桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

誕生日

2010年07月27日 19時31分37秒 | 日録

 今日二十七日は私の誕生日です。二人からお祝いのメールをもらいました。
 誕生日などといっても、いまの齢になってみると、特別な感慨はない、と毎年思うのですが、やはりなんらかのアクションがあることはうれしいものです。

 一連の猛暑日は去りましたが、暑いことには変わりがない。しかし、来週はもう立秋です。
 今日はハローワークの失業認定日だったので、十時前に家を出て、一時間待たされてお勤めを果たし、十二時半に帰ってきました。暑いけれども、昨日、段ボールが届いたので、少しずつ引っ越しの荷造りを始めています。
 明日からは出かける予定もないので、急ピッチで作業を進めなければなりません。幸い風邪も治まってきました。



 ハローワーク松戸のすぐ近くを坂川が流れています。
 再来週の八日(月)、九日(火)と松戸宿坂川献燈まつりというお祭りがあります。灯籠を流すらしいのです。私は一度も見たことがないので、タイミングが合えば見に行くことにします。

 NTTに電話工事を依頼したら、工事日は最短でも八月三日ということになりました。
 転居先は「コーポ」とは名のみの古いアパートです。八世帯分の部屋がありますが、誰もインターネットはやっていないらしい。つまり、集合住宅用の回線が引かれていないので、一戸建て住宅と同じ扱いになり、料金も割高になるようです。
 七月三十一日の朝早くに転居してしまうので、それから三日の午後までインターネットに接続できなくなります。わずか三日間ですが、どうやって過ごしたらいいのかと不安です。



 今朝は六時半ちょっと前に、いつもの公園へ行きました。於京(おけい)がラジオ体操を見にきているかもしれないと考えたのです。しかし、於京の姿はなく、ガキどもの姿もありませんでした。ラジオ体操はたったの一回だけだったようです。これで三日間、於京を見ていません。

 新坂川土手の紫陽花(アジサイ)はすっかり花期を終えていました。線路端には柵があり、鉄条網が張ってあるのですが、どこかから入ることができ、誰かが手入れをしていると見えて、花はすっかり刈り取られていました。



 我が庵近くに咲く桔梗殿もかなりくたびれてきて、そろそろ花期を終えようとしています。

 新坂川土手を見ていたら、「おはようございます」と声をかけられました。とっさに私も挨拶を返しましたが、見ず知らずの男性でした。
 出で立ちから見て、私のような気ままな散歩ではなく、本格的にウォーキングをしている人らしい。額には玉のような汗を浮かべ、荒い息をつきながら、苦しげな表情をしていました。どことなく本田博太郎(この人も苦しげな役柄ばかり演じています)に似ていました。

 
 
 
 
 
 


 近隣に咲いていた花々を適当にカメラに収めて、今朝の散歩は終わり。

 二~三か月ほど前と較べると、体調はずっとよくなっていますが、いつまた「?」という状態がくるかもしれぬという怯えがあります。
 しかし、おかげで知らず知らず増上慢することがなくてよいかもしれぬ、と考えたりしています。

 今夜は満月……。

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廣徳寺作務第二回

2010年07月25日 17時13分00秒 | 日録

 今日二十五日は旧暦の六月十四日です。
 こういう蒸し暑いときに、重さ20~25キロという大鎧を着けて、命を懸けた戦いをするというのは、大変という言葉ではとてもとても済まぬほど大変でござりましたでせうな、と毎年毎年思うのです。
 山崎の合戦があった天正十年(1582年)六月十三日は、しかも雨だったと伝えられています。なおのこと大変でござりましたでせうな。 

 今朝七時過ぎ、廣徳寺へ二度目の作務に出向きました。
 今月もあますところ一週間。いまの家から廣徳寺に通うのは今日が最後になるだろうと思うと、ちょっと感慨深いものがありました。



 途中にある馬屋敷緑地前の広場では櫓が組まれていました。盆踊りがあるようです。
 大谷口城馬屋敷の跡と伝わる馬屋敷緑地は樹々の重なりが厚いせいか、早くも蜩(ヒグラシ)が啼いていました。



 大谷口歴史公園。またくることはあるでしょうが、この前を通って廣徳寺へ通うのもこれが最後です。



 廣徳寺に着きました。



 この日、門前に掲げられていた標語です。
「何事も続けてやりましょう」というこの標語は自分のために掲げられている、と納得しながら参道を上がって本堂にお参り。

 今日は十袋が目標。水子地蔵脇の物置からごみ袋十袋とガムテープを取り出して……。レーキは重かったので、軽い熊手を使うことにしました。
 作務開始は七時半。

 初めての前回はわからなかったり、気づかなくて用意できなかった新しい武器も三つ持ってきています。携帯用蚊取り、落ち葉に隠れている枯れ枝を切るための万能鋏、冷凍庫でカチンカチンに冷やした保冷剤をくるんだタオルの三点です。



 ところが、石段を上がって我が守備位置に到ってみると、ちょっと拍子抜け、でした。前回、作務を終えるとき、残り分は四十~五十袋と踏んだ落ち葉がほとんどなくなっていたのです。

 まあ、私が作務をしたいと申し出る前は誰かがやっていたのでしょうから、愕くこともないのでしょうが……。



 残っていた落ち葉は三袋分しかありませんでした。
 この十五日から昨日までの十日間、一日夕立があったほかは雨が降っていないので、表層を引きはがしても濡れたところはありません。袋に詰めるのが少ないぶん、根こそぎという感じで念入りに集めました。

 前回は二時間かかって九袋でした。今朝はちょうど三分の一の四十分で袋を作り終えてしまいました。
 袋にまんべんなく、隙間なく詰めるという詰め方も堂に入ってきたようです。

 いまの季節、落ち葉や枯れ草がふえるという時期ではないので、今度くるときはほとんどすることがないかもしれない。
 そこで、私の守備位置からごみ置き場まで(本堂と開山堂の真後ろに当たります)を見渡すと、敷かれた玉砂利の間に結構落ち葉があります。団栗(ドングリ)もいっぱい落ちたままになっています。
 そのあたり、熊手を手にガリガリと地面を引っかきながら、ところどころに落ち葉を集めた溜め場を作っておきました。
 次回くるときはこれを袋に詰めることにします。

 私が落ち葉をかき集めている場所は、墓参の人はもちろん、以前の私のように、このお寺に無縁の人が通るようなところではありません。落ち葉が本格的になる季節までに、ここをすっかりきれいにしてやろうと決意しました。
 参道という目立つところではなく、裏方に徹するのがいまの私にはピッタリだという気がします。



 廣徳寺境内の見取り図です。廣徳寺だより「獅子吼」30号から転載しました。左上の色をつけた樹のあたりが私の守備位置です。

 一時間で今日の作務は終了。
 体調が少しずつもとに戻っている、という実感があるので、ときおり一時間以上の散歩を心がけていますが、たいした労働ではないといっても、やはりただ歩くのとは違うようです。
 なんといっても汗の出方が違います。

 私のいた場所は楓と桜の樹があるおかげで、午前中なら陽射しは遮られていますが、作務を始めたらすぐに玉のような汗をかいてしまいました。袋の口を折り畳んでガムテープをかけようと屈んでいると、ポタポタと汗が垂れてきます。
 数日前からひいている風邪が治り切っていないのも手伝って、わずか一時間ですっかり疲れ果ててしまいました。
 落ち葉の量が減っていたのは、風邪をひいているのだから、あまり無理をするな、という思し召しということに……。

 覚束ない足取りで家路に着きました。
 廣徳寺へ行くときに、いつもの公園を覗くのは少し遠回りになるのですが、行きも帰りも覗いてみました。しかし、今朝は於京(おけい)は姿を見せませんでした。

 家に帰って火照った身体を冷ましてから、斎戒沐浴。明智光秀公の旧暦祥月命日に合わせて焼香と水のお供えをしました。
 たっぷりと汗をかいたせいか、風邪の症状はいくぶん後退したようです。

 引っ越しは三十一日です。まだ荷造りは何もやっていないし、粗大ごみ回収の手続きもしていないのに、明日は朝イチで松戸市役所。明後日は十時十五分という時間指定でハローワークへ行かなければなりません。
 無事引っ越しできるのでしょうか。かなり不安な思いでいます。

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新鎌ヶ谷駅の桔梗

2010年07月23日 20時50分30秒 | のんびり散策

 今朝もいつもの公園まで散歩。まだ六時過ぎという早い時間なのに、ガキどもが集まっていました。



 何事ならんと思ったら、ラジオ体操でした。今日から学校は夏休みです。



 ガキどもが現われたりすると、身を翻して逃げてしまうのが常の於京(おけい)が集団から遠く離れながらも、逃げることなく坐っていました。ラジオ体操など見たことがないので、珍しかったのでしょうか。
 しかし、眠そうでした。眠いのなら寝てしまえばいいのに、私の近くに坐ったままで、ときおり目を閉じて眠っていました。
 今朝はちゃんと食器を用意しておきました。ジャム瓶の蓋一杯のミオでは食べ足りぬようだったので、特別にお代わり一杯追加。

 仕事のない私には土曜も日曜もないのですが、世間も休みだと思えば、どこかへ出掛けるかと思ったり、部屋の片づけをするかと思ったりします。
 いまの私は引っ越しを控えているので、土日を問わず荷造りにかからなければならぬのですが、引っ越しを頼んだ運送屋さんの都合で、月曜日でないと段ボールの手配がつかないというのです。この土日で少しでも荷造りを進めて行こうと目論んでいたのに予定を狂わされ、焦りも手伝って落ち著かない気分です。
 食器や割れやすいものを新聞紙でくるんだり、靴を箱に入れて紐で縛ったりと、できることもあるのですが、食器棚を空にしても、代わりに床が置き場所になって、少しずつ足の踏み場がなくなってくるだけ、と思うとイマイチ気が進みません。

 九時になるかならないか、キーンキーンという金属音が響き始めました。カッターでアスファルトを切っている音です。先月からマンション前の道路で水道工事が始まっているのです。
 工事期間は九月初旬までの二か月半。長さ130メートルほどの道路にしては随分時間をかけるもんだ、と思ったら、日によって路地に入ったり、また戻ってきたりしています。
 ひが目かもしれませんが、暑苦しい騒音を伴う工事はわざと暑い季節を選んでやるような気がします。

 私はエアコンが苦手な体質なので、夏は窓を開け放しにしています。すると、こういう金属音はたまりません。避難して図書館でも行くかと思い立ちました。
 外へ出ると、陽射しが翳っていて、昨日ほどの暑さではないようです。

 ところが、新松戸で電車を待っている間、また陽射しが戻ってきて、ムッとする暑さになりました。県立西部図書館は新八柱まで一駅だけ武蔵野線に乗り、十数分歩かなければなりません。この暑さの中を図書館まで歩くのはちょっとかったるいかな、と気持ちが引きかけたとき、そういえばそろそろ最後かもしれない、と気づくことがありました。

 最後、というのは新鎌ヶ谷駅前にある桔梗の花期のことです。
 今年二月、偶然その駅で降りることになって、駅前に桔梗が植えられ、鎌ヶ谷市の市の花が桔梗であると知ったのです。急遽図書館行は変更。桔梗を見に行くことにしました。

 


 新八柱で新京成に乗り換えて十二分。改札を出たら、100メートルほど手前から桔梗の花壇が見えました。目に入ったときから私の目尻は垂れ下がり、顔はほころんでいます。懐かしい友達に会ったような気分です。
 開花の時期が取手の高井城趾の群落と一緒だとすると、二週間近く前が最盛期です。すでに萎れた花が目立つのは仕方がありません。
 その数、百株? では、きかないか。数は結構ありますが、生えるに任せて放ってあるという印象です。折角植えたのですから、もうちょっとやりようはないかなと感じました。
 私を緑関係の嘱託で雇ってくれれば、もし予算がないというのなら、交通費だけのボランティアでもいいが、丹精込めて、たとえば次の画像のように……。



 これは紫式部ゆかりの京都・廬山寺の源氏庭に咲く桔梗です。
 予算がなければ、白い石を敷き詰める、てな具合にはいかないかもしれませんが、せめて少しずつ株をまとめて、と考えるのですが。

 近くに佐津間城という戦国期の城跡があると知ったので、このあと向かうことにしました。

 


 大宮神社。
 新鎌ヶ谷から歩き始めて二十数分。鳥居が見えたので寄ってみましたが、無人でした。
 千葉県神社名鑑によると、祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。元禄三年(1690年)三月に再建したという記録が遺っているようですが、それ以前の由緒および沿革は不明。



 新鎌ヶ谷駅から佐津間城趾間(2・2キロ)で初めて、であり、ただ一軒だけ出会った民家の桔梗です。

 鎌ヶ谷市の市の花が桔梗になったのには、いわく因縁があるわけではありません。一種のファン投票によって決まったのです。
 決め方は構わないけれども、桔梗がよいという市民が一番多かったからには、全戸、とまではもちろん期待しないが、何軒か桔梗を愛でている家があるのだろうと思いました。
 しかし、行けども行けども桔梗の花はない。
 フン、所詮はこんなことか! これが民意というヤツの正体なのだ。
 帽子は被っていましたが、いまにも血液が沸騰するかのような暑さで八つ当たり気味でした。
 それでも一軒だけでも桔梗を植えてくれている家があってよかった。

 佐津間城趾は新鎌ヶ谷の駅からさほどの距離でもないと思ったのですが、地図を読み違えていました。東武線で一つ柏寄りの六実駅を新鎌ヶ谷駅だと思い込んでいたのです。
 歩き始めれば、すぐあるはずの大宮神社がなかなか見えてこないので、待てよ、と思って地図を開いたら、かくの如し、だったわけです。
 引き返すのも業腹なので歩きつづけましたが、結局三十分も歩いてしまいました。

 


 佐津間城趾。
 鎌ヶ谷市内で城跡と認められるのは、ここを含めてただの二か所しかありません。左の画像の中央に石段がありますが、そこを上り詰めた右側あたりが本郭跡であろうと考えられています。

 石段を上って行くと、空堀跡と思しき窪みがあったりしますが、いまの季節は藪蚊の季節です。覗き込もうと歩みを止めたとたんに、ウィーンとやってくるので、早々に尻尾を巻くことにしました。



 佐津間城趾をあとにしたら、桔梗を愛でる家がさらにもう一軒ありました。この先になおも一軒ありましたが、庭の奥のほうだったので撮影できませんでした。



 佐津間城趾から二十分。途中、日陰がまったくなかったので、一時間以上歩いた気分で、気息奄々となりながら東武線の高柳駅に辿り着きました。いつの間にか市境を越していて、この駅があるのは柏市です。

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シナモンちゃん

2010年07月22日 17時43分00秒 | つぶやき

 今日は午前中に外出する用があったので、朝は焼き立てパンの店で食べることにしました。



 いつものように公園を横断しましたが、於京(おけい)の姿はありません。
 ……と思ったら、公園を通り抜けて20~30メートルほど歩いた空き地にいました。
 見たときは、毛並みが於京によく似ているナ、と思いましたが、身体がひと回り大きいように感じられたし、公園からはそんな距離ですが、恐らくねぐらにしているのであろう町会事務所からは100メートルは離れているので、最初は別の猫殿ではないかと疑ったのです。

 私の気配に気づいて振り返った顔を見れば、まぎれもなく於京です。
 しかし、素知らぬ顔を装って私の前を通り過ぎようとしました。
 猫が人間の女性に喩えられることが多いのは、こういう仕種を見せるからです。本当は男性である私に興味があって、そればかりか多少の好意すら持っていて、ことと次第によっては付き合ってもいいと思っているのに、わざと気のないような振りをする。

 なるほど、昨日、八日ぶりに会って、私が安堵したのを知っているのか、於京もやるもんです。
 そのくせ5メートルほど遠ざかったところで向きを変え、私が鞄から何かを取り出すのを待っています。
 今朝はユニチャームのキャッティではなく、前のように日本ペットフードのミオを持っていました。於京用と書いた食器は洗ったあと、台所シンクに置いたままだったので、持つのを忘れてしまいましたが……。

 昨夕、店内を模様替えして、ミオを置かなくなったと思った店に行ったら、前と同じ場所に小分けしたミオ(小魚入り、鰹節入りの二種類で、ともに毛玉対応)が置いてあったので、キャッティはまだ売るほど残っていましたが、買ったのです。
 食べ較べたわけではありませんが、ミオのほうが色取りが豊かだし、何より値段が高いので、美味しいのではないかと思うのです。

 おやつを食べるときの猫を見ていると、視力はあまりよくないと思えます。目で見るより先に鼻で探ろうとしています。夜行性の動物だからでしょうか。



 平日ですから焼き立てパンの店はガラガラでした。
 店の人の数も少ないのを幸いに、こっそりシナモンちゃんを盗撮しました。無事盗撮に成功したので、今日は買いません。



 左から胡桃(クルミ)パン、チーズドーム、シナモンロールです。今朝は〆て¥350也。胡桃パンは焼き立てで、まだ熱々でした。




 シナモンロールは私には甘過ぎてちょっと苦手カナ? というほかに、パイ生地が使われているようで、食べ滓がポロポロと落ちてしまいます。こんな注意書きが貼ってあるのですが、私は決してエサを与えようとしたわけではなかったのに、足許には雀殿が三羽もきていました。

 このところ、貧血とリンパの循環障害による体調の悪さに悩まされなくなったと思ったら、一昨日から風邪です。ときおり痰の絡んだ咳も出るようになりました。
 風邪をひいたのは今年二度目。三月末から四月初めにかけてひいて以来ですが、そのときの風邪はいまのような生半可な症状ではありませんでした。。
 眠りに落ちると烈しい咳が出て、目を覚ましてしまう。よって、一日じゅう朦朧とした意識のまま過ごさなければならなかったのです。本復するまで随分時間がかかりました。

 そういえば、いまになって気づいたので、果たして因果関係があったものかどうか、医師殿には訊ねていないのですが、そのしつこい咳を伴った風邪をひいてから、体調がすごく悪くなって、一時はこのまま死ぬのではないかと思い詰めるほどであったのです。



 十時、北小金の不動産屋を訪ねて新しいアパートの契約を済ませました。新松戸から一駅だけですが、また東京が遠くなりました。
 南北二つの出入口があるうち、私が利用するのは寂しい北口のほう。来月からここが私のホームタウンとなります。

 朝から肌を刺すような暑い陽射しでしたが、不動産屋を出るころにはなんとも形容のできぬ暑さになっていました。
 私の誕生日が近くなると、毎年毎年飽きもせずこういう暑さです。
 私が生まれたころは入院などせず、助産婦さん(当時は産婆さんです)を呼んで自宅で出産するのが普通でありました。エアコンはもちろん扇風機すらない時代です。お金持ちの家は扇風機があったかもしれませんが……。
 私が生まれたその日は「午後三十四度也」と内田百閒が「百鬼園戦後日記」に記しています。
 いつも暑い季節がくると、私は私を産み賜うた母の壮絶な苦労やら忍耐やらを思い、涙が滲むのを覚えます。本当はいっときといえども、母のことを忘れてはならぬのですが……。

 あまりにも暑いし、風邪もひいているので、歩きたくないという気分です。頭がボーッとしているのは暑さのせいか、風邪のせいか、判断がつきません。
 不動産屋のあとはハローワークに行くつもりでしたが、約束をしていたわけではないので、行くのは取りやめ。帰りも一駅だけ電車に乗り、スーパーで小買い物をして帰ってきてしまいました。




 暑い!!  暑い!!  といいながら庵に帰り、台所シンク下の収納に、多分
十年近く眠ったままだったこんなものを出しました。
 スーパーに寄ったのはシロップを買うためです。



 かき氷器を洗ったあと、乾くのを待つのももどかしく、ガリガリと氷をかいて、こんなものをこしらえました。

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於京(おけい)

2010年07月21日 22時17分10秒 | 地域猫

 久しぶりに於京(おけい)を見ました。八日ぶりでした。
 一週間以上も姿を見ないとちょっぴり心配でした。死んだ……とは思わなかったけれど、ほのかにはそんなことを思ったり、もしかしたら誰かにもらわれたのかと思ったり……。

 今朝、資源ごみを出したあと、いつもの公園に行ってみると、私が入って行く入口から見て、一番奥に於京がいました。わりと近くにハウスレスらしき男の人がいて、身支度を調えているところでした。
 同一人物なのかどうか、この公園を通りがかると、ベンチで昼寝をしていたり、弁当を食べているのを見かけることがあります。
 警戒心の強い於京が物怖じすることなく、すぐ近くにいます。きっとこの人も於京に餌を与えたりして、友達になっているのでしょう。

 私が腰を下ろしたベンチとは10メートルほどの隔たりがあったので、於京はしばらく気づかぬ様子でした。
 男の人はやがてリュックを背負って立ち去りました。
 於京はキョロキョロとあたりを見廻しています。誰もいなくなったので、私は「於京!」と呼びかけて、キャッティの入ったタッパーウェアを音がするように振りました。
 気づきました。
 小走りに私のほうに駆けてきましたが、ジャングルジムの下で止まるとペタンと坐り込み、至近距離までこようとはしません。でも、私のことは完全に記憶中枢にすり込まれたようで、私としてはうれしい限りです。

 また会う日に備えて、私は於京専用の食器を用意しておきました。ジャムが入っていた大きめの瓶の蓋ですが、表にマジックインキで「於京用」と書いてあります。
 タッパーウェアの蓋を開けたので、匂いが漂ったのでしょう。食器にキャッティを移し替えている間、遠巻きに歩いて植え込みに姿を隠し、こちらを窺っていました。
 私が食器を置いて引き下がると、ようやく出てきました。



 前脚の様子がまだおっかなびっくりです。



 しばらくしたら、ゆっくりと腰を落として……。




 食べ終わると、もうないのですか、という様子で、私が腰かけていたベンチの後ろをウロウロしています。こうしてみると仔猫です。
 真上から見下ろすということがなかったので、この写真を見るまで気づきませんでしたが、毛並みは鯖を思わせるようでもあります。コサバという名前でもよかったかな、と迷う私です。



 坐ってくれたので、ちょっとだけ距離を縮めても逃げませんでした。これまでで一番近づいて撮った写真です。
 まったく会えなくなるわけではないけれど、引っ越しをしたら会えるのは間遠になります。間遠にはなるけれど、必ずくるからね。そういって、食器を取り戻し、その場を離れました。
 何を見ていたのか、この朝は私から見えなくなるまで同じ場所に坐っていました。



 これは二日前……十九日夕方の光景。
 於京の姿はなく、初めて見たときには於京に遠慮して餌を食べられなかった、尻尾のないマダラがいました(右)。
 コヤツは於京に較べれば人なつっこい。於京の鳴き声はまだ聞いたことがありませんが、この子はまだ二度目なのに、私が餌をくれるものと信じて、ニャーニャーと催促しながら歩き回っています。

 左の黒白のブチは初めて見る猫殿です。もう一匹、黒の部分の少ないブチもいましたが、こちらは私がかなり離れた場所にいたのに、立ち上がっただけで逃げてしまいました。

 於京がいないとマダラはすごく活発で、エバっています。最初はこの画像の右手10メートルほど離れたところにいたので、餌を置いてやったのです。
 目を挙げたら初めて見るブチがいたので、歩いて行くと、ブチは身を隠そうとしました。そのうち食べればいいさ、と思って空き缶に餌を置くと、背後でニャーニャーと鳴く声。
 見るとマダラで、餌を置いてもらったらしいと、抜き足差し足近づこうとしていたブチは慌てて身を退いてしまい、ブチのために置いた餌をマダラが横取りしてしまいました。身体はブチのほうが大きいのです。
 チビのくせに食欲旺盛なヤツと思って、最初に置いた餌を見に行くと、食べ散らかしていて、まだ半分以上残したままでした。もう蟻がたかっていました。しょうがないヤツです。

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小金道を歩く(終)

2010年07月19日 21時02分08秒 | 歴史

 小金道の残された行程(北小金駅入口~馬橋)を歩きました。
 転居先が決まったので、そろそろ荷造りを始めねばなりません。
 新松戸へ引っ越してきたときは勤めを持ちながらの荷造りであったので、引っ越し当日になっても終わらず、積み残した荷物を、後日赤帽を雇って運ぶ、というような有様でした。
 今回は幸いというべきか否か、勤めのない身であるし、荷物の量も段ボール箱に換算すれば、本を処分したぶん(約四十箱)が確実に減っているので、当日になっても終わらないということはないと思っていますが、ひところほどひどくないといっても、体調が万全ではないだけ無理が利かないかもしれません。ともかく今月中は外を出歩く時間もなくなるだろうと考えたので、クソ暑いのを承知で出かけました。




 国道6号線沿いにある浄土宗常行院。下総観音第十五番札所。
 我が庵から歩いて行くと、この先、柏寄りにある北小金駅入口交差点から馬橋方向に向けて1キロ弱、水戸街道の旧道(といっても拡幅されてしまっていますが)が遺されています。旧道からこのお寺には裏参道を通って出入りすることができます。



 北小金駅入口交差点から見た旧道です。



 旧道を歩き始めてじきに見つけた庚申塔。
 祠はつくり直されているのでしょうが、小林一茶が歩いたときにもあったのでしょうか。



 水戸街道を示す標識。
 生い茂る木立に隠されて見逃すところでした。



 旧道沿いの民家。松戸市内で見つけた七軒目(六軒目はブログに取り上げていません)の桔梗を愛でる家。
 松戸では十五日から五日間雨が降っていません。鉢の土はすっかり乾ききって、花は萎れかけていました。

 


 国道6号線と旧道の合流点と合流点にある蘇羽鷹神社(画像下)。
 この神社は去年十一月初旬、桔梗と紅花の種子を買ったあと訪れた神社です。
 胃潰瘍で入院を余儀なくされる直前でした。我が庵のほうからくると、長い長い上り坂を上ってこなければなりません。実際は胃潰瘍に因る出血で、貧血気味だったから苦しかったのに、坂が長いので体力的にきついのだと思い込んでいました。



 途中にあったマツモトキヨシで、次回の廣徳寺の作務に備えてこんなんを買いました。



 マツモトキヨシのあるあたりは昔なら峠のてっぺんだったところです。そこから下り坂をゆるゆる歩くと、馬橋駅が近づいてきました。国道6号線と旧水戸街道の分岐点(八ヶ崎交差点)には左水戸街道、右印西道と示された道標が遺っていました。
 文化三年丙寅(1806年)建立との碑文があります。



 分岐点に架かる横断歩道橋からの眺めです。右へ曲がって延びて行く道が旧水戸街道で、馬橋駅方向に向かってさらに下り坂になっています。昔はここから富士山が望めたのでしょう。その名も富士見坂。
 左は印西道。いまは直行する道はありませんが、かつては印西を経て、成田に通じる道があったのです。



 毎度お馴染みの萬満寺。今日は山門を撮影しただけ。



 一茶が俳句の道に入るキッカケをつくり、俳友でもあった大川立砂の居宅跡です。いまは信用金庫の支店。



 馬橋の「馬橋」です。
 下を流れる長津川はたびたび洪水を起こし、そのつど橋が流されて、水戸街道を往復する旅人は難儀を強いられたそうです。そこで考えられたのが馬の鞍型をした橋。以来、流されることがなくなって、それが橋の名になったというわけです。

 この日歩いた距離は約2・3キロ。
 陽射しは灼けるように強かったものの、風が強かったので、日陰に差しかかれば涼風に恵まれた一日でした。
 これにて小林一茶の歩いた小金道探訪(全9・1キロ)は終わりました。



 馬橋から馬橋駅に戻る途中で見かけた床屋です。
 石岡を訪れたときの印象が尾を引いているのか、年代物の建築を見ると、ついシャッターを押してしまいます。看板もなく、すでに閉鎖されてしまっているようでした。

この日、歩いたところです


 新しい住まいを本土寺近くに決めました。
 古いアパートの一階です。家賃が安くなるので仕方がないことですが、部屋数は一つ少なくなります。
 さらにはガスがプロパン(私には初体験)であること。ガスレンジを新調しなくてはならぬし、時期的にまだ余裕はありますが、最近になってにわかに寒がりになった私はガスファンヒータも買い換えなくてはなりません。

 代わりに佳いことが二つあります。一つは水が井戸水で、この季節は冷たく、水道料金が要らぬこと(下水道料金は徴収されます)。
 もう一つは一階なので、狭いながらも南に面した庭があることです。「野菜を栽培して生活費を浮かせたら……」と案内してくれた不動産屋のオヤジがいっていましたが、野菜栽培はともかくとして、いま、ベランダにある植木類は処分しなくてもいいことになりました。これが私には何よりうれしいことです。
 私にはついのすみかになるか、いつかお金ができて、再び東京に戻ることになるか、先行きはわかりませんが、ツワブキ(石蕗)とハゼ(櫨)とサンショウ(山椒)は、ここをついのすみかにしてやろうと思います。

 作務をつづける予定の廣徳寺は遠くなったかと思いきや、前より三分近くなりました。
 於京(おけい)たちの居場所は廣徳寺の向こう、ということになるので、いまほど頻繁に会いに行くことはできなくなりますが、市川大野のオフグたちとは違って、まったく不可能になるというわけでもない
。ただ、会いに行くのに三十分かかることになりますが……。

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遠くへ行きたい(2)

2010年07月17日 12時26分50秒 | 歴史

 茨城県石岡探訪の〈つづき〉です。
 まあ、それにしても暑い暑い一日でした。病院で診察を受けたあと、突如行く気になって電車に乗ったので、一か月分の薬の詰まった手提げの紙袋がわずらわしくて仕方がない。嵩張るけれども重くはないので、コインロッカーに入れるという智慧が働かず、邪魔くさいと感じ始めたときにはコインロッカーなど見当たらぬ地域を歩いていて、結局一日じゅうぶら下げたまま歩くはめに……。



 まちなかの登録文化財。観光案内所でもらったガイドマップです。



 駅前通りを歩き始めて、最初に見つけた古そうな建物です。真ん中は空いていますが、お菓子屋さん(右)とバーらしき店(タウンページで調べたらパブでした)が入っています。ガイドマップには載っていないので詳細はわかりません。



 国分寺跡に到る道筋にあった建物。こちらもガイドマップには載っていない。石岡食糧企業組合とありますが、すでに閉鎖されて使われてはいないようです。

 


 同じ並びにあった商家ふうの建物と左手の四脚門。門に掲げられた看板には「居合道剣道指南青柳道場」とありました。

 以下は「まちなか」と呼ばれる地区です。十一棟の登録文化財(建物)のうち、九棟を撮影しました。

 石岡市は昭和四年三月十四日夜、市街地の三分の一を焼くという大火に見舞われています。おりからの強風が禍して、六百六戸が全焼。類焼は二千戸、被災者は三千人といわれる被害を出しました。幸運にも類焼を免れた一軒を除いて、すべて大火のあとに建てられたものです。



 昭和五年建築の十七屋履物店。大火のあと、この地区で最初に再建された建物であり、「看板建築」と呼ばれる建築様式の先駆けといわれています。
※「看板建築」とは何か? 受け売りではありますが、このブログの最後に私的解説を載せておきました。

 


 ここは三軒並んでいます。上は福島屋砂糖店。昭和六年に建てられた砂糖問屋です。画像ではわかりませんが、壁は土壁漆喰造りではなくコンクリートです。木造の土蔵造りでコンクリートの壁というのは非常に珍しいそうです。
 下は前の十七屋履物店の画像では右に写っている久松商店です。これも看板建築。昭和五年に建てられた化粧品店兼雑貨店です。現在は喫茶店。

 


 江戸時代末期から明治初期にかけて建てられた染め物屋・丁字屋。
 いまは「まち蔵藍」という観光施設になって、藍染め体験もできるそうです。店内では特産品や駄菓子を売るほか、喫茶コーナーもあります。昭和四年の大火で焼失を免れたただ一つの商家建築です。



 きそば東京庵。昭和七年の建築。



 すがや化粧品店。昭和五年の建築。当初は雑貨店。この地区の看板建築の秀逸な一つとされています。



 森戸文四郎商店。昭和五年に建てられた飼料店。現在は生花店です。これも看板建築。

 ここまでの七店舗はいずれもメインストリートにあります。あとの二店舗は路地を入ったところにありました。



 昭和七年建築の栗山呉服店。




 昭和五年の建築。ここも看板建築。いまは喫茶店・四季となっていますが、最初から貸店舗として建てられたものだそうです。



 これもガイドマップには載っていないので不明ですが、喫茶店・四季の前にありました。ガラス戸には大経師と書かれています。

 大経師には二つの意味があります。経巻や掛け軸の表装をする職人(経師)の長という意味、もう一つは大経師暦という暦(こよみ)を発行する権利を有する者という意味です。
 大経師暦は京暦ですから、関東の地で用いる人があるとは思えません。とすると、経師組合の長ということになりますが、家の前に車が停めてあったので、まだ商売をしているのかどうか、しているとしたらどちらの大経師なのか、中を確かめてみることができませんでした。

 石岡の人は何やらゆかしく、人なつっこい。
 民俗資料館ではほかに訪問者がいなかったせいか、係の女性が一緒について廻ってくれました。
 總社宮を出て歩いていたら、建築中の民家の前に工事用車両が止まっていました。ちょうど昼休みが終わる時刻だったので、工事人たちが戻ってくるところでしたが、通りすがりの私に「こんにちは~」と挨拶してくれたのです。私の後ろを顔見知りの人が歩いているのかと思わず振り返ってしまいました。
 照光寺でも松平家の墓所を探して本堂脇をすり抜けようとしたら、休憩している工事関係者がいて、同じように「こんにちは」と挨拶してくれました。
 奈良や京の都から遠く離れているのにもかかわらず、国府があったので、みやこびとのDNAが残っているのだと勝手に思ったことでした。

 このまま私に仕事が見つからないのであれば、どこに住んでも同じ。石岡なら家賃も安いかもしれないので、一考の余地あり。そう思って通りすがりの不動産屋を見てみたら、ぬぁーんと新松戸と変わらない……のでした。

 私が思わず口ずさんだ「遠くへ行きたい」は、オリジナルではなく、ちあきなおみがカバーしたバージョンです。バックの楽器がわずらわしい(編曲がマズイ?)キライがありますが、まさかYou Tubeにあるとは思いませんでした。

 オリジナル曲ばド下手な歌手が歌っているので、私には聞くに堪えません。ちあきなおみが歌っていたなどとは知らない人が多いと思いますが、彼女が五年早く生まれていたら、彼女の歌がオリジナルになっていて、「喝采」を凌ぐ代表曲になっていたかもしれない、と思うのです。

※看板建築とは関東大震災以降普及した木造二階建ての店舗兼住宅で、屋根裏部屋を造り、建物前面を平坦にして、モルタルや銅板で仕上げて装飾をつけた建築様式です。
 それまでの商店といえば、軒を大きく前面に張り出させた「出桁造り」と呼ばれるものでしたが、関東大震災後、各地の復興では街路を拡幅することに重きがおかれたので、出桁造りにして、道路に軒を出すのは違法建築ということになりました。
 また、耐火性を向上させるため、外側をモルタルや銅板などの不燃性の材質で覆う必要がありました。折しも洋風デザインへの志向が強くなって来ていたことも重なって、大量の看板建築が造られることになったと考えられています。

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遠くへ行きたい(1)

2010年07月16日 16時10分50秒 | 歴史

 一昨日からすでに梅雨明けを思わせるような夏空つづきでしたが、今日、やっと梅雨明け。
 一昨日木曜日は出撃するのが早かったので、朝の散歩は取り止め。昨朝はまた散歩に出て、焼き立てパンの店へ行きました。



 朝食はベーコンエッグサンドにするつもりで、卵もベーコンもあるので、買ったのは食パン一斤だけ。
 コーヒーだけもらって、買い食いはしませんでした。右手前に置いてあるのは、いつも持ち歩くことを心がけているところの、タッパーウェアに詰めたキャッティ(ドライキャットフード)です。



 鐘の下公園に寄りましたが、於京(おけい)その他の姿はなし。
 缶詰の空き缶が置いてあるということは、私以外にも面倒を見ようとする人がいるということで、そこそこに食べているんだなと思うと安堵します。

 木曜日、出撃が早かったのは東京・湯島へ通院の日だったからです。
 血液検査のための採血があったので、新松戸発七時四分というラッシュアワーの電車に乗りました。病院着は七時五十五分。
 採血を終えて、結果が出るまで一時間待ったあと、結果の報告を聞くとともに診察です。血液もリンパの流れも、結果は可もなし不可もなし。リンパのほうは悪くもなっていない代わり、特段の改善もありません。

 ひところは非常に調子が悪かったが、最近はそうでもなくなったというと、同じ薬の処方をもう少しつづけて様子を見ましょう、ということになりました。で、また手提げの紙袋にいっぱいになるほどの薬をもらうこととなりました。
 薬局で待っている間、四週間前に偶然会ったYさんの姿を捜しましたが、きていないみたいでした。前回と較べると私の時間が一時間早いので、時間のズレがあるのかも……。よほどYさんの正体を訊こうかと思い、喉まで出かかったのですが、結局口に出すことはせず、後ろ髪を引かれるような思いで病院をあとにしました。

 本郷から湯島へ切通坂を下っているとき、ふと「遠くへ行きたい」という歌が口をついて出ました。心の中でも、どこか遠くへ行きたいと思いました。
 ほんの少し前は、わずか十分といえど電車の冷房に当たると偏頭痛が出たので、朝も警戒しながら電車に乗ってきたのですが、ラッシュアワーで乗客が多く、冷房の効き方が悪かったものか、三十分以上乗っていたのに、偏頭痛の出ることはありませんでした。
 長い時間電車に乗っても大丈夫な身体に戻ってきたようです。

 ただ、突然思いついたことだし、薬も抱えているので、まさか一泊二泊するようなところへは行けないが、日帰りできる範囲で、ちょっと遠いところへ行ってみようと思いました。
 降りるはずの東京メトロ・湯島駅への階段は降りず、横断歩道を渡って、不忍池を横目に見ながら上野駅へ……。
 東北線、高崎線、常磐線のどれでもいいから先に出る電車に乗ろうと決めて、改札を通り抜けました。

 上野駅に着いたのは十時十五分。電光掲示の発車時刻表を見ると二分後に発車する勝田行があったので、行く先は常磐線沿線と決定。
 まだどこへ行くとも決めていません。偶然常磐線に乗ることになったので、決まらなければ松戸で降りて緩行線に乗り換え、おとなしく家に帰ってもいい。

 松戸が近くなるころ、携帯電話でインターネットに接続しました。携帯電話ではインターネットをやったことがないので、小さな画面と手数の多さに閉口しながらも、常磐線沿線の都市名を思い出しながら、そういえば石岡という町があったな、と思いついて、石岡市観光協会のホームページに到達しました。

 石岡という名が閃いたのは、そのときはお寺の名前が思い出せなかったのですが、「関東の清水寺」といわれる、西光院というお寺があって、機会があれば行ってみたいと思っていたからです。
 アリャリャと思うこともありました。石岡には国府跡があり、国分寺跡も国分尼寺跡もあるのです。つまり、いつごろまでかはわからないが、かつて常陸の国の中心は水戸ではなく、石岡だったということです。




 石岡着は十一時五十分。途中、特急列車の通過待ちが二度あって、一時間半かかりました。電車は取手でかなり空き、土浦を過ぎると乗客はまばらという状態になって、冷房もかなり効いていたと思いますが、幸いにして偏頭痛は出ませんでした。
 駅前に観光案内所があったので、パンフレット類を集めました。私が知らなかっただけかもしれませんが、観光には結構力を入れている市です。
 ただ、残念なことに、行きたいと思った西光院は石岡市内には違いないけれども、最寄りのバス停から四十分も歩かなければならないこと、バス便も一日数本しかなく、次の発車は一時間以上もあと、ということだったので、この日は諦めるしかなかったことです。

 代わりに、国府や国分寺のあったことが意外だったので、駅から近いということもあり、まず国分寺跡へ向かいました。



 徒歩約十分で国分寺跡に着きました。現在は玄関口になっているところが中門跡です。

 聖武天皇が国ごとに国分寺を建てるよう詔を発したのは天平十三年(741年)のことですが、常陸国分寺の建立は天平勝宝四年(752年)です。
 創建当時、平城京から下る東海道の終点は江戸ではなく、この常陸の国。終点の地に相応しく、非常に大きな伽藍であったことが判明しています。

 


 国分寺薬師堂と薬師堂後ろにある金堂跡。

 


 茅葺きの旧千手院山門と国分寺本堂。
 千手院は弘仁九年(818年)の開基。大正八年に現在の瑠璃光山国分寺と合併して廃寺となり、山門だけが遺されました。

 


 国分寺跡から徒歩七分。細い路地を折れたところに十一面観音がおわしました。
 格子の扉から中を覗くと、格子の厨子があり、その中におわすので、よく見えません。鎌倉時代の作と伝えられ、身丈は141センチ。頭部には十の化仏があるのですが、すべて失われているそうです。

 このあと、若宮八幡宮、青屋神社と巡って、石岡小学校へ。
 市街地の観光スポット巡りには、常陸大掾(だいじょう)氏歴史コース(所要七十分)と健康ウォーキングコース(同九十分)という二つのお勧めコースがあって、ポイントごとに案内標識が行き届いているので、行き過ぎたり見つけられなかったりということはありません。非常に懇切丁寧です。
 ちなみに大掾氏とは平安時代から戦国時代までの七百年間、この地に君臨した豪族です。祖は平国香。平將門に討たれた人です。

 


 常陸国府があったのは現在の石岡小学校の敷地です。
 校庭内に石岡市民俗資料館があり、その横に常陸国府跡、風間阿弥陀(室町時代)、箱式石棺(平安時代)、府中城土塁(室町時代)、陣屋門(江戸時代)と史跡が並んでいます。

 


 旧国府のすぐ隣。總社宮参道入口に建つ煉瓦造りの常夜灯(左)と静まり返った参道。

 


 茅葺きの随神門と日本武尊が東征のおり、ここに腰かけて休んだという腰掛石(右)。



 總社宮拝殿。

 


 總社宮参道をあとにして七分ほどで天台宗東耀寺の山門に着きました。創建は養老五年(721年)と古い。創建当初は法相宗。

 


 東耀寺を出るとすぐ浄土宗照光寺の墓域に繋がっています。照光寺は応永七年(1374年)の開創。

 お盆が近いからでしょうか。東耀寺も照光寺も小型クレーンを積んだ石屋さんのトラックが入って本堂を撮影しにくくしていました。石岡であるがゆえに石屋も多いのかと駄洒落を真剣に考えたり……。



 照光寺の常陸府中藩主・松平家墓所。
 常陸府中藩(二万石)は初代水戸藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆に始まります。当初墓所は江戸上屋敷に近い小石川の宗慶寺にありましたが、大正十五年にこの境内に移されたものです。

↓今回歩いたところです。
http://chizuz.com/map/map71911.html

 このあと、市の中心部に数多く遺る昭和初期のレトロな建物を巡りましたが、あまりにも長くなってしまうので、別項を立てることにします。〈つづく〉

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小金道を歩く(2)

2010年07月13日 19時08分26秒 | 歴史

 朝一番で銀行へ行かねばならなかったので、外出したついでに北小金まで一駅だけ電車に乗って、小林一茶が歩いた小金道の三分の一を歩きました。
 ついでのほうが本題になりましたが……。

 


 歩き始める前、北小金駅前のサティ二階にあるイタリアントマトでコーヒーを注文して早くも休憩。実際はいまにも雨が降り出しそうな空模様だったので、雨になったら尻尾を巻くことにしようと、様子見をしたのです。



 北小金駅前にあるマツモトキヨシ22号店。ここがマツモトキヨシの前身・松本薬舗発祥の地らしい。
 松本薬舗からマツモトキヨシと名を変えて二店目なのですが、柏にあった1号店が閉鎖されてしまったため、実質的に一番古い店になったのです。
 なのに「22号店」とは? 最初は見栄を張って、それぞれ1号店と2号店なのに、たくさんあるように見せかけるべく21号店22号店と「カマした」から……。



 駅前の通りを真っ直ぐ南下して国道6号線との交差点(北小金駅入口)に出ます。ここが今日のスタート地点です。
 再び北小金駅目指して戻ると、左手に一月寺があります。右端の白い柱は普化宗本山だった旧一月寺(いちげつでら)跡を示す標識です。

 


 旅籠玉屋。江戸時代後期の建物がそのまま遺されています。
 このあたりが千住、松戸につづく水戸道中三つ目・小金宿の中心でした。当時は百五十軒もの旅籠があったそうです。

 


 浄土宗東漸寺。
 文明十三年(1481年)、現在地より1キロ北東の地に開創。天文年間(1532年-55年)、現在地に移された、関東を代表する浄土宗寺院です。去年四月以来の参詣です。



 東漸寺参道入口にいた猫。首輪や鈴のたぐいはつけていませんでしたが、野良ではなく飼い猫のようでした。



 本堂の扉が開いていて、阿弥陀三尊を拝むことができました。



 本堂前にある樹齢三百数十年といわれる枝垂れ桜です。
 毎年(といっても二年前から)見にこようと思っていながら、気がつくのはいつも花の季節が終わったあとです。



 東漸寺の鐘楼脇から県道白井流山線に通じる通路がありました。林の中に延びている道があるので、堂宇でもあるのかと思って足を踏み入れ、初めて知りました。このあたり、どの道が小金道の跡なのか分明ではありません。

 


 県道白井流山線と常磐線に挟まれた地域の中間あたりの住宅街。松戸市内で見つけた四軒目と五軒目の桔梗を愛でる家。互いにすぐ近くにありました。

 


 常磐線をくぐり抜けるガード(通称流山ガード)の東側口(画像上)と西側口。車がすれ違えないので、交互に一方通行。そのため信号機があります。



 ガードの壁の一部に残る煉瓦。
 1896年(明治二十九年)、現在の常磐線の前身・日本鉄道土浦線(田端-土浦間)の開業に合わせてつくられたときのままです。

 このガードがあるのは、現在の町名でいうと新松戸と小金清志町の境になりますが、当時は東葛飾郡小金町(明治二十二年町制施行)。
 それなのに流山ガードと呼ぶのは、いまでは寸断され、拡幅されて、なんの面影も遺っていませんが、流山への道が厳然としてあったからではないのか、と思われます。



 ガードから武蔵野貨物線沿いに、歩いて6分ほどで流鉄の線路脇に出ました。
 勤めを持っていたころはもちろん、新松戸駅へ出るときにはいまでも私が通る道です。踏切を右手に行くと新坂川を渡る大谷口新橋があり、川沿いに曲がって小金道はつづきます。
 左手の道路に描かれた「止まれ」の標示の先にある建物周辺が野良のコツブ(猫)の棲息地。しかし、もう一年近く姿を見ていません。



 これは去年八月十日夜、初めて見たときのコツブです。



 なんの変哲もない道ですが、新坂川沿いにつづく小金道です。手前が新松戸駅方面。



 第一回、流山の一茶双樹記念館に向けてスタート地点としたT字路に着いたところで第二回目は終了です。



 昨日の夜、茄子とオクラ、ブロッコリーを入れた夏野菜カレーをつくったので、今日のお昼がきっと一番美味しい頃合い。よって焼き立てパンの店は素通り。
 鐘の下公園を通ると、於京(おけい)はいないと思ったら、私が向かって行く先を小走りに駆け去って行くところでした。
 チッチッと舌を鳴らして呼びかけると、桔梗の花が咲いている町会事務所のところで立ち止まって、私を待っていてくれました。

 明るいところでよくよく見ると、痩せて身体が細く感じたというよりも、まだ仔猫のように思われます。ポンポンと弾むように走るのも、大人の猫には見られない仕種です。
 仔猫だと思うと、私が鞄の中をまさぐってキャッティを取り出そうとするのを、じっと待っている風情がますます愛おしい。キャッティとともに、いつも持って歩ける食器を見繕ってやるかとも思いました。心なしか目つきの険しさも和らいできたようです。

 今日は2・7キロ歩きました。第一回分を合わせると、全行程(9・1キロ)の三分の二に当たる6・1キロ
を歩き終えたことになります。
 いまにも雨が落ちてきそうな空模様で涼しかったこともあり、さほどの疲れに襲われることなく終わりました。

今日歩いたところ

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初作務

2010年07月11日 16時16分57秒 | 日録

 廣徳寺の初作務を体験してきました。
 天気予報は雨だったので、昨日の時点では行くのを諦めていたのですが、朝七時を過ぎても、曇ってはいても空は明るかったので、しばらくは保つだろうと踏んで出かけることにしました。



 我が庵から徒歩十七分、千七百歩。八時ちょうどに廣徳寺門前に着きました。会社に初出勤するときのように、誰かが待ち構えているわけではありませんが、だからこそか、緊張感が高まってきます。



 まず本堂にお賽銭をあげてお参り。
 名乗りもせず挨拶するだけで通り過ぎましたが、竹箒で参道を掃いている男性がいました。

 

 本堂前を左に折れると、墓地入口にある水子地蔵像。
 左手のお線香や蝋燭の置いてある小屋(お参りしているのは墓参の人)の下の引き戸に、ごみ袋やガムテープが用意してあります。十袋が一束になっているので、今日は十袋作るのを目標にします。



 レーキを手に取って、先日の打ち合わせの手筈どおりに裏手に上る石段へ向かいます。



 さて、首にタオルを巻き、軍手をはめて、喉が渇いたらすぐ飲めるように、ダカラを入れたマグボトルをトートバッグから出して……八時八分、いよいよ作務開始。

 まずレーキで乾いている表層部分を手前に引き寄せて集め、袋に詰めて行きます。
 一袋二袋と詰めたところで、早くも前途多難という思いがして、思わず深い溜め息。
 この日一日でやってしまおうと集めた量が、とても十袋では済まないような感じだったからです。
 最初は両手ですくってバッバッと袋に詰め、あとで隙間がないように押し込んで行くのですが、一袋には結構な量が入るような、思ったほどは入らないような……。
 まあ、ともかく先に五袋……半分作れば大体の見当もつくであろうし、全部やらなければならぬという決まりでもない、と思い直して、あとは黙々と……。

 曇って、どちらかといえば涼しい朝でしたが、作務開始十数分で、目に入ってくるほどの汗をかいていました。
 自分ではそれほど激しい労働をしているとは思えません。が、考えてみると、リンパの循環障害が明らかになってから、労働らしい労働をしたことがありません。ひところに較べれば、少しはよくなっているかなという感覚はありますが、異様な汗の出方です。やはり体調は十全ではないのか。

 首に巻いたタオルはすっかり濡れてしまいました。気持ちが悪いので、真新しいタオルに取り替えました。二本しか持ってきていなかった(二本あれば充分と踏んだのですが)ので、濡れたタオルは木の枝にかけて風に当てておきます。
 滴り落ちる汗を拭いながら、エライことを始めてしまったな、と思ってみたり、何時間かかるかわからないが、朝のこぬ夜はないと思ったり……。
 私が作務をする場所は、朝のうちは楓と桜の樹の木陰になっていますが、昼を過ぎると、直射日光に晒されます。九月ごろまでは曇天でない限り、午前中にこなければなりません。

 途中、参道を掃除していた人がやってきました。Sさんといって、九年も前から奉仕をしているそうです。



 作務開始後四十分。写真で見直すとあまり変わっていないようですが、これでも随分減っているのです。
 さて、まだ濡れている枯れ葉群はレーキで引き起こして、風が通るようにしておきます。泥炭というのはこういう感じでできて行くのだろうと実感できます。湿っているので互いにくっついて層を形作り、結構重いのです。

 道元禅師は「只管打坐(しかんたざ)」、ただ坐れ、坐禅せよ、といわれました。
 私が禅に興味を持ったころ、(何も考えず、ただ坐れといわれているのに)ただ坐るとはどういうことなのか、つい頭で考えてしまいました。いまでも理屈で考えようとするのは変わりませんが、あとで気がつくと、少なくとも何分かの間、枯れ葉を袋に詰めることに熱中していて、何も考えていなかった、という時間がありました。

 見た目ではわかりませんが、枯れ葉に混じって長い枯れ枝や太い草の茎があります。そのまま詰めると袋を破ってしまうので、20センチ程度の長さに手折らなければなりません。まだ生乾きで、とても手では折れないもの、太過ぎて手に負えないものもあります。
 袋に入れられないものはどうするか。打ち合わせをしていないので、自分の判断で10メートルほど離れたところに臨時の置き場所を作りました。

 腰をかがめて袋詰めをしているので、ときおり息抜きと腰伸ばしを兼ねて枯れ枝置き場まで歩きます。



 詰め終わった袋は一輪車に載せて、50メートルほど離れた場所へ運びます。最初は十袋では足りぬと思いましたが、九袋で終わりました。

 ときおりプーンと羽音を立てて蚊がやってきます。携帯蚊取り線香のことは考えになかった。これから夏の間の作務には必需品です。
 お寺で作務をしているのに、こういうことは許されるのかと思いつつ、二の腕にきたヤツをピシャリ。私の血はほかの人と較べて鉄分が少ないんだぞ、と忠告してもくるのでまたピシャリ。



 所定の場所に九袋積み終えました。
 雨除けに手前にある白いシートを被せて、今日の作務は終了です。開始から二時間十分。終わったのは十時十八分でした。
 途中で写真を撮ったりしているので、余裕綽々でやっているな、と見えるかもしれませんが、当人はなかなかどうして大変なのです。



 作務終了時の枯れ葉の山です。残りは五十袋分ぐらいか。

 やっと終わったと思ったら、異様な疲れを覚えていました。
 とくに脚です。投げ出したくなるようなだるさです。二日前の金曜日もハローワークへ行って帰ってきただけなのに、同じように異様な疲れ方でした。
 偏頭痛や胸焼けのような症状があったころは、それはそれで辛かったけれども、一万歩以上歩いても、こういう疲労感はありませんでした。体調云々ではなく、蒸し暑い気候のせいならよいのですが……。

 作務を終えたら、北小金まで小金道のつづきを歩こうかと考えていましたが、とんでもない世迷いごとでした。疲労もさることながら、汗がすごいのです。

 

 廣徳寺と我が庵の中間あたりにある大谷口城の馬屋敷跡。
 小公園になっているので、休憩して行くかと思ったら、数少ないベンチは向かいの広場でこんなこと(ゲートボール)をしている軍団の一部に占領されてしまっていました。



 鐘の下公園に寄ってみたら於京(おけい)がいました。私を認めると確実に近寄ってくるようになりました。



 朝を食べていなかったので、焼き立てパンの店に寄りました。今日は日曜日。さすがに混み合っていましたので、持ち帰りにしました。
 今日のシナモンちゃんは店員さんがかわゆいと思って描いたのでしょうが、ちょっとキビが悪い。あとはチーズカレーパンとメロンパンです。今朝は〆て¥350也。

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梅雨の晴れ間と於京(おけい)

2010年07月10日 18時13分00秒 | 地域猫

 昨朝、ハローワークのインターネットサービスで求人が一件見つかったので、十一時にハローワークへ。
 一時間半待ってようやく私の順番がきたと思えば、年齢不問と書いてあったのに、「極秘情報」と呼ぶのかどうか、ハローワークの担当者に会って初めてわかる情報では、希望しているのは四十五歳ぐらいまで、だとさ。

 最初から年齢制限のあることがわかっていれば、わざわざ電車に乗って行きはしないのに、無駄足を踏ませおって……。どうせロクな会社ではあるまい、と八つ当たり気味にプリプリしながらも、体調が持ち直してきているせいか、ここまできたら、ゆっくり待つほかはあるまい、と結構
鷹揚に構えています。

 ハローワークで聞かされた雇用状況の悪さもあります。
 厚生労働省が発表した五月の千葉県の有効求人倍率は0・43で、全国四十七都道府県中、下から八番目という低さだそうです。ことにハローワーク松戸の管轄地域(松戸、柏、我孫子、流山、野田)はさらに悲惨で0・31。五市合わせると、百万を超える人口に比して、事業所が少ないということもあるのでしょうが、こんな数値では仕事捜しを諦めるわけにはいかないが、諦めの境地に到っていたほうがいいかもしれない。

 帰ってくると、郵便受けには履歴書を送っておいたところから、「不採用」という通知がきていました。
 私は自分を売り込むセールストークが生来苦手なので、履歴書と職務経歴書だけでは先方が私の実力のほどを知るのは至難の業であるとは思うが、齢は行っているけれども、費用対効果で考えれば、知らぬが仏とはいうものの、どの企業も人を見抜く目がないんだなぁ、と自分勝手な独り言を呟いて、それでも以前と較べれば、さほど落ち込んではいません。



 昨日は午後三時ごろから雨になりましたが、弱い雨でした。コンビニへ電気料金を払いに行きがけに鐘の下公園を覗いてみたら、仮称・劇団一人だけがいました。
 植え込みづたいにゆっくりと歩いていました。歩き方を見ていると、我がブログペットのコタロウに似ています。

 今月五日、理化学研究所が神戸のポートアイランドで開発を進めている次世代スパコンの愛称が「京(けい)」と決まりました。
 文科系の私が理化学研究所という名前を持ち出すのは唐突なようですが、宇宙物理学者の故・小田稔(1923年-2001年)さんが同研究所理事長に就任された直後(確か1988年だった)に、武蔵境のご自宅をお訪ねする機会があって、以来、私には無縁なこと、理解不可能なことが多くても、同研究所関係のニュースには目を通すようにしてきたのです。

 次世代スパコンの愛称が決まったのが仮称・劇団一人の名前を考えあぐねていたときだったので、スパコンにちなんで「於京(おけい)」と呼ぶことにしました。
 ♀か♂かわからぬのに、女名前をつけたのですが、仮に♂であったとしても、かぼそい身体つきは於京という名に相応しいのではないかと思います。

「名前を決めたんだよ」
 そう呼び掛けて、いつものようにキャッティを二摘み置きました。



 近くで見ると、毛並みには茶色も少し入った三毛です。ということは、♀か。

 前は私がその場に腰を下ろしたままでいると、植え込みの陰から出てこようともしませんでした。
 この日は私の手が伸びている間こそ奥のほうでじっとしていましたが、私が手を引っ込めるとスルスルと出てきて、カリカリと小気味よい音を立てて食べ始めました。
 私への警戒心はかなり薄れたようなのに、食べている間もときどき周りに警戒の目を光らせるのは怠りないようです。私にはわかりませんが、黒猫や身体の二回り小さいライバルの気配があったのでしょうか。

 私には餌づけをしようという気もなく、抱いたりしたいという気もないので、食べてくれさえすればいいのです。
 食べ始めたのを確認すればその場を去ってしまいます。市川大野のオフグ一家の仔猫たちのように、「ニャー」と挨拶してくれるようになったら、いっそううれしいことはうれしいけれども……。

 今朝は一転して梅雨の中休み。
 朝から眩しいばかりの陽光が溢れていました。
 朝の散策ついでに公園を覗いてみましたが、於京その他の姿はありません。地面は湿っています。
 昨日の夕方、雨も強くなり、嵐のような風が吹いたので、長さ1メートル以上もある欅(ケヤキ)の枯れ枝が吹き飛ばされていました。
 不思議なものですねぇ。廣徳寺で作務をしようと決めたからか、自然に腰を屈めて枯れ枝を拾っています。

 焼き立てパンのパン・デ・モルデに行きました。土曜日だというのに、暇人たちはどこか遠出でもしたものか、テラスは無人、店内の客も私を含めて三人だけでした。



 で……こんなものを買って、ゆっくり朝食と相成りました。
 会計をするとき、持ち帰らずテラスで食べる、というと、こういうトレーに移し替えてくれます。
 左から餡ドーナツ、シナモンちゃん、石窯ピザ。〆て¥380也。コーヒーは無料。シナモンちゃんはかわゆいので買いましたが、クリームパンでした。
 シナモンはあまり利いていないようでした。



 雀殿にも朝食をお裾分け。
 キミにあげたのだから取るはずはないのに、ついばむとチョンチョンと弾むようにして遠くへ行き、また戻ってきます。

 帰り道ついでなので、先日スタートしたT字路から馬橋方面へ、小金道をほんの少しだけ歩きました。



 大勝院や大谷口城址、廣徳寺へ行くとき、新坂川を渡る横須賀橋です。
 一茶の時代には、この川はまだありません。一茶が歩いたのは、多分畑の中を通るのんびりとした道だったのでしょう。
 この道を左のほうに行くと、T字路を過ぎて坂川に架かる新横須賀橋です。新坂川に架かるのが横須賀橋で、坂川に架かるのが新横須賀橋……。わっかるかな?



 新坂川べりでは合歓(ネム)の花の花盛りでしたが、朝日が強過ぎて逆光になってしまいました。

 明日の日曜日はどうやら雨のようです。
 昨日の天気予報が曇のち雨でなければ、昨日のうちに廣徳寺の枯れ草をレーキでひっくり返しておき、今日、袋詰めができていたかもしれないのに……。
 初作務はいつになりますことやら……。

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小金道を歩く(1)

2010年07月08日 20時17分53秒 | 歴史

 今日八日の天気予報は曇のち雨。明日は雨のち曇。
 廣徳寺の境内清掃の儀はいっぺんにいろんなことをしようとせず、まず枯れ草の山をレーキでひっくり返しておくことから始めようかと思っていたのですが、雨というのでは、濡れていないところをわざわざ濡らすことになり、賽の河原の石積みのようなことになってしまいます。日曜日あたり、天気がよいようであればいよいよ行ってみませうか、と考えていたところ……。
 九時になると、いきなりビャービャーと不審な機械音。ヘッジトリマーというヤツの騒音で、どうも我がマンションの植木の剪定に、植木屋さんが入ったらしい。十時になっても十一時になっても熄む気配がありません。
 ッたく! 
このクソ暑いときにルッセェなァと思っていたら、さらに廃品回収車の来襲。よりによって私をもっとも苛立たせるシンジケートの車がやってきやがりました。そうするうちにもう一台。これも常連。二台が右から左からと入り乱れて、交互に右へ行ったり左へ行ったり……。

 最悪じゃ! と思わせたのは、参議院選挙の立会演説をするという、これまた私がもっとも信用できぬと思っている政党の街宣車がきて、我が庵周辺はまったくの騒音の坩堝(るつぼ)と化してしまったことであります。
 候補者みずからこの車に乗っています !!  後ろで手を振っているのが候補者です! と、まるで鬼の首でも取ったみたいなことを盛んにいっていましたが、ンなこたぁ当ったりめぇの話じゃねぇか。

 寄ってたかって、こいつら本当にウルセェ!
 私はダカラをマグボトルに詰め、カメラとキャッティという旅支度を整えて、どこかへ避難することにしたのでした。
 外へ出てみると、曇のはずがカンカン照りです。
 どこへ行くべぇかと思案しながら歩いているうちに、そうだ、小林一茶の歩いた小金道の半分だけ歩いてみようと思いついて、「←流山・北小金→」の標示があるT字路へ。



 小金道を歩く試みはここからスタートします。

 


 上・我が庵から一番近いお寺・正福寺。四日前の朝の散歩で立ち寄ったばかり。女躰神社(下)ともども写真を撮っただけで通過。



 新横須賀橋で坂川を渡ります。ここから流山市。
 一茶の時代(1763年-1828年)はまだ放水路(新坂川)が整備されておらず、坂川は逆川と呼ばれて、しばしば洪水を起こしていたはずです。



 雷(いかずち)神社。ここは初めてだったので参拝しました。
 創建はいつの時代なのか不詳ですが、江戸時代に入って再建されたということだけわかっているようです。祭神は大雷神(おおいかずちのかみ)。吉川の蕎高神社と同じように、ここも狛犬の配置が一般とは逆になっていました。



 この神社では毎年一月の二十日に、享保年間(1716年-36年)からつづくといわれている「鰭ケ崎おびしゃ行事」が行なわれます。赤鬼青鬼の面をあしらった的に矢を射て邪悪を払うという行事です。
 かつては千葉県内の利根川流域の多くの神社で行なわれていたのですが、いまはどこも継承する人がいなくなり、この雷神社の祭は貴重だということです。
※写真は流山市のホームページから拝借しました。



 鰭ヶ崎の東福寺。ここも参道入口だけを撮影して通過。



 県道白井流山線に出ました。
 街路樹は桜です。しばらくこの道に沿って歩き、用水路(神明堀)に出くわしたところで、用水路沿いに右折。



 用水路沿いの道の二階で風にはためいているものがありました。以前もこの前を通ったことがあって、なんだろうと思ったものでした。大きなものはコントラバスの胴体のような形をしています。
 しばらく立ち止まって見上げていたら、車が停まってオーナーらしき初老の紳士が降りてきました。思い切って声をかけたら、果たしてオーナーでありました。

 風にはためくものの正体はコードバンでありました。
 この工場では染料染めだけをしていて、染料染めをしているメーカーは日本ではただ一社だけだそうです。他のメーカーでは塗料染めをせず、上塗りだけをするので、使い込んでもコードバン独特の艶が出ないのだ、とか。
 ふーむ。靴にせよ小銭入れにせよ、コードバンがほしいと思っていたけれど、ちょっと値が張るので……私が持っているのは付箋ホルダだけです。



 流山街道を突っ切って歩いていると、江戸川の堤防が見えてきました。もう少し手前で右に折れなければならなかったようです。



 曹洞宗流山寺。二度目なのでここも写真だけで通過。

 


 赤城神社と境内のムクロジ(無患子=下の画像中央の樹)です。
 ここは三度目ですが、ムクロジがあるので入らせてもらいました。すでに花は散ってしまったようでした。



 真言宗豊山派光明院。本堂はまだ工事中でした。



 前は素通りしましたが、今日は最終目的地の一茶双樹記念館。一茶寄寓の地です。入館料100円也を払って入り、「葛飾下総今様小金道繪圖」(¥200)も手に入れました。



 これを開くと、馬橋にある大川立砂邸からここまで、一茶が歩いたであろうと考えられる経路の地図があります。
 版型が大き過ぎるので、我がスキャナでは取り込めず、ここに載せることはできませんが、当てずっぽうで歩いてきた道は大体正解でありました。

 
 


 上・この時期にはいかにも涼しそうな双樹亭。中・双樹亭前の枯山水の庭。下・「夕月や 流残りの きりぎりす」の句碑。一茶が流山で詠んだ句です。



 一茶双樹記念館を出てしばらく歩いたところ、民家の玄関先で見つけた桔梗の鉢植え。桔梗のある家を見つけたのは流山市内では二軒目です。

 


 流鉄の平和台駅近く、イトーヨーカ堂の中。
 ミスタードーナツやKFCがあり、各店共通のテーブルでセルフサービスで食べます。去年の夏、守谷駅ではこういう形式のところで食べるのは抵抗を覚えたものですが、いまではとくにこだわりはなくなりました。
 私は天狗麺房という店のサラダうどんなるものを食べました。胡麻だれの冷やしうどんの上に貝割れ大根、キュウリ、トマトなどの野菜サラダが乗っかっています。
 暑かったので冷やし中華を食べようかとこの店を選んだのですが、順番を待っている間、ふと目を惹かれたので初志を変更。
 結論。冷やし中華を食べるべきでありました。

 店内は冷房の効き過ぎです。ドップリと汗をかいていたので、最初こそ心地はいいが、ギンギンと冷え始めると、また偏頭痛が出るのではないかと心配になります。早々に食べ終えて、暑い盛りの街に出ました。



 帰りはさすがに疲れたので、歩く気力は完全に奪われていました。
 平和台駅から流鉄に乗って、二つ目の小金城趾駅で下車。ここから我が庵までは歩いて十分。左が私の乗ってきた電車です。

 今日歩いた小金道は3キロ強。半分ぐらいかなと思っておりましたが、馬橋~流山9・1キロ(先の「葛飾下総今様小金道繪圖」による)の三分の一に過ぎませんでした。

今回の地図です。

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チョー!! 嬉しいこと

2010年07月07日 20時14分25秒 | 日録

 今日、チョー!! うれしいことがありました。
 ときどき参詣させてもらう廣徳寺へ行ってきたのですが、今日はいつものような散歩ついでの参詣ではありません。ご住職にお目にかかり、なんらかのお手伝いをさせていただくという約束をしてきたのです。
 先週、その旨をしたためた書信を出しておきました。日曜日に返信があり、たいへんありがたい申し出である、と。

 で、何をするか、その打ち合わせに行ってきたのです。
 出かける直前からあいにくの雨。ときおり突風も舞うような天気でしたが、晴れ晴れとした気持ちになって帰ってくることができました。
 こういう気持ちで過ごせる日々が多くなれば、きっと体調にもよい影響を及ぼすであろうと信じて……。

 廣徳寺は我が宗旨(曹洞宗)のお寺ということもあり、ここへくるといつもホッとした気分に浸ることができます。
 それは住宅地の中にありながら、3000坪という広大な敷地とその大部分を占める豊かな緑があるからでもあります。
 ありがたい環境を残してもらっていると感じるので、訪れるたびに本堂とまだ見たことのないご本尊のお釈迦様に手を合わせてきましたが、体調を崩し、私を取り巻く環境も劣悪になって、ひょっとしたらもう死ぬしかないかと思い詰めた日々を通り越してみると(まだ通り越したとはいえないかもしれませんが)、ただお賽銭をあげ、手を合わせるだけでなく、ホッとさせてもらえることに、瑣末なことでもいいからご恩返しをしたいと考えたのです。

 で、私は草むしりをしたり、落ち葉を掃き清めたり、それらをつづけるうちに、私が決して怪しい者ではないと信用されるようになれば、いずれ内陣の掃除も……と軽く考えていたのですが、理由は人さまざまなれど、私のように奉仕をしたいという人はすでに数人(いずれも私と同年代かそれ以上らしい)が活動されていて、境内の掃除に人手が足りぬということはない。
 それよりも困っているのは、むしった草や落ち葉、枯れ枝を集めたあとの処理なのだということでした。

 一昔前なら、落ち葉は乾燥させたあと、燃やせばよかったのです。ところが消防法という面倒臭いものができて、市街地では焚き火や野焼きができなくなった。
 どうしても、というときは消防署に届け出ればできぬこともないが、消防署の承諾と近隣に住む人々の承諾は別物。
 お寺があるのを承知で家を建てたのに、と自前の家を持たぬ私は思いますが、皮肉をいって済む問題ではないのは確かです。
 だから、いちいち袋詰めにして、少量なら市のごみ収集に出し、大量の場合はごみ処理場に運ばなければならない。その袋詰め作業がなかなか大変で、進まないというわけです。
 あと処理なんか嫌だというのではありませんが、想像していたこととは異なったので、いささか意表を突かれた思いでした。しかし、自分から申し出ておいて、それはイヤじゃとはいえません。どれほどのことができるかわかりませんが、喜んでやらせてもらうことにしました。



 雨にけぶる廣徳寺の本堂。
 これからはいままでとは違う気持ちで眺めることになるのでしょうか、と思いながら眺めました。



 参道左にある空洞椿(からつばき)です。
 樹齢三百年といわれていました。幹は手前側が空洞で、奥の樹皮だけで命を繋ぐとともに幹全体を支えていましたが、今年の彼岸の中日、風速40メートル近い強風に煽られて、花と蕾をつけたまま、ついに倒れたのだそうです。



 私が袋詰めを担当することになった枯れ草の山です。
 雨になってしまったので、今日は何もできませんでしたが、上の方から順繰りに、松戸市指定の可燃ごみ袋(縦50センチ×横36・5センチ)に詰めて行きます。詰め終えたらリヤカーか一輪車で所定の場所まで運んでおきます。
 表層を取り除くと下の方は湿っているので、次回の作業のために、レーキでひっくり返して空気と陽光に触れるようにしておかなければなりません。



 本堂後ろにある樹齢未詳の公孫樹(イチョウ)。
 落ち葉の季節になると、その量は可燃ごみの袋に換算して百五十袋、2トントラック二台分にもなるそうです。

 うーむ。ひと月にどれぐらいのことができるものかまだわかりませんが、秋になったら、この公孫樹の落ち葉集めにも一肌脱ぐことになりそうです。
 いやいや、そんな先のことよりも、重要なことはひと月に一度でも二度でもいい、一回あたり落ち葉一枚でも二枚でもいいから、つづけることだ、と思いを新たにしました。つづけなければ意味がありません。

 私のペースで自由にきて、できるだけのことをしてもらえればいい。きたとき、帰るときの挨拶も不要。なんの指図もしない代わり、作業を終えたからといって、お寺のほうからお礼もいわないし、お茶も出さない。
 そうか、お茶ぐらいは出るかと思ったが……ま、いいか。

 引っ越しも控えているのでおちおちしてはいられませんが、このところ体調も悪くないので、数日中に再訪しようと思います。どんなことができたか……は、またそのときにブログで。



 帰りは流鉄の小金城趾駅前で夕飯の買い物。跨線橋を兼ねた駅の通路を通り抜けて反対側に渡ります。



 駅を通り抜けると、ちょうど流山行の電車がやってきました。
 雨に打たれて、新坂川の土手に咲く紫陽花の色取りもいっそう鮮やかでした。

 霧雨のような雨ですが、熄むことなく降りつづいていました。
 鐘の下公園には案の定、野良殿の姿はありません。
 ……と思ったら、我がマンションと公園の中間、桔梗が咲いている町会事務所裏に仮称劇団一人だけがいました。
 チョッチョッと舌を鳴らすと私に気づいてくれました。近くまでこないことは相変わらずですが、立ち去りかけて向きを変え、草むらに隠れてこちらを窺っていました。完全に私を憶えてくれたようです。

 野良殿の繁殖で迷惑している人がいることは承知しているし、去勢手術をしてこれ以上繁殖しないような活動をしているボランティア団体があることも知っていますが、腹のあたりの痩せこけた仮称劇団一人を見ると、私としてはシカとすることはできません。小ぶりのタッパーウェアに詰めたキャッティを二摘み、さりげなく置いてきました。

 今日は七夕。
 夕方、雨は上がりましたが、厚い雲が垂れ込めたままです。今年も天の川を見ることはできません。これで2005年から六年連続となりました。

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朝の散歩(3)と小金道

2010年07月06日 18時53分25秒 | のんびり散策

 今月、引っ越さなければなりません。まだ引っ越し先のアテはないのですが……。
 とりあえず不要なモノを棄てて行こうと、火木土と週に三日の可燃ごみ出しの朝は二~三袋のごみ出しをしています。今朝も二袋。 



 ごみ出しのあと、野良の猫殿が棲息する鐘の下公園へ行ってみました。昨夜はまた雨で地面が濡れているからか、今朝は姿を現わしませんでした。

 ミオが払底してしまったので、いつも買い足しに行くスーパーへ行きました。ところが店内はちょっぴり模様替えをした形跡があって、小分けして売っていたミオが見当たりません。いまなら600グラム増量中のユニチャームのキャッティ(1・8キロ入り)というキャットフードを買いました。
 まあ、こちらのほうが断然安価なので、助かるといえば助かるけれども……。使っていなかった小振りのタッパーウェアに詰めて持って行きましたが、あえなく持ち帰り。



 開店直後の焼き立てパンの店です。先日は日曜だったからか、満杯の盛況だったテラスは今朝は無人。今朝こそここで朝食、と思ったら、店内には結構な数の客がいました。
 入るとすぐ無料のコーヒー抽出器があって、数人が並んでいました。まだテラスに坐っている人はおりませんでしたが、待ち人の数からいって、どうもテラスには坐れそうもありません。
 餡ドーナツ、オニオンロールとコロッケを買いました。〆て¥360。テラスで食べられればトレーに載せたままにして写真も撮ろうと思っていましたが、食べられそうもないので、持ち帰りにしてもらいました。
 ところが、日曜日のように暇人はおらず、勤めに出る前に食べて行こうとする人ばかりだったのか、私が勘定を済ませたときには、いっとき満杯になっていた椅子はすっかり空いていました。



 そこで今朝は私がとびきりの暇人になって……。テラスに坐った眺めはこんな感じです。



 小金道を横切って、流鉄の小金城趾駅まで歩きました。線路と平行して流れる新坂川土手には100メートルほど紫陽花の花がつづいています。



 新坂川に沿って下ると、再び小金道に出ます。



 カワウがおりました。見ていると、餌を捜しながら、結構長い間潜っています。

 昼前、市役所に提出する必要書類が整ったので、松戸市役所へ。いつもは左横から入りますが、今日は正面から。市役所の真正面に小根本神明神社という社があります。

 


 石段の上に小さな社があるだけです。説明書きもないので、詳細は不明。下は松戸市役所から見た社殿の裏側です。

 事前に電話を入れたとき、出かける予定があるので、別の人にことづけを、といっていた担当者と市役所本館入口でバッタリ会いました。担当部署まで行くことなく、そこで用が済みました。



 帰りは新松戸の一つ手前・馬橋で降りました。
 小林一茶が奉公していた油平こと油屋・大川平右衛門(俳号は立砂、栢日庵とも)の居宅跡だけ見て帰ろうと思ったのですが、正面に萬満寺を見ると、もう何度か参詣していますが、やはり寄って行こうという気になりました。

 


 萬満寺山門と山門右にある、まだ新しい鐘楼堂です。
 墓所を見ようと鐘楼の真下に到ったとき、ギリギリという妙な機械音を聞いたと思ったら、いきなり鐘が鳴ってびっくりしました。ちょうど十二時でした。
 電動式だったのです。お寺も人手不足か、それとも省力化の一環か。
 どういう仕掛けが施してあるのかよくわかりませんが、撞木がいかにも機械的な音を立てながら、ジリジリと下がってゴーン。私は
口をあんぐり……。

 私が敬愛していた詩人の故・坂村真民さんが、「最近はね、坊主が朝寝ておっても、電気仕掛けで灯明がパッ、鉦がチーン、鐘がゴーンや」といっておられたことがあって、「本当ですか」と訊き返したものですが、まさかほんまだとは思わなんだ。

 旧水戸街道は萬満寺前で右に折れて、上り坂を上り切ったところで、現在の国道6号線に合流します。
 流山の一茶双樹記念館で頒布している「葛飾下総今様小金道繪圖」(私はまだ手に入れていません)によれば、小林一茶は秋元双樹を訪ねるべく、水戸街道を下り、北小金の東漸寺から小金道を経由して流山に向かっています。
 現在の道を歩けば、馬橋から流山まで9・1キロ。いまの私の体調体力気力とこの蒸し暑さではとても歩けませんが、いつの日にか歩いてみようと決意を新たにして帰ることにしました。

 萬満寺前から我が庵まではおよそ2キロ半。歩くと三十分かかります。



 馬橋と新松戸の中間あたり。三日月(みこぜ)神社がありました。
 鳥居の左手に地区の集会場を兼ねているような会館がありましたが、社務所はなく無人でした。

 今日もデュークなんとかさんお勧めのシェイプアップシューズを履いていましたが、どうやら長い距離を歩くようにはできていないようです。足の小指は当たらないけれども、足の裏が痛くなってしまいました。



 松戸市内では本当に桔梗の花にはお目にかからないなぁ、と慨嘆していたところで出会いました。
 いまの季節だと私はただ歩くのではなく、どこかに桔梗の花がないかと注意しながら歩いています。
 お寺を巡って市内を歩くことは頻繁でも、路地を歩くようなことが少ないせいか、桔梗を植えている家を見たのはこの家でやっと三軒目です。
 先方から断わってくる恐れは充分に考えられますが、桔梗を愛してくれる人ならば問答無用に私の友達です。

 隣の鎌ヶ谷市民は、鎌ヶ谷には縁も所縁もない桔梗が市の花に相応しいと選んでくれたのですが、松戸市民は縁もゆかりもない桔梗には、結局縁もゆかりもないらしい。
 ちなみに松戸の市の花は躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、野菊です。市の木はユーカリ、椎(シイ)、桜、梨と、どちらもたくさん制定して欲張り。

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密厳院の大公孫樹

2010年07月05日 06時27分05秒 | 寺社散策

 日曜日の午後、松戸の隣の隣の隣、埼玉県の吉川というところへ公孫樹(イチョウ)を見に行ってきました。
 できることなら、さいたま市の南与野まで行って「新日本名木100選」のうち、妙行寺の大榧(オオカヤ)を見たかったのですが、電車の冷房に長時間当たるというのが、どうやらいまの私の身体には鬼門の一つであるようなのです。
 大榧を見るためには武蔵浦和まで武蔵野線に約三十分、埼京線に乗り換えて南与野まで二駅四分間、電車に揺られなければなりません。短時間乗るだけの埼京線は問題なしとしても、問題を孕んでいるのは武蔵野線で三十分もの間、車内冷房の風に晒されなければならぬということです。

 新松戸で府中本町行の電車を待っている間、非常に蒸し暑かったので、この暑さと冷房の寒さとの落差がいかんのだ、と考え過ぎたのがいけなかったのか。電車ではわざと坐らず、冷風口から一番遠いと思われるところに立ったのですが、十分ほどすると、身体は冷えて気持ちよくなってくるのとは裏腹に、偏頭痛が出ました。とてもたまらんという状態ではありませんでしたが、早めがよいだろうと考えて、電車が駅に滑り込んだところで降りることにしました。



 やむなく降りたのは新松戸から四つ目の吉川駅でした。
 しばらく温まって(などというのは、お風呂に入っているみたいで変ですが)次の電車に乗ってもよかったのです。しかし、わずか十分で偏頭痛の出る兆候があるとすれば、武蔵浦和に着くまでにもういっぺん降りて温まらなければならない。そんな面倒なこたぁ……と思って、改札を出ることにしました。

 偶然ここは先月湯島へ通院した帰り、車で送ってくれたYさん(♀)が住む町です。家は吉川、と聞いただけですから、どこに住んでいるか知りません。
 どんな町なのだろうと市のホームページを覗いていたので、密厳院というお寺に公孫樹(イチョウ)の巨樹があるということをあらかじめ識っていました。
 ただ、今回は突然訪ねることになったわけですから、お寺の名も「なんとか院」という程度のウロ憶えだったし、地図も持ってきていない。お寺があるのは駅の南方、中川の流れに近いところだったはず、というあやふやな記憶しかありません。

 


 駅南口ロータリーには金の鯰(ナマズ)親子のモニュメント(上)。北口にはなまずの里の売店兼観光案内所がありました。

 吉川は江戸川と中川に挟まれた肥沃な土地で、すでに万葉集の時代から早稲米の産地として著名だったようです。
 水運も盛んで、つれて川魚料理という食文化も根づきました。「吉川にきて、なまず、うなぎ食わずなかれ」といわれるほどなのだそうです。
 私は鰻は好物ですが、いまの体調にはかなりヘビーな食べ物です。食べれば胸焼けを起こすのは必定。
 鯰のほうは食わず嫌いかもしれませんが、私にとってはゲテモノの範疇。よって、折角きたけれども、両方とも食わずに失礼するのです。

 


 ともかく南の方角を目指して歩いていたら、青緑色の甍が見えたので立ち寄ってみると、清浄寺(しょうじょうじ)という浄土真宗本願寺派のお寺でした。
 親鸞聖人の弟子二十四輩第七番の西念が開創したと伝えられています。

 


 境内にある南無仏塔(上)と西念法師の塔。両方とも埼玉県の文化財です。
 南無仏塔は「南無仏正安三年」と刻まれた青石(緑泥片岩)の塔婆。正安元年(1299年)に外交使節として渡来した宋の僧侶・一山一寧の作。仙台・松島へ遊歴した途次に立ち寄って遺した書と伝えられています。

 
 

 蕎高(そばたか)神社。
 偶然、「蕎高神社北」というコミュニティバスの停留所を見つけたので、立ち寄ってみました。
 狛犬は一般的には右が阿形、左が吽形ですが、ここでは逆です。珍しいと思ってカメラに収めましたが、無人の神社だったので、なぜ逆なのかはわかりません。松戸には字は異なるが、読みは同じ蘇羽鷹(そばたか)神社があります。同じ由来なのかどうか。
 家に帰ったあと地図を調べてみると、駅に近いところにもう一つ蕎高神社がありました。



 密厳院に到着しました。吉川駅から約1キロ。
 創立年代は不詳ですが、八百年以上前、鎌倉時代ではないかといわれています。本尊は地蔵菩薩で、恵心僧都(942年-1017年)の作と伝えられ、子育てと安産に霊験あらたかと信仰を集めてきました。

 


 境内中央に聳える大公孫樹。
 樹高30メートル、根周り12メートル、推定樹齢八百年。埼玉県指定の天然記念物です。
 この公孫樹は雌木、すなわち銀杏を実らせます。
 公孫樹の巨木は結構ありますが、大概は雄木で、雌木でこれだけの巨樹は珍しく、関東一だそうです。秋になったらいま一度見にこなくてはならぬという宿題ができました。



 密厳院から300メートル足らず。観龍院。開創は天文年間(1532年-55年)。真言宗豊山派のお寺です。

 


 境内には、ボケ除けおさすり地蔵がありました。みんなが頭をさするので、そこだけ色が変わっています。
 私には物忘れのひどいときがあるとはいうものの、自分ではまだ「ボケ」の域には入っていないと思うので、いまのところは無縁……と思ったけれど、キッパリとは思い切れません。で、一応さすっておくことにしました。



 中川河畔に出ましたが、そよとした川風もなく、蒸し暑さは揺るぎません。
 駅に戻るうちに、にわかに空がかき曇ってきたので、帰ることにしました。

↓この日歩いたところの航空写真と地図です。
http://chizuz.com/map/map71313.html

 吉川でも廃品回収車が走っていました。家電製品、パソコン、プレイステーションという聞き慣れたものに加えて、「農耕具」といっていたのが土地柄で面白いなと感じました。

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