桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

秋寒の本土寺界隈から

2010年10月30日 20時10分12秒 | のんびり散策

 すっかり寒くなりました。おまけに今日は台風が接近。朝から冷たい雨です。
 本格的な衣替えをしないうちに、日に日に寒くなり、昨日はベスト、今日はカーディガンというように、一枚一枚引っ張り出しながら日が過ぎて行きます。

 


 本土寺参道にこんな店が開店しました。手作りワッフル&コーヒーのギャラリーカフェと謳っています。が、昨日今日と店を開けている様子がありません。



 本土寺では来月七日の日曜日、御会式(おえしき)があります。午後一時から四時まで、万灯練り行列が東漸寺から本土寺までの間を練り歩くようです。

 この万灯練り行列を初めて見たのはいつだったのか定かではありませんが、目白に棲んでいたころ、雑司ヶ谷の鬼子母神で見たのでした。
 鈴なりの花をぶら下げた万灯が鬼子母神の境内から明治通りの遙か彼方まで、一体いくつあったのか、これまた鈴なりに連なっているのを見てびっくりしたものでした。

 御会式とは日蓮聖人が入滅した日(十月十三日)を中心に営まれる法要のことです。一番大規模なのは池上本門寺で、お逮夜と呼ばれる前夜、百数十という万灯が各地から集まり、夜中過ぎまで賑わうようです。
 ところが、日蓮聖人の入滅前夜といえば、一年に一日しかないはずなのに、練り行列があるのは、池上本門寺ではまさに入滅前夜の十月十二日、雑司ヶ谷の鬼子母神では十月十八日、本土寺が十一月七日、中山の法華経寺が十一月十七日とバラバラです。
 同じ日にやったのでは、各寺とも練り歩く人たちが分散してしまって格好がつかないからでしょうか。

 本門寺のホームページには、この御会式に合わせて宗祖(日蓮)の御衣を夏物から冬物に替える、とありました。
 本門寺は行ったことがないのでわかりませんが、日蓮さんの像があって、その衣服を替えるのだろうと思いながら、御衣式→御会式となったのではないか、と思いました。ただ、ホームページには「御衣」をなんと読むのかルビが振ってないので、あくまで想像です。

 こういう法要は日蓮宗独特のものかと思っておりましたら、法隆寺でもあるのを知りました。
 法隆寺(聖徳宗)の宗祖は聖徳太子です。やはり宗祖の命日に当たる(と、法隆寺のホームページにはありますが、聖徳太子が亡くなったのは四月八日です)三月二十二日~二十四日にかけて行なわれる法要です。



 本土寺の山門から眺めた境内です。寒くなったばかりですから、紅葉はまだまだのようです。ここ本土寺は紫陽花で有名ですが、紅葉も有名です。
 紅葉や紫陽花を愛でるためには、この先の受付で¥500也を払わなければならないので、私は一度も入ったことがありません。¥500が惜しいのではない(無料なら当然入らせてもらっているが)。日蓮宗の寺と聞けば、なんとなく構える姿勢が生まれるのです。

 本土寺があるから引っ越してきたわけではなく、引っ越してきたら本土寺が近くにあったということなのですが、折角近くて何かの縁でもあるのでしょうから、一度ぐらいは入らせてもらうか、と思い直したりしています。

 


 山門後ろにこんなものがあったとは知りませんでした。旧小金町役場の門です。
 昭和二十九年、小金町が松戸市に合併されて役場が廃止になったとき、どういう事情からか、本土寺が譲り受けたということです。

 それほど降雨量が多いわけではありませんが、このところ二日に一日は雨、もしくは未明に雨という天候だったし、冷え込んできていたので、朝の散策に出ていませんでした。
 ついでながら、いくらなんでもそろそろ……と思っている廣徳寺の作務も、目を覚まして庭を見れば地面が濡れているという状況なので、つい延ばし延ばしがつづいて、ご無沙汰は三か月を過ぎてしまいました。結構精神的圧迫を受けています。

 雨で濡れた落ち葉はごみ袋に詰めることができないので、廣徳寺に行かなくても濡れ具合がわかるような仕掛けをつくり
ました。
 ちょうど玄関前にある茗荷(ミョウガ)の葉が枯れ始めたので、抜いて乾かすのを兼ねながら、山にして積んであるのです。
 廣徳寺に出向くか出向くまいかと迷ったときは、この山を崩してみれば落ち葉の濡れ具合乾き具合もわかるという寸法です。



 それはそれとして、久しぶりに散策に出た昨朝の富士川上空です。



 朝の廣壽寺です。この日は境内には入らず、門前を素通り。

 酒井根で目にしたからか、先だって南柏まで歩いたとき、この廣壽寺近くで見つけたパンパスグラスを見たくなりました。しかし、場所はうろ覚えです。グルグルと歩き回ってみましたが、見つけられませんでした。

 


 代わりにこんなものを見つけてカメラに収めました。

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下田の森と境根原合戦場

2010年10月28日 20時54分14秒 | 歴史

 昨水曜日、柏市にある下田(しただ)の森へ行ってきました。
 前日の雨も上がって、抜けるような秋晴れでした。ただ、前日から冷え込んでいたので、たっぷりとした陽射しがあったのにもかかわらず、かなり寒く感じました。



 上富士川沿いを歩いて、根木内城址を突き抜けて行きます。
 殿内という交差点で道を左に折れると、道は上富士川に向かって下り、また上ります。このあたりの上富士川は暗渠になっているので、川は見えません。
 目には見えぬ川を越えて、坂を上り切るあたりで、広々として両側に歩道もあった道路が急に狭くなって、クネクネと曲がり始めました。

 
 


 クネクネ道の行き着いた先は酒井根の薬師堂でした。正長元年(1428年)の創建と伝えられています。
 ここまで我が庵を出てから一時間。
 途中、通り抜けてきた根木内城址で団栗(ドングリ)を拾ったりしていたので、正味は五十分ぐらいか。

 下の画像は薬師堂を取り囲むように建てられた西国八十八か所の石像です。数えていませんが、八十八基あるはずです。
 安政二年(1855年)、堂守となった河瀬鳳瑞という僧侶が、みずから四国を巡拝して各霊場の土を持ち帰り、それぞれの石像の下に埋めたといわれています。



 薬師堂から徒歩三分。曹洞宗龍光寺。創建は三百五十年前という案内板がありました。

 龍光寺を出るとすぐ下田の森の入口がありましたが、先に境根原合戦場跡を訪ねることにしました。

 時はおよそ五百三十年前の文明十年(1478年)十二月十日。大田道灌・千葉自胤(よりたね)連合軍と千葉孝胤(のりたね)軍がここで激突しました。
 孝胤の父・実胤(さねたね)は自胤の兄。つまり叔父と甥の争いです。
 親子兄弟が相争う時代ですから、叔父と甥が争うのになんの不思議もない時代……とはいえ、この争いの元を探るとじつにややこしい。
 勢力を温存したり、捲土重来を期すために和睦をした、と見せかけて、一転反攻に出る、というのは朝飯前のコンコンチキ。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵 ― という時代であります。だから、ますますややこしくなるので、書きつづける暇がなくなります。
 元凶を探れば、源氏の風上にもおけぬ足利一族の右往左往、右顧左眄、優柔不断、その他もろもろにあります。
 まあ、元をただせば鎌倉公方(関東公方)などというものを置いた尊氏が瑕瑾(かきん)の始まり。室町幕府は最初から破産含みだったのに、ヨタヨタしながら、よくぞ二百年以上もつづいたものです。



 パンパスグラス。
 風が強く、陽射しも強かったので、燦然と輝いているようでした。間近に見てみたい、というか、頬をすり寄せてスリスリしてみたいと思うのですが、私が出会うパンパスグラスは不思議と近づけないような高い場所にあって、頬をすり寄せることはおろか、間近に眺めてみることすらできません。



 境根原合戦場跡に向かう途中、八坂大神があったので、ちょっと立ち寄って参拝。



 光が丘団地入口に建つ酒井根(境根)合戦場跡の標識。訪ねるのはあと回しにして、この合戦で一番激戦地だったといわれるところへ急ぎました。

 酒井根がかつて境根と呼ばれたのは、このあたりが葛飾郡と相馬郡の境であったから……。それが酒井根へと変わったのは、戦のあと、喉の渇きを覚えた太田道灌が先の薬師堂あたりにあった井戸の水を飲んだところ、酒のように美味かったので……ということらしい。
 


 柏市教育委員会のホームページによると、激戦だったのは現在の麗澤大学前あたりだったようです。
 とはいえ、実際に訪ねてみると、「前」あたり、と教えてもらうだけでは、一体どこなのかわけがわからん。大学のキャンパスは広く、入口はいくつもあるのです。
 ただ普通に考えれば、前といえば正門のある場所と考えられるので、正門らしき前に立って、周りをゆっくりと歩いてみましたが、激戦地であったことを示すようなものはありませんでした。

 


 あと戻りして、先ほどの標識のあったところから団地の中に入りました。

 甥っ子の孝胤軍は打ち負かされ、佐倉の臼井城へ敗走します。勝った太田道灌は敵味方を問わず、戦死者の首、胴、武具をそれぞれに分けて、首塚、胴塚、刀塚をつくって葬ったとされています。
 昔は数十という塚があったようですが、いまは1号塚、2号塚と呼ばれる塚が二つ並んであるだけです。入口の標識に「首塚・胴塚」と示されていたところをみると、どちらかが首塚であり、胴塚なのでしょうが……。

 


 光が丘団地で見つけた石蕗(ツワブキ)。すでに蕾がありました。



 また引き返して、ようやく下田の森の入口に立ちました。



 チョロチョロと流れる水音に誘われながら、水源はどこかと思って歩き廻りましたが、流れが細過ぎて、どっちに向かって流れているのかわかりません。



 中央から右に向かって写っている、いくつかの白い点。これはベンチに坐って絵を描いている人なのです。一か月ぐらいあとにくると、いまは緑色した樹々がすっかり紅葉するみたいです。



 この世で私が一番苦手とするもの。実物はもう何十年も見てはいませんが……。



 少し進むと、今度は「マムシ」と具体的。
 秋蛇(♀)は子どもを孕んでいるのでとくに要注意! と聞いたことがあります。コリャかなわん、くわばらくわばら、と退出することに致しました。



 下田の森の出入り口は、私が入った東側と西南、西北の三か所。これは西北側。

 西北の口で森を出て帰路に着きました。帰りは歩く気力体力がないので、また光が丘団地まで戻り、バスに乗って南柏に出ます。



 いまは住宅が建ち並んで全体を眺め渡すことなど叶いませんが、結構起伏の烈しい土地です。下田の森から光が丘団地に戻る途中にはこんな急坂もあったりします。

 


 バスで南柏駅へ……。
 昼時を過ぎていたので、駅前にある大阪王将はガラガラ。ためらうことなく入店致しました。

 本八幡店で食べたときはプロ野球のクライマックスシリーズが始まる前だったので、大阪資本らしく阪神タイガースを応援するセールスがあって、元祖焼き餃子は一
皿¥100でした。
 それから十日以上も経って、すでにタイガースは惨敗したあと。しかあれど、応援感謝セールでもやっていないかと思ったのですが、さすがに大阪資本だけあって、そうそう問屋が卸さない。本日はいつもどおりの¥230でした。

 フランチャイジーですから、同じ千葉県内といっても経営者が同じかどうかはわかりませんが、本八幡店とは微妙に異なる焼き加減でした。
 店、というのではなく、調理人に因るのかもしれません。本八幡店と較べて、好意的に表現すれば、少し柔らかく、しっとりしていました。



 昨日は夕方になって鯖雲が出ました。

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天王台まで

2010年10月26日 13時44分25秒 | 寺社散策

 先週の土曜日、我孫子の天王台へ行ってきました。
 平將門ゆかりの柴崎神社があると聞き、先日、手賀沼近くにある將門神社を訪れた帰りに寄るつもりでおりましたが、道を間違えて疲れてしまったので、日延べしていたものです。
 天王台は我孫子の一駅先ですが、直通電車がないので、我孫子で乗り換えます。



 北口に出ました。日中のことゆえ、降りる人はほとんどありません。



 駅から徒歩八分で柴崎神社に着きました。



 柴崎神社拝殿。創建は天慶元年(938年)。祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。明治の廃仏毀釈までは妙見社だったようです。

 この神社が平將門ゆかりの神社だと知ったのはどこかのブログでした。しかし、いざ訪ねようと決めて、下調べをしてみると、該当するような記事はどこにも見当たらない。
 將門神社を訪ねるときに検索したあたりに……とさまよってみましたが、見当たらない。あるいは、佐倉の桔梗塚を訪ねるときに……とさまよってみましたが、やはり見当たらない。
 ブックマークをしておかなかったことが悔やまれますが、直接行ってみるにしくはなし、というわけで出かけてきたのです。
 が、結局は成果なし。將門の「ま」の字もありませんでした。

 伝承では將門が祈願所にしていたということです。祈願したからには何か奉納したものがあるはずですが、それらしきものは何もないみたいです。



 本殿前には狛犬の代わりに亀。中央の亀は地元らしき石材店と中国廈門の石材店が奉納した旨が記されています。



 柴崎神社の本殿を裏側から。



 柴崎神社に隣接してあった別当寺・真言宗豊山派円福寺。
 取手と我孫子にある新四国相馬霊場八十八か所の第五十五番。江戸初期の開創と伝わっています。

 

 鯖大師堂がありました。右手に鯖を持つ弘法大師像が安置されています。三年間、鯖を絶って祈念すると、願いごとが叶い、病気も治り、幸福になれるそうです。
 本来の鯖大師があるのは徳島県海部郡海陽町の四国別格霊場第四番・鯖大師本坊。



 すぐ裏手には曹洞宗の東源寺がありました。
 天文九年(1540年)、北条氏康の開基。曹洞宗のお寺なのに大師堂があって、新四国相馬霊場八十八か所第七十五番。



 東源寺の真榧(マガヤ)の樹。根周り6・3メートル、樹高24メートル。樹齢は二百五十年。千葉県指定の天然記念物です。
 新四国相馬霊場八十八か所を開いた観覚光音(1711年-83年)が手ずから植えた樹だと伝えられています。
 この榧の樹は志賀直哉の「十一月三日午後の事」にも登場しています。

「東源寺と云う榧(カヤ)の大木で名高い寺への近道の棒杭(ぼうくい)のある所から街道を外(そ)れて入った」

 この小説の主題は東源寺ではないので、ただこれだけのことですが……。



 帰りもまた我孫子で乗り換え。乗り換え時間を利して、プラットホームの弥生軒という立ち食いそば屋で唐揚げそばというのを食べました。
 私のブログにときおりメントを寄せてくださる「にゃん」殿のお薦めがあったからで、今回はこれを食べることも目的でした。

 有名かつ人気のメニューらしく、いろんなブログに取り上げられています。
 そばが見えないほどデカイ鶏の唐揚げが二つ、どど~んと鎮座しているというのが売りであったし、自動販売機で食券を買うときもほかのメニューを目に入れなかったのですが、「お待ちどう」といわれて出てきたのを見て、ハタと戸惑いました。このデカサではさすがに食べ切れぬと思ったのです。

 それでもまあ、ものは試しと思って食べ始めました。おつゆもそばも熱々なのであろうけれども、唐揚げは冷めています。
 何口か食べて、おつゆの中に浸し、温めようとするけれども、そばが下敷きになっているので、なかなか沈んでくれません。下敷きを取り除くべく、そばを食べようとしても、上の重しが邪魔をして、引っ張ると細切れになったそばがすくえるだけです。
 ふーっと溜息をついている間に、あとからきて、かけそばを注文したおばさんが食べ終わっておりました。

 やっと唐揚げ一つを平らげたところに、若い男性がつづけて二人入ってきて、唐揚げ一個のそばを注文。ここで私はようやく一個だけでもいい、というメニューがあったことに気づかされました。
 店内に掲げられた写真つきのメニューを改めて眺めてみると……私が挑戦中の二個入りは¥440。一個だと¥340。かけそばが¥240となっていますから、唐揚げは一個¥100ということになります。

 ケンタッキーフライドチキン(KFC)と比較したら、単純に比較してくれるな、といわれるかもしれないが、こちらで食べれば1ピースは¥240。弥生軒の唐揚げは分量的には2ピースぶんは充分にあります。すなわち4ピースぶんに匹敵します。KFCでは4ピース頼めば、4×¥240=¥960が割引になって¥930のところ、こちらはわずか¥200。
 まだそばはほとんど食べていないのに、すでに満腹感が漂い始めていたので、余計なことばかり考えます。
 ……結局、二個目の唐揚げは食べ切れませんでした。
 苦戦したというちょっぴり苦い思いだけが残って、味は……よく憶えていません。

 北小金の一駅前、南柏で降りて、腹ごなしに一駅分歩くことにしました。



 旧水戸街道をのんびりと歩いて行けば、北小金の駅に出ます。
 一か月半前、大清水湧水を探索したとき、道を間違えて、まったく方向違いのこの道を歩いていました。そのときに寄った香取神社です。

 


 旧水戸街道をさらに歩いて行くと、行念寺がありました。浄土宗のお寺で、創建は明応二年(1493年)。開山は經譽愚底(きょうよ・ぐてい)上人。
 この經譽上人は北小金にある東漸寺の開山(1481年)でもあります。

 東漸寺を開く前、上人は寛正年間の初め(1460年-65年)に下総国鷲野谷の地に行っています。後年、辨榮(べんねい)聖者が生まれる集落です。
 なぜそんなところに行ったのかというと、鷲野谷は幽遼蒼巒の境にあって、薬師如来霊応の地だと伝えられていたからだそうです。

 そこにはかつて寺がありましたが、すでに堂宇は崩れ、薬師如来を安置した一小堂の残る草庵があるだけでした。
 やがて村民の協力を得て再興されましたが、これが醫王寺です。東漸寺の開基に先んずること二十年、寛正二年(1461年)のことでありました。



 我が庭の曼珠沙華はすっかり花も終わって葉が出始めました。

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我孫子志賀直哉邸探索

2010年10月21日 07時50分58秒 | のんびり散策

 將門神社の帰りです。「猫町」をあとに台地を下って行くと、手賀沼が見えてきます。
 沼畔の遊歩道と並行して走る道路まで下り切ると、入口にあったのと同じ「将門通り」の標識がありました。道路の向こう側には龍光院の案内板も建てられていました。



 ハス(蓮)の群生地を見たあと、遊歩道を歩かず、この道に引き返していれば、恐らく龍光院の案内板を目にしたのに違いないので、回り道をする必要はなかったのです。
 そろそろかな、と思って遊歩道を離れたときは、すでにこの標識の遙か彼方を歩いていたので、目印になるものには遭遇しなかった、というわけでした。
 しかあれど……回り道をしていなければ、將門神社に辿り着いたあと、きた道をそのまま引き返していたのに相違ないので、辨榮(べんねい)聖者の石碑を見ることもなく、聖者がこの地で生まれたということも知らずにいたのに違いなし、と自分を慰めました。
 そしてもう一度しかあれど……この標識を目にした瞬間、ドッと疲れが襲ってきました。

 我孫子の一駅先・天王台にも將門にまつわる柴崎神社があるので、帰りに寄るつもりでいましたが、地図を元にアバウトな計算をしてみると、およそ一時間は歩かねばならないとわかって、完全に意気阻喪。
 しかし、このまま帰るとしても、我孫子駅に戻るバスの停留所を捜さなければなりません。

 周りは平坦な田圃地なので、くるときにバスを降りたスポーツ広場入口あたりを視界にとらえることはできますが、結構距離があります。それに、少し腹も減ってきました。
 バスが手賀沼を渡り切ったあたり、確か何か施設があったなと思い起こして、同じ歩くのであればと、橋のたもとまで行ってみることにしました。



 道の駅・しょうなんがありました。
「しょうなん」とは、湘南に非ず、沼南です。手賀沼の「南」という意味で、柏市と合併して消滅してしまいましたが、かつては沼南町がありました。
 左が野菜の直売所、右奥にレストランがあります。ちょうど昼時だったので、レストランは結構混んでいました。人の多いレストランで食べるより、手づくりの梅干しを使った、と謳う握り飯とお茶を直売所で買って、手賀沼の風に吹かれながらの昼食と相成りました。
 車でやってきている人は段ボール箱をかかえ込むほどの野菜を買って行きます。私は昼食のほかにトートバッグに入る程度のささやかな量で、しかも重くない果物と葉物の野菜を選んで買いました。

 食事を終えると、脚の疲れもやや治まり、元気も恢復しました。
 バス停が見当たらないこともあって、ひとまず手賀大橋を歩いて渡ることにしました。
 橋を渡っている途中で、去年手賀沼の北岸を歩いた帰り、志賀直哉さんが住んでいた家の跡を訪ねたのに、道を間違えて辿り着けなかったことを思い出しました。



 我孫子市役所近くの若松交差点に建つ志賀直哉邸跡などの所在を示す案内板。ここまできて、志賀邸を訪ねることにすると、結局、我孫子駅までは歩くことになりそうです。



 去年はこの二股で迷った末、志賀さんなら山の手だろうと軽率な判断を下して右手の径を上った結果、志賀邸には辿り着けなかったのです。
 去年きたのは七月中旬の猛烈に蒸し暑い日でした。あまりの暑さに、選択すべき道を間違ったとわかっても引き返す気にならず、気息奄々となって駅まで歩いたことを思い出しました。
 大体、先の案内板のあるところから志賀邸跡まで800メートルもあるのに、途中には標示が一切ない、というのがおかしい。

 


 瀧井孝作仮寓跡という標識がありました。松戸周辺にある城址へ上るような径を上り切ると、ここで代表作の「無限抱擁」が書かれたという説明板が建てられているだけで、名残は何もありません。
 瀧井孝作(1894年-1984年)は志賀さんに出会って小説家を志した人であり、我孫子に住んだ(わずか一年だけ)のも、志賀さんを追いかけてきたからです。そのあと、京都~奈良へと志賀さんが移り住む先を追いかけています。

 この先、志賀邸に到るまでに、またどっちだろうかと逡巡させる二股があります。そこにも案内板はありません。志賀邸は沼畔だったと決めたからには徹頭徹尾下の道と決めて歩きましたが、それらしきものが現われません。



 また道を間違えたのかもしれぬ、とガッカリし始めたとき、ひょっこりという感じで現われました。



 移築された書斎だけが遺されていました。
 志賀さん自身が描いた見取り図によると、画像の中央の空間が母屋のあった跡で、書斎が移築されたところには物置があったようです。



 志賀邸前にある白樺文学館。月曜日だったので休みでした。



 志賀邸から300メートル。杉村楚人冠(1872年-1945年)邸跡。いまは緑南作緑地という公園になっています。
 朝日新聞「天声人語」の名づけ親はこの人。縮刷版を発案したのも、いまのインターネット検索システムに当たるものを発案したのもこの人。

 我孫子駅に到る途中、白樺派のカレーを売っている店を見つけました。レトルトパックに入っています。が、レトルトなのに525円とバカみたいな値段だったので、買うのはやめました。
 私が非常食用を兼ねてサティで買うビーフカレー中辛は88円。この値段でも充分に美味いのです。



 道の駅・しょうなんで野菜と一緒に求めたアケビ(通草)。



 瀧井孝作仮寓跡で拾った栗と志賀さんちで拾ったカクレミノ(隠蓑)。

將門神社~志賀邸跡~我孫子駅というこの日の行程でも、佐倉探訪につづいて道を間違えた結果、二万歩も歩いてしまいました。

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猫町(?)の將門神社

2010年10月20日 17時40分14秒 | 寺社散策

 月曜日、我孫子で面接があったので行ってきました。結果がわかるのは来週ということですが、私の自己判定ではどうも凶。
 死に物狂いで生きている人だっているのに、ちょっとハスに構えているような自分はよくないなぁと思いながらも、落ち込んで息もできぬような状態に陥るよりはいいか、と。

 十時の約束で行って、三十分足らずで終わってしまったので、我孫子駅まで戻って、柏にある將門神社を訪ねることにしました。
 この神社は柏市にあるのに、柏市内からのバスの便はなく、我孫子駅が起点となる土地にあります。しかも、バス停は最寄りにはなく、バスを降りてから少し歩かなくてはならないみたいです。

 手賀大橋を渡り、上り坂の途中にあるスポーツ広場入口というバス停で降りると、彼方に手賀沼が見えました。

 


 まずは手賀沼を見てみましょうと行ってみると、広々とした立派な遊歩道が整備されていて、目の前はハス(蓮)の群生地でした。水田にあったハスが徐々に沼に進出し、いまでは10ヘクタールにも及ぶそうです。
 画像上は手賀大橋(全長415メートル)遠望、下は去年、前を通ったことのある対岸の手賀沼親水広場の水の館(左)と鳥の博物館です。

 市販の地図を携帯していましたが、ちょうど降りたバス停のあたりで地図が途切れ、將門神社のあるあたりはページをめくらなくてはなりません。しかもわかりにくさを増すように、バス停の載っているページは一万五千分の一、次は三万分の一と縮尺が異なっています。
 なぁんだ目的地は思ったほど遠くないなじゃないかと思っても、縮尺が違うのですから、実際は倍の遠さなのです。

 見渡したところ手賀沼と台地に挟まれて、ただただ農地があるのみで、目印になりそうなものはおろか民家の一軒もありません。
 地図は? と目を落とすと、遊歩道と台地の裾を走る道路と、その間を結ぶ農道が記されているだけです。建物がないので当然です。
 遊歩道のカーブの仕方を地図に照らしながら手探りで歩くほかはなさそうです。



 將門神社を目指している途中で見つけました。「さしあげます」と記されていますが、何をくれるというのか、示してある下には何もありません。鉄板の後ろを見てみれば空き地があるのみです。まさかこの土地をくれるというのではあるまいに……。

 私が歩いていた右手はずっと台地がつづいています。地図では台地であることはわかりませんが、神社はどうやら台地の上にあるようです。だが、歩いても歩いても台地を上って行くような道がない。
 いくらなんでもちょっと歩き過ぎではないかと感じるころ、染井入落(そめいいりおとし)という小河川を渡る遊歩道の橋が見えてきました。地図には河川名はなく、河川を示す水色の線があるだけですが、いかにも行き過ぎてしまっていることを示しています。

 川が流れているせいでようやく台地が切れ、そこに道がありました。真っ直ぐ行くと染井入落にぶつかり、染井新田というバス停があるはず……。
 全然違うところに出たらどうしようかと思いながら歩いて行くと、バス停が見えてきて、めでたく染井新田とあるのが見えました。初めて地図と現実が一致しました。

 目指す將門神社は二つ先のバス停を過ぎた少し先を右折すればいいようです。どんなバスが走っているのかわかりませんが、この道ならバスが走っていそうだという道を選んで歩きました。 



 染井新田の次のバス停。
 バスが走っているのを目撃していないので、本当にバスの通る道を歩いているのかどうかわかりません。バス停があるのを見つけてひと安心です。
 簡易な待合い所があったので、ひと休みすることにしました。時刻表があったので見てみると、バス(それもコミュニティバス)を見ないのも道理。一日に三便しかありません。鷲野谷という名のバス停でした。



 鷲野谷のバス停前。何かと思って近づいたら、辨榮(べんねい)聖者の御生誕聖地という石碑だったので、愕くと同時に恥じ入りました。

 浅草に棲んでいたとき、すぐ近くに日輪寺という時宗のお寺がありました。明暦三年(1657年)の大火で焼けて、浅草に移転してくるまでは現在の大手町にあって、平將門の首塚とも神田明神とも繋がりの深いお寺です。
 別名芝崎道場と呼ばれる念仏道場で、若き日の辨榮さんはここで熱心に修行されたそうです。
 辨榮さんの逸話を、日輪寺の先代のご住職からもっと詳しくお聞きしようとしていた矢先、亡くなってしまわれたので、私の中では宿題となり、時が経つのに連れて、宿題があることも辨榮聖者のことも忘れていました。

 蛇足ながら、納豆は日輪寺が発祥の地です。
 寺がまだ神田明神そばにあったころ、修行中の僧に供される食事の中に、金含豆(こんがんず)という豆があったそうです。これが納豆の前身で、「神に納める豆」の意からその名がつけられたといわれています。神田明神前の天野屋という店では芝崎納豆として売られています。



 辨榮聖者。画像は新潟大学理学部数学科のホームページから拝借しました。

 辨榮さんは近代の僧侶の中では、我が曹洞宗の澤木興道老師と並んで、私がもっとも尊敬する人です。生誕の地という石碑を見て恥じ入ったのは、尊敬しているといいながら、生誕の地を知らなかったからです。

 家に帰ったあと、石碑があった近くに醫王寺というお寺があり、そこに辨榮さんのお墓があることを知りました。
 ところが、私が携帯して行った地図には醫王寺が載っていませんでした。インターネットで地図を見ると、すぐ近くを通っておりましたのに……。

 辨榮さんの俗名は山崎啓之助。
 そういえば、バス通りを歩いているときに山崎種苗店という店を見かけていました。田舎の集落ですから、山崎という家は多いのに違いなく、そこが辨榮さんの生家かどうかはわかりませんが、地図に載っていれば、とりあえずは訪ねてみたのに相違なく、訪ねれば辨榮さんのお墓に出会っていたはず、と思うと、返す返すも残念なことでありました。必ずや再訪しなければなりません。

 


 鷲野谷のバス停から約1キロ。やっとこんな標識を見つけました。

 去年八月、私は茨城県坂東市(旧岩井市)にある國王神社を訪ねています。祭神は平將門。地名が同じ岩井というのは偶然ではないでしょう。將門にゆかりのあるどちらかの民が移住した地に將門を祀り、岩井と名をつけたのに違いない。

 画像を添付してもサマにならないので割愛しましたが、集落は広い畑地と森に囲まれた窪地にあり、外界からは隔絶されているようなイメージを懐かせました。
 野菜の集荷にでも使うのか、この地区の集荷場と記された建物があって、それが山奥にある温泉場のバスの待合所のように見えたので、私はふと「猫町」に迷い込んだかと思ってしまいました。

 猫町とは、つげ義春が書いた「猫町紀行」に出てくる旧甲州街道の町並みです。萩原朔太郎に「猫町」という幻想的な散文詩ふう小説があって、多分にそれを意識して書いたと思われるのですが、私は世間と隔絶されたような集落を見ると、自然に猫町という空想上の町を思い浮かべます。
 全国を廻れば、外界と隔絶されたような集落はあまたあるのだろうと考えられますが、私が関東で知っている限り、ここが二つ目。もう一つは奥秩父の川又集落です。



 猫町の中心にある龍光院。真言宗豊山派の寺院で、長享二年(1488年)の創建。



 龍光院境内の地蔵堂。
 建立は長享三年(1489年)。元和二年(1616年)の火事で灰燼に帰したが、本尊は焼失を免れ、再建は安永三年(1774年)と説明板にありました。
 前身の祠を建立したのは將門の第三女だと伝えられています。
 父・將門が戦に敗れたあと、この地に庵を結んで静かに暮らしていましたが、ある日、病気になると、たちまち地獄に堕ちてしまった。しかし、地蔵菩薩に助けられて蘇生したので、以来、如蔵尼と改名して、祠に父の霊を祀るとともに、地蔵堂を建立して信心三昧の日々を送ったそうです。

 旧岩井市にある國王神社の伝承では、娘は会津の恵日寺に逃れて出家。如蔵尼と称し、將門の死後三十三年目に岩井に帰って庵を結び、父の霊を弔ったと伝えられていますが、大筋は一緒です。



 龍光院に隣接してある將門神社。
 説明板には、將門の名を冠した神社は全国で唯一と書かれていますが、手賀沼の対岸・我孫子市にも將門神社はあります。説明板は区民一同によって建てられたことになっていますが、唯一と思い込んでいるのは勉強不足。ただ、將門が討たれたのは「午後三時」と時間まで限定して記しているのは面白い。

 それにしても人の姿をを見かけません。出会ったのは龍光院に到る前、トラックを止めて自販機に飲料の補充をしていた人が一人だけ。やはり猫町か?
 といって、猫もいないけれど……。〈つづく〉

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佐倉散策(2)

2010年10月18日 19時59分13秒 | 歴史

 佐倉散策の(つづき)です。
 武家屋敷を巡ったあと、佐藤泰然の墓所がある宗圓寺を訪ねました。   



 宗圓寺。臨濟宗妙心寺派。
 寛永十八年(1641年)、堀田正盛(1609年-51年)が開基。
 正盛は佐倉藩主としては八代目。しかし、跡を継いだ嫡男の正信が幕政への不満から無断で佐倉に帰ってしまい、改易除封となります。のちに再び佐倉藩主となる堀田家は正盛の弟で、三男の正俊(1634年-84年)の家系です。



 宗圓寺本堂のすぐ後ろにあった佐藤泰然の墓。泰然の家族のほか、蘭学関係者の墓があります。

 佐藤泰然は文化元年(1804年)、武蔵国川崎在稲毛の生まれ。高野長英に医学を学び、長崎で蘭方医学を学んだのち、江戸で開業しましたが、天保十四年(1843年)、佐倉藩主・堀田正睦に招かれて佐倉に移り住み、佐倉順天堂を開いて治療に当たるかたわら多くの医学生を育てました。順天堂大学は佐藤泰然が江戸薬研堀に開いた蘭方医学塾(和田塾)が起源です。



 天台宗甚大寺。
 天海僧正が山形城下に創建した寺。山形城主だった後期堀田家の正亮(まさすけ)が佐倉へ転封されるのにともなって、佐倉城下に移築されました。吊るされている提灯は毎月十日に開かれる金毘羅大権現の縁日の名残。



 甚大寺の堀田家累代墓所入口。

 

 後期堀田家の初代・正俊(上)と正睦(下)
の墓。
 最初に佐倉藩主となった嫡流の堀田家と区別するため、この家系を正俊系堀田家と呼んだり、後期堀田家と呼んだりします。
 正俊は将軍・綱吉の時代には大老まで上り詰めましたが、従叔父の美濃青野藩主・稲葉正休(いなば・まさやす)に江戸城内で刺殺されるという最期を迎えます。
 原因は正休が淀川の治水工事の任から外されたことを恨んだとも、正俊が生類憐れみの令に反対していたので、綱吉による差し金とも。



 浄土宗教安寺。寛永二年(1625年)の創建。
 開基は花井左門という人ですが、左門の父親は花井遠江守吉成といって、徳川家康の六男・松平忠輝の家老だった人です。
 忠輝は容貌が怪異だったことから父・家康に疎まれ、家康の死後、兄・秀忠によって改易、配流されてしまいます。
 家老の嫡男だった左門もそのとばっちりを食って佐倉に配流。当時の佐倉城主・土井利勝の庇護の許に建立した寺がこの教安寺であると伝えられています。



 蘭学通りと愛称のつけられている教安寺前から佐倉順天堂記念館までの通り。



 浄土宗松林寺本堂。
 いまは本堂になっていますが、前身は四代目の佐倉城主・土井利勝によって創建された観音堂です。土井利勝は先月訪問した古河の藩主だった人です。
 利勝の四代あと、利益(とします)が志摩鳥羽へ転封になると、入れ替わって堀田正俊が上州安中から古河藩主に。
 そういう経緯を知っていて、古河のあとは佐倉……と決めたのではありませんが、不思議な因縁です。



 松林寺にある土井利勝の父母と夫人の供養塔。
 左は宝光院殿と読めるので、養父・土井利昌。中央が養母(松平清直の三女)。右が正室・松平近清の娘のものと思われます。利勝は水野信元の三男(実際は徳川家康の子ども)で、土井家には養子で入ったのでした。



 佐倉順天堂記念館。ここも当然休館日。
 現在遺されている建物は安政五年(1858年)に建てられたもの。東京・湯島にある順天堂大学は泰然の養子・尚中(たかなか)が開いた順天堂病院が前身です。

 さて、いよいよ佐倉探訪の第一の目的である桔梗塚に向かいます。
 桔梗塚を中心にしてプリントして持ってきた地図には佐倉東小学校が左端に載っています。この小学校に沿った道の先に桔梗塚があります。
 観光案内所で手に入れた地図には一番右端に小学校が載っていました。もらったときにそれを確かめていたので、相当歩くことになりそうだけれども、なんとか行けそうじゃ、と安心したこともあって、先に城址や城下を歩こうと決めたのでした。

 順天堂記念館から京成佐倉駅に出る道を北上すると、やがてY字型の交差点になります。そこを右手に進みます。小学校までの道はどんな道かわかりませんが、地図によれば、ほとんど交差もないような道です。
 野道だろうか、という予測に反して、ずっと住宅街がつづいていました。細い道ばかりですが、結構交差する道がある上に、上り下りがある。
 うにゃうにゃ? と不安に思ったのが、多分失敗の始まり。疑問を懐かず、道なりに進めばよかった(多分)のですが、道路に描かれたスクールゾーンという標示の向きが途中で逆転していたのに釣られてしまったのです。行き過ぎた、と思い込んでしまいました。

 私が持ってきた地図では、小学校周辺は緑色に塗ってあります。山か林か、あるいは野原であることを示しています。前方を見たらこんもりと樹の繁る台地がありました。
 小学校らしいものは見当たりませんが、これが緑色の部分であろうと思いました。あとで確認すると、私が見た台地に隠れていましたが、奥にもう一つ台地があったのです。
 住宅地がつづいているのに人影がないので、道を訊ねることもできません。

 結局、グルリと一周した挙げ句、また順天堂記念館の前に戻ってしまいました。今度は回り道になるのを覚悟で佐倉高校まで行って、ようやく東小学校を見つけました。この途中でも一時霧雨。



 こんな上り坂が小学校の敷地が切れるところまでつづいています。そこから先は未舗装の純然たる農道。



 しばらく歩くと野菜の直売所があって、留守番がおりました。しかし、道を行き来する人影はありません。

 

 桔梗塚遠景と桔梗塚。
 道に迷った末に辿り着いたせいか、呆気ない感じで見つかりました。
 塚の周りはきれいに草が刈り取られ、前にはお酒の紙パックが二つと缶コーヒーが供えてありました。いまは分断された形になっていますが、ここはこのあと訪れる將門神社の奥の宮であったようです。

 茨城県取手にある桔梗塚と同じように、桔梗御前によって敵方に売られたという將門の祟りによって、周辺では桔梗の花が咲かないそうです。

 このあたりの地名は佐倉市将門町(まさかどまち)。町名標示でもあれば記念撮影と思ったのですが、あいにく電柱すらありませんでした。



 桔梗塚から400メートル、將門・口ノ宮神社。
「將門・口ノ宮」とはどういう意であろうかと、かたわらにあった石碑を見ると、どうやら平將門と義民として知られる佐倉惣五郎を一緒に祀った神社のようです。
 鳥居に掲げられた神額をよくよく見ると、將門と口ノ宮の間には印刷編集用語でいうところのナカグロ「・」があります。紛れもなく將門神社と口ノ宮神社とが合体しているのです。

 惣五郎は堀田氏(正信)による苛政を藩や幕府老中に訴えたものの、聞き入れられなかったため、承応二年(1653年)、上野寛永寺に参詣する将軍・徳川家綱に直訴したと伝えられています。
 結果、藩主の苛政は収められましたが、直訴は御法度です。惣五郎夫妻は磔。正信が改易されたのはその祟りであるといわれます。しかし、資料には惣五郎が一揆や直訴を行なったという記録はないそうです。



 將門・口ノ宮神社から細く曲がりくねった坂道を500メートルほど下ると、京成電鉄の踏切に出て、京成佐倉の隣・一つ成田寄りの大佐倉駅に着きました。

 日中、停車する電車は1時間に三本しかありません。ちょうど前の電車が出たばかりだったので、どうするべぇかと地図を見たら、駅から近い順に宝珠院、住善寺、勝胤寺と三つもお寺があるので、待ち時間を利して行ってみることにしました。



 人一人しか通れないような線路脇の小径をトコトコ下って行くと、墓地と甍が見えました。これが宝珠院かと思ったら、一番遠くにあるはずの勝胤寺でした。
 戦国期の享禄五年(1532年)、本佐倉城主だった千葉勝胤(かつたね)が創建。



 我が宗旨・曹洞宗のお寺なので、禅道場があるのかと思いましたが、家に帰ったあとで調べると、檀信徒会館でした。
 このあと、勝胤寺より手前にある二つのお寺の入口は違うところにあるのだと思い、歩き始めましたが、結局見つけ得ず、台地を一周するハメとなりました。
 一本あとの電車がくるまで時間を潰すつもりが、乗れたのは三本もあとになってしまいました。

この日、闇雲に歩いた足跡です。佐倉を訪問する前に、自宅→湯島→病院→京成上野と歩いているので、この日歩いた歩数は計三万歩をオーバーしてしまいました。

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佐倉散策(1)

2010年10月16日 10時30分32秒 | 歴史

 ひと月一度の私の通院予定日は七日でしたが、この日は講習を受けていたので行けません。次に担当医師がくるのは十四日でしたが、この日も講習がありました。このぶんでは二十一日しか行く日がないと思っていたら、十二日の講習は自宅学習(すなわち休み)ということになりました。
 いろいろな用具を使って実習のようなことをする関係上、四十人全員が揃って講習を受けることができないので、グループを二つに分けたのです。
 体調はさほど悪くないので、診察日を先送りしても、どうということもなかろうと思いますが、気になっていたのは七日の朝で薬がなくなってしまっていたことです。
 休みができると知って病院に連絡を取ったら、診察は二十一日に延ばすことにして、処方箋をつくってもらって
おくので、薬だけ取りにきてください、ということになりました。

 十二日の朝方は小雨でしたが、八時前には熄みました。もう降りそうもないと思われたので、傘は持たずに出かけました。湯島まで行って処方箋をもらい、薬局で薬をもらって京成上野駅に着いたのは十時。具合のいいことに十時八分発の成田行特急がありました。
 講習が休みになり、病院へ行くと決まったときから、京成電車に乗って佐倉に行こうと決めていたのです。

 主な目的は三つ。
 一つは平將門の愛妾・桔梗御前の墓といわれる桔梗塚へ行くこと。
 取手にある桔梗塚は去年初夏に訪問しています。千年以上も前の人ですから、いろんなところに伝承が遺されていても不思議ではありませんが、佐倉にもあると識って気に懸かっていたところです。
 あと二つは依田學海(1834年-1909年)と佐藤泰然(1804年-72年)にまつわる何かを捜して訪ねる、というのが目的です。
 桔梗塚はインターネットの地図に載っていたのでプリントしました。佐藤泰然については墓所と彼が開いた佐倉順天堂の記念館があるとわかりましたが、依田學海については何も下調べができませんでした。

 京成佐倉に着いたのは十一時二分。
 駅前にオリジン弁当があったので、昼食にするつもりで握り飯と冷茶を買いました。
 この店は私の地元・北小金駅の南口にもあって、ときどき握り飯を買ったりします。チェーン店ですから、値段は同じだろうと思ったら、一つにつき¥28も佐倉のほうが安い。関係者に訊いていないので理由はわかりませんが、人件費が安いからなのでしょうか。ただし、冷茶のほうはサントリー・伊右衛門の500ミリペットボトルだったので、値段は同じでした。

 少し歩いたところに観光案内所があったので、パンフレットをかき集めました。なかなかに意匠を凝らしたパンフレットをつくっています。
 観光地図を眺めて見ると、佐藤泰然の墓所がある宗圓寺というお寺も佐倉順天堂記念館も載っています。桔梗塚は市街地から離れているので、載っていなくても仕方がない。ところが、依田學海に関するものは何もないようです。
 パンフレットの置かれた棚の一番上に長嶋茂雄の写真が飾ってありました。私はドラゴンズファンではあっても、プロ野球ファンではないので、長嶋にはまったく興味がありませんが、そういえば佐倉高校の出身なのでした。
 そんなことより依田學海です。思わず物欲しそうな顔をしていたのか、案内所にいた熟年のご婦人が「Can I Help You?」と言いたげな表情で近づいてきました。「依田學海」とおもむろに言ってみたのですが、通じませんでした。

 佐藤泰然は佐倉の人ではありません(武蔵国川崎の人)が、佐倉に腰を落ち著けて、医学と蘭学に多大な功績を遺しました。
 依田學海は佐倉の人でありますのに、幕末期は佐倉藩最後の江戸留守居役で江戸に滞在していました。明治になると、文部省に出仕してそのまま東京住まいと、地元には縁が薄かったからでしょうか、佐倉の人はあまり誇りとはしていないようなのです。墓所も東京の谷中霊園です。

 しかし、この人抜きに明治期の文芸を語ることはむずかしく、この人がいなければ、森鷗外も幸田露伴もこの世には現われなかったかもしれないのです。
 まあ、観光案内所でそんな講釈を披露したところで話にならんと思いましたので、ご婦人が小首を傾げているのをあとに、桔梗塚とは反対方向ですが、まず国立歴史民俗博物館へ行くことにしました。駅から入口まで歩いて十二~三分です。



 入口を入って、愛宕坂と呼ばれる坂を上る途中にある臼杵磨崖仏です。レプリカですが、実物は写真でしか見たことがないので、結構気に入りました。

 


 国立歴史民俗博物館。通称歴博。普段は月曜休館。前日月曜は体育の日だったので、訪問当日が休館でした。
 曜日のことは考えに入れずにきていました。以降、施設と名のつくところは前日臨時開館しているので、すべて休館です。



 これより佐倉城址公園。
 明治維新後の廃城令によって、建築物は何一つ遺されていませんが、広大な敷地はそのまま遺されているようです。歴博があるところもかつての城内で、馬出しなどがあった外郭です。



 空堀跡。
 この地に築城が計画されたのは室町時代後期・千葉氏によってですが、諸事情があって、実際に城が築かれたのは江戸時代になってから。それなのに、石垣がない(つまり土盛りだけでつくられた)という珍しい城です。



 本丸跡入口に建つ堀田正睦(まさよし・1810年-64年)とタウンゼンド・ハリスの像。
 安政五年(1858年)、アメリカ総領事のハリスは日米修好通商条約の調印を求めました。正睦は上洛して、孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしましたが、却下され、手ぶらで江戸へ戻ることとなりました。

 


 本丸跡と本丸を取り囲んでいた土塁跡。
 ここを見ていたときに雨が降り出しました。最初は木陰に入れば凌げる程度の降り方だったので、ベンチに腰かけて、駅前で買っておいた握り飯を食べましたが、やがて本降りになって、雨宿りを強いられること三十分。

 雨が上がると強い陽射しが出て、急に蒸し暑くなったと思うと、再び霧雨、と天候は二転三転しました。



 大手門跡。
 この門の前に藩重臣屋敷が並んでいた、という説明と幕末期の写真がありました。お城を背にすると、いまは左が歴博の研究施設・宿泊施設と佐倉中学校、右が佐倉東高校と市民体育館に変わっています。
 依田學海の父親は長柄奉行(鑓奉行)だったので、幕末のころは閑職です。重臣とはいえませんが、下級武士ではないので、ここからそれほど遠くはないところで生まれたのでしょうか。

 


 市民体育館脇の道を一度下って上ったところにある武家屋敷跡。ここも休館。

 


 前に訪問した茨城県の石岡や栃木ほど数は多くはありませんが、佐倉の旧城下町中心部には古い建築物が遺されています。
 上は山口家住宅。明治二十九年に建てられた袖蔵。ここはもともと非公開です。
 下は佐倉市立美術館。大正七年に建てられた旧川崎銀行佐倉支店の建物です。川崎銀行の建物は千葉市、水戸市などにも遺されています。



 何用あって桂小五郎が佐倉までやってきたのか。旅籠油屋跡地。ここも休館日だったので、何用があってきたのかは解明できぬままです。

 このあと、近辺のお寺と順天堂記念館を訪ね、いよいよ桔梗塚を目指します。〈つづく〉

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市川本八幡界隈

2010年10月14日 19時42分29秒 | のんびり散策

 ブログの更新を滞らせておりました。
 何人かの方から、体調を崩したのではないか、と心配するメールやコメントをいただきました。お会いしたこともない方々なのに、心配などしていただいて、身に余る思いです。改めて御礼を申し上げます。

 で、実情は……といいますと、体調を崩したわけではないのです。
 四十年ぶりに連日机に向かった、という講習会の疲労が尾を引いて、ブログを更新する気力が湧かなかったあと、連休があって、その疲労も解消したかと思える十二日の火曜日、思わず知らず無理をするようなことがあって、また疲れてしまった……と、いうようなことだったのです。

 どんな思わず知らずがあったのかといえば、十二日の講習は自宅学習ということになったのですが、自宅学習はせず、懸案の所用を済ませたあと、佐倉というところに行きました。
 ときおり小雨が降る中を歩きました。雨に濡れたことを除けば、まあまあ順調に歩いておりましたが、最後の目的地を前に道に迷いました。
 見ても見なくてもどっちでもよいというところなら、エエイッとばかり飛ばしてしまったかもしれませんが、佐倉へ行こうと思ったのは、それを見ることが第一の目的であったので、見ぬうちは意地でも帰れぬと思って、しゃかりきになってしまったのです。
 その結果、悠に一時間以上は余分に歩いて、朝、家を出てから暗くなったころに家に戻るまで、なんと三万歩以上も歩くことになったのです。
 おかげでドッと疲れてしまった、という次第でありました。

 今日、十日間にわたった講習会がめでたく結願(けちがん)を迎えました。六十歳以上のジジイ、ババアばかり四十名中三十八名が無事結願して、一人一人修了証書をもらいました。晴れがましさより照れ臭さが先に立つような思いです。
 証書は資格でもなんでもないので、これで仕事が決まるという錦の御旗ではありませんが、雑誌編集一筋の人生を過ごしてきた私にとっては、これまでやったことも、やってみようと思ったこともない仕事の体験(ほんの入口に過ぎませんが)であったので、振り返ってみれば愉しい十日間でありました。

 最終日の今日は閉講式だけで講義なし。午後一時までという予定であったのに、十一時半には終わってしまいました。

 今日は昼過ぎに修了という予定だったので、弁当は持たず、どこかで昼を食べて帰ろうと思っていましたから、大阪王将へ行くことにしました。南柏で二度も店を目の前にしながら、食べられなかった餃子を食べるのです。
 本八幡の店には何度かきていますが、松戸市民となる前、市川市民だったころにきて以来ですから、三年ぶりぐらいです。



 窓にはこんな貼り紙。さすが大阪系。某在阪球団が日本一になるのを応援しようというのです。そのおかげで今日は餃子が一皿¥100。
 しかし、虎ゴンズファンである私は、「おかげ」はちゃっかりいただくものの、無駄な抵抗はやめておけ! と断言しておきます。某在阪球団が某在京球団に勝ったとしても、一位で日程を終え、勝ち上がってくる者どもを、悠然と待ち構えている虎ゴンズにはまあまあ1勝するのが精一杯、というのがよいところでありましょう。



 中華丼と一緒に一皿食べて、二皿分を持ち帰りにして包んでもらいました。

 十二時前に昼飯を終えてしまったので、腹ごなしも兼ねて少し歩くことにし、本八幡駅の北口に廻りました。

 市川市役所のほぼ真ん前、国道14号線(千葉街道)を挟んで不知森(しらずのもり)と呼ばれる小さな森があります。
 寡聞にして使われたのを耳にしたことがありませんが(「広辞苑」には採録されています)、道に迷うこと、出口がわからなくなることを、「八幡の藪知らず」、あるいは「八幡知らず」という慣用句の元となった森です。
 千葉県内では、本八幡といえばそれなりに有名ですが、全国的に名が知られているとは思えません。それが「広辞苑」に載っているとは……。

 いまは孟宗竹に浸食されて、森というより竹林に変わってしまっています。しかし、つい二十数年前、昭和の終わりごろまでは漆、松、杉、柏、栗などが生い茂って、森と呼ぶのにふさしい茂みがあったそうです。

 森自体は約20メートル四方と決して広いものではありません。いまだから狭くなったので、昔はもっと広かったのかというと、江戸時代にはすでに現在の規模しかなかったようです。
 ただひと口に江戸時代といっても、三百年近くの歴史があります。一説には、水戸黄門がこの藪に入ったら、迷ってしまったので、その名がつけられたといわれています。
 人が迷うぐらいですから、江戸時代初期はずっと広い森であったのかもしれないと、視覚面から考えるより、人が足を踏み入れてはいけない、入ると祟りがある「禁足地」だと考えるほうが合理的かもしれません。
 私が小さなころは、暗くなってから外に遊びに出たりしてはいけないというのを、「人さらい」が出るとか「子取り」が出る、といわれたようなものと同じです。

 禁足地というからには、聖なる場所か忌み所というところでしょうが、誰にまつわる場所なのかという確たる伝承はありません。
 一つは日本武尊が東征のおり、ここに陣屋を設けたという伝承。
 もう一つは平將門の父親である平良將(よしもち)の墓所であるという伝承。
 さらには平將門本人の墓所であるという伝承。
 あるいは、ここで將門の首を守っていた六人の家臣がそのまま泥人形となった(すなわち墓所)という伝承。
 もしくは森の中央に窪みがあるところから、かつて放生池があったという伝承など、さまざまです。

 放生池とは八幡宮の行事の一つ・放生会で生きた魚を放つ池のことです。すぐ近くには葛飾八幡宮があります。市川市が建てた説明板によると、断定こそしていませんが、放生池説に肩入れしたそうなニュアンスが窺えます。



 森の一画に祀られた不知森神社。

 鳥居の後方に建つ不知八幡森の石碑。
 江戸は浅草・花川戸の造り醤油屋・伊勢屋宇兵衛が安政四年(1857年)春に建立した旨が彫られています。

 伊勢屋宇兵衛という人は故郷の常陸国信太郡江戸崎(現在の茨城県江戸崎町)が低地にあるため、雨が降ると人々が困っているのを思い、私財を投じて百か所にも及ぶ石橋を架けたという逸話の持ち主です。それ以外にもいまの群馬県、千葉県にも橋を架けたようですが、なにゆえここに石碑を建てたのかということは、不勉強でいまのところはわかりません。



 昔々ストリップ劇場のあった総武線高架下あたり。
 短い距離ですが、陰気臭い通路だけはそのまま残されているみたいです。



 私が知る限り、市川・松戸・柏近辺ではただ一店だけ、目白・揚子江の味に一番近い五目焼きそばを食べさせてくれた一品香。
 といっても、メニューにある「五目焼きそば」は一品だけで、実態は堅焼きそばです。「柔らかい焼きそば」と注文しないと、堅焼きそばが出てきてしまいます。
 店は地下にあるので、私のカメラでは画像の解像度が悪く、はっきりしません。入口の看板だけ載せることにしました。講習が終わってしまえば、まずくることはない本八幡なので、大阪王将かこの店か、と迷ったのですが……。
 

 本八幡駅界隈をゆっくり歩いて帰ってきても、午後一時を過ぎたばかりでした。講習があった期間は弁当をつくるのを日課にしていたし、疲労困憊のていで毎朝目覚めるのも遅め。よって、朝の散策もままなりませんでしたので、庵に帰る前に久しぶりに富士川沿いを歩きました。

 

 近場では秋桜(コスモス)をあまり見かけないと思っていたら、そのツケを全部払ってくれるような広大な秋桜畑がありました。

 日にちが前後しますが、十二日に散策した佐倉のことは後日に廻します。
 今月四日はジャニス・ジョプリンの没後四十年でありました。おお、そうじゃと気づいたとき(七日だったと思います)からブログに書きたいと思っていたのですが、疲労困憊につき思いを果たせませんでした。機会があれば、これも後日。

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講習会受講疲れ

2010年10月03日 15時54分30秒 | 日録

 先月の二十九日から千葉県シルバー人材センター連合会という団体が主催するシニアワークプログラムが始まりました。宝籤では下一桁しか当たったことのない私が競争率3・3倍! という難関を突破して射止めた講座です。新しい仕事に臨むための基礎知識をいろいろ教えてくれます。

 講習会は先月の二十九日から今月の十四日まで、十日間にわたってあるのですが、二十九、三十、そして今月一日と、わずか三日間受講しただけで疲れてしまいました。
 各日午前十時から午後四時まで、昼休みを除く五時間の講義があって、三人がけの机を前に坐って講師の話に耳を傾けるのです。ずっと同じ姿勢を強いていたためか、身体の節々も痛い。
 身体が衰えるのを少しでも先延ばしにせむと、一日一万歩を目安に歩くことを心がけていますが、ただ歩いているだけでは駄目なのだなぁと思い、ヨガでも始めますか、と自分に呟いたりしています。
 二日目、三日目になると少し慣れたみたいですが、初日は家に帰ったあと、夕飯を食べるのもかったるいぐらいグッタリしてしまいました。それもそのはず、講師と何時間も睨めっこするのは、多分大学生のとき以来でしょうから、四十数年ぶり……。

 初日、講義が始まるのに先立って、受講者の自己紹介タイムが設けられました。
 苗字の五十音順に席がつくられています。
 私の苗字はア行なので、席も前のほう、自己紹介の順番も早めに回ってきます。別に笑いを取ろうという気はありませんが、つむじ曲がりなので、人と同じようなことは言いたくないという性格です。しかし、自己紹介をさせられるというのはその場で知らされたことだったので、下準備もへったくれもありません。
「では、アイウエオ順に……」と指名され、あっという間に自分の順番がきて、何一つ面白いことをいえぬままに終わってしまいました。

 面白い自己紹介だったというと語弊がありますが、真ん中あたりで立ち上がった一人がおもむろに、仕事を辞めて何か月か経つと、どんどん気持ちが沈んで行き、このままでは精神的に追い詰められてしまうと思ったときに、この講習があると知って応募をした、というようなことを告白しました。

 私は「ほほう、なるほど。気持ちはよくわかる」と思って聞きましたが、この人の発言で座の雰囲気がほぐれたのでしょう。「私も、私も」という人が出てきました。中にはかなり深刻な告白をしてしまう人もおりました。一人一人の配偶者や家族の有無はわかりませんが、全員が平穏な年金生活を営んでいるのではない、ということだけは確かです。

 講習の受講者は四十名。年齢が六十歳から六十五歳まで、と限定されているので、同窓会に似ています。しかし、休憩時間がきて、用足しに行く人や飲み物を買いに行く人を見ていると、同じ年代といっても、歳の取り方はまさに十人十色、千差万別だなぁと思います。背筋がピンシャンして、肌も若々しく見える人もいれば、もう棺桶に片足を突っ込んでいるのではないか、と思える人もいます。



 受講中は写真を撮ることができないので、これは一日の講習が終わった直後の写真です。

 二日土曜日、講習は休み。天気もよかったのに、受講疲れでグッタリしてしまって、散策に出る気にはなりませんでした。今朝は少し気力が戻ったので、久しぶりに早朝の散歩に出ました。



 富士川親水広場では太極拳の集まりがありました。



 近くにはドッグランがあります。何度も通ったことがありますが、犬がいるのを見たのは初めてです。
 二頭ともいまどきはあまり見かけないコリー犬です。両方とも♂で、支柱におしっこをかけながら歩き回っているだけで、全然ランはしておりません。



 本八幡・コルトンプラザの「手仕事の庭」で名前を覚えたばかりの黄蜀葵(トロロアオイ)。常磐線脇にある市民農園で。

 


 常磐線の線路に沿って坂を上って行くと、香取神社がありました。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)。江戸時代初期の石造物があるという説明板が建ててありますが、創建はいつなのか不明です。
 画像下は神社境内にいた猫殿。まだ仔猫のようです。



 無患子(ムクロジ)の樹のある農家の前を通りました。この樹は観音寺の樹と較べると、実の落ちるのが早いようです。道路にはまるで誰かが敷き詰めたようにビッシリと実が落っこちていました。

 この家の入口近くに作業小屋のような建物がありました。無患子の写真を撮ったあと、ふと視線を下げたら、その小屋の前に置かれた椅子に腰かけて、煙草を吹かしているオヤジがいました。
 目が合ってしまったので、挨拶をして訊ねてみました。この家の主でした。
 やはり自然に生えたのではなく、先代が植えたということでした。高くなり過ぎたので、一度伐ったことがあるといっていました。
 むろん、在の人です。ここは千葉県の流山市ですが、話を聞いていると、語尾がどんどん上がって行く茨城の言葉に似ています。



 いつも眺める富士川近くの民家の桔梗殿です。



 これは我が庵の桔梗殿。代替わりしながら、何年も手許に置いていますが、十月になっても咲いている、というのは記憶にありません。それどころか、まだ蕾すらあります。
 右下は今朝の散策途中で拾った柿です。 



 本土寺参道の曼珠沙華は満開期を過ぎつつあります。しかし、我が庭の曼珠沙華はこれからです。まだ花を開いていない茎もたくさん顔を出しています。

 インターネットで注文しておいた桔梗とハーブの種が届きました。
 早速苗床をつくって種を播きました。まだ芽も出ていないのに、移植するときに備えて庭を掘り返しています。来年の春はささやかながらも桔梗畑とハーブ畑が出来上がっているでしょうか。
 朝夕はめっきり涼しくなってしまったというのに、夕方になるといまだに蚊が出ます。ピシャリピシャリとやりながら畑地づくり。

※昨日、ドラゴンズの優勝が決まりました。ファンとしては悦ぶべきなのですが、今年は本命と思われたジャイアンツが勝手にずっこけたという印象があって、なんとなく感激も薄いのです。ヤクルトにボロ負けに負けたのに、それで優勝かよ、というのも感激を薄くした原因かもしれません。
 一方、ラグビーのほうはトヨタ自動車が開幕4連勝。こちらはもろ手を挙げて万歳をしています。もう一つの応援アイテム・メイジは先週、今週とお休み。

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