ツワブキ(石蕗)の花を見に行ってきました。柏にある観音寺という真言宗豊山派の寺院です。およそ半年前の五月二日にも行っていて、このときはボタン(牡丹)を見にきています。我が庵からは6・4キロ。散歩も兼ねて、行きだけ歩いて行きました。所要時間は一時間三十分。半年前の前回も散歩を兼ねて徒歩行でしたが、今回より十分早い一時間二十分で踏破しています。
我が庵がある方角から歩いてくると、この山門の右手にある駐車場から入山してしまうので、気づかず、今回初めて山門に気づきました。
観音堂と扁額。
境内のあちこちでツワブキが花を咲かせていました。
一本だけスクっと立つのはムクロジ(無患子)。
駐車場で十月桜が咲いていました。
前回と同じく、帰りはさすがに歩いて帰ろうという気力はありません。十六分歩いて、東武鉄道の逆井駅へ。
三月の大震災以来、あれも地震が原因なのかもしれぬ、と思い当たることがありました。私が棲んでいる本土寺近くは平賀中台と呼ばれる高さ10メートル前後の高台です。東側を富士川が流れ、北から西にかけて坂川が流れています。
灯台もと暗し。インターネットで自分の棲む地域の地図を見ていたら、幸田湧水近くに「⛩」マークがあり、「子将神」と名がつけられていました。
「子将神」とは何か? Webで検索してみましたが、何一つヒットしませんでした。一度だけ行ったことのある我孫子の子ノ神大黒天と字面が似ていなくもないので、もしかしたらと思いましたが、こちらは文字どおり大黒様を祀るお寺であり、「子」と書いても、読み方は「ね」です。で、すぐ近くでもあり、見るに如くは無しと見に行ってきました。
狭い石段を上り詰めると、小さな鳥居があり、こんな祠がありました。
中を透かし見ると、位牌のような形をした石造物が置かれていて、「子将神」と彫られているのが見えました。なんらかの史跡なら説明板のようなものが建てられていてしくはないのですが、何もありません。つまり、これがなんなのかは皆目わかりません。
富士川3号橋から西方を眺めると、緑色したぼた餅をドテッと置いたような小丘が見えます。子将神塚はこの丘の中、左のほうにあります。
先の丘の右下、道路の面してあるのがこの幸田湧水です。
湧水というからには、どこかに水の湧き出ている場所があるはずですが、じっと眺めていても、水が動く様子はありません。水の湧き出るのが微量であれば、素人目に観察してもわからないのかもしれませんが、たとえ微量であっても、水が湧く以上はどこかに流れなければ、池は溢れてしまうはずですが、流れ出しているような箇所はありません。水中深く湧き出して、水中深いところで地下水となっているのでしょうか。
富士川3号橋で富士川を渡ると、対岸も高台になっています。そこに寶蔵院という無住の寺があります。久しぶりに行ってみました。
三月の大地震で本堂前の燈籠が倒壊、ずっと倒れたまま放置されていました。久しぶりにきてみたら……ちゃんと建っていました。よかった、よかった。
境内のイチョウ(公孫樹)の色づきがかすかながらも始まっていました。
幸田湧水を見に行ってみよう、と思わせたのは、我が庵がある台地下に水が湧き出しているのを見たからでした。右手の覆いかぶさるようになった緑は台地の斜面の林で、斜面の上が平賀中台です。雨の降ったあとは斜面から沁み出した水が道路を濡らします。近くにはあと二か所、湧き水 ― と称するのは少し無理がありますが ― があります。
画像の左50メートルほど隔てたところを富士川が流れています。
異常! というほどの一大変化ではありませんが、明らかに異常です。これまで雨の降ったあとに沁み出していることはありましたが、久しく雨の降っていないあとでも地面が濡れているのです。
松戸市は洪積層の台地と沖積層の低地でできていて、全体の印象としては平坦な土地ですが、烈しいところだと高低差は18~20メートルもあります。その境目は傾斜地が多く。このあたりの高低差は10メートルです。
これは上の画像の左側 ― 小さなグラウンドを挟んで湧き出している水です。一旦地下に吸い込まれた水が再び湧き出したものと思えます。右下を流れているのは富士川。
コンクリートで土留めされたところ。以前はとくに思うことはありませんでしたが、大地震を経験して以来、このコンクリートが崩落することはないのだろうかと、ヒヤリとするものを感じながら見上げるようになりました。
一昨年の暮れ、関西に住む友が贈ってくれた忍者の里・伊賀生まれの石蕗(ツワブキ)です。根づいてくれるかどうか心配でしたが、無事根づいてくれて、蕾も顔を覗かせてくれました。
今月は十三日から四日連続で雨を記録しましたが、四日間ともほんのお湿り程度の雨で、地下水が沁み出てくるような降水量が記録されたとは考えられません。
湯島へ通院した帰りです。コスモス(秋桜)を観ようと柏市のあけぼの山農業公園に行きました。
あけぼの山公園周辺を歩くのは、今年の五月、東海寺薬師堂に薬師詣でにきたとき以来です。
下車すべき常磐線の北小金を通り越して、我孫子駅北口からあけぼの山公園入口行のバスに乗り、三井団地というバス停で降りました。
団地横の野道を歩いて行くと、墓所があり、中に阿弥陀堂がありました。卒塔婆にはキリークという梵字。
グランパンパスが風に戦いでいました。
圓性寺。真言宗豊山派の寺院。創建年代は不詳。
「柏市史」には「布施村字土谷に所在。飛龍山と号し、江戸時代は葛飾郡桐ヶ谷(流山市)西円寺の門徒寺であった。本尊は不動明王」との記述があります。
ところどころに、このような立派な門を持った民家がありました。お寺の本堂かと見まがうほど大きな屋根の家も何軒か。
切り通しを抜けると、遠くに見慣れたオランダ風車とピンクの花畑が見えました。
五月に訪れたときは満開の菜の花とポピーでした。
真言宗豊山派の東海寺は門前で拝礼したのみ。
東海寺の境外地にある薬師堂。今日は薬師詣での日ではないけれど、お賽銭をあげて参拝。
薬師堂から歩いて十一分。浄土宗の南龍寺に参拝して帰ります。元和八年(1622年)の開山。
南龍寺の門前にあった道標。右の細長い道標に彫られているのは「新四國大師道」。左には「右流山?・左江戸道」の文字。
朝露の降りる季節になりました。
散策のとき、二日に一回ぐらいの割合で通る羽中橋の欄干です。下を流れるのは富士川。
羽中橋を渡って、川の右岸を上流に向かって歩く。逆のこともありますが、私のいつもの散策コースです。
羽中橋から歩いて十分ちょっと。一棟のアパートがあり、そこの一室に棲む老嬢が多数の猫を飼っています。
今日は生まれて一か月ほどの仔猫三匹のうちの二匹-三毛と茶虎-が外に出ていました。三匹の成猫に取り囲まれていますが、この中に母猫はいません。
どこかに行ってしまったり、死んでしまったりする猫がいれば、新たな生を受ける猫もおり、いま、老嬢の家で暮らしているのは十一匹、だそうです。
母猫はこの猫です。
ワルそうな目つきをしていますが、ミーといって、以前は飼われていたのに、家出をしてしまったそうなのです。ワルそうな目つきになったのは、世間の荒波をくぐっているからかもしれません。
家出といっても、遠くに去ってしまうことはなく、家出後も付近に出没。老嬢が餌を与えれば食べて、食べ終わるとどこかに姿を隠す。
子どもを産んでからは再び老嬢の家に寄宿しています。父猫は不明。
私に限らず、誰とでも仲良しになるマユ(♂)です。
左だけに眉があるように見えるのでつけられた名です。
マユが完璧な猫背を見せてくれています。
体操の採点でいうと、文句のつけようがないフィニッシュなので10・0。人によっては、尻尾を前脚のほうに丸めていたら、なおよかった、とも。
人なつっこい猫で、初めて会ったときから私の足許に寄ってきて、さかんにマーキングをしていました。十一匹もいる猫の中で、私を認めると「ニャー」と鳴きながら小走りに走ってきてくれるのも、このマユだけです。
私が車止めに腰を下ろすと、尻尾をピンと立てて、私の靴やスラックスの裾にマーキングしながら私の周囲を一周します。ときには二周三周することもありますが、廻り終わると、近くで箱坐りをします。
不思議なのは、坐る場所は必ず私とは背中合わせで、真後ろであるということです。
画像の真ん中-顔を半分だけ覗かせている黒白の猫殿がいます。うさ伎(うさぎ)に似ていますが、うさ伎ではありません。この家の持ち主の苗字から一字をとって、樽吉と名づけました。
昨日は八日。恒例の薬師詣での日でした。
千住曙町にある西光院というお寺を訪ねました。
最寄り駅は京成関屋か東武線の牛田になりますが、京成線で行くとすれば、金町、高砂と二度の乗り換えを強いられるので、ちょっと面倒だし、東武線なら北千住で乗り換えるだけですが、牛田駅はわずか一駅先……。
で、常磐線を北千住で降りてしまって、歩くことにしました。
最寄り駅が異なる線で二駅あることからわかるように、このあたりは京成と東武がもつれ合うようにして走っています。
京成線が高架で走っているので、周囲が塞がれていて見通しが利きません。ともかく京成線の向こう側に出なくては、と思うあまり、曲がるべき道を取り違えて隅田川畔に出てしまいました。
隅田川の堤防のすぐ下は野良猫殿の天国でした。私が目にしただけでも十五匹は下らない数の猫、また猫、猫……。いずれもチャキチャキの江戸っ子猫です。
我が母なる隅田川に架かる千住汐入大橋。南と北の千住を結ぶ橋です。
もとより千住は私には馴染みのある土地とはいえませんが、まったく馴染みのない土地というわけでもない。アレェ? 隅田川にこんな橋があったっけ? と首をかしげたら、五年前にできたばかりの橋でした。
ちょっと回り道をしましたが、北千住駅から二十分とちょっとでお目当ての西光院に着きました。新義真言宗の寺。院号は西光院ですが、寺号は薬師寺。通称牛田薬師と呼ばれています。
創建は徳治二年(1307年)と伝えられていますが、石出帯刀吉深(1615年-89年))の屋敷(隠居所)を寺にしたので、没年の元禄二年以降の創建だろうという説もあり、他にも諸説があって、よくわからないみたいです。
石出帯刀とは江戸時代に代々つづいた牢屋奉行の名ですが、とりわけ著名なのが明暦の大火(振り袖火事)のとき、収監者を救うべく、「切り放ち」を行なった吉深です。境内にはこの吉深以下三代の墓碑があります。
薬師詣でを済ませたあとは近くにある多聞寺を訪ねますが、その後の予定は立てていません。足の向くまま気の向くまま適当に歩いて帰ることにします。
このあたりは「三年B組金八先生」の主舞台でした。この堀切駅も何度も登場しました。
堀切駅を過ぎたところで墨田区に入ります。
茅葺き屋根の多聞寺山門。江戸中期の建築で、墨田区内では最古の建造物だということです。
最初の門は慶安二年(1649年)に建立されましたが、火事で焼失。再建されたのはいつなのか、記録が遺されていませんが、寺の過去帳には、享和三年(1803年)にも火事があって、本堂など四棟が焼けたが、「表門ハ不焼」と記されているので、そのころには再建されていた、ということになります。
多門寺本堂。本尊は多聞天(毘沙門天)です。隅田川七福神の一つ。
創建年代は不詳。天徳年間(957-60年)には隅田川神社(墨田区堤通)付近にあって、隅田寺と称していたそうです。天正年間(1573-91年)に鑁海上人という方が本尊を毘沙門天とし、多聞寺と改称したと伝えられています。
多聞寺境内の六地蔵です。
製作年代はまちまちですが、それほど差はありません。一番古いのは左から三体目で、正徳二年(1712年)、もっとも新しいのは一番左で享保三年(1718年)。
十月の薬師詣では牛田薬師にしようと決めたとき、薬師詣でを終えたあと、多聞寺だけは寄ろうと決めましたが、あとはとくにどこへ行こうとは考えませんでした。季節がもっと早ければ、荒川を渡って堀切菖蒲園へ、という手もありますが、いまの季節は花がありません。
しばし考えたあと、荒川を渡り、八月に訪ねたことのある薬師寺に参って、綾瀬駅へ出ることにしました。
まだ桔梗を咲かせている家がありました。墨田区墨田で。
荒川と荒川に架かる堀切橋です。この橋を渡ると、また足立区です。
小谷野神社。
柳原村から小谷野村が分村した江戸時代中ごろに稲荷社として創建、昭和四十三年に小谷野神社と改号したといいます。祭神は宇釈御霊命(うかのみたまのみこと)。
小菅神社。
明治二年、小菅県が設置された際、庁内に勧請された小菅神社はその後、小菅村の鎮守であった田中稲荷神社の境内に移され合祀、小菅神社となりました。祭神は天照皇大神。
小菅神社から五分ほどで薬師寺に着きました。山門と門前にある庚申塔です。
このお寺に詣でるのは二度目です。足立区教育委員会の掲示があって、創建は寛永九年(1632年)、開山は賢明法師と記されています。
薬師堂。
薬師如来の脇侍である日光月光の両菩薩は「修復中」という建て札がありました。
→この日、歩いたところ。