桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

越谷を歩く(2)

2011年07月31日 22時38分41秒 | 寺社散策

 越谷ウォークの〈つづき〉です。



 天嶽寺を出たあと、しばらく元荒川の堤防を歩きました。
 前日、新潟と福島ではゲリラ豪雨がありました。と、いうことは、関東の山岳部でも雨があったと思えるのに、この川はどこでどの川と繋がっているものかわかりませんが、まったく静かで、水の濁りもありませんでした。

 この日の朝の天気予報では、越谷付近には大雨警報が発令されていました。庵を出るときはカンカン照りだったので、必要はないだろうと思いながらも、予報で大雨警報が出されているのを知って、折り畳み傘を鞄の中に忍ばせていましたが、結局は無用の長物となりました。ずっと歩いていると、折り畳み傘一本とはいえど、肩にズシリズシリと響くようになるのです。



 天嶽院から十分歩いて、東福寺に着きました。文永年間(1264年-75年)創建の真言宗豊山派のお寺です。開山は咸尊和尚、開基は岩槻渋江氏の流れを汲む須賀若狭守といわれています。



 東福寺本堂。本尊は虚空蔵菩薩。



 薬師堂があったので覗き込んでみましたが、いかような薬師如来がおわすのか、まったく見えなかったのでわかりません。
 


 再び元荒川土手に戻って、この日の最後の目的地・大聖寺を目指します。土手に桔梗が咲いていました。

 

 元荒川と葛西用水の合流点に架かるしらこばと橋です。「しらこばと」を漢字で書くと「白小鳩」で、国の天然記念物。越谷市の市の鳥でもあり、埼玉県の県の鳥でもあります。

 東福寺から大聖寺まで、元荒川沿いを歩いて三十分。大聖寺(真言宗豊山派)には背後から入る形になりました。



 お賓頭盧様がありました。
 神仏に対しては、現世はむろんのこと、後世も御利益は願わないことを信条としている私ですが、歩き過ぎが要因か、加齢によるコンドロイチンの不足か、このところ膝が痛むようになってきたので、お賓頭盧様の両膝を撫でておきました。



 大聖寺本堂。本尊は不動明王です。
 寺伝によると、天平勝宝二年(750年)、不動坊という人が、奈良東大寺の良弁僧正自作の不動明王像を祀って造立した一宇が始まりとされています。
 中世には不動院と称し、岩付城主・太田資正(1522年-91年)や北条氏繁(1536年-78年)の尊信を受けて栄え、天正十九年(1591年)には当寺に泊った徳川家康から寺領六十石を賜って、このときに大聖寺と改めたといわれています。また、慶長五年(1600年)には、関ケ原に向かって下野小山(栃木県小山市)から引き返してきた家康が、戦勝を祈願して太刀一振を寄進したということも寺伝に記されています。



 本堂の右手前にあった椨の木(タブノキ)です。
 成長の暁には、樹高20メートルにも達する高木なので、まだ若い樹だろうと思ったら、なんと樹齢五百年(推定)とありました。



 境内に「虹だんご」を売る茶店がありました。
 この日は土曜日だったのに参拝客の姿もなく、この店も客はいないようでした。硝子戸も閉まっていたので、休みかと思って通り過ぎてしまいました。

 帰ったあと、インターネットで調べてみると、店の名は虹屋といい、ホームページがありました。「虹だんご」とは、みたらし団子のことでした。
 こんな店のあるお寺が近くにあったら、私は毎日のように参拝方々暇潰しに出かけるでしょう。

 


 大聖寺の山門(仁王門)と山門に掲げられた扁額です。「真大山」という山号は老中時代の松平定信の揮毫といわれます。

 大聖寺を出て地図を見てみると、越谷駅は遙か彼方になっていました。武蔵野線の南越谷駅はさらに遠く、歩いて行けば、悠に三十分以上かかります。
 一番近いのは越谷レイクタウン駅。ここも三十分はかかりますが、バス停がどこにあるのかわからず、わかってもどこへ行くバス便があるのかわからないので、気を取り直して歩いて行くしかありません。



 大聖寺から歩くことまたまた三十分。気息奄々となって越谷レイクタウン駅に辿り着きました。

この日一日の行程です。蒲生駅から越谷駅までは電車を利用。

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越谷を歩く(1)

2011年07月30日 22時05分10秒 | 寺社散策

 埼玉県の越谷の小散策をしてきました。
 所用があって越谷レイクタウンに行ったので、その帰りのことです。

 越谷という町には馴染みがありません。去年、栃木市と古河市をそれぞれ散策した帰り、乗り換えのために南越谷という武蔵野線の駅と新越谷という東武線の駅を利用したのが、この地に足跡を記した最初ではないかと思います。
 所用を終えたあと、越谷レイクタウン駅に戻っても、いまのところは巨大なショッピングモールしかないこの駅に用はないので、武蔵野線で一つ先の南越谷へ行き、清蔵院という真言宗智山派の寺を訪ねることにしました。
 清蔵院があるのは蒲生本町というところですが、私が持っていた地図にはそのお寺は載っていませんでした。


 南越谷駅から日光街道(国道4号線)を南に真っ直ぐ歩くこと二十分足らず、蒲生西町という交差点を越した左手一帯が蒲生本町です。



 ボウボウと吹っ飛ばして行く車に追い立てられるようにして交差点に着くと、高い建物はなく、寺の伽藍があればすぐ見つけられるだろうと思ったので、蒲生本町の周囲を歩いてみることにしました。




 蒲生西町の交差点を左折して七分ほど歩くと、墓地が見えたので、あったあったと思いながら近づいてみると、清蔵院ではなく、光明院という真言宗豊山派のお寺でした。
 開山は弘治二年(1556年)。本尊は阿弥陀如来。

 ときおり背伸びをして、どこかの家の屋根越しに寺院を思わせる大きな屋根が見えぬものだろうか、と思いながら歩きましたが、あいにく見えません。



 清蔵院を捜すのは諦めて、東武線の駅目指して方向転換をすると、江戸時代の代官所か奉行所を思わせるような門が目に飛び込んできました。



 何があるのだろうと思って近づいてみたら、奥のほうに山門があるのが見えました。目的の清蔵院でした。
 真言宗智山派の本山は京都・智積院です。智積院の入口にはやはり冠木門がありますから、本山にあやかったのでありましょうか。天文三年(1534年)の開山。本尊は十一面観音です。
 山門は、屋根など部分的に改造されていますが、その棟札により寛永十五年(1638年)、関西の工匠による建立であることが確認されています。ことに欄間に掲げられている龍の彫刻をはじめ、虹梁の彫刻なども江戸初期の素朴な彫刻様式が伺われます。
 なお、暗いので龍がどこにあるのかわかりませんでしたが、伝説では左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を抜け出して田畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったといわれています。



 境内を見学させてもらおうとしたら、山門にはこんな注意書きがあったので、門内には一歩も足を踏み入れることなく引き返すことにしました。



 清蔵院から徒歩十二分で東武鉄道の蒲生駅に着きました。ここから越谷まで二駅だけ電車に乗ります。



 越谷駅で降りて、市役所を目指します。この日は土曜日で、市役所は開いていませんでした。しかし私は金曜だと勘違いしていて、観光パンフレットを手に入れんものと市役所を目指したのです。

 市役所前に到り、歩く人もいない上に、駐車中の車の数もまばらであったことを不思議とも思わず、玄関前まで行って、自動ドアが開かないことで、ようやく平日ではなかったことに気づいたのでした。



 市役所に向かう途中で横切った旧日光街道と思われる町並み。
 越谷には日本橋から数えて三つ目の越ヶ谷宿がありました。



 元荒川に架かる宮前橋までは越谷駅から市役所経由で徒歩十七分。宮前と名づけるからには、お宮があります。



 珍しい形の注連縄(しめなわ)です。



 久伊豆神社。
 私はお寺を見かければ、それがどれほど小さなお寺であろうとも、寄ってみずにはいられませんが、神社はすべて寄るわけではありません。
 ここは注連縄に惹かれて足を踏み入れました。予想もしてみなかったような長い参道がありました。
 家に帰ったあと、地図で計測してみると、500メートルという長さでした。主祭神は大国主命、言代主命(恵美須)。創建年代は平安時代中期。



 樹齢二百五十年、株回り7メートルの藤です。埼玉県の天然記念物に指定されています。



 長い参道の奥には、これまた予想もしなかったような立派な社殿がありました。

 

 久伊豆神社と入口を接するようにして、浄土宗の天嶽寺があります。
 開山は文明十年(1478年)。開山の専阿源照は太田道灌の伯父と伝えられる人物です。



 中門。

 


 中門の木鼻。可愛かったので、画像を載せました。



 本堂。

 このあと、元荒川に沿って歩きます。〈つづく〉

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不易と流行 ― 転居丸一年

2011年07月28日 23時27分42秒 | つぶやき

 七月三十一日で転居丸一年を迎えます。
 月日が経つのは早いものです。齢を重ねると、一層早く感じるようになります。この一年はまさに矢の如き疾さで過ぎ去りました。
 わずか一年、ことに私にとってはあっという間の歳月の移ろいの間、我が周辺でも変わりつつあるものが多くあります。

 散策途中に、もう何十年もつづいているテレビのバラエティ番組で司会をしているタレントと同じ読みの表札の出ている家がありました。
 子どもがいれば、学校でどんなふうにいわれているのだろう、などと思いながら、前を通っていましたが、ある日、表札がなくなっていました。しばらくすると、紙に手書きで書かれた別の名の表札が貼られ、さらに数日後にはきちんとした表札に代わっていました。



 
新しく入る人のないまま、どんどん朽ちて行く家もたくさんあります。その一方で、畑や空き地が潰されて、新しい家が建てられます。
 常磐線の線路伝いに北小金駅から歩くこと十数分。富士川が暗渠になって常磐線の下をくぐる手前を歩いているとき、猫殿の鳴き声を聴いたように思いました。
 車が私の横をすり抜けて追い越して行ったときだったので、幻聴かと思いながら、通りすぎたばかりの家を振り返ると……。道路に背中を向けて置いてある犬小屋があり、その陰から顔を覗かせている猫殿がいました。



 首輪をつけているので、飼い猫です。
 ♂か♀かわかりませんが、道を挟んで富士川が流れているので、富士丸と名づけることにしました。いつもの散歩コースの近くではありますが、形ばかりの歩道はあるものの、狭くて歩きにくく、軽自動車同士でもすれ違えないのに、一方通行にはなっていないので、あまり通ることのない道です。



 ついこの前まで立葵(タチアオイ)が花盛りだった庭。背の高い生け垣に囲まれていましたが、重機が入って整地が始まっていました。



 湯屋へ行く途中にある公孫樹(イチョウ)の樹です。幹周りは2メートルぐらいありそうで、見上げるほどの高さでした。久しぶりに通ったら、数メートルの高さのところで伐採されてしまっていました。

 変わらぬものもあります。
 我が庭と行き止まりになっている細い路地を挟んで、私より少しだけ年上と思われる老夫婦の棲む家があります。
 庭に下りて草花の手入れをしていると、ときおりその家から少女が歌っているような声が聞こえることがあります。何を歌っているのか、歌詞は聞き取れませんが、透き通るような、純真な歌声です。
 声の主はその家の奥さんだろうと私は睨んでいました。しかし、奥さんの姿を見かけたことはありません。ひっそりと暮らしているようで、ご主人もあまり見かけたことがありません。

 何月ごろであったか、ある朝、ふと気づいたことがあります。ご主人が出てきて、玄関前に停めてあるミニバンを少しだけ移動させ、助手席のドアを開けたまま家に入ったのです。
 しばらくすると玄関が開き、再びご主人が姿を現わしました。今度は後ろに奥さんだと思われる女性を従えていました。少しクラシックな洋服を着て、髪は「ちびまる子ちゃん」に出てくる野口さんのような髪型をした婦人でした。
 覗き見をしていたわけではありません。カーテンを開けて机に向かっていると、塀がない庭の向こうの光景はすべて丸見えなのです。

 そういう光景を何度か目にしているうち、二人が出かけるのは毎週決まって月曜日と木曜日。時間は朝九時で、出かけたあと、しばらくするとご主人だけが戻ってくる。夕方、ご主人が出かけ、しばらくすると奥さんを乗せて戻ってくる。
 月に何回か、ボディに介護施設を思わせる名前をつけた車と歯科医院の車がやってきます。土曜日には決まってヘルパーらしき女性がやってきます。
 転居してまだ一年に過ぎませんが、毎週毎週このような光景が変わらず繰り返されるのを眺めています。

 
昨二十七日は私の誕生日でありました。無病息災とはいかず、一病か二病持っていて、決して体調万全とはいえませんが、一年前にはマジで死ぬかもしれぬと考えるほど深刻な体調だったことを思い返してみると、上部消化器とリンパの循環に多少の困難を抱えるようになったとはいっても、そのほかには膝が痛むようになったり、眼鏡をかけても本が読みにくくなったりしている程度ですから、ありがたいことだと思うのです。
 そのありがたいことを、家にいて、ありがたいと感じているだけでは間が抜けている、という思いがしたので、お線香を持って東漸寺へ行ってきました。

 このお寺は浄土宗です。私の宗旨とは違いますが、本尊は阿弥陀如来。私の念持仏であり、守り本尊でもあります。



 東漸寺の門前に掲げられていた標語。



 本堂前の大香炉に焼香したあと、開山・經譽愚底(きょうよ・ぐてい)さんのお墓にも焼香しました。

 例年我が誕生日は、とてもかなわんという暑さです。昨日も暑いことは暑かったけれども、例年とは少々様子が違いました。



 久しぶりに兄弟コリーを見かけました。



 あまり通ることのない道で見かけたプルンバーゴ。
 常緑の低木で、原産地は南アフリカだそうです。
 名前のわからぬ庭木や花を見つけ、植物図鑑で調べてもなお名前が知れぬとき、我が庵から歩いて二十五分ほどもかかるガーデンセンターへ出向きます。
 わからないのが庭木であれば、花の季節に行くと、大概同じものが置いてあって、名前を知ることができるのです。
 酔芙蓉(スイフヨウ)もアベリアも、こういう手順で名を知りました。

 


 これは去年秋、どういう名前なのかわからぬままにブログに載せ、コメントをもらって初めて名前を知った貝殻草です。

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ようやく蝉の声を聴きましたが……

2011年07月26日 19時49分00秒 | 風物詩

 ウロウロと動き回っていた台風6号が去ったあとは、また猛暑! という予報でしたが、当然のようにまた予報は外れました。
 とはいえ、暑いことには変わりがありません。



 今年は蝉の出現が遅れているようです。
 我が庵近くで蝉の声を聴いたのは二日前の日曜日。去年は七月十四日に聴き、あっという間に蝉時雨となりましたが、今年は一匹か二匹が単独で啼いているだけです。
 異常気象……と、テレビのニュースでいっています。
 去年も同じことをいっていたと思いますが、去年と今年ではどこがどのように違う異常気象なのでありましょうか。



 富士川右岸(流山市)の高台の径です。画像右の木立がいまの季節は涼しい木陰をつくり、冬は防風林になります。



 ムクロジ(無患子)の実は早くも直径1センチほどに成長しています。



 キウイもそろそろスーパーに出ているものと同じぐらいの大きさになってきました。



 いつも子どもたちが野球をしているグラウンド。今度の土日に夏祭りがあるようで、櫓が組まれていました。
 自治会の注意書きが出ているだけで、グラウンド自体に名前はないのだと思っていたら、「前ヶ崎子どもの遊び場」だと知れました。別の場所に祭りを告知するポスターが出ていました。



 クサギ(臭木)の花。葉や茎を傷つけると青臭い臭気を発します。
 富士川の松戸側台地斜面に多数自生しています。非常に長い雌しべを延ばしています。十月になると、小ぶりのブルーベリーといった実をつけます。アカハラ、ツグミなどが餌にしますが、それらの鳥は近辺にはいそうもないので、もっぱら鴉メの餌となります。



 アジサイ(紫陽花)か、と思って近づいてみたら、紫陽花ではありませんでした。



 蒸し暑いので、水のあるところに行けば少しは涼しいかと考えて、根木内歴史公園へ足を延ばしました。
 しばらくこなかった間に、葦は愕くべき高さに成長していました。



 蛸の足の正体がわかりました。
 前に根木内歴史公園にきたとき(六月二十九日)は「タコノアシ」という木札が建てられていただけで、その下には植物らしきものもなかったので、何が何やらわからなかったのですが、今回は写真つきの説明が隣にあったので、ようやく正体がわかりました。
 要保護植物とありますが、この歴史公園に限ると、結構あります。植物図鑑には「夏、茎頂に反曲する数本の穂状花序をつけ、黄白色の小花を密生する」とありますが、すでに夏なのに、花の咲く気配はありません。
 別名はサワシオン(沢紫苑)。



 ミクリ(実栗)の花と実。こちらも要保護植物。



 ソクズ。
 漢字では
非常にむずかしい字を書きます。二文字ですが、漢字に変換しても、このブログでは二文字とも文字化けします。樹木だと思ったら、スイカズラ科の多年草だそうです。乾燥させて入浴剤にします。



 不揃いなミニトマトたち。
 散策帰りにNさんの畑で買いました。前回買ったYさんのものよりほんの少し量が少ないけれども、同じ¥100です。
 この日のスーパーで売っていたものは色も均一、大きさも均一ではありますが、三分の二ほどの量で¥198でした。

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小石川寺院散策(2)

2011年07月23日 22時55分09秒 | 寺社散策

 傳通院を出て白山方面に足を向けると、善光寺坂と呼ばれる緩い下り坂です

 

 すぐ慈眼院があります。門前の石柱が示すように、ここには澤蔵司(たくぞうす)稲荷が祀られています。

 江戸時代初期、傳通院の学寮に、澤蔵司という修行僧がいたそうです。わずか三年で浄土宗の奥義を極め、元和六年(1620年)五月七日の夜、学寮長だった極山和尚の夢枕に立って、
「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。いまよりもとの神に帰るが、永く当山を守護して、恩に報いよう」
 そう告げて、暁の雲に隠れた、ということです。
 澤蔵司は傳通院の門前のそば屋に、よくそばを食べに行ったそうですが、 沢蔵司がきた日の売り上げをしらべてみると、必ず木の葉が入っていた、ということです。

 


 慈眼院の隣は善光寺。浄土宗鎮西派の寺院。本尊は阿彌陀如来。
 寺伝によると、本尊の阿弥陀如来は家康の母・傳通院殿の守り本尊で、亡骸を傳通院に埋葬すると同時に一宇を建立。守り本尊を安置して善光寺如来堂と称したのが起源である、ということになっています。
 善光寺坂という坂の名は途中にこの善光寺があるので、寺の名をとったということです。



 白山通りに出て、北上すると、浄土宗厳浄院がありました。
 最初に創建されたのは本郷田町(現在の文京区西片一丁目)で、寛永五年(1628年)のことでした。承応三年(1654年)、傳通院の敷地だった現在地に移転。ここも本尊は阿弥陀如来。

 


 境内には俳人・山口素堂(1642年-1716年)の墓とあまりにも有名な「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句碑があります。
 素堂は松尾芭蕉より二歳年長です。



 厳浄院の北隣は日蓮宗蓮華寺。



 白山下の交差点を渡り、浄心寺坂に差しかかると、天台宗圓乗寺の石柱が目に入ってきます。そこを左に折れると、圓乗寺です。本尊は釈迦如来。創立は天正年中(1573年-92年)。
 江戸三十三観音の十一番札所ですが、この寺を有名たらしめているのは、そんなことより八百屋お七です。

 


 圓乗寺境内にある八百屋お七の墓。



 圓乗寺前の浄心寺坂(別名・お七坂)は上って行くのに連れて結構急な上り坂になりました。
 文京区教育委員会の説明板が建てられていて、坂の名の由来は浄心寺が近くにあるので、この名がつけられた、とあります。「近く」というのが引っかかりましたが、出先なので、浄心寺そのものがどこにあるのか、調べることも叶わず、歩いているうちに、疑問が頭に引っかかったことを忘れてしまいました。
 帰ったあと、思い出して調べてみると、坂を上り切ったところはT字路になっている突き当たりで、突き抜けることはできませんが、そこから浄心寺の入口までは直線距離で100メートルちょっとあります。
 ところが、下に掲げた江戸切絵図を見ると、❸→の圓乗寺に隣接して描かれています。
 浄心寺にはホームページがあって、その中の「縁起」を視ると、創建は元和二年(1612年)で、場所は現在地ではなく、湯島妻恋坂でした。八百屋お七の火事で焼け、現在地に移転と記されていますが、尠くともこの江戸切絵図(尾張屋板)が刊行された当時(小石川絵図の刊行は1854年)は現在地ではないところにあったはず。触れてはならぬいわくでもあるのでしょうか。



 上に掲げた絵図は参考まで。❹→がこのあと訪ねる大圓寺です。



 浄心寺坂を上り切ると、道は旧中山道に突き当たります。
 都立向丘高校裏の小径を入って、ほうろく地蔵で知られる大圓寺に着きました。我が曹洞宗のお寺です。



 創建は慶長二年(1597年)、創建の地は神田柳原(現在の岩本町あたり)です。開基は石河(いしこ)勝正(1577年-1659年)。半世紀後の慶安二年(1649年)、現在地に移転。
 石河勝正は
美濃加賀島(かがしま)城主・石川光政の次男です。小早川家の家臣でしたが、同僚を殺害して関東に逃れ、徳川家康のはからいで秀忠の近習となり、信濃上田城攻め、大阪の陣などに従いました。寛永十八年、石川姓から石河と改姓したという。

 

 大圓寺にある齋藤緑雨(1868年-1904年)の墓。幸田露伴がつけたという戒名は春暁院緑雨醒客。



 同じく大圓寺にある高島秋帆(1798年-1866年)の墓。
 高島流砲術の創始者。一説では、四十五歳の天保十三年(1842年)、密貿易をしているという鳥居耀蔵の讒訴によって投獄され、高島家は断絶という憂き目を見ました。


 


 どなたのお墓か存じあげぬが……。離ればなれにあった別々のお墓のかたわらに桔梗が植えられていました。
 


 中山道に戻って潮泉寺を訪ねました。浄土宗寺院。創立は慶弔元年(1596年)。本郷丸山にありましたが、明暦の大火後、現在地に移転。小説家・武田泰淳さんの生家です。



 徳性寺。浄土宗寺院。元和元年(1616年)の創立。湯島妻恋坂にありましたが、ここも明暦の大火のあと、現地に移りました。



 白山上の交差点を挟んでジグザグと歩き、大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)の東京別院に着きました。本山へは行こう行こうと何度も「願」を立てながら、行く機会のないまま今日に到っています。お目にかかりたと思っていた本院・最乗寺の十八世・余語翠巖禅師(1912年-96年)はすでに示寂されて十数年、本院参拝が叶わなければ、せめて別院なりとも、と考えていたので、こうしてくることができると感慨深いものがありました。
 最乗寺の別院は箱根(強羅)にもありました。観光旅行のついでで、そこにも行って、なんと温泉があるので、ちゃっかり湯浴みをしています。しかし肝心要の別院参詣はせぬままに帰ってきてしまっていたのです。



 最乗寺別院の門前、道を挟んで墓地があったので、てっきり最乗寺の墓地かと思ったら、同じ曹洞宗の妙清寺の墓地でした。慶長十一年(1606年)に南翁玄舜大和尚により開山されました(慶長五年の説もあり)。
 本尊は薬師如来。江戸駒込、鶏声ヶ窪の薬師寺として名高く、多くの参詣人を集めそうです。
 鶏声ヶ窪というのは、江戸時代、このあたりには下総古河藩の下屋敷がありましたが、その藩邸内から夜ごと鶏の声が聞こえたため、地面を掘ったところ、金銀の鶏が現われたという故事に基づいてつけられた地名です。現在の行政区分は本駒込ですが、旧町名は駒込曙町。この曙も鶏の声から名づけられたということです。

 再び白山上の交差点に出て、千駄木駅に向かいます。



 浄土宗瑞泰寺。
 天正十七年(1589年)、神田明神下に桂芳院として創建されたのが始まりです。慶安元年(1648年)、現在地へ移転。京極丹後守高知が開基となり、江戸時代を通して、京極氏の菩提寺となっていたほか、江戸六地蔵(東都歳時記)の第一番の銅造地蔵があったといいます

 この瑞泰寺と最後の二か寺は、駒込の吉祥寺を訪ねたとき(ブログ掲載は五月二十七日と二十八日)に寄るつもりでいたのに、端折ってしまったお寺です。



 浄土真宗常瑞寺。
 源義経の家臣だった黒部伊勢三郎義盛が天台宗寺院として現在の愛知県海部郡に開創。元和六年江戸に出府、芝金杉に常瑞寺を創立、明治二十八年の区画整理により、翌二十九年、当地へ移転。



 浄土宗栄松院。教蓮社順誉上人が開山となり、天正十七年(1589年)、神田に創建、慶安元年(1648年)、当地へ移転しました。

この日歩いたところ。本郷三丁目から千駄木駅まで。

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醫王寺と蓮の花

2011年07月22日 22時15分58秒 | のんびり散策

 時期的には少し早いかもしれないと思いながら、手賀沼の蓮の花を見に行ってきました。
 浅草に棲んでいたころ、よく不忍池の蓮を見に行っていました。

 蓮は朝早く咲いて、昼にはほとんど閉じてしまいます。
 手賀沼まで行くのですから、先に鷲野谷という集落にある醫王寺に寄ることにしました。山崎辨榮(べんねい)さんと經譽愚底(きょうよ・ぐてい)さんのお墓参りもすることにします。



 我孫子駅からバスに乗り、いつものように ― といってもまだ二度目ですが ― スポーツ広場前というバス停で降りました。



 バスを降りて田舎道をトコトコと歩くこと十数分。醫王寺に着きました。
 寛正二年(1461年)、經譽愚底上人が開創した浄土宗のお寺です。經譽さんは木曽の洗馬というところから、ここ鷲野谷にきて庵を結び、のちに我が庵の近くにある小金の東漸寺などを開かれた方です。



 醫王寺境内の公孫樹(イチョウ)の古木。
 樹齢等を記した標識はありませんが、なにゆえにこのように垂れたのか。鍾乳洞のような瘤です。



 本堂より一段高いところにある薬師堂。
 安置されている薬師如来は長禄二年(1458年)に彫られたものです。開帳されるのは寅年だけ、十二年に一度です。
 寅年といえば去年ですが、四月十八日に御開帳が行なわれたそうです。私がこのお寺の存在を知って訪ねたのは御開帳に遅れること半年の去年の十月末でした。

 この日は二十二日でした。
 東京・本郷で偶然見つけた本郷薬師堂には八日、十二日、二十二日が薬師如来の縁日と書かれてありました。
 八日以外に十二日と二十二日も縁日という言い伝えは初めて知りましたが、調べてみると、愛媛県東温市にある香積寺というお寺の本尊は薬師如来で、ここでは毎月十二日が縁日だということです。
 この日、この寺では何事もなく、境内はひっそりと静まり返っていました。



 經譽愚底さんのお墓です。薬師堂の左手 ― 墓所へつづく小径を進んで行くとありました。東漸寺その他の寺を開いたあと、最初に開いたこの寺に戻ってきて、永正十四年(1517年)、この寺で示寂。

 中を覗いても、暗過ぎるのとレンズを突っ込むにしても、格子の空き方がちょうど具合が悪いのとで、撮すことができませんでしたが、この中に「經譽愚底上人之墓」と彫られた墓石がありました。



 こちらは前回もお参りした辨榮聖者こと山崎辯榮(1859年-1920年)さんのお墓です。



 鷲野谷の集落をあとにして、將門神社のある岩井集落に向かいます。途中は一面の玉蜀黍(トウモロコシ)畑でした。



 醫王寺から岩井集落の中心にある龍光院までは歩いて十分足らず。

 


 龍光院境内。
 將門の娘・如蔵尼が將門と一門の菩提を弔うために建てたといわれる地蔵堂(上)と將門神社(下)です。



 鷲野谷も岩井も集落は小高い丘の上にあります。といっても、標高は10数メートルに過ぎません。しかし、それだけでも陽気が異なるのか、松戸流山地区ではこの手の紫陽花(アジサイ)はすでに花期を終えてしまっているのに、ここではまだ咲いておりました。

 


 最後に手賀沼の蓮を見に行きました。今年は七月三十日に、蓮を見るボートや遊覧船が出るという催しがあるそうなので、行ってみようかと思っています。

 手賀沼に蓮の群生ができるようになったのは、昭和二十三年ごろ、付近の農家が沼の浅瀬や付近の水田で栽培したのが始まりだといわれています。その当時の手賀沼には、完全な堤防もなかったので、根茎が沼地内へ伸びたり、出荷時に沼の澄んだ水で蓮根を洗った際に不良品として捨てられたものが自生したりして、五十年の歳月を経て10ヘクタールにも及ぶ大群生地となったということです。



 手賀大橋たもとにある道の駅・しょうなん近くに梨園がありました。
 我が庵近くにある梨園と同じようにネットが張られていましたが、入口が開いていました。人がいれば一言断わって見せてもらおうと中を覗きましたが、人の気配はありませんでした。
 そこで無断で足を踏み入れ、何枚か撮影しました。種類が異なるのかもしれませんが、我が庵近くの梨よりふた回りほど大きく、色づきもひと足早いようです。



 道の駅しょうなん。

 

 我孫子駅近くまで戻ってきて、興陽寺に寄りました。画像上が本堂、下が薬師堂です。

 今年の二月八日、ここへ薬師詣でにきています。非常に寒い日だったということもあったのかもしれませんが、その日の私の体調はすこぶるつきの悪さでした。いまから思えば、恐らく胃潰瘍が再発していたのでしょう。


 二十一日の夜、最後のランサップ400錠を服んでヘリコバクター・ピロリ(ピロリ菌)の除菌療法が終わりました。
 薬を服んでいた一週間の間、断酒も達成しました。煙草をやめる前と同じように、優柔不断なワタクシめに断酒ができるのだろうかと危ぶみましたが、枯渇感が極まって発狂するようなこともなく、一週間は淡々と過ぎました。
 その勢いでアルコールをやめられるのではないかというと、これがやめられないのです。

 喫煙は入院したときに絶って、もう一年半以上になります。
 正しくは一年と少しです。去年の初夏、いろいろなことが重なって、生きて行くのはもういいか、と気持ちが切れかかったとき、死ぬ前に何をしたいだろうかと考えて、おもむろに煙草を買ってきて、確か二本……吸いましたので、一年と少しということになるのです。

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小石川寺院散策(1)

2011年07月21日 22時54分41秒 | 寺社散策

 二十一日は東京湯島にある検査センターへ通院の日でした。
 今回は検査はなく、診察と処方箋をもらうだけだったので、家を出たのは十時でした。本当なら十時半に出れば充分であったのですが、通院前に寄りたいところがあったので、三十分早く出ました。
 検査の結果は貧血の症状がわずかながらも改善されていると出ましたが、「わずかながらも」ですから、拍手喝采とはいかず、通院生活はまだまだつづくようです。

 先月の通院の日(六月二十三日)、帰りは小石川の伝通院へ行こうと思っていたのに、診察を終えたあとはなぜか気乗りがしなくなっていて、まっすぐ帰ってきてしまいました。
 診察の結果が悪かったとか、気に懸かるようなことがあった、というわけではありません。持ってくるべきものを忘れていて、忘れていると気づいたときには、行ってはいけないような気持ちになってしまったのです。

 忘れたのはお線香とライターです。
 伝通院に行こうと思ったのは、単なるお寺巡りではなく、お線香をあげたい人がいたからなので、肝心なものを忘れていたわけです。
 とはいっても、私が自家で使っている線香はなんら特別なものではありません。お寺によっては大香炉の前に用意されていて、お賽銭代わりの百円を出していただくような、ごく普通の線香です。
 湯島から伝通院へ歩く間に仏具店があるかもしれないから、そこで贖えばいいか、と自問自答して、一旦は向かう気になったのですが、あるかもしれないということは、ないかもしれないということでもあるので、結果的に手ぶらで参上ということになるかもしれない。線香を置いているコンビニもあるようには思うのですが、仮に仏具店に置いてあるのと同じ品だったとしても、スーパーやコンビニで買うのはどうもそぐわないような気がする、ということで帰ってきてしまったわけです。



 昨日二十日は台風6号が関東地方に近づいていました。翌日の今日は東南にそれて行くという予報でしたが、ともかく速度が鈍い。ために、天気はスッキリしません。
 いつもなら電車の最後部に乗り、湯島駅の3番出口の階段を上って行くのですが、この日は通院前に、三組坂(みくみざか)を上って行こうと思ったので、5番出口から出るために最前部に乗りました。

 三組とは徳川家康が隠居して駿府に行くときに連れて行った、中間、小人、駕籠者という三つの組の者たちにまつわる名前です。
 家康が死ぬとお役ご免となった彼らは江戸に戻り、この地に屋敷を与えられたので、最初は駿河町と呼ばれ、のちに三組町と呼ばれるようになったのです。


 何日か前、「江戸切絵図(近江屋板)」の「本郷谷中小石川駒込図」を眺めていたら、湯島天神近く、現在の湯島二丁目あたりに霊雲寺というお寺があったことに気づきました。
 いまは何になっているのだろうかと現代の地図を見ると、いまでもお寺のままです。どんなお寺なのか、寄ってみようと思ったのです。

 


 三組坂を上り切ってしばらく歩いたところに、予想外に大きな山門(惣門)が見えたので愕かされたかと思うと、さらに予想外に巨大な本堂(潅頂堂)が見えたのでまた愕かされました。
 周辺は十階建てほどのビルが林立しているので、視界はほとんど利きません。地図によればこのあたりだが……と思ったところで、ビルがなくなったかと思うと、いきなりこんな巨大な伽藍が目の前に現われるので、びっくりしてしまうのです。

 ここは真言宗霊雲寺派の総本山です。
 開山は覚彦浄嚴という人で、元禄四年(1691年)の創建。浄嚴には柳沢吉保が深く帰依していました。山門も伽藍も巨大なので、境内が狭く感じられます。江戸時代はきっと広かったのだろうと思われますが、堂宇は関東大震災、第二次世界大戦で消失。昭和五十一年に再建。本堂の広い石段に隠されている部分が一階に当たり、石段の下に寺務所や書院があります。

 


 霊雲寺の西門を出て春日通りに向かう道を歩いて行くと、正面に春日局の菩提寺の麟祥院が見えてきます。
 通院の日はいつも春日通りを歩き、道路の向こう側に麟祥院を見ながら通り過ぎます。いつもなら帰りは湯島駅へ引き返すので、また麟祥院の前を通りますが、この日は引き返さないので、道路を渡って境内に入りました。

 麟祥院を出て、検査センターへ。
 診察を終え、薬をもらったら、ちょうど十二時になりました。
 本郷三丁目の交差点は昼休みの勤め人と学生たちで混雑していました。
 七年前の誕生日に東京を離れ、千葉県人になってから、すっかりおのぼりさんになってしまった私は、横断歩道からはみ出さんばかりに行き交う人混みに臆するような気分になりながら、本郷通りを渡りました。いつも近くまできているのに、本郷通りを向こうへ渡るのは初めてです。



 横断歩道の向こうにこんな山門と提灯が見えたので、くぐってみると……。



 前方にあったのは本郷薬師堂でした。



 この御堂が建っているのは、かつて真光寺というお寺のあったところで、「江戸切絵図」にも載っています(最上部中央の赤線で囲まれた区域)。右の加賀中納言殿と書かれた広いスペースが現在の東京大学。その左が麟祥院。さらに左斜め下が霊雲寺です。

 寛文十年(1670年)に建てられましたが、戦災で焼失。お寺は世田谷に移転したものの、薬師堂は本郷薬師として親しまれていたからかどうか、移転することなく昭和二十二年の改築を経て、五十三年に新築されたものです。
 御堂前の説明書きによると、毎月八日、十二日、それに二十二日は薬師如来の縁日で、植木、雑貨、骨董、飲食店などが出て、おおいに賑わったと記されています。

 春日通りに戻って西進します。三分ほど歩くと、真砂坂上の交差点です。



 真砂坂を下ると、白山通りと交差する春日町の交差点です。
 春日通りは右にカーブしながら真砂坂を下って行くので、実際は通りの左側にある二十六階建の文京区役所が真ん前に見えます。その下に押し潰されそうになっているのが講道館です。

 春日町を過ぎると再び上り坂。今度は富坂です。200メートルで伝通院前の交差点。右に曲がると正面に伝通院の真新しい山門が見えました。



 伝通院前の通りのちょうど真ん中あたり、右側に日本指圧専門学校があります。創設者は浪越徳治郎(1905年-2000年)で、浪越指圧治療センターが併設されています。
 週刊誌の記者をしていたとき、浪越さんに会いにここへきているはずですが、周辺の風景は当時と変わったものかどうか、まったく記憶にありません。



 検査センターを出てからおよそ二十分で伝通院に着きました。山門は新築工事中で通れませんでした。



 本堂前の参道も工事中でありました。

 伝通院というのは徳川家康の生母・於大の方(1528年-1602年)の法名です。墓参にきた目的の人のお墓を捜す前に、境内を一周します。



 於大の方の墓。



 家康の孫・千姫(1597年-1666年)の墓。



 杉浦重剛(1855年-1924年)の墓。明治・大正時代の国粋主義的思想家であり、教育者です。



 ようやく見つけた柴錬(柴田錬三郎)さんのお墓です。


 墓所の入口には見取り図があって、柴田錬三郎(1917年-78年)さんのお墓の場所が示されていましたが、於大の方や千姫はもちろん、杉浦重剛も墓前に案内板が建てられていてすぐわかるようになっているのに、柴錬さんのお墓の前にはなんの案内もなかったので、捜すのにちょっと手間取りました。

 さらに柴田という姓はペンネームで、本名は斎藤さんというのです。
 私はうっかりしていて本名を知りませんでした。見取り図をみるために、二度も行き来して、ようやく特徴のある墓石を見つけました。よくよく見れば、愛煙家であった柴錬さんに煙草のお供えがありました。

 少し前の六月三十日が祥月命日です。亡くなったのは昭和五十三年なので、いつか墓参を……と気にかけながら、三十年も過ごしてしまったわけです。

 されど、親族でもなく、親しくおつきあいさせてもらったわけでもないので、ちょうどよいかと思ったりしています。〈つづく〉

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まだ蝉も啼かぬのに……

2011年07月15日 21時09分00秒 | 風物詩

 私の病状はそれほど深刻な状態ではないようですが、胃酸が強く、ヘリコバクター・ピロリ(ピロリ菌)が多い-すなわち胃潰瘍ができやすい、という体質はなかなか改善されないようです。
 胃酸を抑え、胃壁を護りながら修復をするという薬を服みつづければ、よほどのことがない限り、胃潰瘍が再々発することはないらしいのですが、それもなんとなく鬱陶しいというので、ピロリ菌退治をしてみますか(担当医の言葉)ということになりました。



 向こう一週間、朝夕二回服む薬です。いつも服んでいるタケプロンという薬(一番上の段にある、横長のカプセル)に加えて、二種類の抗生物質(クラリスとアモリン)を服みます。
 問題は薬を服用している一週間の間、絶対にアルコールを呑んではいけない! ということ。

 まだ蝉も啼かぬというのに、連日の猛暑です。
 松戸には気象庁の観測点がないらしいので、得られるのは我孫子か船橋の数値ということになりますが、関東各地では連日猛暑! 猛暑! といっているのにもかかわらず、我孫子の気温も船橋の気温も35度を超したことがありません。不思議なことです。

 


 吾輩たちは猫である。名はまだ無い……。
 いつも散歩の途中に通りかかるアパートの前で、二匹の仔猫が行動範囲を少しずつ拡げ始めているのを目にしました。表に出てきても、ずっと玄関先に坐って遠出をしようとしなかったのに、5メートルほど離れたところまで動くようになりました。



 飼い主の老嬢によると、二匹の母親はヒロ。手前に写っているのはヒロの兄妹で、♂のマユです。仔猫たちにとっては叔父さんです。
 この二日ばかり、仔猫たちはいつもマユと一緒にいるので、私は老嬢が取り違えていて、マユが母親なのだと思い込むところでした。
 しかし、マユにはちゃんと♂の印がありました。いまでいうところの「イクメン」です。



 この猛暑でも……いや、猛暑だからこそというべきか、本土寺の参道だけは別天地のような涼しさです。



 ただし、お昼を少しでも過ぎると……参道左側の遊歩道は、強烈な西日に晒されることになるので、別天地ではなくなってしまいます。

 


 参道にある洋品店の横を借りて、Yさんの娘さんが臨時の店を出していたので、好物のじゃが芋(男爵)とミニトマトを求めました。両方とも¥100です。
 じゃが芋は近くにあるスーパーだと、¥100ということはないかもしれませんが、まあまあそれに近い値段で売っています。
 ところがミニトマトは、これだけの量があって¥100ということはありません。念のためスーパーを覗いてみたら、この日は半分ぐらいの量がパック詰めされていて、¥250でした。

 スーパーでは総菜-中でも揚げ物が売れているそうです。折からの節電ムードで、自宅で揚げ物などして温度を上げたくないという人が多いのだそうです。
 しかし、つむじ曲がりの私メは、夏は暑いのが当ッたりめェじゃねェかとばかり、もしかしたら揚げ物をするより長時間ガスを使うポテトサラダをつくらんものとじゃが芋を購入したのです。
 ミニトマトのほう
は憶えたばかりの料理-ジューシーチキン(茗荷と大蒜のバターソース)の付け合わせに買いました。



 Yさんの畑です。
 本土寺の参道と直角に交差している、まてばしい通り沿いにあります。私が求めたミニトマトは、朝採りと書いてありましたが、画像の右端で収穫されたもののようです。

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2011年七月の薬師詣で・取手市

2011年07月14日 22時47分47秒 | 薬師詣で

 八日は毎月恒例の薬師詣での日でした。
 それなのにブログを更新していない、ということは……行かなかったのかというと、行くことは行ったのですが、暑いさなかに出かけたためか、少し体調を崩してしまい、ブログの更新が捗らなかったのです。



 関東鉄道の取手駅です。
 先月、ほぼ二年ぶりに取手の高井城址を訪ね、関東鉄道に乗るのにもなんとなく勘が戻ったような気持ちになったので、今月の薬師詣では関東鉄道を利用することにしました。

 

 
高井城址を訪ねたときは、今年の三月に開業したばかりのゆめみ野駅を利用しましたが、今回降りたのはその二つ先・戸頭(とがしら)という駅です。取手からは六つ目になります。



 戸頭駅から歩いて二十分。永蔵寺という天台宗のお寺に着きました。
「寺」と表現しましたが、いまは建物はあっても寺はなく、かつて寺があったところ、というのが正しいのかもしれません。
 境内には、この小さな御堂と二つの祠があるだけで、人の住めそうな庫裡とおぼしき建物はありませんから、「跡」というべきかもしれません。
 しかし、いついかなる理由で「跡」となったのか、現地に説明板があるわけでもなく、Webサイトもないので、よくわかりません。

 天慶四年(941年)、隣の守谷市にある西林寺の隠居寺として建てられたという説があって、その説では守谷市乙子というところにあった御堂をここに移したと説明していますが、どんな理由で、いつ移したのか、それもわかりません。むろん画像の御堂は当時のものではありません。

 来歴はともかくとして、この御堂が目的の薬師堂のようです。
 小さな御堂なのに、普通なら中央に設けてあるはずの階が左右に分けられてあります。祀られているのはもちろん薬師如来で、平將門が守り本尊にしていた仏像だという言い伝えもあります。もし本物なら国宝級だと思いますが、中は薄暗くてよく見えませんでした。
 


 薬師堂の前には香炉がなかったので、左右に分かれて二つあった祠のうち、左側の祠にお線香をあげました。
 観寛光音という禅僧が安永八年(1779年)に定めた新四国八十八か所(相馬霊場)では第三十四番と第四十五番の札所になっています。

 永蔵寺をあとに、龍禅寺を目指します。
 途中まで結構交通量の多い道を歩きます。取手駅西口交差点とつくばみらい市を結ぶ通称・常総ふれあい道路です。

 十分ちょっと歩いたところで左に折れて、山道に入ります。それほど険しい道ではありませんが、上り下りしているうちに、杣道のようになってきました。
 また歩くこと十分と少々。緩い上り坂を上り切ると、見えてきたのが茅葺き屋根の龍禅寺三仏堂です。



 取手市内では唯一の国指定の重要文化財です。
 創建は延長二年(924年)といわれ、釈迦、阿弥陀、弥勒の三尊像が祀られているところから三仏堂と名づけられました。
 現在の建物は永禄十二年(1569年)に建てられたもので、桁行三間(約5・4メートル)、梁間四間、正面に一間の外陣が張り出され、他の三方にも「こし」を付けた独特な平面構成をしています。華美な彫刻や極彩色などは用いず、質実剛健的な重厚な印象を受けます。
 建物はその建築様式から長らく室町時代後期の建築と推定されていましたが、建物内の木札に永禄十二年(1569年=室町幕府将軍は最後の足利義昭の時代)の銘があったことから特定された、ということです。中世におけるこの地方の寺院建築の特徴を伝える遺構として大変貴重なものであるとして、昭和五十一年に国の重要文化財に指定されたのです。

 この三仏堂がある龍禅寺の山号は米井山といいます。
 平將門が武運長久祈願のためにこの三仏堂を訪れたとき、堂前にあった井戸から米が噴出したという伝説があることから、米井山とつけられ、付近の地名も米ノ井になったといわれています。

 將門の戦勝を祈願するため、この三仏堂にきて、祈りを捧げたのが愛妾・桔梗之前といわれています。



 龍禅寺本堂。
天台宗の古刹です。

 承平七年(937年)、平將門が開きましたが、やがて荒廃。建久三年(1192年)、源頼朝とほぼ同世代の千葉常胤(1118年-1201年)が中興したと伝えられています。

 龍禅寺から関東鉄道の線路を目指して歩きます。この先には特別有名な寺院があるわけではありません。それなのに足を延ばしたのは、高井城址公園にある桔梗の群落を見に行こうという魂胆だったのです。



 関東鉄道の南側を線路に沿うように国道294号線が走っています。そこに桔梗之前を祀る桔梗塚があります。



 桔梗塚をあとにして関東鉄道の踏切を渡ると、最初に降りた戸頭駅より一駅取手寄りの稲戸井駅です。そこからおよそ十分歩くと、天台宗の慈光院がありました。

 このあたりは取手市内とはいっても、あまり家屋がありません。
 この慈光院も、最初に訪ねた永蔵寺と同じように、守谷・西林寺の隠居寺として建てられたようですが、詳細はわかっていません。

 慈光院をあとにすると、径は小貝川に向かって少しずつ下り始めます。



 下高井排水機場。水門の向こうは小貝川です。



 堤防に上らないと川を見ることはできませんが、小貝川に沿って、見渡す限り青い稲田がつづいています。



 慈光院からおよそ三十分歩いて、高井城址公園に着きました。
 二年前の六月二十八日、高井城址を訪ねるのが目的でここにやってきて、偶然桔梗の群落があるのを知りました。




 今年はまだほとんど咲いていませんでした。



 桔梗の群落から六分ほど歩いたところにある下高井会館。この地区の自治会館ですが、屋根の形はお寺の御堂みたいです。



 先の画像では、下高井会館の左に写っている薬師堂です。賽銭箱はあったので、お賽銭はあげましたが、香炉はないので、お線香はあげずじまい。



 こちらはなんだかわかりません。



 高井城址公園の最寄り駅は、今年誕生したばかりのゆめみの駅ですが、私の持っていた地図にはまだ駅が記載されていません。
 わずか一か月半前には、そのゆめみの駅に降り立って、この付近を歩いたあと、再びゆめみの駅に戻っているのですが、新駅が開業するまで長らく利用してきた稲戸井駅を今後利用することがありやなしやと思うと、もう一度見ておこうという気になりました。
 二十分弱かけて、勝手知ったる稲戸井駅まで歩くことにしました。

 →この日の行程

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病み上がり?

2011年07月13日 19時59分55秒 | 風物詩

 病み上がりです。
 とはいっても、家で静かにしていただけで、寝込んだわけではないので、病気をしたという感覚はないのです。
 しかし、五日前、暑いさなかに出かけて帰ってきてから調子が悪く、風邪かな、いやどうも風邪ではない……なんだかわからんが、調子はよくないので……と自重しているうちに五日も経ってしまいました。
 七月生まれなのに、ヤキが回ってきたものか、去年も今年も暑くなると体調を崩します。独居老人が熱中症で孤独死……というテレビのニュースを視ながら、首うなだれておりました。

 ようやく歩けるようになり、というより……歩く気になったのと食べ物も底を突いているので、買い出しをかねて近隣の散策に出ました。

 本土寺の参道がいつの間にか静かになっていました。



 紫陽花(アジサイ)の最盛期のころは、誘導員が出て、いつも満杯だった駐車場も閉じられて、静まり返っています。
 ハハーン、なるほど、などと思いながら、改めて気がついてみると、参道入口に店を開いていた葛餅(くずもち)屋さんの臨時売店もいつの間にか店を閉めていました。

 前ヶ崎のあじさい通りでは、これから咲くぞといいたげな蕾もありますが、大部分の紫陽花は鉄錆色に変わり、すでに剪定されてしまった株も多くなりました。

 

 無患子(ムクロジ)も花の季節が終わって、実を結び始めています。

 

 栗にも小さな実が……。
 梨も少し前は梅の実程度の大きさだったものがひと回り大きくなり、梨らしい黄土色になり始めています。カメラに収めようとしましたが、ネットが邪魔をして上手く写せません。

 農園の片隅にはいろいろな花が植えられています。

 これは南米原産の百合水仙(アルストロメリア)。インカの百合とも呼ばれます。
 私が持っている植物図鑑によると、彼岸花科と分類されていますが、百合科に分類している図鑑もあります。分類に従って花を見るわけではないので、どっちでもいいことですが……。

 

 なんじゃらほいと思いながら近づいてみたら、煙の木という樹なのだそうです。
 霞(カスミ)の木という呼び名もあり、英語ではスモークツリーとぞ。

 

 半化粧。半夏生とも。ドクダミ科だそうです。そういえば花も葉っぱも似ています。
 別名・片白草(カタシログサ)。

 半夏生のころに咲くのでこの名がつけられたという説と、この花が咲く季節を半夏生と呼ぶという説とあります。
 今年の半夏生は七月二日。俗信では天から毒気が降ると日だといわれ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしています。

 


 この二つはいまのところなんだか調べのついていない花です。上の画像は樹木、下は草花です。



 我が庭に咲いた鬼百合です。私が植えたものではなく、私が引っ越してくる前からあった先住民です。まだ咲いていませんが、もう一本あります。

 体調を崩す原因になったのは五日前。取手へ薬師詣でに行ったため。そのブログは明日にでも……。

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利根の川風に吹かれて

2011年07月02日 23時36分19秒 | のんびり散策

 昨日、利根川を小船で渡る、小堀(おおほり)の渡しを渡ってきました。
 明治末期まで、この地域を流れる利根川はまるで巾着のように大きく湾曲していたため、しばしば洪水に見舞われていました。
 明治から大正中期にかけて、直線に付け替える改修工事が行なわれましたが、川の流れが変わると、それまでは川の北岸で、取手地区とは地続きだった小堀地区は対岸に取り残される、ということになってしまいました。そこで運航されるようになったのが小堀の渡しです。
 当初は小堀地区住民による自主運航。昭和四十二年から取手市営(当時は町営)となりました。



 五月の末、別の用件で取手にきた帰りに乗ろうとしたのですが、その日は生憎利根川が増水していて欠航でした。

 この日、しばらく雨は降っていないが、群馬県などの上流地域はどうだかわかりません。恐る恐る渡船場に近づくと、幟が風にはためいているのが見え、前回は通せんぼになっていた桟橋の入口も開いていました。



 乗船料100円を払って船の人となります。
 船の名は「とりで」号。十年ほど前までは小堀地区の住民でなければ乗れませんでした。



 定員は十二人とありました。狭い船内を見回しながら、定員いっぱい乗ってきたら、ちょっと窮屈かもしれぬわい、と思っているうち……。
 出発の合図もなく、なんとなく ??? と感じて目を挙げると、船は桟橋を離れていました。出航時刻は十三時三十五分。結局、乗船客は私独り……。



 船室の天井には天窓のような穴が開けられていて、梯子に足をかけ、そこから首を突き出すと、360度の眺めを愉しむことができます。



 利根の川風が心地よいけれども、貸し切り状態というのがちょっと落ち著かない、というか、申し訳ない感じです。乗り慣れない乗り物に乗っているせいでしょうか。

 


 乗船時間わずか十分で小堀渡船場に着きました。乗ろうと待ち構える人の姿はありませんでした。待合所もこのとおり。待っている人はありません。

 船はここに十分ほど停まって取手へ戻って行きます。もう一度乗って引き返すという手もありますが、ときおり陽射しは出るものの、曇りがちで存外涼しそうだったので、成田線の湖北駅まで歩くことにしました。

 最初に目指すのは付け替え工事によって、古利根沼として取り残された旧利根川です。
 途中、恐らくこの地区には一つだけだろうと思われる常圓寺(真言宗)と隣り合わせるように建っていた水神社があったので寄ってみましたが、どちらも無住の上、説明板のたぐいもないので、来歴はわかりませんでした。

 そこを過ぎると、民家はなくなりました。
 地図では、古利根沼畔に出る径があることになっているので、それらしき径があれば入って行こうかと考えるのですが、径があっても、いざ入ってみようかと思うと、先行きがなんとなく怪しく、行き止まりのような気がするので入れません。

 

 釣り堀やら乗馬クラブがありましたが、人の姿はまったく見ませんでした。

 舗装されていない道を歩きながら、最初はいまどきこんな道を歩くのもいいもんだなどと思っていましたが、歩けども歩けども砂利道ばかりだと不安が兆してきます。
 私が進みたい湖北駅の方角には、恐らく旧利根川の土手であったのであろう丘がつづいていて、見晴らしが利かず、向こう側に何があるのかわかりません。
 やがてどこをどう歩いているのかわからなくなってきたぞ、という焦りも出てきて、川風に吹かれた涼しさなどすっかりどこかへ行ってしまいました。

 やっと丘の切れたところがあり、そこを回り込むように進むと、目の前は一面の稲田に変わりました。
 まだ古利根沼を望むことはできませんが、稲田に変わっているところはかつては川が流れていたところであり、茨城県と千葉県の県境でもあります。



 古利根沼です。
 二年前の八月一日、私は將門神社を訪ねて湖北にきていました。神社を訪ねたあと、大体このあたりに立ち、この沼を眺めたのでした。私が立ってカメラを構えている場所は千葉県我孫子市、対岸は茨城県取手市。



 古利根沼畔から十分足らず。やはり二年前に訪問したことのある曹洞宗・法岩院です。

 前回訪れたときはちょうど大施食会の日だったので、境内は檀家の人たちであふれかえっていましたから、境内を歩くのは遠慮したのです。
 しかし、この日は無人。本堂裏に回ると、一段高いところに上って行く石段がありました。歴住の墓所に違いないと思って、しずしずと上ると、思ったとおりでした。



 墓誌によると、このお寺が開かれたのは天文三年(1534年)五月五日、芝原城主だった河村出羽守勝融が創建、開山は雪田眞良大和尚と記されています。
 河村氏は古河公方の家臣だった一族で、古河公方が滅んだあとは後北条氏に従うようになり、秀吉の小田原攻めで滅びることとなります。


 
 このあたりの地名は中峠(なかびょう)台。
「峠」と書いて「びょう」と読ませるとは珍しい、と二年前にきたときには感嘆したものでしたが、そういう地名は千葉県北部の各所にあります。同じ我孫子市内には稲荷峠(とうかんびょう)、柏市には高峠(たかびょう)、大峠台(おおびょうだい)、印西市には小楢峠(こならびょう)、木苅峠(きかりびょう)、榎峠(えのきびょう)……などなど。

 


 湖北駅近くにある龍泉寺です。上野・寛永寺の本堂庫裡を移築した龍泉寺の山門(画像上)と本堂。
 創建は延暦年間、弘法大師がきて、みずから彫った不動尊を安置したのが始まりといわれますが、実際は不詳。

 境内には幼稚園があります。
 二年前にきたときは夏休みの季節だったので、鉄門が閉ざされていて入れませんでした。そういえば、と思い出してきてみたのですが……。
 この日は金曜日、着いたのは午後二時半ごろでしたが、すでに園児たちの姿はなく、前と同じように鉄門が閉ざされていました。
 古利根沼を捜していたときからすでに汗みずくではありましたが、二度きたのに二度とも境内に入れない、とがっかりしたからかどうか、どっと汗が噴き出しました。



 帰りは湖北駅から我孫子行の電車に乗りました。

↓この日の行程です。
http://chizuz.com/map/map93012.html
 

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