十一月晦日。
昨日は三の酉でした。三の酉まである年は火事が多い、というのは江戸の町の言い伝えですが、今年はどうなんでしょうか。妙な事件は多いような気が致しますが……。
二十七、八歳のときのいまごろ、私は花のパリーにおりました。仕事で、です。
その日が十一月の何日であったか憶えていませんが、一の酉の翌日でした。日本からきていた少数の団体客があって、当時開港したばかりだったシャルル・ド・ゴール空港へ迎えに出ました。
その日のパリは朝から冷たい雨で、非常に寒かったという記憶があります。急に寒くなったので、赴任一年目だった私には冬服の用意がなく、薄いサファリコートの襟を立てていました。
客は年配の人ばかりでした。ターミナルビルを出て、私が用意しておいた小型バスに乗り込むとき、一人が「寒いと思ったら、今日はお酉様だ」と呟くのを耳にしました。
パリと日本は九時間の時差があります。出迎えたのは朝の十時ごろでしたから、日本の酉の日は終わっている時刻です。まだ若くて生意気だったワタクシは旅行客の出迎えという臨時の仕事に狩り出された憤りがあって、「時差も知らずに何をとぼけたことをいってやがる、糞ジジイめ」と心の中で毒突きました。
私の本職は別にありました。たまたま会社の幹部の知り合いがパリにやってくることがあると、事前にカタカタとテレックス ― メールはもちろんファックスすらない時代です ― が入って、空港まで出迎えたり、ホテルの手配をしたり、観光案内をするというように、旅行業者みたいなことに狩り出されるのです。
いまも昔も変わらないと思いますが、ヨーロッパ周遊旅行の上がりはパリです。
折角のパリの夜、といっても、一晩だけの滞在客にできることは限られています。日本が懐かしくなっているのか、和食が食べたいという人もいれば、フランス料理(食用蛙はともかく猿の脳みそ)が食べたいという人もいます。それぞれの店に送り込んで注文を取ってやり、ホテルの名を書いたカード ― タクシーの運転手に見せて無事送り届けてもらうためです ― を渡して、一足先にホテルに戻ります。
食事を終えて帰ってきた連中の何人かは部屋に戻って、おとなしく眠ってくれます。まだ元気のいい人たちがいれば、ムーランルージュやクレイジーホース、リドといったキャバレーに連れて行きます。
その上、なおかつ元気のいい人が残れば、目的は知れたこと ― ♀しかありません。
一週間か二週間、ヨーロッパを周遊してきているというのに、元気なおじさんがいるものです。そういう人がいると、店の名は忘れてしまいましたが、ピガール広場のとある店に連れて行くことに決めていました。
中に入ると、止まり木の前に女の子たちが勢揃いしています。客はシャンパンを飲みながら一渡り見廻して、品定めをするという次第です。品定めが済めば、二人で近くのホテルに行くのです。
相場はショートで、シャンパン代とホテル代も含めて$50。当時は固定相場で、$1=300円でした。つまり1万5000円也 ― 。
はるばる花のパリーにやってきて、明日、目が覚めれば日本に帰る飛行機に乗るだけ。お金を使うとすれば、アンカレッジの売店で土産物を買い足すか、日本に再入国するときの関税だけ ― というのに、ケチなオヤジもいるもので、私に値引き交渉をさせようとするヤカラがいました。
路上で客引きをしている♀ならいざ知らず、この手の店ではいくら粘ったところで、値引きには応じてくれません。面倒なので、$40で話をつけたといって、私が$10を負担したことも何度かありました。
ポン引きや幇間みたいなことをしていた ― とはいっても、私にはなんの役得もないのです。
「いつもお世話になるから……」といって、店のマダム ― 吉原のようなところでいえば遣り手婆 ― がシャンパンを出してくれようとしたこともありますが、当時の私はアルコールに対して晩熟(おくて)でありました。ワインをグラス一杯呑めば酔っ払っていたのです。
「アン・キャール・ドゥ・ヴィッテル」でいいから、といって、500ミリリットルのミネラルウォーターをもらっていました。
蛇足ですが、ホテルのロビーで待ち合わせたりするときはコーヒーは飲まず、ミネラルウォーターを頼むのが普通でした。アン・キャール(四分の一=500ミリリットル)のヴィッテルかエヴィアンです。
大概は値段の交渉が終わって、客と♀が店を出て行くのを見届けると引き揚げてしまうのですが、中にはコトが終わったあと、午前二時三時という時間ですから、タクシーを捕まえられるかどうか、ホテルに帰れるかどうか不安だという我が儘な人がおりました。
「バカヤロウ」とケツをまくりたいところですが、会社の幹部との繋がりを考えると、ムゲに断わるわけにも参りません。
客が娼婦とよろしくやっているのを、ミネラルウォーターをちびりちびりとやりながら待っているという、情けなくも哀れな一晩を過ごすのです。
「お酉様だ」といったオヤジもピガール広場に案内しました。
その人は黙って$50を払い、ホテルの名を書いたカードを渡すだけで解放されましたが、近年になって、酉の市と聞くと、新宿花園神社や浅草鷲神社で呑んだことより、顔も名前も忘れてしまったそのオヤジのことを思い出すのです。
立花誾千代の肖像画は、古い上に肝心の顔の部分が傷ついているので、どんな容貌の持ち主だったか、しかとはわかりませんが、評判を知った秀吉が手籠めにしようとしたという逸話があるところから推察すると、美人であったことは間違いない。秀吉は好色だっただけではなく、面喰いだったのですから……。
美人だった上に女傑でもありました。
名護屋に出陣していた秀吉が召し出したとき、秀吉に含むところがあるのを悟って、鎧兜に身を固めて出向いたり、関ヶ原の戦では、攻め寄せる敵を薙刀をふるって撃退したという逸話があることからも、それは明らかです。
しかし、その女傑ぶりが夫・立花宗茂との不和の要因だったのではないか、と私は想像しております。
宗茂も武辺一点張りの人でした。人は共通点に惹かれ合うこともあるが、かえって反発し合うこともあります。
では、誾千代が惹かれるような男はどんなタイプだっただろうかというと、中庵宗巌のような人ではなかったか。これも私の勝手な空想です。
先に紹介した「古寺発掘」で、中村真一郎さんが中庵を駄目オヤジの典型のように紹介していると書きましたが、決してくさしているのでも、軽蔑しているのでもありません。むしろ深い同情を寄せています。
それはなぜかというと、中庵が当時の武辺者には似つかわしくないインテリジェンスを持ち、それゆえに自分の弱さを、相手にあからさまに見せてしまう男だったからです。
切支丹の教えを棄てたあと、信者の迫害という暴挙に出るのも、その弱さのなせる業だったのではないかと思うのです。
中庵がインテリであったという証拠は、利休の茶会に招かれていることが示しています。利休ほどの人が大名というレッテルだけで茶会に招くはずはありません。
大友家は名門とはいえ、京大坂から見れば九州の田舎大名です。中庵は招かれるのに値する教養を持った人物であったと見るべきです。
大分市の歴史資料館には、中庵が源氏物語に親しんでいたことを示す史料もあるそうです。
和歌や源氏や茶道に親しむことは当時の武将にとってあこがれであり、必須のものであったといいますが、誰もが志したわけではないし、やっても身体に馴染まない人がいます。秀吉などその典型でしょう。
インテリジェンスを衣のように羽織っているだけではインテリとはいえない。インテリジェンスが充分に身体に馴染んで、初めてインテリと呼ばれるのです。
中庵は武将としてはおおいなる失格者の一人ですが、心の葛藤、懊悩、相剋、ディレンマ……と、おそらくこの時代の誰もが併せ持っていなかった心のせめぎ合いと戦っていた。
切支丹の父と神官の娘である母との間に生を受け、嫡男には自分より遙かに武将として相応しい子どもに恵まれてしまった。受け継いだ領国は切支丹に帰依した父が経営に熱意を失ってしまったため、明らかに衰勢に向かっている。
中庵の置かれた環境は一日にたとえると、落日寸前であり、季節でいえば晩秋でした。
当時の武将もそれなりの懊悩を抱え込んではいたでしょう。家を残すという名目で徳川方につき、父に弓引くことになった真田信幸など……。しかし中庵のように、二重三重の懊悩を抱えた人はいなかったのではないか。
誾千代のような強い女性から見ると、なよなよと悩む中庵は母性本能をかき立てられる存在であったかもしれない、と想像してみるのですが……。
私のブログのタイトル「桔梗おぢさんのブラブラJournal」を略して「桔梗ブラジャー」と呼んだ人がおります。略して呼んでくれと頼んだ覚えはないのですが、その方はアルファベットの部分を英語読みされたらしい。
Journalというスペルは一緒なので、間違われても仕方がないのですが、これはフランス語なのです。従って「ジャーナル」ではなく、「ジュルナル」と読んでもらわないといけません。そして略すなら「桔梗ブラジュル」であります。面白くともなんともない。だから、普通は略さないのです。
さて、中庵宗巌のことは宙ぶらりんのままです。ブログに記したほかにも材料はあるのですが、いずれも一国の領主として情けない時代のことばかり。
共感を覚えるところがあるからこそ取り上げようと考えているわけですが、このまま筆を進めても結果的には、けなすようなことばかり書いてしまうことになります。
そこでちょっと趣向を変えてみようと思いました。
中庵宗巌より十一歳年下に立花誾千代(たちばな・ぎんちよ=1569年-1602年)という女性がおりました。大友家三老の一人・立花道雪(1513年-85年)の娘です。
親子の生年をみればわかるように、道雪五十七歳のときという、現代でもまず考えられない晩年の子です。晩年にもうけた子ほど可愛いというのは親の常らしいのですが、単に可愛いという理由だけではなく、男勝りの女傑であったようです。姫でありながら家督を譲られ、立花山城という城の城主になりました。
亀菊丸という兄も政千代という姉もいたのに、道雪は誾千代を自分の後継に選んだのです。ただし、二人の兄姉は道雪の子ではありません。後妻に迎えた仁志姫の連れ子です。
このころ、中庵はまだ家督を継いでいませんが、大友家の重臣の一人となる誾千代には会っているはずです。
いまのところは史料を得られないので、想像するだけですが、ここから私の空想が始まります。
姫で領主だったという例はいくつかあります。
たとえば誾千代とほぼ同世代に井伊直虎という女性がいます。彦根三十万石(当初は上野高崎十二万石)の祖となった井伊直政の養母です。
このころの井伊家は彦根でも高崎でもなく、いまの静岡県井伊谷(いいのや)に館を構えています。父と男兄弟が次々に死んでしまったため、女である直虎が跡を継いだのです。
しかし、直虎といういかめしい名からわかるように、生存中は男として通したのだそうです。
女だったと判明するのは江戸時代に入ってから……。女だからといってなにゆえに? と訝しく思う人もいるかもしれませんが、井伊家何代と代数を数えるとき、直虎は数に入れません。
従って、女で城主というのは、日本史上この誾千代と淀殿しかいないと思いますが、淀殿の場合は妾宅として与えられたのが城であったということですから、誾千代が史上ただ一人の女城主だったといってもよいでしょう。
道雪が娘に家督を譲るという異例の行為に出たのは、男勝りだったという理由だけではなく、どうやら婿として眼鏡に適う男がいなかったということもあったようです。道雪は誾千代が十七歳のときに死んでいますから、後継をつくるのを急がなければならなかった、ということもあったのかもしれません。
が、やがて立花宗茂という男を婿養子に迎え入れて、家督は宗茂が継ぐこととなります。誾千代十三歳の年です。
宗茂は秀吉、加藤清正、小早川隆景なども手放しで褒めるほど勇猛果敢な武将だったようです。
秀吉から筑後柳河藩主の座を賜って、大友家から独立します。天正十五年(1587年)、ぎん千代十九歳の年です。
しかし、誾千代は宗茂に心を寄せることがなかったようです。婿に選んだ道雪の目は確かであったのですが、なぜか肝心のぎん千代の眼鏡には適わなかったのです。
柳河移封後、ほどなくして夫婦は別居状態になります。別居したのは文禄四年(1594年)と慶長四年(1599年)と二つの説があります。理由ははっきりとはわかりませんが、二人の間には子どもがなかったということが要因らしい。
世継ぎがないのは大名家には致命的なことです。それを憂えた誾千代みずから身を退いたとも、宗茂がのちに瑞松院と呼ばれる側室を入れたので、プライドを傷つけられたとも。
宗茂は関ヶ原の戦では西軍に味方しました。戦後、改易されて諸国流浪の旅に出ますが、誾千代は行を共にしませんでした。柳河からは少し離れた現在の熊本県長洲町に隠居しているのです。
そして関ヶ原の戦からわずか二年後の慶長七年(1602年)十月十七日、三十四歳という若さで逝去。
八日前の十一月十四日が旧暦十月十七日。誾千代姫の祥月命日に当たります。
法名・光照院殿泉誉良清大姉。
※誾千代の画像は「立花家十七代が語る立花宗茂と柳川」から拝借しました。
新松戸風物詩と題しましたが、正しくはワタクシの勤め先がある市川大野の風物詩です。
会社の前に「こざと公園」という人工の池を二面持った公園があります。毎冬の風物詩ですが、先週初めからユリカモメとアオサギがくるようになりました。
アオサギは大きな鳥なので、羽ばたきもじつにゆったりと優雅です。その代わり、小回りが利かないので、飛び立つときは、一定の距離は一直線に飛ばなければなりません。
たまたまユリカモメが飛んでいる中に割って入ると、ユリカモメは遠慮して急旋回したりします。犬でいうと、ミニチュアダックスやポメラニアンが跳ね回っているところに、秋田犬が姿を現わすようなものです。じつに威風堂々としております。
この鳥はその優雅さに反するような啼き方をします。人間が浪曲を唸るような声で「エッエッ」とやるのです。
まだ勤め先近くの社宅もどきアパートに住んでいたとき、夜中に何度かこの声を聞いて、一体何者の仕業かと訝っていたことがありました。
そのアパートを中心にすると、北側に「こざと公園」があり、南側を大柏川という細い川が流れています。生活排水が流れ込むので、鳥たちにはいい餌場となっているようで、ユリカモメやサギが排水口の下で待ち構えていたりします。
あるとき、アオサギが一羽だけ川の中に立っていました。見ているうち、何に愕いたのか、突然「エッエッ」と啼いて羽ばたいたのです。ああ、奇妙奇天烈な声の主はこれだったのかと得心しました。
それから何日かたって、大鳥啓助(亡くなってもう何年になるんだろう)のギャグはこれをヒントにしたのではないかと思うようになりました。
若い人にはわからないだろうと思いますが、かつて唄啓漫才で、ボケの大鳥啓助が「エッ、大鳥、エッ、啓助でございますョ、エッ……」とやって、一世を風靡したものです。
アオサギは非常に注意深い鳥です。
去年もいまごろだったか、もう少し寒くなった時期だったか、不用意に近づいて逃げられたことがありました。距離は悠に10メートルはあったのに、カメラを構えただけで、逃げたのです。
今日十八日の昼休み、公園に行ってみると、葦の葉に隠れるように佇んでいました。遊歩道から撮影しましたが、少し距離があったので、逃げられることはありませんでした。手前に写っているのは多分ダイサギ(?)。
池の向こう側に行けば、葦に遮られないと気づいて、向こうに回りました。水辺まで降りられるようになっていたので、シメシメと思いながら近づいてカメラを構えようとした瞬間、「エッエッ」と啼き声を残して飛び立ってしまった、とさ。
ザ・フーが来日したんですね。
先週、変な店へ飲みに行ったとき、くるそうだという話を聞いていましたが、酔っ払っていたので忘れていました。
ザ・フーのデビューは私が高校二年生の年です。ビートルズより二年遅く、キンクスと同じ年でした。ところが、ビートルズもローリング・ストーンズもよく聴きましたが、ザ・フーだけは同時代に、あまり馴染まなかったという記憶しかありません。
中学から高校二年生にかけて、ビートルズ一辺倒でした。
ビートルズといえば、いまでこそ伝説以上のグループですが、来日公演があったときには学校から、観に行こうなどという不心得者は「不良」と見なす、というような禁止令が出たほどでした。つまりミーハーの支持があるだけで、社会全体が認める存在ではなかったわけです。
ミーハーが支持していたといっても、同じクラスの大半の子は知りませんでした。音楽を聴くといっても、中尾ミエや伊東ゆかりを聴いていた子のほうが多かったのではないかと思います。
深夜放送の常連でしたから、ザ・フーそのものは聴いていたはず、と思います。ギターを壊すという派手なアクションも知っています。しかし、あまり馴染みが持てなかったのはなぜだろうと考えて、いまになって、そうだ !! あのころはお金がなかったのだと思い当たりました。
月々小遣いをいくらもらっていたのか憶えていませんが、このころの音楽ソースはラジオかシングルレコードです。A面B面に二曲だけ入ったそのシングルレコードが確か300円か350円したのではなかったか。
就職した兄の給料が15,000円か20,000円という時代です。いまの貨幣価値に直せば一枚3000~3500円という法外な値段でした。
同級生にレコード屋の息子がいたので、二割引きくらいで手に入れていましたが、一か月に一枚買うのがいっぱいいっぱいだったはずです。今月ビートルズを買ったら、次にほしいキンクスは来月回しにせざるを得ない。
HMVやタワーレコードなどないから、ラジオで聴いて、ほしいなぁと思ってもすぐ買えるわけでもない。ラジオで聴かせるのは日本のレコード会社がモニタリング調査を兼ねて、売れそうなら発売に踏み切るということもあったからでしょう。来月買おうと決めているレコードがあるのに、来月がくる前に気になる曲を耳にしてしまうこともありました。
それに、このころのUKロックシーンはまさに百花繚乱でした。ザ・フーと同じくモッズ系といわれるグループにスモール・フェイセスというのがありました。
サーチャーズがあったり、デイヴ・クラーク・ファイヴがあったり……。
ザ・フーは結構いいと思ったけれども、次々にほしいレコードが出てくるので、一枚も買わないまま青春が終わってしまった、ということになるのだろうと思います。
ザ・フーを見直してみようという心情になったのは音楽面の評価ではありませんでした。1970年代前半、我が愛しのエリック・クラプトンはコカイン中毒で廃人寸前になっていました。それを支え、励まし、社会復帰させるのに力を貸したのがザ・フーのピート・タウンゼンドだったと知ったことがキッカケでした。日本人だからやむを得ないのか。私は浪花節で動いてしまうところが多分にあります。
同じように心を動かされたのはフリートウッド・マックのミック・フリートウッドです。
この男は我が愛しのピーター・グリーンの居場所をなくしてしまったばかりか、変な女を入れて、聴くに堪えないようなバンドにしてしまったと思っていたのですが、ピーター・グリーンにもコカインとアルコールに溺れた時代があって、そのとき、日夜病院を見舞って励ましたのはミック・フリートウッドだったと知りました。
だが、浪花節はすべてを許すというものではありません。いいところがあるやんけ、と思うのは二人とも同じですが、ザ・フーは聴いても、ピーター・グリーンが抜けたあとのフリートウッド・マックは聴きたいとも思わないのであります。
http://www.youtube.com/watch?v=8NATK0brkS4
十一月九日、日曜日……。
時刻表も調べずに行ったので、新松戸から宍戸まで二時間半もかかってしまいました。
常磐線の友部で水戸線に乗り換え、宍戸到着は十二時五十一分でした。
昼は駅前で蕎麦屋でも見つけて……と考えていたのですが、蕎麦屋など陰も形もありません。土浦で電車待ちをしている間に少し腹が減ったので、サンドイッチと冷茶を仕込んでおいたのが幸いでした。
単線でプラットホームも一本だけという宍戸の駅に降り立った私は唖然として息を飲みます。駅前は何もないと表現しても間違いがないような何もなさでした。
駅の時刻表を見ると、友部へ戻る次の電車は四十六分後の十三時三十七分。その次は十四時三十七分までありません。
ヤレヤレと慨嘆しつつ、駅を出て歩き始めました。目指すのは徒歩七~八分のところにある歴史民俗資料館です。
駅前を通る国道355線をしばらく歩くと、左手に前回写真を載せた宍戸城土塁跡があります。末広稲荷という小さなお宮になっています。
宍戸食堂という店がありましたが、休業のようでした。お目当ての歴史民俗資料館も日曜は休館でした。
またヤレヤレと慨嘆しつつあと戻りです。車はそこそこ通りますが、人通りはまったくない。すれ違ったのはたったの二人でした。これでは中庵の「チュ」の字も得られない。
この宍戸は中庵二度目の配流の地ですが、初めから宍戸に流されたのではありません。
まずは出羽土崎湊に流されました。
身柄を預けられたのは秋田氏五万石です。
秀吉の時代に中庵を預かった佐竹氏は、関ヶ原の戦で徳川に敵対しなかった代わり、味方もしませんでした。戦後、減封の上、久保田(秋田)へ移されることになります。
それに押し出されるような形で秋田氏が宍戸に移され、中庵も移ってきたというわけです。
偶然とはいえ、また常陸の国にきたというのが因縁めいています。
中庵は切支丹でした。父親の宗麟は有名な切支丹大名です。
ところが、母親は宇佐八幡に仕える神官の娘です。筋金入りのアンチ切支丹ですから、切支丹を迫害することには毛ほどの哀れみも持っていない。宣教師たちからは「ゼザベル」と綽名されて忌み嫌われていました。ゼザベルとはイスラエル王妃で、バールを信じ、予言者エリアスを追放した女です。
当然夫婦仲は非常に悪かったようです。
もっとも江戸期までの武家、とくに大名であれば、側室を持つのは当然ですから、夫婦仲が悪くても離婚沙汰に到る夫婦喧嘩、ということもなかったのでしょう。しかし、私はその夫婦仲の悪さが二人の実子である中庵に、どんな陰を落としたのであろうかと思うのです。
中庵は三十歳の年の三月、初めて受洗します。妻、嫡男、娘二人も同時に受洗します。
ところがその年の六月、秀吉が宣教師追放令を出すと、先を争うように棄教。母と同じように迫害者に姿を変えるのです。
教えを棄てるのは、国や家を守りたい一心で秀吉に媚びたのですから、カッコいいことではないが、まあよしとしてもいい。
しかし、図に乗り過ぎではないか。
昨日まで同じ教えを信じていた仲間達を迫害する側に回るとは……、なんたるコッチャです。
「大友義統」をキーワードにしてWeb検索を試みると、没落するまでの中庵の軌跡は大雑把ながらも辿ることができます。ここまで知ったかぶりをして書いてこられたのも、中村真一郎さんの本と各種ブログのおかげです。
けれども私が一番知りたいのは、情けない大名時代ではなく、宍戸でどんな暮らしをしていたかということなのです。
どんなことを考えながら日々を過ごしていたか。
史料が見つかっても、その心の中まで記載されているわけはない。ですが、言行を知ればおおよそ察することはできるのではないか。
流罪ですが、牢獄に繋がれていたわけではありません。三人の供が許されたということがわかっています。どこかに軟禁状態に置かれていたと察せられますが、どんなところにいたのかも知りたい。
「日本切支丹宗門史」という本に、中庵に関する記述があると知りました。かつて岩波文庫で出ていたので、Webで検索したら、在庫を持っている古書店がありました。早速手に入れましたが、期待したほど中庵に関する記述はありませんでした。
「日本西教史」という本にはもう少し詳しい記述があるようですが、古書店をネットサーフィンしても、結構いい値がついていて、買うのを逡巡してしまいます。
図書館で、と思って検索してみましたが、千葉県内の図書館にはないようです。「大友家文書録」という史料があるようですが、大分の県立図書館へ行かなければなりません。
ここで私の中庵追跡劇は一頓挫です。
水戸線の宍戸駅です。中庵に関して載せる写真がないので、プラットホームの写真ともども代わりに載せました。
数年来、気になっている人物が何人かいます。いずれも歴史上の人物ですが、誰もが知っているという有名な人ではないので、資料も手に入れにくく、新しい知識はなかなか増えません。
その中に中庵宗厳(1558年-1610年)という人がいます。
安土桃山期の武将。
本名は大友義統(よしむね)といい、父親は大友宗麟です。
名前だけですが、この宗麟についてはよく知っています。遠藤周作さんの小説にもあります。しかし、その息子については……。中村真一郎さんの「古寺発掘」という本で教えられるまで、まったくもって知りませんでした。
この本で知る限り、中庵は駄目オヤジの典型のような人です。
何をやってもうまく行かない。失地恢復するチャンスはたびたびあったように思えるのに、そのチャンスを摑み切れず、それどころか、わざと悪いほうを選んで進んで行こうとする。
挙げ句、源頼朝以来二十二代つづいたという名家・大友家を滅ぼし、見知らぬ土地に流されて、最後は自分を呪うようにして栄養失調で死ぬのです。
中庵が死ぬのは慶長十五年。五十三歳です。
ところが、「徳川實紀」の「台徳院(徳川秀忠)殿御實紀」には、以下のように、慶長十年七月に卒したと書かれています。
(慶長十年七月)十九日大友左兵衛督義統入道宗厳配所常州にて卒去す。四十八歳。この人大友家の正統左衛門義鎮入道宗麟が長子にて。世々九州の探題たるべき身ながら、豊臣太閤の時朝鮮の軍にをこたりしとて、本領を没入せられ蟄居せし後、其子宗五郎義乗は當家の御恩に浴するを忘れ、逆賊石田に徒党し、西海に下り乱をおこし、又伐負て配流せり、義乗は三千三百石給はり高家に列す。
死ぬ前は縄で身体を縛り、日夜責身杖という棒っきれでおのれを責め苛んでいたらしい。この「徳川實紀」に基づいたのか、中村さんは流刑地の宍戸(茨城県)で死んだと書いていますが、江戸で死んだともいわれています。
名家を潰したのですから、世評は「暗愚」「愚将」「大酒飲み」「女癖が悪い」とすこぶる旗幟が悪い。
なぜに暗愚といわれるかは、家を潰したことがすべてを物語っているのですが、事跡を追って行くと、戦国期の武将としてはいかにもカッコ悪いことの連続です。
その第一は、天正十四年(1586年)、秀吉が九州征伐に乗り出すのを承けて、宿敵の島津氏と戦いますが、戸次川(へつきがわ)の戦いで敗れ、這々の体で逃れてしまうことです。
その逃げ方がカッコ悪い。
本拠であった府内(大分市)を目にも止まらぬ速さで駆け抜けて、島津からはもっとも遠い領内北部の龍王城に逃げ込んだのです。
翌年正月には島津に府内を攻撃され、また天然要害の地と謳われていた妙見岳城へ逃げ込んでしまう。 この無様に呆れ果てた秀吉からは「古今稀なる臆病、家の瑕瑾(かきん)」とまでいわれる。
朝鮮の役(文禄の役)にも出陣しますが、「徳川實紀」にあるように、明と朝鮮の大軍に攻められて敗走してくる小西行長軍を見ると、救援せず、一目散に逃げてしまうのです。
そのとき、中庵宗厳こと義統本人は軍議に出ていて不在であり、留守を預かっていた宿将が命令を下して逃げたのだという説もありますが、義統軍が逃げたことには違いがない。これが秀吉の怒りに油を注ぐことになる。
ついに領地を召し上げられ、毛利氏の山口、つづいて佐竹氏が治めていた水戸に配流となります。
秀吉が死んで恩赦があり、自由の身になりますが、やがて関ヶ原の戦いが起きます。
中庵は徳川に味方しようという家臣たちの反対を押し切って西軍につき、大分県の石垣原というところで黒田軍と戦って敗れます。
黒田如水こと黒田官兵衛は親子すら敵味方に分かれてもなんの不思議もないこの時代、中庵のただ一人の友といってよかった人です。
家臣たちが徳川につこうと献策したのは日和見ではありません。駄目オヤジのせいで浪人しなければならなかったはずの嫡男・義乗が家康に見込まれて五千石(徳川實紀では三千三百石となっていますが)を拝領し、秀忠の旗本になっていたからです。
敗れた者は死罪か流刑です。
家康が義乗を見込んだのは、父親より遙かに優れた武将としての素質を持っていたからですが、それだけではありません。中庵その人には魅力も実力もないとしても、「大友」という連綿と続いてきた家名は棄てがたいものだったからです。
嫡男を抱き込むことで恩を売ったつもりの中庵に敵対されて、さすがの狸オヤジも怒り心頭に発しました。首を刎ねる、と決めたのですが、必死で命乞いをしてくれたのは黒田如水です。
そうして二度目の流刑地となったのが宍戸というところでした。常磐線の友部で水戸線に乗り換えると次の駅です。
ちょっと行ってみるべぇと思い立って、また常磐線に乗りました……。
つづきは更新日時未定の次回。ただ、画像がないのは寂しいので、次回で触れるつもりの宍戸城土塁跡を掲載しました。
末広稲荷神社という小さな祠が祀られています。
一昨日十日、私の会社は給料日でした。久々に痛飲。いい歳をして、家に帰ったのは午前二時半……。四時間だけ眠って出勤。一日経った今日ものらりくらりと仕事をしております。
立冬を五日も過ぎた今日、紫陽花(アジサイ)が咲いているのを見つけました。冬か、と思ってしまうような今日のことなのですヨ。
私の勤め先がある市川大野というところには、大野緑地と呼ばれる小高い台地があって、崖下の一部に紫陽花の群落があります。
そこを通るのは回り道になるので、ふだんは利用しませんが、今年の初夏から初秋にかけては、いつもより一本早い電車に乗り、その道を歩くのを日課にしていました。私は「山蔭の径」、または「紫陽花径」と名づけております。
紫陽花の花を見ながら歩くのも楽しみでしたが、何よりありがたいのは台地の陰になっているので、涼しいことです。
暑い時期にいつもの通勤路を歩くと、会社に着くまでにすでに一日分の汗をかいてしまいますが、「山蔭の径」を歩けば多少は気分もほぐれるし、むかつくような熱気もない。
紫陽花の花期は六~七月です。ほとんどの花が枯れかけたころに咲き出す花もあって、天晴れ臍曲がりめと悦んだりしておりましたが、まさかこの時期になって咲いている花があるとは思ってもみませんでした。
咲いているといっても、さすがに一輪だけです。紫陽花の場合は一塊りを一輪とは数えないようですが……。しかも元気がなさそう。
もちろん仲間の花はとうの昔に枯れてしまっています。
白粉花(オシロイバナ)に囲まれて咲いていますが、この白粉花の標準的な花期も七~十月とされていますから、ちょっと変な花の集まる一帯なのかもしれません。
今日は非常に寒いです。冬のコートを出してしまいました。
昨日七日は立冬でした。
立冬にしては暖かいと思っていたら、一夜明けた今日八日は冬が間近に迫っていると実感させられる寒さです。
先月のなかばごろから気になっていることがありました。出勤するときに通る角に朝顔が咲いているのです。
へへぇと感心しながらも、いくらなんでも十一月までは保つまいと思っていたら、立冬を過ぎても咲いています。
昨日、立冬の朝顔と題してカメラに収めたのですが、急ぎ足で駅に向かっている途中だったので、よくよく見ればピンぼけでした。そこで今朝、もう一度撮影。
ここ数日、通勤の行き帰りに松村明著「江戸ことば・東京ことば辞典」という本を読んでいます。
朝顔は昼顔、夕顔とともになぜ「顔」というのかと不思議に思っておりましたが、名前の由来をひもとくと、どうやら本来は朝容と書くべきらしいと想像されます。姿の美しい花のことを「容花(かおばな)」というそうですが、私は知りませんでした。
この本で「といち」という江戸言葉があることも知りました。ひらがなで書くとわからないのですが、実際の表記は「ト一(イチ)」。
呉服屋の隠語で「別嬪」とか「美人」を指す言葉で、「上」の字を上と下に分解したものです。
「白浪五人男」で、武家の令嬢に変装した弁天小僧が浜松屋という呉服屋に乗り込んだとき、見世の者が「これは“といち”なお嬢様、これへいらっしゃりませ」とお世辞をいう場面があります。
弁天小僧が「知らざぁ言って聞かせやしょう」と居直る、有名な場面の前段です。
ところが、浜松屋があるのは鶴岡八幡宮そば雪ノ下といいますから、鎌倉です。
江戸や京という都会の見世ならともかく、鎌倉で働くのに、遠くから出てくる、ということは考えられない。近在の村から働きにきていた、と考えたほうが現実的で、見世の中では相模訛りが飛び交っていたと考えるのが自然です。
業界の隠語なのだから地方を問わないといえば、なるほどそうかもしれませんが、問題は「こちらへおいでなさい」と招かれた弁天小僧に、「といち」の意味がわかったのか、ということです。
弁天小僧がどこで生まれたか知りませんが、鎌倉の長谷寺で迷子になり、江ノ島で稚児をしていたというのですから、たぶん生まれは鎌倉近辺。江戸弁を使っているといっても、相模訛りが残っていたのに違いない。まして専門用語である「といち」という言葉がわかったかどうか、と考えてしまうのであります。
私の家と新松戸駅の真ん中あたりを新坂川という幅10メートルもない人工の川が流れています。
お世辞にも水のきれいな川とはいえませんが、鯉や亀がいて、時折鴨が泳いでいたり、鶺鴒(セキレイ)が飛ぶのを見ることもあります。
向こう岸に、たわわに実をつけている柿の木を見つけました。昨日日曜は臨時出勤だったので、出がけに撮影しようと思っていたら逆光。
午後、早めに仕事が終わったので、帰り途に撮影しました。少し距離があるのではっきりしませんが、実の形からすると、渋柿かもしれません。
関東大学ラグビー対抗戦・十一月二日の結果。●メイジ(19対24)慶応○。メイジは3連敗。
栄光は年を経れば戻ってくるものではない。かえってどんどん遠ざかっている、と慨嘆せずにはおれません。
一段と寒くなってきました。
今日、東京では木枯らし1号が吹いたそうですが、松戸は穏やかな一日でした。
それでも気温はさすがに低くなってきて、一昨日三十日は9・1度、昨十月晦日は8・4度と最低気温が10度を割るようになりました。
今日十一月朔日は月に二回だけある土曜休みの貴重な一日です。
今週は連日帰るのが遅かったので、五日間台所シンクに溜めたままにしておいた汚れ物を洗いながら、温かい鶏そばを作りました。
これは小岩ふう焼きうどんと違って、どこかで食べて真似をするようになったのか、何かで作り方を知ったのか、まったく記憶にありません。材料は中華そば、ほうれん草、韮、鶏肉です。
鶏肉はモモ、ムネ、ササミ、なんでもいいのですが、できるだけ小さく切ったほうがいいので、調理しやすいのはササミでしょう。今回はスーパーでは売り切れだったので、モモの細切れを買ってきました。
土鍋に適量の水を入れ、煮立ったところで、鶏肉を入れ、火が通ったらアクを取ります。ラーメンふうにつくるという手もありますが、洗い物はできるだけ少なくするという哲学に基づいて、土鍋を用いました。
味付けは醤油適量に中華だし(和風だしでも可)、黒胡椒少々です。ほうれん草と韮の茎のほうを先に入れてから、麺を入れます。
麺は別の鍋で湯通ししておきます。私は煮込み風にするのが好きなので、少し長めに煮ます。火を止めたあと、ほうれん草と韮の、葉のほうを入れれば完成です。
中華そばは、小岩ふう焼きうどんに使うシマダヤの純うどんほどのこだわりを持ちません。スーパーで目についたグリコ麺好亭太麺を買ってきました。
今回は陸奥鶏もも細切れ180円、韮一束88円、グリコ麺好亭太麺88円、ほうれん草三茎60円、〆て416円也でした。
ほうれん草が二茎残っていたので、というか、残ることがわかっていたので、そばをもう一玉買っておきました。夜、また鶏そばをつくりました。
食べ終わったあと、インターネットで知ったうれしいニュース。
ラグビー関東大学対抗戦・早稲田が帝京大に負けました。私は帝京大のファンではないのに、手を叩かんばかりにして悦んでおります。早稲田が負けるのはジャイアンツが負けるのと同じようにうれしい。
明日、明慶戦です。