桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2024年六月の薬師詣で・中野区

2024年06月08日 22時24分38秒 | 薬師詣で

 六月の薬師詣では東京都中野区を歩いてきました。歩いてきました、などというと、まるで長距離をものともせず歩いたかのように思われるかもしれませんが、かつては一万歩はおろか、二万歩でもものともせずに歩いた我が身からすると、情けないほどに歩けなくなっていて、新井薬師前という西武新宿線の駅を起点に、往復一時間足らず歩いたのに過ぎませんでした。
 出発前の腹づもりでは、最初に同じ西武新宿線の少し手前、下落合で降りて薬王院というお寺に参拝し、次に新井薬師前へ行って、今回巡ってきた二つのお寺に参拝する予定を立てていたのですが、西武線に乗る高田馬場へ向かう地下鉄に乗っている間に ― 座席に腰掛けていたのですが ― 今日の腰の具合ではどうもそれほど歩けない、という予感がしてきて、薬王院参拝はいつか別の日に回してしまったのでした。



 というわけで、新井薬師前駅で下車。



 徒歩九分で新井薬師こと梅照院に着きました。



 山門です。



 梅照院本堂。真言宗豊山派の寺院。山号は新井山、寺号は薬師寺。
「新編武蔵風土記稿」には「本尊薬師坐像の石佛にて、長一寸八分(約5・4センチ)、厨子に入。開山を快儀と云。正保三年(1647年)四月五日示寂す。又云天正年中(1573年-92年)行春と云僧開基せしと。其後第六世朝曇を中興とす。此僧の頃より本尊の霊験世にあらはる。子育薬師と称して遠近こぞって歩を運ぶ者多し」と記されています。



 梅照院から新井薬師前駅前を通り過ぎ、駅から八分で東光寺(真言宗豊山派)に着きました。



 山門を入ってすぐ左手には如意寳蔵大龍神を祀る祠があり、石橋の下は祠をぐるりと巡る池になっていて、鯉がたくさん泳いでいましたが、資料が何もなく、現地には説明板もなかったので、如意寳蔵大龍神がいかなる神でおわすのかわかりません。



 東光寺本堂。
「新編武蔵風土記稿」には「本尊薬師の立像長一尺五寸(約45センチ)なるを安ず。開山開基は詳ならず」と記されています。

 梅照院から新井薬師前駅を素通りして東光寺に向かう間、腰の状態がよければ薬王院に寄ろうと考えていましたが、陽射しが夏を思わせるように暑かったことも災いしたのか、東光寺をあとにするころには、寄り道どころか駅に戻るのも危ぶまれるような状態になってしまいました。
 なんとか駅に辿り着いて乗った電車では、腰の痛みを騙すために、高田馬場までの三駅の間でもでき得ることなら坐りたいと願ったのですが、あいにく空席はありませんでした。
 今日は薬師如来の御加護はないのかと思いながら、地下鉄東西線に乗り換えると、幸いにして空席あり。やれやれとひと息ついて大手町まで行き、千代田線に乗り換えるとき、何を思ったのか自分でも不思議なのですが、「→千代田線」という案内に従って進むべきであるのに、エスカレーターを上ったところで「→東西線」という標識を目にして、間違えたと思い、クルリとUターン。東西線のホームに戻ってしまうというチョンボ。
 ところが、そのチョンボが幸いして千代田線のホームに着いたときには、二本に一本の割でしかこない常磐線直通電車に乗ることができ、けっこう混んでいたのにもかかわらず、空席を見つけて坐ることができて、やはり薬師如来のご加護はあったのだと思いを新たにしたのに、またもや「ところが」。

 電車が金町を出るころ、新松戸で信号確認を行なっている関係で、松戸駅でしばらく停車するとの車内アナウンスが流れました。

 結果は、しばらくどころか一時間二十分も待ちぼうけを食わされてしまいました。車内アナウンスは通常どおりに運行している常磐線快速で柏まで行き、これも通常どおり運行している上り電車で折り返してくるよう勧めていましたが、元気なころならいざ知らず、腰痛をこらえている身体だし、慌てる乞食はなんとやらともいうし、と思ってじっと座席に坐ったまま我慢していました。こうして坐り過ぎたおかげで、電車が下車駅の新松戸に着いたときには腰痛と膝のあたりのしびれで、歩くのもやっとというありさまでした。

 せっかく薬師詣でに出かけたのに、薬師如来のご利益をいただくどころか、飛ばしてしまった薬王院の薬師如来のお怒りを買ってしまったのであろう、と反省しながら我が庵に帰り着きました。

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2024年五月の薬師詣で・豊島区

2024年05月12日 22時36分42秒 | 薬師詣で

 五月の薬師詣では、八日の縁日は所用があって行けなかったので、十二日に日延べ。豊島区高田を歩いてきました。



 西日暮里で山手線に乗り換えて大塚駅で下車。

 


 大塚駅前から何年ぶり、いや、何十年ぶりかの都電に乗って六駅。面影橋で降りました。
 二十代前半、東京に出てきた(戻ってきた)ころ、六文銭(及川恒平)の「面影橋から」を聴きながら、神田川に架かる橋のことだとはわかっていながら、全体どんなところだろうと想像を逞しくしていましたが、感受性も想像力も豊かだったそのころから、じつに半世紀という歳を隔てて訪れることになりました。
 独り電停に降り立ってみると、案の定というかなんというか、特段感じることは何もなく、そさくさと道路を渡りました。



 その面影橋で神田川を渡ります。



 高田氷川神社前を通って行きます。
「豊島区教育委員会の掲示」によると、この神社の創建は武蔵国一宮の氷川神社(さいたま市大宮区)を当地に分霊したことに始まるとありました。祭神は、素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で、平安時代の歌人、在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えらています。
 主神が素盞嗚命であることから、俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて、「夫婦の宮」と呼ばれていたということです。



 面影橋の電停から五分で今日最初の目的地・南蔵院に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「開山圓成比丘と云、本尊薬師は聖徳太子の作長三尺(約90センチ)、或云此像は奥州(藤原)秀衡の持佛たりしか、圓成比丘回國のをり夢の告ありて笈にうつして此高田の里に至るに、笈俄に重りて盤石の如し、此地有縁の地なればとて草堂をいとなみ安置すと云」と記されています。



 境内の六地蔵。



 南蔵院から四分で金乗院山門前に着きました。



 金乗院は別名・目白不動とも呼ばれています。
「豊島区教育委員会の掲示」によると、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創、とされており、創建は天正年間(1573年-92年)と考えられています。
 昭和二十年四月の戦災で本堂は焼失しました。現在の本堂は昭和4四十六年に再建され、平成十五年に全面改修されましたものです。
 祀られている不動明王は、かつて関口駒井町(文京区)にあったものですが、昭和二十年五月の戦災によって寺院が焼失したため、金乗院に合併され、本尊の目白不動明王像も移されました。江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白という土地の名は三代将軍・徳川家光の命による、といわれています。

 金乗院に参拝したあとは道を間違えてしまいました。実際は金乗院前の交差点を右折すればよかったのですが、直進してしまいました。宿坂という長い上り坂を上り詰めると目白通りで、その交差点が鬼子母神の表参道入口になっています。ここで初めて道を間違えていることに気づいて引き返したのですが、上りよりは楽だったとはいえ、長い下り坂に、脊柱菅狭窄症で痛めた腰とパーキンソン病でままならぬ脚の運びがもどかしくなってしまいました。



 金乗院前から実際は二~三分で着くところ、十七分も費やしてやっと根生院山門にやってきました。



 根生院は春日局の猶子・榮春法印が開山となり、寛永十二年(1636年)、徳川幕府西の丸祈願所として神田白壁町に建立されました。正保二年(1645年)、下谷長者町へ移転。元禄元年(1688年)、本郷切通坂知足院跡へ移転。明治二十二年(1889年)、上野池端七軒町へ移転、明治三十六年(1903年)、現在地へ移転しました。

 根生院参拝を終えたあとは、やはり薬師如来を祀る護国寺に向かうつもりでしたが、激しくなってきた腰痛が先の宿坂の上り下りですっかり悪化。
 グーグルマップでシミュレーションを試みると、根生院から護国寺まで二十一分! と出たところですっかり行く気をなくし、護国寺から最寄りの都電・東池袋四丁目電停まではさらに十八分、都合約四十分を歩き通さねばならぬと思うと、気力はすっかり削がれてしまいました。よって、
 今月の薬師詣では根生院で打ち止め。面影橋電停へ引き返して帰ることにしました。

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2024年四月の薬師詣で・練馬区

2024年04月08日 19時47分32秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では練馬区の石神井公園近くを歩きました。
 私が初めて所帯を持って住んだのはその石神井公園に近い上石神井というところ。石神井公園にはしょっちゅう行っていて、勝手知ったる我が庭同然……と油断をしていました。
 初めて所帯を持ったのはちょうど半世紀も前のことです。かつては地上にあった石神井公園の駅が高架になっている、ということをテレビで視たのか、知ってはいましたが、実際に降りてみると、様相がまったく変わっていました。高い建物はなく、見晴らしのよかった駅前はビルが建て込んでいて見晴らしが効かない。
 それでも公園がある方角はわかっているつもりで歩き始めましたが、公園から駅の間にはなかったはずの、区役所の分庁舎があり、石神井警察署があったりして、半世紀もの間があるのだから、移転してきたりしても不思議はないと歩いていましたが、スマートフォンの地図を見て間違った道を歩いていたことに気づきました。



 今日、最初に目指すのは道場寺ですが、途中に石神井公園があるので、花見をして行きます。

 

 休み明けの月曜日でしたが、結構な数の花見客がいました。

 

 石神井池に映える桜と池面を飾る花びら。



 道を間違えながらも、石神井公園駅から十六分で道場寺に着きました。いまから七百年以上も前の文中元年(1372年)に創建された曹洞宗のお寺です。
 当時の石神井城主だった豊島景村の養子・輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。



 我が宗派のお寺なので、慣例に従って歴住の墓所を参拝、香華を手向けたいと考えましたが、このような触れ書きがあったので、参拝することは断念。



 三重塔。



 隣に三宝寺(真言宗智山派)があるので、寄って行きます。
 ここは先の道場寺より古く、応永元年(1394年)、鎌倉・大楽寺の大徳権大僧都・幸尊法印が現在地周辺に創建しましたが、文明九年(1477年)、太田道灌によって現在地へ移転、



 三宝寺から十三分の禅定院は照光山無量寺といい、真言宗智山派の寺で、本尊は阿弥陀如来です。豊島八十八箇所霊場第七十番札所でもあります。
「新編武蔵風土記稿」はいまから約六百年前、願行上人によって開かれた寺であると伝えています。文政年間(1818年~30年)の火災で、建物・記録などことごとく焼失しました。



 禅定院から二十一分で、今日二つ目の目的地・観蔵院に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「宝蔵院 新義真言宗。上石神井村三宝寺門徒慈雲山ト号ス。本尊不動」と記されています。元々は三宝寺の塔頭寺院の一つとして建立されたもので、文明九年(1477年)、三宝寺が現在の場所へ移転した折、この地に移ったといわれています。



 今日四月八日は降誕会でもあります。本堂前には花御堂が設けられていました。



 観蔵院境内の桜。



 帰り途、名前につられて寄ってみました。石神井川に架かる、その名も薬師堂橋ですが、周辺に薬師堂を思わせるような建物はなく、掲示もないので、なぜこのような名がつけられたのかは不明です。



 薬師堂橋から眺めた石神井川の桜。



 帰りは石神井公園駅の一つ池袋寄り・練馬高野台駅から。

 この日、歩いたところ。

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2024年三月の薬師詣で・松戸市

2024年03月08日 20時43分25秒 | 薬師詣で

 三日前、今月五日時点での今日八日の天気予報は終日雨か雪。予定では練馬区を歩くつもりだった薬師詣ではどうしようか、と考えていたところ、六日になって、予報は午前中雨か雪に変わり、午後は晴。
 現実にほぼそのとおりになりました。
 行こうと考えていたのは、練馬区の石神井公園近くにある、道場寺と観蔵院という二つの寺。
 当日、天気を窺っていたら、予報どおり雪が雨に変わり、昼前に熄んだのはいいけれど、練馬区は東京二十三区内では一番気温の低いところです。無理を押して出かけ、シャーベット状になった残雪に足をとられてスッテンコロリンでは元も子もないと、まだ雪の消えなかった我が庭を眺めているうちに、午後二時近くになってしまいました。
 遠出は諦めて、かつての地元・慶林寺にお参りすることにしようと庵を出たら、道路は側溝のあたりを除いて、すっかり乾き切っていました。こんなことなら、と舌打ちしても後の祭り。舌打ちなんかした罰が当たったものか、二~三分歩いたところで、お賽銭用の小銭入れを持って出なかったことに気づいていったん戻り、やれやれと思いながら、また二~三分歩いたところで、今度はスイカを忘れていることに気づいてまた戻るという始末。薬師詣でのご利益に預かるどころか、すっかりケチがついてしまいました。



 そんなことで一駅だけ電車に乗って慶林寺に参拝。



 本堂にお賽銭をあげました。



 境内の白梅はそろそろ終わり。



 同じく境内の河津桜のほうは満開です。



 椿は落花盛ん。



 参道中ほどの河津桜。こちらも満開。



 参道入口の河津桜。満開の桜をバックに記念撮影する親子連れがいました。



 すでに落花が始まっていました。

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2024年二月の薬師詣で・杉並区~渋谷区

2024年02月08日 23時38分46秒 | 薬師詣で

 とくに理由はないのですが、ここ数か月の薬師詣では東京二十三区の西部を巡ろうと思います。手始めに杉並区から渋谷区にかけて。



 京王線の下高井戸駅で降りました。



 駅を出て甲州街道を渡るとすぐ曹洞宗龍泉寺の山門が見えたので、参拝して行きます。
 杉並区教育委員会の掲示によると、創建は慶長八年(1603年)、江戸麹町の地であった、
と伝えられています。寛永年中(1624年-43年)に、四ツ谷南寺町(現・新宿区須賀町)に移転、さらに明治四十二年、同地の区画整理にともない、現在地へ移転しました。



 墓所には残雪が多く見られましたが、南北の参拝路は雪が溶け、歴住の墓所はすぐ見つかったので、参拝できました。

 

 龍泉寺から今日最初の目的地・永昌寺はすぐ。
 杉並区教育委員会による境内の掲示によると、開創年代は不明ながら、「続御府内備考」と寺伝によると、寛永元年(1624年)、江戸四ツ谷塩町(現・新宿区愛住町)に建立された、とされています。
 明治四十三年には現在の下高井戸二丁目にあった永泉寺を合併しました。永泉寺には玉石薬師と呼ばれる玉石があり、そのいわれは、この玉石が玉川上水永泉寺附近工事の際に、光沢ある玉石として掘り出され、その光沢の中に薬師像が浮き出たことによるといわれます。
 昭和二十年五月の戦災で、玉石は本堂とともに焼かれて光沢を失ったものの、いまなお大切に安置されている、とのことです。

 この永昌寺も曹洞宗のお寺ですが、墓所の残雪が多く、足を滑らせては元も子もないと考えて、歴住の墓所を訪ねるのは諦めました。



 次に目指す永福寺への道すがら、本応寺があったので、お邪魔しました。浄土宗のお寺ですが、手に入れられる資料が何もないので、詳しいことはわかりません。



 本應寺から八分で曹洞宗永福寺に着きました。
 寺伝によれば、開創は大永二年(1522年)で、永福という地名も、永福町という京王井の頭線の駅名も、この寺名が元となっています。永福寺の名は永禄二年(1559年)に、北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見えるので、開創は寺伝の伝えるころに近いものと思われます。
 中興開基は幕府御馬預役加藤重勝という幕臣で、下高井戸村に拝領地を持ち、当寺を菩提寺としました。



 例によって歴住の墓所に参拝。

 

 永福寺から京王井の頭線のガード、井ノ頭通りの高架下をくぐり、神田川を渡って歩くこと十五分、真言宗室生寺派の龍光寺に着きました。
 開創は承安二年(1172年)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応2年1493年寂)と伝えられています。
 龍光という寺号は、寺のすぐ下を流れる神田川の源・井の頭池にすんでいた巨大な竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴を轟かせ、光を放って昇天したことに由来する、と伝えられています。
 


 本尊が薬師如来像であることを示す、本堂前の石塔です。
 この如来像は立像で、平安時代末期(十二世紀前半)に造立されたものです。江戸時代には難病にご利益のある薬師如来として信仰篤く、護摩の煙が絶えなかった、といわれています。



 龍光寺から明大前駅までは徒歩二十二分。ここから初台まで京王線に乗車します。



 初台駅。



 初台駅から八分で、この日最後の目的地・真言宗室生寺派荘厳寺に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、江戸大塚護国寺末光明山真言院と号す。開山宥悦、天文二年(1533年)五月十五日寂。本尊薬師」と記されています。



 本堂左後ろに薬師堂がありました。



 本尊薬師如来と記された木札。



 荘厳寺は薬師如来より不動明王で有名で、幡ヶ谷不動として知られています。
 先の「新編武蔵風土記稿」には「木佛立像長三尺三寸、智證大師作。縁起に云、智證大師三井寺開基の時、自此不動を彫刻して彼等の本尊とせしか、天慶二年(939年)平貞盛、藤原秀郷等平将門追討の時、秀郷此不動に新誓をこめ、陣中まで守り行て渇仰怠り無く、果して勝利を得たりしかは、凱陣の後下野国小山の郷に安置せり其後遥星霜を経て、永禄年中武田信玄甲州七覚山邉に移して崇敬せしを、北条氏政奪取て、相州筑井縣地勝院に納む、然るに天正十八年(1590年)北条氏没落の後、東照宮代々の武将崇敬ありし像なる事を聞し召れて、多磨郡宅部郡三光院に移し給ひ、延享四年(1747年)九月霊夢の告ありて当寺に安置すと云ふ」と記されています。

この日、歩いたところ(明大前から初台は電車利用)。

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2024年初薬師・熊谷市

2024年01月08日 23時19分03秒 | 薬師詣で

 今年一番の冷え込みとなった今日八日。
 夏であれば、日本で一番暑いといわれる街へ行ってきました。埼玉県の熊谷です。
 出発前、ちょっとしたアクシデントに見舞われました。あまり気乗りのしなかったのに注文してしまった通販商品の配達が、まさに出かけようとしていたときに届いたのです。配達のドライバーを追い返すようにして出かけました。
 脊柱菅狭窄症で腰痛のある身ですが、電車に乗り遅れそうだったので、痛いなどとはいっておられず、駅までチョコマカセカセカと歩いて、ギリギリセーフかと思いきや、追い抜くことのできない狭い上りエスカレーターには悠然と立つ男が一人。頭上ではゴーッという電車が入ってくる音。プラットホームは島式になっていて、そのエスカレーターに乗る人といえば、まさに入ってきた電車に乗る人しかいないはずです。「早くしてくれ~ィ」と叫んでしまいましたが、その男はどこ吹く風という顔で(その時点では顔は見えませんでしたが)動こうとはしません。
 結局、車体が見えるところまでエスカレーターが上った時点で、南無三、すでに閉まったドアが見えました。
 我が最寄り駅である新松戸駅は一階が改札、二階が常磐線のプラットホームで、私が乗る武蔵野線のプラットホームは三階になっているのです。二階にある常磐線に乗るためには改札から奥の方へ行かなければならず、改札を入ると目の前にあるのは武蔵野線用のエスカレーターなので、常磐線の利用客でも、この駅の利用が初めてであったり、注意力散漫なスットコドッコイは目の前のエスカレーターに乗ってしまうかもしれません。駅を利用するのが初めてでもあり、スットコドッコイでもあったその男は武蔵野線ののプラットホームをキョロキョロしながら歩き、常磐線へ下る通路へ姿を消して行きました。
 私としては一歩遅れた我が身を責めながら、十分後にくる次の電車を待つしかありません。

 この日の最初の目的地である東光寺というお寺までは、事前のシミュレーションでは熊谷駅から徒歩約三十分。他に交通手段がなければ歩くしかありませんが、バスがあったのです。ただし、バス便は一時間に一本。
 武蔵野線で南浦和まで行き、浦和か大宮で高崎線に乗り換えるという行程ですから、乗るべき電車を逃したら、目的のバスに乗るのは絶望です。

 新年早々厄日となってしまった、と深々と腰を沈めた電車の中で首項垂れながら、どこか行き先を変更しようか、とも考えました。今後薬師詣でを予定しているところはいくつもありますが、データはすべて庵にあるPCの中です。扱いにくいスマートフォンとは同期させていないので、電車の中で考えを巡らせても意味はない。やはり熊谷へ行くしかありません。

  ― ということで、蹌踉として熊谷に着いたのですが、まだ薬師詣でを開始していなかったのにもかかわらず、お薬師さんのご加護か、ということがありました。

 一電車遅れで、最初の乗換駅・南浦和に着きました。ここで、やはり一電車遅れの大宮行に乗り換えました。このまま大宮まで行くか、浦和で降りるかと逡巡したのち、浦和で降りることにしました。
 高崎線と宇都宮線のプラットホームに上がると、次の高崎行は十六分もあとの十二時四十六分。やれやれと吐息をついて、ふと目を上げると、一段高いところに別のプラットホームがあります。う~む、新幹線かぁ、と思ったあと、浦和に新幹線のホームがあるわけはない! と気づきました。
 よ~く目を凝らしてみると、湘南新宿ライン(大宮・高崎・宇都宮方面)という表記が見え、次の電車は私が乗るしかないと思っていた電車より二分早い十二時四十四分発で、しかも特別快速、というアナウンスが聞こえたのです。エッチラオッチラ階段を下り、エッチラオッチラ階段を上ったことはいうまでもありません。

 結論を記すと、この電車があったおかげで、熊谷到着は事前に立てた計画より五分遅れただけ。ギリギリではありましたが、一時間に一本しかなかったバスに無事乗ることができたのです。



 新松戸から所要約一時間半で着いた熊谷駅ですが、行きはあたふたとバスに乗ったので、こんな画像を撮影している余裕はありません。帰りに撮した画像です。



 国際十王バスに乗車六分、向諏訪(むかいすわ)というバス停で降りました。



 バスを降りて歩き出すと、こんな砂利道に出たので、この先どうなることやらと戦々恐々で歩いて行きます。



 バスを降りて五分で、この日最初の目的地・医王山瑠璃院東光寺に着きました。曹洞宗のお寺です。


 創建は寛永七年(1630年)。萬矢大拶大和尚(寛永十七年:1640年寂)によって開山。「新編武蔵風土記稿」には「佛師春日が作れる薬師を安ず」と記されています。

 

 次の源宗寺を目指して歩き始めると、大きな山門と堂宇が目に入ったので寄ってみたら、真言宗智山派の一乗院でした。東光寺から十分。



 ただただだだっ広い道路がありました。歩道が異様に広かったので、安心して歩くことができましたが、交通量はさほどないので、車は随分スピードを出していました。



 一乗院から十三分で源宗寺に着きました。ここも曹洞宗のお寺です。
「新編武蔵風土記稿」には「開山源宗、寂年を傳へず。開基を藤井雅楽助と云。法名正山善心寛永七年(1630年)六月三日卒す。この人のことは外にきくことなし。山号寺号は開山開基名を用ひしことしらる。本尊薬師・観音の二像を安ず。共に開山源宗の作なりと云」と記されています。



 本尊の薬師如来と観音菩薩の二体は「平戸の大ぼとけ」と呼ばれています。境内にあった説明板には高さはともに4・03メートルの木彫坐像。江戸時代の寛文二年(1662年)に造られたもの、と記されています。


 



 源宗寺から超願寺までは七分。真言宗智山派の寺。ここはお薬師さんとは関係がありません。途中だったので寄らせてもらいました。
「新編武蔵風土記稿」には「真言宗新義、横見郡御所村息障院の末、平戸山多寶院と号す。本尊弥陀は恵心の作なり」と記されています。
 境内にある石碑には次にような記述。「
當寺は慶長年間法印秀典を以て主祖とし寛永四年宥弘堂宇を再建延宝四季祐弁本尊阿弥陀佛を修繕す。この二人を目して中興の主祖となす。その后宥照の世をすぎ文化文政の間久しく無住天保年間祐明法印は入住龍岳之をつぎしもその后又無住となる。よって隣寺太井山福聚院の兼帯する所となる(以下略)」

 境内にはこんな像が。



 この日、最後に詣でる金錫寺の手前で元荒川の支流・忍川(おしかわ)を渡ります。



 超願寺から十二分で真言宗智山派の金錫寺。
 創建年代は不詳とされています。「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、上ノ村一乗院末なり。薬師山東福院と号す。本尊薬師を安ず」と記されています。



 ここにもこんな像が。

 この日、薬師詣でで訪れた東光寺、源宗寺、金錫寺の三か寺にはいずれも賽銭箱がありませんでしたので、お賽銭は一円も使用せずに終わってしまいました。せっかくご加護を下さったお薬師さんには申し訳のない思いです。それとも、後日、大きなどんでん返しが待ち構えているのかもしれません。

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2023年終い薬師・さいたま市岩槻区

2023年12月08日 22時10分20秒 | 薬師詣で

 今年も最後の薬師詣で・終い薬師の日がきました。今月訪ねたのは、さいたま市岩槻区です。



 新松戸~南越谷(新越谷)~春日部と乗り換えておよそ一時間、東武野田線の岩槻駅に着きました。



 名にし負う人形の街・岩槻です。早くも雛飾りが……。



 最初に芳林寺(曹洞宗)を訪ねました。岩槻駅から八分。
 十一年前の十一月、岩槻の街を歩いたとき、最後に訪れたのがこのお寺です。訪れた時刻はすでに日没後だったので、今日の機会に再度参拝しようと思いました。



 山門を入ると、右前方に馬に跨った太田道灌像が見えます。



 前回参拝時はほとんど真っ暗だったので、こんな道標があったことには気づきませんでした。

 創建年代は不明ですが、覚翁文等(1595年示寂)によって開山されたことから、戦国時代の創建と推測されています。元々は武蔵国比企郡松山町(現・東松山市)にあって「地蔵寺」と称していましたが、太田道灌(資長)の孫・資高が母・芳林院の追善供養のため、現在地に移転させ、名を「芳林寺」と改めました。



 太田道灌の墓所。芳林院と岩槻太田家の氏資が合祀されています。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝します。



 芳林寺から十二分歩いて彌勒密寺に着きました。



 彌勒密寺本堂。



 薬師堂。



 次に参拝する玉泉院は同じ岩槻区内とはいえ、随分離れています。バス停を捜して歩いていたら、千手院の前を通りかかりました。ここも十一年前に参拝しています。
 曹洞宗のお寺です。バスの時間が迫ってきたので、歴住の墓所への参拝は割愛。



 さいたま市というところは自転車に対する姿勢がしっかりしています。逆走防止の看板やこのような区分表示は松戸市内では見かけません。



 東町二丁目から国際興業バスに乗ります。



 乗車三十分、ウィングシティ南というバス停で降りました。



 越谷街道を東進。畷(なわて)橋で綾瀬川を渡って行きます。



 途中にこんなのがあってびっくりしましたが、建築装飾の会社でした。



 バスを降りて歩くこと二十四分。玉泉寺に着きました。創建年代は不詳ですが、開山の玉泉心泰大和尚の没年が慶長二年(1597年)であることから安土桃山時代の創建となります。我が曹洞宗のお寺で、本尊は薬師如来です。



 ここでも歴住の墓所に参拝します。手前の大きな卵塔は十二世中興・雲渓泰岳大和尚のもの。



 玉泉寺から歩いて四十分、帰りは武蔵野線の東川口駅から。
この日、歩いたところ

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2023年十一月の薬師詣で・調布市

2023年11月12日 21時49分37秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣で。
 八日の縁日は所用があったので、今日十二日の縁日に日延べ。東京・調布市を歩いてきました。
 十一月十二日というと、二年前、火事に遭った日でもあります。歳を重ねて、月日の経つのは滅法早くなったと感じられるのに、この火事に関しては、まだ二年か、という思いがあります。そんなことを思いながら電車の人となります。

 常磐緩行線直通の東京メトロ千代田線で新御茶ノ水まで行き、小川町で京王線直通の都営地下鉄新宿線に乗り換えました。
 東京都民であったころから京王線というのはあまり乗ったことがありません。地下を走っていた線路が幡ヶ谷で地上に出ますが、高架になったり地上になったり、また地下になったりと忙しい。



 新松戸から所要九十分、調布の一つ前・布田駅で降りました。この布田駅は地下駅です。

 今日、最初に訪れるのは常性寺です。布田駅を出るとすぐ。



 門前を走るのは旧甲州街道。
 真言宗豊山派の寺院。創建年代は不詳ですが、鎌倉時代、多摩川沿いに創建されと伝えられています。慶長年間に現在地に移転、祐仙法印が成田山新勝寺から成田不動尊を勧請して中興。調布不動尊と称されています。



 奥まったところに本堂があって、金色の薬師如来がお祀りされていました。
「調布市百年史」には、「薬師堂。方三間赤塗り、堂内正面の壇上に古色豊かな厨子が安置されている。この堂は由緒あるもので、その建立は文化(1804年-18年)のころ、一名虎薬師とも呼ばれて秘仏とされていた。高さ一尺一寸の木彫の像があり、鎌倉時代の作と推定されている」と記されているので、昔は別に薬師堂があったようです。



 地蔵堂。



 常性寺から二十四分で次の祇園寺に着きました。
 天台宗の寺院。深大寺を開創した満功上人が天平勝宝二年(750年)に創建したと伝えられています。関東九十一薬師霊場十番。



 山門を入ると、すぐ左に薬師堂がありました。



「新編武蔵風土記稿」には、「薬師堂。三間に三間半、客殿の東にあり、虎柏山(祇園寺の山号)の三字を扁す立身の木像、長一尺許、行基の作と云、并せて日光月光立身の木像あり、長一尺許、同作、又曇花大師の木像あり、いかにも古色なり、薬師の胎内に弘法真跡の心経一巻を蔵む、前立薬師佛立身の木像長一尺七八寸、是は恵心の作といふ、往古はこれより巽の方、冷田耕地の内虎ヵ鳩といふ所にありしを、後にこの地へ移せりとぞ」と記されています。
 格子の扉の奥に薬師如来がお祀りされているのが見えましたが、暗くてよくわかりませんでした。



 薬師堂に相対して閻魔堂がありました。



 最後の清教寺(天台宗)に向かう途中、しばらく野川の河畔を歩きました。桜の枝が傘のように覆い被さって、春はさぞ賑わうだろうと思えますが、いま、歩いているのは私だけでした。



 帰りの電車に乗る予定の京王線柴崎駅近くで、この墓所を見つけました。周りを見回してみましたが、寺の伽藍らしきものが見えません。周辺を歩き回ってみましたが、やはり寺らしきものはありませんでした。墓所に入ると、スマートフォンのグーグルマップは私がまさに清教寺に到着していることを示しています。



 さほど広くない墓域を巡ると、一番奥に歴住の卵塔がありました。この墓所が境外地だとすると、歴住の卵塔を置くはずはないので、ここが清教寺だと知れます。ただ、「清教寺」と彫られた石柱の画像を見たことがあるのに、ここにはそのようなものはないので、ちょっと狐につままれたような感じが残っています。

「新編武蔵風土記稿」には「開山開基詳かならず。本尊弥陀」と記されていますが、「調布市百年史」には本尊は薬師如来と記され、「本寺薬師仏は秘仏とされ、行基作と伝えられるが俗にかわらけ薬師と呼ばれ、乳の足りない者が土器を供え、祈願すれば乳がでるようになるといわれ、信仰を得ていた」とつづいています。



 帰りは行きに降りた布田のふたつ新宿寄り・柴崎駅から。この駅は地上駅でした。

 薬師詣での日はやはり佳きことがあります。
 庵を出るときは小雨でしたが、調布に着いたときには熄んでいました。天気がよくなかったこともあったのでしょうか、電車は空いていて、行きも帰りも全線座席に坐ることができました。すべて待つことなくきました。ことに帰りの千代田線は二分の一の確率でしかこない常磐線直通の電車に待つことなく乗ることができました。

この日、歩いたところ。

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2023年十月の薬師詣で・さいたま市桜区

2023年10月08日 21時24分53秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では、先月につづいてさいたま市の桜区を歩いてきました。

 

 京浜東北線
北浦和で下車。西武バスに乗ります。
 このバスの終点は大久保ですが、時間によっては浦和北高まで行く便があります。

 先月の薬師詣で ―。
 帰るとき、バスに乗った(系統は違いますが)のが浦和北高でした。
 埼玉県の天然記念物・薬師堂のマキがあることで有名な塚本薬師堂を訪ねて、すぐ近くまで行きながら、それまであまりにも歩き過ぎていたために、腰痛に見舞われてしまいました。捜すのを諦めて、帰途に就こうと戻ったところが浦和北高バス停だったのです。
 北浦和まで電車に乗ると決めたとき、そこまで行って、もう一度塚本薬師堂を捜してみようかと、ふと考えたのでした。
 ただし、浦和北高バス停と塚本薬師堂間は往復約3キロ、時間にすると四十分。一昔前ならともかく、いまの私にとっては、なるほど四十分ですか、などと気安くいえるような距離ではありません。

 この薬師堂が有名なのは、天然記念物のマキがあるからではなく、むろん薬師堂でもなく、幽霊が出るらしいという心霊スポットであるからなのだそうです。
 何人かがブログに取り上げていて ― さすがに幽霊が写った画像の紹介はありませんが ― そのうちのいくつかには入口に当たるらしきところに「薬師堂のマキ」という立て看板があるのが写っています。
 と、いうことなら、グーグルのストリートビューを見れば、入口がどんな様子なのかわかるはず ― そう思って、グーグルマップを開いてみましたが、荒川堤防を下るところから進んで、薬師堂の真横にきているはずなのに、立て看板はない。
 先月途中で案内を乞うた人も「作業小屋のような小屋があって、看板がある」と教えてくれたのですが、何度か行き帰りを繰り返してみても、看板はない!
 昨日もストリートビューを開いて挑戦してみたのですが、やはり看板は見当たらない。

 このような経緯があったので、行くのは諦めるか ― なかばそう思いながら電車に乗っていたのですが、乗っていた武蔵野線は新三郷の駅で六分も発車待ち。さらに南越谷でも四分延発。
 車掌は後続の電車が遅れているので、時間調整のため……とアナウンスするだけで、なぜ遅れているのか理由をいわない。まあ、理由を聞かされたところで仕方がないのではありますが。
 電車が時刻どおりであれば、一本前の浦和北高行のバスに乗れたのですが、次に浦和北高まで行くバスは一時間後。とても待てません。やはり諦めるしかないようです。
 私にとっては別の意味での心霊スポットなのかもしれません。



 北浦和駅から乗車二十四分。終点の二つ前・片町バス停で降りました。

 

 バス停から程近いところに今日最初の目的地・大久保領家薬師堂がありました。
 しかし、上の画像にあるように、立派な石碑が建立されているのに、自治会館らしき建物があるだけで、肝心の御堂が見当たりません。しかも、入口にはチェーンが張られていて、入れません。グルリと廻って自治会館の横から入って境内を見渡してみましたが、墓所があるだけで、御堂はありません。
 石碑をよくよく見てみると、標題は「薬師如来由来」とあって、「薬師堂由来」ではありません。踵を返して自治会館を眺めてみれば、縁台に賽銭箱が置かれてありました。雨戸が立てられてあって、中を窺うことはできませんが、きっとこの奥に薬師如来が祀られているのであろう。そう考えてお賽銭を投じました。
 先の石碑には、明治五年の廃仏毀釈令によって廃寺になるまで薬王山光明院満願寺という寺があり、本尊の薬師如来は行基の作、と記されています。



 自治会館後ろにあるヒイラギ(柊)の樹。さいたま市指定の天然記念物で、高さ9メートル、幹周り1・72メートル。説明板には「十月にキンモクセイよりも穏やかな香りがする白い小花を咲かせ」とありましたが、見たところ花らしきものは何もありませんでした。

 次に目指すのは重圓寺です。

 

 途中、通りがかった道路には街路樹にハナミズキ(花水木)が植えられていて、真っ赤な実が熟していました。



 大久保領家薬師堂から重圓寺までは徒歩二十七分。途中で左に折れるべきところを右に折れ、しばらく気付かぬまま歩いてしまったので、事前のシミュレーションより十分も多くかかってしまいました。



 重圓寺は無住でしたが、真言宗智山派の寺。「
新編武蔵風土記稿」には「新義眞言宗、與野(与野)町圓乗院の末、薬王山と號す、本尊薬師を安じ、傍に運慶が作れる如意輪観音を安ず」とあります。
 文中にある圓乗寺は2010年の十一月五日、与野へオオカヤ(大榧)を見に行ったついでに参拝しています(与野の大榧を見に行)。

 最後に訪ねるのは上ノ宮薬師堂です。今回はすべて北から南へ下る行程でした。
 昔はプリントした地図を持ち歩いていましたが、スマートフォンを持つようになってからは地図アプリが頼り。北から南に向かうときはスマートフォンの上下をひっくり返さなければなりません。文字が見づらくなるのと面倒臭いのとで、つい頭の中だけでひっくり返していると、右と左を間違えてしまいます。それに歩きつづけていると、当然のことながら疲れも発生。足腰だけではなく、脳も疲れるとみえて、逆方向に曲がってしまったことにはすぐに気づかず、無駄足を踏むということになります。それも一度のみならず、二度も三度も……。



 この薬師堂に到着する前も右に曲がるべきところを左に曲がる始末。必要以上に疲れて辿り着きました。

 

 上ノ宮薬師堂の創建年代等は不詳。「新編武蔵風土記稿」には「醫王寺(真言宗智山派)の持」と記されているだけで、詳細はよくわかりません。
 さいたま市を中心として十三ある関東東向寅薬師の第三番で、この薬師堂を最後に十三すべて参拝済ということになりました。



 帰りは埼京線の中浦和駅に出ることにしました。上ノ宮薬師堂からは十分足らずのところですが、この行程も北から南に向かう形になるので、ここでも右折と左折を取り違え。
 しかし、随分長く歩いた割に腰痛は出ず、それほどの疲労にも見舞われませんでした。
 出だしは電車の遅れに祟られた上、幾度も方角を間違えるというミスを犯しながら、ヘトヘトにならずにお勤めを終えられたというのは、やはり薬師如来のご加護があったからなのかもしれません。

この日、歩いたところ(大久保領家薬師堂から中浦和駅まで)。

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2023年九月の薬師詣で(2)・さいたま市西区~桜区

2023年09月12日 21時22分53秒 | 薬師詣で

 今月八日、薬師如来の縁日は台風13号襲来で終日雨。出かけるのは今日十二日の縁日に日延べ。
 今月と来月の薬師詣では二回に分けて、さいたま市の西区から桜区を歩きます。

 


 京浜東北線を大宮で下車。西口から西武バスに乗ります。



 乗車二十四分。加茂川団地入口というバス停で降りて、歩くこと十三分。今日最初の目的地・東光院に着きました。



 山門を入った左手には、祠内に永禄十三年(1570年)の銘を刻んだ二基の五輪塔がありました。



 東光院本堂。「新編武蔵風土記稿」には「本尊は薬師恵心の作といふ」と記されています。



 我が曹洞宗の寺院なので、本堂に参拝したあとは歴住の墓所に焼香、参拝。



 傍らにあった歴代和尚供養碑を見ると、第一世は室町時代の僧・月江正文大和尚(?-1462年)と彫られています。埼玉県越生にある静穏寺の二世で、十一年前七月の薬師詣での折に参拝した普門院の開山でもあります。
 創建年代等は不詳とされているこの東光院ですが、開山が月江正文大和尚ということであれば、創建は十五世紀なかごろということになります。
 大和尚の人となりなど何も知りませんが、懐かしい人に出会ったような気持ちになりました。

 参道に掲げられた説明板には、「山門前から荒川まで続く風に波打つ緑一面の水田が見渡せます」と記されています。現在はさすがにそんなことはありませんが、それでも広い田んぼが広がっていました。
 この日の天候は晴れたり曇ったり。日陰がないので、太陽が出ると、暑い! 暑い!



 事前のシミュレーションでは二十二分のはずでしたが、東光院から三十分以上歩いて東福寺に着きました。
 なぜ時間がオーバーしたかというと、スマートフォンのグーグルマップでは真ん前に着いているはずなのに、寺院らしき伽藍が見当たらない。アテもなくグルグル彷徨った挙げ句、交番が見えたので訊ねることに。
 寺とはいっても、いまでは付近の自治会館の敷地に御堂がポツンとあるだけ。しかも入口は別の方角。交番からは二、三分という距離なのに、ここに寺があるとは警察官も地図を見るまで知らなかったようです。



 真言宗智山派の寺院。「新編武蔵風土記稿」には「瑠璃山と號す、新義眞言宗、植田谷本村林光寺末、本尊薬師を安ず」と記されているだけで、創建年代等は不詳です。



 東福寺があったのはこの自治会館の傍らでした。

 東福寺参拝を終え、最後に目指
したのは「薬師堂のマキ」として、薬師堂ではなく樹木の「槇(マキ)」のほうが有名な塚本薬師堂です。
 この日のさいたま市の最高気温は33・4度。ひところの猛暑のときに比べれば、暑さは穏やかになっているのかもしれませんが、雲が切れると、強い陽射しが照りつけます。一度涼しい気候を経験してしまっているので、身体のほうは暑さにはからきし弱くなっています。
 荒川の土手に上がれば多少は涼しいかと思いましたが、無風状態でした。ちょうど一年前、脊柱菅狭窄症を発症したあと、腰痛に見舞われるようになっていたので、それまでなんとか歩いてきたものの、腰の具合は最悪に近い状態になってきました。
 そして……。堤防を上り下りした挙げ句、ここでもグーグルマップでは薬師堂の真横近くにきているはずなのに、入って行けそうな径がない! 一刹那でも腰を下ろして休まなければ、とても歩くことはできない、という状態まで追い込まれていたので、農業用のポンプ小屋らしき建物の陰で休憩。ゼエゼエと息をつきながら、今日の日はここで諦めることにしました。



 堤防を下り切ったところ、行くときには気づかなかった、こんな標識があるのに気づきました。



 帰りは浦和北高校バス停に出て、国際興業バスに乗ります。車内の空調の涼しさに、まさに生き返ったような心地を味わいました。



 バスは浦和駅西口行。京浜東北線に乗って帰途に就きました。

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2023年九月の薬師詣で(1)

2023年09月08日 15時39分25秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣ではさいたま市を歩くつもりでいましたが、折悪しく台風13号の襲来で終日雨。ときおり雨脚の弱まることはありましたが、いつザッとくるかわからない、という状態では、酔狂な私でもさすがに出かけるのは二の足を踏んでしまいます。
 で、今月の薬師詣では十二日の縁日まで日延べすることにして、今日は数日前に手に入れておいた薬師三尊に水のお供えをして焼香することでおしまいにしました。



 十二日は天気もよさそうです。

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2023年八月の薬師詣で(2)・三郷市

2023年08月12日 20時35分30秒 | 薬師詣で

 今日十二日も薬師如来縁日です。
 普段なら八日に薬師詣でを済ませていたら、どこにも出かけないのですが、今月八日の薬師詣では猛暑に祟られ、已む無く計画を中断してしまったので、当初行くつもりだった残りの行程を歩き直すことにしました。

 

 南流山でつくばエクスプレスに乗り換え。一駅だけ乗って三郷中央駅で降りました。



 待ち構えていたのは埼玉観光バスのマイクロバスでした。ICカードはスイカもパスモも使えず、イオングループのワオンカードだけが使えるという妙なバスでした。



 バスの中はこんな感じ。



 乗車時間わずか七分、花和田児童公園前というバス停で下車。



 今日もこんな空。八日に負けず劣らずの猛暑でしたが、バスを利用できたので、この時点ではまだ汗に塗れずに済んでいます。



 彦成通りと名前はついていますが、こんな通りで、店もほとんどありません。



 バスを降りてから七分で密乗院に着きました。



 折角の説明板は風雨に晒されてしまってまったく読むことはできません。戦国時代の武将・石川数正(1533年-93年?)の家臣・下館祐胤(すけつぐ)という人物が数正の菩提を弔うため、慶長七年(1602年)に創建。みずから出家して第一世の住職になったと伝えられています。
 本尊は二尺八寸(約93センチ)の不動明王立像。元三大師・良源が二十七歳のときに彫ったものです。

 

 開帳はありませんでしたが、御堂は扉が開け放たれていて、厨子を見ることができました。この薬師如来については資料がないので、いまのところは由来がわかりません。



 密乗院から徒歩三分のところに密乗院上寺があるので、行ってみましたが、集会所のような建物と墓地があるだけでした。



 墓所に覆い被さるように走るのは首都高速6号線です。



 帰りは行きに降りた花和田児童公園より一つ先の彦江一丁目から同じバスで。

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2023年八月の薬師詣で・八潮市

2023年08月08日 17時41分25秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では埼玉県の八潮市を歩きました。
 正午までボランティア活動があったので、できるだけ近場を、と思い、八潮の福蔵院と三郷の密乗院に参拝しようと決めました。

 

 松戸駅まで行き、八潮駅南口へ行く京成バスに乗ります。

 乗車三十分、潮止橋南というバス停で降りました。
 時刻表どおりなら十分前に着いているはずだったのですが、松戸駅から江戸川を渡る葛飾大橋まで渋滞があって、実際の空は積乱雲モクモクの猛暑であったのに、行程のほうは出発早々暗雲が立ち込めてしまいました。

 

 バス停の前には手前に大瀬氷川神社(画像上)、隣に大瀬浅間神社。普段、神社にはあまり参拝しないのですが、今日は訪ねるところも尠ないので寄って行きます。



 バス停から六分で最初の目的地・福蔵院に着きました。十八年前、2015年二月八日の薬師詣でで参拝して以来二度目の参拝になります。
 真言宗豊山派の寺院。「八潮市史」によると、開創は慶安三年(1650年)。本尊は高さ三尺余の阿弥陀如来立像。 



 何故に再度参拝することになったのか、というと……。
 本堂の手前にある、この弘法大師像と御堂(薬師堂)です。
 つらつら考えてみれば、外に大師像が建立されているのに、後ろの御堂が大師堂であるわけはないのですが、初めてきたときは、「あ、大師堂。じゃあ、お薬師さんは本堂に祀られているんだ」 ― そう思ってしまったのです。
 弘法大師には特別な思い入れを持たぬ私は、真言宗の寺院を訪れても、大師堂に参拝する習慣がありません。で、本堂に参拝する行きも帰りも肝心の薬師堂は通過。
 あとになって、通り過ぎてしまったこの御堂が薬師堂であったと知って、いつか近いうちに、是非……と、いささかオーバーに表現すれば、心の休まる暇がなかったのです。

 ということで、今回。出発が遅くなるので、できるだけ近場のお薬師さんを、と考えたときに、真っ先に思い浮かべたのがこの福蔵院であったという次第です。



 道を挟んで、福蔵院の前には古新田稲荷神社。ここにもお参り。

  

 福蔵院の前を通る道(古新田通り)には開いているのか閉まっているのかわからないような店がポツンポツンと……。古い佇まいの店ばかりですが、かつては賑わっていた商店街だったのかもしれないと思わせます。

 

 つくばエクスプレスの八潮駅へ向かうため、潮止橋で中川を渡ります。歩道部分はそこそこ広く、川面までの高さもそれほどないので、高所恐怖症持ちの私にも抵抗なく渡ることができます。



 福蔵院から八潮駅まではときおり陽が翳ることはあっても、この雲に加えて猛暑でした。
 事前の計画では、八潮から三郷中央までひと駅だけつくばエクスプレスに乗り、密乗院という真言宗豊山派の寺院に参拝に行くつもりでしたが、三郷中央駅から密乗院までは徒歩で三十分もかかります。

 出だしが順調であれば、行きは歩きでも、帰りは一時間に一本しかないバスに間に合う、という算段であったので、行こうという計画を立てたのですが、最初に乗ったバスが十分遅れたために、そのバスにはどうも間に合いそうもない。次のバスの時刻はマークしていないので、いつくるのかわからない。
 猛暑の中を往復一時間も歩くのは、いくら修業といっても辛過ぎる。計画は途中で頓挫、ということにせざるを得ない、と思いながら、八潮駅までの道をポクポクと歩きます。



 ほうほうの体で八潮駅に着いたのは、事前に立てておいたシミュレーションに遅れること二十五分。
 バスは十分遅れだったのに、なぜに遅れが十五分もプラスされたのか、わかりませんが、猛暑に祟られて、エアポケットのような時間が生じたのかもしれません。
 駅に辿り着くまでは、密乗院へ行くことはなかば諦めながらも、もしかしたら、という気持ちがなくはなかったのですが、駅に着いたらいっぺんに力が抜けてしまって、帰ることにしました。

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2023年七月の薬師詣で・筑西市

2023年07月08日 20時35分04秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では下館(筑西市)を歩きました。

 

 南流山でつくばエクスプレス、守谷で関東鉄道へと乗り換えます。



 守谷で乗り換えたのは下館行の快速。電車ではなく気動車です。



 守谷から四十六分、下館駅で降りました。JR両毛線、真岡鉄道も乗り入れています。



 駅前の通りは、土曜日だからか、土曜日なのに、というべきか、歩く人の姿をほとんど見かけませんでした。ふと、まだ身体が動くうちに死期を悟ることができたら、こんな街に引っ越して最期を迎えるのもいいかも、と思いました。

 

 下館駅から二十五分、最初に訪れたのは下館城跡。本丸跡ですが、いまは小さな八幡神社があるだけです。
 築城の歴史は古く、五百五十年も前の文明十年(1478年)、水谷(みずのや)勝氏が初代城主として再建し、三代勝之のとき完成、以来水谷氏の居城となりました。濠を三重に巡らせていたので、別名「螺城」とも呼ばれました。
 寛永十六年(1639年)、水谷氏が備中成羽に移封後、松平氏、増山氏、黒田氏の治世を経て、享保十七年(1732年)、石川総茂が伊勢国神戸から入封。明治維新に到って、明治二年、廃城となりました。



 下館最初の薬師詣では金井薬師堂。下館城跡から徒歩十分。
 廃寺となった大徳寺の境内にあります。大徳寺は下館城と同じ文明十年、水谷勝氏が創建。現在の堂宇は元禄四年(1691年)に再建、昭和五十九年に屋根などの修理が施されたものです。



 境内の大欅。


 

 金井薬師堂から次の蔵福寺薬師堂へ向かう途中、旧国道50号線にありました。
 道を挟んで向かい合う、ともに荒川家住宅。画像上は現在は荒七酒店の洋館と店蔵、下は荒為という卸問屋の主屋と旧店蔵です。ともに国登録文化財。



 金井薬師堂から十二分で蔵福寺薬師堂に着きました。由緒については資料がなく、何もわかりません。



 蔵福寺本堂。
 正中二年(1325年)、下館城跡の北方にあった地蔵堂に時宗一向派二祖の礼智同阿上人が留錫したのが始まりと伝えられています。寛永七年(1630年)、八代下館城主・水谷勝隆が現在地に移転。昭和十七年、本山蓮華寺(滋賀県米原市)が浄土宗に転属したのに伴って浄土宗に。



 スズメバチに注意! こんな掲示を見かけてしまったので、早々に退散することにしました。



 蔵福寺から十分。小高い丘の上に薬師町の薬師堂がありました。
 もと曹洞宗鳳来山慶林寺(明治年間に廃寺)の寺域です。
 昭和四十五年に付近で古墳(薬師古墳)が発見されています。人骨二体を合葬し、鉄鏃一八、槍先一、刀子二などが副葬されていました。この古墳から遅れること五年、昭和五十年に同じ筑西市内で発見された野殿(のどの)古墳と同一の構造で、ともに古墳時代後期のものと考えられるということです。



 この日の最後に曹洞宗妙西寺を訪ねました。
 天正十四年(1586年)、六代下館城主だった水谷政村が母の冥福を祈るために、結城の安養寺から天秀真慧大和尚を開山に迎え、母を開基として創建。山号(祥雲院)と寺号は政村の母の法名(祥雲院殿妙西大姉)に由来しています。それ以前は善陽寺という真言宗の寺であったということです。
 安養寺は今年正月の薬師詣でをしたときに参拝しています。



 本堂のある境内とは道一本を隔てて、加波山事件志士の墓がありました。加波山事件(1884年)に加わった十九名のうち、平尾八十吉、富松正安、保多駒吉、玉水嘉一の四基の墓碑です。

 曹洞宗のお寺なので、本堂に参拝したあとは歴住の墓所に焼香参拝というのが私なりの流儀なのですが、墓地は三か所に分かれていて、それぞれ眺め渡しましたが、卵塔らしき墓石は見当たりません。
 帰りの列車の時間が迫っていました。一本逃すと、三十分は待たなければなりません。山門を通して眺められる本堂に「申し訳ありません」と手を合わせて立ち去ることにしました。

この日、歩いたところ

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2023年六月の薬師詣で・牛久市~つくば市

2023年06月08日 22時31分14秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では茨城県の牛久市からつくば市にかけて歩きました。
 牛久市の薬師詣では、かつて(2016年七月八日の薬師詣で)すぐ近くまで行きながら、勘違いをして参拝し損ねた羽成山の薬師如来堂と同じ日に参拝していて今回が二度目になる薬師寺、つくば市は初めて訪ねる孝学院です。
 ちょっとした遠出であるのにもかかわらず、出発はお昼、というゆったりとした時刻です。先方で乗車するバス便がそういう時刻にしかないからです。

 我孫子で土浦行の常磐線の快速に乗り換え、牛久で降りました。

 

 今回の移動はバスに乗ることが多く、最初は「かっぱ号」という牛久市のコミュニティバスです。



 コミュニティバスなので、住宅街をクネクネと縫いながら走ります。昨年九月に脊柱菅狭窄症を発症させて以来、快方に向かうのに連れて、忘れていた(?)メニエール症状が戻りつつあります。バスの車体が揺れるのに促されて、頭がグルグル回り始めるころ、幸いにも城中北(じょうちゅうきた)というバス停に着いたので、ホッと一息つけました。

 

 城中という地名が示すように、バス停のあるあたりから南方は五百年ほど前に築かれた牛久城跡で、バス停近くには大手門跡の遺跡がありました。



 バス停から歩くこと六分。目指す薬師堂は城中区民会館という自治会館の敷地内にありました。

 

 地図には観音堂と記載されています。かたわらに建てられた説明板によると、薬師如来像は行基菩薩の作と伝えられているが、実際は十二世紀末(平安時代末期)ごろの作のようです。ただ、堂内は真っ暗で何も見えませんでした。かつて存在したのであろう寺については何の説明もなく、牛久市のホームページを見ても記載がありません。



 薬師堂の手前にある得月院。1600年前後の開基と伝えられていますが、諸説があって特定はできないそうです。七年前に薬師詣でにきた際、この寺に薬師如来が祀られていると勘違いして、ほんの少し先にある薬師堂には参ることなく引き返してしまったのでした。
 牛久城主だった由良国繁の母で、この得月院の開基でもある妙印尼照子の五輪塔、日本画家・小川芋銭の墓がありますが、前回見ているので、今日は本堂に参拝しただけです。



 牛久駅前に戻って、コミュニティバスとはお別れ。関東鉄道バスに乗り換えます。



 乗車八分、茎崎第一小学校というバス停で下車。



 バス停から七分歩いて孝学院に着きました。
 明応元年(1492年)の創建。本尊は釈迦如来ですが、脇仏に観世音菩薩とともに薬師如来が祀られています。岡見氏、由良氏など、代々の牛久城主が帰依していたお寺です。

 

 曹洞宗のお寺なので、歴住の墓所に焼香参拝。



 茎崎第一小学校バス停に戻る途中、行きがけに見かけていた子育地蔵堂に寄ってみました。

 

 地蔵堂なのに、なぜか一対の狛犬がありました。



 敷地内には二体の地蔵菩薩(と思しき)石仏と卵塔。

 帰りのバスは牛久駅まで乗車せず、手前の中田宮(なかたぐう)で下車。

 


 七年前の薬師詣で以来、二度目の参拝になる薬師寺です。



 真言宗豊山派の寺院。弘仁七年(816年)、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧・徳一の開基と伝えられています。
 本尊は薬師如来。戦国時代の牛久城主だった由良国繁が、この地方の戦いで滅亡した先代の城主・岡見氏の霊を弔うため建立した常陸七観音八薬師の一つとして信仰を集めてきました。



 参道左では新しい山門が造成中でした。この山門をくぐることはないかナ、と思いながら、今日のお勤めを終えて帰途に就きました。

この日、歩いたところ(ほとんどバス利用です)。

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