桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

金木犀の花が咲いたよ

2009年09月29日 22時44分47秒 | 

 秋分の日、我が庵があるマンション裏手の通り-私が金木犀(キンモクセイ)通りと名づけている道で金木犀が咲きました。
 ブログの更新は写真を撮ってからと思っていたのですが、写真を撮る機会がなかなか訪れません。撮るとしたら、勤めに出るときしかないのですが、高木なので、見上げて撮すアングルしかなく、すると朝の空の明るさが邪魔になるのです。

 今朝は払暁まで雨。
 出勤時の空は厚い雲に覆われていたので、なんとかカメラに収めることができました。



 金木犀の開花とともに、曼珠沙華の花が終わり、梨の季節も終わりました。月曜日から蝉の声も聴きません。

 金木犀の香りを嗅ぐと、大学時代、ことに一年生のときの大学祭を思い出します。つれて、死んでしまった同級生のS・Tを思い出します。
 学科でたこ焼き店を出すことになり、私が屋台の裏で蛸の足(誰が仕入れてきたのか憶えがありませんが、本物でした)を刻み、S・Tたちが覚束ない手つきでたこ焼きを焼きながら接客していました。私たちが屋台を開いたすぐそばに金木犀の樹があって、甘酸っぱい香りを漂わせていました。

 それから三年後、S・Tがあっけなく死んでしまうとは考えてもいませんでした。

 心なしか、過去を思い出すことしきりです。秋のせいでしょうか。

 ブログに江戸時代の医師・橘南谿さんのことを書いたら、急に読み返してみたくなって、千葉県立西部図書館で本を四冊借り出してきました。

 

 奇を衒っているわけではありませんが、私が借りたいと思うような本は、この図書館では自由に閲覧できる開架書庫にはありません。係員に頼んで閉架書庫から出してもらわなければならないので、実際にはどんな内容で、どんな装丁の本なのか、出てくるまでわからないのです。
 前に、私にとっては重いだけの「藤岡屋日記」を借りてしまうという大失敗を犯したのも、事前に見ることができなかったからです。
 幸い今回は平凡社の東洋文庫二冊、吉川弘文館の日本随筆大成一冊、昭和初期の有朋堂文庫一冊と、本の体裁も、大体の重量もわかっていたので、四冊借りることにしました。



 これは南谿さんの故郷・久居市立図書館(三重県)に所蔵されている像です。非常に特異な様相をしています。
 南谿さんは喘息持ちだったそうです。医者の不養生ではありません。現代でも喘息は厄介な病気なのですから……。

 図書館のすぐ近くに21世紀の森と広場があります。芝生に寝っ転がって南谿さんを読もうと立ち寄ってみました。
 50ヘクタールという広さがあります。東京ドームに換算すると、十一個分の広さだと案内書きに記されています。



 新聞記者をしているころ、橋の長さを著わすのに、東京タワーを○つ繋いだ長さと書いたり、ダムの貯水量や湖面の広さを著わすのに、東京ドーム○杯分(私が現役のころは後楽園球場でしたが)と表現したりしていました。
 3キロと書くより、東京タワーを約十塔ぶん繋げた長さ、と書いたほうがわかりやすいという説を誰も不思議とは思わず、ただ電卓を叩いて書き直していたのに過ぎませんが、私は東京タワーを縦に十塔並べた長さや高さと書いて、一体誰に見当がつけられるのだろうと思ったものでした。東京タワーを見たことのある人にも見当がつかないのに、世には見たことのない人だっているのです。

 広場の中に千駄堀池があり、池の畔にカフェルームとは名ばかりのカフェルームがありました。そこで餡パンと冷茶を買って芝生の上に寝っ転がりました。
 大地の上で身体を伸ばすのにはいい気候ですが、本を読むのには少し風が強い日でした。2ページも読まないうちに、苛々してきたので、読書は中止。

 この千駄堀池も5ヘクタール、東京ドーム約一個分と案内書きにあります。



 園内のガイドマップです。右中央の水色部分が千駄堀池。



 秋桜(コスモス)の群落があったので、撮影しました。ガイドマップでいうと、左側中央の濃い緑色のあたりです。

 野良の母猫殿に行き渡らせるだけのミオを持っていなかったことを後悔させられた翌日から、鞄には二袋忍ばせておくことにしました。せっかくですからそれまで持っていたのとは味の異なるものを買っているのですが、あいにく野良殿に出くわすことがありません。

 21世紀の森と広場から武蔵野線の新八柱駅に戻る途中、行きずりの野良殿にでも会えば、と思っていましたが、一匹だに見かけませんでした。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民の休日の小散策

2009年09月23日 16時17分44秒 | 寺社散策

 世間は四連休、または五連休だったのに、私の勤め先は本当なら第三土曜で休みのはずの十九日は、連休がつづくから、という理由で出勤。二十日の日曜こそ休みでしたが、二十一日の敬老の日は出勤、二十二日の国民の休日も出勤という有様でした。

 国民の休日というのは劣悪なネーミングです。
 五月四日はかつての天皇誕生日のお下がりとはいえ、「みどりの日」という名をもらったのに、またぞろ安易な名前の復活。つくづく知恵者はいないものと見える。国民の休日が休日でない人間は、日本国民ではないとでもいいたいのか。

 幸いにして国民の休日の出勤は午後二時過ぎにて終わりました。
 帰り支度を終えて腰を上げるまでの数分、インターネットで勤め先周辺の地図を見ると、すぐ近くを走る主要地方道・松戸船橋線沿いに唱行寺というお寺を見つけたので、帰りがけに、といえるほど近くはないのですが、探訪することにしました。



 途中、子安神社という小さな社がありました。
 小社にしては意外に長い参道です。入口から社殿まで、目測200メートルほどもありました。
 参道は深い緑に囲まれて昼間でも薄暗い。蝉の声もほとんど聴かれなくなっていたのに、ここではツクツクボウシに混じって油蝉も啼いていました。



 田舎の小学校を移築したみたいな建物ですが、社殿です。ちゃんと四手も下げられています。



 子安神社境内にあった庚申塚。
 庚申塚としては珍しい五層の形をしています。元禄三年(1690年)建立とのことですが、説明板もないので、いわれはわかりません。



 これも途中にあった無人の馬頭観音堂。
 なにゆえにお堂の前に鳥居があるのか。誰もいなかったので、これまた
わかりません。



 目的の唱行寺に着きました。
 こんもりと樹の繁る丘の上にあります。建長六年(1254年)、念仏修行僧だった鐘阿弥という人が開創したと伝えられています。



 鐘阿弥はのちに日蓮に帰依し、名を日唱と改めます。
 日唱は鉦を叩きながら念仏を唱える代わりに、太鼓を用いたので、この寺は「太鼓の霊場」と呼ばれるようになりました。

 この寺は忠臣蔵前段の重要な脇役の一人・梶川与惣兵衛と繋がりがあります。
 ここには梶川与惣兵衛の祖父母の位牌と供養塚があるのです。唱行寺のある柏井(市川市柏井町)は梶川家の知行地であったからです。

 元禄十四年(1701年)三月十四日、江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りつけようとした浅野内匠頭を背後から抱き止めたのが梶川与惣兵衛です。判官贔屓の多い日本人にとっては、悪役とまではいわないかもしれないが、明らかによけいなことをした男です。ために、事件後は世間の批難を恐れ、柏井の名主宅に身を潜めていたそうです。
 参道の石段は四十七士の討ち入り後、四十六段に減らされたと伝えられていますが、前は何段だったのか、はっきりとしません。世を憚って減らしたと考えるのが相当なので、四十七段あったのでしょうか。



 こちらにも馬頭観音堂がありました。

 私が訪ねるお寺は無人ということが多いのですが、この日は彼岸の中日の前日、今年から休日になったということもあり、墓参の人がちらほらおりました。ただし、境内はまったくの無人。



 勤め先を出て、寄り道しながら一時間で船橋法典の駅に着きました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千住宿探訪

2009年09月22日 00時33分57秒 | 歴史

 日付が変わってしまったので、一昨日になりましたが、日曜日、旧日光街道千住宿を訪ねました。



 最初に訪ねたのは新義真言宗長円寺です。
 寛永四年(1627年)、湯殿山の雲海という行者がこの地に庵を結んだのが初めと伝えられています。



 長円寺から徒歩五分。旧日光街道から少し外れた場所にある新義真言宗長福寺安養院。
 建長年間(1250年ごろ)に北条時頼が創建したと伝えられていますが、「足立風土記」によると、創立は応永二年(1395年)。



 安養院の阿弥陀堂。
 まだ新しいようですが、阿弥陀堂はどんなお寺のものでも美しい。ちなみに阿弥陀如来は我が干支(亥)の守り本尊です。



 旧日光街道に戻ると、江戸時代からつづく絵馬屋・吉田屋があります。
 神社では何気なく見過ごしている絵馬。お守り、破魔矢、おみくじ……商売繁盛を願ったりするものなのに、その流通経路は考えない、というか考えてはいけないのかと思ったり、寺社を介さず買ってもよいものかと思ったり……。



 横山家住宅。
 千住宿の伝馬屋敷。住宅はいまも現役です。



 旧日光街道の町並み。いまは宿場町通りと名を変えて、北千住のメインストリートになっています。
 松戸宿と同じように、往時の面影を偲ばせるものはほとんど遺されていません。遺されているのは本陣跡、高札場跡、一里塚跡などと記念碑ばかりです。

 


 浄土宗勝専寺(通称赤門寺)山門と千住宿に時を報せた鐘楼。
 千住という地名の興りは、この寺に安置されている千手観音であるとか。
 日光街道が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠、家光、家綱の利用があったそうです。また日光門主らが江戸~日光往復のときには、本陣として使われたようです。



 勝専寺閻魔堂。
 一月と七月の十五、十六日には山門前に露店も出る閻魔詣でで賑わいます。鎮座するのは寛政元年(1789年)につくられた木像の閻魔大王坐像。
 格子の間からカメラのレンズを突っ込むと、モニタには閻魔様が写るのですが、シャッターを押すとハレーションが起きて、何も写っていない。三度試みましたが、駄目でした。目に見えぬバリアが張られているようです。



 やっちゃ場跡。
 昔の海産物問屋、青物問屋などの名称の看板が現在の店舗や住宅にかけられています。



 国道4号線と旧日光街道の分岐点に建つ松尾芭蕉奥の細道旅立ちの記念碑。



 国道4号線を渡り、千住大橋のたもと近くにある橋戸稲荷神社を訪ねました。



 本殿は土蔵造りで、前扉右に漆喰彫刻の男狐、左に母子狐があって、これは母子狐。鏝絵で名高い伊豆長八の作品ですが、レプリカです。

 長八の生まれ故郷である伊豆松崎へは何度も避暑に行って、長八美術館も見ましたが、なにゆえ鏝を使わなければならなかったのか、と疑念が湧いて、ゆっくりと鑑賞することはありませんでした。
 ややオーバーにいうと、竹馬を操りながら書や絵を描くようなもので、竹馬の上から描いたにしては上手い、というようなことが価値のあるものかどうか。正直なところ感心しない。



 こんなところにリーガルの本社がありました。
 私は若いころからリーガルファンで、二十年以上も昔、本場で買ったモカシンは何度も中敷きと革底を張り替えてもらって、いまでも履けます。
 ただ歳をとって、足の皮が固くなったせいか、リーガルの靴を履くのは苦痛になりました。いまはアシックス製のラバーソール専門です。

 国道4号線に戻って、最後にカンパネルラ書店という古書店を訪ねました。
 七~八年前、浅草に住んでいたころ、どこかからの帰りに乗った都バスの車窓からこの書店を見かけて、いつか覗いてみたいと思っていた店です。しかし、私はやがて千葉県民となってしまったので、訪問する機会を失していたのです。

 今回の千住探訪では真っ先に、とも思いましたが、やはり大トリは最後がふさわしいと思って取って置き、満を持して訪ねました。
 ところが、予想した場所に古書店はありませんでした。都バスから眺めたとき、角から何軒目とキッチリ憶えていたわけではありませんが、跡らしいところに、まだ新しそうなマンションが建っていました。

 帰庵後、古書店検索エンジンで調べると、西新井に「カンパネラ」という名の書店がありました。私が見に行かないうちに移転したのだと思います。
 そうか。「カンパネルラ」ではなく「カンパネラ」であったのか。
 どうでもいいようなものですが、「ル」があるかないか。そんなに単純な問題ではありません。
 私は勝手に「カンパネルラ」だと思い込み、「銀河鉄道の夜」でザネリを救おうとして死んでしまったカンパネルラから名前をつけたと想像していたのですが、「カンパネラ」となると、宮沢賢治とは関係がないということになる。
 古書店は入ってみないことにはどんな本を揃えているのかわかりませんが、店名に惹かれて入ってみたいと思ったのは、たぶんこの店だけです。

 移転したらしいと知る前、カンパネルラ書店について話したことのある知人に、かくかくしかじかで、ついに店主のおじさんには会えなかったというと、知人のほうでは、店主はおばさんだったかもしれないという解釈。
 ふむ。確かに古書店主=おじさん、というのは誰でも陥りやすい先入観念です。
 古書=宮沢賢治、と思ってしまったのも私の先入観念で、おじさんかおばさんは無類のピアノ好き、それも少々つむじが曲がっているので、ショパンなんかよりリストを好み、「ラ・カンパネッラ」から店名を拝借したのかもしれません。
 リストの題名はcampanellaというイタリア語表記ですから、「ネッラ」でも「ネラ」でも「ネルラ」でも、どれでもよろしい。しかし、宮沢賢治だけは「ネルラ」でなければならないのは当然です。

 私のカンパネルラ書店は、風の又三郎とともに、遙か銀河の彼方に去ってしまった、ということにしておきます。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦八朔

2009年09月20日 09時57分37秒 | 日録

 昨日は旧暦八朔。
 今年は五月に閏月があったので、新暦とは一か月半以上の差ができてしまいました。



 曇って肌寒く感じる一日でした。朝、出勤途中に武蔵野貨物線に咲いている尾花を撮影しました。
 秋だなぁ~と思うと、自然に物思いにふける時間が長くなります。仕事はそっちのけにして……。

 そしてふと思い出したのは、若くして死んだG君のことでした。同じ職場にいましたが、仲がよかったわけではありません。それどころか、ほとんど口を利いたこともありませんでした。
 若いが敏腕で、週刊誌記者として将来が愉しみという社内の評判でした。ベテラン記者でも尻尾を巻くような取材をして、嫌がる相手からちゃんとコメントを取ってくるというのです。

 いつしか顔を見なくなったと思ったら、朝日新聞の採用試験を受けて転職していました。それからしばらくして、長野県の松本支局で働いていたことを知りましたが、それは彼が死んだと聞かされたときに知ったことでした。
 仕事かプライベートかわかりませんが、北アルプスの尾根を歩いているときに落雷に打たれて命を落とした、と聞きました。

 負け惜しみではありませんが、私はG君が将来が愉しみ、といわれていることになんの感情も覚えませんでした。
 入社した雑誌社で私はたまたま週刊誌に配属されましたが、仕事をしたいと思ったのは文芸誌で、その雑誌社に入るまで、週刊誌という存在すら知らず、仕事だからと割り切ったつもりではいたものの、自分に向いた仕事ではないと悟り始めていたからです。

 昭和四十六年のことです。
「無知の涙」という本がベストセラーになりました。著者は永山則夫です。
 連続射殺魔として世間を騒がせた永山則夫を、改めて問い直す(私には何を問い直すのか、合点がいきませんでしたが)という意図で、私はその特集を手伝うことになり、京都に派遣されました。
 四人の犠牲者のうち、二番目の犠牲者となった人の遺族が京都に住んでいたからです。

 自分の夫を、父を殺した人間の本がベストセラーになっている。

 そのことをあなたはどのように感じていますか!

 事件から三年が経過していましたが、遺族にとっては憎しみや悲しみが癒えることはないはず。その人たちの前で、「永山則夫」という、憎んでも憎み切れぬ名を私が問いかけて蒸し返しに行く。そのことにどのような意味があるのか!
 私は沈痛な思いを懐きながら新幹線に乗りました。
 一方では意気揚々たる部分もありました。出張というのは同期入社の中で私が第一号だったからです。

 相手が嫌がる話を聞きに行くことを、喧嘩になることを承知で行くのですから、「喧嘩取材」といったりしていました。
 相手が玄関を開けて顔を覗かせ、こちらが名乗った瞬間、玄関のドアや引き戸を閉められないように、素早く片足を突っ込む。勢いよく閉められるはずのドアで足を潰されないために、靴底が硬い革で、厚さが1センチ近くもあるリーガルのモンクシューズを履く。
 先輩に教えられたとおりの出で立ちで、端から見れば意気揚々と新幹線に乗ったのですが……。

 自分でも予測していましたが、結果は惨憺たるものでした。
 西陣にある遺族の家を探し当てたのですが、表札を確認した瞬間、私はやはりきてはいけないところへきてしまった、という思いにとらわれてしまったのです。

 その家の前を何度行きつ戻りつしたでしょう。
 着いたときにはまだ明るかった空が、どんどん暗くなって行きます。止めどもなく沈んで行く気持ちとは裏腹に、腹も減ってきます。地元の新聞社や京都府警への取材もあったので、一泊の予定できていましたが、宿の手配もしていませんでした。

 目的の家があるのは西陣でした。
 近くの千本今出川の交差点に出ると、そこそこに食べ物屋もあり、喫茶店らしき灯りも見えました。
 目指す人物に会う前に、そういうところに入って、その人の人となりや評判を聞く、というのは取材の常道です。結果、会わなくても大体のことがわかってしまうということもあります。
 しかし、私にはそんな根性も勇気も気力もありませんでした。知らない街で、しかも夜の帳(とばり)も降りていましたから、道がわからなくならない程度に離れたところで空腹を癒し、もう一度戻ってこようと思いました。

 しかし、その夜遅く、私がいたのは大阪・梅田の地下街でした。千本通りを夢遊病者のように歩いて、四条大宮から阪急電車に乗っていたのです。
 当時は大阪もほとんど知らない街でしたが、京都から適当に遠く、適当に近い街にいなければならぬと思ってやってきたのでした。

 私が立ち止まっていたのは狭い古書店でした。手には買おうか買うまいかと逡巡していた本がありました。すでに手許にはないので、題名も忘れてしまった本ですが、何かの全集の一冊で、江戸時代の日記や紀行文を抄録したものでした。
 その中に橘南谿という江戸時代の医師が書いた「北窓瑣談」の抜粋があって、私はいま自分が直面しているのとは正反対の位置にあるような内容に、強烈なあこがれを覚えていました。
 一例を挙げると、次のような文章があります。

 下野国烏山の辺に雷獣といふものあり。其形、鼠に似て大さ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭なり。夏の頃、其辺の山諸方に自然に穴あき、其穴より、かの雷獣首を出し空を見居るに、夕立の雲興り来る時、其雲にも獣の乗らるべき雲と乗りがたき雲有るを、雷獣能見わけて、乗らるべき雲来れば、忽ち雲中に飛入て去る。此もの雲に入れば、必雷鳴るにもあらず。唯雷になるとのみ云伝へたり。又其辺にては、春の頃、雪をわけて、此雷獣を猟る事なり。何故といふに、雪多き国ゆへに、冬作はなしがたく、春になりて山畑に芋を種る事なるに、此雷獣、芋種を掘り喰ふ事甚だしきゆへ、百姓にくみて猟る事とぞ。是漢土の書には、雷鼠と書たりと、塘雨語りし。

「北窓瑣談」には橘南谿が全国を旅して集めた珍談奇談のたぐいが数多く収められています。
 内容は出鱈目だとか、誰かが空想したことが、いかにも真実であるかのように伝搬しているのだとか、いわれていますが、そういうことは私にとってはどうでもよいことでした。珍談奇談を訪ねたい、ということでもありません。
 ただ、私が取材に行くことで、相手を悲しませたり怒らせたりすることなく、私自身も嫌な思いをしなくてもいいような仕事がしたいものだ、と思っただけです。
 思っただけですが、その夜の思いは痛切な思いでした。

 橘南谿は伊勢久居(三重県久居市)の人。本名は宮川春暉(はるあきら)。
 明和八年(1771年)、十九歳のとき、医学を志して京に上りました。
 天明年間には多くの旅をしています。天明二年(1782年)春から翌年夏にかけて、西国から鹿児島。天明四年秋には信濃。天明五年秋から翌年夏にかけては北陸から奥羽……。
 目的は臨床医としての見聞を広めるためで、旅先でも治療をしながら歩いたようです。



 これは和綴じの本物で、私が読んだのはこんな立派なものではありません。

 その夜は曾根崎警察署があるあたりの怪しげなホテルに泊まりました。
 夜鷹が声をかける中をすり抜け、エレベーターなし、バスなし、トイレは共同……。あちこちから聞こえてくる、意味不明の叫び声や罵声に明け方まで悩まされるという安普請のホテルで、買ったばかりの「北窓瑣談」を読んで、眠れぬ夜の気を紛らしていました。

 翌日、もう一度西陣を訪ねているはずですが、記憶は定かではありません。
 出張から帰って、当然首尾も報告しているはず。結局、手ぶらで帰っているのですから、小言をもらっているはずですが、それも記憶からすっぽりと抜け落ちています。
 ただ、その日は、ある年齢になるまで、忘れようとして忘れられない一日となりました。

 西陣の家を訪ねると、顔を覗かせたのは、大阪・曾根崎で私に声をかけてきた夜鷹で、私の取材意図を聞くと、「人でなしッ!」と叫んで、水をかける。そんな夢を何度も見たことがあります。
 しかし、歳とともに、嫌なことはどこかに置き去りたいという防御本能が働くようです。中心を為すことは忘れませんが、周辺のことどもは次第次第にぼやけて行ったり、違う日の出来事と一緒になって、わけがわからなくなったりします。

 永山則夫に死刑が執行されたのは、いまから十二年前の八月一日。
 その日、私がまだ週刊誌にいれば、再び京都に行って、かつては口に出せなかった、

 
そのことをあなたはどのように感じていますか!

 という質問を発しなければならなかったかもしれません。
 しかし、私はすでに遙か遠いところで、別の仕事をしていました。
 ただ、1997年のその日、敬愛するピアニストの一人スヴャトスラフ・リヒテルが亡くなったので、私には特別な一日となったという記憶があります。



 思わず知らず迷い込んでしまった過去から抜け出した、仕事の帰り道。
 抜け出した、とはいっても、私はまだほろ苦い思いを引きずっていて、結局嫌なこと、悲しいことは避けて(それでも嫌なこと、悲しいことはいっぱいあったけれど)自分は安穏な道を選び、のんべんだらりと生きてきて、いまはこのザマか、と自嘲していました。
 暗くなってからは通ることのない道を歩きました。

 前に野良の仔猫にミオを与えたところまでくると、道路の真ん中で茶色の大きな猫がレジ袋を引っかいていました。瞼が腫れ上がったようになった、不気味な様相の猫でした。
 目が暗さに慣れてくると、すぐ近くに数匹の仔猫たちがいるのがわかりました。私を憶えていてくれたのか、一匹が呼びかけてくれました。鞄の中には前に与えたままのミオの残りが入っています。
 袋を取り出すと、愕いたことに五匹もの仔猫が勢揃いです。沈みがちだった私の気分はいっぺんに霽れたようになりましたが、惜しむらくはミオの残りがあまりにも少なかったということでした。
 不気味な様相の猫は母親なのでしょう。遠くで身体を低く沈めて私を窺っていました。母猫こそ大変だろうに、と思ったのですが、残り少ないミオは母猫までは行き渡らせることができません。

 この日の反省。明日からは二袋を持つことにしませう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曼珠沙華

2009年09月16日 23時02分46秒 | 

 しばらくブログの更新を滞らせておりました。今週の(先週の、というべきか)日曜日にどこにも出かけなかったからです。

 日曜日は佳い天気でした。それなのに出かけなかったのは、三題噺ではありませんけれども、バスルームの電灯のせいです。
 一週間前の水曜だったか木曜だったか、勤めから帰ってシャワーを浴びようとしたら、スイッチが莫迦になっていて電灯が点きません。
 築三十五年という古いマンションなので、この手の不具合が起きることには、さして愕きもしません。
 応急処置として、廊下の電灯を点け、バスルームのドアを半開きにして所期の目的を果たしましたが、ドアを開けたままでは思い切りシャワーを浴びるわけにもいきません。
 私が家に帰るような時間では管理人にも管理会社にも連絡することはできず、明日も明後日も電灯が点かないまま……と思うと、愉快でないことだけは確かです。

 翌朝、管理会社を通して電気屋殿に連絡してもらいましたが、きてもらうとすると、日曜しかありません。
 日曜しか休みがない、という私のような境遇の人はたくさんいるとみえて、電気屋殿のその日の日程は目一杯詰まっているということでした。

「その次の日曜というのでは困りますよねぇ」
 電気屋殿はそういいいながらも、私がソリャー困る、と内心思っているのがわかっているのか、電話機の向こうで困っている様子が窺えます。
 挙げ句、なんとかしましょうということになって、日曜日に無理をしてきてもらうことと相成りましたが、当然のことながら、何時に行けるか時間の約束はできない、行けるようになったら連絡をくれるということを決めて電話を切りました。

 そういうわけで、日曜日は一日じゅう待機……ということになったのです。
 結果的には午後二時ごろに電気屋殿がきてくれましたが、部品が古く手持ちがないということで(なにせ昭和四十九年建築のマンションですから)、どこかに取りに行ったのか買いに行ったのか、取り替えにかかってから一時間も間が空きました。
 終わったのは四時。この時間に自由になっても行くところはありません。

 どこにも行かないと、ブログに書くこともありません。自然に更新が滞ったという次第です。

 そんな私とは無関係に季節は移ろっています。
 通勤路では第二陣の桔梗が咲いていました。
 今年、我が庵の桔梗は寿命が尽きたようで、第一陣すら咲くこともなく終わってしまいましたが、これまでの例でいうと、六月なかばに第一陣が咲き、次は八月初め、さらに九月なかばと、ほぼ一か月半置きに第三陣まで咲くことがありました。

 梨園の梨は、というと……すべて摘み取られていました。

 曼珠沙華も咲いていました。
 別名彼岸花。
 別名の由来は咲く季節によるものだとは知っていましたが、もう一つの説に、誤って食べると行く先は彼岸(死)しかない、というのがあるのは知りませんでした。
 つまり毒草です。しかもありとあらゆる部分が毒だというのですからすごい。
 畑の畦道や墓地で目にすることが多いのは、鼠や虫がその毒性を嫌って近づかないからだそうです。

 大きく分けると百合の仲間だそうですが、百合とは違って、花期が終わるまでは茎と花だけで、葉が出ないという形態も特殊です。
 別名は彼岸花というだけにとどまらず、地獄花、幽霊花、死人花、剃刀花、狐花、捨子花……などなど、いくつもあって、方言も含めると、千以上もあるそうです。

 赤い花なら 曼珠沙華
 阿蘭陀屋敷に 雨が降る
 濡れて泣いてる じゃがたらお春
 未練な出船の あゝ鐘が鳴る
 ラ、ラ、鐘が鳴る

 曼珠沙華の花を見ると、♪赤い花なら曼珠沙華~という歌が口をついて出ます。
 口をついて出る、といっても、憶えている歌詞は赤字にした部分だけ。メロディも二行目までと「じゃがたらお春」の部分だけです。
 歌詞は四番までありますが、二番以降はまったく知りません。

 この歌のタイトルは「長崎物語」というのですが、それも知りませんでした。
 由利あけみという歌手が歌ってヒットしたのは昭和十四年です。私に物心がつく十年以上も前のことで、いまのようにテレビもなく、懐メロ番組もない時代の曲が、うろ覚えとはいえ、なぜ自分の記憶に残されているのか不思議です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い靴

2009年09月09日 20時19分21秒 | つぶやき

 昨八日朝、総武線の市川駅で人身事故がありました。それとは知らず、私は恒例の横浜行。
 武蔵野線の電車に乗った直後、事故の影響で電車に遅れが出ているというアナウンスがあって、またかとウンザリ……。
 前回行った(八月二十一日)ときは京浜東北線で停電事故があって、一時間ほど足止めを食らいました。
 幸い今回は、私が西船橋に着いて、総武線に乗り換えるころには遅れも終熄していましたが、電車は非常に混んでいました。

 横浜に出向くたびに、ツイテいないと思うことが起こります。この日は、そのツイテいないことが起こりかけながら起こらなかったと思ったら、やはりただでは済まない。財布を忘れたのです。
 このところ、朝夕涼しいので、半袖シャツの上にジャケットを羽織っていました。朝のうちは曇っていて、私が勤め先を出るころは小雨が降り出して、ちょっと蒸し暑くなりました。ジャケットは置いて出たのですが、ジャケットの内ポケットに財布を入れていたのを忘れていたのです。
 スイカを持っていたので、電車賃に困ることはなかったのですが、往復の電車賃を引くと、スイカの残高は800円余。なんとか昼飯が食えるのにとどまりました。



 臨時の梨売り場にはしばらく箱のない日がつづいたと思ったら、昨日から新高に替わっていました。新高は粒がデカイので、一袋に四つしか入っていませんが、400円という値段は前と変わらない。逆立ちしても新高は一つ100円では買えません。



 二週間前の日曜日、市川真間の弘法寺(ぐほうじ)裏で出会った野良猫の虎千代殿は私に呼びかけて近づいてきてくれた上、ちょこなんと坐ってくれたのに、私の鞄の中には何の用意もありませんでした。
 そのことに心を痛ませて以来、こんなものを常時鞄に入れています。



 野良殿に餌を与えることには反対の人もいるのは重々承知です。しかし、私はニャーと呼びかけられたら、シカとはできない性格です。 



 こちらは猫殿ではなく、自分用のカロリーメイト。



 市川大野駅すぐ近くにお宮を見つけました。
 三社宮とありました。春日大社、熱田神宮、野口神社。三つのお宮の御神体を祀っているということですが、階段下には縄がかけてあって、入れません。よって、詳細は不明。
 春日大社と熱田神宮は参詣したことがありますが、野口神社というのは聞いたこともありません。



 いつも行く横浜のシルクセンター前にある英一番館跡の石碑。かつての居留地1番地、イギリスの貿易会社「ジャーディン・マセソン社」があった場所です。



 外国人居留地90番地(いまの中華街近く)にあったスイスの商社シーベル・ブレンワルト商会の跡地に埋もれていた大砲。開港広場の隅っこにありました。
 オランダ東印度会社の船につけられていた11ポンドカノン砲で、錨に作り変えて売ろうと持っていたものが関東大震災で埋まってしまったのではないか、と推察されています。



 横浜開港資料館旧館。旧イギリス総領事館です。
 ここ
は日米和親条約が結ばれた土地です。



 日本大通りの公孫樹並木。
 今年は秋が早そうなので、公孫樹の葉が色づくのも早いかもしれません。色づき始めると道の両側には日曜画家がずらりと腰を据えます。



 海岸通りの歩道に埋め込まれた絵タイルです。
 桜木町、関内、石川町と三つの駅からのコースがあって、いずれも絵タイルを辿って行くと、山下公園に到る仕組みです。

 さて、絵のほうですが、横浜を象徴するものとして赤い靴(一番下・左から二枚目)が描かれているのは当然。陸(おか)蒸気(その右隣)も当然。
 不思議なのは下駄(赤い靴の上)です。設置した横浜市都市計画局には、なにゆえに下駄=横浜? という問い合わせが多いようです。
 答えは……。
 
横浜との関係はまったくなし。横浜は外国人観光客も多いので、ゆっくり歩く下駄にあやかって、ゆっくり観光してもらおうということらしいのですが、理由を知ってみると、少しガッカリ……。横浜市のほうでは結構悦に入っているらしいのがさらにガッカリ……。



 海岸通りを走るベロタクシー。初乗り料金一人300円也。

 シルクセンターからの帰りはほんの少しだけ足を延ばして、関内仲通りという南北に走る路地を歩きます。仕事を終えるのはいつも昼時なので、行き交うのは昼休み中の勤め人がほとんど。
 とくに何があるというわけではありませんが、この通りを歩くと心が和みます。

 関内駅に近いので、飲食店はそこらじゅうにあるのに、いろんなところに弁当屋が出ているのが不思議。どういう人が買うのだろうと見ながら歩いていますが、いままで買う現場に遭遇したことがないのも不思議。



 関内仲通りにある老舗ジャズクラブBarbarbarです。一度入ってみたいと思いながら、いつも店の前を通るだけ。私が歩くのはいつも零時半ごろ。開店が十八時では入れません。
 昨八日は亜土ちゃん(vo)、今日九日は中村誠一(sax)カルテット、十日は北村英治(cl)カルテット。

↓航空写真&地図です。
http://chizuz.com/map/map56914.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行徳・寺町通りを歩く

2009年09月08日 06時58分55秒 | 寺社散策

 休日が近づいてくると、どこか行くところはないか、と捜すようになりました。ただし、時間にそれほど余裕があるわけではないので、歩けるのは近場に限られています。
 ブログの順番が前後しましたが、中山の法華経寺を訪ねる前日の土曜日、行徳の寺町通りを歩きました。
 地図を見ると、東京メトロの東西線と旧江戸川に挟まれた地区に、たくさんの「卍」印があります。どんなお寺があるか知れませんが、サテお立ち会い……。 



 武蔵野線で西船橋に出て、東京メトロ東西線に乗り換え、二つ目の妙典(みょうでん)という駅で降りました。
 妙典という地名は、日蓮さんが唱えた「南無妙法蓮華経」のごとく、妙なる経典であるところからつけられた地名だそうです。武蔵野線には船橋法典という駅がありますが、こちらは妙典の人々が開発したところから土地の名がついたといわれています。ただし、読み方は「ほうでん」ではなく「ほうてん」。



 最初に訪ねたのは日蓮宗の妙好寺です。妙典駅から徒歩十三分。
 切妻茅葺きの四脚門の山門は宝暦十一年(1761年)七月の建立。お寺そのものは永禄八年(1565年)八月、千葉氏一族の篠田雅楽助清久が創建。清久は当時の地頭で、前年の永禄七年の国府台合戦で、千葉氏とともに小田原北条氏に味方をした恩賞としてこの地を与えられたのです。
 年に一度、土用の一の丑の日には、頭痛・癇(かん)の虫の虫封じの祈祷や、焙烙(ほうろく)灸加持が行なわれます。



 日蓮宗清満寺。慶長二年(1597年)の創建。妙好寺から徒歩六分。
 こちらは喘息(ぜんそく)封じ加持祈祷で、旧十五夜の日に限ってやはり年一回。
 境内には六匹の子猿を抱えた母猿の石像があり、台座には「おちか三歳」と彫られています。おちかとは猿の名前だそうです。

 昔々、子を宿したおちかを鉄砲で撃ち殺した人の娘三人の耳が聞こえなくなってしまいました。その後もその家系に耳の聞こえない娘が幾人も出たそうです。占い師にみてもらったところ、猿の祟りだとのこと。親子猿の姿を彫って供養したのが、その石像ですが、写真撮影は失敗でした。



 浄土宗徳願寺山門。清満寺から行徳街道バイパスを横切って徒歩五分。行徳三十三観音第一番。
 昔は普光庵という草庵が一つあるだけだったそうですが、慶長十五年(1610年)、徳川家康が帰依することになって、徳川の「徳」と、本寺である勝願寺(埼玉県鴻巣市)の「願」をとって徳願寺と名づけられました。
 本尊の阿弥陀如来は、北条政子が霊夢を見て、運慶に彫らせたもので、政子の念持仏だったといわれています。二代将軍秀忠夫人崇源院のために、家康が鎌倉から江戸城内三ノ丸に遷しましたが、夫人逝去後、この寺に安置されることになったそうです。



 徳願寺鐘楼堂。山門とともに寺内では一番古い建造物で、安永四年(1775年)の建造です。



 徳願寺境内にある宮本武蔵供養塔(?)。
 市川市のホームページを見ると、供養塔は山門の左にあると紹介されており、そこに掲載されている地蔵には木の囲いがあり、屋根があります。この画像とは違って白ではなく赤いよだれかけをかけています。

 京の都では御所から見た左を左というので、地図で見るときは右が左になりますが、都とは無関係な下総で山門の左といえば、どう考えても寺の入口から山門を見たときの左という意味でしょう。
 私が写真を撮った場所は右側です。写真では見づらいかもしれませんが、右に建つ石塔には「新免宮本武蔵藤原玄信二天道楽大徳菩提」と彫られています。
 供養塔が「あった」と思ってシャッターを切りましたが、右か左かという齟齬に気づいたのは庵に帰ってからだったので、あとの祭りです。
 それはともかく、なにゆえに武蔵の供養塔があるかというと、晩年出家し、藤原玄信と称した武蔵は諸国行脚の旅に出ていますが、一時期、船橋の法典ヶ原の開墾に従事しています。その途中、この徳願寺に留まったという因縁があるそうなのです。
 


 徳願寺の向かいにある日蓮宗常運寺。元和二年(1616
年)の創建。行徳には病持ちが多かったのでしょうか。ここも小児虫封じ呪処。



 徳願寺と常運寺に挟まれた東西の通りを寺町通りと呼ぶらしい。しかし寺の数でいうと、交差する南北の通りのほうがわずかながらも多いのです。



 日蓮宗妙応寺。永禄二年(1559年)創建。



 妙応寺の七福神のうち、毘沙門天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人の五神。山門脇に恵比寿と大黒天があります。

 


 寺町通りを挟んで妙応寺と向かい合わせの臨済宗長松禅寺。天文二十三年(1554年)の創建。行徳三十三観音第三番。
 今回訪ねた中では一番古いお寺です。小さい寺域ながら境内は緑で覆われ、水は涸れていましたが、小川があるなど、なかなかの幽玄世界でした。我が宗派とは異なるとはいえ、さすが禅寺です。



 日蓮宗妙覚寺。天正十四年(1586年)創建。長松禅寺から徒歩三分。
 


 妙覚寺にあるキリシタン燈籠(織部燈籠)。
 この地に隠れキリシタンがいたという記録はないそうで、なにゆえにこのような燈籠があるのか明らかではありません。年代的には江戸初期、もしくは前期のもので、千葉県内にはただ一基あるだけだそうです。
 中央下部に舟形の窪み彫りがあり、中にマントを羽織ったバテレンが靴を履いている姿が浮き彫りにされている(靴の部分は地中)そうですが、よーく見てもわかりづらい。



 妙覚寺と向かい合わせの浄土真宗法善寺。慶長五年(1600年)創建。
 別名・塩場(しょば)寺。その名の起こりは開山の宗玄和尚が塩田をつくって、塩焼きの製法を里人に教えたことからだといわれています。
 



 浄土宗浄閑寺。寛永三年(1626年)創建。法善寺から徒歩四分。



 日蓮宗円頓寺。天正十二年(1584年)創建。
 明治十四年の行徳町の大火事で山門のみを残して本堂、庫裏を全焼。寺宝、寺史も焼失し、また大正六年の大津波によって重ねて失われてしまったそうです。



 日蓮宗正讃寺。天正三年(1575年)の創建ということ以外、お寺の都合で詳細は明らかにしないということです。まあ、特別変わった寺院とは思えないし、写真だけ撮って早々に退散しました。



 旧江戸川に出ました。対岸は東京都江戸川区です。
 あとで知ったので写真は撮っていませんでしたが、円頓寺から浄閑寺まではわずか120メートル、浄閑寺から正讃寺までは100メートルという非常に近い距離で、細い径で繋がっています。
 この
径は徳川家康が東金、成田付近へ鷹狩りや遠乗りをするとき、今井の渡しで船を降り、船橋へ出るために通った径で、「権現みち」と呼ばれています。



 真言宗自性院。天正十六年(1588年)の創建。行徳三十三観音第四番。正讃寺から徒歩七分。
 このあと、北隣にある浄土宗大徳寺(行徳三十三観音第五番)を覗いて、この日の散策はおしまいにしました。

 


 ところどころに結構古い民家がありました。十返舎一九も立ち寄った「笹屋」といううどん屋が見つけられれば、写真を撮るつもりでいましたが、道を早めに曲がってしまい、結果は見つけること能わず……。

 説明板もなかったので、どのような謂われの建物かわかりませんが、笹屋の身代わりに古そうな家屋を二題。

今回の参考マップです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山法華経寺

2009年09月07日 07時41分33秒 | 寺社散策

 六日日曜日、中山法華経寺を訪ねました。
 鎌倉の松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちに遭ったとき(1260年)、千葉家の官僚で若宮の領主だった富木常忍(のちに出家して中山法華経寺の初祖・日常聖人となる)と中山の領主・太田乗明が日蓮さんをこの中山にお連れして百日百座の説法を請い、日蓮さんはみずから釈迦牟尼仏を安置して開堂入仏の式を挙げました。これが法華経寺の始まりとされ、日蓮さんが最初に開いたお寺ということになります。
 


 JR総武線下総中山駅で降りました。
 北口から法華経寺までは迷うことのない一本道です。国道14号線を横断し、京成電車の踏切を渡ると、緩やかな上り坂。左右に商店が並びます。



 参道途中にある総門。黒門とも。
 掲げられている額の文字は「如来滅後 閻浮提内 本化菩薩 初転法輪 法華道場」。



 坂を上り切ると巨大な仁王門(三門、赤門とも)が全容を現わします。
 仁王さんの前には切石が置いてあって、間近に覗けるようにされてはいますが、顔を近づけてもよく見えません。

 ここから境内ですが、しばらくは左右に塔頭が建ち並ぶばかりで、森閑としています。



 塔頭が切れると、茶店や土産物店が数軒。それまで木立に遮られていた五重塔が正面に見えてきます。
 元和八年(1622年)建立の国指定重要文化財。当時の加賀藩主・前田利常(利家の四男)が寄進。



 五重塔の左手には比翼入母屋造りと呼ばれる巨大な祖師堂があります。これも国の重要文化財。
 延宝六年(1678年)から十五年の歳月をかけ、元禄十五年(1702年)に落慶。途中、入母屋造りに改造されたこともありますが、平成九年、創建当時の比翼入母屋造りに復元されました。


 
 通称中山大仏。
 身丈一丈六尺(4・8メートル)、台座高さ二間半(4・5メートル)。鋳像では千葉県一とぞ。



 宝殿門。



 宝殿門から祖師堂につづく廻廊。ちょっと歩いてみたくなる、いい雰囲気です。



 聖教殿。
 宝殿門をくぐり、林の中の道を上って行くと、少し奥まったところにあります。日蓮聖人真筆の「観心本尊抄」「立正安国論」(二つとも国宝)が納められています。



 宇賀神堂。
 宇賀神とは中世以降、穀霊神・福神として民間で信仰されていた神です。



 刹堂。
 十羅刹女、鬼子母尊神、大黒天が安置されています。
 十羅刹女とは十人の女性の鬼神で、法華経ではこれらの鬼神がお釈迦様から法華経の話を聞いて成仏できることを知り、法華経を所持し伝える者を守ることを誓うのです。



 法華堂。
 重要文化財。文応元年(1260年)の創建。松葉ヶ谷の法難のあと、日蓮さんが百日百座の説法を行なったところです。



 法華堂前に保存されている四脚門。
 これも重要文化財。鎌倉愛染堂にあったものを移築。通り抜けることはできません。



 大
荒行堂。
 毎年十一月一日から二月十日までの百日間、日蓮直授の秘伝大荒行が行なわれる御堂です。



 本院・大客殿。
 奥に日蓮聖人がみずから彫った鬼子母神を安置する鬼子母神堂があります。



 鐘楼堂。



 祖師堂左手にある妙見堂。
 初祖が千葉家の官僚だったので、千葉家の守り神であった北辰妙見尊星が祀られています。



 行きには気づきませんでしたが、参道の塔頭前に出されていたカフェの看板です。低い石段を上った先にあるようですが……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弘法寺から総寧寺へ

2009年09月01日 07時22分43秒 | 寺社散策

 記憶違いかもしれません。昔の、幼いころの記憶だけが美しいのかもしれません。
 千葉県沖をかすめて台風が過ぎ去りました。「台風一過」といって、記憶の中では台風が過ぎ去ったあとは、いつも抜けるような青空が戻ってきたものですが、今朝は雲が多く、すっきりしない空でした。

 その台風が近づきつつあった日曜日(八月三十日)の午後、市川駅まで電車に乗りました。私の仕事先は市川市内にあり、すぐ近くにある社宅もどきのアパートに三年半もの間棲んでいたのに、市川駅で乗り降りするのは初めてです。
 予報では午後六時ごろから雨、でしたが、一時過ぎに庵を出るときはすでに霧雨が降っていました。 
 


 市川駅北口を出てメインストリートを真っ直ぐ北上すると、真間川を渡ります。
 万葉の時代、この地域は入り江で、たくさんの州があり、その州から州へと渡る橋が各所に架けられていたそうです。
「万葉集」に、

 足(あ)の音せず 行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋 やまず通わむ

 と詠われた真間の継橋(つぎはし)です。通う先は伝説の美女・手児奈(てこな)が暮らす家……。

 現在、閑静な住宅街に遺されている橋は飾りのようなもので、水の流れはありません。
 歩き始めたばかりだったので、入りませんでしたが、橋の先、左手にはちょっと入ってみたくなるような喫茶店。右手には手児奈霊神堂があります。
 正面奥のほうに見える杜は、このあと訪れる弘法寺(ぐほうじ)です。




 手児奈霊神堂。
 手児奈とは、奈良時代以前に市川真間に住んでいたとされる悲劇の美女です。一説によると、舒明天皇(629年-41年)の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁ぎましたが、勝鹿(葛飾)の国と嫁ぎ先の国との間に争いが起こったために恨みを買い、真間に戻りました。
 出戻りであることを恥じて実家には戻らず、我が子を育ててつつ静かに暮らしていましたが、男たちは美しい手児奈を巡って諍いを起こし、これを厭った彼女は真間の入江に身を投げた、と伝えられています。

 手児奈が亡くなって百年後の天平九年(737年)、その故事を聞いた行基菩薩が手児奈の霊を慰めるために開いたのが弘法寺で、その弘法寺の七世日与聖人が手児奈のお告げを得て、墓があったあたりに建てたのが手児奈霊神堂です。



 真間山弘法寺仁王門。
 行基が建立したときは求法寺と名づけられましたが、弘仁十三年(822年)、空海が来訪したのを機に弘法寺(こうほうじ)と改められました。建治三年(1277年)、現在の日蓮宗に改められ、寺の名は弘法寺そのまま、読みはもとどおり「ぐほうじ」となりました。
 明治二十一年の火災で、仁王門、鐘楼堂を除いて焼失し、現在の諸堂は改修されたものです。



 消失を免れた鐘楼堂。
 やはりお寺は広々としているほうがいい。天気のせいもあり、まったき無人というのもことさら風情がありました。



 樹齢四百年といわれる祖師堂横の伏姫桜(ふせひめざくら)。枝垂れ桜です。伏姫とは「南総里見八犬伝」のヒロインです。
 境内には三千本の桜があるそうです。伏姫桜は三月下旬には咲き始めるそうなので、染井吉野をバックにさぞ華麗な二重奏が見られることでしょう。人混みが苦手な私は見に行くのは遠慮致しますが……。



 太刀大黒尊天堂。
 ここに祀られている太刀大黒天神は日蓮さんが比叡山で修行中にみずから刻んだもので、五十五歳まで片時も離さず肌身につけていたといわれています。



 弘法寺裏で出会った野良の仔猫殿。後日、虎千代と名づけました。
 私が立ち止まると、友誼を深めんものと、せっかく近づいてきて坐ってくれたのに、私の鞄には食べ物がありませんでした。ひところは小分けしたミオを常に鞄に忍ばせていたものなのですが……。



 弘法寺から小雨の中を徒歩約二十分。里見公園入口に着きました。
 左の掲示板のあるあたりが国府台城本郭の跡。室町時代、里見氏が北条氏と戦った古戦場跡でもあります。
 文明十年(1478年)、太田道灌が下総国境根原(現在の柏市酒井根付近)での合戦を前に、ここに仮陣を築いたのが始まりです。翌年、道灌の弟・太田資忠らが城を築きました。

 豊臣秀吉による小田原征伐後、北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされてしまいました。江戸川に面した高さ20メートルの台地上にあるため、江戸を見下ろすと家康が不快に思った、というのが理由だ、といわれています。



 永禄七年(1564年)、里見義弘率いる八千の軍勢はこの国府台で北条氏康軍二万を迎え撃ちましたが、北条軍の急襲を受けて敗北。五千の戦死者を出したといわれています。
 戦死者たちの屍は弔う者もなく放置されていましたが、文政十二年(1829年)になって、ようやく亡霊を慰める塚が建てられました。
 左から里見諸士群亡塚、里見諸将霊墓、里見広次公(義弘の弟)廟。



 文明十一年(1479年)、太田道灌が建立したと伝えられる国府台天満宮。祭神は菅原道真。
 国府台城の鬼門の方角にあります。仮陣を設営した翌年にこの天満宮を建立しているということは、道灌は最初から城を築こうと考えていたものと思われます。



 曹洞宗総寧寺。
 このお寺の創建は永徳三年(1383年)と古いのですが、戦乱に巻き込まれてたびたび消失。場所も転々とすることを余儀なくされました。
 最初に建立されたのは、千葉からは遠く離れた近江の坂田郡でした。
 その後、遠江国掛川、関宿宇和田(埼玉県幸手市)、関宿内町(千葉県野田市)と移り、寛文三年(1663年)、 徳川家綱によって国府台城跡地である現在地に移転。現在に到る。
 明治期までは隣接する里見公園全体が寺域だったようです。

 総寧寺に到るころ、雨は本降りになってきました。夕暮れにはまだ間があるのに、空はすでに暗い。
 
あと一、二か所巡る予定もありましたが、近くを市川駅-松戸駅のバスが走っているのを幸いに、この日はここで尻尾を巻くこととしました。

↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56430.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする