桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

ツクツクボウシ

2018年08月19日 13時58分36秒 | つぶやき

 また暑い日は戻ってくるようですが、とりあえず涼しい日になりました。
 一年に春夏秋冬あれど、季節が終わる、と感じるのは夏だけではないでしょうか。
 春の終わりの場合は、ある日突然か、少しずつか、年によって違いがあるのでしょうが、暑くなってきて……、ああ、夏がきたな、と思います。夏がきたのであって、春が終わったとは思いません。
 秋が終わる場合も、やはり突然か徐々にか、冷え込む日がやってきて、冬がきた、と思うものの、秋が終わった、とは思わない。
 夏の終わりはこんなときにも感じます。昼間、汗をかいているので、眠る前にシャワーだけ浴びてバスルームを出ると、ヒヤッとする。
 孔子は人生を「青春・朱夏・白秋・玄冬」の四つに喩えましたが、ほんのときたまのことでも、立っていられないような眩暈に襲われることがある、いまの私は白秋の域か、すでに玄冬の域か。

 昨十八日は観音菩薩の縁日でした。
 薬師如来の縁日とは違って、どこかのお寺にお参りに行ったりするわけではありませんが、観音様をお祀りしている東漸寺と慶林寺にそれぞれお参りしてお賽銭をあげることにしています。もう何年も、毎月毎月欠かさずつづけてきたことなのに、なんということか、昨日はうっかりしていて、今日がその日であるということをすっかり忘れていたのです。

 普段、その日最初の外出は薬師如来をお祀りしている慶林寺にお参りに行くことです。帰りに買い物をしたり、公共料金を払うために、コンビニや郵便局に寄ったりすることはありますが、よほど緊喫の用がない限り、慶林寺参拝を後回しにする、ということはありません。
 しかし、観音様の縁日である十八日と、月に二日ある特定の日(十五日と二十七日)だけは最初にお参りするのは東漸寺と決めています。
 忘れていなければ、その日最初の外出は東漸寺参りのはずでした。しかし、私の足はいつもどおり慶林寺に向かっていました。



 以前は、慶林寺に行くときに、前を通れば、黄色の車止めの前で立ち止まって、拝礼するだけだった鹿島神社です。
 しかし、このところは拝礼したあと、鳥居の前を右に入って行きます。



 なんの説明もないので、なんでもないものかもしれませんが、境内の一番奥に塚(墓)のような盛り土があります。



 そのかたわらに、なんの樹だかわからぬ樹の切り株があります。最近はこの切り株に腰を下ろすことが日課のようになりました。

 一か月ほど前から坐骨神経痛が出るようになりました。痛みが出ると、突如歩けなくなりますが、腰を下ろせる場所があって、何分間と決まっているわけでもないけれど、しばらく腰を下ろしていると、痛みはすっかり去っているか、すっかりではないとしても、歩くのに支障がない程度になっていて、また歩きつづけることができるのです。
 さらに歩きつづければ、再び痛みに襲われることもありますが、近所での散策だったり、買い物程度であれば、以降二十分ぐらいなら痛みに襲われることもなく帰ることができて、庵に帰れば、痛みが出ることはありません。





 午後から夕方にかけては直射日光に晒されますが、午前中なら、塚のようになったところに生えている楠(右)と、まだ名前のわからない樹(左・樹高の高いほう)の二本の大木が涼し気な木陰をこしらえていてくれるのです。



 その切り株に坐って門前のほうを眺めた風景。
 今日もここでひと休みして、冷たく冷やした持参のアクエリアスをグビグビと飲んで、神経痛を追い払ったあと、慶林寺の参拝に出向きます。

 そこでなぜかうっかり。高さ5メートルはあるという観音像は嫌でも目に入ってくるというのに、本堂にお参りしただけで、何を考えることもなく帰りました。
 東漸寺に先に行かなければならないのに忘れているのと、いつもは本堂だけの参拝で済ませる慶林寺も、今日は本堂のあと、観音像にお賽銭をあげて、参拝しなければならないはずでした。



 門前にある民家の柿の木と参道の河津桜で鳴くツクツクボウシの三重奏を聴きました。盛夏でも夕暮れ涼しくなるころには、ツクツクボウシの啼き声を聴くことができますが、昼日中に啼き声を聴く、というのはやはり秋が近い証拠です。柿の実が色づき始めるのももうすぐです。
 ツクツクボウシやミンミンゼミは啼き声は聞こえても、その姿はなかなか見ることができません。油蝉はわりと無警戒で、手の届くところで鳴いていたりします。子どものころは手でやすやすと掴むことができたりしたものです。

 えい、この唐変木め、今日は観音様の縁日だったではないか、と気づいたのは午後二時ごろ。重い腰ならぬ痛い腰を上げて、東漸寺へと赴きました。

 


 東漸寺門前の掲示板。来週末は小金宿まつりです。

  

 今年も藪茗荷(ヤブミョウガ)が花を咲かせ、実を結び始めていました。
 去年、この実をいただいて我が庭に播いたのですが、土が合わなかったのか、別の理由があったのか、芽吹くことはありませんでした。



 東漸寺の観音堂です。賽銭箱がないので、本堂にお参りしてお賽銭をあげたあと、ここにお参りします。坐骨神経痛に悩まされるようになった私はやはり玄冬か。



 慶林寺の観音像。こちらは賽銭箱があるので、お賽銭を。



 毎月十八日は念珠を持ち、シャツの胸ポケットにこんなものを忍ばせて出かけます。大般若経転読で用いる経典と同じような蛇腹折りになっています。

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2018年八月の薬師詣で(2)・荒川区~台東区

2018年08月12日 22時51分43秒 | 薬師詣で

 今月八日、台風の襲来で(実際は我が地方にはこなかったのに等しかったのだけれど)日延べをした形の薬師詣でです。出かける前に地元の慶林寺に参拝。

 

 天気は朝から曇りで、カンカン照りよりはしのぎやすいと思ったのですが……。



 慶林寺の参拝を終えて常磐線緩行に乗り、松戸で快速に乗り換え。南千住で降りました。



 最初に訪れたのは小塚原回向院。
 お寺の前の歩道が狭く、前に立ったのでは全景を写すことができなかったので、帰るときに道路の反対側から写した画像です。

 彼方とこちらを分け隔てているのは旧日光道中。通称・コツ通りです。
 コツ通りとは奇妙な名前ですが、いわれは小塚原刑場があったので、人骨がいっぱい出たからとも、小塚原の頭だけを取った「コツ」ともいわれています。
 このことを知るまで、私は「小塚原」は「こづかっぱら」と読むもの、と思い込んでいましたが、加太こうじ著「物語江戸の事件史」には「骨ヶ原」と記されています。正しくは「こつがはら」だったのです。
 ただし、私がワープロソフトとして使用しているグーグル日本語入力では、「こつがはら」でも「こづかっぱら」でもなく、「こづかはら」と入力しないと、「小塚原」と変換されません。



 寛文七年(1667年)、刑死者の菩提を弔うため、本所(現・墨田区両国)回向院の住職・弟誉義観上人がこの地に常行堂を草創したのが始まりです。



 回向院のすぐ隣が浄土宗の延命寺。



 延命寺の首切り地蔵(高さ3・6メートル)。小塚原刑場の刑死者の菩提を弔うため、寛保元年(1741年)に造立されました。



 延命寺をあとに、常磐線と日比谷線の高架下をくぐり、扇状に拡がる隅田川貨物駅の線路を一気に跨ぐ跨線橋を渡ります。
 人道の階段は急ですが、自転車用通路を歩けば、距離は多少長くなっても、ゆったりしているし、エレベーターもあります。上り切ると、高所恐怖症を持つ私でも安心して渡ることのできる広さでした。

 隅田川貨物駅の線路は扇子を開いたように拡がっていて、ある種、見応えがありますが、いくら広さのある橋とはいえ、線路の様子をカメラに収めるためには橋のはじっこへ行かなければなりません。よって撮影は却下。

 

 跨線橋を降りてしばらく進むと、コツ通りが明治通りと交わる泪橋の交差点です。
 ここまで荒川区、この先台東区。
 昔は隅田川に注ぐ思川という堀があり、そこに架かっていたのが泪橋でした。現在の台東区のほうから小塚原の刑場に引かれてきた罪人はついに今生の別れがきたと涙を流し、見送る縁者たちは最期の別れがきたことに袖を濡らしたのです。
 ここからほど近いところにある、日本堤のいろは商店街では町おこしとして、漫画「あしたのジョー」のふるさとと謳っています。ジョーこと矢吹丈が所属する「丹下拳闘クラブ」というボクシングジムがこの橋のたもとにあった、という設定になっているのです。

 交差点を左折して、しばし明治通りを歩きます。あるところで右折して、最初の路地を左折すると、平賀源内の墓があるはず……でしたが、曲がる角を間違えたのか、墓はありませんでした。

 曇り空で、カンカン照りよりはありがたいと思って歩いていますが、かなり蒸し暑くて、すでに汗びっしょりです。薬師詣でが目的で出かけてきているのですから、お藥師さんをお祀りしているお寺を行き過ぎていたら、なんとしても戻らなければなりませんが、平賀源内の墓はついでに訪ねるところだったので、捜す努力は放棄してそのまま進みます。



 もしかしたら行き止まり? と訝るような小径の先が鉤型に曲がっていて、このまま進んで突き当たりに出くわしてしまったら、と思いながら……。



 路地の先に今日の目的地・橋場不動尊がありました。
 正式な名称は砂尾山橋場寺不動院。天台宗の寺院です。
「新編武蔵風土記稿」などには、このあたりを支配していた砂尾修理大夫という人が開基したと記されています。
 いつごろの人かというと、「修理太夫太田道灌と此辺にて合戦ありしを砂尾石浜の戦といふ」とありますから、室町時代末期の人です。しかし、他の書には「砂尾修理太夫がこと、いかなる書に出るや所見なし。又砂尾石浜の合戦といへるも未聞事也。疑べし」とも記されています。

 諸説合わせると、実際の開創は室町時代より遥かに昔の天平宝字四年(760年)。
 当初は法相宗の寺院だったのを寛元年間(1243年-46年)に、砂尾修理太夫が天台宗に改めて中興、というのが辻褄も合っていて正しいようです。ただし、この砂尾修理太夫がいかなる人物かということはいまのところわかりません。
 本堂は弘化二年(1845年)の建立。
 本尊の不動明王(良辯僧都作)と一緒に祀られているはずの薬師如来(恵心僧都作)は「文政寺社書上」によると、砂尾修理太夫の守り本尊で、坐像であったと記載されていますが、現存する薬師如来は立像だそうです。
「十方庵遊歴雑記」には「本尊をば砂尾不動と称して一堂に安置し、又傍に薬師尊あり」と記されているので、堂内のどこかに祀られていると思うのですが、堂内は薄暗くて、よく見えませんでした。

「文政寺社書上」とは、文政八年(1825年)から同十一年にかけて、江戸幕府が江戸の町々および寺社から,それぞれの町や寺社の由来などについて書き出させた調査書で、「文政寺社町方書上」の一部。
 また「十方庵遊歴雑記」とは、江戸・小日向(現・文京区)にあった廓然寺(明治になって廃寺)の住職だった十方庵敬順(1762年-1832年)が隠居後に各地を旅した先での見聞を記録したものです。
 いずれも国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。



 本堂の右前に聳える樹齢七百年といわれる大公孫樹(イチョウ)です。
 江戸時代、隅田川が交通の動脈であった時代には、隅田川を舟で行き交う人々の目印になったといわれます。



 帰りは表門から。

 この山門前からは我が母なる隅田川も白鬚橋もほんの少し先です。体調万全なら見に行きたいところですが、暑さにやられて、ただ歩くだけでも辟易していました。橋場不動尊参拝で今日の目的は果たしているので、帰り途にある二か所だけ巡って帰ることにします。
 


 橋場不動尊から四分歩いて、松吟寺のお化け地蔵前に着きました。
 享保六年(1721年)の建立。
 お化け地蔵と名づけられたいわれは、かつて大きな笠を被っていたが、その笠がいつの間にか向きを変えていたからとか、地蔵菩薩の石像としては高さが3メートルあまりと並はずれて大きいからなど、いくつかの言い伝えがあります。

 このあたりは、今年五月の薬師詣でで訪ねた総泉寺の境内地でしたが、総泉寺は関東大震災で被災し、昭和四年に板橋区へ移転してしまいました。平賀源内の墓もこのお化け地蔵も、本来なら一緒に移転したはずですが、なぜか元の地に残されたのです。




 お化け地蔵の右の建物に、近寄ってみないと、見過ごしてしまうような表札があり、松吟寺とご住職の名が掲げられていました。
 お寺そのものは寛永二年(1625年)、総泉寺の庵室・松吟庵として開創されたのが始まり。



 松吟寺から五分で玉姫稲荷神社に着きました。
 奈良時代中期の天平宝字四年(760年)、京都・伏見稲荷大社より分霊を勧請して創建。祭神は宇迦之御魂命。
 それから五百七十年あまりあとの正慶二年(1333年)、新田義貞が、鎌倉の北条高時追討の折に当社で戦勝を祈願し、弘法大師直筆という稲荷大神の像を、瑠璃の玉塔に奉納したこと(玉秘め)が社号の由来となったとされていますが、そういうことなら、その前はなんという名であったのでしょうか。

 もう一つ別の説があります。
 それは先の砂尾修理太夫と同一人物だと思われる砂尾長者という人の娘(玉姫)が失恋して池に身を投げ、このことを悲しんで祀ったのが玉姫稲荷神社だという説です。
 先ほど参拝してきた不動院の境内には、その池の名残が残っているそうですが、ざっと見た限りでは、それらしいところはありませんでした。



 浅草の住人だったとき、この境内で開かれるこんこん靴市を見にきたことがあります。二十年近くも前のことなので、記憶はほとんど薄れていますが、残り物ばかりを売っている、という印象を受けたので、何も買うことなく引き揚げたという憶えがあります。



 手水の水はコンコンと湧き出ていました。



 拝殿前には「あしたのジョー」のパネルが置かれていました。以前はヒロイン・白木葉子のパネルも並べてあったようですが、何か不都合でもあったのか、撤去されていました。
 ここから隣町・日本堤(玉姫稲荷神社の所在地は台東区清川)にある、いろは商店街の東端までは歩いて数分という距離ですが、入り口を覗けば歩いてみたくなるので、すっかり疲れ果ててしまった今日は行かないことにします。
 今日、少しだけ巡った橋場、隣の東浅草にはお寺がたくさんあるので、改めてくる機会もあろうかと思います。平賀源内の墓も含めて、その機会に……。

 今月四日未明に発症した持病は、二日二晩布団に突っ伏して過ごした挙げ句、去ってくれましたが、それより前、七月の二十五日ごろから私を悩ませてくれるようになった坐骨神経痛は依然として治る兆しが見えません。
 ただ、痛みが出ても、しばし腰を下ろして休めれば、また歩き出すことができるので、もしかすると無理かもしれないと思われる薬師詣でに出かけてきましたが、不思議なことに、歩いている(電車に乗っている時間も含めて)およそ二時間の間、一度も痛みは出ませんでした。

 日課にしている慶林寺参拝でも、私は友人知人の無事息災を祈るだけで、自分のことはお願いしないことに決めています。毎月の薬師詣ででも同様です。
「脚を引きずりながらきておるのに、自分の平安を祈らず、他人の平安を願うとは頑固なやつじゃな」とお藥師さんも呆れておられるかもしれません。しかし、その頑固さを愛でて、今日の日は神経痛が出るのを抑えて下さったのではないかと思うのです。

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2018年八月の薬師詣で・松戸市

2018年08月08日 19時07分35秒 | 薬師詣で

 二日前の六日の段階で(私は発症した持病と戦っていたこともあり)、今日の薬師詣では地元の慶林寺だけ、と決めていました。台風13号が接近していて、今日の天候は大荒れであろうと予想したからでもあります。ところが、台風の進むスピードは自転車と同じ程度の速度、といいますから、いまだに遠く離れたままです。

 早朝から雨は降っていましたが、出かけるのが億劫、というほどの雨降りではないので、少々の遠出をしようと思えばできないわけではない。
 しかし、なんの準備 ― と、いっても、地図はほかの月のぶんも含めて、すでに用意してあるし、特別な出で立ちをするわけでもなく、することといえば、昼食の握り飯を握るぐらいのことですが ― もしていないけれども、出かけないと決めてしまったので、出かけようという気力が湧いてきません。予定どおり、今日は遠出はやめて慶林寺だけ、としました。



 慶林寺の少し手前にある鹿島神社です。ここまで徒歩十二分。
 庵を出て数分で坐骨神経痛が出ました。痛みを騙し騙ししながら……ゆっくり歩いたので、今日は十五分ぐらいかかったかもしれません。
 雨でなければどこかに腰を下ろし、瞬時休めば、また歩くことができるようになるのですが、雨ではそれも叶いません。痛む右脚を引きずりながら、この神社までやってきました。

 我が庵近くに天満宮の小さな社があります。友人の息子が大学受験を控えていたので、天神さまに合格を祈願して、一年間日参したことがあります。
 行くと、ほんのときたま正面の段木に腰を下ろして休んでいる輩がいることがありました。そのときは、神様にケツを向けて坐るとは、なんという罰当たり !! と思ったものでしたが、もしかしたら、その輩はいまの私のように坐骨神経痛を患っていたのかもしれない。
 だ、としても、ど真ん中にデ~ンと尻を落とすのはいかがなものか。



 雨に濡れることなく腰を下ろせるところがないので、拝殿の……。



 こんな段木の片隅をお借りして、腰を下ろしました。
 真ん前に腰を下ろすのはさすがに気が引けます(本当は、左のはじっこのほうが雨に濡れてもいなかったし)。



 拝殿から眺めた風景。
 台風が近づいているというのに、杉の樹の多い境内は蝉時雨です。蝉たちはまだ大雨にはならぬと知っているのでしょう。



 しばらく息をついだら痛みも引いたようなので、慶林寺へ。



 今日も門は閉ざされていましたが、通用門を通って本堂前へ。薬師如来の縁日なので、お賽銭をあげます。
 お賽銭をあげる日は、香炉前にある賽銭箱にお賽銭をあげたあと、真ん中にある小さな鐘を撞くのですが、今日は左手に傘、右手にカメラ、と両手が塞がっていたので、鐘撞きは割愛。お線香も割愛。鐘の下にはお供えのつもりか、菓子パンが載せられていました。



 蓮の花は咲いていませんでした。載せられる画像も尠ないので、雨に濡れた観音様のお姿を。

 十二日も薬師如来の縁日なので、台東区の橋場寺へ参拝に行くつもりです。

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蓬(ヨモギ)、芽を出す

2018年08月06日 23時12分37秒 | つぶやき

 一昨日の四日未明、目覚めたとき、持病を発症していました。
 未明に目を覚まし、小用に立つことはときどきあります。寝ぼけているのと齢を重ねて足腰が頼りなくなっているのとで、立ち上がった刹那は歩くのが千鳥足のようになるのは珍しくありませんが、この日は布団から立ち上がったとき、いつもに較べると、足腰がとりわけ頼りなく感じられました。

 用を足して布団に戻ったのは、新聞配達のバイクの音を聞いた直後だったので、四時前だったと思います。前夜はそれほど早い時間に眠ったわけではなく、起きてしまうのには早過ぎる時間です。
 目覚めたのがもっと早い時間であったのなら、もう一眠りするために、アルコールを入れるところですが、四時という時間に呑んでしまっては、朝起きたあと、宿酔に苦しむのは必定です。
 すぐ眠ることができればいいのですが、こういう半端な時間に目覚めるときというのは、なかなか眠れません。かといって、起きてしまえば睡眠不足で一日を棒に振ることになります。
 で、思案のしどころ。
 とりあえず、枕許に置いてあるノートPCを開いて、メールのチェックでも……と、腹這いになって眼鏡をかけたところ……。グルグルと眩暈がやってきました。
 何度か経験済みなので ― といっても、直近の発症は十か月以上も前、去年の九月二十四日だったのですが ― すぐコリャーいかん、とわかります。少し離れたところに置いてあった薬を捜し当てて服み、ゴロンと横になりましたが、間に合わなかったようです。七時過ぎにまた目を覚まし、恐る恐る頭を挙げてみると、まだグワングワンと目が廻っていました。その目眩も仰向けに横になったときだけは治まるのです。

 日中に発症しかかることもあります。
 大体のところ、最初に感じるのは後頭部に重い鉛の塊を埋め込まれたような頭痛です。頭痛、と表現するほど強い痛みではありませんが、ドーンと居坐るような重苦しさです。連れて、軽い眩暈がきたりします。
 起きているときなら、「お、きなすった」とばかり、処方されている薬を服みます。すると、長くても三十分ぐらいで、なんでもないような状態に戻ります。
 しかし、眠っているときの発症は、多分眠っていたから気がつかなかっただけで、何時間か前に発症しているのです。したがって、気がついたときに薬を服用しても遅いので、症状が長引くのではないか、と思われます。

 発症するとは知らぬ前日の三日。六月十二日に播いた蓬(ヨモギ)が芽を出したので、ブログを更新しようと思って、カメラに収めていました。蓬(ヨモギ)の種を播く



 実際に芽を出したのはもっと早く、六月の終わりから七月初めにかけてだったのですが、最初に顔を覗かせた双葉だけでは、待ちわびていた蓬なのか、私にとってはありがたくない、ヤブカラシか、カタバミなのかがわかりません。それに、芽を出したあとは双葉のままで、なかなか大きくならなかったのです。

 ここにきて、素人目にもやっとヨモギに間違いないと判断できるようになりました。
 六十粒の種を播きましたが、いまのところ四茎(右のプランターに、縦に大中小と並んだ芽のうち、一番下はまだなんの芽かわかりません)も芽吹いたのですから、十五分の一という非常に高い確率です。

 我が庭は、とりわけカタバミには天国らしいようで、用意したプランターには、庭の土はまったく使わず、園芸店で買ってきた培養土や腐葉土だけを使っているのに、いつの間に種が飛来するのか、播いたはずの種子とは様子の異なる芽が出て、なんであろうか、正体を見極めてやろうと待つうち、ひと回り大きくなってみると、クローバーもどきの葉が現われて、憎っくきカタバミであった、ということが再三再四あるのです。

 ですから、今度も庭の土はいっさい使っていないのですが、ヨモギの種しか播いていないのだから、出た芽はヨモギである、とは言い切れないのです。

 持病発症三日目の今日六日。
 昼を過ぎるころになって、起き上がって坐っていても、眩暈がなくなり、頭の中に居坐っているような鉛も軽くなったみたいだったので、毎日の参拝を欠かさぬ、と決意していながら行けなかった慶林寺参拝に恐る恐る出かけてみることにしました。
 夏になると、いつも冷凍庫に用意しておく保冷剤を二つ手ぬぐいでくるみ、500ミリのペットボトルに八割ほど満たして凍らせておいたスポーツドリンクをハンドタオルでくるみました。
 身体がフラフラするようだったら、すぐに引き返そうと考えていましたが、ほとんど安定していました。二日半寝たきりで過ごしたからか、坐骨神経痛も出ませんでした。



 ただ、歩き始めた途端、坐骨神経痛に見舞われるのではないか、とおっかなびっくり歩いたので、いつもに較べると、ほんの少し時間がかかったかもしれませんが、大禍なく慶林寺に到着。慶林寺はいつもと変わらず門は閉ざされていました。



 持病が発症する前日、いつものように慶林寺にお参りに行っています。
 観音像前の白いハスの花は、律儀にも四日目で花期を終え、代わってピンクの花が咲いていました。
 茎の下部には「天驕(八重)」という札がかけられていました。
 庵に帰ったあと、園芸図鑑を紐解いてみると、載ってはいましたが、花の色の種類、として載っているだけで、何ゆえにこのような名がつけられたのか、そもそも「天驕」とはどういう意味なのかは載っていませんでした。
「驕」とは、おごり高ぶるという意味ですから、あまりいい意味とは思えません。



 今日はその花も散っていました。



 代わりに同じような色合いのスイレンが……。

 持病が発症してからは、トイレと水分補給に起き上がる以外は終日布団に横たわって過ごし、昨日も午後四時過ぎまで横になっていました。
 一時間眠っては目を覚まし、また一時間眠っては目を覚ますという、ウトウトの繰り返しですが、二日間で三十時間は眠っただろうと思います。
 ずっと横になっていたので、十日ほど前から出るようになった坐骨神経痛 ― たまたまこの日は出ませんでしたが ― に加えて、腰痛も出るようになってしまいましたが、持病が治まってくれたので、なんとか元どおりの生活が戻ってきました。

 日参を欠かすことがなかった慶林寺には去年九月二十四日以来、二日間のご無沙汰をしてしまいました。
 去年九月二十四日はやはり持病が発症して外出できなかったのですが、このときは一日のご無沙汰で済んでいます。前回は身体が水すら受けつけず、飲むと即座に戻したほどですが、今回は症状がわずかに軽かった代わり、苦しむ時間が長かったようです。

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