引きつづき岩槻を歩いています。
浄土宗・浄安寺。創建年代等は不詳。かつては真言宗の寺院でしたが、増上寺五世・天譽上人が永正二年(1505年)に浄土宗に改めて開山。創建当時は恐らく茅葺き屋根であったのだろうと思わせる佇まいです。
大龍寺。
徳川三代将軍・家光の守役で岩槻城主・青山伯耆守俊が開基となった寺です。
我が宗派のお寺なので、歴住の墓所を搜して焼香拝礼。
願生寺。大永年間(1521年-28年)、寂譽門入和尚が開山した古刹。こちらはいまなお茅葺き屋根でした。
現在の本堂は、江戸時代中期(1700年代)の建造物で、本尊は阿弥陀如来です。
学蔵寺。日蓮宗寺院。創建年代等は不詳。康暦二年(1380年)ごろは真言宗の草庵だったそうですが、天文十三年(1544年)になって、日恵という僧侶が日蓮宗寺院と改めて開基。
千手院。創建年代は不明ですが、慶長五年(1600年)示寂の香庵明梅大和尚による開山だと伝えられています。
ここも曹洞宗のお寺。歴住の墓所に参拝。
陽は随分西に傾いてきましたが、まだ四か寺を残しています。陽のあるうちになんとか巡りおおせるか、それとも暗くなってしまって、タッチアウトを喰らうのか、微妙な情勢です。
午後一時前に豊春駅に降り立ってから約三時間、ほとんどぶっつづけに歩いてきたので、脚に少々痛みを感じるようになっていましたが、疲労感はありません。高血圧の降圧剤による立ちくらみに見舞われるのではないかとも危惧していましたが、そのような症状もありません。
ただ、時間と追いかけっこをしているので、知らず知らず焦燥感に煽られたようです。
ここまでは、初めての土地のわりにはそれほど道を間違えることなく進んできましたが、このあと二度にわたって進むべき道を間違え、遠回りを強いられることとなりました。夕暮れまでの時間がさらに切迫してきて、ますます追い詰められます。
道を間違えたせいで、通称・岩槻大師として親しまれている弥勒密寺には裏から入ることになりました。
宝亀五年(774年)、桓武天皇の腹違いの兄・開成が巡錫の途中、当地に立ち寄り、疫病に苦しむ衆生を救済するために弥勒菩薩を安置して寺を創建した、というのが寺の由来とされています。
創建から下ること三十余年の大同二年(807年)、弘法大師が巡錫したおり、本尊の不動明王を始めとする仏像五体を彫って、安置した。これらの由来により、岩槻の古刹として栄えたといわれています。
我が身の分身でもある毛髪一本と浄書した般若心経を奉納する写経剃髪殿。
人形大師堂。
弥勒密寺をあとに、次に向かったのは今回の岩槻訪問の目的地の一としてきた浄土宗浄国寺です。
天正十五年(1587年)、当時の岩槻城主だった太田氏房が開基となって創建されました。
我が庵近くにある東漸寺と並んで、浄土宗の関東十八檀林の一つです。
曹洞宗洞雲寺。本尊は釈迦如来。
言い伝えによると、昔、ここに塚があって毎夜鬼火が燃え、不思議なことがつづいたそうです。そこで、岩槻太田氏第二代・太田美濃守資頼は、龍穏寺(越生)の布州東幡禅師の誉れが高いのを聞き、師を招いた。その功と徳をして禅師のために寺を建立したのがこの洞雲寺です。
歴住の墓前に焼香して参拝。
最後に訪れた芳林寺です。洞雲寺から十一分。
すっかり暗くなってしまいましたが、薄暗い中で辛うじて読めた石柱で、ここも曹洞宗のお寺であると知りました。しかし、門前に辿り着いた時刻は晩秋の午後四時半。すでに鉄門が閉じられていたので、我が宗門であるのに、歴住の墓に焼香参拝することは叶わぬのか、と慨嘆したとき、閉じられていると思った通用門が抜けられると知りました。
言い伝えによると、以前、他の場所(どこかは不明らしい)に建立されていた寺が、永正十七年(1520年)八月、火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻にこれを移して、大永三年(1523年)春に再建しました。大鐘を掛け、宝殿が空に聳えたと伝えられています。たまたま資朝の母が禅門に帰依して芳林妙春尼と号していましたが、永禄十年(1567年)三月に逝去。陽光院殿芳林妙春大姉と号したため、寺号を芳林寺と改めたといわれています。開山は覚翁文等大和尚(文禄四年:1595年没)。
太田道灌、氏資、芳林妙春尼の廟。
歴住墓所に参拝して、なんとか今日のお勤めを終えることができました。
芳林寺をあとにするころにはすっかり暗くなって、空気も冷たくなっていました。
足早に歩いて、帰りは岩槻駅から。
春日部~新越谷(南越谷)~新松戸~北小金という帰り方もありますが、乗り換えが多いのもかったるいので、時間は多少かかりますが、乗り換えが一度だけで済む、柏まで東武野田線に乗って帰ることにしました。
→この日、歩いたところ。浄安寺から岩槻駅まで。
二十四日、さいたま市の岩槻を歩きました。
前々から行ってみたいと思っていたものの、近そうでいて、実際は結構時間がかかるので、行ってみようか……と、たびたび考えながら逡巡していたのでした。
我が庵から岩槻へ行く径路は三通りありますが、今回は一番オーソドックスだろうと思われる径路を辿りました。
北小金→新松戸→南越谷(新越谷)→春日部と乗り継ぎ、春日部で東武野田線に乗り換えて二駅目・豊春駅で降りました。豊春駅の次は東岩槻駅、その次が岩槻駅。 岩槻の前で降りてしまったのは、慈恩寺というお寺に行きたかったからです。
豊春駅があるのは春日部市ですが、六分ほど歩くと、さいたま市の岩槻区に入ります。最初はあとで訪れる岩槻の中心部とは正反対の方向を目指すので、今日はかなりの距離を歩くことになりそうです。
豊春駅から歩き始めて十五分。最初に出会ったのは常源寺という我が宗門(曹洞宗)のお寺でした。
山門は工事中だったので、横からお邪魔して本堂へ……。
我が宗門なので、本堂に参拝したあと、歴住の墓所を訪ねて焼香します。本堂の左手に墓所があって、歴住のお墓はすぐにわかりました。庵に帰ったあと、ネットで検索してみましたが、代々の住職を示す歴住碑によると、開山は徳外文堯大和尚という方でした。
常源寺の参詣を終えたあと、地図に目を落とすと、常源寺の先に細い径があり、その先は突き当たりになっていて、宗永寺というお寺があることになっています。
歩いて行くと、確かに細い径がありました。
が、入ってみると農道です。なんとなく不安感をかき立てられます。その径を進んで行くと、やがて突き当たっているのが見えましたが、そこは建設会社の用具置き場みたいです。
突き当たって右に折れる径があるようなので行ってみましたが、砂利道に変わって行き止まりでした。建物といえば突き当たりの少し手前、庭が掃き清められた、赤い家があるだけです。
庭石に五重塔を飾った小洒落た家、という趣です。どうやらこれが宗永寺らしいのですが、なんの標示もないので、訝りながら近づいて見上げると、「宗教法人宗永寺」という扁額がかけられていました。
庵に帰ったあと、埼玉県宗教法人一覧を見てみましたが、「宗永寺」という名は届けが出されていないみたいです。
元の道に戻って歩き出すと、岩槻北稜高校前を通り過ぎたあたりで、遠くに鐘楼塔が望めるようになりました。今回の岩槻訪問の第一の目的地・慈恩寺です。
意外に早く着いたと思って時計を見ると、豊春駅から三十分もかかっていました。
坂東三十三観音の十二番札所。本堂は天保七年(1836年)に焼失したのを、天保十四年(1843年)に再建したもの。当初は寄棟造り。昭和十二年の改修で現在の入棟造りとなりました。
次は玄奘塔を訪ねます。
「西遊記」で名高い玄奘三蔵の霊骨石塔です。
十三重の石塔で、高さは約15メートル。慈恩寺が管理しています。三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現・西安)から南京にもたらされたあと、太平天国の乱で行方不明になったのですが、第二次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見しました。昭和十七年のことです。頭骨は当時の南京政府に還付され、昭和十九年に南京玄武山に玄奘塔を建立して奉安されるとともに、日本へも分骨されたのです。
日本へ渡った頭骨は、当初東京・芝の増上寺に安置されましたが、そのころの東京は空襲による被害が拡がっていたので、埼玉県蕨市にある三学院に移され、さらに三蔵法師が建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開しました。
第二次大戦後、日本の仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が最適の地であろうということになって、昭和二十五年に十三重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が築かれました。その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺や奈良の薬師寺へも分骨されているそうです。
次に訪ねるのは元荒川沿いにある西福寺です。玄奘塔からはおよそ三十分の行程。
途中で東武線を越えなければなりません。ガードがあるのだろうかと思いながら歩いて行くと、高々と聳える跨線橋がありました。歩道橋とか跨線橋は高所恐怖症を持つ私には鬼門中の鬼門です。どうしようか。見えていた東岩槻駅を通り抜ける経路がなければ、入場料を払って抜けてもいいと思って行ってみると、コンコースで抜けられるようになっていました。
無事線路を越えることはできましたが、トートバッグから地図を引っ張り出して見ても、どうもよくわかりません。
近くを元荒川が流れているはずなので、堤防らしきものが見えてきてもよさそうなはずなのに、それらしきものは見えないのです。
太陽の方角を確かめるために立ち止まり、どっちがどっちなのじゃ? と地図に目を落としていると、ミニチュアダックスを連れたご婦人と行き会いました。
空を見上げたり、あたりをキョロキョロと見回している私は、不審者? と疑われるのでしょう。ご婦人は110番したほうがいいかしら……テナ表情で私をチラチラ見ながら遠ざかって行きました。
やっと鴟尾を戴いた伽藍が見えました。そこまでは右往左往という感じでしたが、やっと西福寺に辿り着きました。真言宗智山派の寺院。創建年代は不詳。
県道2号線に出て、岩槻橋で元荒川を渡り、いよいよ旧岩槻市の中心部に入って行きます。
岩槻城址公園。
岩槻城は室町期の長禄元年(1457年)、扇谷上杉持朝とその家臣である太田道真・道灌父子によって、江戸城や河越城とともに築かれたとされていましたが、近年になって、文明十年(1478年)に古河公方方の忍城主・成田顕泰の父・正等が築城したと記された史料が発見されました。
成田顕泰といえば、今月二日に封切りされたばかりの映画「のぼうの城」で、野村萬斎が演じている「のぼう」こと成田長親の曽祖父ということになるのですが、ややこしいのは成田顕泰とされる人物が「のぼう」の家系の「顕泰」ではなく、長尾忠景(?-1501年)の三男で、太田道真の養子になった「顕泰」であり、念のいったことに、「正等」はその道真の法諱である、という説があるのです。すなわち、まだ二つの説が並立していて、よくわからないということです。
城址公園を突き抜けて、やっと城址らしき遺構を発見。
人形塚。岩槻はいわずとしれた人形の街です。中央に高くそびえるのは男雛と女雛が仲睦まじく寄り添った姿で、「人」という字を形づくっています。
濠の跡のように見えたので、カメラに収めましたが、説明板はないので、違うのかも……。
梅照院。日蓮宗寺院です。創建は天正六年(1578年)。
浄源寺。浄土真宗本願寺派寺院。創建年代等は不詳。
街中に入ると、道路のところどころでこんな標示板や石柱を見かけました。
梅照院前から浄源寺前、岩槻商高前を通り、県道2号線に出るまでのおよそ700メートルが浄安寺小路と名づけられた道です。江戸時代は武家屋敷があった区域のようです。
狭いながらもまっすぐに伸びた路地の入口には、武州鉄道の線路跡という標示がありました。〈つづく〉
→豊春駅から浄安寺まで。
去年一月から始めた毎月八日の薬師詣では、早いもので来月で二年目が終わろうとしています。
お薬師さんを祀る寺院は結構ある、とはいっても、これまでのところは重複してお参りした寺院はないので、先月までで二十二か寺ということになるはずが、実際は三十五か寺(薬師堂として遺されているだけのところも含む)ということになりました。十三ものプラスアルファがあるのは、たまたまお薬師さんを祀る寺院が近接して複数ある場合で、一日で二か寺、三か寺と数を稼いで帰ってきたからです。
しかし、今月の目的地にした浦安にあるのは一か寺だけです。
北小金から新松戸、西船橋と乗り換えて、地下鉄東西線の浦安駅で降りました。この駅は去年九月の薬師詣でのときに利用しています。
目的の東学寺があるのは東西線の南側ですが、ひとまず北のほうを目指します。浦安魚市場前を通過。
浦安駅から八分で善福寺に着きました。
元和五年(1619年)、興教大師円仁の法孫・栄祐が明暦三年(1656年)に開基しました。本尊は阿弥陀如来。
善福寺から十二分で稲荷神社。
元禄二年(1689年)、江戸川区にある善養寺から移し祀ったものといわれます。祭神は豊受大神。
ここで踵を返して浦安駅のほうに戻ることにします。
浦安は漁師町です。いろんなところに海苔店や焼きはまぐりの店があります。
この先で旧江戸川に注ぐ境川を渡ります。
稲荷神社から二十六分で清瀧神社。
建久七年(1196年)の建立。祭神は海の神である大綿津見神(大綿積神とも=おおわたずみのみこと)。
清瀧神社から二分で寶城院。真言宗豊山派。
本尊は不動明王(春日作)で、建久七年(1196年)に醍醐山願行上人の開基によるものですが、天正十五年(1587年)に中興開山・覚厳法院によって再興されました。
宇田川家住宅。
明治二年(1869年)に建てられたもので、道路に面した店舗部分と裏の住宅部分からなり、米屋・呉服屋などの商家として使われました。幕末から明治に至る江戸近郊の町家の形をよく伝えていると評価されています。
宇田川家内部の展示。内部は薄暗かったので、存外なリアリティがあって、ちょっとギョッとさせられます。
大塚家住宅。
この住宅は、構造・間取・間仕切・間口部・設備・部財の仕上げなどの特徴及び家伝から十九世紀の中期(江戸時代末期)に建築された木造平屋建寄棟造茅葺の漁家。
日蓮宗正福寺前の通り。この十二日に御会式が行なわれる旨の幟が立てられていました。
寺は北面しています。陽射しがあって、暖かかったのはありがたかったのですが、強い陽射しが禍して真正面から撮影しようとすると逆光です。斜め前から撮影しました。
正福寺の開山は文禄二年(1593年)。本尊は法華経開顕久遠の釈尊一塔両尊四菩薩。
正福寺から歩くこと二~三分で、今月の薬師詣での目的地・東学寺に着きました。
永禄年間(1558年-69年)創建の真言宗豊山派の寺院です。正福寺と同じく北面しているので、逆光になるのを避けて右横から撮影しました。
ここに祀られている薬師如来は亀乗薬師と呼ばれています。
そのいわれの主は元亀元年(1570年)のころ、堀江村に住んでいた与八郎という人物です。
あるとき、与八郎の母が砂浜で人形のようなものを拾ったので、家に持ち帰って玩具箱に入れておきました。そのころ、村中に疫病が流行し、同家でも主人を除く家内の者全員が煩って難渋していました。当時、武州木根川(葛飾区)の薬師如来は霊験あらたかなところから、与八郎は家人の病気回復を祈願しようと参詣しました。すると薬師の別当が「なにも遠路はるばるやってこなくても、あなたの家には尊い如来さまがいらっしゃるではありませんか」というので、急いで家に帰って探したところ、玩具箱の中に亀の上に載っている薬師如来を見つけました。
早速、この薬師如来を仏壇に安置し、香華と念仏を怠らなかったところ、ほどなく家人の疫病もみな全快した、というのが結末です。
後日、与八郎が薬師如来を奉納したのがこの東学寺だったという次第です。
清瀧神社から東学寺に到る道は「堀江フラワー通り」と名づけられています。東学寺前で鍵型に曲がり、境川を渡ります。
橋を渡った先に「→豊受神社」という標識があったので、そこに寄って、浦安の寺社巡りは終わりにしようと路地を曲がると、花蔵院というお寺がありました。
真言宗の寺院で、本尊は大日如来。
永仁元年(1293年)八月二十五日に起きた大津波で、堂宇が失われ、記録なども流されてしまったので、創建年代は確かではないということです。
花蔵院の右隣には清心大菩薩堂がありました。
豊受神社の狛犬です。
いっぷう変わった表情をしているので、カメラに収めました。
豊受神社。祭神は豊受姫大神。保元二年(1157年)の建立。浦安では最古の神社です。
拝殿前にはこのような大公孫樹(イチョウ)がありました。
幹は六本あります。昔、境川の河口に流れてきた小さなイチョウの樹を村の者が拾い上げ、豊受神社の境内に植えたもので、樹齢三百五十年を超すといわれます。
→この日、歩いたところ。