テレビを視ていると、バラエティ番組でもCMでも、きたるお正月は「令和初めての云々」と喧しい。喧しいから、近年は廃れ気味の年賀状が売れたり、ものが売れたりして好ましいのかもしれませんが、元号が変わったからといって変わるものなど何もないのです。むしろ負の遺産が増えることが確実な東京オリンピック・パラリンピックと同じように、騒いだぶんだけツケが残るようなことにならないでもらいたいものです。
新しい元号も、万葉集を典拠にしたというのであれば、「れいわ」ではなく、「りょうわ」と読ませるべでありましょう。
我が庭の無患子(ムクロジ)は四日前の二十七日に吹き募った強風(最大瞬間風速:17・8メートル)で、結構な枚数が残っていた黄葉が画像下部の一枚を除いて、すっかり剥ぎとられてしまいました。
この無患子は実の状態で我が庵にきて、今年が十年目。日中は穏やかで暖かかった陽気も、午後になると寒くなり、風も強くなりました。午後四時過ぎには最大瞬間風速15・9メートルを記録。それでも暗くなるまでは最後の一葉は健気に風にそよいでいました。
明日元日を迎えるときはどうなっているのかわかりませんが、たった一葉といえど、年を越すのは初めてです。
※一月一日記:元旦を迎えてみると、葉っぱはなくなっていました。年を越せたかどうか定かではありません。
一年間曲がりなりにも無事で過ごせたことを感謝しに、東漸寺と慶林寺にお礼参りに行くことにしました。
迎春の準備がすっかり整えられた東漸寺門前です。
参道にはズラリと提灯が並んでいます。
しずしずと本堂前へ。明日になると、この参道に長い列ができるはずです。
開山の經譽愚底上人のお墓にもお参りします。
聖観音を祀る観音堂にも五色の幔幕が張り巡らされました。
御祈願受付も準備万端。
今夜はここに鐘撞き希望者がズラリと並ぶのでしょう。寒い冬の真夜中にわざわざ出かけて行き、しかも並んで順番を待つ、という趣味は私にはないので、毎年どんな光景が繰り広げられているのか見たことがありません。
篝火の用意も整っています。
毎月十五日、十八日、二十七日の三日だけ、慶林寺参拝はあと廻しにして、先に東漸寺に参拝します。慶林寺の参拝は毎日欠かさないのですが、東漸寺の帰りに立ち寄るというのはついでのようで申し訳ない気がして、いつも一度帰ってから出直します。
毎年こんな掲示が出されます。東漸寺の除夜の鐘撞きと同じように、私は興味がありません。
歴住の墓所です。
慶林寺参拝は毎日欠かしませんが、めったに墓所には行きません。今日は特別。
慶林寺開基・珪琳尼のお墓です。千葉家十三代・昌胤の妹にして、小金大谷口城主・高城胤吉の妻です。胤吉の死後、剃髪して月珪琳尼と称し、このあたりに庵を結びました。
珪琳尼亡きあと、その子・胤辰が建立したのがこの慶林寺(建立当時の寺号は桂林寺)の始まりです。
お屠蘇を仕込みました。
私が通院しているクリニックで、院内処方された薬と一緒にもらったものです。高血圧と狭心症で通院をつづけている私に処方されるのは西洋薬ですが、このクリニックでは漢方薬も処方しています。
呑兵衛の私ですが、日本酒は料理酒として買うだけで、呑むことはありません。たまたま残りが五尺ほどしか残っていなかったので、一合入りの月桂冠を買ってきました。
包みの裏を返すと ― 屠蘇散は、中国三国時代に華陀という名医が十数種の薬草を調合して、酒に浸して飲んだのが始まりと言われています ― と記されています。
華陀または華佗(生年不明-208年)のことは「三国志」(華佗伝)や「後漢書」(方術伝)に記されています。「三国志演義」には腕に毒矢を射られた蜀の関羽に手術を施して毒を取り除いた、という逸話が書かれています。そのため、蜀に内通する者と疑われて、魏の曹操に殺されてしまいます。
暗くなるのを待って、我が庵近くにある家のクリスマスイルミネーションをカメラに収めるべく出かけました。
北小金駅前にもイルミネーション。
私がいまの家の住人となってから、ちょうど十年目。この家ではその年にすでにイルミネーションが飾られていたように思いますが、年々エスカレートしているようです。
行き止まりの路地の一番奥の家。道路からは見えにくいので、いつから始まったものか。今年初めて気がつきました。
我が庵のメリークリスマス。
十日ほど前から二日から三日置きで、庭に鶫(ツグミ)がやってくるようになりました。同じ鳥なのかどうかわかりませんが、いつも一羽だけきて、数分間我が庭に滞在したあと、向かいの家のフェンスに止まり、数分後にはいなくなります。
冬枯れで餌になりそうなものは何もないと見えるのに、ときおり土をつついたりしているところを見ると、土中に虫でもいるのでしょうか。
我が地方の陽気は春を思わせるような日があると思うと、真冬より寒いのではないか、という日がジグザグにやってきます。毎日の気温を折れ線グラフにしてみると、まるで乱高下を繰り返す株価のようです。
今日午前中は体調がいま一つだったので、慶林寺参拝に赴いたのは昼間近でした。参拝を終えたときは午後になってしまいました。
境内にある河津桜の樹はまだ葉を残していたのに……。
参道入口の河津桜はすっかり丸裸になっていました。
我が庵近くにある一軒の民家の壁を這う蔦(ツタ)です。
あと何日かすると、葉っぱが次々と散って、一葉だけになることがあります。夏の間は、前を通ることがあっても忘れていますが、いまの時節になると、私は決まって一葉だけ残った光景を思い出し、連れてオー・ヘンリーの「最後の一葉」を思い出すのです。
我が庭にある無患子(ムクロジ)。3メートルほどの高さがあります。
今年も落葉の時期が近づき、葉がすっかり落ちてしまうと、また高さ1メートル弱のあたりで、伐採される運命です。
十二月の薬師詣で ― 今年の終い薬師です。
前日までは、埼玉県の伊奈町から蓮田市にかけてある、四つの薬師堂を一気に巡りおおせようと考えていたのですが、いざ当日朝の目覚めを迎えてみると、すこぶる付きの体調の悪さでした。朝十一時近くまでウダウダと過ごしているうちにようやく身体にエンジンがかかって、動き出す気力と体力が湧いてきましたが、その時間から伊奈町目指して出かけるのは気が進みません。
もう少し近いところはないかと、ストックしてある一覧表を眺め、江戸川区南篠崎にある西光寺へ行くことにしました。
電車に乗る前に地元の慶林寺に参拝。
新松戸~西船橋~本八幡と乗り継ぎ、本八幡で都営地下鉄に乗り換えて、二駅目の瑞江で降りました。
電車に乗っている間は、進行方向左手が南、とわかっていましたが、いざ駅に着いて電車を降り、地中深くにあるプラットホームから改札口のあるフロアに上がり、さらに地上に出ると、方向感覚はすっかり崩壊してしまいます。幸い好天だったので、太陽が見えて、そっちが南……と方角がわかりましたが……。
今回は急に行き先を変更したので、地図をプリントする時間がありませんでした。頼りになるのはスマートフォンとタブレットだけです。
出かける前、パソコンでチラ視しておいた地図では、目的の西光寺は瑞江駅からほぼ真横に東へ向かった場所にありました。瑞江駅周辺は新しい街なので、街区は碁盤割になっています。しかし、碁盤割とはいっても、南北を基軸としたものではなく、北西と南東が基軸となっているので、真西を目指すとしても、「へ」の字を繋ぐように歩かなくてはなりません。
篠崎街道を進み、柴又街道との交差点に差しかかりました。
瑞江駅から二十五分歩いて西光寺に到着しました。
門前を行き来する人々を見守る二仏。
真言宗のお寺なので、画像奥の石像は大日如来だとわかりますが、手前はどういう仏様かわかりません。境内にお邪魔するときと出るときと、二度前を通って正面から見ているはずですが、結局よくわかりません。
二仏の正面に、江戸川区教育委員会が建てた説明板がありましたが、風雪に晒されてこの有様。ほとんど読むことはできません。
「江戸川区教育委員会の掲示」によると、「永正二年(1505年)の草創と伝える旧上鎌田村の古刹で、真言宗豊山派、薬王山蓮華院と号します。本尊には木造阿弥陀如来立像を祀り、本堂脇には薬師堂、鐘楼横に石造線刻地蔵菩薩立像碑があります」とあるだけで、どのような薬師如来がおわすのかは説明がありません。
本堂の右手前にあった薬師堂です。賽銭箱があったので、とりあえずはお賽銭。
薬師堂のさらに手前に鐘楼塔。
いつもなら近くにお寺があれば寄って行くのですが、軽くスクロールしたつもりでも、とんでもないところにぶっ飛んでしまうタブレットやスマートフォンの地図でわかるのはレストランやコンビニだけです。
まあ、スマートフォンで地図を視ようという大部分の人が必要なのはこのテの店で、お寺を捜すためにスマートフォンを持っている人というのは限りなく限定された存在なのでしょうから、スマートフォンのほうでも、地図のほうでも、私はあまり相手にされていない。
折角の終い薬師ではありますが、早々に尻尾を巻いて帰ることにしました。