昨日は旧暦八朔。
今年は五月に閏月があったので、新暦とは一か月半以上の差ができてしまいました。
曇って肌寒く感じる一日でした。朝、出勤途中に武蔵野貨物線に咲いている尾花を撮影しました。
秋だなぁ~と思うと、自然に物思いにふける時間が長くなります。仕事はそっちのけにして……。
そしてふと思い出したのは、若くして死んだG君のことでした。同じ職場にいましたが、仲がよかったわけではありません。それどころか、ほとんど口を利いたこともありませんでした。
若いが敏腕で、週刊誌記者として将来が愉しみという社内の評判でした。ベテラン記者でも尻尾を巻くような取材をして、嫌がる相手からちゃんとコメントを取ってくるというのです。
いつしか顔を見なくなったと思ったら、朝日新聞の採用試験を受けて転職していました。それからしばらくして、長野県の松本支局で働いていたことを知りましたが、それは彼が死んだと聞かされたときに知ったことでした。
仕事かプライベートかわかりませんが、北アルプスの尾根を歩いているときに落雷に打たれて命を落とした、と聞きました。
負け惜しみではありませんが、私はG君が将来が愉しみ、といわれていることになんの感情も覚えませんでした。
入社した雑誌社で私はたまたま週刊誌に配属されましたが、仕事をしたいと思ったのは文芸誌で、その雑誌社に入るまで、週刊誌という存在すら知らず、仕事だからと割り切ったつもりではいたものの、自分に向いた仕事ではないと悟り始めていたからです。
昭和四十六年のことです。
「無知の涙」という本がベストセラーになりました。著者は永山則夫です。
連続射殺魔として世間を騒がせた永山則夫を、改めて問い直す(私には何を問い直すのか、合点がいきませんでしたが)という意図で、私はその特集を手伝うことになり、京都に派遣されました。
四人の犠牲者のうち、二番目の犠牲者となった人の遺族が京都に住んでいたからです。
自分の夫を、父を殺した人間の本がベストセラーになっている。
そのことをあなたはどのように感じていますか!
事件から三年が経過していましたが、遺族にとっては憎しみや悲しみが癒えることはないはず。その人たちの前で、「永山則夫」という、憎んでも憎み切れぬ名を私が問いかけて蒸し返しに行く。そのことにどのような意味があるのか!
私は沈痛な思いを懐きながら新幹線に乗りました。
一方では意気揚々たる部分もありました。出張というのは同期入社の中で私が第一号だったからです。
相手が嫌がる話を聞きに行くことを、喧嘩になることを承知で行くのですから、「喧嘩取材」といったりしていました。
相手が玄関を開けて顔を覗かせ、こちらが名乗った瞬間、玄関のドアや引き戸を閉められないように、素早く片足を突っ込む。勢いよく閉められるはずのドアで足を潰されないために、靴底が硬い革で、厚さが1センチ近くもあるリーガルのモンクシューズを履く。
先輩に教えられたとおりの出で立ちで、端から見れば意気揚々と新幹線に乗ったのですが……。
自分でも予測していましたが、結果は惨憺たるものでした。
西陣にある遺族の家を探し当てたのですが、表札を確認した瞬間、私はやはりきてはいけないところへきてしまった、という思いにとらわれてしまったのです。
その家の前を何度行きつ戻りつしたでしょう。
着いたときにはまだ明るかった空が、どんどん暗くなって行きます。止めどもなく沈んで行く気持ちとは裏腹に、腹も減ってきます。地元の新聞社や京都府警への取材もあったので、一泊の予定できていましたが、宿の手配もしていませんでした。
目的の家があるのは西陣でした。
近くの千本今出川の交差点に出ると、そこそこに食べ物屋もあり、喫茶店らしき灯りも見えました。
目指す人物に会う前に、そういうところに入って、その人の人となりや評判を聞く、というのは取材の常道です。結果、会わなくても大体のことがわかってしまうということもあります。
しかし、私にはそんな根性も勇気も気力もありませんでした。知らない街で、しかも夜の帳(とばり)も降りていましたから、道がわからなくならない程度に離れたところで空腹を癒し、もう一度戻ってこようと思いました。
しかし、その夜遅く、私がいたのは大阪・梅田の地下街でした。千本通りを夢遊病者のように歩いて、四条大宮から阪急電車に乗っていたのです。
当時は大阪もほとんど知らない街でしたが、京都から適当に遠く、適当に近い街にいなければならぬと思ってやってきたのでした。
私が立ち止まっていたのは狭い古書店でした。手には買おうか買うまいかと逡巡していた本がありました。すでに手許にはないので、題名も忘れてしまった本ですが、何かの全集の一冊で、江戸時代の日記や紀行文を抄録したものでした。
その中に橘南谿という江戸時代の医師が書いた「北窓瑣談」の抜粋があって、私はいま自分が直面しているのとは正反対の位置にあるような内容に、強烈なあこがれを覚えていました。
一例を挙げると、次のような文章があります。
下野国烏山の辺に雷獣といふものあり。其形、鼠に似て大さ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭なり。夏の頃、其辺の山諸方に自然に穴あき、其穴より、かの雷獣首を出し空を見居るに、夕立の雲興り来る時、其雲にも獣の乗らるべき雲と乗りがたき雲有るを、雷獣能見わけて、乗らるべき雲来れば、忽ち雲中に飛入て去る。此もの雲に入れば、必雷鳴るにもあらず。唯雷になるとのみ云伝へたり。又其辺にては、春の頃、雪をわけて、此雷獣を猟る事なり。何故といふに、雪多き国ゆへに、冬作はなしがたく、春になりて山畑に芋を種る事なるに、此雷獣、芋種を掘り喰ふ事甚だしきゆへ、百姓にくみて猟る事とぞ。是漢土の書には、雷鼠と書たりと、塘雨語りし。
「北窓瑣談」には橘南谿が全国を旅して集めた珍談奇談のたぐいが数多く収められています。
内容は出鱈目だとか、誰かが空想したことが、いかにも真実であるかのように伝搬しているのだとか、いわれていますが、そういうことは私にとってはどうでもよいことでした。珍談奇談を訪ねたい、ということでもありません。
ただ、私が取材に行くことで、相手を悲しませたり怒らせたりすることなく、私自身も嫌な思いをしなくてもいいような仕事がしたいものだ、と思っただけです。
思っただけですが、その夜の思いは痛切な思いでした。
橘南谿は伊勢久居(三重県久居市)の人。本名は宮川春暉(はるあきら)。
明和八年(1771年)、十九歳のとき、医学を志して京に上りました。
天明年間には多くの旅をしています。天明二年(1782年)春から翌年夏にかけて、西国から鹿児島。天明四年秋には信濃。天明五年秋から翌年夏にかけては北陸から奥羽……。
目的は臨床医としての見聞を広めるためで、旅先でも治療をしながら歩いたようです。
これは和綴じの本物で、私が読んだのはこんな立派なものではありません。
その夜は曾根崎警察署があるあたりの怪しげなホテルに泊まりました。
夜鷹が声をかける中をすり抜け、エレベーターなし、バスなし、トイレは共同……。あちこちから聞こえてくる、意味不明の叫び声や罵声に明け方まで悩まされるという安普請のホテルで、買ったばかりの「北窓瑣談」を読んで、眠れぬ夜の気を紛らしていました。
翌日、もう一度西陣を訪ねているはずですが、記憶は定かではありません。
出張から帰って、当然首尾も報告しているはず。結局、手ぶらで帰っているのですから、小言をもらっているはずですが、それも記憶からすっぽりと抜け落ちています。
ただ、その日は、ある年齢になるまで、忘れようとして忘れられない一日となりました。
西陣の家を訪ねると、顔を覗かせたのは、大阪・曾根崎で私に声をかけてきた夜鷹で、私の取材意図を聞くと、「人でなしッ!」と叫んで、水をかける。そんな夢を何度も見たことがあります。
しかし、歳とともに、嫌なことはどこかに置き去りたいという防御本能が働くようです。中心を為すことは忘れませんが、周辺のことどもは次第次第にぼやけて行ったり、違う日の出来事と一緒になって、わけがわからなくなったりします。
永山則夫に死刑が執行されたのは、いまから十二年前の八月一日。
その日、私がまだ週刊誌にいれば、再び京都に行って、かつては口に出せなかった、
そのことをあなたはどのように感じていますか!
という質問を発しなければならなかったかもしれません。
しかし、私はすでに遙か遠いところで、別の仕事をしていました。
ただ、1997年のその日、敬愛するピアニストの一人スヴャトスラフ・リヒテルが亡くなったので、私には特別な一日となったという記憶があります。
思わず知らず迷い込んでしまった過去から抜け出した、仕事の帰り道。
抜け出した、とはいっても、私はまだほろ苦い思いを引きずっていて、結局嫌なこと、悲しいことは避けて(それでも嫌なこと、悲しいことはいっぱいあったけれど)自分は安穏な道を選び、のんべんだらりと生きてきて、いまはこのザマか、と自嘲していました。
暗くなってからは通ることのない道を歩きました。
前に野良の仔猫にミオを与えたところまでくると、道路の真ん中で茶色の大きな猫がレジ袋を引っかいていました。瞼が腫れ上がったようになった、不気味な様相の猫でした。
目が暗さに慣れてくると、すぐ近くに数匹の仔猫たちがいるのがわかりました。私を憶えていてくれたのか、一匹が呼びかけてくれました。鞄の中には前に与えたままのミオの残りが入っています。
袋を取り出すと、愕いたことに五匹もの仔猫が勢揃いです。沈みがちだった私の気分はいっぺんに霽れたようになりましたが、惜しむらくはミオの残りがあまりにも少なかったということでした。
不気味な様相の猫は母親なのでしょう。遠くで身体を低く沈めて私を窺っていました。母猫こそ大変だろうに、と思ったのですが、残り少ないミオは母猫までは行き渡らせることができません。
この日の反省。明日からは二袋を持つことにしませう。