借りていた本を返却するために県の西部図書館へ行くついでに、五香まで足を延ばして善光寺に参詣しようと思い立ちました。
今月の初め、その本を借りるときに立ち読みした松戸関係の史料に、五香にある善光寺と辨榮(べんねい)聖者のことが載っていたからです。
そのときはザッと読み飛ばしただけですから、なにがしかの縁があった、という概略しか憶えていません。この日はじっくり読み直すか、借りられる本であれば借りようと思って行ったのです。が、やんぬる哉、書棚にその本は在りませんでした。
鼻から善光寺へ行くつもりで家を出てきていました。春を思わせるような陽射しがあったので、図書館の外にあるベンチに坐って持参の地図を眺め、前にも寄った念仏寺の脇を通って行けば、県道松戸鎌ヶ谷線に突き当たり、あとは一本道……と確認しました。
実際はもう一本先の道を歩かなければならなかったのですが……。
念仏寺はこの日も人影なし。写真だけ撮って歩き始めました。
念仏寺の脇の道を直進して左折するだけ……。こんな単純明快な経路で、迷うヤツがいるとしたら、そんなヤツの気が知れぬ、と思ったのですが-実際は道を間違えていたので ― やがて県道に出るはず……、と思っているあたりで、道は善光寺に背を向けるようにカーブを始めました。
左に折れる道があったら折れていたはずですが、生憎そういう道がなかった。
??と訝りながら歩いているうち、南東に向かっていた道は予想以上に鋭くカーブしていて、やっと左に折れる道があったと思ったときは、ほとんど真西に向いていたのでしょう。そこで左に折れたら、真南に向かうことになります。
初めての土地を歩くとき、私は必ず地図とコンパスを持っているのですが、この日は初めてとはいえ、いつも行く図書館の近くだったので、コンパスを持っていませんでした。
「日本の道100選」という標識の掲げられた、けやき通りに出ました。
携帯していた市販の地図に目を落としましたが、100選というからには有名な道であろうこの道が地図には載っていない。
太陽は燦々と輝いていますが、午後の太陽の位置は方角を曖昧にさせてしまいます。私には少し焦りが出ていて、並木道をゆっくりと眺めている余裕がありません。
けやき通りはちゃんと地図に載っていたのですが、ページの綴じ代のところにかかっていたので、よく見えなかったのでした。
それに、私が歩いていた道はそのまま進めば、まさに善光寺に到ったのですが、新京成の線路を見ないことには安心できなくなってゴチャゴチャと歩き回り、やっと馴染みのあるさくら通りに出ました。
この通りは三年前にきただけですが、桜の花を見ながら八柱の駅から五香の駅まで歩いています。両側の商店街はまったく記憶にないけれども、ともかく歩けば五香の駅に着けるわけです。
ようやく善光寺を探し当てましたが、三つある門はすべて閉じられていました。
明治の初め、この近辺は荒れ地で、職と禄を失った武士たちが開墾に入りました。武士の商法ならぬ武士の農法ではなかなかうまく運びません。食べるものも事欠くような有様だったので、見かねた辨榮さんが集めてきたお金を惜しみなく分け与えたということです。
辨榮さんはここにお寺を建てようと考えて、日々浄財を集めていたのですが、そのようなわけで、お寺は一向にできません。やっと小さな庵が結べただけですが、のちにこのようなお寺ができたのは、施しを受けた人々が恩返しをしたおかげなのです。
ザッと飛ばし読みしたときの曖昧な記憶しかないので、間違っているところがあるかもしれません。
霊鷲山という山号はいかにも辨榮さんゆかりのお寺らしい、と思いながら眺めました。いうまでもなく、霊鷲山は釈尊が法華経を説いたとされる山の名前ですが、そちらより辨榮さんの生地からつけたのではないか、という気がしたのです。
辨榮さんが出家しようと思ったのは柏・鷲野谷の生家近くに東光山醫王寺というお寺があったからであり、そのお寺は北小金・東漸寺の開山でもある經譽愚底(きょうよ・ぐてい)上人が鷲野谷は幽遼蒼巒の境にあって、薬師如来霊応の地だと伝えられていたのを知って庵を結んだのが発端です。
門前に建てられた辨榮上人草創道場の石碑。
入れないので、門前を二度歩いて立ち去ることにしました。これに懲りずにまたきなさい、と辨榮さんがいっておられるようです。
図書館で立ち読みした同じ本に、水戸光圀と本土寺のことが載っていました。本土寺には秋山夫人の墓があります(この時点では私はまだ見ていません)が、それを建てたのは光圀だというのです。
秋山夫人は家康の側室の一人で、家康の五男・武田信吉(1583年-1603年)の生母です。信吉は二十一歳という若さで早逝してしまいますが、八歳のときに本土寺近くの小金城三万石に封じられ、佐倉十万石を経て、水戸二十五万石の藩主となります。
水戸藩は信吉が死んだあと、信吉の異母弟・頼将(頼宣・のちの紀伊藩主)を経て、同じく異母弟であり、光圀の父でもある頼房が入って水戸徳川家の祖となるわけですから、光圀にとっては伯父・甥という関係よりさらに一段深い関係があったことになります。
光圀にとって伯父の母である秋山夫人は信吉が小金にいたときに亡くなり、粗末な墓しかなかった(一説には墓もなかった)ので、光圀が改めて本土寺に葬ることにしたのです。
本土寺の参道並木に光圀が寄進した杉と松があるらしい、ということは知っていましたが、どういう関係があって寄進したのかわかりませんでした。秋山夫人の墓を建てたことと関係があったのだろうと薄々わかったので、帰りは本土寺に寄ってみることにして、五香駅から電車に乗りました。
本土寺に着きました。あと数日間、今月末まで参観料は無料だったので、境内に入らせてもらいました。
建治四年(1278年)鋳造の梵鐘(国指定重要文化財)がある鐘楼。残念ながら梵鐘はよく見えません。
本堂の右手前に「秋山夫人の墓→」という案内があります。それに従って初めて境内を歩きました。
翁の碑。文化四年(1804年)に行なわれた芭蕉忌に建立されたもの。本土寺ではしばしば句会が開かれ、一茶も参加していたようです。
本堂と像師堂を結ぶ回廊の下をくぐると、秋山夫人の墓がありました。貞享元年(1684年)に水戸光圀が建立した、とかたわらの説明板に記されています。
秋山夫人は武田家の重臣・秋山虎康の娘で、名は於都摩(おつま)。十五歳のとき、家康の側室となり、信吉を産んだあと、天正十九年(1591年)、二十四歳という若さで病没してしまいます。
松戸市の文化財マップによると、本土寺には夫人の父・虎康も葬られているとのことですが、これは寺の人に訊かなければ場所がわからないので、いつか機会を改めて。
菖蒲池(上)と紫陽花。
いくら無料だからといって、こんな冬枯れの景色を眺めるためにわざわざ遠くからくる人もおりますまい。現に工事関係者が数人いたほか、境内は無人でありました。
されど、遠来の客がこういう枯れた景色を眺めることはないのだから、こういう殺風景な画像をブログに載せておくのも、近場で暮らす私の特権にして役割の一つかとも考える次第であります。
本土寺をあとにして改めて参道を歩いてみました。
並木はほとんどが椎(シイ)と欅(ケヤキ)ばかりで、杉は参道入口近くに数本、松に到っては一本もありません。古そうな杉は参道左側の一本ですが、幹の太さからいって、何百年とは見えません。
水戸光圀が秋山夫人の墓を建立したのは、いまから四百三十年も前です。光圀名残の樹はもうないのかもしれません。
ある説によると、光圀が秋山夫人の墓を訪ねたとき、墓はなく、土地の人が「日上の松」と呼んでいる松の老木が参道中ほどの西側にあっただけ、ということです。墓すらないことを悲しんだ光圀が本土寺に改めて埋葬したというのですが……。
いまは常磐線で断ち切られていますが、当時の参道は現在のサティの南入口のある旧水戸街道から始まっていました。距離にすると、現在より400メートルほど長かったので、中ほど、というのはどのあたりになるのでしょうか。
わかったとしても、参道の西側(つまり左側)は畑地と駐車場を除くと店舗が建ち並んでいるだけで、松の樹はありません。