今年も流鉄の踏切際の朝顔が咲き始めました。
去年は立冬まで咲いていた朝顔です。去年と変わりがなければ、これからあと四か月間は咲きつづけることになります。
市川大野の駅から私の勤め先まで三本の道があります。普段通るのは古来谷津(谷)として残っているところを通るメインストリートです。本八幡へ行く京成バスもこの道を通っています。
もう一本は駅を背にして左手の道、私が紫陽花径(あじさいみち)と呼んでいる大野緑地下を通る小径です。
あと一本は右手の道です。丘の裾を走る道なので、ちょっとした起伏があります。ほとんど利用することはありませんが、今朝は電車が一本早かったし、雨だったので、歩いてみることにしました。
紫陽花径ほどではありませんが、こちらにもところどころに紫陽花がありました。萼紫陽花系が多いようです。
それにしてもシャープのカメラ付き携帯の画像はよくない。紫陽花がせっかく雨に濡れているのに、色の鮮やかさが表現できません。
旧甲州街道を歩くと、ところどころでこんな小さな階段を見かけます。上って行くと、民宿や温泉があったりしますが、市川大野では民宿も温泉も峠の茶屋もありません。別の細い道があって、民家があるだけです。
上り切ったところには鎖が渡してあって、「私道」という注意書きがありました。
日曜日、また取手へ行ってきました。
高井城という戦国期の城址があると知ったからですが、取手市内に遺された城址としては最大規模だというのに、どのあたりにあるのか、前回頼りにした取手市の埋蔵文化財センターのホームページには紹介されていません。
Webで調べてみると、最寄り駅は前回桔梗塚を訪ねて降りたのと同じ関東鉄道の稲戸井駅です。再びこの駅を利用するとは思わなかった。
取手駅で常磐線から関東鉄道に乗り換えます。まだ二度目に過ぎないのに、ディーゼルカーに乗るのもすっかり板に付いた感じです。
この日は桔梗塚には背を向けて歩きます。
稲戸井駅から徒歩二十分ほどで高源寺というお寺の門前に差しかかったので、寄ってみました。
境内に樹齢千六百年といわれる欅(ケヤキ)がありました。樹の高さは15メートル、幹の周りは10メートルもあるとのことです。
根元から見上げるほどの高さまで空洞になっていて、洞の中には石の地蔵菩薩が祀ってあります。よって通称は「地蔵ケヤキ」。
江戸時代初期、本堂が火事に遭い、荷物をこの欅の根元に避難させたところ、荷物に火が移ったために欅も燃えて、この空洞ができたといわれます。
空洞は反対側に突き抜けており、地蔵菩薩にお詣りしたあと、空洞を向こう側へくぐり抜けると安産祈願が叶うといわれて、多くの参詣人で賑わったそうですが、欅を守るため、いまはくぐることはできません。
高源寺がどういう由緒を持つお寺なのかWebで調べましたが、あまりにも地蔵ケヤキが名高いためか、樹の説明ばかりで、寺に関する情報はありません。いまのところは何もわからない状態です。
高源寺をあとにするころからポツポツと雨が降り出しました。
高源寺から二~三分歩くと、突然視界が開けます。そこが目指す高井城址公園で、早くも秋桜(コスモス)が咲いていました。
ちゃんと写っていないのが悔しいのですが、桔梗の群落がありました。水色と白が混ざっていましたが、咲いていたのはまだ数輪に過ぎません。紫陽花(アジサイ)の群落もありました。
この地方に桔梗を植えても、恨みによって花を咲かせることはない、と言い伝えのある桔梗御前のお墓からここまで半里(2キロ)足らずです。半里離れれば、恨みも届かないとみえます。
高井城本郭跡のある小高い丘の前は低地になっていて、池がありました。バーホバーホと喧しいばかりの亀の合唱でした。
池には細々とした湧き水が流れ込んでいます。かつては平家螢の名所だったようで、復活の試みがなされています。
この低地は小貝川の入り江の跡で、城のあったころは船着き場になっていたようです。
その池を半周して高さ10メートルほどの丘を上り切ると、高井城本郭跡があります。強者どもが夢の跡……を思わせるように、草ぼうぼうでした。
高井城は長治年間(1104-06年)、信太小次郎重国という人によって築かれたといわれていますが、来歴ははっきりしません。本郭のほかに二つの曲輪のあったことが認められています。広さは200メートル四方。さほど大きな城郭ではありません。
小次郎重国は相馬氏を名乗り、平將門の末裔と称していましたが、坂東では將門といえば権威づけになるので、便乗しただけでしょう。実際は房総一帯の豪族だった千葉氏の傍流です。
重国の子孫は姓を高井と改め、戦国時代後期までつづきますが、秀吉の小田原攻めの際、当主高井胤永が北条氏に味方したために滅ぼされてしまいます。以降廃城となったようです。
幕末までつづいた奥州相馬の相馬氏(志賀直哉の祖父が家令だった)は分家筋に当たります。
視察が終わるのを待っていてくれたかのように、雨が本格的になりました。
本当はもう一つ訪ねたい場所がありました。平將門が信仰していた地蔵尊のお告げによって建立されたという言い伝えのある延命寺です。高井城址からはおよそ1キロ……。
足を延ばすかどうかは雨の様子次第です。
しかし、木陰に逃れていても、傘を打つ雨は激しくなってくるばかりです。折り畳み傘は持っていましたが、初めて行く場所でもあり、行けば雨の中を最寄り駅からますます遠ざかることになるので、今回は割愛することとしました。
帰りは三十分ほど歩いて、稲戸井より一つ取手寄りの新取手駅に出ました。駅に辿り着くころには、靴は無論スラックスもびしょ濡れ。クリーニングから戻ってきたばかりのリネンのジャケットも左の二の腕あたりから背にかけてびっしょりでした。
家に帰って、携帯(シャープ製)で撮影してきたデータをパソコンに取り込んでみると、桔梗も紫陽花もピンぼけでした。マニュアルを開いてみましたが、細かい字が書き連ねてあるので、読む気も起きません。二代前の携帯(パナソニック)はmovaでもfomaでもなかったけれど、操作が単純で、写真も撮りやすかった。
返す返すも壊れたオリムパスのカメラが恨めしい。で、修理に出そうと思って、Webで調べてみたら、最早修理部品のないものに該当していました。
幸いなことに、桔梗は咲き始めたばかりで、盛りは二~三週間後のようです。一日も早く新しいデジカメを買って、再訪しようと思います。ただし、カメラや携帯に限らず、今後シャープとオリムパスは絶対に買わないと心に決めている私です。
同じような経緯からソニーも買わない。日用品ではライオンを買わない。アサヒビールは死んでも呑まない……。こうして私は世の中を狭くして行くのです。
↓今回の参考マップ。
http://chizuz.com/map/map56251.html
※追記。東京拉麺を食べました。要するにベビースターラーメンでした。とくに変わったところはなし。
今朝、通勤途上で桔梗の花が咲いているのを見ました。千葉県民となってそろそろ丸五年。我がベランダと花屋以外では県内で初めて見た桔梗です。
今日は第四土曜なので出勤でした。
そこに花があることは数日前から知っていたのですが、朝のうちは日陰になって暗い民家の生け垣にまぎれているのと、私が通るところからは少し距離があるので、咲いているのはてっきり紫陽花(アジサイ)だと思っていたのです。
市川大野の駅から歩いて行くと、この桔梗の花に出会う手前に、同じような色で、花が大ぶりの紫陽花が咲いているのを目にしていたので、余計そう思い込んでいました。
私は視力が左右とも0点台しかありません。おまけに乱視で、遠視気味でもあります。しかし本を読んだり、パソコンに向かうとき以外は眼鏡をかけません。もちろん容貌を慮ってのことではありません。ただただ面倒に思うからです。
目が急激に悪くなったのを自覚した十五年ほど前、初めて眼鏡を誂えました。
それまでサングラスしか縁のなかった私は、眼鏡に関するポリシーも何もなかったので、眼鏡店に薦められるまま、遠近両用眼鏡を買いました。乱視が入っているので、随分高い買い物になりました。
使い慣れぬというのは始末が悪いものです。ちょうど新聞の大文字化が始まるころでもあったので、明るいところで読む限りは、あえて眼鏡を必要としませんでした。
当時は仕事でワープロを使っていました。いまから思うと、非常に大きな機械で、一昔前のデスクトップ型パソコンと同じ大きさがありました。プリンタもモノクロ専用なのに、いま使っているカラープリンタの倍ぐらいの大きさがありました。
一般の人が使っていたのはポータブルのワープロです。いまのノートブック型パソコンを二回り大きくしたほどのもので、キーボートとモニタ、プリンタまで一体化されていました。そのぶんモニタが小さく、5~6行ぐらいしか表示されません。
私の場合は一行40字×30~40行が一画面で見えないと具合が悪かったので、用いるのはモニタが別になったデスクトップ型を使うしかありませんでした。横置きにした本体の上にモニタが乗っかっている形態ですから、一体型と比べると、モニタはかなり高い位置にあります。
キーボードとモニタが接近しているか否か。
たいした違いはないように思えるかもしれませんが、遠近両用眼鏡の観点から見ると、非常に大きな問題を孕んでいました。
遠近両用眼鏡は「近」が下、「遠」が上です。ポータブルなら目をほんの少し上げ下げするだけで、両方見ることができますが、私のワープロでは、キーボードを見ている首の角度で目を上げたのでは、モニタは「遠」のレンズで見ることになるので、裸眼で見るより始末が悪いことになります。
ちゃんと見るためには目を上げ下げするだけでは駄目で、首を上下させなければならないのです。
当時はワープロに向かうのが仕事-という仕事をしていましたから、一日に十六時間! もワープロに向かっていることもありました。そうなると、首の上げ下げは結構厄介で、厄介だけならいいけれども、十六時間もやっていた日には目が疲れるだけでは済まない。
結局、遠近両用というのはどうにも具合が悪いという結論を得て、「近」専用の眼鏡をつくることになりました。
遠視気味ではありますが、猟師をなりわいとしているわけではなし、遠くのものがはっきりしなくても、とくに困るわけでもない。
眼鏡が欠かせないという状況はワープロに向かうとき、本を読むとき、何か書くときぐらいなものですから、必ずしも遠近両用を誂える必要はなかったのです。
正月に箱根へ行ったときは、景色も見なければならんと思ったので、遠近両用も持って行きましたが、普段の生活では「近」の眼鏡さえあれば、不便に感じることはありません。
で、自然と遠近両用眼鏡はお蔵入り気味になっています。
???…。
余計なことを書き過ぎました。
道を歩くときは眼鏡を用いないので、せっかく桔梗の花が咲いていても気づかなかった、ということをいいたかっただけです。
桔梗のある民家の手前、道端に咲いている紫陽花です。
昼食を買いに行ったスーパーで、こんな即席ラーメンを見つけたので、買ってしまいました。
フンドシ(書店用語ですが)に「懐かしい味」とあったので、確かに懐かしいような感じがして、買ってしまいましたが、多分このメーカーのものは……いままで買ったことはないどころか、目にしたこともありません。
家に帰ってとっくりと見ると、東京拉麺というのは会社名でもあります。発売元は栃木県足利市……と、ありました。
このところ貨物の入荷が多い-のです。
毎月一度は入荷があるので、貨物引き取り前の輸入手続きに一度、実際の貨物の引き取りに一度と、一度の入荷につき二度横浜港へ行っているのですが、五月は三度も入荷がありました。そして六月も二度目の入荷。
今日は横浜ではなく、東京・平和島の倉庫。税関は大井税関ということになりました。
今日の貨物の量は751キロ、4・55立方メートルと社用車(日産キャラバン)では積み切れないので、前日中に幌付きの4トントラックを借り、朝六時に起床。暑くなりそうとの天気予報だったので、浮かない気分で仕事に出かけました。
貨物を引き取るところはこんなところです。
倉庫の前を東京モノレールが走っています。近くに流通センター駅があります。
通関手続きはわりと早く済み、貨物の引き取りもそれほど時間がかからずに終わりました。
引き取りの順番がきて、倉庫の前にトラックを移動させると、フォークリフトがパレットに載せた貨物を運んできます。
そこからは人力です。木枠で補強された縦70センチ、横60センチ、高さ80センチ、重量約50キロという貨物十五箱を荷台に積み上げなければなりません。
50キロという重さは重いことは重いが、瞬発的にエイヤッと持ち上げるだけですから、さほど苦ではありません。
問題はほぼ四角形という形です。左手を手前にして底を支え、右手を向こう側に伸ばして、抱え込みながら持ち上げるのですが、右の指を充分にかけることができないので、50キロという重さが堪えます。
革の作業手袋をしていますが、ツルリと指を滑らせることがよくあります。そのままドスンと足の上に落っことす、ということがかつて一度もなかったのは幸いです。
この日の東京の最高気温は31・9度。
まだ昼前だったし、海に近い場所なので、そこまでの気温ではなかったと思われますが、一箱目を荷台の端に載せ、一番奥まで押して行く間に、どっと汗が噴き出してきました。
若いころならいざ知らず、ヨッコラショと荷台に上がり、押して行って、ホイショと荷台から下りる。こんな単純な動作だけでも大変です。
全部で十五箱もあるというのに、三箱目ぐらいで、すでに息が上がっています。顔も上半身も汗びっしょりで、額から滴る汗で目を開けていられないほどです。迂闊なことにハンドタオルを忘れていたので、手袋の背で額の汗を拭うのですが、止まりません。
荷台に載せた三箱とまだパレットに残ったままの十二箱を見比べながら、溜め息、また溜め息……。
ようやく積み終わるころには脚はヨロヨロ、身体は水袋を針でつついたみたいに噴き出してくる汗で、ほとんど水浸しの状態でした。
それでも肉体労働の疲労は気分がさっぱりします。猛烈な喉の渇きもあり、空腹感もあったので、まだ十一時半を過ぎたところでしたが、昼飯にしました。
横浜港と同じように、こういうところには食事のできる店がありません。だから、昼時になると、道路端のところどころに弁当屋が店を出します。
近くの平和島温泉へ行けば何かあるだろうと思ったので、行くことにしました。昔は温泉があるだけでしたが、いまはビッグファンという建物ができて、焼き肉屋や回転寿司も入っていました。
腹を空かせていましたが、焼き肉という気分ではないし、寿司という気分でもない。見回すと二階にジョナサンがありました。
またジョナサンかよ、と独り言を呟きながらも、脚は自然にジョナサンを目指しています。
エスカレーターに乗っている間に、ジョナサンなら煮魚のメニューがあったはずだと考えました。
席について、係員がくるより先にドリンクコーナーへ行って、クラッシュアイスを詰め込んだ野菜ジュースをグビリグビリと二杯。やっと生き返った心地になりました。
すると、別に魚でなくともいいや、という気分になって、ハンバーグとシーフードをたこ焼き状にしたものを頼むことにしました。
その日は朝が早かったので、朝食はレンジでチンする日本ハムの和風ハンバーグ弁当を食べていました。そのことを思い出したのはジョナサンを出てからです。
朝&昼と肉料理&肉料理。歳の行った身体なのに、胃もたれもせず、胸焼けもせず。
消化器官も暑さでボケたのでしょうか。たんに歳のせいなのでしょうか。
先週、「桔梗塚」という名の塚が取手市内にあるのを識りました。我が庵から程近いし、桔梗と名がつけられているからには行かねばなるまいと即決。土曜日に行ってきました。
場所がはっきりしなかったので、取手市埋蔵文化財センターに道案内を請うメールを出しておいたところ、本橋さんという方から細かく目印を記載した、非常に懇切丁寧な返信をいただきました。
新松戸から取手は近いのに、交通は不便です。朝夕を除いて直通電車がないので、柏か我孫子で乗り換えなければならないからです。電車に乗っている時間より待つ時間のほうが長くなります。
取手駅で関東鉄道に乗り換えます。
発車を待っている間は気がつきませんでしたが、動き出した途端、ボウボウとイヤに音のうるさい電車だなと思ったら、電車ではなく、ディーゼルカーなのでした。
ディーゼルカーに乗るなんて何年、いや、何十年ぶりだろう。にわかには思い出せないほど遠い昔であることは事実です。ちょっと感動を覚えました。
取手から四つ目の稲戸井駅で下車。
小さな踏切を横切り、国道294号線の横断歩道を渡ったところに、その塚はありました。平將門の愛妾・桔梗御前(桔梗姫、桔梗の前、とも)のお墓です。
將門には七人の影武者がいた、といわれています。
本物と影武者を見分ける方法はただ一つ。本物はこめかみが動く-ということだそうです。こめかみの動かない人はいないので、動き方に大きな特徴があったのでしょうが、いまのところ、どのような動き方をしたのかわかりません。
あるいは影武者といっても、実際は人形で、息をしているのが將門本人だと教えた、という言い伝えもあります。
その見分け方を敵の大将・藤原秀郷に教えてしまったのは桔梗御前でした。
天慶三年(939年)二月十四日、將門は幸嶋(猿島)で秀郷軍と戦い、そのこめかみに矢を受けて討ち死にします。
桔梗塚から500メートルほどのところにある天台宗龍禅寺の三仏堂です。
釈迦、阿弥陀、弥勒の三仏を祀っています。室町時代の建築物で、取手市内では唯一の国指定重要文化財だそうです。
桔梗御前はここに將門の戦勝祈願をして帰る途中、藤原秀郷に殺されたという言い伝えもあり、將門の訃報を知って逃げる途中、この地で捕まって殺されたという言い伝えもあります。
その霊の祟りによって、この地方では桔梗を植えても、花を咲かせることがないといわれているそうです。
桔梗御前の墓と伝えられる桔梗塚は千葉県佐倉市にもあります。
こちらでは桔梗御前が藤原秀郷の間者となって將門を裏切ったという言い伝えもあり、將門の怨霊によって、このあたりでも桔梗の花は咲かないという伝説が伝えられているそうです。
千年以上も前のことですから、どれが本当の話なのかわかりませんし、すべからく明らかにならないほうがいいこともあります。
桔梗塚~三仏堂の間にある窪地にカメラを向けました。
松戸の住人となるまで、私は城といえば名古屋城や大阪城のように、天守があり、水を満々と湛えたお濠が周りを囲んでいる、というイメージしか懐いていませんでした。
ところが、松戸にある安土桃山時代より前に造られた小金城址や根木内城址には水堀はありません。あるのは土を深く掘り下げて敵の侵入を困難にする空堀です。それを識ってから、窪地があると、それが空堀の跡ではないかと思ってしまうようになりました。
されど多分、この窪地はたんなる窪地であって、空堀跡ではないでしょう。
桔梗塚~三仏堂の道は途中まで住宅が並んでいます。目を配りながら歩きましたが、言い伝えが忠実に守られているからなのかどうか、桔梗らしき花を庭に植えている家はありませんでした。
三十分後の列車で取手に戻り、今度は本多作左衛門重次の墓所を訪ねました。丁寧な道案内をもらっていたのにもかかわらず、二度も道を間違えてしまいました。おかげで取手二高の前を通ることになりました。
夏の甲子園優勝という偉業を達成したあと、春夏通じて出場がありません。あれから二十五年が経過しています。
台宿というところにある本多作左右衛門重次の墓所です。。
台宿という地名から推し量って、高台だろうと考えていたのに、途中は谷のようなところを歩かされます。
また道を間違えたか、と訝り始めたところに、急な上り坂が見えてきました。短いのですが、傾斜30度はあろうかと思われる急坂でした。息が切れそうになって上り切ったところを右に曲がった突き当たりに墓所がありました。
本多作左右衛門重次は平將門から遙かに時代を下った安土桃山時代末期の人、徳川家康重臣の一人です。長篠の戦いの陣中から妻に送ったとされる、おそらく日本一著名な手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」 の主です。
秀吉は家康の臣従と上洛を促すべく、生母・大政所を人質として差し出しましたが、家康上洛のおり、大政所の世話役を任されたのが作左右衛門でした。
彼は大政所のいる建物の周辺に薪を大量に積み上げ、家康の身に変事があれば、ただちに大政所を焼き殺す、と秀吉を牽制しました。
あとでこのことを大政所から聞かされた秀吉は非常に立腹して、「重次のような無礼者は家臣の座から放逐してしまえ」と家康に命令。大政所事件以外にも、重次には主君を思うあまり、秀吉にしてみると頭にくるような所行が多かったようです。
家康も重次の所行はいくらなんでもやり過ぎと思ったし、いまのところは秀吉の命に背いても仕方がないと考えたのでしょう。駿河から江戸に移ったあと、重次を上総国古井戸(現在の君津市)に蟄居させました。その後、どういう理由からか、変更された蟄居先が下総国相馬郡井野-この墓所のあるところです。
家康が天下人となるのを見ることなく、秀吉存命中の慶長元年(1596年)七月十六日、六十八歳で死去。
最後に長禅寺を訪ねました。こちらは取手駅東口から至近距離なので、迷うことなく辿り着きました。承平元年(931年)、平將門が祈願寺として創建したと伝えられる臨済宗妙心寺派のお寺です。
その落慶式の日、見物人の中に妙齢の女性がいるのを、將門はすかさず見初めました。それが桔梗御前でした。
長禅寺三世堂です。
將門の守り本尊とされる十一面観音が祀ってありますが、このお堂が建てられたのは宝暦十三年(1763年)ですから、將門とは関係がありません。
外見は二層ですが、内部は三層になっており、往路復路が交わることなく一方通行で巡拝できる、さざえ堂様式という建築様式です。
ただ、拝観できるのは毎年四月十八日の一日限りだそうです。
↓参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56249.html
また横浜行です。
出社後二十五分で勤め先を出て、市川大野駅まで、久しぶりに紫陽花径(あじさいみち)を歩きました。会社を出るやいなや、自称鬱状態から解放されます。
梨園の梨の実。大きさはあまり変わっていませんでしたが、緑色であったのが、梨らしい黄土色に変わっていました。携帯のカメラなので、色づき具合はおろか、梨の実があることさえ定かではありません。
紫陽花も撮影しました。カメラが壊れてから、しばらく通らなかった間に、すでに茶変の始まっている花もありました。
紫陽花径の上にある万葉植物園への階段です。勤め先のすぐ近くにあるというのに、時間の関係で、一度も行くこと能わず、です。
今日も目指すのは山下公園近くのシルクセンターなので、いつもどおり西船橋と秋葉原で乗り換え。コトコトと電車に揺られて、関内に着いたのは十一時十七分。市川大野から一時間半の小旅行です。
横浜スタジアムのある横浜公園を横切って、パタゴニアとジャガーのショールームを横目に見ながら、仕事先に辿り着きました。勤め先を出てからちょうど二時間です。
ところが、ところが……予期もしなかったことが待っていました。
ちょっとした手違いから、書類が用意されていなかったのです。書類がなければ、やってきた甲斐がありません。片道二時間、往復四時間がまったくの無駄足となってしまいました。
こんなことは初めての経験です。怒りとか愕きとか……そういう感情より、何よりも悄然とするのが先で、それがすべてであったような気がします。横浜=厄日、という等式を否定したばかりだったのに、やはり亡霊は生きていたのか?
悄然となっても腹は減るようで、いつものようにジョナサンの喫煙スペースに陣取って、本日のランチ(チキンソテー)を食べました。
前回は一度も見なかったチャリンコタクシー ― 正しくはベロタクシーというそうです ― を今回は何台も見ました。二人乗りで初乗り料金は一人300円。桜木町から山下公園あたりを足場にして、観光案内もしてくれるそうです。
横浜スタジアムの催し物掲示板には、およそ一か月後、七月十七日から対ドラゴンズ3連戦の案内がありました。
このころのドラゴンズの状態はどんなものでしょうか。讀賣ファイナンスとヤクルト金融への過払いを返してもらう道筋をつけて、横浜銀行頼みの状態から脱却できているでしょうか。
過払いの返還を切に祈りながら、私は悄然たる思いのまま、横浜をあとにしたのでした。
アホか、といいたくなるような肌寒い陽気です。
不順な天候がつづくせいか、我がベランダの櫨(ハゼ)の樹には異変が起きて、狂い咲きならぬ、狂い紅葉が始まってしまいました。
去年の今日、やはりベランダに置いてある桔梗の花が咲いたのですが、今年の蕾はまだ小さいままです。
今日十四日は明智光秀公の祥月命日です。
我が庵には仏壇などはありませんので、本箱の一段に、金属製の小さな阿弥陀如来を置いています。滋賀県大津市にある西教寺というお寺の本尊と同じ坐像です。ここには明智光秀公のお墓があります。その前に水と線香をお供えしました。
祥月命日が日曜日というのは十一年ぶりです。毎月十四日の月命日には同じことをしますが(たまに失念することもあります)、勤めのある日は出勤前に簡単に済ませるのが常です。
今日は焼香前に斎戒沐浴―。
といっても、古式に則ったものでもなんでもありません。我流です。早い話がシャワーを浴びながら、いつもより少し念入りに髪と身体を洗い、髭も当たって、「心」はともかく「身」だけは清めたつもりになります。
歴史上は六月十三日に亡くなったとされているのに、なぜ十四日を御命日とするかといえば、江戸時代までは夜が明けるまでは前日、と解釈していたと知ったからです。
山崎の戦いがあったのは確かに十三日でした。
いまの時間でいうと、午後四時ごろに本格的な戦闘が始まり、わずか二時間後の午後六時には大勢は決着を見ました。
このとき、一気に坂本城まで退却してしてしまえばよかったのに、と私は思うのですが、光秀公は手近な勝竜寺城に退却します。肉体より精神的に疲労困憊していたのでしょうか。
三万といわれる猿の軍団がヒタヒタと押し寄せ、城を十重二十重に取り囲みます。蟻の這い出る隙もなかったでしょう。その囲みを突いて抜け出すというのは奇跡のように思えますが、光秀公は抜け出します。
ただ、退却後すぐ抜け出したとは考えられません。この時期の日没は七時前後です。夜陰に乗じて、といいますが、早くても八時ぐらいまでは夜陰に乗ずることはできないでしょう。疲労の極にあったのですから、一睡したかもしれません。
勝利を確信している猿の軍団が、城攻めは明朝早々と決め、祝い酒を呑み始めるのを待ち、実際に呑み始めたのを見きわめる必要もあったでしょう。
浮かれた声が聞こえ、やがて寝静まるのは、どんなに早くても十一時。それから決死行です。
勝竜寺城から光秀公が土民の手にかかったとされる京都醍醐の明智藪まで、馬を飛ばすとしても三十分かかります。
こうして時間を足して行くと、勝手な推測ですが、実際に亡くなったのは十三日ではなく、十四日未明と考えるのが妥当だと思えるのです。
大津坂本の西教寺は信長の叡山焼き討ちで、ほぼ灰燼に帰しました。その復興に力を尽くしたのが坂本城主となった光秀公です。有力な檀越でもありました。
その西教寺では十三日ではなく、今日十四日に「明智光秀公御祥当法要」と呼ぶ法要が行なわれました(はずです)。
西教寺は遙か昔、時節外れに訪れただけです。御祥当法要の日に一度は行かなくては、と思いながら、いまだに果たせないままです。
今日夕方、雷雨がありました。二時間ほど降って上がりましたが、月はありません。
月さびよ明智が妻の咄しせむ-はせを
天気予報が少し外れました。昨日は夕方まで雨、という予報だったので、横浜へ行くことになっていたのを一日延ばすことにしたのです。
ところが、十一時ごろには空が明るくなってきたので、再び予定を変更。当初より三時間遅くなりましたが、横浜へ行くことになりました。
行ったのは大黒埠頭の中にある横浜港流通センターです。貨物の引き取りを伴わない、手続きだけのときは電車で行くことになっています。
京浜東北線の鶴見駅からバスの便がありますが、通勤時を除く日中は一時間に一本しかないという不便なところです。
横浜市交通局のホームページで、あらかじめバスの時刻を調べておきましたが、鶴見駅がどんなところか知らないので、早めに出発したら、三十五分も前に着いてしまいました。
十二時前に会社を出ていたので、昼飯を食っていませんでした。ゆったりと食事を取るほどの時間もなかったので、吉野家の牛丼で済ませました。
バスは出発時の五人を乗せたまま、誰も降りず、誰も乗ってこずに、大黒大橋を渡りました。
この橋を渡ると、大黒埠頭に入ります。交通局のホームページでは目的地まで三十四分という道のりでしたが、この時点で十八分しか経っていませんでした。いくら埠頭が広いからといって、あと十六分もかかるわけがないと思った途端、バスが左折して、わけがわかりました。
「3」の字型に走りながら埠頭内の奥深く入り、また戻って、と循環して行くのです。
目的地に着いたのは時刻表どおりの時間でした。
横浜港流通センターです。
建物は横に長く、長さは500メートルもあります。入居している倉庫会社が何階のどのへんにあるか。ところどころに表示はありますが、初めての者にはわかりにくいところにしかありません。
無用の者がくるところではありませんから、それはそれでいいのかもしれませんが、表示がどこにあるかという表示があると、手間取らなくて済む。
左端の事務所を目指しているのに、右端に行ってしまったら、端から端まで急ぎ足で歩いても五分は要します。
埠頭という広大な敷地の常で、建物はすぐそこに見えているのに、歩いてみると二十分もかかる、ということは不思議でもなんでもないことなのです。
流通センター三階から眺めた横浜港です。
天気がよければ、真正面に房総半島-木更津市、富津市あたりが見えるはずだったのですが……。
戻りのバスがくるのは一時間後です。正確には手続きを終えるまで十分ほど要していますから五十分後。
施設内にはコンビニもあり、波止場食堂という食堂もありますが、昼飯も食ってしまったあとだし、こんなところで一時間も待つのは苦痛です。何分かかるかわかりませんでしたが、便数の多いスカイウォークまで歩くことにしました。
歩き始めたら雲が切れて、強い西日が射し始めました。
道路の両側は物流倉庫が並ぶだけで、ほかには何もありません。こんなところを独りトボトボと歩くのは、あたかも軛(くびき)を背負いて荒野を行く、が如しです。
歩く人などいるとは考えられないのに、充分過ぎるほど広い歩道の半分は草で覆われています。
道路を行き交うのはトレーラーだけ。歩いているのは私だけです。
夏の間だけなら、草叢に死体を放り込んでおいても、誰も気づかないだろうと、ふと思いました。
西日を真正面に受けながら、最後は気息奄々として歩くこと三十分。ようやくスカイウォークの入口・スカイタワーに辿り着きました。
クーラーの効いた喫茶店で憩うべしと思いましたが、そのためには海面から50メートルという高さまで上がって、プロムナードを300メートルも歩き、ラウンジに行かなければなりません。海面上50メートルの高さを歩くのでスカイウォークというのです。
入場料は五百円也。入場料はともかくとして、高所恐怖症の私にとってはとんでもない施設です。
スカイタワー前から見上げた横浜ベイブリッジです。
ジュリーの「Yokohama Bay Blues」。
http://www.youtube.com/watch?v=7qyf_pNYN1s
本当は岡林信康の「軛を背負いて」を添付したかったのですが、You Tubeにはありませんでした。
五月二十七日から六月三日まで、一週間以上ブログの空白をつくってしまいました。
その間、まだカメラは元気で紫陽花日記(5)、同(6)用に紫陽花の写真を撮ってはおりましたが、ブログを書く気にはなりませんでした。
ちょっと落ち込んでいたのです。
私をブルーにさせた原因は「札幌」というキーワードでした。
私は「札幌」という地名に加えて、「死」とか「別れ」というキーワードを目にしたり耳にすると、青春時代の「あること」を想い出して、いまの歳になっても、というか、いまの歳だからこそというべきか、涙腺を緩ませてしまうのです。
一連のキーワードが大学で同じクラスだったS・Tのことを想い出させるからです。
もう四十年も昔のことになるのに……。
キッカケは私が参加しているサイトでした。
私は自分のブログを持っているので、そのサイトに書き込みをするということはあまりなく、人の日記を読んだり、写真を見たりしていましたが、先月の末近く、たまたま読んだ一人の女性の日記に「札幌」「死」「別れ」という言葉が並んでいるのを目にして、自分がどうしようもなくブルーになって行くのを止めることができなくなってしまいました。
北海道で生まれ、「札幌」で長く店をやり、「死んでしまった」カーナビーツのアイ高野やゴールデンカップスのデイブ平尾たちと友達だったという女性の日記でした。
エッセイや小説を書いているというその女性の文章は、叙情的で、細やかで、その文章だけでも私を物思いに沈ませるような魅力がありました。私にとってはそれだけで充分なのに、「札幌」「死」「別れ」という言葉がちりばめられていて、胸を掻きむしりたくなるような気持ちにさせられてしまったのです。
私が大学に入学したのは昭和四十一年。
仏文科という学科で、新入生は男子五人、女子三十九人でした。伝統的に女子の多い学科ですが、まだ若くて友達のようだったフランス語文法の講師によると、「君たちの学年は近来稀なる豊作」ということでした。「豊作」とは言わずもがなですが、女子学生に美人が多いという意味です。
そんな「豊作」の中で、S・Tはあまり目立たない存在でした。私も入学した年の夏休みになるまで、彼女が同じクラスにいることに気づきませんでした。
二年生の秋、私はフランス語劇に主役級で出ることになりました。二年生が劇をやるのは恒例で、例年数少ない男子学生は主役端役大道具小道具を問わず、おのずと全員が参加を余儀なくされ、二人に一人は舞台に出て恥をかくことになっているのです。
S・Tは小道具を担当。私の衣装をつくり、実際の公演では舞台の袖口で私の着替えを手伝ったり、メイクを施したりする係になりました。
夏休み中に一度、秋の公演直前に一度、と劇のための合宿が組まれたので、S・Tと言葉を交わす機会が多くなりました。といっても、二人だけで話をしたという記憶はありません。
学生食堂などで顔を合わせると、他愛もないことを喋ったりしていましたが、いつも周りにはその他大勢がいて、二人だけで話す機会は訪れないままです。私は晩熟(おくて)でありました。
このころ、「エロイーズ」という曲がありました。バリー・ライアンという歌手がポールというお兄さんとのコンビを解消したあと、1968年に発表した曲です。
ヒット曲と呼ぶには程遠かったので、私と同じ世代の人でも知っている人はほとんどいないかもしれません。
確か七分近くもある長い曲(実際は六分弱)でした。内容の大部分はS・Tとは関係がありませんが、当時としては異例ともいうべき曲の長さと、決して上手いとはいえないが、激しくなったり、落ち込んだように静かになったりする曲を一所懸命に歌っている姿勢に、私を強く打つものがありました。
大学近くにあって、よく入り浸っていた喫茶店では、レコードを持って行くとかけてくれました。そこにS・Tを誘ったことはありませんでしたが、いつか誘って一緒に「エロイーズ」を聴こうと夢見ていました。
「決して上手いわけではないが、この歌手の一所懸命さと僕の一所懸命さには通じるものがあるんだよ」
……そんな言葉をS・Tに伝えようと考えていて、密かに私のエロイーズはS・Tだと決めていました。相手の気持ちを訊ねてみることもなく……。
季節はいつだったろうか……。
夏だったような気もするが、曖昧な記憶しかない。
どういうキッカケであったか。前後もまったく記憶がありませんが、突如デートの機会が舞い込んできました。
昭和四十四年、ということだけは確かです。翌年、彼女は卒業を控え、ラグビーとフランス語劇にうつつを抜かしていた私は、学部に進学できるかどうかが決まる二年生後半で留年が決まっていて、卒業は程遠くなっていました。
年が明けてしばらくすると、彼女は大阪へ行くことになっていました。
昭和四十五年の三月十四日から九月十三日まで開かれた大阪万博のコンパニオンになることが決まっていたのです。
まだ「エロイーズ」は一緒に聴く機会がないままです。
デートといえるようなものではありませんでした。時間にすると、三十分ぐらいだったか。
大学から彼女の下宿先まで二人だけで歩くことになったのです。
その年、彼女が四年生の春です、日立系の会社に勤めていた父上が札幌に転勤になって、彼女は「札幌の子」になり、バスで数分のところに下宿していました。
しかし、なんてこったい! オリーブ! と、いまの私ならポパイばりに叫ぶところです。
映画を観るか、喫茶店でも行こうか、と誘えばいいのに、幼稚な私の頭は少しでも時間を長引かせようと、遠回りして送って行くことしか考えなかった……。
挙げ句、通ったところがなんと霊園の中でした。
何かを話して歩きながら、私はせめて手を握らねばこのまま終わりになるかもしれないと考えていました。しかし、手を延ばせないままに、無情にも彼女の下宿が近づき、やがて真ん前に到ったとき、下宿のおばさんが立っていて、にっちもさっちも行かなくなっていました。
電話では何度か話したことはありますが、二人だけになれたのはこれが最初で最後だったと思います。
万博の開催中、はがきのやりとりをしました。「好きだ」とは書けなかった代わり、「エロイーズ」をもう一枚買ってきて、彼女に送りました。
当時のことですから、ドーナツ盤と呼ばれていたシングルレコードです。
考えてみると、大阪で仮住まいをしていた彼女がレコードプレーヤーを持っているはずがない。莫迦なポパイです。はがきには万博が終わって札幌に帰る前、必ず途中下車をするように、とだけ書き添えました。
その年の夏休み、私はダム工事のアルバイトをしていました。夏休みが終わるころ、S・Tに会えるはずでした。
フランス語の翻訳という楽チンでペイもいい仕事もありましたが、身体をこき使い、汗まみれになりたいと思って、あえて肉体労働を選んだのです。
ところが、そろそろ九月の声を聞こうというころになって、私が仮住まいをしていた飯場に、体調を崩してしまったので、真っ直ぐ札幌へ帰る、とだけ書かれたはがきが舞い込みました。
そしてその冬、
死んだ ―
という寝耳に水の報せを受け取ったのです。
彼女の面影を追っているうち、ペギー・マーチが日本語で歌っていた唄を想い出しました。
http://www.youtube.com/watch?v=AETBr6yFm0A
ペギー・マーチではなく、リトル・ペギー・マーチといえば、やはりこの曲。
http://www.youtube.com/watch?v=S3FkWFCRUdk
しかし、私はこの大ヒット曲のあとで、人知れず出ていたリック・ネルソンのバージョン(♂用の歌詞なので“アイ・ウィル・フォロー・ヒム”ではなく、“アイ・ウィル・フォロー・ユー”)のほうが身につまされる想いがするので、好きでした。
http://www.youtube.com/watch?v=vG5OTWlgvc0
最後に今日の本題の「エロイーズ」。
私がS・Tと一緒に聴きたいと思ったころから四十年以上が経過しています。歌い方をデフォルメしてしまっているので、純真な青年の想いというものが消え去ってしまっているように感じられますが、バリー・ライアンも私と同じようにお歳を召しました。
http://www.youtube.com/watch?v=EdcFQgKY-UQ
昨日曜日、流山の東福寺を再訪しました。
約一か月前に訪れた前回は、境内を抜けて死人坂と千仏堂を撮影しようとしたところでカメラの電池が切れたので、再挑戦です。
土曜日までの不順な天候が嘘のような夏晴れです。歩き始めてすぐに汗ぐっしょり。
前と違って、今回は死人坂と千仏堂が目的なので、東福寺門前ではなく、裏の広い道に出ればいいと思って歩き出しました。ところが、何を勘違いしていたのか、渡るべきではない流鉄の踏切を渡ってしまったのでした。
ポクポクと歩くと、東洋学園という大学の正門前に出ました。
道はさほど広くはありませんが、結構車の通行量も多く、乗り合いバスも走っています。てっきりこの道を進めばいいのだと、まだ勘違いしていることに気づかぬ私です。
広々とした交差点に出ると、行く手が上り坂になり、こんもりと樹の繁った丘が見えてきました。そろそろだと思っています。
その交差点を直進せず、左折すれば目的の場所に行けたのですが、それを知るのは庵に帰ってからです。
交差点を過ぎると道は急に狭くなり、右にカーブしながら上って行きます。目指すところは進行方向左のほうにあるはずなので、右にカーブするのはおかしい、と思いながら足を進めて行くと、坂を上り切るあたりで左手の視界が開け、やっと道を間違えていたことに気づきました。JR南流山駅の近くにあるタワーパーキングが左真横に見えたからです。
私が目指していたのは谷のようになったところですから、眺望は利きませんが、仮に望めたとすれば、そのタワーはほぼ正面に見えなければなりません。
あと戻りしようかと思いましたが、もう少し進んで、左に折れる道があれば、そこを曲がろうと考えて、さらに進みました。
やがて彼方にお寺の本堂らしい建物が見えてきました。「本覚寺」という案内があります。ついでだからちょっと拝見させてもらおうと立ち寄りました。
門前に到ると西日が真正面にあります。太陽が樹の陰になるように場所を選び、カメラを構えました。ところが、なんてこったい、オリーブ! です。
シャッターが落ちないのです。
モニタを見ると、赤い×印と何かの説明が出ていましたが、ワープロを始めたころから急激に視力を落とした私の裸眼では読み取れません。なんだろうかと訝りながらシャッターを押しましたが、やはり写せない。
急に暑くなったので、半袖シャツで出ていました。眼鏡を入れる胸ポケットのないシャツだったので、眼鏡を持ってきていませんでした。
カメラは何かの加減で、ちょっと機嫌を損ねたのだろうと思いました。
コンパクトデジカメ走りの時代のオリムパスカメディアという愛機です。単3乾電池二本で駆動し、特徴はシャッターとストロボ発光の連動が非常に遅いこと。
最初のころは「撮った」と思ってカメラを下げますから、写っているのは地面ばかりという失敗を繰り返しました。いまでも時折失敗します。でも、何年も使ってきた愛機です。
強い西日に、散策などどうでもいいような気分になりながら、マンション建設を巡って係争中らしい死人坂に到りました。
土葬のころは棺桶を担いでこの坂を上ったので、「死人坂」という奇妙な名がつけられたそうです。昼間ですからなんとも思いませんが、夜はちょっと気分が落ち著かないかもしれない、と思います。
この坂と坂の上の千仏堂を写真に撮ったら帰ろうと思いながら、機嫌の悪いカメラを向けました。やはりシャッターが落ちない。
私はものすごく憤っています。単に散策に出たのではなく、ここを写すためにわざわざやってきたのですから……。地面に思い切り叩きつけて、死人坂の土くれに加えてやろうか、とまで思っていました。
しかし、愛機です。あまりたいしたところには行っていないけれども、出かけるときは常に私の鞄の中にあって、過ぎ去った時を懐かしむのに欠かせない存在です。
携帯電話を出しました。カメラ機能を重視して買ったものではないので、カメラとして使うことはまずありませんが、苦渋の選択です。
シャープ製です。危惧したとおり画像はシャープではありません。
随分遠回りをして千仏堂に辿り着きました。千仏堂入口にある六地蔵中の五地蔵、それに千仏堂です。トタン葺きの屋根というのが違和感を懐かせますが、このお堂の中に千一体の阿弥陀様が祀られているのだそうです。
撮った画像を確認して首を傾げ、そういえばどうにも使いにくい勤務先のコピー複合機もシャープだったな、と回想しながら、千仏堂から東福寺へ向かいました。
東福寺裏手から死人坂へ到る一直線の道です。
境内はこの日も無人でありました。山門脇に出ていた筍(タケノコ)は誰かの胃の腑に収まったのか、皮だけが取り残されていました。
結構急な東福寺の石段です。前回の訪問ではこの石段を上ってきたのですが、今回は下ります。高所恐怖症の私は右手でシッカと手すりを掴み、決して前を見ず、直下の石段だけを見て下りました。
道を間違えたこともあり、本日の散策の所要時間は二時間十分。
庵に帰ってカメラのマニュアルを見ました。「故障かな-と思う前に」というところを、目を皿のようにして読みましたが、私が直面している状況は記載がありません。
どうやら……
壊れた-ようです。
前回、カメラの電池が切れたと思ったときにはすでに壊れていたのでしょう。
古いカメラなので、修理に出すか、買い換えるか、逡巡しております。修理に出せば、しばらく手許を離れます。買い換えるといっても、すぐには買えません。
よって、ブログはつづけるつもりですが、当分は画像なし、ということになるかもしれません。桔梗庵庵主敬白。
↓今回歩いた場所を示す参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56255.html
晴れたり曇ったりで、相変わらずすっきりしない天候がつづいています。
また横浜へ行きました。今日は貨物を取りに行くのではなく、海運会社の手続きを済ませるためだったので、電車です。
東京から横浜まで、熱海行の電車に乗りました。ちょっとした旅支度をした人たちが大勢いました。湯河原か熱海への温泉旅行でしょうか。
そういう人たちと一緒の電車に揺られて、短時間ではあったけれども小旅行気分を味わい、京浜東北線に乗り換えて関内で下車。
横浜は開港百五十年祭の真っ最中のはずですが、関内駅の前にある市役所の様子は普段と変わりませんでした。
市役所の隣、横浜公園にある横浜スタジアムを撮影しました。
今シーズンはドラゴンズがヨレヨレしながらも、なんとか五割付近をウロウロしていられるのは、ひとえにこのスタジアムを本拠地とするベイスターズのご加護があるおかげです。感謝の気持ちを込めて撮影したつもりです。
目的の海運会社が入っているシルクセンターです。手前が開港記念広場、左手に行くと大桟橋です。
開港百五十年のイベントはここから一駅ぶん離れた、みなとみらい地区が中心だと知ってはいましたが、名前そのままの広場なのですから、何がしかのことはあるのだろうと思っていましたら、何もありませんでした。
山下公園が近いので、平日の昼間にしては観光客らしき人が多いかな、という程度の印象で、とくに変わったところはありません。
チャリンコタクシーが通りかかったら写そうと待ち構えたのですが、待っているときに限ってこないものです。バスに乗っていて、カメラを取り出せずにいるときなどに通ったりします。
いつもシルクセンターで用を済ませた帰りに、覗いてみる書店がなくなっていました。
シルクセンターへくるたびに、ここで昼飯を食ってみようかと思って眺めるスカンディアです。
内勤が多い私にとって、横浜へくるのはちょっとした息抜きにもなりますが、横浜へ行くからといって、勤め先で待っている仕事の量に変わりはありません。
帰る時間を気にしながら、あくせくしながら昼食を取ってもなぁ、と思うと、入ろうとする気持ちはズルズルと萎えて、無難なジョナサンに腰を落ち著けるのが常です。
今日も結局はジョナサン……。
他の店は知りませんが、この店はテーブルが広めなのがいいのです。禁煙条例連発気味の神奈川県にあって、いまのところは喫煙席もたっぷりとスペースが取ってあります。十二時前に入れば、坐る場所は選び放題の状態と空いているのもご馳走です。
どんなに味がよくても、行列に長々と並んだ上、紅雀みたく肩を寄せ合って飯を食う、というのは私の趣味からは遠くかけ離れています。
今日はスープと珈琲、それにハンバーグランチを食べました。最後にクラッシュアイスを目一杯ぶち込んだ野菜ジュースを飲んで店を出ました。
店に入るまで、かなり蒸し暑かったからですが、出てみたら涼しい風が吹いておりました。
電車待ちの時間も含めて、行き帰り約三時間。電車はほとんど坐ることができて、携行していた文庫本一冊を読了できました。
久しぶりに気持ちの佳い日でした。