今日の我が地方の最高気温は20・0度。五月の大型連休のころの陽気だったそうです。暖かかった上に、春先特有の糞っ風も吹かず、ありがたい一日でした。
例年に較べるといささか遅れ気味ではないかと思っていた慶林寺参道入口の河津桜は開花が一気に進みました。
満開かと思いきや、まだ蕾も目立ちます。
参道中ほどの河津桜。
真っ先に開花を迎えていた境内の桜はほぼ満開です。オナガやメジロが蜜を吸いにきていました。
白梅も満開です。
暖かな陽気に誘われて、帰りは梅林まで足を延ばしてみました。
こんな急な階段を下ります。七曲りならぬ二曲がりしかありませんが、結構急峻で、高所恐怖症を持つ私は中央の手すりなしには下ることができません。
階段を下り、かつては川であったかもしれない窪地を越し、丘を上る途中に小さな梅林があります。白梅ばかりですが、二十本以上の樹があって、なかなか見応えがあります。
昨日今日と好天。ただし寒い日です。
今日もまた病院通い。腹部のCT検査を受けるために、昨日の夜九時から絶食&絶アルコールだったので、できるだけ早く診察を受け、少しでも早く「絶アルコール状態」を脱したいと、十時過ぎに病院へ赴きました。
ひところであれば、十時過ぎという時刻には外出しようという体調になっていませんでした。それなのに、身体のことで是非もないとはいえ、まだ寒い時期だというのに身体が動くようになったというのは、ちょっとでも体調がよくなっているのかもしれません。
新型コロナウイルスによる営業時間自粛ではあるまいに、夜の九時以降絶アルコール、という状態では眠ろうとしても眠れず、悶々とひと晩を過ごすことになるのではないかと心配しましたが、案に相違してわりと早く眠気が訪れ、わりとゆったりと眠ることができました。
CT検査の前に体重と血圧測定、さらに手の指先をプスリとやられる血糖(グルコース)値の測定がありました。収縮期の血圧は150台前半。自宅での計測では高くても140台前半。二十分近く歩いてきているのと白衣高血圧を考え合わせれば、まあまあかといえる数値です。一方、拡張期は70台前半。家で測るときは低くても80台前半ですから、経験したことのない低さでした。しかし、医師殿は何もいわなかったので、とくに問題はないのでしょう。
ただ血糖値は140。基準値は60~90だそうですから、かなり高い数値でした。とはいえ、やはり二桁が基準値といわれる肝臓のガンマrpG値が1000を遥かに超している私にとって、愕くのには値しない数値です。
かかりつけの病院は旧水戸街道近くにあります。毎月十五日、十八日、そして二十七日と月三度は参拝することにしている東漸寺までは歩いて六分という近さです。
今日十八日はたまたま観音菩薩の縁日です。診察を終えたあと、お参りして行くことにしました。
本堂に参拝してお賽銭をあげます。観音堂には賽銭箱がないからです。
そのあと観音堂に参拝。
鐘楼塔近くに、まだ植えられて間もないと思われる桜の樹がありました。
近づいてみると、「小金桜」と書かれた木札が提げられていました。
若木だからか、そういう種類の桜だからか、花の数は心持ち尠なく、色はソメイヨシノよりほんの少し濃いピンク色をしています。
東漸寺付属の幼稚園です。子どもたちの歓声を聴きながら歩いて行きます。四歳、五歳というころの子どもはほんに日本の宝という気がします。それがこれから四~五年も経つと、口から先に生まれてきたかと思うような小憎らしい人格に変化するというのは不思議な気がします。
東漸寺からの帰り途、途中に私の健康状態を心配してくれている団体があるので、今日の診断結果などを報告に寄り、さらに少し先にある調剤薬局で薬を処方してもらいます。
九時半に庵を出ていますが、診察開始までの待ち時間、薬が処方されるまでの待ち時間などを含めて、すでに午後になっています。
毎月十八日の観音様の縁日は東漸寺と慶林寺にお参りしますが、二つのお寺をつづけてハシゴをする形になるのはなんとなく気が引けるので、東漸寺は午前中、慶林寺は一旦帰ってから午後、という形にしています。東漸寺を先にするのは観音様が祀られたのが慶林寺に比べて遥かに古いからです。
薬局に顔を出し、二種類の降圧剤、狭心症のカプセル、胃酸のカプセル、血糖値のカプセル、鼻炎の錠剤と点鼻液、歳とともに少しずつふえてくる薬を処方してもらって慶林寺に寄って行くことにします。
開花の遅かった慶林寺参道入口の河津桜です。
遠くから見ても樹全体がピンク色に見えるようになってきました。
近寄ってみると、日増しに開いた花の数がふえてきているのがわかります。
今日は観音様のお参りにきているのですが、まずは本堂に参拝。
本堂横に掲げられていた今日の標語。う~む、確かにそのとおり。
境内に咲く河津桜です。毎年参道入口の桜より数日早く咲き始めます。今年もいち早く満開に近づいています。
こちらは白梅。
観音様にお賽銭をあげて、今日のお勤めはおしまいです。
八日は突発事故のようなことがあって、薬師如来縁日のお参りは地元・慶林寺だけにせざるを得ませんでした。
代わりに今日十二日の縁日は少々の遠出を試みて、埼玉県草加市にある三覚院というお寺にお参りしようと考えていました。
コロナ禍では電車に乗るのは極力控えようと思うのですが、去年の暮れあたりから、脚力がとみに衰えてきて、この先いつまで薬師詣でをつづけることができるのだろうか、と不安が兆すようになってきました。そこで、薬師如来の縁日がきて、幸いなことにその日は体調も悪くなく、足腰の状態がよさそうなら、行けるところは行ってしまおうと考えたわけです。
ところが、今月八日の薬師詣でをとりやめにしてから今日までの四日間に、腰を抜かすようなことが起きました。
多分、初めて服用した薬の影響だろうと思われますが、服んでしばらくすると、突然左半身に痺れが発生したのです。それが九日のこと。さらに、熟睡はしていなかったとしても、最近の私としては長時間眠ったあとだったのにもかかわらず、盛んにあくびが出るのです。
意識だけはしっかりしていたので、てっきり軽い脳梗塞に見舞われたのではないかと思いました。
犯人(?)だと思われるのは画像左のセリンクロという錠剤です。いわゆる嫌酒薬というもので、服むとアルコールが不味いと感じられるようになり、次第に飲酒習慣から脱することができるようになる、という代物です。画像右は抗不安薬のセルシン錠。
服用後二十分ほどすると、顔の左側に痺れが出ました。このあとに起きたことがなければ、痺れだとは思わなかったかもしれません。やがて痺れは自動車のエアバッグを軽く押しつけられているような感じに変わってきました。
何が起きたんだろうと思いながら、こたつにあぐらをかいて坐っていましたが、動けません。立ち上がったり、動く必要は何もなかったのですが、とっさに動いてみなければ、と思ったのかどうか、立ち上がろうとしたのです。しかし、全身が脱力感に覆われていて、動こうという気力が出ないのです。
その薬を処方してくれた病院に連絡を、と思うのですが、スマートフォンは1メートルほど離れた机の上にあって、置いてあるのが見えているのに、動けないので、手にとることができません。立ち上がってトイレに向かおうとしたら、左半身が軽く麻痺しているようでした。
服用一時間後、左の額から頬に掛けてまだ麻痺が残っている感覚でしたが、やっと病院に電話をかけられる状態になったので、電話を入れました。薬を処方した担当医はその日は休みで、代わりに応対してくれた別の医師から服用をやめるように、といわれました。
その後、二時間ほどうたた寝。
目を覚ますと、依然違和感は残っているものの、ようやく通常に近い状態になりました。服んでから半日が経過していました。外はすでに暗く、とても慶林寺まで歩いて行けるとは思えなかったので、久しぶりに参拝を欠くことになりました。
実際は持病を抱えているのですから絶好調であるはずはないのですが、二日後の十一日になると、ごく普通に動けるようになりました。しかし、何をするにもおっかなびっくりという感じです。そう思いながら動くからかどうか、いつもの状態に完全には戻ってはいない。
十二日になると、やっと前と変わらない状態になったようです。朝早いうちはまだ動きがぎこちない感じでしたが、あまり進まないながらも食事をし、台所の洗い物を片づけたり、庭のプランターに水遣りをしたりしていました。
これなら薬師詣でに出かけられそうだと思われました。午後、約束ができていました。それまでに帰ってこなければなりませんが、わりと近いので行こうと考えた草加の三覚院というお寺は初めて行くところです。行きも帰りもバスに乗らなければなりません。
行きがけに地元の慶林寺に参拝。縁日なのでお賽銭をあげます。
参拝を終えて駅に向かっていたとき、一本前の電車が時刻どおりに発車して行くところでした。
プラットホームに降り立ったのは乗る予定の電車がくる五分前でした。新松戸で武蔵野線の府中本町方面行に乗り換えるときは進行方向前のほうで待ちます。ちょうどベンチがありますが、あと四~五分で電車がくるという時刻ですから坐るまでもありません。
遅いな、と思いながら、腕時計を覗くと、すでに電車がくるはずの時刻になっていました。それなのに、自動音声のアナウンスがない。正常に運転されているのなら、「間もなく一番線に……」と女性の声で自動アナウンスが流れるところですが、流れません。
「アレッ」と思ったところに、間髪を置かず、駅員の生のアナウンスがありました。プチっとマイクの電源が入る音がしたので、嫌な予感がしました。何ごともなければ、駅員の声が流れることはありません。流れてきたのは「柏駅でムニュムニュ」という声。ムニュムニュのところははっきりと聞き取れませんでしたが、「間隔調整」といったと思います。
くるはずの電車の次の電車が遅れている。くるはずの電車を時刻どおりに運転してしまうと、その次の電車との運転間隔が大きく開いてしまうことになる。そうならないために、くるはずの電車を柏駅で停めて少し遅らせる、というわけです。
コロナ禍で、電車に乗る機会も尠なくなっていたので、JRへの警戒心をすっかり忘れていました。
旧国鉄時代は時計より正確といわれた電車の運行です。確かに旧国鉄時代に較べれば運行本数が増え、運転間隔も詰まるなど諸事情もあるのでしょうが、時計より正確といわれた時代の人々がいなくなって、(私からすると)いつの間にか遅れても平気、それよりも安全こそ第一というのかもしれないが、本当に、肝に銘じてそう思っているのか、いろいろ言い逃れのできる風潮が生まれてきたので、この際、ちょっくら便乗させてもらって、言い逃れに使わせていただきやしょう、ということではないのか。
常磐緩行線一本で行くことができ、その先は歩くだけというところであれば、多少の遅れは影響もないのですが、乗り換えがあったり、着いてから先はバスに乗らなければならない、さらに今回の私のように、一定の時刻には帰っていなければならないという場合は、一本の電車の遅れは致命的です。
旧国鉄は旧国鉄であって、いまのJRは国鉄ではないのだから、もっと余裕を持って出かけるべき、という人もいるかもしれないが、余裕を持って出る余裕がないから、ギリギリの電車に乗らなければならない、という人も、場合もあるのです。
きちんと電車がきて、きちんと発車してもらわないと困る、というときに電車が遅れていると、私はいつもある人の話を思い出します。
遥か昔の話ですが、その人は電車が予定より大幅に遅れたがために営業時間内に銀行に着くことができず、手形を不当たりにしてしまったという苦い過去を持っていました。
この日の私はそこまで重大な状況ではありませんでしたが……。
おまけに今日の天気は夕方までは晴だといっていた予報は大ハズレで、いつまで待っても陽は射さず、肌寒いままでした。天気は自然現象ですから肚を立てても仕方がないと思う代わり、晴だといったのに、曇って陽射しがなくても予報はハズレではない。ハズレたと認めるのは雨が降ったときだけという我田引水的理由で、当たる確率は90%以上などとほざく根性だから信用できない。そう思うと、当たらない天気予報にも肚が立ってきました。
草加で乗る予定のバス便は一時間に三本しかありません。結局、薬師詣でに行くのは取りやめにしました。行きのバスは一本遅らせるとしても、帰りのバスの時間がどうなるか、予測ができなくなって、約束の時間までに帰ってくることができるかどうか、見当がつかなくなってしまったからです。
悄然として家路についた帰り途、近くの食品スーパーにも二本の河津桜があって、チラホラと咲き始めていたのを見ました。
手ぶらで帰るのもシャク(なぜだか)だったので、スーパーに寄ってみたら、催事場で京都物産展が開かれていました。
京都……。いつ行ったのが最後になるのか、にわかには思い出せません。仕事に追いまくられていたころ、一週間に三度も行ったことがあったっけ。三度も行ったりきたりするぐらいなら泊まれば、と友人にいわれたことがありましたが、京都の取材の翌日は東京での取材が待っている、という状態だったので、まるで通勤するみたいに新幹線の往復を繰り返す時期もありました。いまと違って、お寺巡りなどという趣味のないころでもあったので、何十回となく通いながら、ほとんどお寺巡りも観光もしませんでした。
熱いお茶でも煎れて心を鎮め、ゆっくりと生八ツ橋でも味わうことにしましょう。くれぐれも火傷をしないように……。
二日前の土曜日、新しくわかった疾患の治療のため、電車を乗り継いで、鎌ヶ谷の病院まで行きました。現在のかかりつけの病院にはその疾患の診療科がないからです。
指定された時間は午後一時。かかりつけの病院でつくってもらった紹介状を持って行きました。受付で「初診なので半日かかると思ってください」といわれました。初めての病院、初めての診療科ということも加わって、いやが上にも緊張感が昂まります。
その病院の最寄り駅は東武鉄道、北総鉄道、新京成電鉄の三つの路線が重なる新鎌ヶ谷という駅です。病院はその駅から少し離れているので、送迎バスがあります。院内には広い待合スペースがありましたが、土曜日だったからか、診察待ちか処方箋待ちの人がチラホラといるだけでした。
最初にカウンセラーとの対面。
三十分ほどの面談中、小さいころにイジメに遭ったことはなかったかとか、両親から虐待されたりしたことはなかったかとか、奇妙なことを訊かれました。新しくわかった疾患、と記しましたが、アルコール依存症です。診療科目を聞いてちょっとゾッとするものがありましたが、私が訪ねたのは精神科です。
カウンセラーとの面談が済むと、ケースワーカーとの面談が待っていました。
病気、といっても、私には特段の自覚症状はありませんでした。
ただし、血液検査での肝臓の数値は肝臓癌か肝硬変になっていてもおかしくない数値、ということでした。
しかし、肝臓や関係する臓器に痛みがあったりするわけではないので、異常な数値だ、といわれても、私自身はノンシャランです。
立派なアルコール依存症、もしくはアルコール中毒だと診断されても、ピンときません。病院を訪ねたからにはアルコールを断つことを考えましょうといわれましたが、私としては、断つ、などと徹底的なことには考えが及ばず、少し控えるようにしたいと甘いことを考えています。
提案されたのは、日曜を除く週六日、朝九時から午後三時まで、病院の断酒会に通うこと。それで断酒に成功しても、何週間か何か月か、人によっては何年かあとに酒を口にしてしまう機会がある。酒を呑んだときの快楽というものはなくなっていないので、万が一飲酒を再開する機会をつくってしまうと、前よりひどい状態になって、手がつけられなくなる ― そう脅されました。
手がつけられなくなる、というのは恐怖ですが、それより前に、日曜を除く毎日病院に通うというのにはゲッソリしてしまいます。それも朝九時からというのでは、ラッシュアワーの電車で通勤するようなものです。通勤なら幾許かのサラリーが得られるが、こっちは治療費を払わなければならない。くわばらくわばらと思いながら、ケースワーカーの口を見つめていました。
半日といわれましたが、診察が終わったのは三時間後の四時でした。処方箋をもらえたのは四時半。新鎌ヶ谷で帰りの電車に乗れたのは五時十三分。帰りも行きとそっくり同じ行程で、八柱で武蔵野線に乗り換え、次の新松戸で常磐緩行線に乗り換えて、地元駅に戻ってきたのは六時近くになっていました。
予約の時間に合わせて、庵を出たのは十一時過ぎ。
初診なので検査等があって、すんなり終わることはないだろうと覚悟はしていたので、昼食をとれなくてもいいように、朝食の時間を十時過ぎにずらせるという、私なりの知恵を働かせたつもりでしたが、まさか帰ってくるのが六時になろうとは思いもよらなかったので、ヘトヘトに疲れた身体にムチ打つ思いでかかりつけの薬局へ行きました。
土曜日だったので休みだったのか、すでに暗い時間になって営業を終えてしまったのか、シャッターが下ろされていました。
翌日は日曜日、近場の病院、クリニックはすべて休みので、当然薬局もお休みです。
そして迎えた今日月曜日 ― 。
あいにく、というか、違う言い方をしたほうがいいのか、薬師如来の縁日と重なりました。先月の初薬師で、ふと閃きながらコロナ禍を勘案して取りやめにした佐原行は今月も諦め、ずっと近い草加のお寺へ薬師詣でに行くつもりだったので、行きがけに薬をもらって行こうと庵を出ました。ところが、薬師詣でなどしていられない事態が待っていたのです。
処方箋に記された薬は二種類。なんの疑問も懐かず薬局のドアをくぐった私ですが、渡した処方箋を見た薬剤師は顔をしかめて、次のようにのたまいました。
「あいにくこの種の薬は両方とも常備していません。お取り寄せできないことはありませんが、いつになるかわかりません」
私はなかば絶句。一週間後 ― 処方箋をもらってから二日経っているので、実際は五日後 ― にまた通院することになっているのに、処方された薬を一服も服むことなく再通院か、と驚き、また呆れたのです。
すぐ近くに高齢者いきいきセンターという組織がありました。高齢者である私にはたまたま知り合いの職員がいたのです。かくかくしかじか……と相談すると、その職員は近くの薬局何軒かに電話をかけてくれました。そして、そのうちの一つが、夕方まで待ってもらえれば、取り寄せできるということになったのでした。
今回受診した診療科が近くにないので、鎌ケ谷まで行ったわけですが、診療科がない、ということは、近辺の薬局でも、近くにない診療科で処方される薬品はない、ということになります。つらつら考えてみれば、こういうことは不思議でもなんでもないことですが、医療関係者でもなんでもない私には、あとになってみなければわからないことです。
このところ、脚力の衰えを痛感しています。日課にしている慶林寺参拝に要する時間は往復三十分弱です。参拝帰りには買い物を済ませることにしているので、スーパーに寄って買い物をして帰っても、せいぜい四十五分から五十分。さして長い時間ではないのに、帰り途はドッと疲れているのです。
この日は草加の三覚院というお寺に行くつもりでした。
しかし、出鼻を挫かれて意気阻喪。夕方まで待って、薬を手に入れなければならなくなったこともあり、遠出はとりやめです。先月の初薬師につづいて地元の慶林寺に参拝するだけとなりました。
慶林寺の参道入口に一輪だけ河津桜が咲いていました。
節分の日にすでに開花していた境内の河津桜です。参道の樹よりは花の数が多かったものの、見頃はまだまだです。
今日は例年より一日早く訪れた節分です。二月二日が節分に当たるのは1890年(明治三十年)以来、百二十四年ぶりだそうです。
昨日、最高気温を記録したのは夜中の十一時半過ぎという異常。
そして今日は払暁から日の出の時刻にかけて、かなり強い雨。豪雨とか台風頻発という異常気象ではないとしても、こういうプチ異常が多くなってきているように思います。
雨が上がって陽射しは出たものの、北西の空にはこんな不気味な雨雲が残っていました。
日課の慶林寺参拝。毎年立春のころには律儀に花を開く河津桜。参道入口に一本。中ほどに一本。そして境内に一本とありますが、今年はまだだろうと思いながら、境内に足を踏み入れました。
境内の河津桜です。
見上げて眺め回したところ、一輪……そしてもう一輪。やっぱり今年も律儀に咲いてくれていました。
あまり通ることのない径へ遠回りして帰ったら、菜の花畑がありました。春なんですね。