が創建したと伝わるそうです。
 先の胤重寺とこの智光院とも、背後に写っている森は亥鼻城があった丘です。




 胤重寺と智光院の間に亥鼻城址へ上る石段がありました。



 石段を上り切ったところに、いのはな亭という茶店がありました。「氷」という幟に釣られて、フラフラと入りました。
 朝方はわりと涼しかったのに、昼を過ぎるころから少し蒸し暑くなり、歩き詰めでもあったので、かなり汗をかいていました。そういうときにありついたかき氷はこの上ないご馳走です。




 千葉城、と謳っていますが、実際にこの地に存在したのは中世城郭の亥鼻城ですから、このような天守ではなく、館だったはずです。
 郷土博物館になっていますが、出発が遅くなって、できるだけ早く帰りたかったので、見ることもなく通過。



 天守に向かって弓を引いているのは千葉氏三代にして、初代下総守護・常胤(1118年-1201年)という人。



 帰りは、くるときに降りた千葉寺駅より一駅東京寄りの千葉中央駅に出ました。待っていた電車がたまたま新京成電鉄直通の松戸行だったので、武蔵野線の乗換駅がある八柱まで、乗り換えなしで一時間近く乗って行くことにしました。



 出発するのが遅かったので、地元の慶林寺参拝は夕暮れ近くになりました。
 門も通用門も閉まっていましたが、薬師詣での日はお賽銭をあげることにしているので、閉まっていても鍵はかかっていなかった通用門を開け、本堂前に進んで参拝。

 特段のこともなく一日の勤めを終えられたのも、薬師如来のご加護があったお陰、と考えることにしています。

この日歩いたところ

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